菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2016年04月

恐怖はよく愛を装って出てくる

 「開運!何でも鑑定団」という番組を時々見ます。視聴者が持ち込んだ骨董品(お宝)をプロが鑑定するのですが、200万円で買った掛け軸が2000円だと判明してがっかりしたり、10万円で買った壺が30万円だと判明して大喜びなどというシーンが繰り広げられるハラハラドキドキの番組です。骨董品を買うには「目利き」であることがどれほど大事かと痛感するとともに、鑑定士たちの腕には関心させられます。

 「目利き」とは本物と偽物の区別がつくということで、絵画や焼き物や玩具や書状など多岐に渡る物品の真価を判断するプロというのは実にすごいものだといつも思います。 

 さて、本物と偽物の区別をつけるのが大事だというのは、何も骨董品の領域に留まりません。心の領域にも同じことが言えます。

 そこで今日のお話は、「愛」と「恐怖」がとても似た形で表れることについてです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 人間の心理が難しいのは、「本当の感情」がいつも素直にそのまま出てくるわけではないというところです。「感情」は変装が実にうまく、姿をあれこれと変えて出てくる。だから、「心理の目利き」でなくては、偽物の感情にすぐ騙されてしまうことになります。2000円の掛け軸に200万円出してしまったら損失は損失ですが、それはあくまで経済的損失に過ぎません。しかし、人間関係で相手の感情を読み間違えれば、心理的な痛手を被ることになるかもしれない。

 特に、「これはあなたのためですよ」と言って寄ってくる人というのは、愛の仮面を被って実は支配したり搾取したりすることが動機なのですから、これを見抜けない人はとんでもない損をするかもしれません。

 そう、多くの人は「愛」(「優しさ」)に飢えています。なので、「愛」をちらつかせるといい鴨になる。こうして「偽りの愛」にひっかかる人が絶えないわけです。

 相手を騙そうとして「愛」の振りをしている人は、ここではこれ以上取り上げません。巧妙に人を騙す人は、自分の動機を自覚しているものです。振りをしていることを本人は知っています。

 これよりも大きな問題なのは、自分の中で「愛」と「恐怖」の区別がつかない人です。

 つまり、自分自身は「恐怖」によって動機づけられておりながら、「相手を愛している」と思い込んでいる人。これが厄介なのです。

 意識の上では本人は本当に相手に良かれと思って接するのです。善意で接するのです。ところが、それが「愛」ではなく「恐怖」に基づいているので、実際のところ相手を育んだり助けたりはしない。むしろ相手に害を与えてしまうのです。

 この、「恐怖」に支配されながら、自分が「愛」によって動機づけられていると錯覚している人が、問題なのです。

 そのお話を続けましょう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

相手を放っておけない人

 世の中には「相手を放っておけない人」がいます。あれこれと口出しをし、手出しをします。助けてしまうのです。 

 そして、意識の上では自分は相手に良いことをしているのであり、助けてあげていると思っています。つまり「愛」に基づいた行為であると主張するわけです。

 ところが、心の奥の無意識では、全く違った感情が働いている。この無意識の感情が気持ち悪いので、その気持ち悪さから解放されようとして相手を助けてしまうのです。ところが、この気持ち悪さへ目を向けないので気づけない。無意識にあるものに自覚がないので、それに突き動かされたままです。

 この人は、人を助けることで自分を癒そうとしている。自分の気持ち悪さを解決する手段として、人に口出しをしている。蓋をしている感情から逃れようとして、相手に絡んでしまうのです。

 こういう人に、「あなたは放っておけないのでしょう?」と言うと、「そうだ」と答えます。「放っておくことを考えると、不安になるでしょう?」と言うと、「そうだ」と答えます。

 相手を放っておくと、何かとても耐え難いことになってしまうと無意識では恐怖しています。しかし、自分が何を怖れているのかさっぱり分かっていません。ただ、気持ち悪いと感じるだけです。

 このように、「相手を放っておけない」のは「愛」ではなく「恐怖」です。「放っておくのが怖いから、強迫的に相手に絡んでしまう」というのが実態です。

 この人が、「私は相手を愛しているから助けているのではないのだ。放っておくのが怖いんだ。恐怖心から逃れるために相手と絡んでいるのだ」と潔く認められたら、自己改革ができるでしょう。

 「自分はいったい何を怖れているのだろう?」「自分の不安とは何だろう?」と問うて、内面の自分を掘り下げてよく知るようにするのです。

 人を放っておけない人の中では、意識と無意識の乖離が激しい。

 自分が内奥で感じていることと、外的に行動していることが一致しない。内外がバラバラなのです。自分というものが分かっていない。

 この人は、本当の自分の感情に触れて、それを意識する必要があります。自分の感情を理解し、心の現実に即した自己アイデンティティーを作っていく必要がある。

 「心の中」を知らないということは、「心の現実」を見ていないということです。「自分の心を分かっていない」ということです。

 そして、「自分の心を分かっていない人」は、外界に対して秩序立った行動ができません。その人のやること成すことは無秩序を助長します。自分の中に調和がないんですから。

 「相手を助ける」と思いつつ、相手をダメにしてしまうのです。

 智慧がないので、良かれと思って相手を傷つけてしまうのです。 

 本物の「愛」があって行動しているなら、行動したときに喜びや満足があります。ポジティブなパワーが自分の心に漲ります。そして、自分のやっていることの善性を体で実感します。

 「愛」でないものを「愛」だと思って行動しているときには、喜びと満足はありません。混乱があります。緊張があります。不安に束縛されたままです。そして、相手にポジティブな変化が見られません。

 自分が「偽物の愛」を動機にしていると気づいた人は、智慧に一歩近づきます。自分の本当の感情である恐怖や不安や執着に正面から向き合い、その感情を理解していってください。否定せず、抑圧せず、感じるままの恐怖や不安や執着をよく知るのです。それらを受け止めて、それらが必要としているものを与えて、乗り越えるのです。

 すると、心が健全な成長へと向かいます。

 「偽物の愛」を正当化している間は、「本物の愛」には出会えません。しかし、「偽物の愛」に向き合い乗り越えていくと、偽物を知った分だけ本物が分かるようになります。

自己否定感・不安感・孤立感から自由になる方法

(これは2015年10月に投稿した記事の復刻版です。)

エゴの3妄想

 霊的に目覚めていく旅というのは、エゴの妄想から自由になっていく過程と同じです。

 エゴは無知と恐怖心からなっているのですが、妄想には大きく分けて3種類あります。

 「自己否定妄想」と「不安妄想」と「孤立妄想」の3つです。

 「自分はダメなんじゃないか」と怯える。「自分は害されるのじゃないか、幸せになれないのじゃないか」と怯える。「自分はひとりぼっちになるんじゃないか」と怯える。

 霊的に目覚めて、自分が魂なんだと体感してくるにつれて、自分の内側から「自己肯定感」が生じてくるし、すべて大丈夫なんだという「安心感」が生じてくるし、あらゆる命とひとつに繋がっているんだという「一体感」が生じてきます。

 そして、エゴの妄想や悪夢から自由になり、真実と愛の世界が展開してくるのです。

 エゴの3妄想から自由になるには、それらを客観視して脱同一化することと、理解し受容し無抵抗になることが大事です。

エゴが必要としているものに自分がなってあげる

 エゴは恐怖に怯える幼子のようなものです。この幼子は「私は足りないんじゃないか。私は害されるんじゃないか。私はひとりぼっちにされるんじゃないか」と怖がっています。

 この怯えている幼子に対して受容的であり優しく接することができると、幼子は安心します。そして幼子が必要としているものに自分がなってあげるのです。

 自己否定に怯える幼子を肯定してあげることで、自分が自己肯定心を体現します。

 不安に怯える幼子に寄り添って落ち着かせてあげることで、自分が安心を体現します。

 孤立に怯える幼子と一緒にいてあげることで、自分が一体心を体現します。 

 欠乏に苦しむエゴが自分の中にいてくれるからこそ、私たちはそれを補おうとして、自ら自己肯定心と安心と一体心を発揮しようとします。

 そして、それらを発揮することで、私たちは自分の正体が愛と光であることを悟るのです。

自分が与えることで自分の正体に目覚める

 エゴは自分で自分を肯定できません。だからエゴと同一化している人は、他者に愛され認められ肯定されることを求めます。

 そのエゴに自分が肯定を与えるとどうなるか。自分が肯定心なのだと感じてくるのです。他人に与えてもらわなくても、自分の正体が肯定そのものなのだと分かるのです。そしてエゴを超越できます。

 エゴは自分で自分を守ったり満たしたりできません。だからエゴと同一化している人は、他者に守られ満たしてもらうことを求めます。

 そのエゴを自分で守り安心させてあげるとどうなるか。自分が安心そのものなのだと感じてくるのです。他人に守ってもらわなくても、自分の正体が安心そのものなのだと分かるのです。そしてエゴを超越できます。

 エゴは他者と繋がることができません。常に孤独です。だからエゴと同一化している人は、ひとりぼっちだと感じ、繋がりを強く求めます。

 そのエゴに繋がってあげて、寄り添ってあげて、寂しくなくしてあげるとどうなるか。自分が一体心そのものなのだと感じてくるのです。自分の正体があらゆる生命とのワンネスなんだと分かるのです。そしてエゴを超越できます。

 「自己肯定」も「安心」も「一体感」も、自分がそれらになることで、それらを与えることで、自分の本性として湧いてくるものです。

 エゴ体験とは、自分の本性を発見するために必要な道具なのです。

 智慧を発見するために私たちは虚偽に出会います。

 愛を発見するために私たちは無関心や憎悪やナルシシズムに出会います。

 永遠の命を発見するために私たちは肉体の死に出会います。

 あらゆる生命とのワンネスを発見するために私たちは孤独に出会います。

 光を知るために闇に出会います。

 私たちでないものを味わうことで、私たちの本性を知るのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 ここからは3妄想の例を挙げ、その後に対処法をお話しいたします。

「自己否定妄想」の例

 自分に価値がないとか足りないなどの否定的自己概念はすべてここに入ります。

 ◯私は愛されない人だ。
 ◯私はできない人だ。
 ◯私は失敗だ。
 ◯私はブスだ。
 ◯私はダメだ。
 ◯私は悪いことをした。
 ◯私はミスを犯してしまった。
 ◯私は失礼なことをした。
 ◯私は罪深い。
 ◯私のやったことは許されない。

 対極の真理は、「私は宇宙と神様に無条件に愛されている、計り知れない価値をもった存在である」です。これだけが真実です。

「不安妄想」の例

 自分が幸せでいるために必要なものが得られないのではないかという恐怖はすべてここに入ります。世の中は危険であり、害されるという恐怖も入ります。

 ◯私は食べていけない。

 ◯私は治らない。
 ◯私は幸せになれない。
 ◯私は差別される。
 ◯私はいじめられる。
 ◯私は理解されない。
 ◯私は支配される。
 ◯私はバカにされる。

 対極の真理は、「私は宇宙と神様に必要なものをすべて与えられている」「私は破壊され得ない永遠の生命である」です。これだけが真実です。

「孤立妄想」の例

 自分は誰とも何とも親しくなれず、心を通い合わせられないと感じるあらゆる収縮状態がここに入ります。

 ◯私と付き合いたい人はいない。

 ◯私には居場所がない。
 ◯私は必要とされていない。
 ◯私は誰とも心を通い合わせられない。
 ◯私ははじかれ者である。
 ◯私はアウトサイダーである。

 対極の真理は、「私はあらゆる生命と兄弟姉妹であり、ひとつである」です。これだけが真実です。

エゴ妄想の呪縛から自分を解放する1つの方法

 自分の妄想に気づいたら、声に出して「(妄想)と妄想しています」と唱えます。

 妄想を妄想だと認める文言には真実のパワーがみなぎっています。

 ですから、唱えると内側からパワーが湧いてきます。

 たとえば、「私は誰からも愛されていない、と妄想しています」とか「私には居場所がない、と妄想しています」と唱えます。

 これを心の底から実感しながら数回やると、からだの底からパワーが湧いてくるはずです。頭の中だけでやらず、頭のてっぺんから足の先まで全身で感じながら唱えます。

 上に書いた対極の真理も付け加えて唱えるとさらにパワフルです。

 「私はダメな人間だ、と妄想しています。私はそれが妄想だと気づいています。唯一の真実は、私が宇宙と神様から無条件に愛されている計り知れない価値をもった存在だということです」と唱えるのです。

 もしも何の効果もないときには、宇宙と神様に祈りを捧げて導いてもらってください。

 「宇宙の大生命よ、創造の神様よ、私は自分だけの力で苦しみを解くことができません。私に必要な光と愛をお与えください」と。 

 即座に答えが得られないときには、日常生活の中で適切なときに適切な形で答えがやってきます。必ずやってきます。

 得られたら感謝の祈りを心の中で捧げてください。


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喜びと悲しみを共有する

 人と人が絆を感じるのは、感情が共有できたときです。

 あなたに良いことがあって喜んでいるとき、私が「うわあ、良かったね」と言って喜びを共有すると、この喜びを通してあなたと私は心をひとつにする。そしてお互いに「私たちはひとりぼっちじゃないんだね」と感じ合える。

 私に辛いことがあって悲しんでいるとき、あなたが「辛いね」と言って悲しみを共有してくれると、この悲しみを通してあなたと私は心をひとつにする。そしてお互いに「私たちはひとりぼっちじゃないんだね」と感じ合える。

 これが心と心の繋がりです。 

 もし、あなたに良いことがあって喜んでいるとき、私が無関心だったり妬んだりして喜びを共有しなければ、この喜びを通してあなたと私は心をひとつにできない。あなたと私の心は離れています。

 もし、私に辛いことがあって悲しんでいるとき、あなたが無関心だったりバカにしたり喜んでいたりして悲しみを共有してくれなければ、この悲しみを通してあなたと私は心をひとつにできない。あなたと私の心は離れています。

 心と心は繋がりません。 

 すべての感情を共有するということは無理だと思いますが、喜びと悲しみの大事な部分を愛する人と共有できることは幸せですね。心の絆を感じ、心が通じ合える喜びと親密さを体験することは、生きる上でとても価値あることだと思います。

 さて、私たちの多くは、幼少期に自分の感情の一部を拒絶し抑圧します。自分の心の一部を無意識の中に埋もれさせるのです。

 そうすると何が起こるかと言うと、自分自身と喜びや悲しみの共有ができなくなります。 

 他者と感情が共有できればそれに越したことはありませんが、他者と感情が共有できないことよりもっと重大なのは、自分自身と感情が共有できないことなのです。 

 自分が悲しいときに「悲しいよね」と自分で寄り添って認めてあげるということが、自分と感情を共有するということです。少なくとも自分は自分の感情の理解者としてそこにいてあげることができます。けれど、自分が自分の感情を認めないで埋もれさせていると、この感情には誰も理解者がいません。そして、ひとりも理解者がいない感情はとても寂しい思いをします。

 感情にとって最も重要な理解者は自分自身です。その最も大切な理解者を失った感情は、手当たり次第、外の世界に理解者を探し求めます。そして、他者に依存し、満たしてくれない相手には敵意を持ちます。

 感情を共有してくれる相手を強迫的に求めます。でも相手は当てにならないことが多い。そこで不満は本当には癒えない。

 誰とも心が通じなくなった孤独感の中で、とうとうこの人は自分の心と向き合います。

 そして、自分自身と感情を共有しようとします。自分の心と触れ合おうとするのです。

 すると、最も大切な理解者を得たように感情は喜びます。「私はあなたをずっと待っていたのです」と言わんばかりに喜びます。

 こうやって自分自身の感情と絆をもった人は、最も根底にある孤独感を癒します。

 自分が最も求めていたのは、本当の自分との絆だったのです。

 もしあなたが今、恋人と心が通じない、配偶者と心が通じない、親と心が通じない、子どもと心が通じない、職場の人と心が通じないと思って苦しんでいるなら、あなたのあるがままの気持ちのままでいられる空間をどこかに求めて下さい。

 自分でやってみたい人は、自分の感情に寄り添って、自分自身の理解者として自分の心と一緒にいてあげて下さい。聞いてあげて下さい。あなたが自分の感情を否定せず聞いてあげようと注意を向けたら、感情は喜んでくれることでしょう。心が温かくなるでしょう。

 自分だけでやり方が分からない人は、カウンセラーや聞き上手な親友や信頼できる長老(?)などに打ち明けてみるのもいいでしょう。

 あれこれアドバイスし過ぎず、気持ちを受け止めてくれる温かくて智慧深い人を探して下さい。自分自身と心の対話ができていそうな人を選んで下さい。自分自身を受け入れていて心が穏やかそうな人を選んで下さい。怒りっぽい人とかすぐ説教する人は避けましょう。(笑)

 多くの人は感情を否定する人に囲まれています。なので、感情を否定しない穏やかな聞き手を意図的に求めて下さい。それが、自分との絆をこれから築いていくことの大きな援助になります。

 自分の気持ちを大事にしてくれる人たちのサポートネットワークを作りましょう。そして、否定してくる人たちからは遠ざかりましょう。それは自分を大事にする上でとても大事なことです。
 

本当の感情を知りたいですか?

 私のところにカウンセリングを受けに来られる人の中には、「自分の気持ちが何だかよく分からない」という人が結構いらっしゃいます。

 自分はどう感じているのか、どうしたいのか、何を求めているのか、さっぱり分からない。混乱している。

 このような「感情の危機」を迎えた方に共通しているのは、自分の本当の気持ちを抑えて生きてきたということです。

なぜ人は本当の感情を抑えるのか?

 自分の中に生じる自然な感情のままでは周囲に受け入れられなかった。なので、ひとりぼっちにならないためには、周囲に好かれる感じ方や振る舞い方をするしかないと決断し、仮面をかぶって自己防御してきたのです。

 これは多かれ少なかれ誰でもある程度やってきたことなので、責める必要はありません。

 ただ、これが「自分を偽る」「自分を裏切る」ということなのだということも理解する必要があります。

 そう、自分の本当の気持ちを偽る・捨てる・裏切ることによって、安全であろうとしたのです。

 これは生き延びるための処世術だった。良いとも悪いとも言えません。

 「本当の感情=危険」「嘘の感情=安全」という感じ方が身に付いているのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「感情を感じたくない」という自分の決断を取り消す

 安全であるために、本当の感情を感じないように封じ込め、偽りの感情をかぶって生きてきた。その決断をしたのは紛れもなく本人です。

 つまり、本当の感情を感じられなくしたのは自分自身なのです。それは本当の感情に気づいたら生きていけないと判断したからやったことなのです。

 幼いときに決断したことなので、決断したという自覚がない場合が多いのですが、心の中で決めたことは決めたのです。

 人間は感情を偽ったら幸せになれません。感情はそのまま許され、それが求めているものを与えられたときに幸せなのです。封じ込められた感情は永遠に不満状態でいることになります。

 ではどうするか?

 「本当の感情=危険」「嘘の感情=安全」という感じ方から脱却して、「本当の感情=安全」「嘘の感情=不必要」という感じ方へシフトするには、「本当の感情を感じることへの恐怖」を乗り越えて、幼少期に自分が行った「感じない」という決断を取り消さなくてはなりません。

 つまり、勇気をもって、「私は本当の感情を認めて感じることにする」と決断し直すのです。

 多くの人の中では、「本当の感情のままに生きられない不満」と「本当の感情を感じることへの不安」との間で葛藤が生じます。

 そして、不安に負けるとその人は成長できません。幸せになる道は、「感じる決断」によって姿を現します。

 「本当の感情を感じたい」と覚悟を決めたら、もはや「本当の感情」と「自分」とを隔離する壁がありませんので、本当の感情は自ずと涌き上がってきます。そもそも自分の感情なのですから、自分にアクセスできないはずはないのです。

 最も大事なのは、「本当の感情を知りたいですか?」という問いに答えを出すことであり、その答えがイエスであれば、確実に幸せに向かいます。 

定期カウンセリングに最大40%割引

 定期的にカウンセリングを受けたい方に、①3回同時予約②2週間以内の間隔という2つの条件が満たされた場合に限り、20%または40%の割引をいたします。

注意:いちどに3回分のカウンセリングをまとめて予約していただくことが必要です。

3回同時予約をすると20%オフです

 3回同時に予約すると、20%の割引をいたします。ただし、セッションとセッションの間隔が2週間以下であることが必要です。(例:7月1日の次は7月15日かそれより前)

 1回目と2回目は料金の100%をお支払いいただき、3回目に3回分の全体に対して20%の返金をいたします。途中でやめられた場合、割引はありません。

 [60分コースの場合]
  1回目 10000円
  2回目 10000円
  3回目  4000円

  3回総額24000円、1回平均8000円

 [90分コースの場合]
  1回目 15000円
  2回目 15000円
  3回目  6000円

  3回総額36000円、1回平均12000円

 コースの長さは毎回変わっても構いません。

2セット連続して受けると40%オフです

 同時予約された3回を1セットとすると、1セット終了から2週間以内にもう1セット開始した場合、6回分の全体に対して40%の割引をいたします。

 4回目と5回目には料金の80%をお支払いいただき、6回目には40%のキャッシュバックがあります。 

 [60分コースの場合]
  1回目 10000円
  2回目 10000円
  3回目  4000円
  4回目  8000円
  5回目  8000円
  6回目 ー4000円

  6回総額36000円、1回平均6000円

 [90分コースの場合]
  1回目 15000円
  2回目 15000円
  3回目  6000円
  4回目 12000円
  5回目 12000円
  6回目 ー6000円

  6回総額54000円、1回平均9000円

 コースの長さは毎回変わっても構いません。

キャンセルと日時変更のルール

  途中いつでもカウンセリングをやめることができます。割引は3回目と6回目にまとめて行いますので、それ以前にやめられた場合に割引は受けられません。

 予約日時の24時間前を過ぎてのキャンセルと日時変更については、手数料5000円をお支払いいただきます。

 日時変更は24時間以上前であり、かつ2週間以内の間隔を崩さない範囲であれば、無料で受け付けます。

 2週間以内の間隔が崩れた時点で、定期カウンセリングは終了です。それ以降は新たに3回同時予約をおとりになるか、1回ごとの予約に切り替えていただくことができます。
 
(2018年3月29日更新)
 

3つの不動を養う

 心理的苦悩には「乱れ」や「動き」や「停滞」があります。そして、それらと一体化することで見えなくなるのが最も困ります。なぜなら、一体化したものは解けないからです。

 心理的苦悩の姿をはっきり捉えて解くためには、それをしっかりと対象化できる必要があります。苦悩の現象から脱同一化するということです。そのためには「不動」を自分の中で養うことが有益です。 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 たとえば、ただ怒っているだけでなく、自分の中に怒りがあると自覚し、何が得られなくて不満なのかを自覚し、相手にどうしてもらえれば平安になれるのかを自覚し、相手の行為が自分の中のどのような不安を刺激しているのかを自覚できると、単純に怒っていただけの状態から、その心理の奥にあるものから表面までの姿を観察して意識することができます。このとき、怒りという現象から分離して、それが一体何なのかを科学者が顕微鏡を覗くように対象化して理解するのです。

 この、「科学者が顕微鏡を覗くように観察する」というのは、1番目の「不動」です。主観や感情を交えず、ニュートラルになって何かを観察するとき、対象の姿が見えてきます。メディテーションではマインドフルネスとも言います。

 あるがままに気づけるには、このように中立の観察意識を対象に向けることが大事です。

 たとえば、「私は何に怒っているんだろう?」「私は何を怖れているんだろう?」と自問して、頭であれこれ考えずにじっと心の中を観察し、何が見えてくるのか予め結論を出さずに、じっと受身になって静寂の中で待っている。そうすると、それまで気づけなかった何かが見えてくるんです。

 この、「自問をしてじっと何かが浮かんでくるのを待つ」「何が見えてくるか浮上するものを受け止めようと静止している」ということが、真実を知るプロセスとして重要です。そして、これが私のお伝えしたい1番目の「不動」なのです。

1番目の「不動」はアウェアネス(中立の観察意識)

 さて、この1番目の「不動」は肉体で言うと頭部でなされます。頭の中がし〜んと静まり返って、落ち着いて何かを観察している感じです。座禅をしている時などは典型です。「考える」という機能を一時的にストップさせます。

 観察した後で、気づいた内容、得られた洞察について思考する可能性は残されています。しかし、観察している最中は観察するのであって、思考するのではありません。

 たとえば、昆虫の様子を観察したり、花の様子を観察したりするとき、頭の中を空っぽにして、まずはあるがままの情報を受け取ろうとしますよね? 昆虫の足が動いていることに気づくとか、花弁の数に気づくとかいう瞬間、思考しているのではなく、情報を受け取っているだけです。これが観察意識です。観察したあとで、「ああ、足が動いている」と言語化したり、「面白いなあ」と感情反応をするかもしれませんが、観察とは言語や思考を介しませんし、感情反応も含みません。

 食べたことのない食べ物を口に入れて味わっているとき、思考していませんよね。味を体験しているその瞬間、私たちは観察しています。頭を空っぽにして、味が意識に刻印するものを体験しようとしているだけです。感想などはその後で発生するものです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 1番目の「不動」が頭の機能であったのに対して、2番目の「不動」は心の機能です。

 心は欲求や感情が動いている場所です。その心が「不動」になるとは、そこにある感情や欲求の動きのままに感じることを許すということです。受容と共感なのです。

 たとえば映画を見ていて悲しさがこみ上げてきたら、その悲しみに対して無抵抗で感じ尽くしてあげる。悲しみに完全に寄り添う。このとき、心は一種の「静止状態」にあります。

 悲しみがパワフルに動いているので、心は力強く動いている状態であるとも言えますが、その動きのままに許しているなら、感じる状態で放っておけるなら、その共感状態は一種の「不動」だと私は考えています。

 「死にたいほど辛い」と言うクライアントの前でもし私がその気持ちに寄り添うとすれば、私の心は「じっと静かに受け止めているだけ」です。その人の辛さを「不動」で受け止め、理解しようとして静止している。

 「そんなのダメです」と否定したり抵抗したりしないで、共に感じるだけ。これは「不動」です。「不動」と言っても鎧を着た固い「不動」ではなく、開かれている柔らかな「不動」です。

2番目の「不動」は感じることに開かれた共感的受容 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

  1番目の「不動」は頭部、2番目の「不動」は胸部で体験されるのに対し、3番目の「不動」は腹部で体験されます。腰と言ってもいい。

 この「不動」は存在すること自体に関わるもので、Beingness と言ってもいいでしょう。 

 ただただ生きていて存在していることだけを感じている状態が Beingness で、これも一種の「不動」です。この「不動」の中には理性的思考も情緒もなく、ただ「ある」だけの静寂です。肉体とか精神などと分かれてもいません。

 生存に関する恐怖心や動揺は、第1チャクラ付近のエネルギーとして現れることが多いのですが、この3番目の「不動」を養うことでそれを初めて客観視でき、それから分離する平安を獲得できます。

 この「不動」は、客観的観察によって養われるアウェアネスとも、共感的受容によって養われるハートのエンパシーとも異なり、対象というものを持ちません。

 「自己が存在する」というだけの「不動」なのです。存在するというのは当たり前のことなので、自覚しにくい。けれど、じっと座っていて存在自体を感じて、存在であるだけで後は放っておけると、そこにはアウェアネスともエンパシーとも違う3番目の「不動」があることが分かるでしょう。

 おそらく、この「不動」を体得するのに最善の方法は座禅でしょう。
 
3番目の「不動」はただ存在するままに存在すること

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 1番目の「不動」を体得した人は、冷静で理性的な判断ができ、智慧深い。
 2番目の「不動」を体得した人は、温かくて慈悲深い。
 3番目の「不動」を体得した人は、岩のように体がブレない。

苦難との関わり3段階

 人間には好むと好まざるとに関わらずやってくる苦難があり、その運命を引き受けて乗り越えるしかありません。

 しかし、引き受けて乗り越えた苦難は、必ずやその人の宝になります。

 たとえば、私は両性愛者として生まれました。大多数と違うセクシュアリティーをもつ運命を引き受けられるようになるには数十年を要しました。運命を呪った時期もありました。けれど、乗り越えてしまった今、私は異性愛者で生まれたかったという思いは一切ありません。両性愛者でよかったと思っています。両性愛者だったからこそ強くなれたし、あらゆる少数者への優しさを育むこともできたし、カウンセラーとしての共感能力も高まりました。

 私はまた、自分の本質を受容したり理解したりできない母親を持ちました。世間的にはいろいろと通常の愛を注いでくれた母ですが、人と違う私を理解したりサポートすることはできませんでした。私の個性の大事な部分に関して、母は私の理解者となり得なかった。母に愛されたと感じることができなかった私は、25年間母を恨みました。しかし、この体験もまた、心理療法を通して自分を深く癒し、自分で自分らしさを抱擁し、私の個性を理解できない母を許すことによって、私の成長に役立ったのです。 

 私は私が望むような愛を母から得られなかった辛さを知っている者として、親を恨む多くの人の気持ちに寄り添うことができます。「恨んではいけない」とは言いません。私自身が恨んできたのです。けれど、恨みの先に進めることを示したいし、誘いたいと思っています。 

 苦難は消化して統合するのに年月がかかります。一生の課題であるものもあるでしょう。

 苦難との関係性を3つの段階でご説明しましょう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1.困惑とコーピング

 最初は自分の運命に困惑し、とても受け入れられるものではありません。何とか日常生活を続け、コープ(対処)していくのみです。 

 気を紛らわしたり、否認することで自己防衛する人もいます。

 どのような対処法であっても、自分を責める必要はありません。苦難は大きなチャレンジなのですから。

2.受容と成長

 完全にではないにしても、運命に抵抗せず、少しずつ受け入れ始めると、その「運命を受け入れる」という決断そのものがその人に成長をもたらします。 

 自分が孤児であることを受け入れる。ゲイであることを受け入れる。兄弟が障害者であることを受け入れる。ブスであることを受け入れる。勉強が嫌いであることを受け入れる。虐待を受けた過去があることを受け入れる。

 辛い気持ちを押し殺す必要がない。泣きたければ泣いたっていい。親友に話を聞いてもらってもいい。カウンセラーに寄り添ってもらってもいい。この運命の自分でも存在していいんだと思う。等身大の自分を認めようと思う。この決断によって、深い変容が起きてくるのです。

 運命に逆らっている人にないものが、運命を受け入れた人にはあります。何か力強いものがある。清々しいものがある。温かいものがある。欠けていると思っていた自分を抱きとめ受け入れ大事にすることに決めた人には何かまん丸なものがある。

 変えられないものを受け入れると覚悟したとき、人間は強くなれる。そして道が開ける。

 強くなるだけではない。人に優しくもなります。運命を拒絶している人は他者にキツく当たる。でも、運命を受け入れた人は人に優しくなるのです。

3.宝を活用する

 最後の段階では、この乗り越えた苦難がその人の魅力となります。その苦難を通ったからこその強さ、優しさ、そして智慧深さがある。

 そして、その宝は他者のために活かされ、人の幸福に寄与するのです。

 もはや「自分が苦しい」という問題ではない。自分が解いたパズルが、他者の苦悩の解決にも一役買うのです。 

 この段階に到達した人は、苦労してきたのに苦労が顔に出ません。苦労は喜びに変わったからです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 カウンセリングとは、第1段階から第2段階へ、第2段階から第3段階へと進むのを支援するプロセスです。
 

意識と無意識の乖離を解く

 精神的に成熟し人格が統合されている人は、意識と無意識の一致する領域が大きい。つまり、心底感じていること、欲していることを正確に把握し、あるがままの本当の自分に接触しているということです。

 ひと言で言うと「自己一致している」となります。 

 それに対して、未成熟で人格がまだ統合されていない人ほど、意識と無意識の不一致が激しい。つまり、心底感じていること、欲していることを正確に把握していない。本当の感情に触れていない。

 ひと言で言うと「自己一致していない」ということであり、「自分がよく分かっていない」という言い方もできます。 

 ロジャーズはカウンセリングの目的を、クライアントが自己不一致の状態から自己一致の状態へと進むのを援助することとしました。 

 クライアントが感じるままに話していることをカウンセラーが鏡のように共感を通して伝え返す。そうすると、クライアントは自分のあるがままに気づいたり受け止められる方向に進む。自分というものが前よりはっきりと分かるようになる。内と外が一致に向かうのです。

 深くで感じていることと頭で捉えている自分が一致しているということは、自分が分かっているということです。精神的問題が深刻であればあるほど、この自己一致が欠如しています。と言うのは、自分自身から隠していることがあるのです。感じないようにしていること、認めないように否認していること、直面するのを避けていることがあるのです。

 この、抑圧された、否認された部分が大きければ大きいほど、その人の自己不一致は大きい。それは、意識と無意識の乖離が激しいということに他なりません。

 本当の感じ方を隠して偽っているのですから、人格は統合されません。認められる自分と認められない自分とに「分裂」しているのです。

 「自分に直面するのが怖くて避けている」という人が、勇気をもって「自分に直面しようと決意する」。この瞬間、この人は自己一致へ向けて、意識と無意識の乖離を解くのです。

 これが成熟のプロセスであり、自己実現の道のりなのです。

 自分の中の「分裂」「乖離」「葛藤」に立ち向かい解くことで、意識の統合領域が増大していく。これが自己実現です。


関連記事

自己一致と自己不一致

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
2016年4月18日追記

 本日のテレフォン人生相談で、意識と無意識の乖離の激しい女性が相談者として登場しました。

 表面的には真面目で「良き妻」「良き会社員」「良き息子」として生きてきた人の中には、本当の感情を偽って「あるべき姿」を自分に強制してきた人がいます。加藤氏が言うように、これは「自分への裏切り」なのです。

 「規範意識の強い人」とは、実際の自分の上に、理想像を強いるスパルタンのような人です。

 実際の自分を捨てて、理想の仮面を優先してきた人は、コミュニケーションができません。人と心が通じないのです。本当の自分を出していないわけですから、心の通い合いがありません。すべて表面的な取り繕いで生活しているからです。一見とても良い人に見えるし聞こえるのです。人当たりもいいし。けれど、何か「本物のその人」が不在な感じがある。空虚な感じがある。個性が感じられないんです。

 この女性もそのような人なのでしょう。

 意識では「良き妻」。無意識では自覚していない怒りや淋しさや虚無感など様々な感情が溜まっている。無意識にあるものを認めて、自分らしく生きていくよう加藤氏は促しています。

イギリス国会議員の35人が LGBT(性的少数者)

 イギリスの国会議員650人のうち、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)を公表している人が現在35人おり、性的少数者の国会議員の数ではイギリスが圧倒的に世界一となっています。

 国会議員に占める LGBT の割合が5%強で、これは一般人口比にかなり近いです。

 国政を担うリーダーとして LGBT の人材を選挙で選んでいるイギリス国民の間では、LGBT に対する偏見がかなり低いのでしょう。普通の存在として受け入れている人が多いのだろうと思います。かなり進んでいますね。

 イギリスの国会では2013年に同性婚が法制化されましたが、それに至る国会での議論を YouTube で見たとき、意見を言っている国会議員の中に、ゲイやレズビアンとしてカミングアウトしている人たちがたくさんいたことにびっくりしました。いや、進んでますね。

 海外から日本にやってくる観光客がこれから増え続けることはほぼ確実ですが、それとともに同性婚が認められている西洋諸国から、多くの同性カップルが日本にやってくることは間違いありません。それとともに、日本人が間近に同性カップルの現実を見る機会が増え、日本での意識変化も加速化していくだろうと思います。

 性的少数者への偏見が最も強い老年層がこれから減少し、偏見の弱い若年層が日本社会の中心的存在になっていくわけですから、性的少数者の人権向上は日本においても時間の問題だと私は楽観視しています。

参考サイト

International Business Times:
UK has highest number of LGBT politicians in the world
February 22, 2016

http://www.ibtimes.co.uk/uk-has-highest-number-lgbt-politicians-world-full-list-westminsters-gay-mps-1545270 

心の葛藤から目を背けない

 私たちが成長し心が強くなるのは、自らの葛藤から逃げずに対峙するときです。蓋をしているものの蓋をとるときです。認めたくないものを認めるときです。

 葛藤から目を背けて、現状維持にこだわる人は、怖くて弱い。相手を責めるか、依存状態を維持することを選択すれば、いちばん楽です。

 しかし、いちばん楽な道を選ぶということは、葛藤の苦しみから自由になれないことを意味します。

 内奥の自分と、自分が認めている自分、そして外に出している自分とにずっと乖離があり続けることになるのです。 

 自分らしく生きるということは、大変勇気のいることです。葛藤から目を背けず、対峙し続けるということですから。葛藤を正面で受けて、そこで自分は何者かを決定するという課題を引き受ける。その連続を歩んでいくから、強くなります。

 これは感じたくない、これは見たくない、と逃げているものがだんだんなくなります。逃げないから強くなる。誰のせいにもしない。自分を決定する責任を負う。

 抑圧してきたものに1つずつ出会うことを許すのです。

「欲求」には二元的レベルと一元的レベルがある

 私がこの記事で書くことは、他の人が語るのを聞いたり見たことのない内容です。

 人間が苦しむのは「欲求」が満たされないときです。「自由の欲求」「愛の欲求」「自己実現の欲求」「尊重の欲求」などなど。

 「欲しいものが得られない」ことで欠乏を味わうわけです。

 もっと愛されたいのに愛が得られない。もっと尊重されたいのに尊重が得られない。もっと共感されたいのに共感が得られない。もっと心の通い合いが欲しいのに得られない。

 欲しいものの本質が愛であれ尊重であれ自由であれ、それが得られると「欲求」は満たされ、プラス感情を私たちは経験します。それに対して、得られないと「欲求」は満たされず、マイナス感情を経験するのです。

 このように、あるレベルにおいては、「欲求」は「満たされる」と「満たされない」という二極に分かれます。プラスが幸せでマイナスが不幸せだと主観的に感じるのです。

 この現象界においては、あらゆる事象が二元的に生じていますので、誰でも「満たされる体験」と「満たされない体験」の両方の間を往来することは避けられません。プラスとマイナスを両方とも体験しない人はいないわけです。

 満足と不満というプラスマイナスの両方の体験に開かれている限り、苦しみは実はありません。

 しかし、プラス体験かマイナス体験のいずれかに執着すると、心理的に固着が生じます。

 たとえば、尊重されなかったと感じた体験において、その不満を感じ尽くすことができれば、すべてきれいに流れていきます。そして、次の新しい体験に心を開けますので問題はありません。

 不満を感じること自体は何も問題ではないのです。不満に対して抵抗し拒絶することで、不満が固着する。それが次々に新しい苦しみを生む、それが大きな問題なのです。

 尊重されなかった不満を「許せない」「受け入れられない」と緊張し強ばることで、尊重されなかったときの悲しみや落胆のエネルギーを感じないように抑圧する。そうすると、拒絶された不満が次々に同じようなマイナスを引き寄せることになります。このようにして苦しみは同類を呼び寄せ悪化していくのです。

 尊重されなかったときに感じた感情に抵抗すると、「尊重されないという不満」は実は解決されずに永続化し、「尊重されていない」と主観的に感じる状態が慢性化します。

 この人は、「尊重されない」という体験をゼロにしようともがいています。尊重されない不満と戦うことで、尊重されることを強迫的に外に求めることにもなりますが、それは決して得られることはありません。なぜなら、尊重されない不満に抵抗し無感覚になることによって、尊重される満足をも同時に拒絶しているからなのです。

 マイナスを拒絶すると、プラスも同時に拒絶することになるのです。

 言い換えると、「尊重されない」という体験を拒絶すると、「尊重される」という体験ができなくなるのです。よって、「尊重」というもの自体と自分との間に厚い壁を作ってしまって、ずっと感じられない状態を作り出してしまうわけです。

 このようにして、最も欲しいものを、最も手に入らないものへと変えてしまう。それが拒絶の恐ろしさです。

 愛されたいと強迫的にもがく人ほど愛されるという実感を得られなくなっているのはこのようなからくりによります。 

 では、どうしたらいいのか?

 それはシンプルなことです。不満の痛みをすべて受け止めて、「欲求」そのものを感じられる状態にリセットすることなのです。不満への拒絶を解くのです。

 「尊重されなくて辛かったんだね?」と寄り添うと、「尊重されなかったときの辛さ」が感情として潜在意識から浮上してきます。それを遮らずに全部感じ尽くしてあげます。

 「辛い感情」が出るままに委ね、自由に動き回るのを許すと、拒絶が解かれます。蓋をするのを止めて、その存在を許したということです。

 「辛い感情」を感じるだけでなく、その奥にある「欲求」、この場合だと「尊重」が欲しかったものですよね、その「尊重」が大事なのだと認めてあげます。

 「尊重されたかったんだね?」という具合に。

 「尊重されることの価値」を認識して肯定してあげるのです。これは実は「満たされる」「満たされない」という二元的レベルを超えて、「尊重」を絶対的レベルにおいて評価し、自分の中で大事なものだと宣言することです。

 絶対的なものとして「尊重」の価値を抱きとめるとき、私たちは一元的レベルで「尊重」に出会っています。

 これは絶対的肯定なのです。「満足」と「不満」という二元を超えて、絶対的価値のあるものとして「尊重」を抱擁し、統合しているわけです。

 そうすると、この人はもう二度と「尊重」と断絶することはありません。

 他の人が自分を尊重してくれるかしてくれないか、という外の現実とは無関係に、自分の中で「尊重」という存在と絶対的な絆を確立するのです。

 この人は、他者がどう振る舞おうが、自分の中には常に「尊重」という実在があると実感するでしょう。「尊重」が欠乏することはないと知るでしょう。

 同じことが「愛」や「自由」についても言えます。
 

心の痛みはあるがままへの抵抗によって生じる

 神様は愛と平安と真理と永遠の命を創造され、これらは「実在」しているものです。

 その「実在」と一体であれば痛みや苦しみはありません。しかし、人間の意識には「実在」に対して抵抗している部分があり、そこでは「偽り」を信じています。

 人間界の体験は、愛の成就と愛の欠如、平安の成就と平安の欠如、尊重の成就と尊重の欠如など、あらゆるクオリティー(性質)の存在と不在によって色付けられます。

 あらゆる不満は、求めているものの欠如を体験することですが、その「欠如体験」を創造したのはその人間のマインドです。

 「愛がない」と想像し、「愛の欠如」を信じた人は、「愛の欠如」をこの世の実際体験としてクリエイトします。この世には「愛がない」から、「愛の欠如」を味わったのではなく、本人がはじめから「愛の欠如」を意識内で信仰していたのが外に現れただけです。

 この人の中に生じる不満、すなわち満たされない痛みは、「愛がある」という「実在」に抵抗する信念を自身が持っていることに起因しています。

 言い換えると、この人は愛に抵抗しているから苦しいのです。自分で愛に抵抗しておいて、愛がないことを嘆いているのです。

 「愛なんてない」と主張し、その通りの現実を創造し、それを与えられた受身の犠牲者だと自分を捉えてしまっています。

 他者から愛を奪おうとする行為も、愛のない世界を嘆く行為も、絶望も怒りも、この人を救うことはできません。

 唯一この人を救えるのは、「愛の欠如」から「愛の存在」へと意識をシフトすることなのです。愛への抵抗を捨てることなのです。

 愛に抵抗している人とは、ホースを握りつぶして水が通れないようにしておきながら、「水が流れて来ない!」と文句を言っている人のようです。「私は必要な水を与えられていない」と運命を呪い、神様を拒絶し、水の欠如を味わって苦しみます。他の人から水を得ようとあがきます。

 この人がもし、ホースを握りつぶすのをやめさえすれば水は自然に流れてくることに気づいたらどうでしょうか。元々水は与えられていたのだと悟るでしょう。

 そもそも与えられているものを握りつぶし、抵抗していた。それに気づいてやめるだけで、自分がずっと欲しかったものはすでに与えられていたことを知るのです。 

 神様があなたを苦しませているのではありません。あなたが神様が与えてくれているものを拒絶し、抵抗しているから苦しいだけなのです。

 あなたは、あなたが抱く「自己イメージ」と同じ存在ではありません。遥かに素晴らしい存在です。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 ご自分がよく体験する「欠乏」が何なのか、吟味することをお勧めします。 

 「人がもっとあなたに与えるべきだ」と思うのは、愛ですか、尊重ですか、平等ですか、守護ですか?

 この世には何が足りないと感じますか? 何の欠如が最も怖いですか? 何の欠如が最も気になりますか?

 「その答え」は、あなたの課題を示しています。あなたが根本的に神様を誤解している領域が「そこ」にあります。

 「何かの欠如」を何度も何度も味わっているなら、それは「その欠如」をあなたが深く信じ込んでいるからです。それを「リアルなものとしてしまっている」のです。

 「どうせ守ってなんてもらえない」「ほら、やっぱり私は守られなかった」といつも言っている人は、守護というものが実在することに抵抗しています。心を開きさえすれば、自分は常に守られているという霊的現実を体験できるのに、拒んでいるのです。

 「不満」の痛みから自由になりたいなら、「不満」の背後にある「欠乏への信仰」を捨てることです。「実在の拒絶」が唯一の問題なのです。

 「私は価値などない存在だ」と信じる人は、自分の価値が計り知れないほど尊いものであるという神様の真実を自ら拒絶し、神様よりも知っている偉い裁判官になりすましています。自分の価値を否定するという行為は傲慢なことです。自分が与えられている善性を頑固に拒んでいるのですから。

 自分がこの上ない価値をもった存在として宇宙の神様によって創造されていることに心を開き、有り難く受け取るだけでこの問題は解決されます。

 自分には無上の価値があることを受け入れることは、他のすべての人間をそのように見ることに繋がります。他の人間をもはや粗末に扱うことなどできません。

 神様があなたを無条件に大事になさっているように、あなたは他の人間を大事に扱うようになるでしょう。

 実在に目覚める分だけ、真実の素晴らしさがこの世の実際体験として現れてきます。

 愛に心を開いた人は、あなたは多くの人に愛されている事実を体験するでしょうし、自分も多くの人に愛を注いでいることを体験するでしょう。

 尊重に心を開いた人は、尊重し合う現実をクリエイトしていくでしょう。

 神様が創造なさった「そのまま」が如何に素晴らしいかを実感するにつれ、抵抗がなくなっていきます。有り難くすべてを受け入れられるようになるでしょう。抵抗がないので痛みや苦しみはありません。

 欠乏という悪夢から目覚め、あるがままの輝きという故郷に戻ったのです。
 

心を落ち着かせたいとき

 感情を掘り下げて紐解くという自己探求は、辛さはあっても心理的には余裕がないとできません。

 パニックになってそれどころでないとか、不安思考に呑み込まれて眠れないなどというときには、まず心を落ち着かせるほうがいいでしょう。

 怒りや不安や自己嫌悪や絶望感などが嵐のように内面に吹き荒れて、どうしたらいいか分からず戸惑ってしまうような場合には、奥にある原因を掘り下げてどうのこうの、というより先に、まずは精神状態を安定させて楽になることを優先しましょう。

 心を落ち着かせて精神状態を収拾するには、2つの有効な方法があります。

 1つは「呼吸」、もう1つは「一点集中」です。 

呼吸

 人間は自動的に湧いてくる思考や感情の流れを意志力で止めることはできません。よって、精神状態が生じた場合、ある意味それを受け止めるしかないようにできています。しかし、精神に影響を間接的に与える方法があります。その1つが「呼吸」です。

 「呼吸」は随意と不随意の両領域をまたいでいます。つまり、意識しなくても自動的に起こってくれるので、寝ているときでも「呼吸」が止まる心配はいりません。と同時に、意志で「呼吸」のスピードや深さを変えてコントロールもできるのです。

 心理状態と「呼吸」は密接に繋がっています。そして、「呼吸」を整えることで精神状態を落ち着かせることが可能なのです。 

 具体的には、深く長く吸ったり吐いたりを繰り返すだけです。鼻から息を吸って、口を細めて長く深く吐く。これを数分やるだけで、精神状態は大きく改善することが多いです。

 人前でプレゼンをする前とか、スポーツ試合の前とか、緊張をほぐして落ち着きたいときにも役立ちます。

一点集中

 精神状態が乱れているときは、考えたくもない不安思考がどんどん湧いてきて意識を占領したりします。不安や怒りや自己嫌悪などの感情が勝手に湧いてきて占領します。

 こういうとき、嵐のように吹き荒れる思考や感情に委ねるしかないのかと言うと、そんなことはありません。

 何か意識を集中する対象を1つ決めて、ずっとそこに注意を向けるのです。不安や怒りなどに注意が逸れてしまったら、その度に対象に意識を戻します。何度逸れても構いません。すぐ気づいて注意を戻してください。

 集中する対象は、呼吸の出入りでもいいし、時計とか椅子の角とか、何か狭い「一点」を決めて、そこに意識を全部向けるのです。そして、どんな感情や思考が浮かんで来ても無視して、意識をその「一点」にだけ集め続けます。これを数分やります。

 家族写真とか感情的な思い出があるような物は避けて、ニュートラルなものを選んでください。とっても好きな物や嫌いな物だとそれに集中することで感情が湧いてしまい集中の邪魔になります。

 何とも思わない中立なものがいいです。コップとかテレビの角とかペンの先など。足が床に触れる感覚とか手の感覚など、身体感覚を狭い範囲で限定してフォーカスしてもいいです。

 やりながら呼吸が浅くならないようにします。深くゆったりと息をしていることを時々確認してください。

 「一点集中」をすると、数分して心が落ち着いてきます。なぜかと言うと、心が乱れるというのは、心理的エネルギーが様々な方向に散っていて心が分裂している状態なんです。そして、「一点に集中する」ことで、バラバラな心的エネルギーがまとまってくるんです。心が統一されてくる。そうすると、辛さが激減します。

 「一点集中」すると、自動的に考えてしまう不安なイメージなどにエネルギーを注ぎませんので、立ち消えになります。マイナス思考のスパイラルに入ってしまうときというのは、考えたくないと思いつつマイナス思考に囚われてエネルギーを注ぎ続けてしまっているのです。なので、ニュートラルな何かの対象だけに注意を向け続けることによって、すべてのマイナス思考が止むということでもあります。

 あるお笑い芸人は、舞台に出る前に、ある一点だけを見つめて精神統一をするのだそうです。いいアイディアですね。

「呼吸」で「一点集中」してもいい

 「一点集中」する対象は何でもいいのですが、先ほどの「呼吸」と合体させて、2つを同時にやるという手もあります。

 「呼吸」の動きを腹部でもいいし、鼻腔でもいいので感じることだけに意識を集中させます。

 腹部なら、お腹が膨らむと凹むの動きだけを観察して他は何も考えない。鼻腔なら息を吸う時の涼しい感覚と吐く時の温かい感覚だけを観察して他は何も考えない。

 これを5分とか10分とかやると、精神が落ち着いてきます。 

「運動」や「動作」に完全集中するのでもいい

 体を動かすのが好きな人は、ジョギングをするとか水泳をするなどして、動きのみに集中して他は何も考えないという状態を続けると精神的には楽になります。

 また「運動」以外にも、皿洗いをするとか、部屋に掃除機をかけるとか、布団を干すなどの家事をやりながら、その瞬間にやっていることだけに完全に集中して、他に何も考えないようにすると同じ効果があります。

 心配性の人は、洗濯をしながら将来の不安を考えてしまったりしがちです。そうではなくて、洗濯をするときは瞑想のように洗濯だけに心を注ぐのです。

 茶道や華道も同じですね。メディテーションのように一挙手一投足を「マインドフル」に行うのです。これによって、精神が統一されます。

 日本の伝統には禅の影響を受けた瞑想的な文化が豊富にあります。

 能楽の歩き方、茶道のお茶の立て方なども、基本的に精神統一をして、「無心」になって行うのが善しとされているのだろうと推測しています。今やっていること以外に考え事をしないで、動作と一体になる。そこに悟りや平安があると考えるのです。

 考え事をせず、ただひたすら手を洗うとかトイレを掃除するとか散歩をするという行為は、精神が統一されていると、至福に感じられます。そういう体験をすでにされている方も多いのではないでしょうか。

 私のクライアントさんで夜寝付けなかった人に「呼吸」への「一点集中」を教えたら、寝付きが良くなったと喜ばれました。

 是非お試しください。
 

自分の願望を抜きに相手を見る

 私たちは相手を見るときに「自分がその相手に期待していること」というレンズで見てしまいがちです。

 自分の願望を土台にして相手と関わると、「この人には私を愛して欲しい」「この人にはお金を貸して欲しい」「この人には私の理解者でいて欲しい」という風に相手の存在意義を自分の中で決めて、そのような存在として相手と付き合います。

 「自分が相手から欲しいもの」を基に相手を見るのです。

 ところが、このように自分の願望という眼鏡でだけ相手を見続けると、相手がどんな人間なのかが見えなくなることがあります。「この人にはこうあって欲しい」という望みが強いあまりに、理想としての相手を作り上げ、そのイメージの人を見てしまっている。そして、生身の相手が見えないのです。

 つまり、相手をよく見ていない。

 自分が相手から期待するものが大きいと、その気持ちで視野が曇って、現実の相手を知ることの妨げになります。

 「愛する能力のない人」に愛されようとする、というようなことが起きてしまう。相手が与えられるはずもないことを求めてしまう。

 相手をよく知るには、自分の願望を横へ置いておいて、冷静に「この人はどういう人なのだろう?」と考えてみることが大事です。

 あるがままの相手を知るには、期待や願望は邪魔になります。 

生きるとはあらゆる「欲求」を体験すること

 「欲求」とは「概念」ではありません。瞬間瞬間に躍動する生命エネルギーそのものです。「欲求」は生きた実体であり、意識しようがしまいが私たちを無意識から突き動かすものです。

 あらゆる「欲求」を1つに束ねるとすると「生きたい欲求」でしょう。「絵を描きたい」も「山に登りたい」も「子どもを産みたい」も「いい仕事に就きたい」も「人の役に立ちたい」も「健康でありたい」も、すべて「生きたい」の部分的表現です。

 私たちは毎日「生きたい欲求」に応え、生命を成就するために考え、悩み、選択し、行動しているのです。

 不倫する人も、ドラッグをする人も、暴力を振るう人も、盗みを働く人も、1つの点で共通しています。それは、彼らが皆「生きよう」としていることです。この点において、私たち人間はみな同じです。

 すべての人は「生き生きしていたい」のです。ただ、「生き生きする欲求」を満たす方策が人によって違うだけです。ある人はギャンブルをしているときに「生き生きする」。ある人は女遊びをしているときに「生き生きする」。ある人はアイドルの追っかけをしているときに「生き生きする」。またある人は患者を治療しているときに「生き生きする」。子どものためにサラリーマンをしているときに「生き生きする」父親もいるでしょう。

 創作活動に「生き生きする」人、社会運動に「生き生きする」人、冒険に「生き生きする」人、慈善活動に「生き生きする」人、お金儲けに「生き生きする」人など様々です。

 それぞれ方策は違っても、「生き生きしたい」のは皆同じなんです。

 私たちは「美の欲求」「尊重の欲求」「学びの欲求」「楽しみの欲求」「自由の欲求」「自律の欲求」「冒険の欲求」「貢献の欲求」「休息の欲求」「豊かさの欲求」「安全の欲求」など多種多様な「欲求」を持っていて、どれが満たされてもそれは幸せになります。

 美を感じるのも、尊重を感じるのも、成長したと感じるのも、楽しいと感じるのも、自由を感じるのも、自分で自分の道を歩んでいると感じるのも、冒険で未知の世界を体験するのも、誰かの役に立っていると感じるのも、疲れた後で休息できるのも、豊かさを有り難く享受するのも、安全だと感じるのも、すべて生命が成就し喜びとなるのです。

 これらすべては人間として生きる幸せです。それぞれは全体ではありませんが、どれも幸せになり得ます。

 そして、逆に、満たされないことは不幸に感じます。醜いだけの環境にいるのも苦痛なら、尊重されないことも、学べないことも、楽しくないことも、自由でないことも、自分で自分の人生について決定できないことも、未知の世界に出会えないことも、誰かの役に立てないことも、休息できないことも、豊かさを感じられないことも、安全だと感じられないことも、みな辛いことです。

 どれ1つとして、「この欲求は大事ではない」と言えるものはありません。 

 人間として生きることの喜びと悲しみは、多種多様な「欲求」の成就と未成就の波なのです。

 たとえば、「尊重される喜び」は「尊重されない悲しみ」は、ともに「尊重の欲求」を体験していると言えます。ひとつはその成就であり、もうひとつは未成就であるという違いがあるだけです。

 何かが成就する喜びを味わうのも、それが成就しない悲しみを味わうのも、実は共にその性質の大事さを体験することに他なりません。

 「尊重される喜び」も「尊重されない悲しみ」も、ともに「尊重されていると感じること」の価値を痛感する体験として対等な意義をもちます。

 健康であることの幸せは、健康であるときと、健康を失って病気や怪我をしたときの両方で味わいます。健康という恵みの有り難さを痛感するのは、満たされたときと満たされないときの両方なのです。

 つまり、健康であることの喜びを味わっている瞬間も、病気になって健康でない辛さを味わっている瞬間も、ともに「健康」を賛美しているのです。生命活動の中の「健康」という部分に意識の焦点が当たって、その部分を知ろうとしているのです。

 多くの人は「尊重されない辛さ」「共感されない辛さ」を味わい、苦しんでいます。それは、気持ちを聞いてくれない父親や母親や上司のせいだと考えがちです。しかし、実は魂にとって「尊重されないという体験」「共感されないという体験」は、尊重や共感が何たるものかを知るために必要なのです。

 「尊重されない辛さ」を今世で味わった人が、「尊重される喜び」も体験することができれば、「尊重」という学びが完成します。

 「欲求」というものは、満たされないマイナスとともに満たされるプラスも経験することで、学びが完成するのです。 

「欲求」を生きたものとして実感する

 人間を理解するとき「欲求」の動きを捉えることが重要だと私は考えています。

 幸せとは「欲求」を成就させることであり、不満や混乱は「欲求」が満たされないまま身動きがとれない状態です。

 「欲求」は「思考」との絡みで様々な「感情」を生み、その「感情」によって人は悩まされます。

 「感情」というものを理解したり紐解いたりするには、人間の「欲求」を知らねばなりません。「感情」を動かしている原動力とも言える「欲求」の躍動を実感しなくてはなりません。 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「欲求」を実感し言語化することの大切さ

 自己理解は、体験しているものを言語化する能力に比例して広がります。

 まず「欲求」というものを私たちは明確に体験しているでしょうか? 

 誰でも意識しやすい「欲求」として「食欲」があります。まずはそこからスタートしましょう。

 「お腹がすいた」というとき、肉体感覚として「食欲」を感じますよね。「食欲」が旺盛であるとは、「食べ物の欲求」が満たされていない状態です。満たされていないので「食べたい」という意欲が出ます。そして、満腹になったら「食べ物の欲求」は満たされて、もう食べたくなくなります。

 では、「尊重されたい欲求」「平等に扱われたい欲求」「自己肯定したい欲求」などをあなたは実感して生活していますか?

 それらが満たされたときの喜びと、満たされなかったときに不満を自覚できますか?

 「あ、これは尊重されたい欲求だ」と意識できる人は、その欲求をすでに意識化し言語化しています。「そんなこと意識したことなかった」と言う人も、そういう欲求は常に持っていたのですが、持っていることを知らなかっただけです。つまり自己理解がそこまで及んでいなかったのです。

 私たちは相手の言動によってイヤな気持ちがしたとき、「何の欲求」が満たされなかったことで不満になったのかが分からないことがあります。ただ「不快だ」と感じているだけで、「何が満たされなかったのか」を知らない。これが「欲求」に無自覚な状態です。

 私はこのような場合、「どうなったら嬉しかったか」を問うて、「もしそうなったら何が満たされたのか」を探し当てます。すると「欲求」の正体が分かるのです。

 なぜ「欲求」を体感し言語化することを強調するのかと言いますと、そこまで深く自己理解を進めなくては解けない怒りや不満というものを私たちは抱えているからであり、そういう場合に問題はなかなか解けないからなのです。

 つまり、いろいろな苦悩を紐解くには、自分の不満の正体というものを知らなくてはならない。ところが、多くの人は文句を言い、周りに支配的・迎合的に関わりはするけれど、自分が心の底で本当に求めているものの正体を知らないので、心理的解決ができないのです。

 すべての人は自分の「欲求」を満たそうとして全ての行動をします。ただ、何の欲求を満たしたくて行動するのかに気づいている人は少ない。

 なぜ妻を殴りたくなるのか。なぜ酒を飲まずにはいられないのか。なぜ息子が一流企業じゃなきゃイヤに感じるのか。こういった自分の気持ちの奥に躍動する「欲求」を理解できていません。

 理解できていない「欲求」なので、それに突き動かされたときどうしたらいいか分からない。なぜ自分がそのようなものを望んでしまうのかというパズルが解けない。

 「欲求」とは、生命が自らを成就するために人間の根底で躍動する生命エネルギーそのものです。すべての「欲求」は、「生きたい」という1つの「欲求」が枝分かれしたものです。

 生命が自らを成就し、体験したい、創造したい、進化したいなどのいくつかの大きな普遍的欲求へと分かれ、それが自由や尊重や自己実現や休息や美などの欲求へとさらに細かく分かれます。

 1つの根源的欲求が多岐に渡って分かれたものが心の中で多種多様な意欲となります。そして、遊びや勉強や恋愛や仕事の成就に自分を駆り立てます。

 ある「欲求」は満たされ幸福感を味わい、ある「欲求」は満たされず不満と悲しみを味わいます。中には慢性的に満たされない「欲求」もあり、パイプが詰まったようにフリーズしてしまう。感情がそこだけ痛み続けている。

 たとえば、他の「欲求」のすべてが満たされ幸福であっても、「共感の欲求」だけは満たされないまま放置されていたら心はそこだけ痛みます。

 この人は「自分の中の『共感の欲求』が慢性的に満たされていないんだ。それが辛いんだ」ということを自覚できると癒せるわけです。

 ドラッグや過食などに依存する人の中では、何らかの「欲求」が痛んでいます。その痛みを消すためにドラッグや食べ物を使うのです。なので、満たされていない「欲求」のパイプの詰まりを掃除する必要があります。そうすれば、ドラッグや食べ物によって鎮痛する必要はなくなるのです。

 「欲求」とは日々の生活で一瞬一瞬動いているものです。

 たとえば、お腹がすいたら「食べ物の欲求」が今は一番主張している。食べ終わったら、本が読みたくなったとすれば、それは「学ぶ欲求」かもしれないし「楽しみの欲求」かもしれない。本を読んでいて体の姿勢を変えたくなったら、「快適の欲求」が動いている。体にきつい姿勢をしていると誰でも気持ち悪くなりますよね。体を楽にしてあげたいという気持ちになっているとき、体のバランスをとろうとしている生命力が正に動いているのです。それをその瞬間に自覚してみてください。「あ、今快適になろうとしているなあ」と。

 本を少し読んで淋しくなってきた。友達に電話でもしてみようかと思う。「心の通い合いの欲求」が頭をもたげてきたのです。触れ合いが欲しい。こういうとき、「ああ、今は触れ合いが欲しいんだなあ」と自覚してみる。電話に出ない。がっかりする。「触れ合いの欲求」が満たせない。不満を感じる。「まあいいか。後でまだかけよう」と思う。そして、別のできることを探す。

 すると、尿意を催してきた。生理的欲求が前面に出てきました。それに従ってトイレに行く。用を済ませ、トイレを掃除する。汚いトイレが奇麗になって少し嬉しい。「清潔の欲求」が満たされたのです。

 このようにして、私たちは毎日の生活で、何十もの「欲求」が入れ替わり立ち替わり主張してきて、それに応えて満たしてあげるということをします。

 それによって、生命は「生」を成就しているのです。

 私たちは、自分に食事を与えるとき「食欲」を満たし、姿勢を変えてあげるとき「快適の欲求」を満たし、友達に電話するとき「触れ合いの欲求」を満たそうとし、トイレに行くとき「生理的欲求」を満たし、掃除をするとき「清潔の欲求」を満たし、満たされる度に少しばかりの幸せを味わうのです。生が成就するのです。

 しかし、悩み苦しみもある。つまり、ずっと長い間満たされないで苦しんでいることがある。

 たとえば、夫と会話が成り立たない。触れ合えないまま何年も経つ。夫はいつも上から目線で話してくる。それがイヤだが、どうしたらいいのか分からない。

 こういうとき、「自分が満たせていない欲求とは何だろうか?」と考えてみてください。そして、頭で推測した後は、必ず体感によってその答えが合っているかチェックしてください。体に「欲求」の正体を教えてもらうのです。その「欲求」を体に中でエネルギーとして実感したとき、本当に「知る」ことができます。

 その「欲求」に意識を向けたとき、慢性的に満たされていないものなら涙が出てくることが多いです。満たされていない辛さに意識のスポットライトが当たるんです。

 そしたら、辛い感情を全部感じてあげてください。「そうだよね。辛いよね」と言って。「◯◯が満たされたいんだよね」と理解を伝えてあげます。これだけで、自分への愛が深まります。自己理解が広がります。

 不満の痛みが表面化して受容されると、前に進めます。

 「この欲求を大事にするには、どのように行動すればいいのか」が次第に明確になるからです。

 「欲求」を明確に自覚でき、満たされない感情をフリーズ状態から解放してあげることで、その「欲求」の満たし方は見つかりやすくなります。

満たされていない「欲求」をエネルギーとして体感すると
フリーズしていた痛みが解けて楽になる
そして満たし方が見つかりやすくなる

「欲求」は頭脳的に知的に理解するだけでは不十分
体の中でエネルギーとして実感することで
体験的に「知る」ことが大事
 

「統合された反応」と「分裂した反応」

 私は何か困惑するような出来事が起きると、心の動揺が収まるのを待って対応をするように心がけています。というのは、動揺している状態で反応してしまうと、却って状況を悪化させてしまうだけということが多いからです。

 動揺している状態では、物事はクリアに見えません。動揺しているというのは、自分があちこちに分散して統一がとれていないということなのです。

 こうしようか、それともああしようか、ああ分からないと心が分裂しています。そういう状態でいい答えが出るはずはないのです。

 心が乱れた状態でつい物を言ってしまったり、動いてしまったりして失敗したことは誰にでも1回はあるのではないでしょうか。 

 動揺したまま言動することを「分裂した反応」と呼ぶとすると、落ち着いて「こうすればいいんだ」と疑いなく納得してから言動することは「統合された反応」とでも言えるものです。

 「統合された反応」に行き着いたら、それは心地よく平安に感じられます。「これでいいんだ」と納得できるんです。その決断に抵抗して乱れるもうひとりの自分というものがない。自分の全体で心から賛成できる答えなんですね。

 それに対して、「分裂した反応」は心地悪い。自分の中に緊張があり、それを行動に移してもすっきりした気持ちにはなれません。葛藤がまだ解けていない状態で動こうとしているからなのです。つまり、答えに矛盾を孕んでいるのです。

 何か外の現実で起き、それに対して動揺を体験するなら、それは元々自分の中にあった「葛藤」を表面化させたに過ぎません。自分が蓋をしておきたかったものを刺激されたなどです。自分が自分を否定していたことが刺激されたなどです。

 自分の中でそもそも統合されていなかったもの、つまり自分の中で分裂があったものが、出来事によって白日のもとにさらされているのです。

 その葛藤に対峙し、きちんと統合できたら、自ずと自分が気持ちよいと納得できる対応ができます。

 自分に動揺をもたらした状況に対して「統合された反応」ができるということは、その状況を自分の癒しと進化のためにちゃんと使えたということです。

 まずは、統合によって自分の中にある分裂を癒すこと、それが第1の仕事なのです。
 

人間関係における自由とは

 私は「人間関係における自由」についてよく考えます。

 「自由」とは相手への迷惑を顧みず好き勝手に振る舞うことでしょうか? そうではありませんよね。 

 自己中心的なナルシシストは決して「自由」ではない。なぜなら、自分の低次元の衝動に操られ、奴隷になっているからです。より高次元の愛によって生きる幸せをまだ知らないのです。

 また逆に、どう思われるかを気にして、自分を抑えて周囲の期待に応えようとする人もまた「不自由」です。相手から承認されるかされないかが気になって、自分の行動を縛ってしまうからです。

 私が思うに、人間関係においてその人がどの程度「自由」なのかは、その人が自分自身の「恐怖」からどの程度解放されているかによって決まるのではないか。

 孤独が怖い、無価値であることが怖い、守ってもらえないことが怖い。

 このような恐怖心によって束縛されている度合いが強い人ほど、心が縛られている「不自由な人」です。

 たとえば、「孤独が怖い」という人は、何とかして自分と一緒にいてくれる人を求めます。マイルドにではなく、強迫的に求めます。相手を強烈に「必要とする」のです。「相手がいなくては生きていけない」というほどに。

 このように、べったりと相手に依存せざるを得ない心理の人は、たいへん「不自由」であり、「束縛」されている人です。自分の心が恐怖によって感染しているので、救いを他者に求める。そして、その他者もまた「自由」であってはならないのです。このようにして、その人が自分を満たしてくれるよう強要し、束縛します。その人が自分をひとりにすることなど決して許されない。

 「自分が無価値であることが怖い」という人は、何とかして褒められようとします。相手の評価が喉から手が出るほど欲しい。それなしでは自分はダメ人間ということになってしまうと思い込んでいるので、溺れる者が藁をも掴む気持ちで、相手からの甘い言葉にしがみつく。これもまた、恐怖に感染した心です。

 「守ってもらえないことが怖い」という人は、自分で自分を主張したり、ノーと言ったり、きちんと境界線を引けない。自分はか弱い、可哀想な、他者の救いと哀れみを必要としている小さな存在だと思っている。なので、強い誰かに守ってもらわねば困る。自分で立つということが怖くてしょうがない。

 このように、恐怖に縛られた人は、他人にどっぷり依存し離れられません。他者の承認や庇護が得られないと、それが脅威となり動揺するのです。

 こういった恐怖を少しずつ乗り越えると、心は徐々に束縛から解き放たれ「自由」になっていきます。「自由」になった人は、恐怖から自分を守ってくれる者として相手を見ません。なので、相手の「自由」も尊重できるだけの精神的自立があります。

 恐怖を乗り越えた分だけ、人間関係において自由を享受できるのです。

 人を監禁しておかねば気が済まないような人は、ものすごく不安に苛まされている人です。

 配偶者のメールをチェックし、行動を監視し制限しなければ不安で不安でしょうがない人は、恐怖で雁字搦めになっている人です。心が不自由な人です。

 このような人が自由になるためには、恐怖と対峙しなくてはなりません。

 「自分は何を怖れているのだろうか?」と問うて、体の底から浮上してくる恐怖と正面対決するのです。

 この人は、一番の「敵」とまだ戦っていない。その「敵」とは「自分自身」です。

 己を乗り越えていないのです。最も勇気を必要とする「戦い」を避けているのです。

 不安から相手を縛る人は、不安に負けている人です。自分自身に負けている人です。

 「相手が自分を不安にする」と勘違いしている。相手を責めれば自分は「戦い」を避けられる。勇気を出す必要がなくなる。相手を縛るのは最も安易な解決なのです。臆病なのです。

 弱い人は不自由です。本当に強い人は自由であり、相手も自由にしておけます。相手を束縛し、支配する人は、最も臆病で恐怖に支配されている人なのです。

 

イヤな体験をするたびに自分の波動を上げる方法

 この記事で私がお伝えすることを掴んで実践できたら、あなたの進化は加速することでしょう!

「イヤな体験」の正しい使い方

 私が掴んだ人生の極意をお伝えします。しかも無料で。他の人なら何万円もとって商売をするのかもしれませんが、私はタダで提供します。 

 その極意とは、「イヤな体験」をするたびに自分の波動を上げるということなんです。

 つまり「イヤな体験」を拒絶せず、受け入れて、それを自分のプラスに変えてしまうんです。

「イヤな体験」はなぜ起きるのか

 実は、客観的に「イヤな体験」というものは存在しません。「イヤだ」と感じるのは、体験に対して「悲しみ」「寂しさ」「絶望感」「自己嫌悪」などのマイナス感情で反応しているからです。

 つまり、体験を「イヤなもの」にしているのは、自分自身の感情反応なのです。 

 多くの人はここで大きなミスを犯します。

 それは、「体験」が自分を「イヤな気持ち」にさせていると解釈することです。「イヤな感情」は「体験」のせいだと捉えるのです。だから、「イヤな体験」を非難します。「イヤな目に遭わせた相手」を攻撃します。

 これが通常の常識人の大部分が行っていることです。

 私が悟った真実をお伝えしましょう。実際にはこの正反対のことが起きているのです。

 よろしいですか?

 「マイナス感情」が「体験」の原因なのです。

 え? そんなバカな!?

 いじめられて、それが原因で傷ついたのではなくて、元々傷ついていたのでいじめられる体験を引き寄せたんです。

 ほとんどの人は、「でも、いじめられる前には傷ついてなんかいなかった。いじめられた後に傷ついたんだ」と主張します。

 これは事実ではありません。

 彼らは「いじめられる」という体験をして、その後で「傷ついている」ことをはじめて意識できたので、「いじめられた体験」がそれを引き起こしたのだと勘違いしているのです。でも、無意識の中ではもうすでに「傷ついていた」のです。

「イヤな体験」の本来の目的を果たす

 「いじめられる」という体験は、自分が「傷ついている」ことを教えてくれているだけです。「傷ついている」という感情を受け入れて、それを癒すように促されているだけなんです。

 「イヤな体験」は癒しを目的として生じています

 大部分の人はこれを理解しないので、「いじめた人が悪い」と考え、「傷ついている原因」を相手に求め攻撃してしまいます。では、攻撃したら「傷ついた」という感情が癒えるかと言うと、癒えません。相手を攻撃することで、さらに自分が傷ついてしまうのです。

 私の理論通りに正しく処理するとすれば、こうなります。

 「いじめた人」は、私の中にすでに存在していた「傷ついた感情」を感じさせてくれた。私の中の「傷ついた感情」の波動が、この「いじめる人」と完璧にマッチして、鏡のように映し出してくれたのだ。私はこの好機を利用して、「傷ついた感情」を癒すことにしよう

 相手とは無関係に、この心の動揺に寄り添って耳を傾け、癒すのです。そして、心が平安になったとき、自分の波動が上がっています。前より上がっています。

 この「いじめた人」を想像しても、何にもイヤな感情がないすっきりした状態になるまで、すべての動揺をクリアにします

 「いじめた人」や「いじめられた体験」に少しでも許せない感情やマイナス思考が残っているなら、癒しのプロセスは完了していません。相手や状況を思い描いても、何の苦しみもわだかまりもない状態にまで癒すと、心はとても自由になります。

 自分の責任において「傷ついた感情」を処理すると、「いじめられる体験」とは波動がマッチしなくなるんです。

 「いじめられる体験」をしたことで、自分の中にあった「傷ついた感情」を発見して癒すことができた。そして、「傷ついた感情」がなくなったので、それを鏡として映し出す体験をもう必要としないレベルにまで自分が進化したのです。

 「いじめられる体験」を受け入れて消化したからこそ、もう「いじめられる体験」がいらなくなるのです。「いじめられる体験」の本来の目的が成就したということです。

相手に対して不安や怒りや自己嫌悪を感じたら自分を癒す

 私は日々の生活で、相手や状況に対して不安や怒りや自己嫌悪を感じることが度々あります。以前は相手や状況に対して文句を言っていたのですが、だんだんと「イヤな体験」の本来の目的を理解するようになり、今では毎回自分自身を癒す作業だけをします。

 そうすると、「イヤな体験」をする度に、自分がどんどん自由になっていくのが分かるんです。楽しいですよ!

 私はもう、相手や状況によって不安や怒りや自己嫌悪を感じることが怖くなくなりました。感じたら相手を攻撃する必要がないと知って安堵しましたし、どのように処理すれば自分が楽になるかを知っているからです。

 「イヤな体験」は大きな恵みをもたらしてくれるのだということを多くの人に知ってもらいたいと思います。

 「イヤな体験」は、自分を癒して解放するために利用するのが正しい使い方なのです。

 私が発見した真理を最後にお話ししましょう。

 人生で起きることで、恵みでないものは何もありません
 

VIBRATIONAL GAP

 私たちは自分自身の波動によって現実を創造します。自己肯定的な人は自己肯定を味わうような体験を引き寄せるし、自己否定的な人は自己否定を味わうような体験を引き寄せます。

 すべての人は、自分の思考やイメージや感情と波長の合う現実をクリエイトし、その中で自己を体験します。

 「世の中はすべて自分勝手で弱肉強食で、誰も信頼できない」と堅く信じている人は、それと同じ感覚の人をたくさん引き寄せ、その通りの体験を多くすることになります。

 逆に、「人間は根本的に優しい存在で、優しくすれば大抵の人は喜ぶし、仲良くやっていける」と堅く信じている人は、それと同じ感覚の人をたくさん引き寄せ、その通りの体験を多くします。 

 その人がどういう人たちに囲まれ、どういった感情体験を主にしているかを見れば、内面でどのような自己イメージや人生観を持っているのかが分かります。

 さて、誰でも進化の過程を歩んでいます。そして、さらに一段階上の自分を目指したいと望むときがあります。

 その夢が破壊的なものではなく、成長に向かうものであれば、その夢は現在の自分よりも高い波動をもっています。そして、その夢を考えるとワクワクするはずです。というのは、その夢を実現するということは、即ち自分の波動が高くなることを意味し、一段階上の幸福が実現することになるからです。

 すべての人にとって、現在よりも高い波動になることは、光り輝く明るい未来だと感じられます。

 貧乏な人がお金持ちになることも、能力の低い人が能力を開発することも、怒りっぽい人が寛容で心広い人になることも、波動が相対的に高くなることであり、満足いくことだと本人には感じられるのです。 

 さて、私たちは次々と新しい目標にワクワクし前進していければ何も問題はありません。しかし、時に私たちは順調に成長できない、あるいは成長するのが怖いと感じる体験をします。

 何かを乗り越えなくては、避けてきたことに対峙しなくては、最も怖いことに直面しなくては前進できないという状況があるのです。

 こういうとき、目指したい夢を想像すると、恐怖を感じたり緊張したり絶望したりします。できないような気分になって足踏みをする。

 できるかなあと悩む。目指しているものが、あまりに遠く感じる。達成不可能ではないかと思えてくる。

 このように、夢を思い描いたときに、重たい気分になるなら、「今の自分」と「なりたい自分」との間に大きな Vibrational Gap (波動のギャップ)があるのです。 

 体力で言えば、10km やっと走っていた人が 20km を目指そうとすると「波動のギャップ」が感じられます。「できないのではないか」という迷いとか、不安などがこの「ギャップ」なんです。

 自分に自信のない人が、好きな人に告白をするような場合、「断られる不安」という「ギャップ」を超えなくてはなりません。「ギャップ」を超えた人というのは、「断られても落ち込まないだけの自己肯定を身につけた人」ということです。

 断られたときに「自己否定」に落ち込んでしまう人は、断られても平気で受け止められる人ほど高い波動にいません。自分を肯定してあげられるということは、波動が高いのです。落ち込みやすいということは、波動が低いのです。

 さて、私たちは誰でも現在の限界というものがあり、それを乗り越えようとするときフロンティアにいるわけです。自分の限界を超えて新たな境地に向けて挑戦するということです。

 そのときに、乗り越えなくてはならないものが内面に浮き上がってきます。新たな目標を意識したとき表面化してくるマイナス感情やマイナス思考が、乗り越えるべき障害そのものです。 

 重たい気分、不安、動揺、疑念、こういったものをクリアにしていくと、波動が新しい目標に近づいていきます。

 新しい目標を思い描いたときに明るい気持ちになれず、そのヴィジョンに対して抵抗してくる心理にすべて対峙することです。それを解決することです。

 光や愛に近づき、波動を上げれば上げるほど、実は古い暗闇がどんどん表面化してきます。

 波動が上がると、低い波動を処理する能力が高くなります。ということは、これまで縛られていたような不安や執着に気づいて手放して行く作業が速まります。マイナスがどんどん手放せるので、波動がどんどん上がって、創造できる現実がバージョンアップしていくのです。

 だから、目指したいものをはっきり意識したとき、「ああ、ダメだ」「絶対できない」「怖い怖い」という反応が自分の中に起きてきたら、「しめしめ」と思ってください。がっかりする必要はないのです。

 宇宙は、その新たな目標の成就のために気づいて処理しなくてはならないものをピンポイントで教えてくれ、一番見やすいところにまで潜在意識の奥から出してくれているのです!

 夢を思い描いたときに、絶望感が上がってきたら、「あ、この絶望感をクリアすればこのゴールに近づけるんだ」と思ってください。

 現在の自分の波動が300だとして、新しい目標の生活が400だとしましょう。そうすると、新しい目標に到達するには100のネガティブエネルギーを処理しなくてはならないんです。

 400は300よりも愛と光に満ちた明るい生活です。なので、400をイメージしたら、処理する必要のある暗闇が100浮上してくるということなんです。

 不安を処理し、絶望感を処理し、疑う気持ちを処理し、暗闇を20、30、40とクリアしていくと、自分の波動が320、340、360と上がっていって、しまいには400の夢が叶うのです。

 だから、Vibrational Gap として表れる重たいエネルギーを好機だと捉えてください。

 確実に前進している証拠だからです。
 
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