菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2015年09月

それって支援なの?依頼なの?

 人間のコミュニケーションを難解にする一因に、隠れた感情や動機があります。

 私たちが発する言葉は、最後に出てきた形であって、「なぜその言葉なのか」という動機は隠れて見えないことが多い。また、奥底からその人を突き動かしている感情も見えない。

 また、私たちはお互いの境界線をしばしば侵して、自分の問題と相手の問題を混同してしまう。困っているのは自分なのに、困っていない相手を一生懸命助けていると思い込んでしまったりする。

 そういう混線状態を理解できると、コミュニケーションの問題を紐解く知恵となります。

 そこで、今日は、混線状態の一種である「支援と依頼の混同」というテーマについてお話ししましょう。 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 先日、父とこんなやりとりがありました。

父:強風の日には◯◯の窓に鍵かけておけよ。

私:え? なんで?

父:風が強いとがたがたうるさいし。

私:いやあ、鍵かけておかなくてもうるさいと思ったことないけど。

父:(イライラしてくる)だから、風が強いときのことを言ってるんだよ。

私:私がいつも鍵をかけていないことがイヤなの?

父:そうじゃないけど。

私:じゃあ、なんで鍵をかけろなんて言うわけ?

父:だから、風が強いとがたがたうるさいだろ?

私:別にうるさいと思ってないけど。建具が壊れるとかなら話は分かるけど。

父:建具だって鍵かけておいたほうがダメージは少ないだろうよ。

私:お父さん、あのね、ちょっとこのコミュニケーションが心地悪いのは、私は困っていないのに、こうしろああしろって言われていることなわけ。鍵をかけていないとイヤなのはお父さんだよね? 私は困っていないわけだから。

父:まあ。

私:そしたら、「鍵をかけてくれないか」と頼んで欲しいわけ。私はかけることを必要としていないから、かけないとお父さんがイヤなのなら、そうしてあげてもいいという気持ちはあるよ。でも、なんでして欲しいのかを納得できなければする気になれない。だから、なんでそこまで鍵をかけて欲しいのか理解したいと思っている。

父:だから、風が強いとうるさいし建具が壊れるかもしれないだろ?

私:いやあ、ここ15年鍵をかけたことないけれど、問題だと感じたことはないよ。鍵をかけないことで困ったことこれまであった?

父:いや別に。

私:じゃあ、別にいいんじゃないの? なんでそこまで拘るの? (父が動揺しているのに気づく)いやあ、お父さんとしては、素直に「分かりました」って従順に聞き入れて欲しいんだろうけど、なんか釈然としないんだよね。なんか恐怖心があるんじゃないの?

父:(とうとう深い感情を話し出す)ずっと前、台風が来たときに、1階の建具が湾曲してしまったことがあった。すごく恐かった。

私:ああ、そういうことか。恐かったんだね。これで理解できたよ、お父さん。それっていつの話?

父:私が子供のころ。

私:ああ、もう随分前のことね。そんなことがあったんだ。

父:うん。

私:それで腑に落ちたよ。分かった。そういう気持ちなのなら、今度台風が来たとき、鍵を閉めるよ。それでいいね?

父:うん。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 さて、皆さんはこのやりとりをどうお感じになったでしょうか?

  父は「◯◯の窓を閉めろよ」と私に命令、あるいは忠告をしました。これは上から下の者を支配するタイプのコミュニケーションです。

 私はこれに大きな違和感を感じました。私は困っていないわけですから、忠告をもらうのは適切ではありません。困っているのが父なのであれば、問題を解決したいから助けてくれという「依頼」を私にすべきなのです。

 多くの人は、自分が困っていて助けて欲しいときに、相手への援助だという形をとります。これは支配的コミュニケーションであり、健全な心の持ち主なら違和感を感じるのです。こういうコミュニケーションは社会に蔓延しています。この本質を見抜けない人も多いので、なかなかなくなりません。

 私のスタンスは、最初から、「あなたが困っているなら支援を考慮するけれど、納得できないのに、私自身の行動を制限することには同意できない」ということです。私は相手に迷惑をかけたくない。迷惑にならない限りにおいて、私は自分の幸福を追求する自由を侵されたくないということです。 

 私の行動が誰かの迷惑になっており、行動の変化を求められたならば、私はそれにオープンです。しかし、迷惑であるということを私に納得させる責任はその人にあります。

 私が困っていないのに、勝手に支援をしないでくれ、ということでもあります。

 困っているなら困っているので支援してくれと依頼してくるのが適切であり、私への忠告や命令という形で不満を表現することは受け入れられないということです。

 さて、私は父に決して折れることをせず、自分の真理を貫きました。そうすると、父の本当の感情が姿を現しましたね。

 父は恐かったんです。

 父の無意識には、幼少期の台風のトラウマがあって、◯◯の窓の鍵が閉まっていないのを見ると「あ、また子供の頃みたいに、建具が湾曲するような恐ろしいことになってしまうのではないか」と恐怖心が掻き立てられたのでした。

 その恐怖心に父は気づけていませんでした。だから、私に「鍵を閉めて」と忠告したとき、それは父にとってごく自然の当たり前の要求のように感じられたことでしょう。

 父の「意識」では、「息子が困らないように」と思って親切心でアドバイスしているつもりだった。しかし、私にはそんな恐怖心はない。だから、恐怖心から救われる必要はない。よって、父の介入がお節介にしか感じられなかったわけです。

 素直に聞き入れない息子を前にして、父はどんどん動揺していきました。私が同意することで恐怖心から自由になることを期待していたのに、息子は聞かない。恐怖心から出た「忠告」を私が蹴ったことで、父は恐怖心と向き合わざるを得なくなりました

 父のトラウマ体験と恐怖の感情が表出したとき、私ははじめて納得できました。何が父を拘らせていたのか、その正体が理解できて腑に落ちたのです。

 そして、「恐かったんだね」と父に共感しました

 父の偽らざる感情が伝わってきたとき、私は父に慈愛を感じ、そこまで恐いのなら、私は困っていないけれど、鍵を閉めてあげることで、安らかな気持ちになって欲しいと心底思えました。

 私は父にイヤイヤ服従するのではなく、彼の不安を理解し、喜んで応えてあげたいと思えたのです。

 父は私の共感のあと、嘘のように穏やかになりました。

 私が父の支配を拒絶することで、父は恐怖心と向き合わざるを得なくなりました。そして幼少期のトラウマ感情が表出して癒される結果になったのです。

 真実を貫くと、相手を本当に愛することに繋がります。父の恐怖心に私は屈服することを拒みました。屈服していたら、父は恐怖心とトラウマ感情に縛られ続けていたでしょう。

 愛とは相手のエゴの機嫌取りをすることではありません。真実を突きつけ、直面させるのも愛です。それによって相手は自由になれるのですから。
 

不安から出たアドバイス

 私は10代20代の頃から、大人の人たちがくれるアドバイスの中に奇妙だなあと思うものがあると感じていました。

 もらうと心が緊張して暗い気持ちになってしまうアドバイスのことです。

 たとえば、「あんたは恵まれているねえ。親に感謝しなきゃダメやよ」と言われたときには、「なんでこの人はこんなこと言うんだろう?」と怪訝な気持ちになりました。

 あと、10年ほど前、新しい仕事に取り組む段に、伯母が「奢ってはいけないよ」というようなアドバイスをくれたのですが、ちっとも励まされている気持ちにはなりませんでした。

 心理学を勉強していくうちに、人は自分の不安を解消するためにアドバイスをして相手に働きかけることがあるということを知りました。

 なるほど!!

 このようなアドバイスを私にしていた大人たちは、彼ら自身が不安だったのに、それを所有していないために、私にその不安を投影していた。そして、私が気をつけるようにすれば、彼ら自身が安心できると無意識で感じていたのです。

 たとえば、男に騙されてきた人は、女友達に、「男はずるいから気をつけてね」なんて言ってしまう。男不信でもない女性はこれを聞いて、暗い気持ちになってしまう。「私は別に男をそこまで疑っていないんだけどなあ」「余計なお世話だよなあ」とアドバイスを拒絶したくなる。

 それもそのはず、このアドバイスは相手を思っての愛から出た言葉ではないんです。

 本人は「良かれと思って」アドバイスしているに違いありません。「意識」では「相手のため」と思っている。けれど、「無意識」では「自分が不安」なのです。

 男に近づこうとする女友達を見ていると、この人は不安になってくる。この不安は、自分が過去に男に騙されて傷ついた感情を二度と感じたくないという恐怖心から来ている。相手の女性とは関係ない。けれど、「この友達も同じ目に遭うのではないか」とどうしても思ってしまう。そこで、それを止めなくてはいけないと感じて、「男には注意して」とついつい言いたくなるんです。

 この不安から出たアドバイスをする人は、自分が過去の体験への恐怖を乗り越えていないことに気づく必要があります。

 「ああ、この人を見ていると、私が過去を想い出して不安になるなあ」「あの時の傷ついた感情を自分で受け止める作業をしよう」と思えば、相手を放っておけます。

 「この人が同じ目に遭うとは限らないよなあ」「そんなマイナスのことを想定して言葉がけをしないで、『幸せになってね』と言おう」と思えば、この人は精神的に癒され成長していけます。

 自分の未解決の問題と同じものを相手に見て、未然に防いであげようというのは、親切に見えて、実は無責任でありお節介な行為です。相手が同じ問題を抱えていると決めつけていることに気づく必要があります。相手は全く違った人生を歩んでいるかもしれないし、アドバイスは必要ないかもしれない。

 「相手は相手の課題を自分の力で気づいて乗り越えて行ける」と信じるのが、相手への本当の愛なんです。

 アドバイスはある意味相手を信用していないということ。「あなたの人生はあなたに任せておけない」「だから私が教えてあげるね」という上から目線なんです。

 この「信用していない」という部分が、受け取る側からすると、侵害された気分になる原因なんです。

 ですから、「不安から出たアドバイス」には注意が必要です。自分がするのはやめる。また相手からもらった時には、「ああ、これは不安から出たアドバイスなんだ」と意識できれば、鵜呑みにしなくていい。「この人は不安から言っているんだなあ」と理解すれば、適切に処理できます。

自分の不安に向き合わない人は
相手を見て不安になり
ついついアドバイスをすることで
自らの不安を解消したい衝動に駆られる

不安から出たアドバイスを
感謝できない自分がおかしいのかと
思う必要はない
受け取って気持ちよくないものは
決して愛から出たものではない
気持ち悪いと感じる自分を
信じてよい
 
 

許し=リラクセーション

 異なる言葉で語られる真理が、実は同じことだったと後で気づくことがあります。

 最近気づいたのは、「許す」とは「リラックスする」ことと同じなんだということ。

 「受け入れる」もそう。「力みをとる」もそう。「抵抗を捨てる」もそう。全て同じことを指しています。

 自分のこういうところが許せないとか、相手が許せないというとき、私たちは力んでいて、交感神経が活発になる。アドレナリンが出る。体が強ばってくる。ストレスで健康を害するわけです。

 強ばるということは、固くなるということで、気が流れないので、心身が重くなって動けません。

 力みをとると、つまり心身を緩めると、気が流れるようになって、元気も出るし前にも進める。

 日本語の「ゆるす」という言葉は、語源としては「ゆるむ・ゆるい」と同じ。つまり、「許す」という漢字を後からつけましたが、元来は「ゆるす」とは「ほどく」「ゆるめる」という意味なんです。

 リラックスという英語も、「リ(再び)+ラックス(緩める)」ということで、「固くなったものをもう一度緩める」という意味なので、「許す」と同義ということになります。

 「抵抗する(resist)」と固くなるし、対象を掴んでいます。だから、抵抗を捨てるということは、緩ませることであり、手放すこと。つまり、許すことと同じです。

 さて、アジャシャンティという霊的教師がアメリカにいます。私は3度ほどサンガ(真理の集い)に参加して一緒にメディテーションをしたことがあるのですが、彼の勧めている簡単なメディテーションに、ただただこの瞬間のあるがままを「受け入れる(accept)だけ」というものがあります。 

 じっと座って瞑想をするときに、体の感覚が浮上してもそれを受け入れる。思考が浮上しても受け入れる。感情も受け入れる。とにかく「すべて」を受け入れるわけです。

 そうすると、必要な洞察や整理や癒しが自動的に起きてくる。ある意味、我によるあがきをすべて捨てて、大いなる生命に委ねるのですね。

 これを実践すると、我を超えた、常にここにある静寂や平安、あるいは深い愛や知恵というものが実感されてくることがあります。

 彼の教えている「受け入れる」ということは、「許す」と同じです。

 では、怒りや恐怖心や自己嫌悪などが出てきたら、それを「許す」とはどういうことか?

 それと「戦わない」んですね。

 怒りが生じたら、「あ、怒りだ、しまった、何とかしなくちゃ」と焦って心身を強ばらせない。怒りとともにじっとリラックスするんです。怒りと同じ空間にいながらにして、力みをすべて取る。すると、怒りはあるけれど自分は楽になれるわけです。怒りへの抵抗を捨てた状態に入っていますから、怒りと共存しているわけです。怒りとの間に壁を作らない。怒りに対して柔らかくなっているのです。怒りを怖がらない。

 すると、こうやって許された怒りは、硬直を解かれて、自由に動くことができる。そうすると、怒りは変容していくんです。信じられない人は、とにかく10分、怒りを受け入れて、何もせずじ〜っと一緒に座るということをやってみてください。

 体の内側に固いところがあると思います。それをリラックスさせてあげる。息が通るようにしてあげる。そして、ただただ怒りとともに力まずにいてあげる。これが怒りを「許す」ということです。

 恐怖心も自己嫌悪もそうです。多くの人は、これらに対して力んで、拒絶モードに入ることで、掴んでしまう。掴むから恐怖心も自己嫌悪も固まって動けなくなる。動けないということは変われないということ。だから解決できなくなってしまうわけです。

 許したものは、解決できる。変わっていけるのです。

 どうしても受け入れられないというときは、受け入れられないことを叩かず、受け入れられないんだということを許すんです。それを「受け入れなくてはならない」と力むと逆効果です。

 とにかく、徹底して許すんです。許せないときは許せないことを許すんです。恐いときいは恐いままを許す。恐くあってはいけないと思っていることに気づいたら、それも許す。

 こうやって、何が出てきても許すということをやっていると、心身の底からリラックスしてきて、だんだんと大いなる生命と一体になって動いていると感じるようになります。

 自分はいつもいるべきところにいるし、やるべきことをやっているんだな、という感じになる。

 力みは完全にはなくなりません。毎日力みが出ます。私はそうです。でも、出るたびにそれを許すということを毎日やっているわけです。そうすると、許した分、何かが変わったり、何かが見えたり、何かができるようになったりしています。

 ということで、今日は「許し」は「リラクセーション」と同じだというお話でした。

「許す」=「緩める」=「力みをとる」=「抵抗を捨てる」=「受け入れる」 

喧嘩になったらこんな風に聞いてみて

 夫婦喧嘩になったら、あるいは恋人同士で喧嘩になったら、あるいは友達同士でもいいのですが、相手と言い合いになって解決がつかなくなったら、お勧めしたいことがあります。

解決するためでなく、相手を理解するためだけに聞く

 それは、解決しようとするのを一旦やめて、ただただ相手の世界を理解しようとするためだけに、相手の話を聞いてみるということです。

 つまり、自分側の主張を一切しない。反論したくなる気持ちを脇へ置いて、ただただ相手を相手の立場から理解しようという目的だけに絞って話を聞く側に回るのです。

 これは実はカウンセラーがクライアントに対して実践する聞き方なのですが、一般の方でも日常生活にとても役立つコミュニケーション法だと思います。

 ただし、相手に肯定的な関心を持てる場合にしか使えません。大嫌いでもう意思疎通なんてしたくないという相手ならやめておいた方がいいでしょう。

 本当に相手のことを理解したいですか? 心から相手を理解したいですか? もし答えがイエスなら、次の方法をお勧めします。ノーなら、その関係には信頼関係もないし、肯定的関心を相手にも持っていないということですから、お互いに満足のいく解決を探ること自体が困難かもしれませんね。

 さて、自分の大事な配偶者や子供と喧嘩になり、それぞれが主張をぶつけ合っているだけであれば、そして相手のことを本当に思いやりたいという気持ちが少しでもあるならば、「自分の視点から相手を理解する」のではなく、「相手の視点から相手を理解する」ために話を聞いてみてください。

 そう、ここが大事なところ。「自分から見た相手」ではないんです。「相手から物事はどう見えているのか」ということを理解することを唯一の目的として話を聞くんです。

 このときに、聞きやすくなるポイントがあります。

聞くこと=同意することではない

 それは、聞いているときに、相手の意見や感じ方に同意できなくてもいいということです。相手の気持ちを相手の立場に立って理解することをまず第1にするのですが、自分が相手に尋ねたい疑問とか、自分側の事情も伝えたいでしょう。それは、聞いた後で必要に応じてすればいいのです。

 たとえば、子供が「学校に行きたくない」と言ったとしましょう。そうすると、多くの親はびっくりしたり、不安になって、急いで解決してしまいたくなるんです。「そんなのダメでしょ」と否定しにかかってしまう。これは子供の気持ちを聞く前に、親の気持ちで反論してしまっているんです。そうすると、子供の内面を聞き出せませんよね。

 だから、「学校行きたくないんだ」とただただ聞いてあげるだけに留めるんです。「どうして?」とか「何かあったの?」と質問をする。解決しようとしない。ただ理解することが目的です。

 「学校行きたくない」と言われたとき、「そう、行きたくないの?」と聞いてしまうと、何か「それでいいよ」と同意してしまっているような心地悪さがあって、ついつい反論してしまいたくなるのが人情かもしれません。だから、自分の「同意できない」という気持ちも認めていいのですが、とりあえず脇へ置いておいて、主張は控える。今はとにかく相手を理解したいというコミュニケーションを優先させるわけです。

 このとき、相手(子供)から物事がどういう風に見えているのかな? 相手はどう感じているのかな? 何に困っているのかな? と相手の世界に入って、相手が味わっていることを相手の目線で理解しようとして聞きます。自分(親)の事情を挟まないでまずは子供の世界を理解しようとして聞くんです。

 そうすると、子供の主観的世界と事情が見えてきます。親の事情で返さなければ、子供の言うことを否定せず受け止めてあげれば、子供は聞いてくれるのは大抵嬉しいものなので、いろいろと話してくれるでしょう。これまで否定してばかりの親だったとすれば、すぐには心を開いてくれないこともありますが。その場合は、自分が聞ける人になろうと学んでいるんだとということを月日をかけて理解してもらえるようにと思うことが大事です。

 相手が配偶者の場合も同様に、配偶者の視点に立って、現状はどのように見えているのか、相手は何を欲しているのか、何に困っているのか、どんな感じ方をしているのかをただただ理解しようとして聞くわけです。とことん徹底的に聞くのです。相手がもう言いたいことがなくなるまで聞くんです。

 言っていることが同意できないことでも、不条理なことでも、理屈に合わないことでも、とにかく把握するために、理解するために聞くんです。

 こうやって、徹底的に相手の気持ちを聞くと、聞く前よりもいろいろと相手が見えてきますよね。見えてくることで、自分の感じ方も変わってくるんです。そして、相手を理解したところで、必要な範囲で、自分のことも相手に理解してもらうよう努力するんです。あるいは、双方が納得できると思う策を提案してもいいかもしれません。

 相手の気持ちを相手の視点に立って徹底的に聞くという作業をすると、相手も変わってきます。受け止めてもらうことは大抵の人にとって嬉しいことです。心を開いてこちらを理解しようとする姿勢になってくれることも少なくありません。こちらから率先して聞き手に回ると、相手の攻撃姿勢は格段に弱まります。

 クレーマー処理のプロは、まずとにかくクレーマーの言うことを徹底的に聞くのだそうです。とにかく気持ちを全部受け止めることを最初にする。そうすると、多くの人はその時点でもう満足する。満足しなくても、聞いてもらえたことで嬉しくなり、協力的になってくれることが多い。

 そう、私たち人間は、とにかく気持ちを聞いて欲しいのです。聞いてくれたら心が休まるのです。そして、理性的にもなれるのです。

 2人のうちどちらがこの聞き方を知っていれば、攻撃のし合いにはなりません。相手が実践してくれるのでもいいのですが、まずは自分からやってみましょうよ。

コミュニケーションだけでは解決しない部分もある

 上に説明した方法は、心を聞き合うコミュニケーションによって人間関係の問題を解こうということです。

 コミュニケーションの改善は、人との付き合いを格段に良くしますが、全てではありません。

 コミュニケーションだけでは解決しない部分があり、コミュニケーションをとればとるほど、それは見えてきます。

 たとえば、お互いに譲れない部分が明確になってくる。これはコミュニケーションによって解決するというよりも、相手に期待することを諦めたり、場合によっては関係を終結させること以外に解決法がないこともあるのです。

 また、心の問題があるとき、相手の話を聞くことが苦痛になってきます。自分の恐怖心や自己否定が刺激されるからです。

 一人でいるのが恐いから、相手に一緒にいて欲しいと思っている人がいたとしましょう。この人はパートナーにいろいろと甘えて依存しています。パートナーがこれをしてくれない、あれをしてくれないと言って不満になります。

 「あなたがこれをしてくれないと私は寂しい」と訴える。パートナーはパートナーで、「そうか寂しいんだね」と聞いてくれる。「でも、これこれこういう理由で私も精一杯やっているんだよ、分かって欲しい」と言われる。そうすると、自分の孤独感は癒えないまま残ったりします。

 つまり、自分の孤独感を相手を通して癒そうとしている限り、どんなコミュニケーションをとっても解決しない。

 自分で自分の孤独感の処理に関して責任を背負うと決意する以外に解決の糸口はないのです。

 つまり、相手に伝えてどうこうなるものではないと悟るまで、フラストレーションの溜まる言い合いが続いてしまいます。

 ということで、お互いに心理的問題がある場合、それはコミュニケーションでは解決しないということを付け加えておきます。自分で自分と向き合って取り組む課題だと認識することで道は開けるのです。

 なかなか解けない問題がある場合には、「何がこの問題を解けなくしているのだろう?」と自問してみるとよいでしょう。

 深い沈黙の中で、落ち着いて、意識の深みに尋ねるのです。そして、何か知恵が浮かんでくるまでじっと待つ。ざわざわと動揺している我の状態で尋ねないで、静寂の中で知恵と愛に溢れる存在に聞くようなつもりで、宇宙に質問を投げかけてみる。そして答えが来るのをじっと待つのです。

 我を超えたところから受け取った洞察は、進むべき方向を照らしてくれます。
 

相手を通して自分の心を見ている

 私たちひとりひとりには「意識」と「無意識」があります。

 両方が自分ですが、「無意識」の自分は自覚できません。

 するとどうなるかと言うと、自分の外を見たときに「私は相手を見ている」「私は現実を見ている」と思っているのですが、実は「自分の無意識を見ている」ということが多いわけです。

 たとえば、多くの人は怒りを「無意識」へ追いやって感じないようにしています。怒りを出して嫌われたくないので、怒りはないことになっているのです。そして、「意識」では「私は相手に親切に接している」ということにしてしまうのです。

 自分に嘘をつくことで防衛しているんですね。本当のことを認めるだけの強さがない。

 自分は「相手に親切にしている」にも関わらず、相手は自分を大事にしてくれない。我がままを押し付けてきたり、暴言を吐いたり、傷つくようなことをしてくるという現実になってしまい、困惑します。

 「こんなに親切にしているのに」と文句を言いたくなる。「主人が私に暴言を吐くんです」「主人は我がままなことを押し付けます」と悩みを人に相談したりします。

 ところが、自分に暴言を吐く相手を変えようとしても、進歩はありません。

 なぜなら、自己欺瞞をそのままにして、自分の問題を棚上げして、責任転嫁をしているからです。

 この人は、自分の「無意識」を相手に投影しています。そして、進歩するにはそのことに気づかなくてはなりません。

 暴言を吐く相手は、自分自身の1つの側面を反映してくれています。自分が気づいていない自分自身を演じてくれていると言ってもいいでしょう。

 夫に暴言を吐かれる妻が、もし立ち止まって「暴言を吐く夫は、私自身のどういう側面を映し出してくれているのだろう?」と問うてみれば、大きな成長の可能性が生まれます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

方法1: 相手と同じことを自分自身に対してしていないか吟味する

 相手が自分にしていることを、端的に文章化してみます。

 「主人は私を攻撃する」「主人は私を邪魔者扱いする」「主人は私を侮辱する」「主人は私を嫌っている」「主人は私を認めてくれない」

 このように、相手の何に困っているのかを簡潔に捉えます。

 次に、主語を「私」に変えてみましょう。

 「私は私自身を攻撃する」「私は私自身を邪魔者扱いする」「私は私自身を侮辱する」「私は私自身を嫌っている」「私は私自身を認めていない」

 こういう部分が自分の中にないかどうか、心当たりを調べます。ほぼ100%見つかります。 

 「私は私自身を嫌っている」という人は、「相手は私を嫌っている」という人と波長が同じです。だからそういう相手の言動とマッチしているというだけの話です。

 「私は嫌われるような人です」と心の中で信じているのは自分です。そうしたら、「自分を嫌う人」がやってくると似たもの同士だから居心地がいいのです。居心地が悪いと「意識」では思っているけれど、「無意識」では居心地がいいのです。

 自己嫌悪の強い人は、自分を愛してくれる人を避けます。不思議ですが、自分を愛してくれる人といると、自己嫌悪が浮かび上がってきて意識せざるを得なくなり気持ち悪いのです。だから、愛されたいけど避けてしまう。

 では、具体的にどうするか?

 「自分は自分自身を嫌っている」ということに向き合うのです。まずは認めて、その自分を自分だと認知します。以前は「嫌っていないと嘘をついていた」のですが、もっと正直になったことで一歩前進します。

 じゃあ、この自己嫌悪をどうしようか? というのが第2ステップです。自己嫌悪と対話して、「なんでそんなに自分が嫌いなの?」と聞いてあげる。理解してあげる。「自分嫌いの自分」を受け止めるけど、同時にその人格を対象化して話し相手になるんですね。

 そして、「自分嫌いの自分」が「自分を受け入れる自分」に変わっていけるように、親役あるいは先生役を務めるんです。

 自分が嫌いだという人がいたとして、その人が自分を受け入れる方向で関わるのがあなたの仕事だとしたら、この人にどうやって話しかけますか?

 これがあなたの課題なのです。言い換えると、「自分嫌いの自分」が必要なものを与えて、愛してあげることがあなたの務めと言ってもいいでしょう。

 こうやって、「自分嫌いの自分」を受け入れて、愛によって変容に導くことができたら、自分の波動が変わっていきます。そうすると、「自分を嫌う相手」とは波長が合わなくなります。そうすると、「自分を受け入れてくれる人」といることが自然だと感じられるように変わるのです。

 新たに「自分を受け入れている人」に変化していくにつれて、外の世界にもそれが反映されてきます。 

方法2: 相手と同じことを自分から相手にしていないか吟味する

 今度は、先ほどの文章の1つ1つについて、自分と相手を入れ替えてみましょう。

 「私は主人を攻撃する」「私は主人を邪魔者扱いする」「私は主人を侮辱する」「私は主人を嫌っている」「私は主人を認めていない」

 私たちは相手からされることを意識しても、自分が同じことを相手にしていても気づかない傾向にあります。自分のことは一番見えにくいのです。

 この作業は、多くの人にとって「とても耳が痛い」プロセスになる可能性があります。

 しかし、「良薬は口に苦し」で、これは成長にとって素晴らしい効果がある作業なので、頑張ってやってみてください。

 自分が相手を嫌っていると気づけたとしましょう。そうすると、相手が自分を嫌っていることに文句を言うのは無責任だと気づくはずです。お互い様だからです。

 自分が嫌っている相手から好かれようというのは、虫が良すぎます。
 
 自分が軽蔑している相手から尊敬されようというのも、虫が良すぎます。

 自分が相手にしていることを意識できると、相手が違った風に見えてきます。感情が変わります。

 この気づきによって、2人の間のエネルギーはすでに根本的に変容しているのです。

 相手に優しい気持ちになれたり、申し訳なかったという気持ちになったりする。あるいは、この相手とは納得して別れようという明確な決断ができる。

 方法1も2も、気づいていなかった無意識の自分に気づくというだけのことなのですが、とてもパワフルです。

 相手の中に見ていたものは、実は自分の中にあったと認めることは、無意識を意識化することであり、投影をストップし、あるがままの相手を初めて見ることができるということでもあります。

 また、自己欺瞞を捨てて、本当の自分として生きられるということでもあるのです。

 芯から正直になることで、あるがままの自分に気づき、相手を曲がった目で見ない。自分も相手も真っすぐに見られるためには、自分についている嘘を暴いて、自分を統合する必要があります。

 自分のかけている眼鏡にゴミがついていて、それに気づいていなければ、テーブルのお皿にゴミがついていると錯覚します。そして、お皿を一生懸命奇麗にしようとするけれど全然奇麗にならないので困惑してしまう。

 「何だ眼鏡にゴミがついていたんだ!」と気づくことで、眼鏡のゴミを取り除ける。すると、お皿に映っていたゴミはもうなくなります。

 同じように、自分が見ようとしない自分の心は、相手の問題のように見てしまうのです。そして、相手を一生懸命変えようとしてしまう。

 だけど、そもそも相手の問題ではなかったのです。

 今日は、自分を困らせるように見える相手を通して、自分が見えていない自分の心を見つけ、自分の問題を解くことによって本当の成長を遂げようというお話でした。

 注意! すべての原因は自分の中にあるのだからと言って、現実に暴力的・搾取的な状況があるとき、そこから自分を遠ざけることをしなければ、自分を傷つけ続けることになります。自分を愛し大事にすることが何よりも優先されなくてはなりません。現実の破壊行為がない安全な環境になってから、心理的取り組みをするというのが適切な順序です。
 

EMT 基礎講座(10月10日)

EMT 基礎講座

再受講の方を歓迎します!(割引料金)
ご自分のヒーリングの機会としてご活用ください。

☆イベント内容

 心身に溜まったマイナスエネルギーを自分で解放できるようになりませんか。幼少期のマイナス感情、心を縛っている固定観念や信念、他人から吸収した邪気などを、キネシオロジーを使って特定し、自分で解放できるように指導します。頭痛や腰痛、内臓の不調などでも、場合によっては、根底にあるマイナスエネルギーを解放することで体が楽になります。

☆日時: 2015年10月10日(土) 13:00~16:00
(半ばにティータイムがあります)

☆場所: 菅波亮介のカウンセリングルーム
 →カウンセリングルームへの行き方、周辺地図
 
 金沢市本多町2-18-12

 思案橋バス停より徒歩1分。

 駐車場は2台分のみご用意できます。ご希望の方はお尋ねください。
 その他の方は、恐れ入りますが、公共交通機関か市内駐車場をお使いください。

☆定員: 7名様(先着順)

☆参加費: 3000円(当日払い)
再受講の方は2500円です。

☆講師: 心理カウンセラー菅波亮介

☆お申込み方法: 菅波亮介までお電話かメールでお知らせください。
 連絡先はページ末をご覧ください。

☆キャンセル料
 24時間前を過ぎてのキャンセルには、3000円の手数料を頂きます。

プロフィール
菅波亮介(すがなみ・りょうすけ)

 
 1966年1月金沢市生まれ(49歳)。上智大学外国語学部英語学科卒。マサチューセッツ大学音楽修士。サンタモニカ大学スピリチュアル心理学修士課程前期修了。金沢大学教育学部元非常勤講師。日本プロカウンセリング協会認定1級心理カウンセラー。バイロン・ケイティのスクール卒業。
 現在は、面談と電話とスカイプによる心理カウンセリング(日本全国から受けられます)とスピリチュアル心理学セミナーを行っている。



連絡先

お問合わせ・ご質問はお気軽にお電話でお知らせ下さい。遠距離の方もどうぞお気軽に。

電話1 076-225-7425 (毎日11時~22時)
電話2 0120-011-271 (フリーダイアル) 
お問合わせ・ご予約は全国より通話無料のこの番号をお使いください。
携帯・PHSからもかけられます。
 
 
住所 〒920-0964 石川県金沢市本多町2-18-12
  

人を愛するとはどういうことか その12

自分で自分を支えられる人だけが、他者を愛せる

 自分で自分を支えられるようになったとき、はじめて人は人を愛することができるようになるのではないだろうか。
 他人の称賛や尊敬を必要としているとき、あるいは他人に嫌われることを怖れているとき、人は人を愛することはできない。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 178) 

ナルシシストは様々な依存の仕方をする

 夫を愛していないのに、「自分が如何に夫に大事にされているか」をアピールする女性がいます。世間体(他者の好評価)に頼って自分を安定させようとしている人です。本当に幸福なのではなく、「愛されている幸せな女性、勝ち組」を演じることで、心の底の劣等感や孤独感を癒そうとするのですが、勿論これは自己欺瞞です。

 逆に、自分が如何に惨めかをくどくどと話す人もいます。他者の注意を引くことで自分を安定させようとしている人です。自分が如何に「犠牲者」であるかということを訴えて、相手の愛を引き出そうとします。自分で自分の問題を解決する主体的責任をとることはありません。心の根底の劣等感や孤独感を相手に救ってもらうことで解決しようとするのですが、これも自己欺瞞です。


 前者は自分は愛されているのだ、大切にされているのだと他人に見せびらかし、後者は、自分はいじめられているのだ、可哀そうなのだと他人に訴える。双方とも自分で自分の心を支えることのできない人たちである。他人の言動によって自分の心を支えようとしている。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 185)

自分の葛藤に真正面から向き合うことでしか成長できない

 人間として成熟する道は決して平坦ではありません。自分の葛藤から目を背けて、周りのせいにしている方がよっぽど楽です。

 しかし、成長して自己実現をしていくには、「自己欺瞞(自分を欺くこと)」を暴いて、避けようとしてきた葛藤の1つ1つに真正面から向き合わなくてはなりません。

 それしか成熟する方法はないのです。

 たとえば、p. 188 に好きな女性と同棲しようか迷っている若い男性の話があります。この男性はまだ親が怖い。同棲がばれたらどうしようと悩む。でも恋人の彼女が好きである。

 親に知られそうになったとき、この男性が親からの承認を優先するか、親に関わらず同棲を決意するか、ここが対立葛藤になります。

 ここで親をとる男性は成長に失敗する。親を捨てて彼女を取れれば成長できます。親をとる男性は、親への依存を捨てられなかったということです。

 大切なことは、そうしたとき、自分の内面を正直に見つめることであろう。自分の心のなかで対立葛藤しているのは、親への恐怖心と恋人への愛情なのである。
 そのどちらが自分を動かすかということである。
 我々は自らの内なる対立葛藤を認識することによってしか、対立葛藤を克服し成長していくことはできない。
 我々は自らの内なる対立葛藤から目を背けている限り成長もないし、他人を愛することができるような人間に成長することもない。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 191)

最終回のまとめ

 12回シリーズを完読下さった方、有り難うございました。

 私たちは、人生の各段階で、重要な葛藤を突きつけられます。そして、その葛藤から逃げずに、成長と自立に向けて選択ができれば、どんどん成長していく。葛藤を回避して、何かに依存してしまうと、しかもそれを自分が気づこうとしなければ、自己欺瞞的性格になってしまう。

 自分の未成熟さを弁護するような表と裏を作り出してしまうのです。

 人を愛せるように成熟するには、まずは孤独に耐えられる、自分で自分を支えれる人にならなくてはなりません。

 そして、それは日常生活で起きてくる1つ1つの葛藤に正直に向き合うことによってしか達成されないのです。

 つまり、私たちが今直面している葛藤が、乗り越えるべき課題であり、今悩んでいることに真っすぐに取り組むことによって、成熟していくのです。

 目の前の葛藤に果敢に向き合おうとしている全ての人に、同じく成長の道を歩むひとりとして、エールを送ります。

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人を愛するとはどういうことか その11

愛されることではなく、愛することの中に生きる意味がある

 人間は愛することによって生きる意味を発見します。愛されようとする人生に生き甲斐は見つかりません。

 愛したいという欲求がはじめから人間にあるのではない。愛してみたら嬉しかった。
 それが愛における学習ということである。それに反して、愛されたいという欲求は初めから人間にある。しかし愛されることは心地よくとも生き甲斐とはならない。
 愛されることは生きる意味を与えない。しかし愛することは生き甲斐であり、その人に生きる意味を与える。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 171) 

人は皆違い、簡単に理解できるものでないことを知るのが成熟

 相手を理解するとは、自分と相手との相違を理解することです。相手を認めるとは、自分と相手の相違を認めるということです。

 相手と自分の違いを知るということは、相手を知ると同時に自分を知るということです。だから、相手を知らない人というのは、自分と相手の違いを知らないということであり、それは自分を知らないこととイコールなのです。

 だから、自分をよく知る人は、相手を知ることができる。自分を受け入れられる人は相手を受け入れられるのです。

 未成熟な人ほど、相手と自分は同じだと思い込んでいます。自分が好きなものは相手も好きだと思ってしまうのです。自分が喜ぶものを相手が喜ばないと不満になります。違う感じ方を許す寛容さがまだないのです。

 未成熟な人ほど、話せばわかると思っているし、理解し合えて当たり前だと思っている。成熟した人ほど、お互いを理解することがどれほど難しいかということを知っています。

 人間はお互い同士異なるからこそ、簡単に好きになれても簡単に愛することができないのである。
 我々はだいたいにおいてお互いが同じような人間であると思っている。自分の望むことは他人も同じように望んでいると思うのである。
 そしてこの人間観はその人の情緒の発達段階がまだ未成熟であることを表している。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 172)

 自分が面白いことでも他人にはつまらないかもしれない。自分がつまらなくても他人には面白いかもしれないという、お互いの相違を認めたがらないのである。そして自分と違うことは冷たい人、悪いことになってしまう。
 人間は理解し合うのが困難だということを認めない。情緒的に未成熟な母親はだいたい自分の子供の心はわかるという前提に立っている。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 172-173) 

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人を愛するとはどういうことか その10

ナルシシズムが傷つく度に愛を選ぶことで成長する

 加藤氏は、愛されることは教わらなくてもできるけれど、愛することは学習しなくてはならないと言っています。

 愛する能力を育むには、様々な障害を乗り越える必要があるのです。

 自らのナルシシズムや情緒的未成熟を克服して、依存心に勝利し、徐々に精神的自立を達成することで、人を愛する能力が成熟していきます。

 人を愛することは、初めからできて当たり前では決してありません。

 本書 p. 159 に、依存心の強い38歳男性の例が出ています。彼は高校の日本史の先生をしている年上の女性と結婚したのですが、何事も自分で決めらない彼は、妻に母親役を求めていました。

 そして、恋の興奮から覚めたとき、妻の給料が自分より多いことが不愉快になり出したのです。「お前が働いているから会社でみっともない」とか、「いい女房はもっと主人の世話をする」と悪口を言うようになりました。では妻に仕事を辞めてもらい、自分で養うかというとそれもしたくない。なぜなら、妻の給料のおかげで、同僚や後輩にご馳走していい顔ができたからです。そこで、「お前が働いて自分は迷惑している」ということにして、彼女に働き続けてもらいたかった。

 彼の神経症的自尊心は、妻が働いていることにとうとう我慢ができなくなり仕事を辞めさせてしまいました。辞めさせたらうまくいくかというといかない。そして、いざこざの絶えない結婚生活になってしまったわけです。

 こういうときに、この男性が成長するためには、自分の神経症的自尊心や情緒的未成熟に気づく必要があります。あるがままを認めなければ前進はありません。

 自分が幼児的要求をしていることに気づき、妻がどうして欲しいかを考えるのです。自分のナルシシズムを克服して、妻を大事にできるかどうかが勝負なのです。

 彼にとって愛するとは何か、それは奥さんが先生をしたがっているのだから先生をさせてあげることである。奥さんが日本史に関心をもち、先生をしたいという望みを実現させてあげることが愛するということである。
 奥さんより給料が少ないということで傷つくナルシシズムや、男の神経症的自尊心を捨てることが愛することである。
 実はそんな男の神経症的自尊心を捨てることのほうがはるかに男性的な行為なのである。「俺のほうが給料が多い、俺が養ってやっている」などという「偽りの誇り」は幼児的な感情で男性的どころではない。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 162-163)

 彼は自らのナルシシズムを解消できないで、無力感や不安や劣等感に悩まされているからこそ、給料の多い少ないが気になる。
 彼は単に自分の無力感からどう逃げるか、自分の不安や劣等感の悩みからどう抜け出すかということであがいているのであって、奥さんの自己実現に関心があるわけではない。
 彼は元々情緒的に不安定であるがゆえに、奥さんの高い給料が引き金になって自分の情緒的生活が決定的に乱されるのである。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 163)

 愛するとは、この情緒的未成熟を克服し、奥さんが奥さんのために存在することを認めてあげることである。
 女は家にいればそれでいいのだという男性の考え方は、男性の自信のなさを物語っているにすぎない。
 それは元々ある自我の不安定さを男と女の上下関係によって鎮めようとしているにすぎない。
 自我の不安定さに悩む男性が、自らの自我の高揚を覚えるために必要な男女関係が男尊女卑である。自我の不安定さに苦しむ男性が女性の前で、威張り散らしているその瞬間だけ、自我の不安定な苦しみから彼は救われる。
 威張り散らすことが男性的と思われているが、それは男性的ではなく情緒的未成熟といったほうがいいだろう。
 (「がんばっているのに愛されない人」p. 163-164)

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人を愛するとはどういうことか その9

相手に期待していけないことを諦める

 相手に関心をもち、その人をよく理解できれば、「その人に何を期待してもいいか、また何を期待してはいけないか」が分かります。

 私の父はたくさんの植物を育てています。玄関に植木鉢がたくさん並んでいて、毎日世話をしているのですが、植物を愛している父は、1つ1つの特徴をよく知っています。「これは毎日水をあげないと枯れてしまう」「あれは3日に1回程度」「これは太陽にたっぷり当ててあげないとダメ」「これは日陰のほうがいい」。それぞれの性質を理解し、それに合わせて世話をするので、見事に奇麗に育ちます。

 植物に愛情のない人なら、すべて同じように扱ってダメにしてしまうかもしれません。

 人間も同じではないかと思います。いろいろな人がいますから、人によって期待していいこととしていけないことは違うのです。

 鶴は美しいですが、歌うことはできないので、鶴に歌を期待しても仕方がありません。同様に、その人に期待できないことを期待しても、期待する側が欲求不満に陥るだけです。

 相手を愛するには、相手に期待していいことといけないことを間違えないことがとても重要になってきます。

 なぜ相手に関心をもつ必要があるのか。それは「相手に期待すべきものを期待するため」であり、「相手に期待してはいけないことを、あきらめるため」である。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 149)

 相手の特性、考え方、感じ方、過去からの積み重ねとしてでき上がった性格を知れば、相手には期待してはいけないことがある。理性はあきらめられる。
 それが知恵である。

(「がんばっているのに愛されない人」p. 150)


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人を愛するとはどういうことか その8

未熟だと相手が望んでいることと嫌がることが分からない

 心理的に未熟でナルシシズム度が高い人は、自分が好きなものは相手も好きだろうと思ってしまう。独りよがりで相手を見ていない。

 相手に関心のある人は、相手の顔色を見たり、何が好きなのかを普段から知ろうとして観察しています。

 「自分とは違う相手」という前提がまずあり、その「違う存在」を知りたいという好奇心がある。ところが、未熟な人は、相手と自分は同じだと仮定している。相手は自分の延長なのです。

 だから、「これをあげたら喜ぶだろうなあ」と相手のことを知らずに有頂天になってプレゼントをあげるけれど、相手が望んでいるものではないので、喜ばれないことになります。

 また、相手が「イヤだからやめて」と再三言っていることを、「なんで?」と怪訝な顔をして、行動を変えようとしません。自分から見たら、自分がやっていることを嫌がるのは「おかしい」のであって、そこでストップするのです。

 自分と違う相手を理解したいと思わないし、理解できない。ということは相手を愛せないということです。

 良かれと思って相手に善意で与える場合も、相手への理解に基づいていないなら、「とんちんかんな愛」「独りよがりの愛」になってしまうのです。

 しかしただ彼は奥さんが自分と同じものを求めていると錯覚したのである。
 そしてこの錯覚は大きい。こうした錯覚は実はその人格の未成熟さを表す。情緒的に未成熟な人は他人が自分と同じものを求めていると思いがちなのである。
 多くの実績のあるアメリカの精神科医ジョージ・ウエインバーグは、抑圧のある人は他人が自分に何を期待しているかを間違えるという。多少誇張して端的にいえば、神経症的傾向の強い人は、他人が自分に何を期待しているかを間違えるということである。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 144)

 彼は奥さんを愛しているつもりであった。しかし実は奥さんを愛してはいなかったのである。
 彼は自分のことしか考えてはいなかった。なぜなら、愛するとは相手の立場にたち相手の求めるものを考えることだからである。

(「がんばっているのに愛されない人」p. 145)


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人を愛するとはどういうことか その7

愛することは時に孤独である

 愛することは、自分が理解されたいときに、相手を理解しようとすることです。理解されないことを引き受けて、相手を理解したいと思う。これは孤独に耐えられなければできないことです。

 だから、理解されたいだけの人は、相手を愛せません。理解されないことが敵意になってしまう人は、相手を理解できないのです。

 孤独に耐え得る、強く成長した人だけが、相手を愛せるのです。

 愛されることのみを求める人間を見て、愛そうとする人間は、自分は相手が求めているものを与えることができないと知る。
 愛そうとする人間は愛されようとする人間から離れていくに違いないのである。
 愛されようとする人間は救われることを求めているのである。しかし救いを求めている人間を人間が救うことはできない。
 自身を自ら救おうとしている人間がお互いに相手を救い得るのである。
 愛するということは甘えの正反対である。愛するとは相手を理解しようとすることであって、相手からの理解を求める態度ではない。
 そこに愛することの苦しみがある。やりきれなさがある。
 愛することができるためには孤独に耐えるだけの強さがなければならない。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 140)

 愛するとは自分の寂しさをこらえて相手の疲れや忙しさを理解しようとする態度である。
 しかし、自分を理解してもらいたい、そう思わない人が一体いるだろうか。誰だって自分を理解してもらいたい。ことに大切な人から理解してもらいたい。しかしその気持ちに負けないことが愛することなのである。
 愛とはなんと苦しい営みであろうか。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 141)


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人を愛するとはどういうことか その6

人を愛することの基盤は、自分をよく知ること

 自分の無意識にあるものに気づいていない人は、自分をよく知らない人です。

 無意識と意識(自分はこういう人間だと思っている部分)とが乖離しているため、精神が不安定でもあります。

 自分の中に、乗り越えていない依存や不安や怒りが詰まっている人は、相手が思うように動かないと動揺しやすい。つまり、あるがままの相手を受け入れるということができません。

 相手を受け入れて愛したいと思っても、相手の言動にいちいち恐怖や敵意や自己欺瞞を刺激されて情緒不安定になってしまう。だから、できないのです。

 ということは、相手を愛せるようになるには、自分の中にある恐怖や敵意や自己欺瞞を解決しなくてはなりません。それには、自分の意識の深みに触れて、無意識を含んだ「自分」というものをよく知らなくてはならないのです。

 無意識を含めた、広い意味での「自分」というものを理解し、受容し、大事にできるようになるということは、自己統合が進むということです。そして、自己受容・自己理解・自己統合が進んだ人でなくては、相手を本当には愛せないのです。

 ですから、自分の不安や依存や敵意を含めた「暗部」と向き合い、それらから逃げずに受け止め、全体的に自分というものを理解して大事にできるようになる道を歩むことが、自他ともに愛せる人への成長なのです。

 自分を知ることは他人に耐える能力を与えるばかりではなく、現実の人生に耐える力を与えてくれる
 自分が自分をわかっているのに、相手がわかっていないということはあまりない。自分が見えている人は、相手も見えている。
 自分が理解できていない人は他人も理解できていない。自分を受け入れていない人は、他人も受け入れることができない。
 ただ何か人間関係で大きな悲劇が起きたときには、自分の気づいていない部分に原因があると思ったほうがよい。
 簡単にいえば自分の無意識が、ことの原因と思ったほうがよい。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 120)


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人を愛するとはどういうことか その5

相手に心酔することは、愛しているのとは違う

 恥ずかしながら、私も過去に何度も「相手に惚れる」という体験をしてきました。相手に心酔して、とにかくその人を強く求めずにはいられない、というあれです。

 ところが、「心酔状態」というのは、相手を現実的には決して見ていません。「自分が見たいものを見ている」だけなのです。つまり「幻(まぼろし)」。

 心理的未成熟の人は(過去の私も含めて)、等身大の自分も知らないし、相手の本当の姿も見抜けていません。

 だから、しばらく恋愛を続けていると、「あれ? こんなんだったのか!?」と現実の相手を知っていくごとに、「幻滅」していく。「幻滅(げんめつ)」とはよく言ったものです。文字通り、自分が思い描いていた「幻想」が「消滅」するということです。

 そこから、現実の関係になるわけです。

 現実の相手と自分がお互いを大事にし合えるのか、まず自分はこの相手を大事にできるのかが問われることになります。

 寂しい若者が恋に落ちたとき、孤独が癒されることと性的欲求不満が解消されることで、相手を「好き」と錯覚する。
 相手が素晴らしいから素晴らしいと思うのではなく、自分の劣等感と孤独感こそが相手を素晴らしいと思わせているのである。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 101)

 一目惚れは自我が不安定ということを表している。意識と無意識の乖離が深刻であるということを表している。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 102)

 愛は一般的に執着と混同される。
 自分が、相手をこんなにも必要としているということを、自分はこんなにも愛していると思い込んでいるのである。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 104)

 愛が深ければ、深いほどジェラシーも激しいという。しかしこれはまったく間違った考え方である。正反対である。
 ジェラシーは依存心の強さ、自信のなさ、自己中心性等、心の不安定さと正比例する。依存心が強くて自信がなくて自己中心的だから相手への要求は凄い。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 106)

 逆に自分に自信があり、心理的に自立していて相手が自分を愛しているという安心感があればあるほどジェラシーもない。相手は自分を本当に愛してくれているのだという心の安定は、ジェラシーの入るすき間を与えない。
 真に信頼し合っている2人はジェラシーとはまったく無関係である。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 107-108)

 私も通ってきた「未熟な恋愛」においては、現実の自分も相手もよく分かっていない。そして、自分の中に自信のなさ、不安、依存性など処理できていない心理的課題があるけれど気づけていない。

 だから、相手を理想化して、「この人がいれば自分の問題は全て解決される」「この人は私を救ってくれる女神さまだ(神さまだ)」という位の心酔状態になるのです。

 相手に多大な期待をしてしまうわけです。

 ところが、現実の相手はそのような幻想的存在ではなく、欠点や心理的問題を抱えた生身の人間であるということが分かってくる。自分の願望をすべて満たしてはくれない。そこで不満になるし敵意も出てきてしまう。恋愛はうまく行かない。

 その不満を相手のせいにしている限り成長はありません。

 「自分が依存的なんだ」「自分が不安なんだ」「自分が親に敵意をもっているんだ」という風に、自分のあるがままを認識していくと、自分というものが分かっていく。

 このように、自分自身を現実の目で見られるようになり、理想の自分ではなく、あるがままの自分をよく理解できるようになると、その分、相手も現実的に見極められるようになります。

 ということで、「その6」では、成熟した恋愛においては、自分を知ることが基本だというお話を致します。


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人を愛するとはどういうことか その4

心理的に成熟するとは、自らのナルシシズムを一歩一歩乗り越えること

 すべての人間は、ナルシシストから出発して、徐々に自分と違う立場の人、自分と違う価値観の人、自分と違うセンスの人、自分と違うニーズを持った人などを理解していきます。

 相手は自分を満たすために生きている訳ではない。相手は相手の世界を持っていて、相手を実現させるために生きているのだ、という具合に他者という存在を認め、対等な関係を築けるには、自分の欲求を通してしか相手を見られないというナルシシズムから少しずつ脱却していく必要があるのです。

 私自身、自分の中にナルシシズムを見て、気づいて、少しずつ変わってきたと思います。

 この「自分のナルシシズムに気づく」という瞬間はとても重要ではないかと思っています。それまで没頭していた自己中心的思考や行動のパターンが客観的に見えてきて、乗り越える段階に来たということだからです。

 自分が今体現しているナルシシズムは、本人から見えません。自己中心性というのは、自分からは見えないものです。乗り越える時になって、「ああ、私は自己中心的だったのだな」と分かる。分かったときには、もうそれを乗り越えかかっています。

 「ねえ、抱っこして」「ねえ、一緒に遊ぼう」と言う幼児は、自分の自己中心性に気づいてはいません。欲しいものを「欲しい欲しい」と言っていればよいのが幼児です。

 同様に、恋人に「もっと私を分かって」「もっと私を大事にして」「もっとあれして、これして」と言うだけの人は、自分の自己中心性に気づいていません。自分が相手を分かっているのだろうか、自分は相手を大事にしているのだろうか、という視点がない人は、求めるだけの人。ナルシシズム度の高い人です。

 こういう瞬間に、「あ、私って自分のことしか考えていないなあ」と気づいて、注意を相手の立場に向けてみる。相手は今どう思っているんだろう?何を必要としているんだろう?私は相手のために何ができるんだろう?それを知りたいし、やってあげたい。相手を大事にしたい。そう思ったとき、その人はナルシシズムの一皮が剥けて、相手への愛という世界に踏み込むのです。

 自分が理解して欲しいときに、その気持ちを横に置いておいて、「私は相手を理解しているのだろうか?」と問うことは時に辛いことです。しかし、そこが踏ん張りどころなのです。その辛い作業をすることで、その人は成長するのです。自分の「愛する能力」を育てていけるのです。

 私は子育てをしたことがありませんが、子育てをしている全ての親に尊敬の念を持ちます。子育てって、「愛する能力」が試される最たるものですよね。

 自分が疲れていて寝たいときに、お乳をあげなくてはならない。夜中にも起こされる。こういうときに、自分の疲労を横に置いておいて、「この子が必要としている授乳、抱っこ、オムツの交換」をしてあげることは、正に愛の実践以外の何物でもありません。

 子育ては親を成長させますよね。

 しかし、実際には、本当の意味で心理的成熟に至っていない親が子育てをしている場合も結構多い。ナルシシスト度の高い親が子育てをすると、子供のニーズに答えられない。子供がニーズを持っていることにイライラする。自分がケアされたい方なのに、子供をケアしなくてはいけない。だから子供に敵意を持つ。子供にあたる。あるいは子供を奴隷化して、自分の欲求を満たす道具と化す。

 こうやって、親の「愛せない性質」によって、子は傷ついていく。このようにして、ナルシシストの親は子供をナルシシストにしていってしまう。

 では、自分のナルシシズムに気づいた人は、諦めるしかないのか? そんなことはありません。

 自分が気づいたナルシシズムの分だけ、乗り越えられるのです。乗り越えられないのは、気づかない場合です。

 ナルシシズムには自己欺瞞が絡んでいます。心の底にある依存や敵意を認めず、表面で取り繕っているマスクが必ずあります。その自己欺瞞の1つ1つに正直に向き合って認めていけば、無意識と意識の乖離は狭まってきます。

 たとえば、ナルシシストは相手に関心がありません。でも自分は偉い人だと思いたいから偉い人だということに「してしまっている」。「相手を強く求めているだけ」なのに「相手を愛している」と錯覚している。このとき、「私は私が満たされることしか考えていないのだ」と認めたら、自己認識が覆ります。そうするとナルシシズムがもう支えられなくなります。捨てるしかなくなります。

 「私は相手のことなど考えていない」と認めた人はどうなるか? そこで本当に「相手のことを思いたい」という愛が芽生える可能性が出てくる。

 ですから、自己欺瞞を暴くことと、成長したいという強い意志を持つことによって、自分の中のナルシシズムに気づこうとすることが大事です。言い訳をしないで、成長へと舵取りをする責任を背負うのです。

 相手に理解されようとする前に、自分から相手を理解したいと思うことによって、「愛する能力」が育ち、自分のナルシシズムを少しずつ手放して行けるのです。

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人を愛するとはどういうことか その3

人を愛することは、依存を捨てて自立するからできる

 誰かを愛するためには、その人を必要としないだけの自立性を保っていなくてはなりません。その人を必要とする(いなくては生きられない)ということは、その人を怖れるということでもあります。

 誰かを必要とするということは、その人を怖れるということとイコールなのです。

 怖れる相手に対して、私たちは自分らしくいられません。相手の好意を失うことが怖いからです。つまり、相手に合わせて気に入られようとします。自分を偽らなくてはならないから不満になります。そして敵意を持ちます。

 このようにして、依存する相手には必ず敵意が生じてくるのです。

 加藤氏は、成長する過程で、私たちは「親を捨てなくてはならない」と言います。「親を捨てる」とは文字通り親と絶縁することではなく、「親への恐怖心を捨てる」ということだと説明しています。

 親が「こうした方がいい」と言ったとする。親に依存している人は、嫌われたくないから親に従う。だから自分を殺して親に合わせます。そして不満になる。自分で責任を取れないから、親を責める。

 このように、恐怖と依存と敵意はセットで生じるのです。

 ということは、親から精神的に自立するということは、親から拒絶されても自分の思い通りに人生を生きると決意することです。親の承認を必要としないと決めることなのです。「親は親、自分は自分」と割り切って自分の人生の決断ができたとき、その人は精神的に親離れができ、自立したのです。

 心の中では「頼りたい親」「救って欲しい親」というものを捨てて、自分自身を拠り所にして生きるようになったとき、私たちは精神的に自立するのです。

 そして、自立できた人だけが、他者を愛することができます。

 マザコン男が妻を愛せないのは、母親から自立できていないからです。母に嫌われる決断だったら、それが妻にとって重要なことであっても認めてあげられません。母からの拒絶を恐怖しているから、母に固着します。母にしがみついています。母にしがみついている幼児だから、自立した女性としての妻の利益を守ってやることなど到底できません。

 母がどう言おうが、「僕が君を大事する」「母は母、僕たちは僕たちなんだから」と言えるだけの自立がなければ、夫婦は愛し合えません。だから、「母への恐怖を捨てた男」のみが、女性を愛せるとも言えます。

 人間は実は他人を愛そうという姿勢によってこそ、自分を変えていくことができる。愛するということは成長の苦しい過程を歩むことである。
 愛する努力によって自己中心のタイプから抜けていくことができる。努力なくして愛されることはできるが、努力なくして愛することはできない。
 愛するということは生の重荷を正面から引き受けるということである。本当に相手を愛するためには現実逃避は許されない。
 何かに頼りたい、何かに責任を転嫁したい。何かに守られていたい、何かにつかまっていたい。そうしたものを一つひとつ投げ捨てて自立していく過程が成長の苦しい過程である。
 人を愛そうとするなら、人はその何かに頼りたいという気持ちを捨てていかなければいけない。
 何かに救ってもらいたいという気持ちも乗り越えていかなければならない。
 自己中心的世界から解きはなたれずに人を愛することはできない。愛そうとする努力は、自己中心的考え方、行動の仕方から一歩一歩離脱していくことである。
 自己中心的考え方、つまり「自分はこんなに苦しいのだ」ということばかりにとらわれていることから、その苦しい自分を乗り越えて、他人の姿まで見られるようになることが愛することなのである。
 たとえ自分がどんなに苦しくても、その苦しさに負けて自分のなかだけに埋没してしまわないことが、自己中心的世界から脱けだすことである。
 自分の苦しさに負けないこと、自分の苦しさに甘えないこと、自分の苦しさに酔わないことが、自己中心的でないということである。
 人間は愛することによって改造されていく。自己中心的でなくなっていく。人間は愛そうとすることによって成長していくのである。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 31-32)
 
 びりびりと痺れるお言葉でございます。

 とても厳しい、けれど奮い立たされます。

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人を愛するとはどういうことか その2

未熟な人ほど、相手に母親(無条件の愛)を求める

 幼児は母親に欠点も含めて自分の全部を受け止めて愛して欲しいと思っています。ですから、何をしても、自分がどんな風であっても、自分を見捨てないで好きであってくれ世話をしてくれる母親を求めます。

 そして、それが得られなかったら深く傷つきます。そして母親に敵意を持ちます。依存させてくれない母親、無条件に愛してくれない母親を恨みます。

 幼児にとって、母親は限界をもった生身の人間であるという風に、母親の身になって考えてみるということは無理です。1歳の子は「ああ、ママは今日は仕事で疲れているんだなあ。大人も大変だ。淋しいからホントは一緒に遊んで欲しいけど、今んところは我慢しとくか」などとは思えません。

 「ねえ、遊んで!」「ねえ、抱っこして!」という具合に、自分が欲しいものを要求するのが幼児です。

 この、「相手の立場から物を見られない」「自分の要求しか表現できない」という幼児の性質は、全ての人間が生まれ持った「自己中心性(ナルシシズム)」です。誰でもここからスタートします。

 幼児は母親に完全に依存し、一方的に満たしてもらう存在です。自分ひとりでは何もできません。これがあるべき姿なのです。

 母親が一緒でないと淋しくて泣きます。転んで痛い思いをしたら、抱っこして慰めて欲しい。寒かったら暖かい服を着せて欲しい。食べ物や飲み物を口に入れて欲しい。

 幼児は母親に「甘えるべき」存在です。そして、その「甘え」が満たされると、この子は心が成長し、だんだんと母親の保護を離れられるようになります。

 母親がいなくてもひとりで幼稚園で遊べるようになるとか、ひとりでトイレに行けるようになるとか、こぼしたミルクを拭けるようになるとか、あるいは弟や妹の面倒を見られるようになるとか、自分で自分のことができるようになり、また他人が必要としていることに応えてあげられるようにもなっていく。

 こうやって、母親にしがみついていなくてもよくなっていくのです。心理的に少しずつ乳離れしていく。

 「母なるもの」がなくても、自立してやっていけるし、また他者の必要としていることに喜んで応えてあげられる頼もしい存在になっていく。これが成熟の過程です。

 ところが、私たちの中には、母親から十分に無条件の愛をもらえなかった人もいます。一緒にいて欲しいときにいてもらえなかったため、淋しさに1人で耐えなくてはならなかった。不安なときに慰めて欲しかったのに、慰めてもらえず、不安なまま放置されてしまった。母親の未成熟さによって、過干渉されたり、ニグレクトされたりすると、甘えの欲求が満たされずに育つことになります。

 このように、甘えが満たされなかった人は、心の底で母なるもの(無条件の愛)を渇望し続けます。幼児の不満と動揺が無意識に残り、心の根底からその人を突き動かし続けます。

 体は20歳になり30歳になり40歳になった。受験も通り、就職もし、社会的には成人の責任を問われる。しかし、心理的には5歳児のまま「母なるもの(無条件の愛)」を渇望し続けています。

 こういう人が恋愛をすると、相手に「母なるもの(無条件の愛)」を求めざるを得ません。幼児体験が不完全だったため、それを完結させようとして、代理母をいつまでも求め続けるのです。

 それが、自分を常に優先してくれる相手しか認められない人、あるいは相手に迎合してしまう人の恋愛という形として現れるのです。

 つまり、幼児期の不満が解消していない人は、その根本的不安や葛藤を解消するために恋愛に突入することになります。そして、母親役を演じ切らない相手に「依存的敵意」を持ってしまう。だから恋愛は成就しないし長続きしないのです。相手の立場になって思いやるという心理的成熟を経ていないわけです。とにかく「自分を満たしてくれ」という一方的要求が支配する恋愛となります。

 こういう人は、それぞれの年齢において、実際の成熟度より高いものを絶えず要求されてきた。無理して大人ぶって生活して来なくてはならなかったのです。

 だから、愛されることを渇望するけれど、相手を大事にできません。相手を思いやる余裕などないからです。


 自分を慰め、賞賛し、母親のように保護し、養い、世話をしてくれる女性を求めているのに、相手の女性はその役割を果たしていない。
 そうなるとどうなるか。
 相手の女性に不満になる。これは別の表現をすれば、依存的敵意である。それは自分が依存する相手に対する敵意である。

(「がんばっているのに愛されない人」p. 25)

 「依存と敵意」という心理的課題を解決することが心理的成長である。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 27)

  人間はどこまで愛されてもきりがない。愛されよう愛されようとすればするほど、人間は未成長な心理へ退行していく。
 つまり一番楽な、生まれたときの心理状態に戻ろうとする。自らの力によって生きようとするのでなく、その愛の中で生きようとする。
 苦しい責任感などもたなくてもいい。昔の小さい頃の心理状態に退行して生きようとする。そして愛がすべてを補ってくれるものと思う。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 28)
 
 では、相手に母なるもの(無条件の愛)を求めてきたと気づいた人が、どのようにすれば「愛する能力」を獲得して、情緒的に成熟していけるのでしょうか? これについては「その3」で扱いたいと思います。

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人を愛するとはどういうことか その1

 加藤諦三著『がんばっているのに愛されない人』(PHP新書)は、「人を愛するとはどういうことか」を教えてくれる教科書のようなもの。

 すご〜くためになる本です。是非多くの人に知って頂きたい。

 ということで、数回に分けて、私なりに要点をまとめてみますね。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

恋愛では自分を隠しきれない

 他の人間関係ではある程度表面的に付き合うということができます。しかし、恋愛では相手に「あるがままの自分」を隠しきれません。自分の欠点や矛盾や未成熟な部分が全部露呈してしまう。

 依存的な人は恋人に依存してしまうし、怒りっぽい人は恋人に怒ってしまうし、怖がりの人は恋人を怖がってしまう。取り繕うことができません。

 ということは、恋愛で生じてくる問題に1つ1つ向き合っていけば、人間として成長するということでもあります。

 恋愛には、自分が最も強く求めたいものと同時に、最も逃げたいものも絡んでくる。だから恋愛は天国と地獄だとも言えます。

 私たち人間は、恋愛を通して自分を知り、自分を受け入れることを覚え、と同時に他者を知り、他者を受け入れ、他者を愛することを学ぶのです。

 恋愛においてはその人の自我の確立の程度、情緒的成熟の度合いが試される。
 ある意味で、恋愛は試練の場でもある。恋愛においては、その人の総合的な人間力が試される。
 恋愛ではその人に自らの無意識を突きつけてくる。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 7)

 恋愛ではその人の長所も短所もすべて表れてしまう。自分の弱点を隠そうと無理してがんばっても、恋愛では自分を隠しきれない。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 8)

 愛する人がいれば、人間いじわるをしないで、最後まで生きられる。
 愛する人は救われる。愛する能力があれば人はなんとか生きていける。
(「がんばっているのに愛されない人」p. 9)

 人間が本当に幸福になれるのは、愛されようと求める生き方から、愛しようという生き方へと成熟できたときです。私たちは愛されることによってではなく、愛することによって人生を全うしていきます。

 しかし、心理的に未成熟な人は、愛されたいとしか思えない。愛することはまだできないのです。そして、愛されることばかり求めるから、傷ついてしまう。依存と敵意に満ちた恋愛となってしまうのです。

 加藤氏は、人間の心理的成熟の過程は、自己中心性(自己執着)を少しずつ脱して、人を愛せるようになることだと言います。つまり、未成熟な人ほど幼児と同じように自分が愛されるために恋愛をするのに対して、成熟した人ほど相手を愛するために恋愛をすると言うのです。

 未成熟な人と成熟した人との違いについては「その2」でさらにお話しすることといたしましょう。

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衝突する2人の自分から等距離をとる

 2人が口論していて収拾がつかないとき、この衝突を解決するには、2人のいずれにも加担せず、両方の言い分を理解し、2人とも納得できる解決策を提案できる第三者がいると大きな救いになりますよね。

 口論している2人は、それぞれが自分の感情や要望と一体化していて、その正当性を主張している。相手の正当性が見えない。つまり視野が狭くて、両者を統合できるだけの意識が持てていないのです。

 こういうとき、調停者が2人を深く理解していき、それが両者に伝わると、2人の認識も変わって来たりします。「ああ、そういうことだったのか」と柔和になったりするのです。また、調停者が深く自分の内面を理解してくれることで、「尊重された」「理解された」と感じて心が安らいできたりします。

 相手の視点が見えないとき、私たちは相手を否定し攻撃しがちです。それをやり合っている限り、2人は調和できません。

 ですから、衝突している2人を調和させるには、2人のことを共に深く理解し、どちらの利益も考えられるような「より高い意識」が必要です。そして、この「より高い意識」とは、2人から等距離であり、どちらか一方だけの味方であってはいけませんし、両者の利益をよく理解し、それに対して尊重的である必要があります。2人ともに対して受容的であるからこそ、2人ともこの第三者を受け入れ信頼するわけです。

 実は、ひとりの人間の中で2つの気持ちが衝突したときにも、同じことが必要になります。

 自分の中に「人にノーと言えない自分」(A)と、「ノーと言えない自分をもどかしく感じている自分」(B)という2つの対立する気持ちがあるとき、多くの人は A になってみたり B になってみたりと、行ったり来たりします。

 B は A のことを受け入れることができません。なぜなら、A がいるせいで自分の願望が妨げられていると B は感じているからです。B は A を敵だと認識していて、攻撃しているのです。

 A は B に嫌がられていることを知っていて、攻撃されても変わることはできません。A には A の理由があって「ノーと言えない」のですから、それを理解もせずに攻撃されても困ると感じています。

 これは、先ほどの2人の口論と同じように、お互いを理解できず否定し合っている感情が自分の中に2つあるということです。

 この心理的対立を解くには、A からも B からも等距離で離れており、かつどちらにも加担せず、両者の利益を理解してあげられる第三者的な意識を自分の中に新たに作っていく必要があります。

 A の話を中立の立場から聞いてあげ、B の話も同様に聞いてあげ、両者がハッピーになるにはどうしたらいいのかを考える第三者的な自分(C)を新たに作り出すのです。

 A からも B からも脱同一化し、客観視できるということは、それだけ「意識が高まる」ということになります。

 これを自宅でするには、A になり切って思う存分話をし、それを理解しようとして客観的に聞く立場にも自分を置く。そして、今度は B になり切って思う存分話をし、それを理解しようとして客観的に聞く立場に自分を置く。このようにして、A と B の気持ちや欲求を代わる代わる聞き出し、受け止めて、理解を深めていくのです。

 そうすると、A でも B でもない、それらを統合する新しい視点というものが自分の中に育っていきます。そして、その新しい視点に立って、初めて2つの相反する気持ちを統合できる意識へと自分が成長していくのです。

 A と B はこの問題を解くことはできません。C という意識が両者を調和させる生き方を可能にするのであり、C がこれからの人生を生きていく「新しい自分」の誕生なのです。

 具体的に言うと、この問題を解くことができるのは「ノーと言えない自分」でも「ノーと言えない自分をもどかしく思っている自分」でもなく、この2人を受容し理解し、かつ客観的距離を保てる「新たに生まれ変わった自分」なのです。この「新しい自分」は、A も B も内包しつつ、そのいずれでもありません。

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統合のメカニズム

テーゼ(正)vs アンチテーゼ(反)→ジンテーゼ(合)
A vs B → C 

ナルシシストには話が通じない

 「ナルシシスト(narcissist)」は「自己陶酔型の人」とか「自己愛の強い人」と理解されることが多いのですが、いつも自分の顔や体を鏡で見て酔いしれている「自分大好き人間」という巷のイメージとは違って、実際には外見を気にする人とは限りません。

 「ナルシシスト」(「ナルシスト(narcist)」とも言う)を加藤諦三氏は「他人という現実がない人」と表現していますが、見事だと思います。

 つまり、ナルシシストにとって「自分とは違う人格や感情や世界観や欲求をもった存在である他人」というものが心の中になく、あらゆる人は自分の延長として見ているということです。

 自分の気持ちを横に置いておいて、相手の立場に立ってみるとか、相手の気持ちを慮るということができないわけです。

 1つの例は、自分の夢を子供に押し付ける親です。子供には子供の人格や夢があるから、子供が何になりたいのか聞いてみようとはしない。「私(親)はこの子が医者になったらいいと思うのだから、この子は医者になるのが幸せなのだ」という論理になります。反発したら、「この子は分かっていない」としか思わないのです。

 この子が自分とは別の人格をもつ存在であり、自分には理解できないかもしれない思いを持っているだとかいうことは思いません。そういう意味で、「他人は存在しない」のです。

 この親には「この子」は見えていないのです。自分の気持ちしか見えていないのです。

 こういう親はナルシシストです。自己満足のために子育てをしているわけです。子供の望みや気持ちを理解できないのですから、子供を愛することはできません。

 ナルシシストは相手の気持ちを聞いたり受け止めたり理解する能力を持ちません。自分の望みや意見や視点を主張することのみです。そして、相手もそれが分かって当然だという世界に住んでいます。

 もう1つの例は、他人を自分の欲求を満たす道具としてしか見られない人です。これには私がアメリカで出会ったある男性との実体験があります。

 私はある短期間、10人ほどの人間が同居する大きな屋敷に滞在したことがあります。そこに泊まっていたあるアメリカ人男性は、あるとき私に頼み事をしてきました。「どこどこへ行って、何々を取って来て欲しい」と言うので、私は快く引き受けたのです。

 屋敷の車(皆で共同で使う車)を使って彼の物品をトランクに積んで帰宅し、彼に「取って来たよ」と伝えました。数十キロもする大きな荷物で、積むのにひと苦労しましたが、帰宅した後は、彼がトランクから出せばいいと思いました。すると、「トランクから出して部屋に入れてよ」と言うのです。

 さすがに私はイラッと来て、「いや、それ位あなただってできるでしょ?」と言い返しました。すると、「友達なんだから、それぐらいしてくれたっていいでしょう?」と言うではありませんか。「それ位あなただってできるでしょうなんて、冷たいじゃないか?」と言うのです。

 私はその瞬間、ピ〜ンと来たのです。「この人は、こちらを思いやるつもりのない、操作的な人間だ」ということを。私は「この人とは話をしても無駄だ」と悟り、黙ってその場を立ち去りました。もちろん、トランクの荷物を出すなんてことはしませんでした。

 彼は明らかにナルシシストだったのです。ナルシシストにこちらの気持ちを理解してもらおうと言葉を尽くしても、聞こうという気持ちもないし、聞いて思いやるだけの能力もないので、話すだけ無駄です。 

 彼にとって私は利用する対象でしかありませんでした。だから、私はその人とは付き合わないことに決めました。逃げるが勝ちです。

 この彼は、ニコニコしてフレンドリーな雰囲気で寄って来ました。決して暴力的なことはしません。見かけに拘っている様子もありませんでした。あまり洗濯をしない感じで、着ている洋服がちょっと臭いました。一見いい人にも見えるんです。ただ、内面には他人というものの存在がない。

 ある意味、不気味でした。話しかけられると、ネズミ取りに引っかかったネズミが蛇に睨まれているような怖さを感じたのです。感情をもった人として扱われていないような、物として見られているような不気味さです。

 もう1人、私は身近にナルシシストを知っています。もう何年も会っていませんが、主に子供時代に知り合いだった女性です。彼女は地元ではちょっとした有名人で、私が高校生ぐらいのころ30代だったような人です。

 ある有名な組織を立ち上げて、そのトップに君臨していた方です。その人は良家の出で、とても偉そうに振る舞うという評判でした。カリスマがあり、いつもにこやかで、「できる人」という雰囲気を出していました。

 私は一度近くで仕事をする機会があったのですが、この女性は周囲が思い通りに動かないとものすごく不機嫌になるのです。そして文句を言うとき、私はこの人が「とても我がままな人なのだ」ということに気づきました。

 彼女には強烈な「特権意識」というものがあり、自分が特別な存在であって、周囲がかしずかなくてはご機嫌斜めになるのです。

 この人も典型的なナルシシストでした。

 このように、ナルシシストとは、相手の立場や感情を慮って、自分とは違う人格であるということを尊重した上で、相手は何を望んでいるのだろうということに関心を持てない人を指します。

 相手には相手の都合があるとか、相手は自分とは違う物差しで動いているとか、相手は自分とは違うものを望んでいるのかもしれないなどという風に、自分を横において相手の内面を理解したいと思わないのです。言い方を換えますと、肯定的関心を他者に向けられないということになります。

 その人にとって、たくさんの人間が目には映っているけれども、心をもった人格としての他人というものが不在なのです。

 自分しかいない世界に住んでいるのです。そして他人には関心がありません。だから、他人を愛するということはできないのです。

 ここでご紹介した3人は極めてナルシシスト度の強い人物ですが、実際は白か黒かという二択ではなく、どんな人も異なる度合いでナルシシズムを持っているものと思われます。

 ですから、0から100までの度合いという風に捉えた方が現実に即しているかもしれません。

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