菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2016年03月

待つ愛、見守る愛

 愛が最も伝わるのは、実は「何もしない」ときだったりします。

 ただ相手を理解して、相手を信頼して待っている。見守っている。

 あれこれと世話を焼いて介入したり支配したりせず、相手を尊重して、相手が相手の力で生きていくのをただ温かく見守っているのです。

 無関心で放っておくのではありません。深い関心を寄せながら、その人の幸せを祈りながら、あえて何もしない。

 こういうときに、大きな愛が動いている。

 愛は必ずしも積極的で行動的だとは限りません。愛は時に控え目で舞台裏に徹します。

 本人が自分の力で「できた」と感じられるよう、自分は必要とされる時以外は出ないようにする。けれど、ちゃんと気づいていて見守っている。

 これが「待つ愛」「見守る愛」です。
 

2種類の「力(ちから)」

 「力(ちから)」には2種類あります。

 David R. Hawkins 博士の考えを拝借すれば、「パワー」と「フォース」ということになります。

 「フォース(force)」とは、相手への尊重のない強制的な力です。相手に無理やり何かをさせようとするとき、私たちは「フォース」を使います。

 それに対して「パワー(power)」とは、感化的な力です。強制のない、ポジティブなものが自然に伝播するときの力です。 

 たとえば、知人のお宅に行ったら、リビングがとても素敵だった。物が少なくて、趣味の良いシンプルな家具と本人の好きな小物や本だけが美しく置かれてあった。私の部屋はいらないもので散らかっている。掃除と整頓をしなきゃと思いつつ面倒くさくてやっていない。親には「掃除しなさい」と怒鳴られているけどやる気がしない。けれど、このお宅を見て「私もこんな風に生活したい」と思えて来た。帰宅して早速片づけを始めた。

 こういう場合、この知人は自分に「整頓しなさい」「掃除しなさい」と一切命令をしていない。けれど、知人が美しく生活しているだけで、自分にインスピレーションをくれた。そして、自分も美しく生活したいという気持ちにさせてくれた。

 これこそ「パワー」です。

 私たちは、他者の「真なる生き方」「善なる生き方」「美なる生き方」に触れたとき、感化されて、自分もそうありたいと思う。そして、それに向けて成長する。ここに一切の強制はありません。

 このような影響のしあいが、本当の貢献だと私は思っています。

 自分が良いと思う生き方をただしているだけで、それを模範にしたい人にとってのインスピレーションとなる。その「パワー」は計り知れません。

 それに対して、恐怖と怒りを用いて、相手に何かをさせようとする親や教師は、「フォース」を使ってしまっています。感化力がないからこそ、強制力に頼ろうとするのです。

 親子関係、師弟関係、職場の上下関係などにおいて、上の者が下の者に有無を言わせず支配するのは、相手への尊重のない「フォース」(強制力)に過ぎません。

 あらゆる「飴と鞭」を使った賞罰制度は、この「フォース」です。

 「フォース」を使うと、必ず反動が起きます。この反動は様々な形をとります。反発のこともあれば、依存のこともあります。信頼の喪失であることもあります。必ず「副作用」があるのです。コストがあるのです。

 それに対して「パワー」には副作用がありません。そして「パワー」は誰の尊厳をも傷つけずに世界を変容させるのです。
 

自分を認める

 誰でも自分のことを肯定的に感じたい欲求をもっています。自分について「いい気持ち」でいたいのです。

 幼い人間は、周囲の人間が自分を肯定したら自分を肯定でき、自分を否定したら自分を否定してしまいます。

 周囲の人間とべったり融合していて、自立した自分がまだありません。だから、自分を肯定するには他者に肯定されるしかないのです。

 成熟した人間は、周囲の人間が自分を肯定しても否定しても、自分を肯定するか否定するかは自分で決めます。他者の評価にただ従うのではなく、ワンクッション置いて自分なりに自分をきちんと捉えようとするのです。ここに自立があります。

 幼い人間は、周囲の人間がみなAで自分がBだというとき、Bはおかしいと思って自信をなくします。周囲は正しく自分は間違っていると思うのです。なのでBを主張することはできません。

 成熟した人間は、周囲の人間がみなAで自分がBだというとき、たとえ多数派とは違う自分であっても、その自分らしい自分を「認める」ことができます。

 自分を認めるのに社会の多数派の力を借りなくてよい、これが自立です。

 自分を認めるのに必要なのは自分だけであると思える、そこまでの自分になれたとき、自分が確立したと言います。
 

問題をどう定義するか

 悩み苦しみを解決する前に、「いったい問題は何なのかという問題」をまず解かなくてはなりません。

 「問題を定義する」というタスクです。

 機械が故障したときも、病気になったときも、「問題を定義する」というステップなしには修理も治療もできません。

 心の悩み苦しみを解くときも、まったく同じです。

 悩み苦しみが解けずに困っている人は、「問題を正しく定義する」ということができていない場合が多い。定義など全くしていないこともあれば、解決できなくしてしまうような定義のしかたをしていることもあります。そのようなときには、私の仕事は、解決を可能にするような問題の捉え方へとクライアントを導くことです。

 ということで、この記事では、解決できるような問題定義のしかたとは何なのかをお話しいたしましょう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

相手軸の定義と自分軸の定義

 「問題は何ですか?」と尋ねられたときに、「上司が私に対して厳し過ぎる」「夫が会話をしてくれない」「息子が引きこもりだ」などと相手を主語にして答える場合、これは相手軸の定義です。

 「相手の行動が問題だ」と捉えれば、解決は「相手の行動をどう変えるか」という方向に求めることになります。ところが、相手の行動はコントロールできないので、この問題は解けない場合が多いのです。

 問題を相手軸で定義してしまうと、どうしても支配的に相手と関わってしまいます。「息子にいかに勉強をさせるか」「外国人と結婚したいという娘をいかに思いとどまらせるか」「会話をしない夫にいかに話させるか」など、相手を自分の思い通りに操ることを目指してしまいがちです。

 なので、課題の分離がされているかをこの段階でよく見極める必要があります。

 相手が何を考え何を行うかは相手の課題である。自分が何を考え何を行うかは自分の課題である、という原理を大切にするということです。

 私たちは相手の迷惑にならない限り何を考え何をしてもいいというのがもう1つの原理です。

 もし、相手の行動が自分の迷惑になっているならば、自分がそれに対して何を考え何を行うかは自分の課題です。

 そう、相手の行動に悩んでいるならば、自分が解くべき問題は「自分は何を考え何をするか」なのです。これが自分軸での問題定義になります。

 「勉強をしない息子に対して私は困惑している。どう対処したらいいか分からない。どう接したらいいか分からない」「自分に対して厳しい上司が大嫌いである。同じ職場で働きたくない。かと言って会社を辞めて収入を失うのも怖い。どうすればいいか分からない」・・・これらは自分軸での問題定義です。

 「どうすれば息子は勉強するようになるか」ではなく「勉強しない息子にどう接するか」という問題は、完全に自分が解ける問題であり、自分が解くべき問題です。

 「どうすれば夫は会話をしてくれるか」ではなく「会話しない夫とどう関わっていきたいか」という問題は、100%自分の課題です。

 解決することの難易度はともかく、100%自分の責任において背負えるのは自分軸で定義された問題だけです。そして、自分が解けるのもまた、自分軸で定義された問題だけなのです。

 なので、相手軸で問題を捉えている人は、自分軸で定義し直してください。

現実的な定義と心理的な定義

 「会話しない夫とこのまま一緒にいるか別れるか」というのは現実的な選択であり、外の客観的世界における変化を引き起こします。

 このように具体的行動によって解決される問題を「現実的問題」と私は呼んでいます。

 しかし、「心理的問題」というものも存在します。外の客観的世界での対処によって解決するのではなく、あくまで心理的変化として解決される種類の問題のことです。

 たとえば、「会話しない夫といると私はとても寂しい」とします。「心が通い合わないことが辛い。そして寂しい」というのは「心理的問題」です。

 このような「心理的問題」があるとき、多くの人は「現実的問題」として捉え、「現実的対処」をすぐに考えてしまいます。つまり、夫に会話させようとしたり、別れることを考えたり。

 しかし、もっと深く問題を捉えてみると、この女性には元々孤独感と寂しさと心が通い合っていない不満があったかもしれません。幼少期から心の通い合いという欲求がずっと満たされず来たのかもしれません。

 そうすると、自分が寂しいのは決して夫が会話してくれないからではない。会話してくれない夫は、この人生における幾多の経験と同じように、自分の中に癒されないままある孤独感と触れ合いへの飢餓を表面に出してくれているだけかもしれない。

 この場合、この女性が考えるべきは「私の中にずっと癒されない孤独感があり、実は誰とも心が触れ合っている実感がなく寂しい」という問題である可能性があるのです。

 このような、あくまで自分自身の内面の問題として「心理的な定義」をすることができると、この人は深く大きく癒され進化していく可能性を手にするのです。

 しばしば、「現実的問題」として定義している間は、表層的なので根本解決にならない。そして、より深いところにある本質的な問題が見えたとき、「心理的問題」として定義し直すということが起こり得ます。そして、「心理的問題」として定義できたときに、初めて根本解決に向かうことができるのです。

 問題の根っこが深いときには、浅い問題定義では決して解けません。意識の深い変容を必要とする問題は、その深みに問題の焦点を当てなくてはならないのです。 

現在軸の定義と過去・未来軸の定義

 問題は現在軸で定義すると解けますが、過去軸や未来軸で定義すると解けません。なぜなら、私たちが唯一影響力を持てるのは現在だからなのです。

 「問題は、子供の頃、母親が私の気持ちを聞いてくれなかったことだ」というのは、過去軸での問題定義です。私が今苦しいのは、この過去のせいだと捉えている限り、問題は解けません。

 問題は常に現在形で捉えることをお勧めします。

 過去について悩んでいるならそれでいいのです。その過去について今どんな問題があるのかに焦点を当てるのです。そして、その問題は今現在のことだと理解することが大事です。

 「子供の頃、私の気持ちを聞いてくれなかった母について、私は今でも許せません。母に怒っています」なら現在軸での問題です。「今怒っている」「今許せない」という風に、あくまでも問題が存在するのは現在であると捉えるのです。

 過去に起きたことが悩みなのではなく、過去に起きたことについて今でもすっきりできていないことが悩みなのです。

 対処すべきは、あくまで「現在の怒り」「現在の怖れ」「現在の自己嫌悪」であって、過去の何かではありません

 過去が問題でないことを証明するために1つ例を挙げましょう。私たちは過去に何度もイヤな目に遭って来ているはずですが、それらすべてについて今悩んでいません。水に流せてしまったこともたくさんあります。当時ものすごく苦しかったようなこと、とても許せないと怒っていたようなことでも、時の流れとともに許せてしまったことがありませんか。傷つけられたという記憶さえなくなっていることもあるかもしれません。ということは、過去に誰かに傷つけられたからと言って必ずしも今怒りに苦しんでいるとは限らないのです。消化されてしまった過去の体験については、今現在悩んでなどいない。ということは、今の私が許せない過去のことというのは、未だに解決できていない問題であるに過ぎないということです。つまり問題は、「今ここにいる自分が、その特定の過去の出来事を許せないと感じている」「その過去と折り合えていない」ということです。そして、それは今ここ現在の自分にとっての問題であって、過去が原因ではありません。

 「将来こうなるのではないか」という未来への不安についても、現在の問題だと捉えます。

 「将来を考えると心配になる」のはあくまで今ここでの話です。「未来を想像すると現在の私が不安になる」という問題定義が現在軸です。

 そして、将来を操作することはできませんので、問題解決もあくまで現在におけるものです。「必ず結婚できる将来」も「孤独死しなくてすむ確証」もカウンセラーは与えることはできません。

 怒りや不安という「心理的問題」を解くことができるのは、過去も未来も変えようとせず、今ここでの平安を目指すときなのです。

 「今ここで私が平安になるには何ができるだろうか?」を問うのです。

 解決が過去や未来にあると想像すると、今ここの自分が不安になります。今ここに解決はないと信じることになりますから。自分が今安らかになるために必要なものは、今ここにないと捉えることは、欠乏を信じることです。

 答えは必ず今ここにあります。そしてその答えは自分の中にあります。

 答えが自分の中にないと信じると、外に探し求めます。答えが現在にないと信じると、過去や未来を変えようとします。これらはどちらも心を不安に陥れます。「自分は大丈夫ではない」という悪夢を信じることになるからです。

 心は、自分が必要としているものがすべて自分の中にあり、しかも今現在ここにあるということが分かるまで、動揺し続けます。欠乏という妄想を信じ、夜の寒い孤独の世界を彷徨うことになるのです。

3つの人間関係

(これは2014年4月に投稿した記事の復刻版です。)

 人間関係を「親と子」「上司と部下」「教師と生徒」「友達同士」という「立場」で捉えるのではなく、ここでは3つの「関わり方」によって分類してみたいと思います。

1.自分を主張し、相手を尊重しない関わり方(権威者スタイル)
2.自分を抑えて、相手に従う関わり方(服従者スタイル)
3.自分の本心に従って、相手と協力する関わり方(協調者スタイル)

 「親」が「子」に関わる際にも、「子」が「親」に関わる際にも、この3つのスタイルのどれかになっています。

 「権威者スタイル」で相手に関わる人がいると、その相手は「服従者スタイル」になりやすいです。それは、「権威者」は「服従者」を求めているからです。

 そして「服従者スタイル」で人と長く関わっていると、不満が積もってきて、その怒りが自分に向く人は「うつ状態」に、相手に向く人は「権威者スタイル」へとシフトします。

 「協調者スタイル」の「教師」であれば、「生徒」が「服従者スタイル」に陥らずに、怖れを乗り越えて自分らしくあり、自分を主張できるように愛をもって促すことができます。「生徒」が「権威者スタイル」で来れば、「教師」がそれに服従することを拒否し、自分の意志や欲求を尊重してくれるよう促すことで、協調の喜びを体験させることができます。

 「権威者スタイル」と「服従者スタイル」は、どちらも進化することで、「協調者スタイル」に移行していきます。 

 本当の「協調的関係」には、権威者も服従者もありません。誰かが本心を抑えなくてはならないとき、その人は対等に扱われていません。

 「協調的関係」とは、双方の潜在的欲求を尊重し、できるだけ両方が満たされることを目指しますが、実際に満たされる方法が見つかるかどうかは別です。双方の潜在的欲求が「尊重されている」ことが本質です。

 2人の友達同士の関係で実際の例を見ていきましょう。

 この2人の男は、外食に出かけようということになり、レストランを選ぼうとしています。

 1人が相手の気持ちには配慮せずに、自分の好みだけを主張しているなら、この人は「権威者スタイル」をとっています。

 また、相手の主張に対して、本当はイヤだと思いながらも同意してしまうなら、この人は「服従者スタイル」をとっています。

 相手がこちらの気持ちに配慮せず、主張してきたとき、双方の気持ちを対等に大事にしようという気持ちで話し合おうとするなら、その人は「協調者スタイル」をとっています。

 「協調者スタイル」は、相手がどのような関わり方をしてきても、選択できるものです。

 「権威者スタイル」と「服従者スタイル」のパターンをもっている人が「協調者スタイル」へと移行する際、新しい考え方と行動法を身につけていく必要がありますが、それはしばしば「過去の清算」を伴います。

 「過去の清算」とは、自分が「権威者スタイル」を使うことで、相手を傷つけた体験に向き合うことと、自分が「服従者スタイル」を使うことで、自分を抑えてきた結果溜まっている心の傷を癒すことです。

 ひとつの国が、絶対君主制から民主制にシフトするときの革命的変化のようなことが、ひとりの人間の意識変化においても起きてきます。

 今私の元を訪れる多くのクライアントは、何世代にもわたってその家系に受け継がれてきた、「抑え込む」「抑え込まれる」という否定的パターンを乗り越えようと取り組んでいます。

 社会のメンタリティーの変容は、ひとりひとりの人間関係のあり方の変容を通して達成されるものです。

 ですから、ひとりひとりの変容がとても大事だと私は思っています。なぜなら、ひとりが変わると、その周辺の人たちとの関わりが自然に変わり、波紋のように広がっていくからです。
 

選択肢が増えると自由度が増す

 次のフィクションを想像してみてください。

 ある女の子はお父さんに褒められる唯一の方法が一日にたくさんのリンゴを摘むことだと信じていました。たくさんのリンゴを摘んだ日にはお父さんに褒められて嬉しかった。たくさん摘めなかった日には褒めてもらえないのでがっかりしました。

 彼女はある日、妹が鶏の卵を割らずに集めて来てお父さんに褒められていることを知りました。「卵を集めてもお父さんは褒めてくれるんだ。」そして、次の日から彼女はリンゴを摘めないときには卵を集めるようになりました。お父さんに褒めてもらうために彼女ができることは2つに増えたので、好きなほうを選ぶことができました。

 あるとき彼女は友人とかけっこをして遊んでいました。友人よりも速く走ってゴールしたのをお父さんが見ていました。そして足が速いことを褒めてくれたのです。お父さんに褒めてもらいたいときに彼女ができることはその日から3つになりました。

 しばらくしてお父さんは病気で寝たきりになりました。その日から彼女はお父さんに褒めてもらうことがなくなりました。彼女は暗い気持ちでした。

 ちょうどそのころ、クラスのある男の子が彼女のことを好きになりました。彼は彼女が努力家であることや奇麗な目をしていることを褒めました。彼女はとても嬉しかった。

 「褒めてくれるのはお父さんでなくてもいいんだ」と彼女は気づきました。彼女は大きくなるにつれて、いろいろな人にいろいろな褒め方をされ、その度に自分に自信を感じることができたのです。

 しかしあるとき、彼女はいつも誰かに褒められていないと辛くなる自分に気づきました。褒められない日が続くと滅入りました。そして、「私はどうして人に褒められようとするのだろう?」と問うてみたのです。

 「褒められようとする目的はいったい何だろうか?」と自問しました。

 そして心の底に触れて見えてきた答えがありました。「私は自分のことを肯定的に感じたいんだわ。」彼女は自分が自分を肯定するために、周囲の人間の褒め言葉を集めていたことに気づきました。そして、彼女自身が自分をあまり褒めていないことも見えてきました。

 「私が私を褒めるなんてできるのかしら?」

 その日から彼女は自分の好きなところを探しました。そして、見つかるとは心の中で褒めてあげたのです。そしたら驚いたことに、お父さんや彼に褒められたときのように、彼女の心は喜びに溢れました。

 「あら、自分が自分を褒めても嬉しいものなのね。」

 それ以来、人が褒めてくれない日でも、自分が自分のいいところを褒めてあげることで、滅入る日はなくなっていきました。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 主人公の心理的欲求は「自己肯定」です。幼いころの彼女は、自分が欲しいものは「お父さんからの褒め言葉」だと認識していました。しかも、それを得る唯一の方法は「リンゴをたくさん摘むこと」だった。自分の価値を感じるたった1つの方法は、リンゴをたくさん摘んでお父さんに褒めてもらうことでした。

 生きていく過程で、彼女はお父さんに褒められる方法を他にも見つけます。そして褒められる相手はお父さんだけでないことも見つけます。何をやって誰に褒められても嬉しいのだと発見したのです。

 しかし、この段階でも自分の欲求を「他人からの褒め言葉」という特定の形でしか認識できていませんでした。なので「他人からの褒め言葉」が何のためのものなのか、というもっと深い本質を理解するには至っていませんでした。

 「他人からの褒め言葉」が得られず苦しむという時期を経て、彼女は自分の欲求をもっと深く理解することになります。そして、「他人からの褒め言葉」を得たい理由は、「自分を肯定すること」だという洞察を得ます。特定の願望の奥にある本質を掴んだことによって、それを満たす方法は無限に広がりました。自分が自分を褒めてもいいのだというところまで認識を広めます。

 自分が欲しているものの本質を普遍的レベルにまで掘り下げることで、それを満たす方法は無限になりました。選択肢が増えることで、彼女の心は自由になったのです。

 あなたは自分を肯定する条件を狭く設定し過ぎていませんか?

 あなたは自分が幸せになる条件を狭く設定し過ぎていませんか?

 あなたは自分が平安である条件を狭く設定し過ぎていませんか?

あなたが欲しているものを得る方法は無限にある 

不満体験への恐怖と拒絶

苦しみとは満たされないことではなく、満たされないことを許せないこと

 私たちには「愛の欲求」「自由の欲求」「共感の欲求」など人類普遍の欲求があります。そして、それらが満たされる「喜びの体験」と満たされない「悲しみの体験」の両方を誰でも味わいます。

 多くの人は、私たちが苦しむのは満たされない「悲しみの体験」のせいであると思っていますが、実際は違います。どれだけ満たされない体験をしても、それを拒絶せず受容できれば、また満たされる「喜びの体験」に心を開いていられます。

 不満体験が苦しみになるのではなく、不満体験を通ったことが許せない、そんな体験などしてはならなかったと主張することが苦しみになるのです。

 不満を拒絶することが苦しみであり、不満を受容することで新たな満足の可能性に開かれていることが安らぎです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 別の視点からもう少し説明をしたいと思います。

「まずい」とか「臭い」を私たちは通常受け入れている

 私たちは時々食べ物を「まずい」と感じる体験をします。わざとまずい物を食べるわけではありませんが、たまたまレストランで注文した料理がまずかったとか、自分で作った料理に調味料を間違えて入れたとか、たまたま食べたものが腐っていたとか、様々な事情で「まずい」ものが口に入る。

 これは「美味しいものを食べたい」という欲求に合いませんから、不満になります。不快です。

 けれど、通常は「まずいものを食べた」という体験はその時を過ぎればトラウマとして残りません。いくらでも「美味しいものを食べる」という体験はこれからも限りなくできるだろうと信じられるからです。「まずい」という体験は、将来の「美味しい」という体験を限定するなどとは誰も思わない。言い換えると、「まずい」という体験を恐怖してはいないということです。「まずい」という体験を排除しようとまでは思わないということです。

 なので、「またまずいものを食べなくてはならないのではないか」などと心配したりすることはほとんどないでしょう。

 同じように、私たちは時々臭いものの匂いを嗅ぐという体験をします。どこかのトイレに入ったら臭かったとか、家族の誰かがおならをしたとか、町を歩いていたら下水工事をやっていて臭かったとか。

 臭いと感じる瞬間は確かに不快ですが、それを引きずることはあまりありませんよね。

 なぜなら、その場所を出れば、その時が過ぎれば、また良い匂いがいくらでも嗅げるし、「臭い体験」が将来の「良い匂い体験」を限定するなどとは思わないからです。「臭い体験」を恐怖も拒絶もしていません

 なので、私たちは「まずいという体験」も「臭いという体験」も拒絶はしません。不快だけれど、存在自体を消そうとまでは思わない。そういう体験を二度としないようにと力むことはない。「まずいという体験」や「臭いという体験」を神様がこの世からゼロにしてくれないと許さない、という風に天を怨んだりはしません。

 このように、私たち人間は多くの不快な体験を受容しています。存在することを許しているのです。「まずいもの」「臭いもの」は好きではないけれど、世の中に存在してもいいと思っています。このように、その存在を許している不快なものに対しては、私たちは苦しみません

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苦しみを解くとは恐怖と拒絶を解くこと

 さて、私たちが何かに苦しんでいるとき、そこには恐怖と拒絶が働いていると見て間違いありません。

 たとえば、上司からセクハラを受けた。夫が会話をしてくれない。姑からいじめられている。 

 これらはすべて「不快な体験」であり「不満の体験」であることでしょう。これらを好きになれとは言いません。「まずいもの」を美味しいと思えとか、「臭いもの」を良い匂いだと思えというのが無理なのと同じ理屈で、セクハラやいじめを好きになることは不可能でしょう。

 ただ、問題は、どうして「臭い」や「まずい」は許せて、上司のセクハラや夫との会話のなさが許せないのかという点です。どちらも不満には違いないのです。

 どこが違うかというと、苦しむ人の中では「セクハラ」や「会話しない夫」や「姑のいじめ」は存在してはならないほど拒絶感の強いものだと認識されているということです。

 単に不満であるだけでなく、存在を許せない。そういう目に遭うこと自体をゼロにしたいと力んでいるのです。そして、許せないのは恐怖しているからでもあります。

 「セクハラ」は不快だ、ならいいのです。「セクハラ」は不快であるだけでなく、存在してはならないと主張しているから苦しいのです。 

 「会話しない」は不満だ、ならいいのです。「会話しない」は不満であるだけでなく、そんなことはあってはならないと主張しているから苦しいのです。

 苦しみを解決するには、2つのことが必要です。

1.不満は不満として肯定してあげる。不満を否定しなくていい。
2.恐怖と拒絶の原因を探って解き明かす。

 「まずい体験」をしてもそこで「心が固まってしまわなければ」、いくらでもこれから「美味しい体験」をすることができますよね。

 「臭い体験」をしてもそこで「心が固まってしまわなければ」、いくらでもこれから「良い匂い体験」をすることができますよね。

 同様に、「愛されない体験」をしても、「尊重されない体験」をしても、「心が通い合わない体験」をしても、そこで「心が固まってしまわず」、いくらでもこれから「愛される体験」「尊重される体験」「心が通い合う体験」ができると信じられるなら何も問題はありません。

 苦しいのは「愛されなかったから」ではなく、「愛されないこと」を自分が耐えられないほど酷いことだと恐怖して心が固まっているからなのです。

 簡単に言うと、「愛されない体験」をいくらしたって私は大丈夫だと思うことができれば、何も問題はないのです。これから私はいくらでも「愛される体験」がたくさんできると思えれば、今このままで大丈夫なんです。

 ということは、「愛されずに苦しい」とか「尊重されずに苦しい」という人は、「私が愛されないことを耐えられないことだと恐怖しているのはどういうことだろうか?」「私が尊重されないことを耐えられないことだと恐怖しているのはどういうことだろうか?」と問うて探求すれば解決に向かう可能性が高いということです。

 そのパズルが解ければ、「心の固まり」が解けて楽になります。力んで抵抗し続けなくても自分は大丈夫だという安心感が得られます。

 不満を怖がらなくなると、もっと容易に満足の体験がやってくるようにもなります。

子供は親の自己犠牲を決して喜ばない

 親は子供の幸せを願うものです。そして、自分はできるだけのことをしてやりたいと思います。これは愛に違いありません。 

 ところが、この美しいはずの愛が重たくなるときがある。それは、親が自分を犠牲にして子供を幸せにしようするときです。

 「自分は不幸でいい。それによって我が子が幸せになるなら、私は辛くても構わない」と自分に言い聞かせ、様々なことに耐えるのです。

 これが必要な我慢なら健全です。しかし、自己犠牲をする多くの親は、自分自身の問題に取り組むことを拒み、自分自身の人生を生きることを拒み、自分自身の成長課題から逃げて、「子供に無償の愛を与える献身的な親」という役割を通して人生の不満を処理しようとするのです。

 子供を通して生きるのは、精神的に子供に頼ることです。「あなただけが私の人生の意味」と思うのは、「あなたが私の人生に意味を与えてください」と子供に甘えることに等しい。

 子供にとって、これはかなり重たい負担になります。

 子供の将来の中に自己を埋没させるのは、決して心理的に成熟した者のすることではありません。

 この親は、自分が成長して幸福になることを放棄し、生きる意味を子供を通してのみ感じようとしてしまっている。

 「私は不幸でいいから、あなたが幸福になってね。そうしたら私の苦労が報われるから」と言われることが子供にとってどれほど辛いことかが分かっていない。

 子供が幸せなのは、親が自分らしく人生を謳歌して幸せであるのを見て、自分も両親のように「自分らしく人生を謳歌したい」と思える自由があるときなのです。

 親が自分自身の幸福と子供の幸福の双方を大事にするとき子供は最も喜ぶのであって、親が自分自身の幸福を犠牲にして子供の幸福に奉仕しようとするときに喜ぶことはできないのです。

 これはちょうど、我慢して自分に会いに来てくれる友達との時間など楽しくないのに似ています。友達との食事やおしゃべりが楽しいのは、私が友達に会うことを幸せだと感じているのと同じように友達も私に会うことを幸せだと感じてくれているときです。どちらも犠牲になっていないときに、一緒にいるのが楽しいのです。

 だから、親は子を育てるとき、まず自分自身が幸せになることを考えなくてはなりません。そして、自分が犠牲になることで子供の重荷になるべきではないのです。自分の幸福を子供に委ねることなく、自分自身で自分の幸福に責任をもつべきなのです。

 自分を犠牲にして子供の幸福に貢献しようとすることは、子供をある意味傷つけます。なぜなら、自分を犠牲にする人は、必ず無意識では見返りを求めるからです。犠牲のし甲斐を相手に求めるからです。必ず借りを何らかの形で返させようとするのです。そして、その不誠実さが子供を傷つけるのです。

 「お母さんのためにあなたが幸せになってね」「お父さんのためにあなたが幸せになってくれ」ではなく、「私たちは十分幸せなのだよ。だから、あなたはあなたの幸せのために生きていいんだよ」と言える親子関係が最も愛に満ちているのです。自分の夢で子供を縛らず、子供を自由にしておけるためには、親は自分の幸福への責任を自分自身に求めなくてはなりません。
 
親は決して子供のためだけに生きてはならない
 それは子供から子供自身の人生を奪うことである

自分の利益を無視して動く人はいない

 人間はすべて自分の利益のために動いています。これは「利他的」と言われる行動をしているときにすらそうです。

 自分の利益しか考えず相手の利益を無視する行動は多く見られますが、相手の利益だけを考えて自分の利益を無視する行動をとることはあり得ません。

 最も「自己犠牲的」に見える奉仕活動であったとしても、それは奉仕をする人の満足のためにされているのです。

 いろんな意味で、私たち人間はこの真実に正直であるほうがいいと私は考えています。

 つまり、「これは自分のためではない。相手のためだ」と人が言うとき、それは100%偽りであることを知っていたほうが判断を誤りません。

 自分の利益のために行動することは当たり前のことであり、それは自己中心的なことではありません。自己中心的であるとは、自分の利益のみを考えることであり、自己中心的でないとは、自分の利益と相手の利益を共に考えることなのです。

 存在するのは「自分の利益のみを考える」か「自分と相手の双方の利益を考える」かの二者択一のみであって、自分の利益を無視するという選択肢は存在しません。それは幻想に過ぎません。 

 私は悩みを抱えた人の相談に乗ります。これはクライアントの利益のためだけでなく、自分自身の利益のためでもあります。

 カウンセリングが功を奏した場合、クライアントは私との関わりによって心が整理されたり、苦しみが和らいだり、前進する勇気や希望を持てたりして心理状態が改善します。それはクライアントにとって利益となります。では、私は無私の奉仕をしているのかと言うと、そんなことはありません。クライアントの役に立つことは私自身の喜びになるのです。なぜかと言うと、私には「人の役に立ちたい」という欲求があるからです。「人の幸福に貢献したい」という欲求があるからです。そして、クライアントの状態が改善すると、私自身の「人の役に立ちたい」「人の幸福に貢献したい」という欲求が満たされて、私は喜びを味わいます。

 つまり、私が誰かにカウンセリングをするという行為は、クライアントと私の双方の利益のために行われているのであって、どちらか一方の利益のためではありません。

 このように、「幸福に繋がる行為」というものは、双方を満たし、双方に利益をもたらす行為なのです。

 親子関係もそうです。

 子供は生まれたとき自分で何もできません。親にお乳をもらい、オムツを替えてもらい、服を着せてもらい、暑さや寒さや危険から守ってもらいます。これは子供にとって大きな利益です。しかし、親は無私に子供に奉仕するわけではなく、親は子供を育てることでしか得られない満足と喜びを味わいます。親は「子供を育みたい」「愛したい」「家族を持ちたい」という欲求を子供を通して満たし、幸せを味わうのですから、子供が一方的に受益者だとは言えません。

 親が子供を育てるという行為は、親にとっても子供にとっても利益となるからこそ、「幸福に繋がる行為」であり、「十全たる(whole、holistic)行為」だと言えます。

 教師が生徒を教えるのも、全く同じ原理で、双方が利益を受け取ります。

 友達同士で食事に出かけるのも、おしゃべりをするのも、双方の利益のために行われます。

 商店と顧客の間に行われる売買も、同様に、双方の利益のためです。

 あらゆる人間の関わりは、互恵関係を基軸としています。そして、この原理を守る限り、大きな問題にはなりません。

 人間関係の問題は、相手と自分の利益の交渉がうまく行かないときに生じます。

 相手の利益を無視して自分の利益だけを主張するナルシシズムはもちろん困りますが、自分の利益を無視して相手の利益のために動いているように振る舞うことも大きな問題となります。

 本当は自分が不安だったり困ったりしているので相手を変えようとしているのに、「相手のため」と言い張ってアドバイスをしたりする人がいます。ここに不誠実さがあります。

 「私はあなたが◯◯になってくれたら、こういう理由で嬉しい」「あなたが◯◯してくれたら、それは私の利益になる」と潔く認めてくれればまだいいのですが、その本心を隠して、あくまで「相手のために言っている」「相手のために行動している」という体裁を整える人がいます。

 これが曲者なのです。

 その人は、決して「相手の利益だけのために」動いているのではなく、「自分の利益を考えて」相手に働きかけているのです。その事実を認めないことによって、都合よく相手を支配しようとしているわけです。

 子供の進学や就職や結婚に口を出す親の中には、このような欺瞞がよく見られます。

 親の利益に合った進学先、就職先、結婚相手にして欲しいと思っている。子供の利益だけを考えているのではない。けれど、「私のためにこの学校に行ってくれ」「私のためにこの結婚相手はやめてくれ」と本当のことを言うと自分の顔が立たない。自分の我がままがバレてしまう。それは困る。だから、あくまで「子供のために」という建前を主張するのです。

 実は、「自分の利益を無視して」「無私で相手に奉仕する」ように見える人の多くは、相手の利益よりも自分の利益を優先的に考えているナルシシストなのです。

 「無私の奉仕者」という仮面を被った人の多くは、自分の満足や名誉のために動いている。そして、それを認めたくない。なので、「自分の利益」の部分を正直に語ることができません。

 「自分の利益」のためにも動いていると認められる人は、精神的に成熟した人です。見栄えのいい嘘をつく必要がなく、ありのままをさらけ出して表現できるのです。

 自分の利益も考えた上で相手の利益にもなることを心がけており、それが美しいことであると分かっているので、自分の利益を考えることを後ろめたいなどと思う必要がありません。

 親が子供に「お前を育ててやった」と言ったり、教師が生徒に「お前を教えてやった」などと言うのは変だと思いませんか。一方的に相手の利益だったかのように話しているからです。

 店が客に「売ってあげた」と言うのもおかしいし、客が店に「買ってあげた」と言うのもおかしい。なぜなら、売買は双方にとっての利益だから、買ったり売ったりすることで貸し借りはないのです。

 「してやった」という気持ちになるのはどういうときでしょうか。それは、自分を偽って相手に与えているときです。無理をして自分の境界線を自分が守らず、心地よい範囲を超えて相手の利益になることをしてしまうときです。

 愚痴っぽくなるのは、自分が自分の利益に対して正直に行動していないときなのです。やりたくないことにノーと言わないときなのです。そういうとき「してやったのに」となります。これは自分の責任です。

 自分の利益を代表し、伝達し、守るのは、自分自身の責任です。相手との交渉において、自分の利益をきちんと主張し守るのは、他の誰の責任でもなく、自分自身の責任なのです。

 自分の利益をちゃんと考え、無視したり偽ることのないようにしましょう。

 自分の利益を考えることは恥ずかしいことではありません。自分の利益だけを考えることは恥ずかしいことですが・・・

HOW ARE YOU FEELING?

 「あなたは今どのように感じていますか?」

 これはカウンセリングでは結構大事な質問です。でも、これにちゃんと答えられる人は案外少ないのです。

 自分が今何を感じているのかを言語化できる人は少数派です。多数派は、自分が今「考えていること」を答えます。「感じていること」ではなくて。

 FEELING を答える代わりに、THINKING を答える人が多い。

 これは、私たちが自分のフィーリングや感情を言語化することを訓練されていないからです。慣れていないからです。

 自分の思考はすぐに意識できるけれど、感情はすぐに分からないし、分かったとしても言葉に出すことに抵抗がある。

 フィーリングを言葉にして表現するということは、自分の内面をさらけ出すということなので、無防備になることを意味します。だから、相手と心から交わろうという気がないと、またそうしても安全だという確信がないと、なかなかできない。

 距離をもって付き合おうという相手とは、フィーリングはできるだけ伏せておいて、「考えていること」だけを表現すれば安全だと感じるものなのです。

 つまり、思考は相手と心の距離が遠くても交換できるのに対して、感情は心の距離が近くないと交換できません。 

 ということは、心の悩みや問題に取り組もうとするとき、普段近所付き合いでやっているような、外交的で思考中心のコミュニケーションでは浅過ぎて問題の核心になかなか届かないのです。

 なので、カウンセリングでは感情を表現しもらい、また感情のさらに奥に隠れた欲求や信念まで見えるように探求をしていきます。でもこれはクライアントにとっては怖いと感じることがあります。よほどカウンセラーを信頼していないと心の奥をさらけ出せません。

 ということで、心の深いワークをするときには、クライアントとカウンセラーとの間に良いラポール(信頼関係)があることが大前提となります。クライアントが「このカウンセラーだったら、心を開いて奥を見せても傷つけられる心配はない。暖かく寄り添ってくれるし私の味方にになってくれるだろう」という信頼感がなくてはならないわけなのです。

 思考について話すということは、感情をさらけ出すことを避けて自分を守りたいときには最適な自己防衛策となります。しかし、思考にばかり意識が行っていると、問題は解けません。なので、カウンセラーとして私はクライアントに時折、フィーリングに意識を向けるよう促すのです。

 「あなたは今どんな風に感じていますか?」と聞くのです。

 感情やフィーリングとは、「ホッとしている」とか「イライラしている」とか「不安だ」とか「絶望している」とかそういうことです。評価や判断や意見ではありません。肉体感覚を伴った心の中の雰囲気のようなものです。

 思考が動いているのが意識の地表に近いところだとすると、感情が動いているのはそれより一段階深い地層なのです。より内面に入ったところで経験しているものなわけです。

 「子供が学校へ行かないのを見て、どう感じますか?」と私が尋ねたとしましょう。

 親が「どうして行かないのだろうと思ってしまいます」と答える。これは表面の思考です。

 この親に不安があるのか、怒りがあるのか、さっぱり分かりません。感情が出ていません。

 「どうしてこうなるのだろう?」という問いをする人が多いのですが、これは心の深みに全く触れていない言語なのです。

 そこでさらに私は尋ねます。「どうして行かないのだろうと思うとき、あなたの体の中はどんな感じがしますか?」と。

 これは体内のより深い所にクライアントの意識を誘います。

 ようやくこの人は「不安です」と答える。

 そう、これがこの人のフィーリングであり感情なのです。

 「私は子供が学校へ行かないのを見ると不安を感じる。」これは自己認識としてはさっきよりずっと深いのがお分かりでしょうか。

 「どう不安なのですか?」とさらに掘り下げる。

 そうして、この不安が姑から非難されるのではという不安なのか、子供が自分と同じように受験や人生に失敗してしまうのではという不安なのか、はたまた全く違ったものなのか、これを意識化することで心の探究が進みます。

 心の問題というのは、本人が見えていないところの、無意識の領域の事柄が絡んでいることがほとんどです。そして、この「自分から見えていない心の部分」に光を当てて、知ることによって、問題を理解して解決していくことが可能になります。そして、見えていない部分を知るには、頭の中で見えていることを考えてもしかたがありません。思考しても解決はできないのです。体の感覚に表れるフィーリングや感情の中に、無意識へ降りる階段があります。だから、フィーリングや感情に焦点を当てることが重要なのです。

 心の奥へと階段を降りていくことで、奥に隠れているものが表に出てくる。表に出てくることで初めて心の問題が解けます。

 そういうわけで、How are you feeling? という質問は極めて重要な役割を果たすのです。

感情をコントロールしてはいけない

 怒りや不安や自己嫌悪などの「マイナス感情」に悩む人の多くは、「私は感情をコントロールできるようになりたい」と言います。

 この言葉を聞くと、私の心には「赤信号」がつくんです。

 「あ、この人は感情をコントロールするものだと思っているんだ。」 

 多くの人は、自分がマイナス感情に振り回されるのは、それらを制御できない自分に問題があると認識しているようです。

 そういう人の頭の中では、クールで理性的で、感情的にならず、理路整然とあらゆる状況に対処できている大人のイメージが理想としてあるのかもしれません。

 しかし、「マイナス感情」に悩まされる人の問題は、本当に「感情がコントロールできていないこと」なのでしょうか。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 ここで少し別の方向からお話をしようと思います。

 もしあなたが夫で、妻が家事を最近やらないとしましょう。お皿がシンクに溜まっている。リビングにも掃除機をかけた形跡が1週間もない。

 このときに「私は妻をコントロールできていない」と言いますか。

 もしあなたが親で、子供が宿題をしないとしましょう。算数の点が悪い。勉強しろと何度言っても効果がない。

 このときに「私は子供をコントロールできていない」と言いますか。

 「妻をコントロールする」とか「子供をコントロールする」という発想をする人がいたら、それはかなり傲慢ですよね。

 「自分さえしっかりしていたら、妻や子供は自分の理想通りに動くはずだ」という暗黙の前提がある。「妻と子供が理想通りに動かないのは、自分のコントロール能力が足りないのだ」などと思う夫を私は持ちたくありませんね。こういう発想をする人には、妻や子供が自分とは別の人格であり、それぞれ自分とは違った意志や都合や感情のある存在だという感覚が乏しい。つまり人として尊重してはいないのです。

 これは、動物を飼い慣らそうとする感覚に似ています。

 隣りの犬はちゃんと「お座り」「お手」をするのに、うちの犬はしない。「私は犬をコントロールできていない」と考える。これとそっくりではありませんか。 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 「感情」も「妻」や「子供」と全く同様に、「コントロール」などすべき相手ではありません。

 「妻」や「子供」の身になってみると、自分をコントロールしようとする夫(父親)に、自分は大事にされていないと感じて悲しくなることでしょう。自分のことをちっとも分かってくれないと思うでしょう。当然のことです。

 実は「感情」も同じなのです。「感情」の身になってみると、自分のことをちっとも分からないで、制御しようとしている主(あるじ)に対して、自分は愛されていないと感じて悲しくなるものなのです。

 「感情をコントロールしよう」という発想の人は、多くの場合、感情というものを忌み嫌って、なくしたいと思っています。

 そして、「なくしたい」と思って敵対しているから、感情はますます膨れ上がり、主(あるじ)を悩ませているのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 では、自分が怒りや不安や自己嫌悪に悩まされているとき、それらの「マイナス感情」にどのように接すれば解決に向かうのでしょうか。

 それは、「家事をしない妻」や「算数の点が悪い我が子」に接するように接すればいいのです。

 まず、自分が望む形を押しつけないことと、自分から見えていない相手の気持ちや事情を理解しようと聞き手に回ったコミュニケーションをとることが大切です。

 妻には、「最近、家事をしていないようだけど、どうしたの?」「具合でも悪いの?」などと聞いてみる。「家事をしろ」と命令して結果だけを急ぐと、妻は強制されているように感じて心を閉ざす可能性が高くなります。あくまでも、理解しようとして聞いているという心が伝わらなくてはなりません。「家事をさせよう」という魂胆でコミュニケーションをすることはお勧めできません。心を繋げることを主目的とし、結果はオープンにしておくことが鍵です。

 子供には、まず宿題をしろとか勉強しろとか命令することをストップする必要があります。宿題をするしないは子供の課題であり、親が強制してやらせることではありません。宿題をしないことでその結果を本人が被ることで学んでもらうことが大事なのです。子供から援助を求められない限り、親は子供を放っておくのがベストです。放っておかずついつい手を出してしまう親には、このまま勉強できなかったら自分みたいになってしまうとか、親本意の不安があることが大部分。親の安心のために勉強させようとしているという意味で、親が情緒的に子供に依存しているわけで、これは子供への愛ではなく恐怖心なのです。つまり、勉強ができない我が子を見て親の中に生じてくる劣等感や不安などに気づいて、親自身の課題として向き合うことが大事ということになります。

 さて、では自分の「マイナス感情」とはどう接すればいいでしょうか。

 怒りや不安や自己嫌悪をまずは理解しようとして、聞き手に回って質問をして、奥にある欲求や考え方などを教えてもらうことです。怒りや不安や自己嫌悪が不快だからと言って毛嫌いしていると、大きくなっていきます。なので、敵対するのをやめて、深く対話をするのです。

 別人に話しかけるかのように、「怒っているようだけど、どうしたの? どうなったら嬉しいの?」と尋ねるのです。まずは感情のよき理解者になるのです。そして、解決を一緒に考えるという姿勢をもつことです。

 そうすると、「コントロール」などしなくても、最も自然に「感情が解けていく」のです。

 何かを「コントロール」しなくては、という発想をしているとき、相手と自分との間にコミュニケーションの断絶があると考えて間違いありません。断絶があるから、特定の結果を押しつけることでしか解決するイメージができません。 

 相手の心の奥を知ったら、全く違った解決の景色が見えてくるのに、です。

 私たちは、理解できないもの、受け入れられないものを「コントロール」しようとします。理解し受け入れたものは「コントロール」などする必要はありません。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 感情をコントロールしてはなりませんが、「感情的になること」はコントロールしなくてはなりません。

 怒りを抑圧すると解決から遠ざかるのでお勧めしませんが、怒りが相手への暴言や身体的暴力に表現されようとするとき、その破壊的衝動は意志の力で止めなくてはなりません。

 怒りを受容するからと言って、そのエネルギーが無批判的に外に出るのを許すわけではないのです。

 不安を受容するからと言って、そのエネルギーが無批判的に外に出るのを許すのではありません。

 自分の中にコンテイン(留めておく)しながら、外に漏れない状態で聞くのです。

 「マイナス感情」はある意味「野生の猛獣」のようなところがあります。

 ちゃんと「檻」を作って、そこから出ないようにしないと、周囲の人に迷惑がかかります。「檻」から出さないということが「感情的にならない」ということです。

 けれども「檻」の中に閉じ込めておくだけではダメです。閉じ込められた「猛獣」はどんどん不満になって、様々な方法で訴えてきます。気づかない振りをしていると、間接的に出てきます。なので、「猛獣」と対話をして、「猛獣」の怒りと不安と自己嫌悪が収まって解決する方向で接することが大事なのです。

「感情的になること」はコントロールしなくてはならない
「感情」はコントロールせず深く聞くことで解いてあげる
 

「自分を愛している人ならどうするか?」と問う

 何かに困ったり悩んだりしたときに、唯一答えを出さなくてはならない質問があります。

 それは「この状況で、自分を愛している人ならどうするか?」というものです。

 そして、自分から出てきた最も正直な答えを実行するのです。

 リストラに遭って自信喪失している。さて、「自分を愛している人ならどうするか

 もし自分の答えが、「くよくよせず、何とかなると自分を信じてあげる」だったら、その通りにするのです。

 「とりあえず、お風呂に入って寝る」だったら、その通りにするのです。

 「友達の家に行って泣く」だったら、その通りにするのです。

 「近所の食堂でオムライスを食べる」だったら、その通りにするのです。 

 仕事から疲れて帰って来たら、子供が遊んでくれと言う。遊んでやりたいけど、疲労困憊している。食事も作りたくない。さて、「自分を愛している人ならどうするか?」 

 もし自分の答えが、「子供にごめんねと言って寝る。食事は出前をとってもらう」だったら、その通りにするのです。

 「お風呂に入って30分リラックスしたら元気になるだろうから、それから遊ぶと伝える」だったら、その通りにするのです。 

 「今日は疲れているから、ピザ屋さんに食べにいく」だったら、その通りにするのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 「自分はどうすべきか?」とか「自分はどうするのが良いのか?」と思考に尋ねるのではありません

 愛に尋ねるのです。

 愛は自分にどのように答えてくれるのかを問うのです。そして、愛の答えに従うのです。

 自分を大事にする答えは、必ず他人にも良い影響をもたらします。

 なぜなら、愛は常に公益の次元からもたらされるからです。
 

「人を助けたい病」「必要とされたい病」

 これは親や教師やカウンセラーなら誰でも一度は罹る病気かもしれません。

 「人を助けたい病」「必要とされたい病」です。 

 自分が教えた生徒ができるようになる。喜ばれる。感謝される。そうすると嬉しい。カウンセリングをしてクライアントが楽になったり問題が解決して感謝される。そうすると嬉しい。

 ああ、自分は人の役に立っているんだという喜びが湧いてくる。

 ここまではいいんです。何も問題はない。

 その喜びに虜になるんですよ。そして、またあれを感じたいと求め出す。

 人を助けられる自分に力がある感じがする。自分は無力じゃないんだ、無価値じゃないんだと感じると嬉しい。そして、それに依存する。執着する。

 そうすると、自分の満足のためにカウンセリングをしたり、教育をしたりし始めてしまうのです。

 自分の空虚感や自己嫌悪や孤独が少しでもあって、それに向き合っていないと、その癒されていない痛みを和らげるために、人に貢献をしてしまう。そして、自分の心を癒すために、人に必要とされることを知らず知らずに求めてしまうんです。

 これを私は「人を助けたい病」「必要とされたい病」と呼んでいます。

 この病気にかかると、クライアントや生徒が来なくなると不安になったり動揺したりイライラしたりするんです。必要とされている間は元気なんです。人を助けられていると感じている間は元気なんです。でも、思うようにならないと途端に心が動揺し始める。

 それはちょうど、子供が親離れをし出すころ、子供に必要とされていることで精神的安定を保っている親がブルーになるのに似ています。

 生徒や子供やクライアントに感情的に依存しているんですね。彼らに必要とされることを自分が必要としているんです。相手が自分に頼ってくれていることで精神的安定を保っているわけで、彼らを助けているように見えて、実際には自分が相手に頼っているんです。 

 これは「共依存」の関係です。

 これが危険なのは、悩み苦しみで困っているクライアントを純粋に支援できなくなるからなのです。この状態だと、カウンセラーは無意識のうちに「私が生き甲斐を感じられるように、私のところに来てちょうだいね」というエネルギーを相手に発しています。そして、クライアントは自分の目的とは違うことで求められていることに違和感を感じるかもしれません。またカウンセラーに依存されることが嬉しくて、自分の悩みを解くためではなく、必要とされる喜びを感じるためにカウンセリングに通ってしまうなんてことにもなりかねません。

 カウンセラーの動機がこのように混濁していると、純粋なセラピーができなくなります。

 私もこれまで何度かそのような症状が出たことがありました。その度に、自分の傷を癒していきました。そして、クライアントとの関係をより健全でバランスのとれたものへと移行させていきました。

 親や教師やカウンセラーも完成された人間ではありませんので、時折そのように自分の弱い部分が出てくることがあってもそれほど落ち込む必要はありません。

 ただ、放っておかずに、きちんと対処することが大事だと思います。

 対処するとは、その関係によって刺激されて出てきた依存心と傷に向き合うということです。これによって、親や教師やカウンセラーも、子供や生徒やクライアントとの出会いを通して、さらに成長していけるのです。 
 

感じることへの恐怖

 多くの人には「感じたくないこと」があります。それは不安かもしれず、自己嫌悪かもしれず、孤独かもしれません。とにかく、「これは絶対に感じたくない」「これは二度と味わいたくない」と力んでいるものがある。

 そうすると、それを避けることが自分の中で至上命令になってきます。

 でも、自分がそれを感じないように力んでいるということを自覚してはいません。

 意識に上るのは、すべて自分にとって正当だと思えることばかりです。

 多くの人は、自分が本当に欲しいことと、自分が本当に避けようとしていることの本質が見えていません。そして、欲求と恐怖は、オリジナルが全く見えないような形に化けて、今の現実に投影されています。

 「このまま結婚できなくて孤独死したらどうしよう?」と不安がっている人の本当に怖れていることは孤独死ではありません。 

 これまで感じることを避けて来た「孤独の寂しさや悲しみ」が心の底に溜まっていることを薄々知っているのです。そして、その自分の感情を感じることを拒否している。それを感じなくてはならない、という状況になることを怖れている。

 つまり、この人は将来を怖れているように見えますが、実はこれまで拒絶してきた孤独感に触れることが怖いのです。

 自分の中に抑圧し否認されている孤独感は影となって自分からは見えない。自分の中にはないことになっている。なので、将来を考えたとき心の底に実際にある孤独感がうずきます。そのうずきが「将来への不安」のように見えているだけなのです。

 この人が怖れているのは、感じることです。何を感じたくないかというと、これまでの人生で味わってきたところの孤独感。しかも、すでに過去に感じないように感じないようにと蓋をして来た孤独感なのです。

 ではどうしたらいいのか。

 将来孤独になる不安を抱えている人は、これまで実際に寂しかったという事実に気づいて認めることです。そして、人との繋がりを感じたくても感じられず辛かったのだという過去の本当の感情を認めてあげることです。そして涙を流して癒してあげることです。

 これまで感じないように避けてきたこと、それが恐怖の本当の対象です。

 言い換えると、自分自身の心の闇を怖れているのです。怖れているものの実体は、外にあるのではありません。自分の中にあるのです。

 決して将来を怖れているのではありません。実際に過去に味わったことを怖れているのです。その意味で、怖れているのは過去の再来であると言ってもいい。

 人間は知らないものを怖れることはないと言います。未知を怖れるのは、既知の中にある受け入れられないものを怖れているに過ぎないと。過去の痛みを未来に投影しているだけだと。

 なので、今現在心の中にすでにある感情で、感じないようにとして来たことは何かを問うのが速いです。

 それを感じてあげてしまうと、感じたくないという恐怖は消え去ります。もう感じてあげてしまったのですから。そうすると、将来への不安は消えます。

 怖れている対象は、掴みどころのない将来ではなく、体の現実の中で実在する何かなのです。それをはっきりと見ることです。

 感じるのが怖くて避けていることを感じてあげるには勇気が要ります。しかし、それを通過すると、未消化の過去が消化されて心が成長します。

情緒的自立の4段階

 人間は誰でも尊重されない、理解されない、愛されない、共感されない、平等に扱われないという苦しみの体験をもっています。

 誰でも最初は自分で何もできない赤ちゃんから出発していて、すべてを他者に頼らなくてはならない。そして、他者が満たしてくれなかった欲求によって傷つくという体験をします。 

 たいていの人は、周囲の人に満たしてもらえた喜びの体験と、満たしてもらえなかった悲しみの体験を半々抱えています。よほど恵まれた環境であれば喜びの方が多い。またキツい環境であれば悲しみの方が多い。そういう差はありますが、どちらか一方しかないという人はいないでしょう。

 さて、愛されなかった痛み、守ってもらえなかった痛み、寄り添ってもらえなかった痛みとどう向き合うかによって、情緒的発達が左右されます。

 痛みを完全に否認して、表面の自己防衛的マスクと完全に同化して生き延びている段階の人は、自己防衛的人格をしています。そして、痛みがあることにさえ気づいていません。

第1段階 否認と防衛的性格

 この段階は最も情緒的自立からは遠く、自分の内面と外側が完全に分離しています。

 本当は父親のワンマン性格が大嫌いなのだけれど、それを認めると生きていけないので、父親を喜ばせる「良い子」として生きている。それだけでなく、それが本当の自分なのだと思い込んでいる状態です。

 父親によって自分の気持ちを無視されている痛みは否認されています。

 この人はまだ父親なしでは生きていけないので、父親に従属することを選んでいる。そういう意味では、共生関係であり自立性はありません。

 この段階にいる人は、父親と自分との間に問題があることさえ認識できません。自分に不満があると認めることは死ぬほど怖いのです。生きていけなくなるほど怖いのです。なので、関係性の問題が表に出てくることはありません。問題がないことになっているのです。

 「良い子」として生き、他の部分は抑圧されています。「良い子」を演じることで、不満の痛みを感じないように自分を守っている。なので「防衛的」と言えます。

 この段階の人に、「お父さんはちょっと権威主義的よね?」「あのお父さんだったら辛いんじゃない?」なんて誰かが質問しようものなら、その人は大きく動揺して、「そんなことはありません!」と否定するかもしれません。隠しておきたい暗部をつつかれると動転するのです。

 本当の気持ちを否認することで、なんとか精神的安定を保っています。

第2段階 依存と敵意

 この人が精神的に成長すると、不満と怒りを意識できるようになります。「お父さんは、私のことを全然聞いてくれないじゃない!」と怒りをぶつけられるようになります。「お父さんは、自分のことしか考えてないのよ!」と不満を表現できるようになるのです。

 多くのティーネイジャーが反抗期で経験するのは、この第2段階です。それだけ自分を出せる強さが成長してきたわけなので良いことです。

 親から十分に愛されなかった不満が残っている人が恋愛をすると、恋人があれをしてくれなかった、これをしてくれなかったと言って不満になり、怒ります。これは親との間の心理的問題を恋人と絡むことで解消しようとする段階です。

 自分の話を聞いてくれない恋人に意地悪をする。料理作ってあげないなどといって仕返しをする。

 このように、一方で相手に愛を求めながら、与えてくれない相手を怨む。仕返しをする。相手への依存と敵意が混じった人間関係になります。

 第1段階では不満を意識することさえ怖かった。無力な犠牲者になり切っていた。それと比べると、「こうして欲しいのにしてくれない」と言って不満を表現できるというのは大きな前進です。

 「私は大事にされたい」「私は愛されたい」「私の話を聞いて欲しい」と自分の欲していることを表現できるのですから、これは自分を大事にできる方向への一歩です。

 しかし、この段階ではまだ「相手に満たして欲しい」と思って依存しているという意味において、まだ情緒的自立は達成されていません。あくまで「相手に満たしてもらわねば困る」というスタンスなのです。

 相手に甘えているんです。そして甘えが満たされないとき、満たしてくれない相手に敵意を持つ。これはある意味幼児的な情緒です。

 30代・40代・50代の大人であっても、情緒的成熟度がこの段階である人はかなり多いです。

第3段階 癒しと許し、そして自己認識の広がり

 カウンセリングや心理療法を受けることで自己変容に取り組む人はこの段階へと至ります。

 自分はなぜ恋人のちょっとしたことに動揺し怒ってしまうのだろうかと問い始める。ちょっとした批判でイラついて相手を拒絶したくなるのはどうしたことかと問い始める。

 不安や自己嫌悪や執着の反応をしている自分を理解したいと思うのです。

 そして、自分が変わることで情緒的反応が変わるかもしれない。親を怨むのではなくて、親を怨まないで済む段階にまで成長したいと真摯に思うのです。

 第2段階ではまだ自分が犠牲者になり切って、自分が苦しいのは親や恋人のせいだということになっています。

 しかし、そのように相手に文句をぶつけて何年も経つが一向に事は改善しない。そして、とうとう、自分の中に原因があるのかもしれないということに気づくのです。

 この段階では、自分の奥に隠れている「傷ついた子供」を救い出して、その辛い気持ちを十分に聞いてあげます。軟禁状態から解いてあげ、以前は表現を禁じていた感情を自分の一部として取り戻すワークをします。拒絶と分裂が受容と統合へと進むのです。

 また、「傷ついた子供」を守るために、堅い殻のような防衛的性格を作り上げたことにも気づきます。相手に依存的になったり、迎合的になったり、あるいは攻撃的になったり、支配的になったりといった防衛的性格のすべては、二度と傷つかなくていいようにこしらえた心の壁だった。

 その防衛的性格の果たして来てくれた役割に感謝しつつ、「傷ついた子供」を自分で救い出して自分で認知し自分で守れるから、もう働いてくれなくていいよと言って解雇してあげる。

 そうすると、内と外でぱっかりと分裂していた自分の意識が、はじめて繋がるんです。人格が統合されるんです。「傷ついた子供」を奥に隠して、表面では相手に依存し攻撃する性格を演じるという二重生活をもう送らなくていい

 あるがままの自分でいる心地よさを数十年ぶりに味わうんです。生まれたときにはあった自己統一感。育っていく過程で周囲に適応することで失った自己統一感。それを取り戻すのです。

 そう、自分を取り戻すのです!!

 このワークを通った人は、それ以降、自分の欲求を満たしてあげるかあげないかの選択は自分の手中にあることを悟ります。自分の満足・不満足を決定するのは自分であることに気づくのです。相手は自分を満たしてくれることもあれば満たしてくれないこともある。いずれにせよ、自分の欲求を尊重し、理解し、それが満たされるように相手と境界線をこしらえて距離感を決定し関係の性質を決めるのは自分自身であると分かります。

 ここまで来ると、「傷ついた子供」が癒されて、トラウマの再来を無意識に恐怖するというパターンから徐々に解放されます。親や恋人の限界や未熟さを許せる余裕も少しずつ出てくる。

 この第3段階は、一瞬で終わってしまう短期的なプロセスではなく、何年も続くのが普通です。

 奥に埋もれていた心の膿を徐々に出してすっきりする。それとともに防衛的性格を少しずつ必要としなくなる。いろんな気づきが少しずつ起こる。相手への依存と敵意がそれに伴ってちょっとずつ減っていく。このようにして、少しずつ少しずつ自立へ向かうのです。

 この自立へ向けた歩みが進むほど、自分の幸福は相手が満たしてくれるかどうかではなくて、自分に掛かっているんだという実感になっていきます。

 幸福の鍵を他者が握っているという自己イメージの中では、自分は無力で幼稚で頼りない犠牲者です。しかし、甘えと敵意を手放して、少しずつ自己責任を背負っていくにつれて、幸福の鍵を自分で握るようになる。ということは、相手がどのように出てきても大丈夫な自分軸というものがはっきりしてくるということでもあります。これが精神的自立なのです。

 自立する前の自分は、愛してくれる人と愛してくれない人に接するとき、愛してくれない人を怖れているので受け入れられない。けれど、自立するに従って、愛してくれる人も愛してくれない人も自分の期待とは離れて「その人」として理解することができるようになる。そして、愛してくれない人が脅威ではない。なぜなら、愛してくれない相手に愛を求める必要がないからなのです。

 愛してもらえなかったら自分で自分を愛せないという状態ではもはやないので、相手の愛を必要とはしていないのです。生きるためにすべての人間の愛をもらわねば、とは思っていない。だから、愛してくれない相手を怖れる必要はもうないのです。

 精神が未熟なほど、相手に完璧を求めますし、自分が自分を満たせないことは棚に上げて、相手は自分を満たさねばならないと要求してしまいます。

 この強迫的依存から徐々に自由になるのですから、相手への過大な期待によって自分が苦しむということが減っていきます。満たしてくれる相手も満たしてくれない相手も、「人間なんだなあ」と俯瞰できる余裕が出てくるのです。そして第4段階へと進みます。

第4段階 自己責任と共存共栄

 相手の言動によって心が乱れたり不満になるたびに自分と向き合い、自分の中にある信念やトラウマ感情などを癒していく作業を続けていくと、相手が満たしてくれないことを怖れなくなります。

 自分が恐怖していたものは、自分の無意識にある痛みの再体験だったと分かりますので、相手の言動によって感情があちらこちらに揺れるということが減ります。相手を怖れなくなります。

 最終的に自分が満足かどうか、幸福かどうかを決定するのは自分の感じ方や捉え方なのだと理解するにつれて、自分軸と相手軸がはっきりと見えます。自分の責任と相手の責任を混同しなくなります。相手と自分の境界線がはっきりするということです。 

 無意識で相手に満たして欲しいという要求があるときには、相手を自由にしておけません。相手を縛ろうと意識しなくても縛ってしまうものです。

 このように、無自覚な人ほど相手を知らず知らずにうちに支配しようとしますが、自立するにつれて相手を支配したいと思わなくなります。相手を自由にしておきながら、相手を大事にできるようになる。これが本当の愛です。支配して思い通りにしようというのは執着であり恐怖です。

 執着と支配から脱して、自由を元とした愛を持てるようになると、喜びから与え合う共存共栄の人間関係になっていきます。

 この関係においては、すべての人との関わりは、ウィンウィンを目指す豊かなものとなります。

 相手に期待できることとできないことを弁えて、期待できないことを諦めることもできます。 

 そうすると、あらゆる人との関わりが民主的で水平的で、本心に根ざした誠実なものになります。 

 情緒的自立を達成した人は、甘えと敵意によって自分の心を焦がすということがなくなり、深い安らぎを得ます。 
 

向き合いたくないことに向き合うと

 人はしばしば「隠しておきたいこと」「認めたくないこと」「蓋をしておきたいこと」を持っているものです。

 目を反らしておきたい自分の一部。自分の中にないことになっているもの。

 そして、そういう「自分のタブー」が多ければ多いほど、取り繕わずにコミュニケーションはできません。相手に見せるマスクと内心とのギャップが大きいということです。

 感じたままの自分でいられるということは、相手に見られても困る部分がない、知られたら怖いという部分がないということです。自分が認められない自分がポロッと外に出ることを絶えず警戒していなくてもいい。自己防御しなくていい。

 けれど、「蓋をしておきたいこと」が多い人は、常に相手に嘘を演じていなくてはなりません。

 嘘を演じているので、相手と本当に心が通い合っている実感はない。そして寂しい。

 仮面夫婦、仮面親子、仮面友達、仮面同僚の関係になります。

 カウンセリングの過程とは、「隠している自分」を認めて表現してあげることによって、外に出す自分と内奥の自分を一致させる作業です。

 内と外が一致するというのは、美味しいときに美味しいと言い、やりたくないときにやりたくないと言える清々しさです。自分のままでいることを許す心地よさがある。喜びがある。

 内と外が一致することを「自己一致」と言います。ロジャーズは、カウンセリングとは自己不一致から自己一致へとクライアントを導くことだと考えていました。

 これは勇気のいることなので、誰もがすぐにできるものではない。人によっては仮面を外すことを長い間拒みます。向き合いたくないことが存在することを認めることさえできない。自己不一致があると考えてみるだけで怖い。

 深いところで自分に嘘をついてきた、自分を偽ってきたということを認めるには、勇気と潔さがいります。

 そして、人生の悩み苦しみの中には、自己不一致だからこそ生まれているものが少なくない。つまり、自分を偽っているから苦しいときに、偽っていることを認めなければ苦しみ続けるしかない。なので、成長するために偽りを認められるようカウンセラーはクライアントと関わる。けれど、クライアントは怖い。なので拒み続ける。

 クライアントは自分の恐怖と成長欲求との間で揺れ、「どうしようかなあ。成長しようか。でも成長するのは怖い。これまで知っている現実を捨てるのは怖い。でも変わらなくては苦しみはなくならない。勇気をもって自分に正直になろうか」と葛藤する。

 そして、多くの人は怖くて向き合えなかったもの、怖くて認められなかったものを直視し、自己不一致を是正する道を選びます。「自分のタブー」を破るのです。仮面を脱ぐのです。

 こうして成長する道を選んだ人は、自己認識を根底から変容させ、感情を大きくシフトさせ、人生の新たなチャプターを生きる権利を獲得します。

 勇気をもって変化を抱擁した人には、拡大した意識と新しい幸福がご褒美として待っています。

 成長するとは、幸福になるとは、自己実現するとは、勇気をもって自分自身であることなんです。

答えは問いの中にある

 問題を解くとき、答えのない場所を探してもしょうがありません。

 苦しんでいる人はしばしば「なぜ私はこんな目に遭わねばならないのだ?」と問います。

 「なぜ私はゲイとして生まれなくてはならなかったのだ?」などと。

 こういう問いは、現実を拒絶したい心が発しています。そして、質問の目的は拒絶を正当化することです。心の外に説明を求めます。自分が満足できる説明を。

 しかし、拒絶から出発した問いを鎮められる解答は、拒絶から離れた外側にはありません。

 この問いの根っこにある拒絶にこそ、解決の鍵があります。

 質問には死角があります。質問する人には見えていないものがあります。それが見えないから質問しているのです。

 そして、見えないままで外側に答えを探す限り答えは見つかりません。

 問いそのものを理解する中に、問いから自由になる可能性が出てきます。

 そう、問いを理解することが答えに至ることなのです。

 なぜ私は「なぜ私はゲイとして生まれなくてはならなかったのだ?」と問うのだろう? この問いはどういうところから発せられているのだろう? と問うのです。問いを分かろうとするのです。 

 多くのクライアントは「どうすればいいのでしょうか?」と問います。

 この「どうすればいいのでしょうか?」という問いは、いったいどこから発せられているのでしょうか? 不安ですか? 拒絶ですか? 怒りですか?

 その不安の正体は何でしょうか? その拒絶の正体は何でしょうか?

 なぜあなたはそのような問いをしているのでしょうか?

 問いの根っこは何でしょうか?

 ラマナ・マハルシは、真我はあらゆる問いへの答えであり、そこでは問いが止むと言っています。

 動揺や恐怖から生まれる問いは、問いを必要としない平安や愛によって消えます。

 妄想から生まれた問いは、それが妄想だと看破する智慧によって滅します。

 妄想であるという死角に気づかないまま問い続けても、答えが見つかることはありません。

 問い自体に真実がないからです。

 間違った問いは私たちを袋小路へと誘います。それを問い続けたところで、決して解決には至りません。それを問うこと自体が苦しみの正体だからです。平安と愛と喜びに至るには、真の解決に至る質問をしなくてはなりません。正しい質問を形成することは、智慧の働きであり、解決に不可欠なことです。

 真実に出会ったとき、迷いから生じた問いは姿を消します。もう答えを探す必要はないのです。

 太陽が出てきたとき闇が消えるように、恐怖や嫌悪から出た質問は愛と平安によって消え去ります。

 質問に答えようとする前に、その質問を問うことが気持ちよいか暗い気持ちになるかをよく味わってください。問うことが暗い気持ちにさせるような場合には、その問いは間違っています。問いそのものが苦しみなのです。問うことが自由や光や愛に向かっている場合には、まだ解決されていないにしても、明るいほうに向かっているという心地よさがあります。

 すべての人間は、自分の考えていることが愛や光に向いているか、闇や嫌悪や無知や破壊に向いているかを察知できるようになっています。

 一方は明るくいい気持ちがし、他方は暗くイヤな気持ちがするのです。

 暗くイヤな気持ちがするとき、あなたの問いは苦しむ方向に向いています。方向転換して、もっと適切な問いを見つけてください。
 
 「なぜ私はゲイに生まれなくてはならなかったのか?」と問うて暗い絶望的な気持ちがするとき、その問いは自己嫌悪と自己拒絶の表れに過ぎません。なので、この問いを50年問うても幸せはやってきません。問い自体が間違っているのです。

 「私はゲイである自分をどのように愛せるだろうか?」「ゲイである自分が幸せになるには、どのような考え方や生き方をしていけばいいだろうか?」と問うて解放される気分になるなら、これらの問いは愛と光に向いています。それは誰でも体の中の実感として判断できるのです。
 

最も自然に英語を身につけるには

英語習得の全貌を中学時代で掴んでしまった

 私は中学時代に、「こうすれば英語がペラペラ話せるようになる」というからくりの全貌が見えてしまいました。

 そして、そのヴィジョンに忠実に勉強をし、高校3年で英検1級に合格し、上智大の英語学科を卒業した後、アメリカの大学院に行ったときには、すべての授業について行けました。アメリカへ行って言葉の壁を感じたことはありません。

 アメリカで働くようになって、日系アメリカ人だと間違えられたのは2度や3度ではありません。英語のネイティブにネイティブだと間違えられるほどの自然な英語力を私が身につけられたのは、中学時代に英語を話すために最も自然な脳の使い方を感覚的に掴んでしまったからだと私は思っています。

 念のために言っておきますが、私は帰国子女ではありません。私の英語力の基礎はメイド・イン・ジャパンであり、英語圏で生活した1年目からコミュニケーションに困ることはありませんでした。

 私は完全にバイリンガルだと自分のことを思っています。テレビも本も映画もYouTube動画も、日本語と英語はほぼ変わりなく理解できます。英語を使うときには、日本語を介さずに意味を感じます。「英語で考えている」ということです。

 高校時代に他の生徒たちがみな長文を上下左右に往来しながら苦戦していたとき、私は英語の順番に素直に読んでそのまま理解していました。英語から直接意味を感じる脳がすでに出来上がっていたからです。

 私がこの記事を書いているのは「威張るため」ではありません。(笑)

 多くの日本人が必要以上に英語を難しくし過ぎているので、「英語で考える」ということが誰にでもできる簡単なことなのだという真実を知って欲しいからなのです。

 もちろん、英語を操れるようになるには、数年の集中した訓練が必要なことは変わりありません。でも、私のやり方を守って頂ければ、3年〜5年の間にコミュニケーションの少なくとも初歩が完成できると思っています。


 多くの人が間違った努力をしているため話せるようにならない中、正しい訓練をすれば、最短距離でマスターできることを私は知っています。そして、そのやり方をお伝えしたいと思っているのです。

英語学習は「肉体の訓練」と「意識の訓練」の2部構成

 私の極意の最も重要なポイントは「意識の訓練」にありますが、その前に「肉体の訓練」もしておく必要があります。

 「肉体の訓練」とは、音を出す練習です。英語を聞いて、文章を声を出して読む、いわゆる「音読」を中心とします。

 日本の中学生と高校生の大部分は声を出さずに英語を黙々と机に向かって勉強しています。これは外国語学習としては最悪です。

 シュリーマンにしても國弘正雄にしても、語学の天才と呼ばれた人はだいたい「音読」が外国語学習の王道であると言っていますし、私も完全に同意します。

 声を出さずに英語を習得しようというのは、水に入らずに泳ぎを学ぼうとするようなものです。

 発音はネイティブと同じ完璧度でなくてもいいとは思いますが、できるだけ英語の音体系の中で意味が異なるものを区別できることは大事です。LとRをまずは聞き分けられ、発音できるということは、やはりクリアしたいですね。TH や F や V など日本語にない音は特に耳と口の訓練が必要です。

 英語の音を出すことを楽しむ。よく聞いて音を出す訓練。これは「肉体の訓練」であり「五感の訓練」なのです。このときに意味を分かっていなくてもいい。だから、歌が好きな人は英語の歌を聞いたり歌ったりすれば素晴らしい訓練になります。

 私が英語教室を経営していた時代には、生徒に合ったレベルの三段落ぐらいの文章を「音読」させていました。すらすら声に出して、ある程度正確に音が出せるように「肉体の訓練」をしました。

 そして、その次の「意識の訓練」へと移行していったのです。

「意識の訓練」とは「意味」と「言葉」の同時想起

 私が教えていた「意識の訓練」は、学校英語教育と一線を画す内容です。これが「英語で考える」プロセスを教えることなのです。

 私は自分の生徒である中学生と高校生にこれを教えていました。 

 各自に合ったレベルの長文1ページほどを選びます。そして、「肉体の訓練」を通して、音を出せるようになったら、次に「音読」しながら英語の順番で「意味」を感じる訓練をするのです。

 日本の学校では、教室で英文を音読させるとき、生徒が棒読みをしていても注意されません。意味を解釈するのは音読が終わった後で構わないのです。

 私はこの「棒読み」を許しませんでした。「棒読み」とは死んだ言葉です。意味を感じずに言葉を発するなどということは、言葉の教育にあってはなりません。

 英語は人間が使う「ことば」なのです。「生きた言葉」なのです。私はこれを伝えたかった。そこに妥協はありません。

 私のところに来たばかりの生徒の大部分は「棒読み」です。

 読み終わったとき、「今の文章、読みながら意味を何%感じてた?」と尋ねると、「30%ぐらい」とか「25%ぐらい」などという答えが返って来ました。

 私が気づいたのは、「意味を何%感じていた?」と尋ねて、答えられなかった生徒はひとりもいなかったということです。

 これはどういうことか?

 人間であれば、言葉を読んでいるとき、意味を感じながら読んでいるのか感じないで読んでいるのかを区別できない人はいないということなんです。

 誰でも「死んだことば」と「生きたことば」の違いが分かる感性を持ち合わせているのです。これはとても明るいことだと思いました。

 「棒読み」に慣れている中学生・高校生は、英語の音を出しながら同時に意味を感じるという脳の使い方を訓練されていません。でも、訓練すればできるのです。その重要性が学校で理解されていないだけなのです。

 「棒読み」をしている生徒をどうするか?

 私はまず、「ゆっくりでいいから、ひとつひとつの言葉の意味を感じながら声を出す練習をしてみて」と言いました。意味が分からなくなったら日本語に訳してよい。でも、音読するときには日本語を挟まないで「意味はフィーリングで感じるだけ」ということにしました。

 こうやって、何度も繰り返して音読させました。すると、最初は音読しながら30%しか意味を感じられなかった生徒が、「50%」「70%」と上がっていきました。

 英語の音を出しながら、頭の中では意味を味わっているという状態を掴んでいったのです。

 彼らの音読は、だんだんと「生きた言葉」に変わっていきました。「生きた言葉」になると、生徒の発する英語を聞いている私の心に意味が伝わって来るんです。感動でした。

 まずは1ページの英文を、声を出しながら意味を感じられる状態にする。それだけで、頭の中に「英語と意味の絆」が育っています

 このようにして、学ぶ英文ごとにこの状態になるまで「意識の訓練」を行うのです。これを2年、3年続けていけば、自然と英語と意味の行き来が速くなります。これが「英語で考える」ということなのです。

 私はこれを10年ほど続けて、ネイティブとほぼ同じレベルになりました。

 この脳の使い方は、英米人と同じなので、最も人間に自然な意識の使い方なのです。そして、これは実は日本人が日本語を使っているときの操作と全く同じです。

 そう、英語を上手に話せるようになるには、私たちが日本語を操るのと全く同じ方法で、英語を操ればいいのです。私たちが日本語を話すとき、意味を直接日本語に盛ります。英米人は英語を話すとき、意味を直接英語に盛ります。それが最も自然なのです。

 そして、意味を英語に直接盛るのは、英語圏で育った人だけの特権ではありません。誰でもできるのです。「意味と英語の絆を育てる訓練」を1年、2年と続ければ着実に身につく、というのが私のメッセージなのです。

まずは翻訳、次に日本語を外して

 最初新しい英文に出会ったとき、分からない単語があったりして、そのまま意味を掴めないのは自然なことです。この段階では日本語に直して、日本語の媒体を通して「意味」を感じればいいのです。

 翻訳してはいけないのではありません問題は翻訳した後なのです。

 翻訳でストップせず、私はその先の一歩を必ず踏んだのです。それは、日本語というお皿に盛られた「意味」を、今度は英語というお皿に盛るという訓練をしたのです。

 意味とは日本語とか英語など特定の言語を超えて人類共通のものです。「犬」という意味を感じるとき、私たちは「犬」という言葉がなくても感じられます。意味は言葉を超えていますが、相手に伝達したいときに「犬」という器を借りて、そこに意味を盛っているだけなのです。

 翻訳するとは、器から器へ変えること。

 英語を日本語に訳して分かる。この状態は、英語というお皿を日本語というお皿に直して、日本語のお皿から意味を感じるという脳の使い方。

 これが第1段階。

 この次に私は第2段階を必ずやった。

 それは、日本語というお皿の助けを借りて想起した「意味」を、今度は日本語というお皿を排除した状態で英語のお皿に直接盛るというプロセスを訓練したということです。

 そうすると、「意味」を想起した瞬間に英語のお皿がイメージとしてパッと出てくるし、英語のお皿を聞いた瞬間、直接「意味」が連想として出てくるという意識を創り上げているのです。

翻訳のプロセス:英語の器→日本語の器→意味を感じる
英語脳のプロセス:英語の器→直接意味を感じる、意味を感じる→英語の器が出てくるように訓練

意味はコンテクストとして使う人の気持ちを想像する

 もう1つだけ、私が心がけていたことをお伝えしましょう。

 「私は先週東京に行きました」と言いたければ、英語では・・・

 "I went to Tokyo last week." になりますよね。

 この1文を「英語脳」で音読するとすれば、まず意味を感じなくてもいいから、すらすらと音を出せるように練習します。次に、最初は日本語訳の力を借りながら意味を想起し、だんだんと英語の音を出しながら、同時に意味を感じるように持っていきます。

 このときの「意味の感じ方」なんですが、多くの人は「私は先週東京に行きました」という言葉通りの額面通りの「機械的な意味」を頭で理解するに留まっているんです。

 ところが、私は中学のころから、意味の感じ方をコンテクチュアル(前後関係、文脈、状況)なものとして体験していました。

 つまり、「私は先週東京に行きました」と言いたい気持ちのこの人って、どんな気持ちなのだろう? どこにいて、誰に向かって話しているんだろう? という状況そのものと心情を私は想像しながら英語の練習を常にしていたのです。

 話す人の気持ちそのものを想起することが、意味を味わうということなのです。

 つまり、私は英語の勉強をしながら、感情を想像しながら、その人になったつもりになって、内面ではお芝居をしているかのような感じだったんです。

 そして、新しい表現を習うたびに、「わあ、嬉しい。今度はこんな新しいことも言えるようになる。新しい状況でこんな複雑な内容も言えるようになる」とワクワクしていたんです。

 なので、この文であれば、喫茶店で幼馴染みと久しぶりに会ってコーヒーでも飲みながら、「ところで、先週東京へ行ったんだけど」と言っている場面を想像する。

 そして、"I went to Tokyo last week." と言っている自分を想像するんです。

 そうすると、気持ちと音出しがピッタンコ合いますね。

「英語で考える」は単語から句、文へと広げる

 単語レベルで言うと、例えば "dog" とか "water" ぐらいなら、日本語に直さなくても直接意味を感じられる人は多いと思います。では、 "candidate" とか "Senate" はどうでしょうか。

 日本語を通して意味を感じている新しい単語を、英語から直接意味を感じ、また意味を想起した次の瞬間にすぐ英語の単語が出るように訓練すれば、もう単語レベルでは「英語で考えている」と言ってもいいのです。

 これを次に句(フレーズ)のレベルでもやります。"in front of the desk" とか "before next winter" などでもできるように訓練する。そしてセンテンス、段落、長文と広げていけばいいのです。

 1つのセンテンスを日本語の助けを挟まずに「意味と英語の直結」が頭の中でできるようになれば、もう本質は掴んだも同然です。あとは、新しく学ぶ英語すべてについてそれをやればいいのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 「音と意味の絆を強めるための訓練」という意識をもつかもたないかで、訓練の成果が大きく違ってくると私は思います。私の場合、これを英語学習の初期から徹底して実践したので英語をマスターできたのです。

 これを読まれた方のおひとりでも、この訓練を実践することで英語を自分の言葉として操ることのできる喜びを知ってくださったならば、これほど嬉しいことはありません。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2016年3月12日追記

 「音」→「意味イメージ」に至る所要時間と、「意味イメージ」→「音」に至る所要時間に常に注意を払いながら学ぶといいです。

 英文を読んだり聞いたりして、「意味」がイメージとして掴めるまでの時間(もちろん日本語を介さずに)に気づく。言いたいことを「意味」としてイメージした後、どのぐらいのスピードでそれが英語として出てくるか、それまでの時間に気づく。

 よく知らない新しい単語や表現だと数秒かかります。これを1秒未満、できれば 0.1秒ぐらいで双方向に反応できる状態になるまで繰り返し意識的に同時想起する。これを各表現が定着するまで続ければ、その定着した表現に関しては「自分の言葉になった」ということです。

 「意味を感じる」ということは私たちはすでにできているのですから練習する必要はありません。「犬」とか「候補者」という意味を感じることは日本語を通してもうマスターしているのです。問題は、「意味を感じる」というすでに出来上がっている我々の内面と、英語の音を一体化させることなのです。日本語を介して理解するのは距離があり過ぎます。なので、意味と英語の音との距離を縮めていく。これが英語学習の根本なのです。
 

次の一歩は常に示されている

 私たちは難しい状況、辛い状況にあるとき、「どうすればいいんだろう?」と頭を抱えてしまうことがあります。神様から見離されて、無援の孤独の中にいるかのように感じる。

 しかし、どんなときも、次の一歩は常に示されていて、その一歩は明らかなことなのです。それほど難しいことではありません。

 次にとるべき一歩は、自分が想像しているような複雑で困難なことではありません。目の前に必ずある明白なことです。

 それは散歩に出ることかもしれない。昼寝することかもしれない。テレビを付けることかもしれない。考えるのをやめてお風呂に入ることかもしれない。

 自分が求めている方向で答えが見えないとき、それは単に答えの見つからないところを探しているだけかもしれません。袋小路に入っているのかもしれません。

 だから、次の一歩は無駄な思考をやめて、気分転換をすることかもしれないのです。

 私たちは常に宇宙によって導かれています。そして、次にとるべき一歩は、必ず示されています。

 私たちは決して孤独無援ではありません。

 1メートル先は真っ暗かもしれませんが、10センチ先は必ず光が射しているのです。

 次の一歩が全く思いつかないときには、今は動かず立ち止まっているようにということかもしれません。待つことが最も大切なのかもしれません。

 自分にとって必要な次の一歩は、自分にとって想像さえできない、手の届かないものであることはありません。必ず明白なことです。

 五歩先は読めないかもしれませんが、一歩先は見えるはずです。 

 とりあえず、その一歩を進んでみましょう。
 

人付き合いで考慮したい3つのゾーン

 人には誰にでも次の3つのゾーンがあります。

Aゾーン:絶対に譲れない大事な事柄
Bゾーン:どちらでもよいニュートラルな事柄
Cゾーン:絶対にイヤな事柄

 私は人付き合いで大事なのは、お互いのAゾーンを尊重し合うこと。Bゾーンの事柄については、相手にできるだけ譲る思いやりを示すこと。お互いのCゾーンを避けることを同意することだと思っています。

 たとえば、Mさんがベジタリアンで菜食の食事をとることがAゾーンであるとします。私は菜食も好きだし肉食でもいい。つまり、菜食か菜食でないかは私にとってBゾーンである。それならば、私がMさんに合わせれば二人とも幸せになれます。

 でも、ベジタリアンに偏見と嫌悪感のあるNさんがいたとすると、菜食レストランに行くことはNさんにとってはCゾーンです。この場合、MさんとNさんが一緒に食事をすることは諦めるに限ります。相性が悪いのですから。

 一人の人にとって絶対的に大事なものが、別の人にとって絶対的にイヤなものであるとき、そこに調和が生まれる可能性はありません。こういう人同士は離れているのがいいのです。

 同様に、絶対に自分の子供が欲しいOさんにとって、子供を作ることはAゾーン。でも婚約者のPさんは絶対に子供を作りたくないなら、子供はCゾーン。これは別れるしかありません。

 話し合うことでAからBヘ、CからBへと変われる事柄もあれば変われない事柄もあります。交渉の余地があるのかどうか見極めることが大事です。

 自分と全く同じA・B・Cゾーンを持っている人はまずいないと思ったほうがいいです。つまり、皆全員違って当然なのだというところが出発点ということです。

 そして、自分と相手の3ゾーンをよく知る。そして、相手が自分のAとCをきちんと尊重してくれ、自分も相手のAとCをきちんと尊重できるなら、その関係は発展できるでしょう。どこかにお互いのAとCをよく思えていない部分があれば、関係性の問題へと発展するリスクがあると心得る必要があります。

 ゾーンの位置はそう簡単に変わるものではないので、話し合いをすれば調和するとは限りません。相手と自分との違いをきちんと把握して、何が現実的対処なのかを見極めることが、相手との関係をきちんと捉えることになります。

 あなたは自分と相手の3ゾーンをちゃんと把握していますか。そしてきちんと伝え合っていますか。
 
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