菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

世界中どこからでも、カウンセリングを受けられます。面談(金沢市)・電話・スカイプ・FaceTime 対応。

2016年02月

クライアントはもっと主導権を握ってよい

 カウンセリングで主導権を握るのはカウンセラーか、あるいはクライアントか?

 私の答えは、双方が心地よいと思うほうでよい、というものです。

 これを読まれた方の中には、クライアントが主導権を握るとはどういうことなのか、と不思議に思う方もいらっしゃることでしょう。

 そこで、教師と生徒、カウンセラーとクライアントの関係において、前者が主導権を握る場合と、後者が主導権を握る場合ではどのように違うのか、まずご説明したいと思います。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

教師が主導権を握る従来型の教育

 従来型の教育では、教師が教育内容や進め方や時間配分などを決定し、生徒は受身でそれに従います。学びたい内容を生徒は選べませんし、進め方に注文を出すということもほとんどありません。

 これは教師中心の授業のあり方とも言えます。

 教師を生徒が従うべき権威だと捉える価値世界では、このようなあり方になります。

生徒(学生)が主導権を握る対極の教育

 これに対して、ロジャーズなどの人間性心理学の人たちは疑問を投げかけました。学ぶというプロセスを教師中心のものにしてよいのだろうか。学ぶ主体である生徒(学生)の自主性が発揮できる環境を整え、できるだけ教師が支配しない方がよいのではないだろうか、と考えたわけです。

 そこで、ロジャーズは従来とは反対のことをやりました。

 ロジャーズは大学で教えることになりましたが、学生が「これをやりたい」と言うまで黙っていたのです。イニシアチブ(主導)が学生のほうから来るまで、教師であるロジャーズは受身でいたのです。

 そして、学生が尋ねたことに答え、依頼したことに賛成できれば実行し、学生に教師側から何も押しつけなかった。学生から自主的に出てきたことにのみ応えたんです。

 これを生徒(学生)中心の授業のあり方と言います。 

 私の実体験から言いますと、日本のピアノの先生は私が弾く曲をすべて細かく決定して私に課しました。それに対して、アメリカのピアノの先生は私が弾きたい曲を選ぶのを補助してくれました。日本のピアノレッスンは教師中心だったのに対して、アメリカのピアノレッスンは生徒中心だったのです。一般的にアメリカの教師のほうが、日本の教師よりも権威主義ではありません。

カウンセラー主導のカウンセリング

 カウンセラー主導のカウンセリングというものが存在するとすれば、それはカウンセリングの時間をどのように使うかということについて、カウンセラーが主に決定をし、クライアントが従うという構図になります。クライアントはカウンセラーが話すまで受身で待っていて、尋ねられたことに答え、あとは待っている。クライアントから主体的に「これをやりたい」とか「これをやって欲しい」とは言いにくい関係性です。

 カウンセラーの設けた枠にクライアントがはまろうとするので窮屈になります。

クライアント主導のカウンセリング

 クライアント主導のカウンセリングとは、レストランで言えばクライアントが客でカウンセラーがウェイターのような関係です。

 クライアントがやって欲しいことを注文し、カウンセラーがそれに応えるという順序です。

 私には二人のメンターがいますが、そのうちの一人はまさにこれです。私が何かを言うまでは、黙って「待っている」のです。彼女のほうから、今日はこれとこれをやりましょうなどとお節介を焼いてくることは一切ありません。私が要望を言うのをじっと待っています。そして、私が望んでいることだけをやってくれます。そして、どのように時間を配分して使うかは、クライアントである私に委ねられています。なので、セッションの後で「本当はあれをやりたかったのに、カウンセラーに違う方向に持っていかれた」などという不満を残すことはありません。カウンセラーはクライアントである私の意向にすべて沿ってくれるのです。

 ある意味、これはクライアントがカウンセリングを主体的に「利用」して、自分の責任において時間を使うということです。カウンセラーに「任せる」とか「委ねる」という部分が少ない。自分の要望を主張すると同時に、セッションで何をするのかということの決定責任をクライアントである自分が負うのです。

日本のクライアントはもっと主導権を握って良い

 日本人は権威に従順なところがあるので、カウンセリングを受けにきたらカウンセラーを先生だと見て、指導を仰いで待っているという受身の体勢になる人が多いです。 

 権威主義的なカウンセラーも世の中にはいるかもしれませんが、大抵のカウンセラーは人間性心理学を学んでいれば、クライアント中心という姿勢を持っている方が少なくありませんので、もっと主導権を握って「私がカウンセリングを使って自分の目的を達成するのだ」と考えてもらっていいし、「これとこれをやって欲しい」とか「それはこれぐらいにして、次の課題に進みたい」というような意思表示を時間内にどんどんやって欲しいと私は思っています。

 「もっとカウンセラーである私を好きに使ってください!」と時々言いたくなります。(笑)

 「私を権威だと捉えて服従なんてしないでください」と言いたくなることもあります。「もっと自分を出していいですよ」とも。

 カウンセリングの主導権をクライアントが握ってくれると、カウンセラーは「上から世話を焼く」という必要がなくなり、より水平の関係を楽しむことができます。

 多くの人は不慣れかもしれませんが、私は水平の関係をイヤだと思わない人間なのですから、遠慮なくクライアント主導の時間にしていってください。

 でも、中にはカウンセラーに主導権を握ってもらう方が嬉しいという方もいるでしょう。そういう場合には、私が主導権を握ってセッションをさせて頂きますのでご心配なく。「次はこれをしましょうか? それともあれにしましょうか?」とあなたの意向を聞いて進めていきます。

 「クライアントが主導権を握らなくてはならない」というわけではありません。双方にとって一番心地よいやり方でいいのです。

上手にカウンセリングを受けるコツ

 私は年に数回、自分がクライアントとなってメンターにカウンセリングをしてもらいます。

 そのときに、必ずすることが2つあります。

①取り組みたいことを箇条書きにしておく。
②して欲しいことは具体的にリクエストする。

 決められた時間内に、できるだけ目標を達成したい私は、効率よく時間を使うことができるように「自分の課題と目標」を明確にしておきます。「なぜカウンセリングを受けたいのか」と問われたら、30秒ほどで答えられるように整理しておくのです。

 また、カウンセラーができることは「傾聴」「説明」「アドバイス」「療法」「指導」など多岐に渡り、クライアントが指定してくれなければカウンセラーはニーズを把握できないということも私は分かっていますので、話を聞いて欲しいときにはそう伝えますし、説明して欲しいときにはきちんと質問をします。あるいは、感情の癒しが主に欲しいときにはそう言います。

 カウンセラーに望んでいることが明確に伝わるように、コミュニケーションの責任をクライアントである自分が主体的に背負うのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

まとめ

 以下の2点を予め整理しておき、明確にカウンセラーに伝達する。

 1つ目は「
この時間で自分は何をしたいのか」という自主的・積極的な志。2つ目は「カウンセラーに何をして欲しいのか」という具体的依頼です。

 例:「上司に叱られて自分のできなさに落ち込んでいる。いつもそうだ。自己嫌悪が減って少しでも自信をもって前向きな気持ちになれるよう取り組みたい(=志)。カウンセラーには自分のマイナス感情の原因が分かるように説明して欲しいし、また楽になれるようガイドして欲しい(=依頼)。」

 ここまで整理できていれば見事です。時間が効率よく使えること間違いなしです!

コア・ビリーフ・ワーク講座(6月12日)

コア・ビリーフ・ワーク講座

☆イベント内容
 苦しみの根底にある『コア・ビリーフ』(核となる信念)を見つけて解除する方法を身につけて頂きます。
 当日は①キネシオロジー、②ティール・スワンの『コア・ビリーフを見つける方法』、③バイロン・ケイティの『ザ・ワーク』の3技術を丁寧に指導します。
 無意識にある怒りや不安や自己嫌悪の根本原因を突き止めて、自由になりませんか。
 
☆日時: 2016年6月12日(日) 11:00~15:00
(12:30〜13:10はランチ休憩)

☆場所: 菅波亮介のカウンセリングルーム
 →カウンセリングルームへの行き方、周辺地図
 
 金沢市本多町2-18-12

 思案橋バス停より徒歩1分。

 駐車場には限りがございます。お申し込みの際、お尋ねください。

☆定員: 10名様

☆参加費: 3000円(当日払い)

 ランチは正午に皆さんのご注文を伺って近くのうどん屋に出前を取ります。休憩中に近くのサンクス(徒歩3分)に買いに行かれても結構です。また、お弁当を持参されても構いません。ランチ代は各自負担とします。お湯とほうじ茶をお出しします。それ以外の飲み物はご持参ください。

☆講師: 心理カウンセラー菅波亮介

☆お申込み方法: 菅波亮介までお電話かメールでお知らせください。
 連絡先はページ末をご覧ください。

☆キャンセル料
 24時間前を過ぎてのキャンセルには、3000円の手数料を頂きます。

プロフィール
菅波亮介(すがなみ・りょうすけ)

 
 1966年1月金沢市生まれ(50歳)。上智大学外国語学部英語学科卒。マサチューセッツ大学音楽修士。サンタモニカ大学スピリチュアル心理学修士課程前期修了。金沢大学教育学部元非常勤講師。日本プロカウンセリング協会認定1級心理カウンセラー。バイロン・ケイティのスクール卒業。
 現在は、面談と電話とスカイプによる心理カウンセリング(日本全国から受けられます)とスピリチュアル心理学セミナーを行っている。



連絡先

お問合わせ・ご質問はお気軽にお電話でお知らせ下さい。遠距離の方もどうぞお気軽に。

電話1 076-225-7425 (毎日11時~22時)
電話2 0120-011-271 (フリーダイアル) 
お問合わせ・ご予約は全国より通話無料のこの番号をお使いください。
携帯・PHSからもかけられます。
 
 
住所 〒920-0964 石川県金沢市本多町2-18-12
  

動機(目的)と行動(手段)

「行動」の奥には必ず「動機」がある

 あらゆる「行動」には「動機」が必ずあります。

 たとえば、私が歯を磨くのは、虫歯にならないためであり、できるだけ長く自分の歯で食べたいからです。

 この場合、「虫歯にならないため」と「できるだけ長く自分の歯で食べられるように」が「目的」で、「歯を磨く」はそれを叶えるための「手段」だという言い方もできます。

「目的」=虫歯にならないため
「手段」=歯を磨く
 

 親に叱られたくないから歯を磨いている子の場合、「目的」は親に叱られないことであり、歯を磨くという行為はその「手段」です。

「目的」=親に叱られないため
「手段」=歯を磨く

「思考」や「感情」にも「動機」がある

 実は、「自分が嫌いだ」「孤独死するのが怖い」「相手を支配したい」などの「思考」や「感情」にも「動機」つまり「目的」があり、それを理解すると解決しやすくなります。

 たとえば、「自分が嫌いだ」という「感情」にはどんな「目的」があるのでしょうか。

 多くの場合、「自分が嫌いだ」という「感情」は、「自分を肯定したい」という気持ちの裏返しです。 

 本当は自分を肯定的に捉えたい。でも、どうしても気に入らないところがある。だから、そこを一生懸命嫌うんです。嫌うということは怒るということであり否定するということです。攻撃すると言ってもいい。攻撃することで気に入るものに変わって欲しいと思っているんです。 そして、気に入らないものが気に入るものに変わったら、自分を肯定できるのではないかと無意識で思っています

 つまり、「自己嫌悪する」のは、「自己肯定できるため」ということになります。 

「目的」=自己肯定できるため
「手段」=自己嫌悪する

 ところが問題は、この「手段」を用いてこの「目的」を達成することは絶対にできない点にあります。そして、そのことに気づいていないために、この人は効果ゼロの手段を用い続けてしまっているのです。

 「この手段ではこの目的を達成することはできないのだ」と心底悟ることが智慧です。そうすれば、後は「自分が嫌いだ」という感情を手放そうと念じるだけで消え去っていきます。自己嫌悪を手放したら、そこには自然と自己肯定感が湧いてきます。

 自己嫌悪が止められないのは、手段の有効性を信じているからです。

 それはちょうど、金沢から富山に行くには東に進まなければならないのに、「西へ行けば富山に着く」と固く信じて突き進むようなものです。いつまで経っても富山には着きませんが、本人はそれに気づいていないため効果ゼロの手段を用い続けてしまっているのです。

 「自己嫌悪する」という人は、金沢から西へ進んで富山に着こうとしているのです。エネルギーの無駄遣いです。その愚かさに気づいた人は即止められます。

様々なマイナス思考とマイナス感情の癖を解除する

 自動的に涌き上がってくるマイナス思考とマイナス感情のパターンを解きたい方は、それぞれの思考と感情の目的を特定するために、まずは掘り下げてください。 
 
 たとえば、「相手を思い通りに操りたい」という感情を持っている人は、頭で「相手を操作したいというのはいけないことだよなあ」と思っても、そのような感情が湧いてきてしまうのでしょうがない。どうしたらよいものか分からないと困惑するかもしれません。

 ドラッグを打ちたい、人を騙したい、人の不幸を願ってしまう、ギャンブルがやめられないなどの感情にはすべて目的があります。

 では、「相手を思い通りに操りたい」「人の不幸を願ってしまう」などの感情の目的は、どのようにすれば分かるのでしょうか。

手段によって満たされると信じているもの、手段がなければ困ることは何か?

 私たちが何かに執着するのは、それがもたらしてくれる(と信じている)利益がある場合と、それがなくなったら大変なことになると恐怖している場合です。

 同じ思考や感情を何度も何度も体験しているということは、それらに執着して握りしめているということになります。そして、握りしめているのはそれに利益があると信じているか、あるいは握りしめなくては困ったことになると恐怖しているからなのです。

 たとえば、「相手を支配したい」という感情の場合、「相手を支配できたらどんな気持ちになるのか。そしてそれはどんな欲求を満たすのか」と問うことで利益の部分がはっきりします

 また、「相手を今後一切支配できないとなったら、どんな気持ちになるか」と問えば、恐怖している内容が明らかになります

多くの問題思考や問題感情は、痛みから自由になりたい動機をもつ

 「人の不幸を願う」「人を支配したい」「ドラッグをやりたい」などの感情の奥には、気持ちよくなりたいという動機が働いていることがほとんどでしょう。そう、ドラッグを打つ人にとって、ドラッグをやることは気持ちいいし、人を騙す人にとって、人を騙すことは気持ちいいのです。人の不幸を願う人にとって、人の不幸は快楽なのです。

 では、なぜそのような形でしか快楽を求められないのか。

 それは、心の奥に大きな痛みを抱えているからです。痛みを直視できないので、快楽に逃げているのです。ドラッグも人の不幸を願うのも、自分の痛みから逃げるためであり、痛みの上に塗る鎮痛剤なのです。

 つまり、目的は「感情の痛みから自由になること」であって、それ自体は咎められるべきものではありません。ただ、「感情の痛みから本当の自由になる」ためには、ドラッグや人の不幸という手段を用いることなく、自分自身の痛みを癒すという勇気あるプロセスを経なくてはならないのです。

 ドラッグや人の不幸は、自分を本当には解放しません。手段は全く効力をもたないのです。

「目的」=感情の痛みから自由になるため
「手段」=人の不幸を願う、人を支配したい、ドラッグをやる

 ドラッグをやってまで麻痺させたい「私の痛み」とは何だろうか? と問うて頂きたい。

 それは生きることへの絶望感かもしれないし、どうやっても自分を肯定できない自己嫌悪の膿かもしれません。虐待を受けた深い深い悲しみかもしれません。

 とにかく、心の痛みに光を差し込むことで、本当の解放へと向かうことができます。 

 痛みが本当に癒されたとき、人の不幸を願ったり、人を支配したり、ドラッグをやろうという感情から解放されて、心が軽やかになります。

 不健全な感情からのプレッシャーと戦う必要はもうないのです。

 本当の解放というものが存在することを是非知って頂きたいと思います。

EMT 基礎講座(4月20日)

EMT 基礎講座

☆イベント内容
 心身をプラス化するために、不要な思考・感情・気を特定してリリースする技術、それが EMT (Energy Management Technique)です。

 基礎講座では、EMT の基本を実践しながら学んでいただきます。

 EMT についての詳細はこちらをご覧ください。→心をデトックスする EMT
 
☆日時: 2016年4月20日(水) 11:00~15:00
(12:30〜13:10はランチ休憩)

☆場所: 菅波亮介のカウンセリングルーム
 →カウンセリングルームへの行き方、周辺地図
 
 金沢市本多町2-18-12

 思案橋バス停より徒歩1分。

 駐車場には限りがございます。お申し込みの際、お尋ねください。

☆定員: 10名様

☆参加費: 3000円(当日払い)
再受講の方は2000円です。

 ランチは正午に皆さんのご注文を伺って近くのうどん屋に出前を取ります。休憩中に近くのサンクス(徒歩3分)に買いに行かれても結構です。また、お弁当を持参されても構いません。ランチ代は各自負担とします。お湯とほうじ茶をお出しします。それ以外の飲み物はご持参ください。

☆講師: 心理カウンセラー菅波亮介

☆お申込み方法: 菅波亮介までお電話かメールでお知らせください。
 連絡先はページ末をご覧ください。

☆キャンセル料
 24時間前を過ぎてのキャンセルには、3000円の手数料を頂きます。

プロフィール
菅波亮介(すがなみ・りょうすけ)

 
 1966年1月金沢市生まれ(50歳)。上智大学外国語学部英語学科卒。マサチューセッツ大学音楽修士。サンタモニカ大学スピリチュアル心理学修士課程前期修了。金沢大学教育学部元非常勤講師。日本プロカウンセリング協会認定1級心理カウンセラー。バイロン・ケイティのスクール卒業。
 現在は、面談と電話とスカイプによる心理カウンセリング(日本全国から受けられます)とスピリチュアル心理学セミナーを行っている。



連絡先

お問合わせ・ご質問はお気軽にお電話でお知らせ下さい。遠距離の方もどうぞお気軽に。

電話1 076-225-7425 (毎日11時~22時)
電話2 0120-011-271 (フリーダイアル) 
お問合わせ・ご予約は全国より通話無料のこの番号をお使いください。
携帯・PHSからもかけられます。
 
 
住所 〒920-0964 石川県金沢市本多町2-18-12
  

誰にでも限界があることを理解すると優しくなれる

 人間はみな発展途上であり、完成された人などひとりもいません。

 そして、相手は相手の発達段階以上のことをすることはできないし、また自分もそうです。

 親に無条件に愛されたかったとしても、それができなかった親にも限界があるし、また自分にも限界がある。

 そのことを理解すると、優しくなれます。

 相手に完璧を求めず、その未熟さを理解してあげられると、そのままの人を許せる。そうすると、自分の心が優しくなるのです。

 幼児からすれば、親を含めた大人は神様のように全能に見えるもの。でも実際は、大人も分からないことだらけ、知らないことだらけ、できないことだらけ。それが分かるのが成熟というものです。

 自分自身の未熟さを許せるのも成熟の過程。完璧でない自分を許せないと力んでもしょうがない。完璧を求めることで自分がもっと育っていくならまだしも、完璧を求めると心が荒んでくる。だからその教育法は間違っていると悟るのが智慧です。

 自分の未熟さを受け止め、許し、優しく育めるようになった人は、他人の未熟さにも寛容になれます。

 あなたにも限界があるように、私にも限界がある。それを認めることで、人間らしい関わり合いが可能になるのです。
 

体を動かすのが嫌いな人のための「体育」

 私は車を運転したり、多少の散歩をしたりするのは好きなんですが、基本的に「運動」が好きではありません。学校では「体育」が苦手なほうでした。

  日本の「体育教育」は、まあ常識的なのだとは思いますが、筋力・持久力・瞬発力などを基本として、球技・体操・陸上などの「外向きの形」を通して結果を競うような内容になっています。

 こういったことが好きな人はそれでいいので、これらの価値を否定したいわけではありません。

 ただ、私のような人間には「外向きの運動」よりも、「内面との繋がり」を重視する「ヨガ」や「太極拳」のようなものがあったらもっと良かったなあと思うのです。

 でも、「ヨガ」や「太極拳」にしても、私にしては多分「形を重視」し過ぎて窮屈に感じるだろうと思います。

 運動の何がイヤかと言うと、自分の体が動きたいと思っていない形を押しつけられることです。 

 つまり、「はい、次はサッカーをしましょう」「次は逆上がりですよ」というように、「何をするか」は教師から規定され、決まった動きをしなくてはなりません。それが、私の場合、やりたくないことである率が高いんです。だから、自分に反してイヤイヤ体を動かすという時間になってしまう。

 もともと体を動かすのが好きな人は、体育の活動の多くが、自分がやりたいことと一致する率が高いのだろうと推測します。なので、体育の時間は好きだと感じるでしょう。

 私の場合には、「好きな動き方」というものがおそらくすごく限定されているので、難しい。

 そういう私が発見した「私に合った運動」があります。

 それは、内面の感覚に意識を向けながら、まったく形を作らず、瞬間瞬間に体が動きたい衝動に任せて、完全に自由に動くことなんです。

 背中が堅いからストレッチしたいなあと感じたら、背中を動かすんですが、決まりきった形でストレッチをするのでもなく、決まりきった時間するのでもなく、好きな形で好きなだけやるんです。重視するのは、体が心地よいと感じているかだけです。 

 つまり、徹底して体の声に従うんです。体が「これをやって」と言うことだけをする。予めプランは一切立てない。何分するとも決めないし、フォームは自由。動きたいだけ動きたいように動く。気持ちいいと思う動きをする。それだけです。

 一切の強制はないので、やりたくないことを無理にやっているという心理は全く生まれません。

 心地よいと体が感じることしかやらないので、体は喜びます。やった後、「ああ、気持ちよかった」と喜んで終わります。

 これが私が見つけた私だけの「体育」です。^^
 

苦悩を3つの次元から理解する

 人間が苦しみ悩むとき、そこには身体感覚としての苦しみ、感情としての苦しみ、思考としての苦しみという3つの次元が共存しています。

 まずは、Physical Dimension(身体的な次元)。

 私たちが苦しいとき、そこには必ず身体的な不快感があります。胸が締め付けられる感じとか、ムカムカと火のように激しく燃えるような感じとか、暗く重たく落ち込む感じなどです。

 からだの実感としての苦しみというものが観察できます。

 次に、Emotional Dimension(感情的な次元)。

 これは、怒り、悲しみ、怖れ、自己嫌悪など、情としての質が認められるフィーリングです。

 傷ついた、絶望している、妬ましい、無力に感じるなどです。

 そして、Mental Dimension(思考やイメージの次元)です。

 ここには、「あいつは俺をバカにした」とか「私はこのままひとりぼっちに違いない」など、文章にできる信念、ストーリー、解釈、評価などが含まれます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

  多くの人は、苦悩に向き合うとき Mental Dimension だけに頼って、「考えること」「分析すること」「理性を使うこと」によって解こうとして失敗します。

 というのは、頭はすでに見えている既知の世界でしか判断できませんので、潜在意識や無意識にあるものについては推測できても真実を知ることはできないのです。

 そこで、Emotional Dimension や Physical Dimension にも意識を等しく向けて、総合的に取り組むことが大事になってきます。

 からだの症状や反応には、潜在意識の声が反映されており、顕在意識が把握できていない重要な情報を示していることが多いので、頭で考えるより、むしろ体の感覚に焦点を当てるほうが苦悩が解きやすいことが少なくありません。 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 ということで、3つの次元への気づきを深めるエクササイズをご用意しました。

 ご自分が悩んでいる事柄について意識したときに、どのような思考、感情、肉体感覚になるかをそれぞれ別々に観察してください。

 たとえば、職場の同僚との関係に悩んでいる人の場合だと、その同僚のことを考えたときに、3つの次元でどのような反応が起きているかを観察するのです。

 まず、「思考の次元」では、頭で考えることが何なのかを1つずつ紙に書き留めていきます。「あの人さえいなければ楽なのに」「あの人はいつも威張っている」「目障りだ」「私はどうしていつも職場に恵まれないのだろう」などなど。これらはすべて思考だということがお分かりですか。感情でも肉体感覚でもありませんね。

 次に、「感情の次元」を見ていきましょう。これは頭よりも深いですので、体に意識を向けないと自覚できません。頭からからだに意識を向けて、もっと内面に入る必要があります。

 あなたは「怒り」を感じていますか? それとも「悲しみ」ですか? それとも「怖れ」? あるいは「自己嫌悪」? 感情として何を感じているのか、からだの内部に注意を向けて、感情に名前をちゃんとつけてください。

 そして、私は「怖れ」を感じていると認めるのです。

 次に、「身体感覚の次元」に移ります。その同僚のことを考えたときに、どのような肉体感覚になりますか? お腹が緊張して締まりますか? 胸がムカムカと熱くなりますか? 暗くどんよりと落ち込んだ感覚がしますか? 頭が痛くなりますか? 肩の血流が悪くなりますか? 食欲がなくなりますか? 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 実は、人間の意識は常に「思考」「感情」「身体感覚」が総合的にひとつとして機能しています。「思考」が苦しめば「身体感覚」は必ず心地悪くなりますし、「感情」が苦しめば「思考」もマイナスに傾きます。つまり、3つは密接に繋がって影響を与え合っているのです。

 そして、頭が全体像を把握できないときには、心の情とからだの感覚が何を掴んでいるのかに注意を向けることで、悩みについてより多くのデータを得ることができます。言い換えると、頭と心と体を全部見ていくことで、私たちは自分自身をより完全に知ることができるということです。

 頭が理解していない自分自身は、からだの「得体の知れない感覚」として表れることが多いです。なので、この「得体の知れない感覚」に注意を向けて対話をして、奥にあるものを探っていくと自己理解を深めることができます。 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 先ほどの同僚との人間関係の悩みの場合ですと、次のように紙に書くと助けになるでしょう。

 「思考」(頭):「彼女は私をバカにしている」「彼女は偉そうだ」「私を理解しようとしていない」

 「感情」(心):「怖れ(この先この会社に居続けることについて不安)」「自己嫌悪(人に受け入れられることに自信がない)」

 「身体感覚」(体):「胸がギュッと締め付けられる」「下腹部が冷たくて堅い」「元気がなく弱い感じ」 

 これらの3つの次元すべてを把握すると、苦悩が解きやすくなります。

 頭の思考だけに意識を集中させると解きにくくなります。なので、特に心の情と体の感覚との連携において心理的問題を解くという姿勢をお忘れなく。

 心理的苦悩が解けるとは、身体感覚が軽く楽になることを意味しています。また、情的に平安や喜びや活力が戻ってくることが意味します。知的には自由で明るく開かれた考えになります。

 解決したときには、頭も心も体も総合的に良い状態になっています。

 そして、そのような解決を目指すには、3つの次元がそれぞれ必要なものを得られる必要があります。時には頭に取り組むのがベスト、時には心、時には肉体感覚ということです。
 

自分の中心に意識をしっかりもっているか

 あるアメリカ人心理学者がテレビで語っていた言葉が印象に残っています。

 それは、アメリカ人はたいがい自分の視点から外にいる他者を見るけれど、日本人には絶えず自分の外の視点から自分を見る人が多いというものでした。

 別の言い方をすると、アメリカ人は「自分がどう思うか」「自分がそれをやりたいかどうか」「自分がそれを好きかどうか」「自分は相手のことをどう感じるか」を意識する傾向にあるのに対して、日本人の多くは「相手はどう思うか」「自分がそれをやったとしたら相手にどう見られるか」「相手はどう感じるか」を意識する傾向が強いというのです。 

 私はこれを聞いて「なるほど!」と思いました。

 一方は、自分の中心に意識をしっかりと持った状態で、自分とは違う個人としての相手と向き合っている。もう一方は、自分のことは横に置いておいて、まず相手を中心軸にして物を見るわけです。

 私自身も元々、相手軸で物を見てしまう癖を持っていました。そうすると、意識の中身は相手のことでいっぱいになる。そして、そういった瞬間には実は自分の背骨には意識が不在になるんです。相手に憑依しているような状態なわけです。

 自分の背骨に意識をしっかり持っていない人が私の目の前に現れたとしましょう。たとえば、この人に「お茶とコーヒーはどちらがよろしいですか?」と訊くと、「先生のよろしいほうで結構です」というようなことを言います。「これを飲みたい」などと言おうものなら、身勝手だと思われるかもしれない。それは怖くて避けたいので、「どちらでもいい」と言う。「私には好みなどありません」と自己不在の表現をすることで、嫌われるのを避けようとします。

 これは、自分の背骨にしっかりと意識のない人のコミュニケーションです。

 アメリカ人に「お茶とコーヒーはどちらがよろしいですか?」と尋ねたら、ほぼ100%その人の正直な答えを誠実にストレートに答えてくれます。好みを言うことが失礼だという発想はそもそもないし、訊かれていることに答えるのが礼儀だからです。これは自分というものがしっかりとあることが前提の文化行動になります。

 「いや、相手の迷惑を考えるのは思いやりじゃないのか?」と反論される方もいるかもしれません。しかし、「お茶とコーヒーはどちらがよろしいですか?」と訊いてくれている段階で、どちらを出しても構わないから言ってくれていることを信頼しないのは変だと思います。日本人の多くは、「あのように言ってくれているけれど、本音は違うかもしれない」という不信感を持っているので、このようなややこしいコミュニケーションになるのです。素直でなく屈折しているんですね。

 もし相手への都合を思いやりたいならば、「コーヒーだと有り難いですが、大丈夫ですか?」と正直な返答と気遣いを両方表現するのがいいと私は思います。

 私も気をつけないと、時々自己不在になって相手の心理状態ばかり考えてしまうことがあります。そういうとき、「いけない、いけない」と我に返って、自分の背骨を中心にして意識をしっかり持つんです。自分の中心に意識を据えて、体の内側から外に向かって相手を見るようにするんです。

 自分の外に視座を置いて、自分がどう見られるか、どう思われるかを意識しないようにするんです。わざと。そして、自分を中心として、相手を見る。そして、相手にどう応えたいかを自分軸で選ぶようにするんです。そうすると、心が安定するし、相手との距離感も適切になるし、自分に自信が出ます。

 自己不在で相手中心にばかり物を見ていると、自信は喪失される一方です。たとえば、相手が自己中心的な人だったとしましょう。そうすると、この人は自分のことしか考えていません。私のことは考えてくれない。そこに私が自己不在だったら、彼も私も彼のことを考えていて、私のことを考えてくれる人はひとりもいないことになる。ふたりとも彼のことを優先している。すると、自分を大事にしてくれる意識はどちら側にも欠けているんです。なので、私は寂しく心細くなります。守られていない感じがします。自信が失われます。

 ですから、自己不在になりやすい人は、「相手が自分をどう見るか」「相手は自分についてどう感じるか」ばかり意識しているはずなので、そのバランスを変える意味でも、「自分は相手をどう見ているか」「自分は相手についてどう思うのか・どう感じるのか」を意識する時間を増やしていくといいです。そうすると、自分というものがはっきりしてきます。

 自分をしっかり持つことは自己中心的とか身勝手なことではありません。これは大きな誤解です。 

 自己中心や身勝手とは、自分のことしか考えないことであって、健全な人間関係というのは、しっかりとした自分を持った人同士が、お互いを尊重し合うことで成り立つものです。それには自分というものがなくてはならない。自分がないことは、相手に呑まれることであり、相手の奴隷になることであり、健全な関係性はそもそも築けないんです。

 あなたは自分の背骨に意識をしっかりと持って相手と向き合っていますか?
 

HEALING OF YOUR HEART 講座(3月18日)

HEALING OF YOUR HEART 講座

☆イベント内容
 多くの人は「頭の声」に従って「心の声」を聞いていません。すると「心」が痛んで来ます。自分を本当の幸せに導いてくれるのは「頭」ではなく「心」です。なので、「心の声」を聞けることは幸せになるためにはとても大事なことです。

 この講座では、感情の声を深く聞き、根底にある欲求を理解してあげるプロセスを体験していただきます。感情の奥にあるものを受け取ってあげたとき、ハートは元気を取り戻すのです。

 ご自分の心と深く対話してみたい方、是非ご参加ください!

☆日時: 2016年3月18日(金) 19:30~21:30
(20:30〜20:40は休憩)

☆場所: 菅波亮介のカウンセリングルーム
 →カウンセリングルームへの行き方、周辺地図
 
 金沢市本多町2-18-12

 思案橋バス停より徒歩1分。

 駐車場には限りがございます。お申し込みの際、お尋ねください。

☆定員: 10名様

☆参加費: 1000円(当日払い)

☆講師: 心理カウンセラー菅波亮介

☆お申込み方法: 菅波亮介までお電話かメールでお知らせください。
 連絡先はページ末をご覧ください。

☆キャンセル料
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プロフィール
菅波亮介(すがなみ・りょうすけ)

 
 1966年1月金沢市生まれ(50歳)。上智大学外国語学部英語学科卒。マサチューセッツ大学音楽修士。サンタモニカ大学スピリチュアル心理学修士課程前期修了。金沢大学教育学部元非常勤講師。日本プロカウンセリング協会認定1級心理カウンセラー。バイロン・ケイティのスクール卒業。
 現在は、面談と電話とスカイプによる心理カウンセリング(日本全国から受けられます)とスピリチュアル心理学セミナーを行っている。



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機能不全の感情を解いていくには

 「機能不全の感情」とは解決できない負のスパイラルに入っている「怒り」「悲しみ」「怖れ」「自己否定」と「執着」の感情のことです。

 たとえば、「人を思い通りに操りたいと思わずにはいられない」「ドラッグをやらずにはいられない」「自分を責めずにはいられない」「寂しくて寂しくて、誰でもいいから傍にいてくれる人を求めずにはいられない」「病気になるほど食べずにはいられない」などです。

 これらがなぜ「機能不全」かと言うと、それを満たしたからといってなくなるわけではないからです。 

 健全な感情は、健全な欲求の表れなので、満たしてあげたらマイナス感情が消えます。

 たとえば、健全な食欲なら、適当な量の食事をとれば安らかになります。苦しみはない。

 けれど、ドラッグや過食症というのは、何らかの安らぎとか苦しみからの解放を求めてされるのですが、ドラッグをやっても、過食をしても、満たしたいものは満たされないままなのです。

 なぜこういうことが起きるかというと、その人が「本当に何を欲しているのか」が分かっていないからなんですね。そして、本当に欲しいものを意識するのが怖くもあるんです。というのは、本当に欲しいものが得られない苦しみを長い間味わってきているから、「これが欲しかったの」と認めることは、一番痛いところを通ることになるからなんです。

 本当に欲しかったものを認めるのが怖い。だから、それが得られなくて辛かった痛みには蓋をしたままでいたい。そうすると、根本解決はできません。できないから、代替物で満たそうとするんです。

 本当は愛情が欲しい。けれど、それを認めたらお終いだ。だから、代わりに甘い物を食べることで紛らわしているんです。だけど、どれだけ甘い物を食べようが愛の欲求は満たされないまま。だから負のスパイラルに入るんです。

 機能不全の感情に悩まされている人は、自分の苦しみの核心にまだ触れていない人です。本当に欲しかったものと隔絶されている人です。

 愛の欲求には愛を、栄養の欲求には栄養を、自由の欲求には自由を、理解の欲求には理解を与えてあげたときに満たされて感情は安らかになります。ところが、自由の欲求に対して食べ物を与えたり、自律の欲求に対してアドバイスを与えたりしても欲求不満は癒えません。

 必要としているものを間違えると、心は病んでいきます。そして、満たせない苦しみが山積して、解決できない絶望へと向かいます。混乱状態です。

 こういう人がドラッグをやり、過食症になり、リストカットをします。感情の奥にある欲求を理解できない状態なのです。

 ではどうするか?

 機能不全の感情のエネルギーにしっかりと繋がって、大元を辿っていく作業をします。

 本当に欲しかったものを見つけて、しっかりと自覚するのです。そして、本当の欲求を救い出してあげるのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 たとえば、「相手を支配せずにはいられない」「ちょっとでも自分の思いに逆らったら激怒する」という人を例にとってみましょう。

 大事なことは「こんな風に感じてはいけない」「ああ、またやってしまった」と拒絶しないこと。まずは、「支配せずにはいられないには、それなりの理由があるんだ」ということを理解する。そして、その理由を理解しようとして感情と対話をしていくのです。決して感情と敵対してはいけません。

 では、感情の奥へ奥へと入っていって、根源にある欲求を発見する旅に出ましょう!

 「相手を支配したい」「自分の思い通りに何でも従って欲しい」という願望をもつには、それによって満たしたいものがあるからです。それを感情に尋ねます。

 「そっかあ、あなたは相手を思い通りに支配できたら嬉しいんだね。ところで、そのように支配できたら何が満たされるの?」と奥を聞いてみる。

 そうすると、「相手は自分を見捨てないと思える」と浮かんで来た。

 「ああ、あなたは自分を見捨てない人が欲しいんだね」と共感を伝えます。

 さらに続けて、「自分を見捨てない相手だと分かったら、それはあなたの何を満たすの?」と尋ねます。

 「誰かと繋がっているんだと思える」と出てくる。

 「ああ、あなたは誰かと繋がっているという実感が欲しいんだね」と共感を伝えます。

 ここまで来ると、感情のルーツにまで到達しています。「繋がりという欲求」なんですね、根底で働いているのは。

 この「繋がりの欲求」を頭で概念的に理解するのではなく、肉体感覚の中でしっかりと味わうことが大事です。「欲求」は概念ではなく、生きたエネルギーであり、その躍動を感じることが何よりも大事です。「欲求」は知的・分析的にのみ処理してはなりません。「欲求」を肉体の中でしっかりと実感することにとって代わるセラピーはないのです。感じることが最も大事だと強調しておきます。

 ここまで来ると、この人は長い過去に「繋がりの欲求」が満たされずにずっと来たという事実を実感します。そして、その感情の痛みが噴出してきます。

 「繋がりが感じられなくて辛かったよね」と言ってすべての痛みを受け止めます。涙が出ます。

 ひょっとして、両親と心が繋がれなくてずっと辛い幼少期だったのかもしれません。その感情の膿を全部出すのです。そして、「繋がりを感じるって本当に大事だよね」と欲求を肯定してあげる。大事にしてあげる。そうすると、心が修復していきます。

 心が繋がれない人ばかりに囲まれて育つと、心が見捨てられたように感じます。とても寂しい。食事は出してくれるしおもちゃは買ってくれるし学費は出してくれるかもしれないけれど、感情を否定せず深く聞いてもらえたことがない。そうすると、この人は深い深い孤独を感じて育つことになります。

 「心の繋がり」というすべての人間にとって重要な欲求が慢性的に不満のまま大きくなるのです。

 これが意識できないと、屈折した方法で満たそうとしてしまう。その1つの表れが、「自分の言うとおりにしない相手を許せない」という感情なのです。「自分を見捨てようとする人を許せない」という感情なのです。幼少期と同じ経験を避けたいと強ばっている心がそうさせています。

 機能不全の感情から自由になるには、その根底にある辛い体験とその時に蓄積した痛みを出してあげなくてはなりません。そして、満たされなかった欲求を救い出し、「これは大事なんだよ」と肯定し救出する必要があるのです。

 「繋がる欲求」が救出され、感情の痛みが癒された人は、屈折した方法でそれを満たそうとする無意識の脅迫的衝動に束縛されることがなくなります。まっすぐに、素直に、健全な欲求を満たす方法を見つけていけるのです。
 

「感情」を「普遍的欲求」から紐解く

「苦悩を解く」=「マイナス感情を解く」

 人間の「苦悩」があるところに、必ず「感情としての苦しみ」があります。

 感情が穏やかで安らかで、「苦悩」があるということはない。

 つまり「苦悩する」とは「マイナス感情に苦しめられる」ということに他なりません。

 ということは、「苦悩を解く」ということと、「マイナス感情を解く」ということは全く同じことなのです。「マイナス感情から自由になる」ことは、即「苦悩から自由になる」ことを意味しているわけです。 

「マイナス感情を解く」には3つの方法がある

 そもそも「マイナス感情」になぜなるかと言いますと、3つの原因があります。

 第1に、欲求が満たされていないから、というものがあります。「感情」は欲求が満たされたときにプラスになり、満たされないときにマイナスになるのですが、満たされない状態が持続すると「感情の痛み」となるわけです。

 第2に、相手や状況や自分というものをどのように認識するか、という「認知」の部分において、「マイナス感情」を持続させてしまうような「意味づけ」をしているから、というものがあります。感情というものは、「物の見方」に大きく影響されるものなのです。

 第3に、他者の悲しみや怒りなどのマイナスエネルギーを感じたときに、それを分かち合おうとして内部に取り込むから、というものがあります。部屋の植物が、住人のマイナス感情を吸い取って枯れていくのは、苦しみを分かち合おうとしているからです。また、胎児が母親の悲しみや怖れを吸い取って潜在意識に溜め込むのは、母親の苦悩を何とか減らしてあげようとするからです。このように、私たちが「マイナス感情」に苦しむとき、それが他者の感情から来ている場合もあります。

 さて、「マイナス感情」になる原因が3つあるのですから、対処法も3つあることになります。

 第1の場合には、満たされない状態で固定している「欲求」を回復させてあげます。

 第2の場合には、心が痛むような「意味づけ」を変更して、よりプラスの「意味づけ」を創造していきます。

 そして第3の場合には、他者から取り込んだ感情を解放してあげます。 

 実際には、この3つが複雑に絡み合って苦しみを形成していることもあるので、必要に応じて3つの方法を使い分けることが大事です。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 さて、ここからは第1の方法、つまり満たされない欲求によって感情の痛みが持続している場合の対処法についてお話しいたします。第2と第3の方法については、別の機会に譲ることにいたします。

「感情」の源は「欲求」である

 この場合で大事なのは、「感情」を「欲求」との関連において紐解いていくことです。そして、これはハートの中心へ向かって中へ中へと探求を進めていくプロセスでもあります。

 「感情」は、その奥にあって見えにくい「欲求」の表れなのですが、多くの人は最奥で動いている「欲求」の存在に対して無自覚です。木に喩えると、幹は見えているけれど根っこは見えていない、ということです。すべての「感情」は、心の根っこである「欲求」から発生しているので、「感情」を本当に理解するには、根底にあるどんな「欲求」がその「感情」を動かしているのかに気づく必要があります。 

 「欲求」こそ本当に最も大事にしたいことの本質であるのですが、そこから派生した「感情」にしか目が行かないことで、本来の目的を見失った「感情」に悩まされ、解けないことになってしまいます。

 言い換えると、「欲求」こそが本来の目的であり、その目的を成就させるための手段として生じたのが「感情」なわけです。ところが、多くの人は手段ばかり見て、目的を見失うことで、「感情」から束縛されてしまう。ですから、手段である「感情」を、本来の目的である「欲求」へと返してやることで、「感情を健全化しなおす」という作業を行う、と私は考えています。

 もう1つ別の比喩を使いましょう。「欲求」とは絶え間なく湧き出る清い泉のようなもの。そこから、小川になったのが「感情」。ところが、小川が泉と断絶してしまうと、常に清い水が流れ込めなくなります。そうすると、水が淀んでくる。そう、「痛んだ感情」とは、泉から断絶されて淀んでしまった「不健全な水」のようなものなのです。ですから、小川を泉ともう一度繋げてあげればいい。そうすれば、小川の水は清い水へと戻ります。それが「感情」をそもそもの源である「欲求」へと返してあげるというプロセスになるのです。 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

自分の感情をきちんと捉える

 感情に取り組む以上、自分の感情が何なのかを理解していることが前提となります。ところが、感情のボキャブラリーを使える人はそれほど多くありません。そこで、感情の言葉をまずは見ていきましょう。

①嬉しい・満足だ(満たされたときに感じるプラス感情)

 他に、ほっとする、ワクワクする、安らかだ、希望を感じる、できそうな気がする、温かい気持ちがする、など。

②怒っている(満たされないときに持つ攻撃感情)

 他に、イライラする、フラストレーションを感じる、恨んでいる、妬んでいる、憎たらしい、など。

③悲しい(満たされないときに持つ悲嘆感情)

 他に、がっかりする、傷つく、淋しい、絶望する、孤独だ、など。

④怖い(満たされないときに持つ不安感情)

 他に、心配だ、不安だ、疑っている、など。

⑤自己否定(満たされないときに持つ自己嫌悪)

 他に、無価値感、罪悪感、不足感、無能感、など。

自分の苦悩を「感情」として捉える

 「夫は家事を手伝ってくれない」というのは状況説明であり思考です。ここには感情は表れていません。

 「夫が家事を手伝ってくれないとき、自分は何という感情を感じているのか」と問います。

 そうすると、「腹が立っている」と出てくる。自分は「怒っているのだ」と認識する。

 自分が苦しいのは「夫が家事を手伝わないから」と思っていると心理的問題は解決しません。自分が苦しいのは「怒りがあるからだ」と捉え直すと、心理的問題を解決する方向へ前進します。

 解決すべきは「怒り」なのです。

 たいていの人は、ここで、「怒りがあるのは、夫が手伝わないからだ」と考えます。「夫が悪い」「夫が怒りの原因である」と理解するのです。なので、自分が怒りから自由になれるのは、夫が変わって、手伝うようになった場合のみであると解釈します。そこで、夫に変わってくれるよう執拗に迫るという戦術しか思いつかないのです。

 この現象は、「自分の感情を相手のせいにする」と呼ばれています。「相手は私に怒りを生じさせている」のだから、「怒りの責任をとるのは相手だ」という論法です。

 ところが、ここには欺瞞があるのです。その欺瞞が見えるためには、「怒り」が生じるメカニズムを自分で理解していく必要があります。

 そこで、「怒り」をどうすればいいのか、という即答を求めずに、まずは「怒り」の正体を自分でよく見極める作業をして頂きます。「怒り」の奥にある根っこまでの探求の旅をご一緒にしてまいりましょう。 

「感情」は「何を求めているのか?」を問う

 さて、この怒っている妻に、怒りと対話して、どうなったら満足なのかを聞いてもらいます。

 そうすると、「家事を手伝ってくれたら満足だ」と言うでしょう。

 皆さんにも明白なことでしょうが、怒りが求めているのは「夫が家事を手伝ってくれること」に違いありません。ところがです。これは、「本当に欲しいもの」ではないのです。 

 もうしばらくお付き合いください。心の奥をもう少し探っていきますね。

 この妻の心の中には、「なぜ」手伝って欲しいのかという、もっと深い理由が隠れているんです。言い換えると、この女性にとって、「夫が家事を手伝ってくれるということが、どういう意味を持つのか」ということなんです。

 それを探るために、私は彼女に次のように問いかけます。

 「もし、夫が家事を手伝ってくれたら、何が満たされるのですか?」

 この女性は、しばらく黙っています。すぐには答えが浮かばないのです。そこで、自分の心の奥と対話することになります。

 そして出てきた答えは「自分を大事に思ってくれているんだなと思える」でした。

 「夫が自分のことを大事に思ってくれている」と感じたい。これは「愛されていると感じたい」というのと同じです。「愛の欲求」なのです。

 この女性が心の底で欲していたこと、それは「愛されていると感じること」だったんです。ということは、普段の生活で彼女は夫に愛されているという実感がなかった。そして、「愛の欲求」が満たされていなかったんです。彼女の心の叫びは「あなた、私のことを本当に大事に思ってくれているの?」だったわけです。それが、「家事を手伝って欲しい」という形(具体的要求)になっていたに過ぎません。

 彼女は、夫が家事を手伝ってくれさえすれば、「それは彼が自分を愛している証だと思える」と考えたのです。無意識ではありますが。

 ところが、「家事を手伝う手伝わない」というレベルで夫と対話しても、心は伝わりません。感情の奥にある「愛の欲求」がテーマになっていないので、夫は「なぜ自分が家事をしたくないか」という理由を説明するだけに留まるかもしれません。心の奥からの会話が成立しないのです。

 つまり「家事を手伝って」という要求は、自分の心の奥までを表現できていない、いわば表面的なやりとりなんです。本当にテーマとすべきは、「夫が自分を大事に思ってくれているのか」なのです。そして、それに気づけるためには、妻が自分の感情を、その根っこにおいて把握している必要があります。自己理解が重要である所以はここにあるのです。 

 次の2つの会話を比べてみてください。

 ①「ねえ、もう少し家事を手伝ってよ。私だって大変なんだから。どれだけお願いしてもあなたやってくれないわよね。なんでなのよ!」

 ②「私はあなたに愛され大事にされていると感じたいのだけど、そういう実感がないの。たとえば、家事をあなたは手伝ってくれないわよね。そういうとき、私はあなたが私のことを大事に思っているのか分からなくなって寂しく感じる。ひょっとして、あなたはあなたなりの方法で私を愛してくれているのかもしれない。けれど、問題は私の愛の欲求が満たされていないことなの。あなたが私を大事に思ってくれているなら、それをちゃんと理解したい。そして、私が愛されていると感じるために私が必要なことを伝えたいの。すれ違っているだけかもしれないからね。ここまで私が言ったことについて、あなたがどう感じるか教えてもらえるかな?」

 ①より②が遥かに深いことがお分かりでしょうか?

 「感情」を表現するとき、その根底に息づいている「欲求」そのものに気づけていると、とてもパワフルなコミュニケーションになります。また「欲求」を表現すること自体には、相手への攻撃も自分への攻撃もありませんので、深くてパワフルだけれども、否定的要素のない極めて肯定的な表現になります。

「欲求」は「特定願望」より深い普遍的なもの

 「自己実現したい」は「普遍的欲求」であり、すべての人間に当てはまることですが、その手段として願う「東京外国語大学に行きたい」などの「特定願望」には個人差があります。

 自分が欲していることが「普遍的欲求」なのか「特定願望」なのかを見極めるには、「それはすべての人間が望むことか?」と問うだけでOKです。すべての人間に当てはまるレベルにまで到達できたら、それは普遍的レベルです。

 個人差があるレベルで願望を捉えているときには、まだハートの最奥まで到達していないと考えてください。個人差のある願望は、必ず、さらに奥にある人類共通の欲求を満たすために望んでいる事柄です。願望する事柄は、それが何であれ、無形の心(普遍的欲求)を満たすための有形手段なのです。

 たとえば、「彼女には家にいて料理をして欲しい」というのは「特定願望」です。「彼女がもし家にいて料理をしてくれたら、何で嬉しいのか? 何が満たされるのか?」と問うてみる。すると、「彼女が僕のためにそこにいてくれていると感じられる」と出てきたとする。これは先ほどより深いけれど、また普遍的レベルにまで到達していない。なので、さらに問う。「彼女が僕のためにそこにいてくれていると感じられたら、それは何を満たすのか?」と。すると、「仕事に専念できる」と浮かんだ。さらにそれは「自己実現できる」に繋がった。つまりこの男性にとって、彼女が家にいてくれること、料理を作ってくれることは、生活のそのような側面を気にせずに、社会における自分の役割に専念して自己実現を果たす為になくてはならないサポートなんですね。

 この男性が満たしたい欲求は「自己実現へのサポート」です。これはすべての人間に当てはまることだということがお分かりでしょうか。

 ここまで自己理解ができたら、「僕が必要としていることは、外で自分の仕事を通して自己実現ができるように、家のことは心配せずに任せられるパートナーがいることなんだ。家にいてくれて、料理を作ってくれることは、僕にとって自己実現への不可欠なサポートなんだ」と伝えられます。

 このように、普遍的欲求のレベルから自己表現ができるということは、心の中心から真っすぐに本質を相手に伝えられるということに他なりません。そして、それは誰をも否定することのない、絶対肯定の次元からなされる自己表現であり、極めてパワフルなものです。

 多くの人の対立においては、最奥の無形の本質まで紐解けていない状態で、有形の表面的なレベルでのやりとりに終始してしまい、形と形のぶつかり合いになってしまっています。

 形の背後にある無形の心が伝わり合わないので、対立はなかなか解けず、競合的になる傾向にあります。

 感情と感情のぶつけ合いになってしまうのです。

 感情と感情をぶつけ合っても解けない対立の場合には、さらに奥にある欲求(普遍的レベル)をまずは自分が理解し、それを伝えるように工夫すること。そして、相手の感情の奥にある欲求(普遍的レベル)をも受け取ろうとする姿勢が大事です。

相手に欲求を満たしてもらうことを求めるべきか

 精神的に成熟していくにつれて、それまで他人に満たしてもらなくてはならなかった欲求の多くが、自分自身で満たせるようになります。

 たとえば、承認欲求は最初、周囲の人から認められることで満たすしかありません。幼い子供は、親や先生や仲間から認められることでしか、自分が良い存在なのだと感じることができない。そういう意味で、周囲が承認欲求を満たしてくれることに依存しています。

 心理的に成長するに従って、たとえ周囲が承認してくれなくても、自分のことを自分で承認できる人へと変わっていきます。そうすると、社会の大部分が理解を示してくれないような仕事に対しても、「これは価値があるんだ」と思って邁進できる。そういう自分を誇らしく思うことができる。これは成熟した人の精神的特徴です。未熟な人は、周囲が反対したら、自分を信じて突き進むことができません。周囲の精神的サポートがなくては、自分で自分を支えることをまだ覚えていないからです。

 ですから、欲求が不満になったとき、それを相手に変化を求めるべきかどうかという重要な質問への答えは、「それはその人の成熟度による」としか言えません。

 自分の成熟度に合った人間関係しか、我々は築けません。ですから、相手に満たしてもらいたいことは、満たしてもらいたいと正直に誠実に表現すればいいと私は思います。

 しかし、相手にどれだけ頼んでも満たしてもらえない。また、他に満たしてくれる人が見つからないというとき、私たちはその欲求を自分で癒し、満たす方向へと成長する道もあります。

 周囲に承認されるほうが楽に生きられるけど、承認を受けられない環境もあり得ます。そういうとき、辛いけれど、自分で自分を承認するという心の働かせ方をすることで、精神的に自立していくのです。

 周囲から愛を得られない場合も同じです。愛の欲求が満たされない痛みを、「愛されたいんだね」と寄り添って理解してあげる。自分自身の「愛の欲求」に対して、「よき理解者」となり、自分が自分を大事にすることで、「愛の欲求」はプラスになり元気になります。

 実際は、どれだけ孤独の人であっても、周囲の人間の思いやりや親切や奉仕を受け取って活かされている部分が必ずあるものであり、完全にひとりで生きている人はいません。ですから、程度問題なのですが、周囲に愛を求める度合いを低めて、自分自身で自分を愛していく方向に心を使う。また、自分から他者を大事にする、愛する方向で心を使う。それによって、自分の深い欲求が満たされて、心は元気になることができます。

「普遍的欲求」を認識することのパワー

  多くのクライアントの苦悩に向き合ってきて思うのは、外の状況や過去の出来事が変わらなくても、「苦しかった理由」が深く共感されたとき、感情は健全化していくということです。

  たとえば、幼少期に父親に厳しく育てられ、自分の気持ちを否定され、共感されなかったと感じている人がいたとしましょう。そうすると、この人の中では「共感の欲求」が満たされなかったマイナス感情が未解決のまま横たわっています。

 こういう場合、そのときの辛かった気持ちをとことん聞いてあげます。「お父さんに気持ちを否定されたように感じたんだね」「傷ついたんだね」と。

 そして、「どのように父親にはして欲しかったのか」、そして「それは何の欲求なのか」に焦点を当てていきます。

 「気持ちを否定されず共感されたかったんだね」という風に、根底にある人類普遍の欲求レベルでこの人の辛さを受け止めたとき、大部分の人は雪崩のように涙を流されます。そして、スッキリするのです。心につかえていた痛みが共感と愛によって癒され、解放されるのです。

 なぜこうなるかと言いますと、「感情」というものは、その核心とも言える「欲求」、つまり本当に欲していることが理解してもらえたと感じたとき、「ああ、とうとう私が大事に思っていることをあなたは理解してくれた、受け止めてくれた」と感じて、思いが成就するのです。

 お父さんに共感してもらえなかったという出来事が変わらなくても、誰かが「共感してもらいたかったんだよね」「共感されることがあなたには大事だったんだよね」と深く受け止め理解してあげられれば、その不満の痛みは消え去るのです。

 よって、不満の体験が人を苦しませるのではなく、不満の本質を理解してあげないことが苦しみを永続させるのだと私は思っています。

 「なぜ苦しかったのか」という根底のレベルで心に耳を傾けることができたとき、不満の結果として生じたマイナス感情は目的を成就させて消え去っていくのです。

 ですから、感情的痛みを解くには、根底にある「普遍的欲求」を掘り当て、「これが大事なんだね」と肯定してあげる作業がとても大事です。

 心にとって大事なことを「大事だ」と分かってあげること。これが何よりも癒しになるのです。

 よって、不満(欲求が満たされないこと)を解消するには、満足させてあげなくてはならない、と考えるのは過ちです。

 満たされなかったままの状態で放置されている「欲求」を、まずは理解してあげ、大事に大事に扱ってあげることによって、感情は回復するのです。

 私はこれを「欲求救出による感情回復のプロセス」と呼んでいます。

 

すでに完全なる秩序がある

 私たちはすでに完全なる秩序の中で生きているのですが、多くの人はそれが見えないため、無秩序の宇宙の中で無理をして自分の願望を叶えるために格闘するという生存方法をとってしまいます。

 完全なる秩序があるとはどういう意味か。

 それは、細部に渡るまで起きていることには必然性があり、あらゆることは全て有機的に繋がっているということです。 

 経験しなくていいのに経験させられるということもないし、会わなくてよい人に会うということもない。

 受け入れられない体験や理解できない体験が起きたとき、悩んだり苦しんだりするのは、その秩序や意義が見えないからであって、起きたことに問題があるのではありません。

 私たちはこのようなとき、常に秩序と意義を発見する方向に進み、その体験を受け入れられる方向に成長すれば、苦悩は解かれ、愛と智慧において進化していくことができます。

メンタル(知的)な生き方 vs. イントゥイティブ(直感的)な生き方

 宇宙の生命と私たちの生命はバラバラではなく「ひとつ」です。宇宙の生命は私たちを通して展開しています。

 頭で考えて把握した物差しで生きようとすると、この生命の自由な動きは収まりきれません。ですから、理性を超えて、瞬間瞬間にエネルギーが満ちるものを頼りに生きるのがベストです。

 マインドは過去の体験から集めたデータで判断を下します。ですから、常に過去に縛られます。私たちを通して瞬時瞬時に生起する生命エネルギーは、常に新しいものであり、過去に限定されないため、マインドの縛りには馴染みません。 

 たとえば、学校の授業を考えてみましょう。いつもノートを読むような決まりきった授業をする先生はつまらないですよね。空気が死んでしまう。生命力がない授業なんです。それに対して、瞬間瞬間に生徒とのやりとりを通して、アドリブ的に授業をする先生はおもしろいですよね。臨場感があるというか、即興的なんです。

 即興的ということは、その場その場の生徒の思いを受け取ってそれに応えているわけです。

 予め決められた授業内容というのは、その場にいる生徒の思い、その日の調子などを完全に無視して、その場の生命とは関係のないところで決められたアジェンダ(事項)に従ってされる不自由なものです。だから、生命力に乏しいしつまらない。

 先生が直感に従って授業をするということは、その瞬間瞬間で、「これを言いたい」「この話をしてみたい」と浮上してくるインスピレーションに開かれているということです。

 そして、このインスピレーションは、生徒も含めた総合的エナジーフィールドから生じてくるものです。つまり、全員のニーズから非理性的に、かつ有機的に生じてくる生命の躍動に素直であるわけです。

 友達とおしゃべりをしているとき、「あ、そういえば」なんて言って話が脱線する。けれど、それが盛り上がるんです。それがちょうど、そのときに話すべきことなんです。だって、一番エネルギーがある話題なんですもの。なぜ、それを話したくなったのか、なんて分析しなくてもいい。ただ、「これを話そう」と思ったとき、ワクワクした。話したくなった。それで十分。話したくなった、というほど心のエネルギーがそこに向いたということは、理由は分からなくても、それが全員にとって最もニーズを満たすものであることを意味しているんです。

 さて、ピアノの演奏でも同じことが言えます。先生に言われた通り、練習した通りに弾くピアノ演奏ほどつまらないものはありません。エドウィン・フィッシャーが言っていたように、音楽の演奏で最も大事なのは即興性なのです。ロック・ミュージシャンやジャズ・ミュージシャンはその真理に忠実ですが、クラシックとなると真面目になり過ぎる傾向にあります。でも本当は同じなんです。

 聴衆と演奏者の生命エネルギーが力強く交流し、互いの生命力が高まるような演奏になるには、演奏者は瞬間瞬間に「こう弾きたい」という新しい衝動に開かれていて、それに素直に従えるだけの自由さがなくてはなりません。でないと、過去のノートを読んでいる授業のように、つまらない演奏になります。 

 実は、カウンセリングも同じです。

 カウンセリングも極めて即興的で創造的なプロセスです。瞬時瞬時に開かれていなくては効果的なカウンセリングにはなりません。

 クライアントを前にして、私が何となく聞きたくなる質問、何となく指摘したくなる相手の特徴や癖、何となく勧めたくなる心理療法、何となく言ってみたくなること。これらの衝動にいつでも気づけるよう、私は内的に大きく開かれたスペースを保ちます。

 相手を前にして、私はどんなエネルギーになるか、どんな感情が湧いてくるか、どんな言葉やイメージが湧いてくるか。こういったことは、相手の悩みと有機的に繋がっていますので、意味があるものとして大事に扱います。

 このように直感的にクライアントと関わっていくと、クライアントは深いところで変容していきます。深い癒しや気づきが起こってくるので、「ああ、やっぱり意味があったんだ」と確信を得ます。

 占星術やタロットのリーディングにおいても、シンボルの意味を知的に記憶して、知的にメッセージを組み立てるのではなく、最も内面にエネルギーをもって現れてくる言葉やイメージや意味を信頼して、最も言いたくなることをただ話しているだけで、相手に最も必要なことが起こってきます。

 分析的にリーディングをするのではなく、あくまでその場とその人に特有のメッセージというものは、リーダーの中に刺激されてくる「最もエネルギーを携えた事柄」なのです。そして、これはあくまで非理性的なことです。

 非理性的なのだけれど、私たちの意識はすべて「ひとつ」に繋がっているため、最も確実に相手にとって有意義なことなのです。頭の知性の限界を超えたエネルギーの動きを察知して行動することで、相手と自分が有機的に有意義的に繋がった次元から、相手にメッセージを伝えることができます。

 私のところに来られるクライアントさんたちは、すべて私と出会う必然がある方たちであると理解しています。何のために出会うのか、それは予め分かりません。しかし、何らかの必然的ニーズがあって出会っているのです。

 そして、セッションがそのニーズに十分応えるものであったとき、お互いに満足や充実感があります。その目的が達せられたという実感です。

 その目的が達成されるためにも、私は自分の中に生じてくるあらゆる衝動や感情やイメージに注意を払います。自分が言いたくなること、してあげたくなること、聞きたくなることに素直に従います。そして、相手の反応を受け取ります。そのキャッチボールの中で、最も的確に、互いに必要なことが生じてくるようです。

 マインドで予め決めた事項を実行しているのではありません。瞬間瞬間に、最も生命エネルギーが動きたがっているものに従うのです。

 これは生き方そのものでもあります。
 

自分の力をきちんと所有することについて

 自分の人生に責任をもち、自己実現していくには、自分の力(POWER)を他者に明け渡すことなく、正に自分自身のものであると認識し、それが脅かされたときには所有権をきちんと主張し、行使する責任を果たさなくてはなりません。

 本来は個人に属している力(POWER)でありながら、それは「親に属している」とか「夫に属している」とか「会社に属している」と教えられて、それを信じ込んできたために、それらの他者に明け渡してしまっていることがあります。

 自分の力を削がれている状態を disempowered(ディスエンパワード)と言います。それに対して、自分の力を認識し、所有し、行使することで、活力に溢れた状態を empowered(エンパワード)と言います。

 たとえば、女性は結婚したら夫に従いなさいという教育が人類史上あちこちでなされてきました。意見が食い違ったり、価値観がずれていたら、妻は夫に決定権を渡すべきであるとする考えです。こういう世界観においては、女性は力を剥奪されており、正に disempowered な状態です。

 女性も夫と対等に話し合い、二人で交渉をして決定をしていくという考えのもとでは、女性はその力を明け渡す必要はなく、empowered な状態です。

 親の承諾なく結婚してならないという世界では、カップルは自分の意志で結婚する権利を認められていません。これは disempowered な状態です。親の承諾がなくても、本人同士が結婚したいならしてもよいという世界では、カップルは empowered です。

 さて、個人として成熟していくには、自分の力をきちんと所有することが大事ですが、これには責任が伴います。力を相手に譲渡している状態は、ある意味楽なのです。というのは、自分で決めなくてもいいので、決定の結果への責任も相手に背負わせることができるからです。

 結婚相手を親が決めてくれなら、幸不幸は親に責められます。ですから、自由はないけれど、自分が成熟している必要はないので、ある意味楽なのです。

 反対に、自分の力を主張すればするほど、その結果責任を負えるだけの自律性・自立性・成熟が必要とされます。責任を負わず自由だけくれ、という訳にはいきません。

 私たちは成長過程において、自分の力をどれだけ所有するか、という点において選択肢があります。責任がとれないなら、他者に委ねる手もあるのです。他者の判断に頼って生きることがダメなわけではありません。ただ、委ねるからには、委ねた責任はとらなくてはなりません。委ねるということは、コントロールすることを放棄しますということです。放棄したなら、相手の決定に文句は言えません。文句があるなら、自分で力を所有しなくてはなりません。

  empowered な生き方をするということは、すべて自分でやるということではありません。自分の意志で「これはあの人に任せよう」「あれはこの人に頼ろう」と決めてもいいのです。これは disempowered な状態ではなく、むしろ自分が納得した上で役割を依頼するのですから、自分の力を積極的に行使していることになります。

 問題は、自分が気づかないところで、「これは自分が決めてはいけない」という思い込みに縛られている場合です。

 たとえば、「夫がセックスを望むなら妻として断ってはいけない」「親が反対した職業には就くのは親不幸だ」「医者が勧めた薬は断ってはならない」などと深く信じ込んでいる人は、自由に生きることができません。そして、それとは反対に「自分がイヤなときはセックスをしないことで自律性を保ちたい」「自分がやりたいと思う職業に就きたい」「自分が納得した治療だけを受けたい」という、人間としてはごく自然な欲求が頭をもたげてきたときに、心理的葛藤に悩むこととなります。

 このように、深く内在化してきた価値観と、その解放を通してのみ実現できる自己実現の衝動がぶつかるとき、当人は「自らの力を所有するのかどうか」という問いかけを人生から受けているのです。その問いにどのような答えを出すのかによって、その人の生き方が決定されます。

 最終的には、誰しも、自分の了解なくして力を明け渡すことはできません。ですから、disempowered な状態にある人は、自分が disempowered であることを他者のせいにすることなく、自分の力を再所有する方向へと自分を導く責任があります。それは他の誰にもできない尊い仕事なのです。
 
あなたの同意なしに誰もあなたのパワーを奪うことはできない
 

苦しい人に私がする3つのこと

 苦しんでいる人に私がすることは、3つあります。

 まず、苦しんでいる人は「からだ」に重たいネガティブなエネルギーが巣食っていますので、それを動かして心身から外へ出してあげます。「からだ」の中が暗くて重たいエネルギーのままだと、考え方だけをプラス化しようと思っても難しいし、心の声も聞きにくいのです。

 2つ目は「心(ハート)」の傷ついている部分に愛と共感を送って癒すことです。これは感情中心のセラピーになるのですが、お話を心を込めて聞き、気持ちの根底にある満たされなかった欲求を根っこのレベルで受け止め、感情の痛みの核の部分に温かい共感と愛のエネルギーが届くようにします。そうすることで、「心(ハート)」が修復され情的な元気さが取り戻せるのです。

 3つ目は「頭(マインド)」に関わることです。苦しんでいる人は考え方がマイナスに傾きがちなので、悲観的な考え方、自分を責める考え方などでいっぱいになっている人が多いのです。考え方自体が苦しみを永続させてしまうので、プラスの見方や心理的姿勢を採用できるようにガイドします。 

 このように「からだ」「心」「頭」の3つのアプローチを組み合わせて、苦しみの解決を目指します。

 「からだ」「心」「頭」が必要としていることは、それぞれ違います。ですから、「からだ」つまりその人の磁場にマイナスエネルギーが付着しているような場合、「心」と「頭」に働きかけても無駄です。エネルギーを除去してあげなくては苦しいままです。また、「心」に情的傷がある場合、エネルギーの除去とか認知の改善という方法では苦しみはなくなりません。愛と共感によって、傷にヒーリングエネルギーが届くことが何より重要なわけです。そして「頭」が抱えるマイナス思考やマイナス意図やマイナス姿勢というものが問題を悪化させている場合、改善を阻んでいる場合、どれだけ愛のエネルギーを送ろうが、どれだけ体のマイナスエネルギーを解除してあげようが、その人の意志で苦しみを生じさせ続けてしまいます。ですから、そういう場合には思考・意図・姿勢という領域に取り組むことが最も効果的なのです。

 苦しみは「からだ」「心」「頭」という3つのシステムがそれぞれ違った役割を担いつつ継続させているという事情があるので、解決に向けて必要なことを3方向から個別に判断して対処するようにしています。

生きているだけで褒めてあげよう

 人間として地上で生きていくのは大変なことなんです。

 天国にいたほうが楽なんですよね。病気もないし、基本的に死ぬことはないし、真理を見失わないし。でもね、天国にいると成長がないんですよ。同じレベルで1000年いることだってあるんです。

 それで、勇敢な魂はですね、地上に人間体験をしにいくぞって決意するんです。

 え? あんなとこ行くの? 辛いよ。やめとけやめとけ、なんて言われて。

 地上というところは、光と闇が半々で、怪我したら痛いわ、死ななきゃいけないわ、思いが成就するのに時間はかかるわ、叶わないことだってあるわで、辛い思いをするんですよ。

 でもね、人間体験を通るとものすごく魂が伸びるんです。地上体験をしなければ達成できないような進化がある。だから、地上は厳しい学校のようなところ。集中特訓コースみたいなものですよ。その厳しいコースに皆さんは志願して来ているわけなんです。

 ですからね、地上に生まれてきて、まだ死なないで生き延びているだけで偉いんです。天国でぬくぬくコタツに入って心配なく生きてるんじゃなくて、失業あり台風あり病気あり失恋あり怪我あり倒産ありのこの世で、まだ死なないで生きているんでしょ? それは表彰ものですよ。

 人間として生きるって結構負荷が大きいんですよ。何もしてなくても、空気吸わなきゃいけない。おトイレに行かなきゃいけない。食べ物を毎日口にいれなきゃいけない。それは大変です。加えて姑がうるさい。子どもは泣く。夫は失業だ。セックスレスだ。悩みは尽きない。ああ、ご苦労さま、と手を合わせたくなります。

 いじめや妬みや不安や世間体の渦のなかで、うつにならない方がおかしいですよ。うつになる人は正常なんです。だって暗いことだらけですもの、この世は。人生の1年や2年絶望するぐらいで正常なんです。

 魂の中にはね、この世に降りた途端、つまり赤ちゃんとして出てきた途端、「あ、ここ無理」と思い直して死んじゃう人もいるんですよ。あの世に帰っちゃうの。この世の波動がショックで。「出直してきます」ってなもんで。

 あと、人生の途中でこの世が辛過ぎて自殺しちゃう人もいますわね。まあ薦められることじゃないけれど、この世から脱出したいという気持ちはよく分かります。だってこの世はいいことばかりじゃないものね。

 ですから、この記事を読んでいる人はすべて自殺しないで生き延びているわけでしょ? それはいろいろあっても生き続けるぞと頑張っているわけですから、表彰ものなんです。どうぞ褒めてあげてください。(笑)

 いろんな辛いチャレンジはですね、あの世に帰ったら「ああ、あれはこういう意味があったんだな。この体験によってこんなことを学んだんだな」とすべて分かります。賢い人であれば死ぬ前に分かっちゃいます。いずれにせよ、すべては魂を育ててくれたと分かるときが来る。だから、「意味分かんない」というような辛い目に遭ったときは、ひたすら「生きてるだけでいい」というマントラを唱えてください。生きてりゃ、いつか分かるし、いつか解決するし、いつか許せるようになるんです。

 だから、早まったことは止めましょうね。寿命の最後まで生き延びてから天国に帰れば、今世の目的がすべて達成された充実感をあの世で味わえますよ。そしてこの世の苦しみや制限から解放されて、「ああ、やれやれ」と言えるときが必ず来ますので。

 とりあえず今日のチャレンジに向き合いましょう。ね。

 さて、お皿でも洗うか。


  

今感じていることは感じるべきこと

 今絶望を感じている人は、絶望を感じるべくして感じています。
 
 今激怒を感じている人は、激怒を感じるべくして感じています。

 今悲哀を感じている人は、悲哀を感じるべくして感じています。

 一分の狂いもありません。

 私たちは不快な感情を避けようとしますが、避けようとするということは文句を言うということです。不快な感情を誰かのせいにしたい。こんなものないほうがいいと思う。

 しかし、宇宙の摂理は一分の狂いもなく、その人が感じるべきものを感じさせます。

 喜びを感じるべき時に怒りはやって来ないし、悲しみを感じるべき時に愉快さはやって来ません。

 あなたが今傷ついているなら、寂しいなら、それらの感情を感じることがあなたにとって丁度良いのです。

 丁度良いなどと言うと、人間は苦しむままでいいと言っている冷淡なヤツだと思われるかもしれません。

 誤解されないように話を続けますが、感情はその人ではありません。感情は持ち物であって、その人そのものではありません。感情は体験に過ぎませんので、過ぎ去ります。過ぎ去った後も、その人は存在し続けます。感情は一時的な現象であり、その人のアイデンティティーではありません。

 まずは、この真理を明確にしておかねばなりません。どんなに不快な感情であろうが、その人の存在を超えて永続するパワーを持ち得ない。その人の存在とはそれほど強力なものだということを。

 永遠の命をもつ人間が、この瞬間激怒を体験している。この瞬間悲しみを経験している。それだけです。

 そして、味わっている感情に対してどう接するのか。どう対処するのか。どう行動するのか。こういうことが問われています。

 あなたの中に寂しさが上がってきた。さあ、この寂しさとどう向き合いますか。

 寂しさはあなたではない。単なる体験である。この体験からあなたは何を掴むか。何を学ぶか。どういう存在へと変化していくのか。

 多くの人間は感情に支配され、感情に束縛され、感情に打ちのめされ、感情と一体化して自分を見失い、感情を悪化させて苦しみを深めてしまう。

 感情に執着し虜になると同時に、感情を嫌悪し敵対する。感じたい感情には執着し、感じたくない感情は拒絶する。

 人間は感情と、「愛と憎悪」の恋愛関係にあるかのようです。

 あるスピリチュアルな教えによると、この地球という惑星は、霊が「感情」を学ぶところだそうです。

 「感情」の起伏を体験し、その荒波の中で進化する道。それが地球人の道ということなのかもしれません。

 すべての地球人が地球という学校で修了しなくてはならない科目が5つあります。

 ① 怒り
 ② 悲しみ
 ③ 怖れ
 ④ 自己否定
 ⑤ 執着

 この5科目にパスし、愛と智慧を育んだ人は、めでたく卒業できることでしょう。

 さて、あなたはこの5つのパズルに対してどんな回答をお持ちですか。

 

他者から受けたエネルギー

心理学の盲点

 知らないうちに他者のエネルギーを心身に取り込んで、それが苦しみの原因となることがあります。 

 たとえば、親が悲しんでいるとき、子どもがその悲しみを取り込んで自分の悲しみにしてしまったり、親が怒っているときには、子どもがその怒りを取り込んで自分の怒りにしてしまったりすることがあります。

 親子間だけでなく、夫婦間でも、友達同士でも起こり得ます。

 私たち人間には、相手と自分との間にしっかりとした境界線があるようで、実はエネルギー的にはかなり浸透性があるのです。ですから、周囲の人が感じていること、思っていることに敏感であればあるほど、それをいわば吸い取って自分の心身の中に溜めてしまうという現象が起こるのです。

 これは、未浄化霊による憑依とか、悪意を持った知り合いからのネガティブな念とは違います。悪意のまったくない相手であっても、その人が感じていることが自分の心身に入ってくることがあるのです。

 こういう場合には、通常のカウンセリングや心理療法では感情問題が解決できません。その人の認知やトラウマとは無関係だからです。他者の苦しみを「呑み込んでいる」こと自体が問題なので、それを「吐き出す」ことで症状は消えます。 

 「エネルギー心理学」や「エモーション・コード」など、人間が第一に波動的存在であることを理解している最新の心理学では扱われていますが、ニュートン力学的な古い心理学では人間を物質的存在と捉えているため、このような波動の乱れにはまだ対応できていません。

キネシオロジーで他人のエネルギーを特定する

 他人から受けたエネルギーが自分の心身に存在するかどうかは、素人の方でも簡単に発見できます。それはキネシオロジー(Oリングテスト)を使って、「今解除できる他者のエネルギーがある」かどうかを尋ねて、イエスと出ればあると分かります。 

 また、感情が乱れて気持ち悪くなったときに、この感情が自分のものか、あるいは他者のエネルギーが混じっているのかをキネシオロジーで尋ねることも有効です。自分の感情であれば、そのように向き合う必要があるし、昔誰かから吸収してしまった他者の感情が解放を求めて表面に出てきて気持ち悪くなる場合も結構あるのです。

 他人のエネルギーが表面に出ている状態ならば、解放してあげればいいだけです。解放の方法は、キネシオロジーを使って潜在意識に最適なものを尋ねれば答えてくれます。最も簡単なものは、ただ「これを手放します」と心の中で思うだけです。それだけで、今意識している邪気が心身から去っていきます。

感じたくないと力んだとき、エネルギーは内側に囚われる

 実は相手が悲しんでいるとき、悲しみが心身に入ってきても、それに抵抗しなければ悲しみは流れていきます。完全に感じ切ることを許せば、悲しみは心にひっかからない。でも、「これ以上感じたくない」と思って緊張する、つまり力むと、心身が閉じようとします。そして、そのとき悲しみの一部が体内に取り残されるんです。それが「ひっかかっているエネルギー」。

 心身にエネルギーがつっかえていると気持ち悪いので、心身は定期的に吐き出そうとします。それがトリガー体験です。 

 誰かに何か言われるたびにムカッと来るとか、不安になるなどと言うとき、感情を解放しようとしている場合が多い。

 でも、治癒作用だと理解する人は少ないので、相手を責めたり、悪い気持ちから自由になれない自分を嫌悪したりしてしまうのです。

 治癒作用に協力して、浮上するたびに解放してあげれば、どんどん楽になります。 

 私の行っているエナジー・カウンセリングでは、クライアントの悩みに他者のエネルギーが絡んでいるときにはそれをまず解放して、ご自分の感情を純粋に感じられる状態にしてから心理ワークをします。
 

持続する感情を信頼する

 以前よりは減りましたが、私は衝動買いをすることがあります。「あ、これ欲しい」と思って何かを買う。でもあとで後悔するんです。

 買うときには、確かに「欲しい」という気持ちになっている。でも、その衝動的な感情は1日2日すると消えてしまうんです。かと思うと、本当に買って良かったという場合もある。見極めが難しい。

 こういうとき、買いたいと思ったものには目をつけておいて、数日待っても欲しいという感情が持続している場合にだけ買うといいんだそうです。なるほど。

 私はアマゾンで書籍を結構買うんですが、最近は欲しいと思った本はいったんカゴに入れておいて、数日後に戻ってくるんです。「まだ欲しいかな?」と自分の感情に尋ねる。そうすると、半数ぐらいは「やっぱり買わないでおこう」となるので、待って正解だったことになる。

 本当に買った方がいいものは、買わないで数日いても、買いたいという感情が持続しているんです。このように安定した感情が根底にあるものは、本当に自分に必要なもの、あるいは自分に利益をもたらすものと考えていいのじゃないかと思います。

 これは、買い物だけじゃなく、人生のいろんな決断をするときにも応用できます。

 21歳でピアノのプロを目指そうと決めたときも、43歳でカリフォルニアでスピリチュアル心理学を学びに留学しようと決めたときも、「ホントにやりたいのか?」と自問自答する期間が数ヶ月ありました。一時的な気持ちじゃないのかよく確かめねばならなかった。生半可な気持ちでできることではないからです。

 でも、これらの2つの場合、数ヶ月経っても自分の強い気持ちは持続していた。だから信頼して前へ出たんです。そして、それは大正解でした。

 本当に動くべきときには、動かないと心地悪くなるぐらい内面から突き上げてきます。強い感情が持続的に動機づけてくるんです。それが何ヶ月経っても変わらずそこに息づいていることを確認すると、「これはやるっきゃないな」となる。

 何かに迷ったら、持続する感情は何かを見極めればいいと思います。持続する感情こそは信頼できるからです。
  

前世から持ち越した「深層感情」

 以前の記事で、人間は「霊(スピリット)」→「魂(ソウル)」→「精神(マインド)」→「肉体(ボディー)」と次元を降りてきている永遠の存在だという話をしました。

 このうち、「精神」と「肉体」は人生ごとに変わります。私がこの人生を終えてこの次元から去るとき、「精神」と「肉体」は古着のように脱ぎ捨てて、より波動の精妙な世界へと戻るのです。

 でも「霊」と「魂」はそのまま存続します。「魂」は何度も違った人格として地上に輪廻をしている我々の基本的アイデンティティーであり、何十回・何百回という人生のすべての記録を蓄積している乗り物です。

 「精神」の底には誰にでも「魂」があります。そして、無意識から上ってくる感情反応の多くは「魂の感情」です。これを「深層感情」と私は呼んでいます。

 たとえば、今世では食べ物に困ることのない裕福な家庭で育ったのに、飢えている子を見ると自分のことのように悲しくなったり助けてあげたくなったりする人は、前世で飢えた経験のある魂だったりします。今世で飢えと無縁の生活を送ったとしても、前世の飢餓体験の感情は決して失われることはありません。この場合、前世での体験がこの人を慈悲深くしています。

 今世では日本人として生まれたけれど、前世では南米で楽しい人生だった人は、南米と聞くとなぜか妙に嬉しくなったりする。あるいは、前世でロシアの人生があり過酷で苦しかった人は、ロシアと聞くと苦しくなったり、絶対行きたくないなどと思ってしまうことがあります。

 このように、好きなものや嫌いなもの。嬉しいものや怖いものは、長い長い過去生の人生経験に基づいていることがあります。

 輪廻転生の回数が多く、様々な人生を経てきている古い魂は、それだけ多様な人生経験があるので、いろいろな感情を持っているものです。シンプルではない。

 回数が多いということは、裕福な人生も貧困な人生も送ったことがあるし、権力者になったことも社会の底辺になったこともあるということです。美男・美女の人生も知っているし、不細工の人生も知っている。病気や怪我も、戦争も、それはそれは多様な経験をしたことがあるので、あらゆる角度から「人間」というものを味わってきている。異民族として差別された経験も勿論ある。ゲイになったこともある。それが当事者からどう感じるものなのかを実体験から知っているんです。

 そうすると、若い魂は、平気で中国人や朝鮮人を嫌悪するようなコメントが吐けますが、古い魂になってくると、中国人や朝鮮人が自分と同じ魂なんだということを実感していますから、民族で人をどうこう言うという気にそもそもなれません。自分が異民族として差別されたことも味わっているので、差別しようとは思わない。異民族を差別するような人は、まだ差別したり差別されたりという人生がこれからの魂なんです。差別する側に回ったり、差別される側に回ったりして、「人間」というものを学習する過程にあるわけです。

 さて、私たちは自分ではどうしようもない、無意識から突き上げてくるマイナス感情に苦しむことがあります。怒りたくないけれど、人に怒りや敵意をすぐ持ってしまう人です。あるいは、何でもかんでもすぐ怖くなってしまう人もいます。あるいは、何が起きても自分が悪いと自己否定・自己嫌悪してしまう人。

 言い換えると「深層感情」が怒りや怖れや自己否定に偏っているわけです。

 日本人は自己否定感情が結構強い傾向にありますね。私自身がそうです。

 何でもかんでも「ああ、自分はダメだ」という見方をしてしまう。感じ方をしてしまう。そういう癖が魂についてしまっているんです。

 それは、前世を通して「完璧主義的な教育」「ストイックな教育」を受けてきて、「自己否定が美しい謙虚さだ」と刷り込まれてきた人なんですね。

 「巨人の星」の星一徹のような親とか教師を持った前世、あるいは自分自身がそういう教師や親であった。とにかく上に◯◯がつく位「真面目」なんですよ。(笑)

 では、「深層感情」で自己否定が強い人はどうしたらいいか。

 それは、潜在意識を畑だと思って、自己否定という雑草が出てくるたびに抜いて、新しい自己肯定という種を蒔くという作業をひたすら続けるんです。自己否定という雑草がない畑の人は、そのまま作物を植えれば幸せになれる。でも、私たちのように過去生で自己否定ばっかりやってきた魂は、無意識という畑を開墾し直さなくちゃいけないんです。大変ですけど可能です!! 私が日々実践してますから。だんだん自己受容と自己肯定は前進するものですよ。

 つまり、自己否定というのは魂の悪い癖なんです。何でもかんでも自分を否定すればいいと思い込んできた長い長い魂の歴史がある。でも悲観しなくていい。それは私たち人間は、自分を作り替えていける無限の能力を与えられているからです。

 これは怒りでも悲しみでも怖れでも同じです。出てくるたびに癒してあげ、ポジティブなものを植えてあげる。こうやって、少しずつ少しずつ無意識(潜在意識)という畑を耕していくんです。幸せの種を植えるんです。

 だから、自己否定が「深層感情」から出てきたら、まずは否定せずに聞いてあげます。否定したら奥に引っ込むだけですから、雑草はなくなりませんよ。必ず自己否定と仲良くなって、最後まで話を聞いてあげて、根っこが現れるまで付き合ってあげるんです。根っこが見えてきたら、もうゆるゆるですから、すっと抜いてあげる。そして、プラスの思いを繰り返すことで植えてあげるんです。

 たとえば、私なんかクライアントが来なくなると、「ああ、自分はやっぱりダメなのかなあ」「カウンセラーとしてやっていけるんだろうか」なんて弱気になる瞬間があります。お恥ずかしい話ですが。(笑)

 そうすると、そういう自己否定の感情に寄り添って、「そっかあ、自分がダメなんじゃないかと思うんだね」なんて聞いてあげるんですよ。そして、肉体感覚に注意を払います。たとえば、お腹がギュッと締め付けられる感じがあったりする。そうすると、奥に「深層感情」があると分かります。そのお腹の堅いところに呼吸をたくさん送って、筋肉をリラックスさせて、その黒い感情を表に誘い出します。そうすると、前世のトラウマだったりすることが結構多いですね。

 前世の絶望感とか失敗したときの罪悪感などが上がってくる。それを聞いてあげるとクリアになるんです。そうすると、不思議なことに表面の意識も「自分はダメなのかなあ」と思わない状態になっている。自己否定が1つ消えたわけです。また放っておくと、自己否定の感情が現れますけれどね、それは翌日かもしれないし、3日後かもしれませんが、出てくるまでは心配しない。

 こうやって、心身が苦しい感情になるたびに私はクリアリングをするんですね。そうすると、数回・数十回分の前世を癒していることになります。私は今世で多くの前世の癒しをやろうと決めてきているらしく、外の世界で働くのも大事なんですけど、一人で自分に向き合って深い深い癒しをやっている時間も結構長いんです。内側に向き合う仕事は、結構フルタイムに近いです。(笑)
 
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