菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2015年12月

「朋遠方より来る有り、また楽しからずや」は「学んだことが身につく喜びは、旧友に出会うようなものだ」という意味

 論語の「有朋自遠方来、不亦楽」という箇所は「朋(とも)遠方より来る有り、また楽しからずや」と読み下しされ、意味は「親友が遠くから訪ねて来てくれるのは何と楽しいことか」と解釈されてきました。

 しかし、これでは前に続く箇所との関係が釈然としません。

 安冨氏は、孔子がここで語っているのは「学ぶ」と「習う」ということについてだと言います。

 人間は何か新しいことを「学ぶ」。その新しい学びはまだ自分のものになっていない。しかし、学んだことを自分のものにしようと努力を積み重ねていくと、いつか自分のものになるときがある。それを「習う」と言う。

 そして、「習う」ということは何と楽しいことであろうか、というのが孔子のメッセージだと安冨氏は言います。

 「習う」とは、学んだことが自分の一部であるかのように親しくなることである。そしてそれはとても楽しいことであり、旧友が訪ねて来てくれたときの喜びのようである。孔子はそう言いたかったに違いありません。

 学習の悦びは、しばらく連絡もしていないような旧友が、遠くから突然訪ねてきてくれたような、そういう楽しさではないか。
 この悦びほど、人間にとって大切なものはない。

                 (安冨歩著『超訳 論語』p. 2)

「己の欲せざる所は人に施す勿れ」とは「自分がやりたくないことを人にするな」という意味

 論語の「己所不欲、勿施於人」という箇所は、「己の欲せざる所は人に施す勿れ」と読み下しされ、意味は「自分が好まないことは、他人に対してもしてはならない」と解釈されてきました。

 もっともらしく聞こえますが、安冨歩氏の解釈のほうがずっと心に馴染みます。

 つまり、「不欲」は「自分がされたらイヤなこと」とこれまで解釈されてきたけれど、「自分がしたくないこと」と素直に訳すほうが孔子の精神を忠実に表している。

 安冨氏の解釈によると、孔子が教えたかったのは、「自分がされたらイヤだと思うことを相手にするな」ということではなくて、「自分がしたくないと思ったことは、自分を裏切って相手にしてあげてはならない」ということだと。

 孔子の思想の根幹にあるのは、主君や目上の人に服従することではなくて、実は自分を裏切ることなく、迎合することなく、自分に対して正直であることの大切さだったと言うのです。

 私はこれを読んで涙が出ました。私が大事だと思って来たことと同じだったからです。そして、私が長年感じて来た儒教の胡散臭さは誤解に基づいていたんだと気づいて、心が震えるほど嬉しかった。

 たとえ命令であっても、自分がやりたくないことを、人にしてはならない(己の欲せざるところを、人に施すなかれ)。そうすれば国にあっても、怨まれることがなく、家にいても怨まれることがない

           (安冨歩著『超訳 論語』p. 137)


推薦図書

「忠」とは自分の本当の気持ちを偽らないこと

 「忠」とは上の者に素直に従うことだと思っていました。

 しかし、それは全くの誤解でした。

 「忠」とは自分に嘘をつかないことなのです。

 孔子は、上の者と接するときに、自分を偽って迎合することのないように、自分の本心を欺かないようにと教えました。それを「忠」と呼んだのです。

 また、上の者が下の者に接するとき、我がままで無礼になりやすいので、下の者に礼をもって接するようにと教えました。 

「礼」と「忠」

 魯国の定公が尋ねた。
 「主君が臣下を使い、臣下が主君に仕えるには、どのようにすべきなのだろうか?」
 孔子は答えた。
 「主君が臣下を使うには、礼をもってすべきです。臣下が主君に仕えるには、忠をもってすべきです。忠というのは、自分の心を裏切らないということです」
                (安冨歩著『超訳 論語』 p. 42)


推薦図書

「真の誇り」vs.「神経症的プライド」

 「真の誇り」には、他者の否定や優越感は入っていません。

 たとえば、私は心理カウンセラーであることに誇りを持っていますが、それは大学教授と比べていいとか、会社員より優れているなどと比較して優越感に浸っているわけではありません。

 心理カウンセラーであることが私の喜びであり生き甲斐であり、他のものでは代用できない。それほど自分にとって価値あることだと自分が感じているのです。

 私が蕎麦職人に出会ったとしましょう。その人は蕎麦職人であることに誇りをもって働いている。そうすると、私はその人に深い尊敬の念を感じます。お互いに自分の職業に誇りをもった同士として、尊重し合うことができる。それが調和です。

 ところが、もし私がカウンセラーであることに「神経症的プライド」を持っていたとしましょう。つまり優越感を持っていたと。すると、他の職業の人を否定したくなるんですね。根底には自己嫌悪や自己否定があるわけです。

 自分の仕事に満足していたら、なぜ他の人の仕事を否定する必要があるでしょうか。ありません。優越感に浸りたい人は、心底自分を肯定できていない人なんです。

 「神経症的プライド」や「優越感」には、本当には自分でいることが嬉しくないという自己否定や自己嫌悪が隠れているわけです。だから、他者と調和できません。

 私は日本人として生まれたことを良かったと思っています。中国人に生まれたほうが良かったとか、フランス人に生まれたほうが良かったとは思わない。日本人でありたくないという気持ちはありません。ですから満足しています。日本人の弱点もあるかもしれないが、長所もたくさんある。日本文化のいいところもたくさんある。だから、いいところを楽しませていただき、足りないところは一緒に学んで成長していきたいと思っています。

 日本人であることに誇りを持っていますので、外国人に会っても劣等感は感じません。アメリカに11年住みましたが、アメリカは大好きなので国籍はアメリカになってもいいかなとは思いましたが、日本人でなくアメリカで生まれてアメリカ人として生活したかったかと聞かれれば答えはノーです。やはり日本語を話し、漢字を書けて、和食で育ち、日本の風呂文化に慣れ親しんだ自分が好きです。

 そうすると、私は中国人や朝鮮人やフィリピン人に会ったときに、彼らの民族性を否定したいとは全く思いません。彼らは彼らで自分の民族に誇りを持っているでしょう。当然のことです。それを尊重したいと思います。自らの民族に誇りを持つ同士としてお付き合いをします。

 ところが、自分でいることが楽しめない自己否定の人は、他の民族を否定することで、優越感に浸ろうとします。これが「神経症的プライド」です。これは他の民族との調和を崩します。 

 私には子どもがいませんが、妹の子ども2人をこよなく愛しています。私にとっての姪と甥はかけがえのない存在です。他の子どもと比べて、もっとああだったらいいのにとか思いません。他の誰でもまずいのです。彼らでなくては私の姪と甥ではない。他の存在では代わりになれないのです。だから、他の子どもより優れているから愛しているとか、他の子どもより可愛いとかイケメンだからとかいうことではないんです。

 たとえ他の子よりできなくてもいいんです。他の子より不細工でもいいんです。他の人は自分の子どもを大事に思っているでしょう。その気持ちとぶつかりませんよね。比べているわけではないですから。

 私の姪と甥に対する愛は、他の人のその子どもへの愛とぶつかりません。調和できるんです。 

 ぶつかるとすれば、神経症的優越感や期待が混じっていて、純粋な愛ではありません。

 愛ではなく、怖れが混入してしまっています。

 皆さんは自分でいることに誇りを持っていますか? それとも、他の人生だったら良かったのにと思っていますか?

 私は20代のころは、自分よりも何もかも恵まれている理想のような人を羨ましく思い、その人のようだったらと思ったものです。神経症ですね。

 でも、自分として生きて来て、今言えるのは、自分よりどんなにイケメンでも、どんなに成功していても、どんなに金持ちでも、どんなに悟りのレベルが高くても、やっぱり自分以外はイヤだなあということです。やっぱり自分でいるのが一番いい。自分にとっては自分がちょうどいいと思います。

 自分でいることで満足しているし、誇りもあります。誇りとは他者と比べて優れているからということではなく、自分であることができるのは自分しかいないからなんです。固有の存在として自分が生きていることに誇りがあるんです。そして、これは皆さんとぶつからない。皆さんもご自分でいることが嬉しく、良かったと思ってくれたらいいなと思います。皆さんが皆さんであることの誇りと、私の誇りは調和するものです。

「普遍性」と「具体性」のバランス

 すべての物事は「普遍性」と「具体性」の間に存在します。
 
 あらゆる具体的事象は普遍性の表れであり、またあらゆる普遍性は具体的事象に内在しています。

 問題を解こうとするとき、普遍的視点から俯瞰したり、具体的視点から詳細を考慮したりして、2つの間を往来することがしばしば役立ちます。

 問題の捉え方が普遍的過ぎると、現実的に対処できる力点を見つけられません。

 「私は悪い人間なので良い人間になりたい」とか「体の具合が悪いので元気になりたい」と言われても、問題の把握がざっくりし過ぎていて、このままでは対処できません。

 そこで、このような問題提起をする人に対しては、「悪い人間だというのはどういうことですか?」「体の具合がどう悪いのですか?」と質問し、意識のレンズを俯瞰的視点から局所的視点へと絞っていくことが重要です。

 「悪い人間」というのが「妻に暴力を振るってしまう」とか「淋しくなると酒に依存してしまう」とか「嘘をついてしまう」という意味だと分かれば、やや具体性を帯びてきます。

 「具合が悪い」というのが「お腹が痛い」とか「便秘が治らない」とか「だるい」という意味だと分かれば、意識のレンズが局所的方向にやや進んだことになります。

 このように、どんどん詳細を見極めていくことで、ちょうど機械の故障箇所が特定されるように、その人の心理的問題が明確になることがあります。具体性を極めていくことで問題が最もはっきり見えるような場合には、意識のレンズを顕微鏡のように詳細に絞っていけばいい。 

 「悪い人間」という捉え方が「妻に暴力を振るう」に変わり、さらに絞っていくと「自分には価値がないと言われているように感じる」に変わり、問題は「自分の中に無価値感がある」という理解へと深まっていく。すると、「どうすれば良い人間になれるか」という曖昧な課題から、「どうすれば無価値感から解放されるか」という、より具体的な課題へと認識が変わります。 

 「具合が悪い」という捉え方が「お腹が痛い」に変わり、さらに絞っていくと「便秘が治らない」に変わり、問題は「元気になりたい」というざっくりとしたものから「便秘をどう治すか」という、より具体的な治療課題へと認識が変わるわけです。

 これらは、意識のレンズをとにかく具体性の方向にどんどん進めていって、問題点を突き止めることで対処法が見つかる例です。

 これですべて解ければいいのですが、実は真逆の方法を必要とする問題も存在します。 

 特に重要なのは、悩んでいる当人が問題の見当違いをしているときです。私たちは常に自分の問題を正確に把握できているわけではなく、時にはとんちんかんな認識をしているので、そこを掘り下げても解決には至りません。

 そういうときには、より普遍的視点から「まだ見えていないものを探る」という作業が大切です。 

 たとえば、姑からのいじめに悩む女性(フィクション)を例にとって考えてみましょう。 

 彼女の問題が「姑からのいじめ」だという理解に基づいて具体的に話を聞いても、何をどう解けばいいのかが全く見えないことがあります。

 こういう場合、本当の問題は「姑からのいじめ」ではなく、「いじめを見て見ぬ振りをしている夫との関係」であったりします。つまり、本当に不満な相手は姑ではなく夫であるかもしれない。

 「姑にいじめをやめてほしい」という気持ちよりも、「夫に自分を守ってもらいたい」という気持ちのほうが強い。味方をしてくれない夫への不満と敵意のほうが実は強い。

 そうすると、問題の把握の仕方を根本的に見直さなくてはなりません。

 さらに俯瞰すると、この妻は夫を好きでないことが明確になってくる。夫を尊敬もしていないし、世話をするのもイヤイヤやっているという事実が浮上してくる。

 つまり、自分を偽って結婚生活を続けているのです。

 そうすると、問題認識は根底から覆ります。問題は「如何に姑のいじめを止めるか」でも「如何に夫の協力を仰ぐか」でもなく、「尊敬していない男と結婚生活を続けて行くべきか」というものに変容します。

 このように、本当の問題がおおまかにでも特定できている場合には、そこを掘り下げて詳細を見ていけばいいけれども、最も重要な問題が認識されていない場合には、普遍的レベルにまで視野を広げて、もう一度見直すという作業がとても重要です。 

 問題を解くには、問題を正確に把握しなくてはなりません。また把握するのが、対処を可能とするほどの具体性のあるレベルでなくてはなりません。普遍的(抽象的)過ぎると対処できません。また、具体的であっても、本質的にずれている場合には対処法が見つかりません。そういう場合、普遍的レベルでもう一度問題を見直すことがブレイクスルーに繋がることがあります。

 問題認識が根本的にずれている場合、「糠に釘」なので、どれだけ解決にエネルギーを注いでも埒があかない感覚になります。

 それに対して、問題箇所を正確に意識できた場合、たとえすぐに解決できないとしても、「本質を突き止められた」という揺るぎない実感があります。「そう、それそれ」「そうか、これを何とかすれば解けるんだな」という手応えが本人の中に生じるのです。

 問題がはっきりすると、解くのに時間がかかるとしても、進むべき方向が明確なので、そういった意味での迷いがありません。忍耐や努力が必要であるかもしれないけれど、目標がはっきりしている点で、ある種の落ち着きがある。

 それに対して、問題を把握できていないときには、問題が解けないことによる不満に加えて、進むべき方向が見えないことによる不安にも苦しみます。不満に迷いが加わるので辛いですね。目標が見えないので、何に取り組んだらいいのかさえ分からない。こういう場合には、普遍的視点から俯瞰して、問題を正確に掴むことがまずは重要です。

 

ハートに聞けば自分の幸せが分かる

 あなたにとって何が幸せか、その答えはあなたのハートが知っています。

 ハートの中に喜びを感じるもの、それがあなたにとっての幸せであり、それはハートの反応を通して確認できるものです。 

 たとえば、結婚して家庭を持つことが幸せにとって重要である人と重要でない人がいますが、自分がどちらかはハートに聞けば分かります。 

 ご自分のハートに「結婚して家庭を持ちたいか? それは私にとってなくてはならないほど重要か?」と問うてみてください。答えが強いイエスなら、自信をもって「そうだ」と言えるでしょう。結婚と家庭が今世の目的にとって必要ない人は、ノーという答えを得るでしょう。ノーというのは、この質問を問うたときにワクワクしないということです。また、「叶えば嬉しいが、絶対必要という感じでもない」という中間の反応の人もいるでしょう。

 同様に、仕事での活躍が幸せにとってどれぐらい重要なのかは、ハートの反応で分かります。

 このようにハートと対話をすることで、様々な答えを得ることができます。「私の幸せにとって何が重要か?」というオープンな質問をするのも手です。

 質問をしたあとは、頭であれこれ考えず、思考はストップして受身になって待ちます。視覚イメージか言葉か肉体感覚で何かが浮上してきたら、それは何らかの反応だと思って間違いありません。

 たとえば、自分の幸せにとって「家庭」「仕事」「友人関係」「創造的活動」「娯楽」「健康」の6つが重要だと判明したとしましょう。

 そうすると、ハートの実感を頼りにしながら、優先順位を明確にすることもできます。

 「仕事」40%、「家庭」30%、「創造的活動」20%、「友人関係」5%、「創造的活動」3%、「娯楽」2%など、割合を数値化すると分かりやすいですね。

 自分にとって合っているなら「しっくり感」がありますし、合っていないなら「違和感」があります。自分にとって真実か真実でないかは、この感覚によって分かるのです。

 このようにして、幸福の各領域で「こうありたい」というものの本質をハートから聞き出すことができます。

 「仕事」では、社会に認められることが大事だという人もいるでしょうし、人の役に立っている実感が一番大事だという人もいるでしょう。あるいは、より深い真理を発見することが重要だという研究者もいるでしょう。「仕事」で達成できたら嬉しいと思うことは人それぞれなので、自分の充実感とは何か、それをハートに教えてもらうことが大切です。

 「家庭」を持つ意味も人によって様々です。自分にとって「家庭」の幸せとは何か。これもハートが知っています。

 このように、それぞれの領域で目指したいもの、成就したいものは、ハートの中にすでにあります。きちんと発見してあげて意識化することで、自覚をもって成就へと進むことができます。

 どのように成就していくかは分からなくても、成就したいものの本質を知ることはできるのです。そして、本質を知ると活力が湧いてきます。ワクワクします。生きたくなります。

 それは、自分の幸福のヴィジョンに高揚しない人はいないからです。

 すべての人は幸福の成就に向かって歩んでいます。道に迷って何を目指したらいいのか見失うことはあっても、幸福の未来がない人はひとりもいません。

 人生のコンパスを見失ったら、ハートの喜びに尋ねてください。

 答えは確実にそこにあります。

 人によっては、人生の途中で情熱の対象が変わることがあります。以前喜びであったものが喜びでなくなり、新しい幸福を求めるようになるのです。これは何も変なことではありません。

 ですから、幸福の形は人生を通して常に同じだとは限らないと知っておくことは大事です。あくまでハートは現時点での幸福のヴィジョンを教えてくれます。それが5年後に変わってもいいのです。今は今喜びと感じるものが幸せなのであって、将来変わるかもしれないなどと心配する必要はありません。
 

愛(love)と尊敬(respect)

 人間関係には次の4種類があります。

1.相手に対して愛を感じるが、尊敬を感じない。
2.相手に対して尊敬を感じるが、愛を感じない。
3.相手に対して愛と尊敬の両方を感じる。
4.相手に対して愛も尊敬も感じない。

愛を感じるとは

 愛とはその人に幸せであって欲しいと思う気持ちです。その人が安全で満ち足りて幸福であることを望む気持ち。愛は様々な行為として表れます。たとえば、プレゼントをあげる、料理を作ってあげる、相談に乗ってあげるなど。手も口も出さないけれど、静かに見守っているというのも愛です。

 愛を感じる相手なら、その人の安全や幸福や満足に対して喜びを感じます。

尊敬を感じるとは

 尊敬とはその人の中に尊厳を見ることです。尊敬を感じるには、相手が自分より優れている必要はありません。自分より年少者で能力が劣っている人であっても、相手の中に尊さを見る人は、尊敬を感じます。尊さとは全ての存在が持っているものであり、それが見えるか見えないかによって、尊敬を感じるか感じないかが決まります。

 相手が小さな子どもであっても、一生懸命生きている姿に触れて、畏敬の念が生じることがあります。「すごいなあ」と感動するのです。こういうとき、私たちはその子に対して尊敬を感じています。

愛だけがある場合

 愛だけあって尊敬がない場合、相手を助けてやろうとし過ぎて過干渉になりやすい。

 相手を劣った存在だと見ているので、自分が何でもしてやらねば相手は困ると思っています。相手の尊厳を見ていないのです。

 善意に溢れてはいますが、相手への態度は基本的に不遜です。

尊敬だけがある場合

 尊敬だけあって愛がない場合、相手から一方的に与えてもらおうとして依存的になりやすい。

 自尊心の低い人は、相手から愛されようとして、相手のために自分が何を与えられるかを考えません。相手にはたっぷり尊敬を与える代わりに、相手からたっぷり愛を与えてもらいたいのです。

愛も尊敬もある場合

 親が子に対して愛と尊敬の両方を感じる場合、子の幸福のために与えられるものを喜んで与えますが、子の自律性や尊厳を侵さず、自分でできること、自分で決めるべきことを肩代わりしようとはしません。親とは別の人格として認めているのです。親の好きなように子を操ろうとは思いません。子に深い関心を寄せながら、どのように成長していくのかを温かく見守り、真の必要に応えたいと望みます。

愛も尊敬もない場合

 愛がないということは、相手の安寧に無関心であるということです。相手の幸福はどうでもいいということです。そして、尊敬がないということは、相手を尊い存在だと感じていないということです。

 愛も尊敬も感じない相手には、全く関わらないか、関わる場合には虐待的になります。

愛されたい人と尊敬されたい人

 甘えん坊で依存的な人は、相手から世話を焼かれ、与えられることを求めます。好意を受けることのほうが、尊敬されるより大事だと感じます。

 反対に、自尊感情の高い人は、相手から愛されることと尊敬されることが両立しない場合、愛されることを放棄してでも尊敬されることを望みます。自分が尊敬できる自分であることのほうが、与えられることよりも重要だと感じるのです。

 愛を求める人に尊敬を与えても喜ばれませんし、尊敬を求める人に愛を与えても喜ばれません。

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