菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2016年05月

パワー・ディスタンス(上下関係の感覚)の国際比較

日本より教授と学生の心理的距離が小さいアメリカ

 アメリカの大学に行って驚いたのは、学生が教授をファーストネームで呼んでいたことです。18〜19歳の学生が、50歳の教授に「ジョン」とか「メアリー」とか言っている。さすがに私は教授をファーストネームで呼ぶ気にはなれず、大学院を修了するまでは「◯◯教授」という呼び方を通し、大学を離れてからファーストネームの付き合いをさせてもらいました。

 また、私はアメリカでピアノ教師をしていましたが、白人や黒人の生徒は9割が私を RYO と呼び、アジア人の生徒は9割が MR. SUGANAMI と呼ぶという妙な状況がありました。白人の親でも「先生は苗字で呼びなさい」と子供に教育している家庭も少数ながら見受けられました。

 このように、生徒が先生に対してどのような心理的距離で付き合うかということには文化差があります。また、同じ文化圏であっても個人差もあるようです。

 日本では、自分の先生に「やあ、サトル!」とか「こんにちは、ケイコ!」なんてとても言えませんよね。やはり上下関係においては一定の距離を保つのが常識になっている。

 先生と生徒の関係がファーストネームであるアメリカでは、日本よりも上下間の心理的距離が小さいわけです。オランダの学者ホフステーデは、こういった上下間の心理的距離を「パワー・ディスタンス」と呼びました。アメリカでは日本より「パワー・ディスタンス」は小さいということになります。 

PDI(パワー・ディスタンス・インデックス)とは

 「パワー・ディスタンス・インデックス」とは、その社会の中で最も力の弱い者が、力の不均衡をどの程度受け入れているかを示す指数です。数値の高い文化では、貧富の差、階級の差、権力の差などが変えられない当然のものとして受け入れられているのに対して、数値の低い文化では力の差をなくして均等にしようという意識が強いということです。力の差を当然視していないわけです。

 ですから、身分制度が確立されていて、低い身分の人が「自分は所詮高い身分の人とは違うのだ」という秩序を受け入れて変えようとしない場合、その文化の「パワー・ディスタンス」は大きいことになります。また、「身分制度なんておかしい、みな平等であるべきだ」という意識の強い社会では「パワー・ディスタンス」は小さいということです。

 ホフステーデ博士はフランスとドイツの国境近くの大学で講義をしたとき、両国の大学から教授と学生が聞きに来たそうです。ところが、フランス人とドイツ人の対応が全く違ったと語っています。ドイツ人は教授ではなく学生のほうからたくさん博士に話しかけて来たけれど、フランス人は主に教授が話しかけて来て、学生から話しかけてくることは少なかった。また、フランス人の教授は「学生たちに話をしてくれてありがとう」と感謝してきたけれど、ドイツ人の教授は学生に代わってお礼を言うということをしなかったそうです。

 ドイツやオランダでは「パワー・ディスタンス」が小さい。つまり、教授と学生は対等に話すのが当たり前の文化である。しかし、フランスでは「パワー・ディスタンス」が大きい。なので、学生は偉い教授に話しかけるということはせず、自分たちの教授が話しかけるのを待っている。「パワー・ディスタンス」の小さいオランダから来たホフステーデ博士からすれば、学生たちと講義の後にしゃべるのは、「しゃべってあげている」とか「世話をしてあげている」という感覚はない。ところが、フランス人の教授からすれば、「まあ、なんと親切に私の学生たちに話をしてくださっているのだろう」と恩義に感じるということです。隣り合わせのドイツとフランスであっても、「パワー・ディスタンス」はかなり違うという例です。

 アメリカ人の子供に話しかけると、対等な親しい友達であるかのように話し返してくれます。私はこの「パワー・ディスタンス」の小ささが個人的には心地よいと感じる。ところが、フランス人の子供に話しかけると、向こうはこちらが大人なのでかしこまって妙に固くなるんです。失礼のないようにと礼儀正しくしようとするのが分かる。とても距離があるんです。同じ欧米人と言ってもかなり違います。

 フランスはこの後の国際比較でご覧になれば分かりますが、日本よりも上下関係の感覚は厳しいです。 

PDI(パワー・ディスタンス・インデックス)の国際比較

 数値が高いほど、最も力の小さい人たちが力の不均衡を変えられないものとして受け入れているということです。数値が低いほど、最も力の小さい人と大きい人は対等であるという感覚が強いということです。

104 マレーシア
 95 グアテマラ
 95 パナマ 
 94 フィリピン
 81 メキシコ
 81 ベネズエラ
 80 中国
 80 エジプト 
 80 イラク
 80 クウェート
 80 レバノン
 80 リビア
 80 サウジアラビア
 80 アラブ首長国連邦
 78 エクアドル
 78 インドネシア
 77 ガーナ
 77 ナイジェリア
 77 シエラレオーネ
 74 シンガポール
 69 ブラジル
 68 フランス
 68 香港
 68 ポーランド
 67 コロンビア
 66 エルサルバドル
 66 トルコ
 65 ベルギー
 64 エチオピア
 64 ケニア
 64 ペルー
 64 タンザニア
 64 タイ
 64 ザンビア 
 63 チリ
 63 ポルトガル
 61 ウルグアイ
 60 ギリシア
 60 韓国
 58 イラン
 58 台湾
 57 チェコ
 57 スペイン
 55 パキスタン
 54 日本
 50 イタリア
 49 アルゼンチン
 49 南アフリカ 
 46 ハンガリー
 45 ジャマイカ
 40 アメリカ
 38 オランダ
 36 オーストラリア
 35 コスタリカ
 35 ドイツ
 35 イギリス
 33 フィンランド
 31 ノルウェー
 31 スウェーデン
 28 アイルランド
 22 ニュージーランド
 18 デンマーク
 13 イスラエル
 11 オーストリア

あなたの個性に合う上下感覚とは?

 心地よい上下感覚には個人差もあると私は思っています。同じ日本人と言っても、上下関係のしっかりした秩序が心地よい人もいるでしょうし、反対にもっと平等感覚の強い環境が心地よいと感じる人もいるでしょう。

 私は絶対に「パワー・ディスタンス」の小さい環境が心地よいです。日本(54)よりアメリカ(40)の方がこの点では心地よいと感じますし、デンマーク(18)はこれまで旅したどの国よりも心地よかったです。

 日本には相撲や歌舞伎、お笑い、宝塚、体育会など、上下関係の厳しい世界が多く存在します。その中では先輩・後輩の力関係というものが絶対的です。「パワー・ディスタンス」の大きい文化ですね。私は絶対無理ですが、そういう関係性が好きな人の自由を私は尊重しています。 

 私は英語教室・ピアノ教室を開いていたとき、お中元やお歳暮などは一切お断りしていました。私を上に立てて贈答品を送るという親御さんたちの行動が私には全く心地よくなかったので、そういう習慣を私は採用しませんでした。アメリカではバレンタインカードで「サンキュー」とか「アイラブユー」という気持ちを生徒から受け取ることはありましたが、正式な贈答品のようなものを送られることはありませんでした。そのほうが私は気楽です。

 私と付き合っていて心地よいという方は、おそらく「パワー・ディスタンス」の小さい方だろうと推測します。

参考ウェブサイト
http://www.clearlycultural.com/geert-hofstede-cultural-dimensions/power-distance-index/
 

疑似成長

(ケン・ウィルバーのインテグラル理論を参考にしています。)

成長は「同一化」と「脱同一化」の連続

 人間は A段階から B段階、C段階という風に階段を登るように成長していきます。A段階にいるときには、A段階と「同一化」する、つまりそれに「なり切る」という期間が必要です。何かに「なり切る」とき、私たちはそれを客観視できません。なぜなら、自分自身が「それ」になるわけで、そのときは「それ」が「自分」とイコールになるからです。それに没頭する、あるいはそれと融合する。そういう状態です。それがあるべき姿なのです。

 そして、A段階と完全に「同一化」する期間が続くと、あるときエロスという超越欲求が働いて、B段階へと進みます。今度は B段階と「同一化」するので、B段階が「自分」になるわけです。このとき、すでに終えた A段階とは「脱同一化」する。つまり、そこからは分離をして、「自分」ではなくなるんです。そうすると、A段階を客観視できるようになります。「ああ、私は以前ああだったなあ」と3人称として認識できるようになるのです。 

 このようにして、私たちは過去に通った道を客観的に見ることができます。たとえば、初めて失恋をしている青年がここにいる。彼にとってこの経験はまさに「今の自分自身」である。客観視できない。けれど、私は大分前に初めての失恋という体験を経てきている。そしてそれを乗り越えて来た。すると、私の中では「初めて失恋した自分」とは「脱同一化」しています。もう「自分自身」ではなく、いわば「過去の自分のレパートリー」に入っている感じです。意識の中の対象として認識でき、「ああ、彼は今あれを通っているところなんだなあ」と捉えることができます。

 このように、自分がすでに卒業したレベルは、「非自己(あれ)」として客体化して見ることができます。この状態が「脱同一化」している状態です。「俺も昔ああだったなあ」なんて。

 誰でも進化を続けていますので、私が今通っているレベルを私は客観視できません。私より上のレベルの人じゃないと私のレベルを客体化して「ああ、彼はあれを今やっているんだ」とは思えない。また、私より下のレベルの人は、私のレベルをまだ経験していないので認識することはできません。自分が「同一化」したことのないものは理解できない。なので、成長するにはまず何でも「同一化」して、それに「なってみる」という経験が必要なのです。 

健全な脱同一化と不健全な乖離

 A段階に完全になり切って、きちんと「同一化」すれば、次の段階へ進むときにキレイに「脱同一化」できます。しかし、A段階の自分が受容されなかったとか、欲求が満たされなかったという場合、A段階はきちんと「抱擁」されません。A段階の何かが否定されたままで B段階に進んでしまうと、A段階との「健全な脱同一化」は生じず、「不健全な乖離」が生じます。

 A段階をフルに生きた場合、A段階の体験が「消化」されます。しかし、A段階を何らかの理由でフルに生きられないまま次に進んだ場合、A段階は「消化不良」のままです。そして、この「消化不良」の部分は、成長から取り残された形で意識に残ってしまいます。A段階での「未消化のもの」は、B段階に進んだ「自分」から切り離され、それに気づくことができないまま、無意識に追いやられます。それは自分で意識できなくなるので、意識の「影(シャドー)」になります。

 このようにして「乖離」という現象が起きます。「乖離」とは、現在の「自分」が意識できない状態で離れてしまっている「以前の自分の未解決の不満」が「影(シャドー)」として存在することを意味します。

 きちんと「同一化」できなかったものがあるとき、その部分を卒業することはできません。その部分は未成熟のまま意識の奥に潜ってしまうのです。そして、現在の「自分」と「それ」は「不健全な乖離」を起こしている状態にあります。 

我慢して否定して成長すると、感情的借金を作ることになる

 虫を触るのが怖い少年が、その怖さに寄り添ってもらえた上で、自分の成長欲求の自然の発露として虫を触ってみようとして克服できたとき、「虫を触れない少年」から「虫を触れる少年」へと脱皮したことになります。このとき、「虫を触れない少年」は超越され、脱同一化されたことになります。この少年の中では、1つ前の段階である「虫を触れない少年」は温かく抱擁されています。親によってバカにされたり否定されたりせず、優しく扱ってもらえたからです。

 このように、前の段階が「抱擁」された上で次の段階へ「超越」できたら、しこりを残しません。この子は「まん丸(whole)」のまま統合的な成長を遂げたのです。この場合、抑圧された「影(シャドー)」は存在しません。

 しかし、虫を触るのが怖いのを見た父親が、「何だ、弱虫だなあ」とバカにした。そして、少年は深く傷ついたとしましょう。「触ってみろ」と父親に言われて、否定されるのが怖いから無理をして触って克服した。そうすると、形の上では「虫を触れない少年」から「虫を触れる少年」に成長したように見えます。しかし、このような強制された成長にはコストがあります。「虫を触れない少年」は「抱擁」されませんでした。ですから、「虫を触れる少年」になったことはなったのですが、「虫を触れない少年」は置き去りにされ、バラバラになって先へ進んだことになります。この少年は自分の一部を失って前に進んだので、これによって生じた精神の分裂によって、今後苦しむことになります。情緒的には大きな借金を背負ったのです。

 これを「
疑似成長」と言います。

 「疑似成長」では、「本当は虫が怖かった少年」を押し殺して、「無理やり虫が触れる少年」になったわけで、この2人の自分が分裂しています。表面では成長しているように見えて、意識の底では「不安に寄り添ってもらえなかった不満」が未解決のまま残ります。これは、セラピーなどで癒されるまで、様々な形でその人のメンタルヘルスに悪影響を与えます。

 前の段階の自分が「アガペー」によって受容的に愛された上で、自分自身の成長したいという情熱「エロス」に従って自然に前進したとき、自信がつきます。ところが、前の段階の自分が「アガペー」によって抱擁されずに拒絶される。そして、「エロス」の自然な発露によって前進したのではなく、外からの圧力によって無理やり成長させられた。父親のプレッシャーを怖れることで自分に反して前に進んだのですから、自信はつきません自分を裏切って表面上は成長した形を見せているだけです。

 自信というものは、自分の「エロス」に導かれて、自らの力で克服し学ぶことができたときだけ育つものであり、「疑似成長」では奥底に癒えない自己否定感を生んでしまいます

疑似成長は癒せる

 自分の中に「疑似成長」した部分があっても、落ち込む必要はありません。多くの人が多少は持っているものだし、取り返すのに遅過ぎることはないからです。

 「疑似成長」によって無意識に潜ってしまったものを、もう一度「抱擁」するのです。そうすれば、意識と無意識に分裂したものは「ひとつ」に統合されて「まん丸(whole)」の心になります。
 

心理の連鎖をすべて受け入れて乗り越える

 心理的な苦悩を解くには、「不安」なら「不安」、「怒り」なら「怒り」といった、最も表面にあって見えやすい現象をまずは受け入れるだけでなく、その奥にある信念や欲求など、原因となっている要素をすべて意識化して受け入れる必要があります。

 受け入れていないものは乗り越えられないという原理があります。なので、無意識に追いやられているものは、まず意識してその存在を認めてあげることが第一歩。そして、それに対する抵抗や拒絶を解くのが二歩目。そして完全受容のスペースの中で、各要素が自由になれるために必要なやりとりをするのが三歩目。このようにして受容的なコミュニケーションが行われると、葛藤(敵対)が止みます。緊張が解れます。拒絶と執着がストップします。

 そうすると、神秘的なことが起きてくる。それは、その要素を完全に受け入れていながらにして、それに執着も拒絶もしていないので、繋がっているけれどきちんと分離している、そして自由であるという状態になります。

 これが「乗り越えた」ということです。

 「不安」に悩まされている人を例にとりましょう。「不安」に悩まされている人は、「不安」に執着か拒絶をしています。執着というのは「不安だ、不安だ」と「不安」になりきって掴んで放さないということ。拒絶というのは「不安はイヤだ、イヤだ」と戦っているということ。執着も拒絶も「不安」に支配され束縛されていて不自由な状態です。

 「不安」を乗り越えるためには、「不安」から距離をとって、「不安」とは別の存在としての自分という位置に立たなくてはならない。「不安」にべったりでも困るし、「不安」の顔も見たくないとあっちを向いているのも困る。「不安」をじっくりと観察し、受け止めて、対話できるだけの「自分」というものを内面に持つ必要があるんです。これが「自分をしっかり持つ」ということであり、自分を情緒的に成熟させることになります。

 「不安」を感じたくないと拒絶している部分があれば、それに気づく。「不安」とべったりになっている部分があれば、それに気づく。そして、気づいたスペースから、「自分は不安と向き合おう、存在を受け入れよう」とまずは思う。

 拒絶と執着の壁を破って、「不安」と受容的対話ができる関係になれたら、かなり前進したことになります。成長しているんです。

 次に「不安」と対話をしていって、「不安」の奥に何があるのか、洗いざらい聞かせてもらうんです。別の言い方をすると「不安」の正体をすべて見る、聞く、感じるということです。「不安」の奥には、無意識のいろいろなものが詰まっています。見えていないものがたくさん隠れている。それを意識化して1つ1つ受け入れていきます。

 そうすると、「不安」が深く理解できますので、「不安」との葛藤は消滅していきます。ここまでいくと、「不安」はもはや「不安」ではなくなっています。「不安」は別のものに変わっている。

 「不安」を「不安」として受け入れなくてはならないというのではない。「不安」という形をとっているものを受け入れれば、結果として「不安」ではなくなるんです。受け入れられないものがあるから「不安」になっているだけ。

 こうやって「不安」の奥にある心理の連鎖をすべて受け入れていくと、心理的問題は解けます。そして、これが「不安」を乗り越えたということです。

 ただし、「不安」をどうしても受け入れられないとか放したくないという感情になることもあります。そういう場合、受容することを自分に強制せず、拒絶したい気持ちや執着したい気持ちをまずは受容するんです。そして、その気持ちと対話をして理解できたら、今度は「不安」と向き合うことができます。

 執着と拒絶は何層にもなっていることが多いので、まずは一番上にある執着や拒絶と受容的対話をする。そしたら二層目と受容的対話ができます。こうやって、一層ずつ対峙していくんです。

 このプロセスは、「不安」だけでなく「怒り」「嫉妬」「自己嫌悪」「罪悪感」「無価値感」など、苦しみに付随するあらゆる感情に使えます。

何かに執着する or 何かを拒絶することは
それに縛られ支配されることであり
乗り越えていないことを表している

執着と拒絶に気づき
そこから離れた自分がそれを受容できると
執着と拒絶はやみ
自由を獲得する
乗り越えて進化したのだ

誰かの幸せを祈る・誰かの幸せを喜ぶ

 幸せな人生を送るためには、自分にいいことがある必要はありません。もちろん、自分にもいいことがあったほうがいいですが、他の人が幸せであることを祈ったり、他の人の幸せをいっしょに喜ぶことも、自分の幸せになります。

 自分の幸せだけが幸せというのは、やっぱり少し狭い生き方ですよね。幸せは分かち合っても減りません。誰か自分の好きな人にいいことがあったとき、「わあ、良かったあ」っていっしょに喜ぶと、それは相手を潤し、また自分自身をも潤します。 

 ほとんどの人は、無意識でもうすでにやっていらっしゃることでしょう。

 自分が暗くなっているときには忘れがちですので、そういうときこそ、他人の幸せを祈ったり、他人の幸せを見聞きしたとき、心でそれを喜ぶということをやると、自分が少し明るくなります。

 誰かの幸せを祈るというとき、それは友人でもいいし、遠くにいる祖父や祖母でもいいし、甥や姪でもいい。お世話になった先生でもいい。

 「◯◯さんが幸せでありますように」と心を込めて祈るだけでいいのです。

 特定の結果を祈る必要はありません。「幸せでありますように」という一般的な祈りだと、純粋にポジティブなエネルギーがその人に行きますから、いろんな目的にその人が使えます。なので、お勧めです。あなたの愛は、その人が幸せになったり、明るくなったり、勇気を出したりすることの一助になることでしょう。

 あなたはいつどこにいても、誰かの力になることができるということを知ってください。

 心さえあれば。

 近所の人に無事赤ちゃんが生まれたと聞いた。「わあ、良かったなあ」といっしょに心の中で喜ぶ。そうすると、その出来事はあなたの幸せになります。自分の幸せになるからと言って、相手から奪っているのではありません。幸せは分かち合えば増えるもの。あなたが喜んでくれたら、向こうにもその幸せが伝わって、相手の幸せも増えます。なので、お互いにいいことです。

 テレビを見ていて、応援しているチームが活躍したら、「わあ、良かったなあ」って自然にみんなやってますよね。あれはとてもいいことです。チームでも、歌手でも、俳優でも、応援している人の活躍を自分が喜べば、その人の幸せも自分の幸せになるんです。そして、あなたが喜んでくれることで、その人の幸せも増えます。

 落ち込んだり、暗い気持ちのときは、特に誰かの幸せを祈ったり喜んだりすると、その愛によって自分が癒され勇気づけられることでしょう。

 私たちは決してひとりぼっちではありません。無力でもありません。

 私たちはいつどこにいても、心ひとつで、自分や他者に愛を送れる、そんな素敵な存在なのです。

この記事には私の皆さんへの祈りが込められています
読んでいて心がひょっとして温かくなりませんでした?

 
 

エロスとアガペー その5

 最終回の「その5」では、「エロス」と「アガペー」のバランスが様々な形で心理的問題に表れる例を挙げたいと思います。

 たとえば、上司に罵倒されて許せないという気持ちになっているとします。上司への怒りがある。

 こういうとき、そういう自分にどう対応するかで幾つかのパターンに分かれます。そのうち、まず2つを見ていきましょう。

1.「怒ってはいけない」「怒ってもしかたない」と我慢して頑張る。
2.上司に怒りをぶつける。または同僚に上司の悪口を言って気分を晴らす。 

 この2つは対照的ですね。1番は「怒り」を許さず乗り越えようとして抑えています。2番は乗り越えようという意志は全くなく、「怒り」になり切っています。

 1番の「怒っている自分」を否定して、「怒っていない自分」になり切って頑張るという姿勢は、「エロス」先行の「アガペー」欠如です。これは厳しい父性だけの対処です。

 逆に、2番では「怒っている自分」を許し、それになり切っています。「怒っている自分」は許されているだけでなく、同一化されていますので、「アガペー」先行の「エロス」欠如です。甘やかす母性だけの対処です。 

 1番の「父性」は、「怒る」ということで何もプラスは生まれないと分かっているという意味では理性的で賢いのですが、「怒り」を放置しておくだけでは心理的に解決されないことを知らないので、その点ではまだ無知です。この「怒り」の声を聞いてあげて、気持ちをきちんと解放してあげる必要があるという理解があれば、成熟した「父性」です。

 2番の「母性」は、「怒り」を抑えてはおけません。その気持ちを大事にして、認めてあげたい。そこまではいいのですが、べったりと一体になってしまうところがまだ未熟です。共感はしてあげるけど、べったり同一化することはダメなんだというぐらいの智慧が欲しいところです。

 では、1番でも2番でもなく、「父性」と「母性」がバランスよくある対応はどのようなものでしょうか。

 まず、上司に対して解決されていない怒りがあることを真っすぐに認め、心理的に対処することでこそ統合して上に行けることをきちんと捉えることが「健全なる父性」です。そして、「怒り」に「母性」が寄り添って中身を聞き出してあげることの必要性を「父性」が理解することが大事です。「怒りから解放されて上に行けるように(エロス)」「怒りを一時的に受け止めて奥にあるものを聞いてあげる(アガペー)」のです。

 「どうしたの? 何に怒っているの?」と聞いてあげるのが「母性」です。そして、思い込みや誤解が見つかったら、解いてあげるのは「父性」です。「それは違うよね」と指摘するわけです。

 気持ちを優しく聞いてあげるのが「母性」で、執着や依存や誤解を指摘して離れるよう促すのが「父性」です。どちらが欠けてもうまくいきません。 

自分の未熟な部分とどう付き合っているか

 その人が自分の未熟な部分とどう付き合っているかによって、その人の「父性」と「母性」のバランスが分かります。

 たとえば「不安」になるのはその人の子供の意識であり、デリケートな部分だとしましょう。

 そうすると、どんなに「不安」であってもそれを外に出さない、あるいは認めない、そして必要な行動がとれる。とらねばならないと思うし、そのように自分を律することができる。そういう人は「父性」に偏って「母性」の足りない人です。

 未熟な部分を奥に隠して、成熟した自分を演じることのできてしまう人。こういう人は、柔らかな母性で包んで来られなかった、固い人です。

 反対に、「不安」になったらその「不安」のままの自分でいる。未熟な自分を隠さず、そのまま出します。それを乗り越えようとは思わない。人前に出るのは怖いから出ないままでいる。そういう人は「父性」が足りない。「母性」も甘えを許す未熟なものです。

 未熟な部分になり切ることしかできない人。こういう人は、しっかりした父性の導きがなく、自分を甘やかすだけで前に進めない、柔らかすぎる人です。

 理想的な「父性」と「母性」のバランスがある人は、未熟な部分に寄り添いますがそこに執着したり永続させたりすることはしません。共感しながら、それを解決してより高いレベルで統合することをしっかり目指します。未熟な部分に寄り添いながら、現実的なペースで自己実現へ向かって進むのです。

父性過多・母性不足の人:未熟な部分を抑え込んで無理を強いるスパルタン
母性過多・父性不足の人:未熟な部分になり切って前に進めない甘えん坊
父性と母性が調和した人:未熟な部分に寄り添って現実的に前進できる人

エロスとアガペー その4

父性と母性で見る自己実現への道

 これは私の独断と偏見ですが、ここでは「父性」を「より高い自己実現と精神的自立に向けて励ますこと」、「母性」を「どのレベルであってもあるがままの相手を無条件で抱擁すること」と定義づけます。

 子供の中には自分のポテンシャルを実現してベストバージョンの自分になろうとする躍動があります。その自己実現へ向かう生命力に従って素直に前進すれば、ベストなその人になれます。しかし、幼いときには自分で自分のニーズを満たせません。すべて親に満たしてもらうという依存的な存在としてすべての人間はスタートします。

 0歳の自分、1歳の自分、2歳の自分と各段階であるがままの自分を無条件に「抱擁」してくれる「母性」をたっぷり受けると、それだけ順調に上に進めます。

 「父性」の導きによって、快適な領域を出て新しい世界へと飛び込んで行くことへと勇気づけられます。自宅を離れて幼稚園へ行く。初めて病院へ行く。自宅以外でお泊まりをする。食べたことのないものを食べてみる。新しい場所を探検する。だんだんと、「母なる存在」にしがみついていなくてもひとりでいろいろとできるようになる。けれど、時には傷ついたり不安になったり怒ったりして「抱擁」してくれる「母なる存在」に帰る。そこで癒され、また外の世界に出ていく。

 「アガペー」を十分受けながら、勇気をもって「エロス」に従って世界を広げていく。 

 このときに、「母性」ばかりで「父性」が足りないと、甘えん坊になってしまう。何でも母親がやってあげて、上に引き上げる勇気づけをしないので、依存を許してしまう。これは女性が陥りやすいミスです。また逆に「父性」が厳し過ぎて「母性」が足りないと、等身大の自分を認められない劣等感を奥に抱えながら、表では「いい子」「優等性」「業績や成功を強迫的に求める人」になります。

あるがままの自分を許せない人

 フロイト式に言えば「超自我」が強くて、「こうあるべき」で等身大の自分を常に測り、足りない自分を叩いて動かそうとするような人は、厳しい「父性」ばかりで無条件に自分を受け入れる「母性」が乏しいということです。

 不安な自分がいたら、「この不安をどうやったら消せるか」「まだ自分は不安になってしまう。なんてダメなんだ」と批判するんです。「ええい、お前はまだ不安になっているのか。いい加減に卒業しろ」なんて心で叱っている。

 こういう人の中には、劣悪な「父性」が内在化しています。

 本来、健全な「父性」は、本人の器を超えない程度に上に行けるよう勇気づけられる智慧を持ち合わせています。相手ができないことを強制的にやらせるのは「智慧の足りない父性」なんです。厳しいだけの頑固親爺です。現実的ではない。

 こういう「父性」があなたの中にあるならば、もっと健全な「父性」に教育し直す必要があります。

 また逆に、いつまでたっても文句をたらたら言っているとか、依存をやめられないとか、変わりたくないとぐずぐずしている人は、「甘やかせてしまう智慧の足りない母性」が支配しています。そのままで自分を許してしまっているわけです。この人には良質の「父性」が必要です。「このままでいいのか」と問う意識が欠けている。「このまま行ったらますます苦しみを深めるだけだろう?」と問うて、成長へ促すのが「健全な父性」です。それがこの人の中には欠けている。おそらく、優れた父親的存在がいなかったんでしょう。厳しい愛を受けて来ていない。 

心理的リハビリには父性も母性も必要

 清原選手のドラッグ問題で言うと、ドラッグに頼るということを止めさせる「父性」が彼の中になかった。あるいは周囲にその「父性」を体現してくれる人がいなかった、あるいはいても彼が拒絶したということでしょう。「父性」がしっかりあればドラッグに頼ることはなかったでしょう。けれど、これは自己抑制だけの問題ではない。ドラッグに行かずにはいられなかった彼の辛さというものに寄り添ってくれる「母性」も等しく必要なんです。彼には辛さを吐き出せ、それを解決に向けて聞いてくれる存在がいなかったのだろうと推測します。

 これだけの世間に知れ渡る結果となりましたから、十分に「エロス」の厳しさは実感しているでしょうが、これからはドラッグに頼るきっかけとなった自分自身の辛い気持ちが癒されるよう、「アガペー」をたくさん注いでほしいと個人的には思います。

 ドラッグがいかにダメか分かるという「父性」の部分だけでは彼は救われません。辛さを吐き出して寄り添う「母性」がそもそも欠けていたからドラッグに救いを求めたのですから。そこを本人がきちんと分かるか、誰かが分かってあげないといけないと思います。

〜つづく〜

 

エロスとアガペー その3

各成長段階で起こり得る病理

 もうすでに読者には明らかかもしれませんが、確認のため述べておきます。私たちの意識は、段階から段階へと階段を登って進化する構造になっている。なので、A段階から B段階へ、そして C段階へという具合に上がっていく。そして、健全な成長には2つのことがスムーズに起きなくてはなりません。1つは「各段階をしっかり抱擁する」ということ。つまり、A段階のときには A段階をしっかりと受け入れて、それを生きるということです。そしてもう1つは「各段階を手放して上に行く」、つまり「超越する」ということ。B段階に上がるときに、A段階への執着を捨てて手放さなくてはならないのです。

 前者が「アガペー」で、後者が「エロス」でした。 

 さて、「アガペー」と「エロス」には様々なアンバランスが生じる可能性があり、それぞれ異なる病理現象を引き起こします。

「エロス」に偏って「アガペー」が足りないと

 親が病気だったとか、親が情緒的に未熟だったとか、親が厳し過ぎたなどの理由で、子供が十分に甘えられる子供時代を過ごさない人が世の中にたくさんいます。「お兄ちゃんなんだから」「お姉ちゃんなんだから」と言われて、実際の精神的年齢よりも年上の行動を要求された。まだ甘えたいのに、自立してしっかり者として弟の面倒を見させられる。これは「エロス」によって早熟を強制されるようなものです。そうすると、この子の中の甘えたい幼児には十分「アガペー」が行きませんよね。

 それはちょうど、A段階から B段階に早く登らされて、A段階の自分が欲求不満のまま取り残された形なんです。そうすると、この人は B段階から C段階、そして D段階と成長を続けますが、A段階の自分は満たされないまま意識に残っている。

 現在は30歳になっているけれど、10歳のときの満たされなかった欲求が抑圧されているので、それに隠れた形で固着しているとも言えます。そして、それは歪んだ形で表面化することになります。恋人の行動を支配せずにはいられないとか。甘え足りなかった欲求が意識化されていないので、それは恋人や伴侶などへの依存欲求となって姿を現すことが多いのですが、もちろん本人はなぜそういう衝動が湧いて来るのか理解できません。

セラピーでは幼児期の自分に「アガペー」を与える

 インナーチャイルドのワークはこれに当たりますが、こういう場合、埋もれている10歳のときの自分を呼び出して「辛かったよね」と言って共感してあげ、そのときのあるがままの自分に「アガペー」を送って無条件に愛してあげるわけです。

 そうやって10歳の自分がこれまで抑圧されスプリットしていたため、様々な症状を意識下から発していたけれど、彼が「抱擁」されることで、現在の自分と統合されて、一緒になって前進できるんです。

でも「執着」や「依存」があるとき、「エロス」の厳しさで離れさせる

 ロジャーズなどのカウンセリングは、基本的に「アガペー」の重要性に重きを置いています。「あるがままの相手を受け止める」ということは「アガペー」です。

 しかし、時にはクライアントは甘えたパターンや、思い込みや、敵意を手放そうとしない。しがみつく。変わりたくないと駄々をこねます。こういうとき「アガペー」だけではダメです。「エロス」でもって上に行くことを勇気づけなくてはならない。親を恨みたい気持ちを正当化し続けるような人には、「恨みを手放したいなら手伝うけど、手放したくないならそれはあなたの選択です」と言って私は対決します。これは「エロス」の厳しさですね。それで「そうですね。手放すことを目指します」となったら、その人は現状を打破して上に行けます。私に抵抗して怒ったり、身を引いたりした人は、この状態でしばらくまだいたいということです。なので放っておきます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 「その4」は、自分や相手の成長を促すとき、父性と母性のバランスが大事だというお話です。

エロスとアガペー その2

 前回に引き続き、ケン・ウィルバーの講義を基に意識の進化について考察いたします。

 今回はウィルバーの思想の中でも私が最も感銘を受けたアイディアの1つをご紹介します。それは、「健全な成長とは何か」「不健全な成長とは何か」という問いに対する彼の回答です。

「超越(transcend)」と「抱擁(embrace)」のバランス

Transcendence-Immanence is what's really extraordinary because it is again that paradox.  You have to, in a sense, be able to stand
back from it but also embrace it.  And if you do one or the other, you get in trouble.  And so if you are merely embracing
something, then you're attached, you're almost addicted, you're
in fusion with it.  You can't let go of it.  And that has its own
problems.  If you, on the other hand, merely transcend, then you can be very dissociative.  And that's also...it's a very
common problem.  Men have it a little bit more, but it can strike everybody.

「超越」と「内在」は本当にすごいもので、これもまたパラドックスです。ある意味、「離れる」と「抱擁する」を両方しなくてはならないわけです。どちらか一方だけになると問題が発生します。ですから、もし何かを単に抱擁するだけであれば、執着や依存や融合になってしまう。そこから離れられないわけで、それはそれで問題になる。もう一方で、超越だけしようとすると乖離になってしまう。これは結構よくある問題です。男性の方が女性より若干陥る傾向が強いですが、誰にでも起こり得ます。

 たとえば、「幼児期」から「少年期」に進むことは成長です。「超越」と「抱擁」がともに重要だというのはどういう意味かと言うと、「幼児期」にいる子が「幼児期」を超えて「少年期」に上がりたいという「超越欲求」を持つからこそどんどん成長できるからいいのだけれど、「幼児期」にいるときは「幼児期」の生活をきちんとこなして、その時期にしかできない経験を飛ばさないで通り抜けることが大事だということです。「抱擁」というのは、その時期の自分や体験と一体になって飛び越さないということ。「幼児期」をしっかり生きることが「抱擁」で、それが終わったら自然に「超越」して「少年期」に入っていく。そうすると、健全な発達が起きるわけなんです。

 言い換えると、健康な成長というのは、前の段階を「超越」してどんどん上に行くと同時に、各段階で必要なことをすっ飛ばさずにきちんとこなす。つまり「抱擁」する。このように「超越」をし、かつしっかり「抱擁」もできていることなわけです。

 ところが、「超越」か「抱擁」かどちらかに偏ると問題となります。「超越」に偏るということは、「幼児期」はイヤだから「速く少年期に行きたい」と思って、「幼児期」にしかできない体験をすっ飛ばすということです。通過してすぐ上に行こうとすると「幼児期」に満たすべき欲求が満たされないまま大きくなることになる。なので問題。

 また、「抱擁」に偏ると、ずっと「幼児期」に留まりたい。上には行きたくないっていう訳です。「幼児期」に執着して留まろうとする。成長を拒むわけなので、これも問題です。

 それで、ウィルバーが言っているのは、一般的に男性のほうが「超越」したがる率が高く、女性のほうが「抱擁」したがる率が高いということです。すっ飛ばして速く上に行きたいというのは上昇欲求とでも言いましょうか、超越欲求ですが、これはエロスですね。そして、男性のほうがエロスが強い傾向がある。それに対して、じっくり何かと繋がって「内在」するというアガペーは女性のほうが強い傾向があるということです。

 成長段階が上がるとき、エロスの強い男性は「やったあ、これで上がれる!」と嬉しくなるのですが、アガペーの強い女性は「この段階にお別れしなくちゃいけないのね」と別れを惜しんで泣きます。卒業式で泣くのは圧倒的に女子ですよね。私は卒業式で泣いたことはないですね。「ああ、これで終わりだなあ」と少し感慨深いものを感じますが、大部分は次に行ける喜びと、次大丈夫かなあという若干の不安。でも良い達成感もあります。私は結構エロス強いと思います。進化したいという強い衝動です。

And so it's always this balance.  And again it's that same strange
phase-specific phenomenon, where you first have to really
identify with something and embrace it, and then you're allowed
to let go of it.  You're not allowed to short-circuit that process.  
And part of the problem when some of the transcendental
techniques came in is that people used it to bypass the
"embrace" part.  And so it had a very hyper-masuculine straight-
for-the-sky I-don't-need-to-do-any-of-the-stuff, I-don't-touch-any-of-this-stuff.

ということで、常にこの2つのバランスが重要なんです。そしてまたあの例の妙な段階特有の現象なんですが、まずは何でも本当にしっかりと同一化して抱擁しなくちゃいけない。それができたら手放していいんです。そのプロセスを迂回してはいけないわけです。アメリカに超越瞑想のテクニックが入って来たときに起こった問題は、それを使った人たちが「抱擁」の部分をパイパスするために使ってしまったことでした。それは、この世のごたごたなんか関わらずに、真っすぐ天に昇るよとでも言わんばかりの「超男性的」な態度だったんです。

 たとえば口唇期にはお母さんの乳房にしっかり捕まってお乳を飲むことを満たさなくてはなりません。口を通して生きる喜びや安心感を十分味わう。これを満足行くまでさせる。この時期に満足させるべきことを徹底的にさせる。それに「なり切る」「同一化する」ことを許す。そうすると、あるときその子はお母さんの乳房を欲しなくなる。手放すわけです。しっかり満足するのが「抱擁する」ということ。そして満足したら「もういいや」と言って次の段階に上がっていく。これが「超越する」ということです。

 これを子供が満足する前にやめさせると、つまり授乳を子供から手放すのじゃなしに親から強制的に離れさせると、子供に不満が残ります。親が「早く上に行け」と「超越」を促す。子供はまだ「抱擁」したりない。すると口唇期の欲求は、親指を吸うとか爪を噛むといった補償行為によって満たそうとすることになってしまいます。口への刺激によって安心したいという欲求を親が十分に愛してやれなかった。アガペーが足りず、エロスで引っ張り上げようとし過ぎたんですね。

 このように本人が上に行く準備が整っていないのに、無理やり上に行かせようとすると、「超越」に偏ってしまい、あとで別の形でアガペーを必要とします。「不安だったんだね」と寄り添って上からの愛をかけてあげる何者かの存在が必要となる。我々カウンセラーがクライアントの幼児期の不満に寄り添って癒す手伝いをするとき、そこに不足していたアガペーを送っているわけなんです。

 さて、瞑想は素晴らしいものですが、やり方を間違えると問題を生じるというお話です。多くの人はこの世の人間のゴタゴタを超越した境地に至りたいと思って霊的修練に勤しむわけですが、すべての執着から離れて、あらゆるものを俯瞰するような高い境地を目指したいと思うのは極めて男性的な精神だとウィルバーは言います。エロスですね。そして、実はそのような「超越したい」という欲求は精神性のすべてではない。むしろ横の繋がりや、下の人に手を差し伸べるのも精神性なわけです。そして、この後者の精神性は女性的だと言ってもいいかもしれない。たとえば、神の名で奉仕をすることは心で人と繋がることです。これはアガペーですね。

 私もかつてこの世の人間的なものを超えて、高い超越的な境地に至りたいと思って瞑想をしていました。極めてエロス中心の精神性だったわけです。ところが、途中でこの世の人間としての生活を「抱擁」することが進化にとって重要だと気づいてからは方向転換しました。ちゃんと人間としての人付き合いとか仕事とか恋愛とかを通って、段階を1つずつ「抱擁」してこそ得られる成長というものがあるので、それをすっ飛ばしてはいけないのだと今は思っています。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 「その3」では、「超越」と「抱擁」がうまく行かなかった場合に起きる病理(機能不全)に対してどのようなセラピーをするか、というお話をいたします。
 

エロスとアガペー その1

 インテグラル理論の創始者ケン・ウィルバーの講義を引用しながら、意識の進化について考えたいと思います。

 特に、「エロスとアガペー」「エージェンシーとコミュニオン」という4つの概念を用いながら、心理的問題を進化過程における機能不全(病理)として分析いたします。 

「超越(transcendence)」と「内在(immanence)」

We're talking about both immanence and transcendence.  How
can I both transcend and be present, be immanent?

「内在」と「超越」の両方について話をしています。どのようにして「超越」し、且つ「内在」することができるでしょうか?

 私たちは一定の段階を経ながら進化をしています。1つの段階を「超越」して次の段階に進むわけですが、各段階としっかり同一化して「内在」することも重要です。この2つはどう両立できるのでしょうか。

「上を目指すエロス」と「下を抱擁するアガペー」

And sometimes we talk about the four different moves in
evolution.  And horizontally, we talk about Agency and
Communion.  And vertically, there's Eros and Agape.  And Eros is always reaching up for higher unions and Agape is reaching
down and embracing.  So Eros is transcending and Agape is
including.  So it's transcend and include, transcend and include.  

我々は時に進化における4つの動きについて話すことがあります。水平軸ではエージェンシーとコミュニオン。垂直軸ではエロスとアガペーです。エロスは常により高いレベルでの統合を目指して上に進み、アガペーはより低いレベルを抱擁します。ですから、エロスは超越し、アガペーが抱擁するわけです。超越と抱擁、超越と抱擁の繰り返しです。

 まず垂直軸を見ますと、現在の自分よりもさらに上に行きたいという情熱がエロスで、上に行くときにこれまでのレベルを抱擁するのがアガペーです。自分を向上させてくれる人や本にワクワクするのはエロスの働きで、自分が通って来た道を今通っている後輩に感じる愛はアガペーです。傷ついた昔の自分の気持ちに寄り添うのもアガペーの働きです。

「自律性=エージェンシー」と「絆=コミュニオン」

And then Agency is the relative autonomy that every entity has
at every stage of growth.  And Communion is the necessary
relationship that all Agents are in at every stage.

エージェンシーとは成長の各段階においてその生命体がもつ一定の自律性です。それからコミュニオンはすべての生命体が各段階でもっている必要な関係です。

 水平軸で見ると、各段階において人は自己主張したり自分で自分のことを決めたりするエージェンシーをもつと同時に、周囲の人たちと繋がって一体感を感じるコミュニオンをもつことも大事です。

4つの要素と男女差

And you can get something basically go wrong with either one of
those.  And you do get a kind of pathology, a kind of dysfunction
when that happens.  And it does tend to be the case...well, we
can talk about this a little bit separetely...Men and women tend to wind up a little bit differently on these things.  Men tend to have a little bit more Eros and a little bit more Agency, and women a
little more Agape and a little more Communion.  So that just
means the masculine and feminine principle in any of us.  And
that is important when you are doing therapeutic relationship
because sometimes what a man needs is to be more in touch
with Communion and a woman needs to be more in touch with
their Autonomy, that kind of thing.

これらのうちいずれにも問題が生じることがあります。そうすると一種の病理というか機能不全が発生するのです。そして、男女では少し違った顕れ方をします。男性はエロスとエージェンシーがやや多く、女性はアガペーとコミュニオンがやや多い傾向にあります。まあ、誰にでも男性原理と女性原理の両方がありますが。治療的関係にあるとき、これは重要です。というのは、男性はもっとコミュニオンに接触する必要があり、女性はもっと自律性を育んだほうがいいというようなことがあるからなのです。

 肉体の性が男であれ女であれ、男性性の強い人はエロスとエージェンジーが優性。つまり、今の自分を超越して、もっと上のレベルに行きたいという情熱が強い。そして、自分を主張したり、相手をリードしたりして決断して引っ張って行く力が強い。それに対して、女性性の強い人はアガペーとコミュニオンが優性。つまり、自分と同じかそれより低いレベルにある人に母性的・受容的・養育的な愛を示すことに長けているし、相手と心で繋がることが自然にできるということです。セラピーにおいては、男性性の強い人はもう少し気持ちで繋がれる能力を養ったほうがいいし、女性性の強い人はもう少し自分をしっかり主張する能力を養ったほうがいいということです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 「その2」では「超越」と「内在」がうまく行かなかったときどんな心理的問題が生じるかをお話しいたします。
 

いい顔をするのをやめればこそいい顔をする人が見える

 私は以前、人にいい顔をしていたほうでした。誰にでもフレンドリーに振る舞うといいますか。「誰とでも仲良く」と言って育てられたので、そんなものかと。

 奥底ではそんなに好きでなくても、そんなことを表に出すのは失礼である。優しい顔を向けてあげるのが親切というもの。そんな感じでした。

 時々、いい顔をせず、ぶすっとしている人に出会うとものすごく腹が立ちました。「礼儀を知らないヤツだな」なんて。
 
 ところが、あるとき、私は自分を偽って無理をしているんだと分かり、やめたんです。そして、実際に相手に感じている心の距離をそのまま顔に出すようにしたんです。親しく感じていない相手には親しそうな顔を作らないことにしました。そしたら、とても楽になりました。

 気づいたら、結構そういう風にやっている人って多いんですよね!(笑)いい顔していたときには全然気づかなかったんだけど。つまり、相手は素直にこちらへの距離感を顔に出していたことに初めて気づいたんです。

 いい顔をすると、自分が相手を本当にはどう感じているのかを無視するわけですから鈍感になりますよね。鈍感にならなくちゃ誰にでもフレンドリーになんて振る舞えませんよ。そして、相手が自分に対して本当にはどう感じているのかも感じられなくなってしまうんだろうと思います。

 いい顔をやめてからというもの、あるがままの相手への感情のまま顔に出すようになると、相手が心で感じていることがまっすぐこちらに届くんですよ。相手がこちらに本当の親しみをもって近づいて来るのか、相手は仮面をかぶっているのか、敏感に感じるようになったんです。

 ということは、こちらが「振り」をしているときというのは、相手の真実を感じる感受性も鈍くなっているに違いないんです。「感じないようにしている」っていうこと。

 だから、素の感情でいようと決めると、いろんなことが素で見えてくる

 そうすると、以前の私のように「いい顔」で近づいて来る人がもろに見えま。感情を私はもう偽っていないから、偽っている人と偽っていない人の差が歴然と心で見えるんです。

 自分を偽っているときは、相手の真偽にも鈍感になるけれど、自分に徹底的に素直になると、相手が素直かどうかもモロに見えてきます。

 だから、人を見極められるようになるには、自分に正直であることが前提条件なんです。

 自分が見えない人に他人は見えないんですよ、きっと。
 

自己喪失・主体性の喪失

 オーストラリアで人の最期を看取っている人が書いた本を読んだことがあります。彼女によると、人が死ぬ間際に最も後悔することは「自分らしく生きなかったこと」だそうです。

 私は20歳から自分の人生で頑に守って来た人生訓があります。それは「自分自身に忠実であれ」です。私の中でこれに勝る人生訓は見当たりません。「自分に正直である」こと以上の価値を私は知りません。人を愛することも、人生を謳歌することも、人に最も貢献することも、この礎の上に立脚します。つまり、人生の根幹に「自分に正直である」ということが確立されなければ、あらゆることはうまくいかないのです。なので、私にとっては黄金律だと言っていいでしょう。

 さて、私は多くの人にカウンセリングをしていて思うことがあります。それは、如何に多くの社会人が自分を偽って生きているかということ。仮面人間が何と多いことか。

 彼らは自分の悩みについて話すとき、とても理性的に淡々と話します。感情がないかのようです。実際、自分の感情が分からないとおっしゃいます。

 彼らの特徴の1つは、「こうしたい」というハートの気持ちに即して生きて来なかったことです。生きて来なかったと言うより、生きて来られなかったのかもしれません。親との関係において、自分自身でいられない環境だった人が多いのです。なので、自分であるということの感覚が分からないのは無理もありません。

 食べたいものを食べて「美味しい」と言え、食べたくないものを食べて「まずい」と言えるのが親しい関係。それを言っても安全なのが親しい信頼関係。それがないまま育った。だから、「美味しい」と「まずい」は同じです。だって、「まずい」と感じるものを「美味しい」と思って食べることを強制されたから。

 自分が「まずい」と思うものを「美味しいでしょ?」と言われて反抗できない環境にいれば、主体性はなくなります。自分が「美味しい」と思うものを選ぶ自由は尊重されていないのですから。そして、それは自分であることを許されていないのと同じなのです。

 こうやって、他人が望むように自分が行動していくと、主体性は失われる。他者の望むことを自分がやるというパターンでずっと生きていく。自分軸というものは存在しない。なので、何が喜びなのか何がイヤなのか意識できない。自分というものが分からない。これを「自己喪失」と言います。

 「自己喪失」とは「主体性の喪失」と同意義です。「自分はこうしたら嬉しい」「自分はこうしたい・こうしたくない」「自分にはこれは美味しい・これはまずい」というものがはっきりしているのが、自分がはっきりあるということなのに、そういうものがないのです。 

 不思議なことに、このように自己喪失状態にある人は、外から見ると普通の善良な市民なんです。きちんと大学も行って、平均的な人と結婚をして子供も育て、ファッションもそれなりにこなし、周囲から見て承認されることはすべてできてしまう。いい車に乗って、お金にも困っていないかもしれない。配偶者も社会的にそれなりの地位かもしれない。多くの人は、「何の不満もなさそう」って思うかもしれません。

 ところが、内面は全く違います。心が触れ合う人がいないんです。夫婦間は決して親しくない。形は整っているけれど、内実は孤立と虚無感。 

 一生懸命、表面の形だけは細かく細かく整えて来たんです。「これがいいよ」と言われることをすべてやってきたんです。だけれど、決定的に1つのことを間違えて来ている。それは、「自分の喜びに従って選んできていない」ということ。「自分の喜び」が分からない。だから、何をどう整えようが、満足というものが手に入らない。幸せということが分からない。 

 「自分を生きていない」のですから、「自分が幸せになるという感覚はない」のです。「自己不在」なのです。 

 こういう人が自分を取り戻すのは大変です。可能ですが大変なプロセスを経なくてはなりません。まずは、少しでもいいので、本物の感情を1つずつ拾い上げていくことです。「今の夫とは幸せじゃないよね?」とか「これはホントはイヤでしょ?」とか、認めていく。あるがままに気づくんです、1つずつ。

 「ああ、あれは行きたくなかったのに、行かなきゃいけないと思って行ったんだなあ」とか気づく。あるがままが見えることで、噓偽りのない自分を理解していけます。

 本当の自分は奥に必ずあり、死んではいませんから、掘り下げれば出てきます。奥と表が断絶しているだけ。だから、奥と表を繋ごうと決心することと、根気よくトンネルを掘って奥から浮かんでくるものを1つずつ拾う作業を続けることです。

投影(PROJECTION)を癒す「3−2−1プロセス」②

「マニュアル」

前書き

 この記事では「3−2−1プロセス」の手順をご説明します。「理論的説明」と「体験談」は前の記事①をご覧ください。

準備するもの

 紙と筆記用具。所要時間は20〜30分程度。内面に集中できる時間と場所で行うのがベストです。

「3−2−1プロセス」をする目的

 「イヤだと思う相手」を通して自分の無意識にあるものを意識化し、深い癒しと自己理解を得ながら心理的統合に至ることが目的です。

①「イヤだと思う相手」を選ぶ

 あなたにとって「イヤな人」って誰ですか? そうそう、その人です!! 今、真っ先に浮かんだでしょう? (笑)

 自分の投影を癒してくれる相手とは・・・


 ☆許せない相手
 ☆脅威を感じて怖くなる相手
 ☆羨ましくて嫉妬してしまう相手
 ☆拒絶したくなる相手 

 ・・・です。

 とにかく、その人のことを考えると「心が安らかではない」という人なら誰でもOKです。 

 たとえば・・・

 ☆私をいじめる姑
 ☆えこひいきする担任教師
 ☆私に厳しく当たる上司
 ☆勉強しない息子
 ☆フリーターをしている娘
 ☆浮気をやめない夫
 ☆話が長い友人

 相手は一人でなく集団でもいいです。たとえば・・・

 ☆政治家
 ☆官僚

 ☆モデル
 ☆金持ち
 ☆マスコミ
 ☆最近の若い者

まず「3人称のワーク」をする

 相手について思っていることを、相手を「3人称」として書いてください。その際、検閲せず正直に何でも感じたまま書くことが大事です。怒っているなら怒りを隠す必要はありません。罵倒したければ罵倒してください。怖いなら怖い気持ちを思う存分書いてください。

 相手に伝えるわけではありません。自分を知る目的でやるのですから、「こんなに怒っていいのかな」などと迷う必要はないのです。 

 たとえば、「父親」に激怒している人であれば・・・

 「父は無責任だ。私の気持ちなんか全く聞こうとしない。自分のやり方をいつでも押しつけて来る。外ではいい父親ぶるくせに、本当はちっともいい父親なんかじゃない」という感じです。

 言いたいことが全部言えるまで続けて構いません。制限時間は特にありませんので。 

次に「2人称のワーク」をする

 次は、「父親」であれば、「私」と「父親」の対話という形で自分で感じたまま自由に書きます。

 大事なところは、「父親」の気持ちを書くときには、自分が「父親」になったつもりで感じて書くという点です。自分から見た「父親」はこう言うだろうなあと頭で考えるのではなく、「父親」の体内に入ったつもりになって、何でも浮かんでくることを自由に書くほうがいいです。

 「自分」になって喋り、次に「父親」になって喋りという具合に、立場を行ったり来たりして対話をするので、ひとり二役ということになります。 

 自分が嫌っている相手になってみたときに、おそらく予想していない感情になったり、見えなかったものが見えたりします。このプロセスを楽しんでください。

 本当に相手はそんなこと言うだろうか」などと細かく悩む必要はありません。あくまで自分の中にある「相手イメージ」が勝手にしゃべればそれで用は足ります。

 おままごとのつもりで気楽にやってください。

次に「1人称のワーク」をする

 3番目のプロセスでは、「父親」になり切って思いつくことを自由に書きます。ここでは「自分」は全く登場しません。「相手」の独壇場です。「父親」の声だけを自由に表現してください。

最後に、気づいたことや感じたことを自分なりにまとめる

 これで「3−2−1プロセス」自体は終わりです。

 お勧めしたいのは、プロセス終了後に、気づいたことや感じたことを思い起こして、しっかりと意識してみることです。振り返ることで、意識化できた部分がグラウンディングされます。

 ご希望の方にはカウンセリングの時間に個人指導をいたします。普通にカウンセリングの予約をとられ、当日の冒頭にご希望をお知らせください。

〜以上です〜
 

投影(PROJECTION)を癒す「3−2−1プロセス」①

 2回シリーズです。

①は「理論的説明」と「体験談」

 ①では「投影とは何か?」「投影は日常でどんな表れ方をするか?」「投影を癒すとはどういうことか?」をまず理論的に説明いたします。その後で、私が今日(そう今日です!)自分の投影に気づいて統合した体験談をお話しいたします。

②は「マニュアル」

 ②ではご自分で「投影を癒すプロセス」をやってみたいという方のために、純粋に「3−2−1プロセス」の手順だけを説明してあります。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「理論的説明」

投影とは何か?

 フロイトの功績の1つは、「無意識」を発見したことです。人間には本人が気づいていない広大な意識の領域があり、そこに精神的問題の根本原因があることが多いと見抜きました。そして、「無意識」(=「深層心理」)を意識化することで精神的問題が解決される、という道筋を作った。この人類への貢献には計り知れないものがあります。

 フロイトはまた、人間が様々な方法を駆使して精神に安定をもたらしていることを見抜き、それらを「防衛機制」と名づけました。「否認」「反動形成」などと並んで、ここでご紹介する「投影」も、「防衛機制」の1つです。

 「投影」とは、本当は自分の一部であるにもかかわらず、何らかの理由で自分の一部だと認められない場合、それが自分の外に存在するかのように知覚することを指します。「投影」は無意識に行われているので、故意にやっているのではありません。たとえば、眼鏡のレンズの上に茶色いシミがついていたとしましょう。私がそれに気づかず眼鏡をかけたら、目の前の白いお皿が茶色く汚れているように見えます。本当は眼鏡が汚れているのだけれど、その自覚がないので、お皿が汚れているように知覚してしまう。これが「投影」の原理です。

 お皿を拭いても拭いても茶色いシミはとれない。なぜなら汚れているのはお皿ではなく眼鏡だから。ということは、この問題を根本的に解決するには、汚れているのは眼鏡だと気づく必要がありますよね。シミはお皿にあったのではなく眼鏡にあったのだ、と気づいた瞬間、「投影」はストップします。このとき、「あなたは投影を所有した」(You owned your projection.)と表現します。

 次はシミではなく、心理的な投影について具体的にお話しいたしましょう。

投影は日常でどんな表れ方をするか?

 たとえば、自分は相手のことが本当は嫌いなのだけれど、何らかの理由で相手が嫌いだということを認められない。すると、相手への嫌悪感は「無意識」に追いやられています。私は相手が嫌いなのだということに気づいておらず、相手を好きだとさえ思っているかもしれない。

 そうすると、「相手は自分のことを嫌っているのじゃないか」とすごく気になったりします。「相手は自分のことを毛嫌いしているに違いない」などと思って不安になるのです。

 無意識の「嫌悪感」が、相手から自分に向けられているかのように錯覚します。

 本当は相手が自分を嫌っているのじゃなく、自分が相手を嫌っているのだと認められると「投影」が止んで、この人は本当の自分を理解できるようになります。

 他の例としては、自分は本当は相手に甘えたくて付き合っているけれど、何らかの理由で自分が甘えたいという動機をもっていることに気づけていない。すると、自分の要求に応えてくれない相手が冷たい人なのだと思えてきます。相手はこちらの甘えに嫌気がさして遠ざかっているのかもしれませんが、自分は甘えている自覚がないので、遠ざかる相手が悪いのだとしか思えません。

 相手に甘えたいから相手に尽しているという本当の姿が自分からは見えません。自分は相手を思いやって尽しているつもりなのです。相手から欲しいものがあって近づいているということには自覚がないので、相手が冷たい人だとしか理解できません。

 無意識の「甘えたい欲求」が、相手を冷たい人に見えさせます。

 この例のように、自分の中にあって自覚していないものと同じものが相手に見えるとは限りません。

 もう1つだけ例を挙げましょう。

 小さいころ「泣くな」とか「弱虫」と叱られて強い男になろうと生きて来た父親は、息子の弱っちいところを見ると腹が立ってきます。息子の繊細さを見るとなぜこの父親は拒絶的感情になるかと言うと、この息子が自分自身の繊細さを思い出させるからです。

 息子の繊細さを叩きたい衝動に駆られるのは、父親が自分自身の繊細さを叩いて生きてきたことの鏡映しです。この父親は、自分の中にある繊細な部分を否定して強くなろうと生きてきたことに自覚がありません。自分と自分の繊細さとの関係性はすべて無意識のままなので、それが息子との関係に投影されて「私は繊細すぎる息子に動揺を感じる」という症状として表れるのです。

 無意識の「繊細な自分への拒絶」が、息子を受け入れ難い存在だと感じさせます。

投影を癒すとはどういうことか?

 「投影」があると、本来は自分の責任であることを「相手のせいにする」ことになります。なので、人間関係はギクシャクするし、いつまでも自分の動揺は解決できません。

 たとえば、先ほどの3つの例で言えば、自分の嫌悪感に気づかなくては、いつまでも他者から嫌われているという錯覚から自由になれません。自分が相手に甘えたいのだと気づかなくては、いつまでも他者が応えてくれないことに苛立ち困惑することになります。自分が自分の繊細な部分を毛嫌いして抑圧してきたことに向き合わなくては、世の中の繊細なすべての人と敵対することになります。

 そこで、「投影を癒す」というプロセスが大事になってきます。

 「投影を癒す」とは、シミがお皿ではなく眼鏡にあると気づいたことによって、シミを取り除くことが初めて可能になるように、自分の不満や不安の根本原因が自分の意識の中にあると気づくことによって、自分自身を安らかにしてあげられることなのです。そして、相手を責めたり拒絶したりする必要がなくなりますから、人間関係もよりスムーズになります。自分の責任であることを相手のせいにしていたのでは、気持ちよい人付き合いは叶いませんよね。そういった悩みを1つ1つ根本解決できるのですから、極めて価値の高い作業だと言えます。

投影を癒すと心の鱗が取れる

「3−2−1プロセス」とは?

 では、「投影を癒す作業」に入っていきます。

 これはケン・ウィルバー率いるインテグラル・ムーヴメントの一環で、ダイアン・ハミルトンらを中心として世界で教えられているプロセスです。

 「3−2−1プロセス」の「3−2−1」とは、「3人称」「2人称」「1人称」を指します。

 純粋な手順は次の記事である②に掲載するとして、ここでは簡単に触れる程度にしておきましょう。

 まずは、自分に拒絶的反応を生じさせる相手、つまり早い話が「許せない相手」を一人決めます。ノートとペンを用意して、その人と想像上の会話をするのですが、まずは「3人称」としてこの相手を描写し、次に「2人称」として2人の対話を書いてみます。そして最後にはその相手になったつもりで「1人称」の視点から言いたいことを何でも書く。それだけです。

 私たちが許せない相手が母親であれ夫であれ上司であれ、あるいは特定の集団(政治団体、役人、特定の民族など)であれ、その相手を思ったときに怒りや恐怖や自己嫌悪などの「平安でない感情」が湧いて来るとき、自分がまだ意識できていない自分の信念や感情などが無意識に埋もれています。

 そして、その「無意識にあって見えていないもの」は、特に相手の視点に立って感じてみるということによって見えやすくなります

 投影が起こっている場合、私が想像している相手と、実際の相手とは大きくずれています。そして、相手の気持ちになってみることで、そのずれが表面化します。「あれ? こんなんだったのか」と意外な発見をするのです。視野が変わり意識変容が起きます。「死角に光が当たる」と言ってもいい。

 相手の「1人称」になってみることで、見えないものが見えるようになる。それは「無意識」が「意識化」され「所有される」プロセスなのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「体験談」

伝統的な人にイライラする私

 私は自分のことを進歩的な人間だと思っていて、人間の苦悩を解決するために有用な新しい考えをどんどん取り入れて、社会や人間の集合的意識までも変革してきたいという強い情熱をもっています。

 私が一番嫌いな人種は、古い伝統や習慣や常識やエスタブリッシュメントを善しとして、人間を解放するような新しい考えに関心もなく、心を開かない人たちです。前例主義の人が一番嫌いです。

 たとえば、代替医療や新しいスピリチュアリティー、ベジタリアニズムなどに反感をもって、西洋医学しか信じないとか、目に見えないものは信じないとか、主流の食事文化以外は変だという感覚の人は、最も付き合いたくない「下等な人間」ぐらいに思ってしまうのです。(いかに私のジャッジメントが強いかお分かりでしょう? 笑)

 伝統を大事にしている人に対して大きな拒絶感を持って来ました。そして、それが自分の課題なんだなあとも気づいて、幾度となく取り組んできたわけなのです。

 誤解のないように言っておきますが、私は伝統主義を叩きたいのではなく、この場では伝統主義に対して拒絶的にしか感じられない自分と向き合って、自分の問題として対処しようということです。 

 この問題には何度も取り組んできたのですが、今日またモヤモヤが自分の中にあって、まだ癒されていない「伝統主義者への憤り」が見つかったので、この機に自分の「投影」を見つけてみようと決心しました。

 このように、皆さんが「投影」を見つけたい場合も、「イライラする相手」「許せないと感じる相手」を選んでください。私の場合は、ひとりの人間ではなく、「伝統的な人たち」すべてひっくるめてです。このように集団を選んでもいいです。

「3人称」として伝統主義の人たちを描写する

 まずは、自分の視点から伝統主義の人たちがどう見えているのか、好きに書いていきます。裁きたいだけ裁いて構いません。

 私の場合、次のようになりました。

あいつらは遅い。頑固だ。心が閉じている。浅い。保守的すぎる。後ろ向きだ。進歩を邪魔している。安定志向で気持ち悪い。人類の進化には邪魔なやつらだ。

「2人称」として対話する

 今度は、伝統主義の人たちに面して、自分の思いをぶつけ、相手の声も聞くというプロセスをやります。

 私の場合、次のようになりました。

私:あんたたちは遅い。頑固だ。なんでそこまで心を閉じているんですか。

伝統主義者たち:伝統の温かい抱擁の中にいると心地よいんです。先人たちの残してくれた素晴らしいものを大事にしたいですな。あなたはなぜそんなにここから離れよう離れようとするんですか。私たちにはあなたが理解できません。

私:ああ、あなたたちは先人たちからの遺産に本当に感謝しておられるんですね。それが伝わってきました。そしてあなたたちの穏やかさも。

伝統主義者たち:分かってくださってホッとしました。あなたにもそういうことがお分かりになるんですな。何か一緒に協力していけそうな気がします。

私:本当ですね。あなたたちはとっても地に足がついてグラウンディングなさっていると感じました。何か自分より大きなものに繋がっていることを謙虚に受け止めていらっしゃる。

伝統主義者たち:そうですね。

「1人称」として対話する

 今度は、自分が伝統主義者になったつもりで、感じることを好きに書いてみました。

伝統主義者:やはり伝統というやつは、これまで長い長い時間の中を先人たちが苦労して作り上げて来たものが残っておるから、素晴らしいものがたくさん詰まっておる。もちろん古いからと言ってすべて良いものとは限らないのは承知しておる。けれど、時の試練を経て今日まで残っておるものというのは、やはりそれなりの智慧深いもの、感性に優れたものが多い。こういった先人の遺産があるということは、本当に有り難いことじゃのう。私たちの生活がそれだけ豊かということじゃ。着物であれ、食文化であれ、建築であれ、伝統の豊かさあってこそ、私たちは精神的にも落ち着く。数百年前からのすべての先祖たちに抱かれながら、愛されながら、感動しながら生きられるというのは、幸せじゃのう。

「3−2−1プロセス」をやって私に起こった意識変容

 進歩的な私は最初怒っていましたよね!(笑)ところが、「2人称のワーク」で自分が伝統主義者になってみたとき、想像していなかった感情が湧いてきたんです。

 景色は全く違っていたんです。

 まず、感情が大地に根ざしてゆったりと安定している感覚がありました。そして、過去からの遺産に対する深い深い尊崇の気持ち。感謝の気持ち。そして伝統の素晴らしさを素直に喜ぶ気持ち。

 私は自分の中にそんな感情があるのが感じられて、正直びっくりしました。全く想定外だったんです。

 「なんだ、私の中にも伝統大好きな自分がいたんだ」と発見したんです。

 そう言えば、私は桂離宮が世界一好きな建築だったり、老子思想が大好きだったり、何だかんだ言って金沢の文化的なところが好きだったりするんですよね。

 だけど、伝統を好きだという感情になったときに、大地に根を降ろしたような感覚とか、先人たちと心で繋がっているような感動は今日まではっきりと自覚したことがなかったように思います。

 もう1つ気づいたことは、私の中で「進歩的な自分」と「伝統的な自分」が敵対関係にあったということ。それが、このプロセスをすることで、「敵対しなくていいんだ!」と分かった。

 これからは、2人の自分の良いところを兼ね備えて行けそうです。どちらも否定せずに。

 何か心が広くなった気がいたします。
 

「自分だと認めている部分」と「自分だと認めていない部分」

自分の中にあっても自分だと認めていないものは "I" でなく "it" になる

 人間の中には「自分だと認めている部分」と「自分だと認めていない部分」が存在します。

 そして「自分だと認めている部分」は「自己イメージ= "I" 」に組み込まれますが、「自分だと認めていない部分」はそこからは漏れて「物= "it" 」として捉えられます。

 たとえば、思春期に性的衝動を素直に受け入れた人は、性的なものを「自己イメージ= "I" 」の一部として、「私は性的に興奮している」と表現できます。興奮しているのは「私」(I)だと思える。これが健全な発達です。しかし、中には性的なものを受け入れられないため「自己イメージ= "I" 」の一部にできない人もいます。その人の中で性的衝動が起こると、それを「物」(it)として捉え、「性器が勝手に動く」などと思って困惑してしまうのです。

 「悲しい」という感情を受け入れられる人は、「私は悲しい」と表現できます。「悲しみ」を「私」(I)の一部として認めるのです。しかし、何らかの理由で「悲しい」という感情を認められない人は、「私は悲しい」と素直に言えません。「悲しみ」という「物」(it)が自分の意志に反して湧いてきてしまうと感じて困惑します。

 このように、自分の中にありながら拒絶しているものは、心理的に最も遠い「三人称」として知覚する傾向にあります。自分は「それ」に悩まされてしまう、と認識するのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「3人称」から「1人称」に戻すのが精神の統合

 自分の中にあるのに「3人称(それ)」として知覚しているものは、自分からスプリット(分裂)していると考えることができます。拒絶された自分自身なのですから、それを受け入れて自分の一部として認めてあげることで、自分がより「まん丸(whole)」になれます。これが精神を統合する過程です。

 私たちの中には、何らかの理由で「これも自分だよ」と認めてあげられなかったものがあります。そして、この分裂状態はいろいろな心理的問題を生じさせます。拒絶しているものが自分の中にあるということは、それが刺激されるたびに精神が動揺し不安定になるということです。

 たとえば、「性的なこと」を拒絶している人は、性的な感覚が起こるたびに動揺しますし、「悲しみ」を拒絶している人は、悲しみが生じるたびに動揺します。「受け入れられない」という苦しみを味わうのです。なので、分裂状態を維持することで精神の安定を目指すとすれば、できるだけ「性的な刺激」や「悲しみ」に出会わないようにと極端に自分を制限することになります。そして、それでは自由で幸せな自己実現は叶いません。

 人間として健全な成長に向かい、自分のポテンシャルを活かした自己実現ができるためには、「拒絶されている自分」を「自分として受け入れる」という統合の過程を通ることが大切です。

 そして、その過程は「 "it" を "I" に変換する過程」でもあります。

 性的なものを受け入れた人は、「性器が勝手に動く」という認識から「私は性的に興奮している」と思えるようになります。また、悲しみを受け入れた人は、「悲しみが勝手に湧いて来る」という認識から「私は悲しんでいる」と思えるようになります。「それ」から「私」へと変換されたのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

自分のことを「物」のように話す人たち

 カウンセリングの初期段階で、多くのクライアントは自分の悩みについて話すとき、自分の気持ちを「3人称」として「物(対象)」のように扱うことが知られています。カウンセリングが深まるにつれて、クライアントはどんどん「1人称」として自己開示をし、瞬間瞬間の「体験過程」に開かれていくようになるという報告があります。

 自分のことを「物」のように話すとはどういうことでしょうか。

 それはたとえば、自分の中に湧いてくる衝動や感情のうち、自分ではどうしようもないと感じているものについて話すときです。

 たとえば、過食する人は「私(I)」の中に「過剰な食欲(it)」が湧いてきてしまうと捉えるでしょうし、アルコールに依存する人は「私(I)」の中に「酒を飲まずにはいられない感情(it)」が勝手に湧いてきてしまうんだと表現するかもしれません。自傷行為をする人は「私(I)」の中に「自分を痛めつけずにはいられない衝動(it)」が生じてくると言うでしょうし、浮気癖の強い人は「私(I)」の中に「浮気をせずにはいられない虫がいる(it)」などと表現するかもしれません。

 いずれの場合も共通しているのは、「私(I)」は「それ(it)」に対して無力であり困惑させられているという図式なのです。

 『「自分(I)」の中に、自分ではコントロールできない「物(it)」があって、それが問題行動を起こさせているのだ』という捉え方では問題は解けません。この人は、現時点では「物(it)」としか認知できていないものが「自分自身(I)」なのだと理解できるように成長する必要があるのです。

 それには、「それ(it)」を深く知る必要があります。

 言い換えると、「食べずにいられない自分」「酒を飲まずにはいられない自分」「自分を痛めつけずにはいられない自分」「浮気をせずにはいられない自分」はどんな感情をもち、どんな欲求を満たしたがっているのか、どんな世界観をもっているのかを発見し、その自分と親密になることが大事だということです。

 そう、「それ(it)」とは「まだよく分かっていない自分自身」であり、理解できるように近づいていく必要があるのです。

「それ(it)」の気持ちを内側から知る=「1人称」への変換

 私が過食症や依存症や自傷行為をする人にカウンセリングをするとき、「過食しちゃだめ」「依存しちゃだめ」「自傷行為をやめなくちゃだめ」とは言いません。禁止したら「それ(it)」は潜って別の形で表れるだけだからです。根本解決にならないからです。

 大事なことは「それ(it)」の気持ちやニーズを理解してあげられるよう深く対話をすることです。対話をするには、まずその存在を無条件で受け入れてあげる必要があります。

 無条件で存在を受け入れるというのは、今のところ「過食」「依存」「自傷行為」が良いとか悪いとか評価することは横へ置いておいて、「何か分からないけど過食することで満たしたいものがあるんだろうなあ」と推測して、それを理解しようとして近づくということです。変えようとせず、分かろうとしてコミュニケーションをとるんです。これが共感的な聞き方ですね。

 たとえば、自傷行為をする人の気持ちを聞くと「自傷行為をした後はほっとする」って言うんですね。「自傷行為をしないと、自分でいることが気持ち悪い」って言うんです。つまり、自分がここにいてもいいと存在を許すためには自分を責めなくてはならない。こんな感じのことが多いです。つまり、自分を許すために自傷行為をしているわけなんです。

 そういう場合、「じゃあ、自傷行為ができないとなると気持ち悪くなる(I)んだよね?」「うん」「その気持ち悪さって何だろう?」というやりとりをしていくと、根底に「自己否定感」が姿を現します。「自分はダメだ(I)」って思っているんです。「なんで自分はダメなの?」って聞いていくと、自分のことを否定し始めた体験が出てきます。そのときの辛さが出てきます。その部分に「自己否定しなくていいよ。あなたはそのままでいいよ」っていうことが伝わると、心の奥のほうでこの人は自分を受け入れられるようになる。そうすると、自傷行為はピタっとやみます。

 このように、「それ(it)」の内面を分かってあげると、どんどん「私(I)」に翻訳されていきます。これが統合のプロセスです。

 まとめると以下のようになります。

①「自分を悩ませる得体の知れない『自傷行為の衝動』(it)」
②「私は自傷行為をすると自分が許されるような気がしてほっとする(I)」
③「私は自傷行為ができなければ気持ち悪い(I)」
④「私は罰せられるべき存在だと感じる(I)」
⑤「私はここにいてはいけないんだ(I)」
⑥「両親は男の子が欲しかった。女の私は愛されず傷ついている(I)」

 これはフィクションであり、ほんの1つの例です。自傷行為をする人はみんなこのパターンとは限りません。心の真実はひとりひとり違うので、個別に探求することが大事です。

 「それ(it)」を「私(I)」として意識できるようになることが自己理解の拡大であり、分裂を癒す統合の過程だというお話でした。

自分を困らせるように見える「物(it)」の身になってみる
その気持ちになって「私(I)」として主観的に理解してみる
それが統合の道である

コミュニケーションで大事な3種類の意識

 私はつい最近あることに気づきました。

 それは、コミュニケーションの際、人は3種類の意識を使っているということ。

主体軸の意識 = 自分の感情・ニーズ・価値観を認めて表現する
共感軸の意識 = 相手の感情・ニーズ・価値観を共感的に理解する
客観軸の意識 = 2つの主観を結ぶために有益な洞察や思考を用いる

 この3つの意識が協力し合ってはじめてコミュニケーションが成立します。

 3つはそれぞれ役割が異なり、どれも必要なものです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

主体軸の意識が強い人は自分の話をたっぷりしてくれる

 主体軸の意識が強い人に悩みを相談すると、その人の意見や経験談やアドバイスを主に聞くことになります。

 たとえば、上司からの叱責に悩んでいる人が主体軸の意識が強い先生や先輩に相談したら、「俺だってそういう状況でも耐えて来たんだから、それぐらい我慢しろ」などとその人の主観を表現してくれますので、ポジティブに捉えれば、その人となりを気前良く見せてくれ、その人を深く知ることはできます。そして、その人の人生体験から学びたいと思うのであれば、こういう先輩や先生は頼りにできるとも言えます。 

 けれど、マイナス点としては、その人の主観の話ばかりになり、こちら側の価値観や感情やニーズを聞いてくれようとはしないので、参考にはできるけれど、寄り添ってもらえない不満が残るかもしれません。

 主体軸の意識だけが強い人は、自己表現をたくさんするのですが、聞くことは苦手です。

主体軸の意識が強い人は気前良く自分をさらけ出してくれる
でもこちらの気持ちを聞くのは下手 

共感軸の意識が強い人はこちらの身になって気持ちを聞いてくれる

 共感軸の意識が強い人に悩みを相談すると、こちらの身になって気持ちを聞いてくれます。

 上司からの叱責に悩んでいる人が、共感力の強い友人に相談したら、こちらが傷ついていること、もっと気持ちを尊重して欲しいと思っていること、職場を変えようか悩んでいることなど、感じているままの自分を気持ちよく受け止めてくれるので、温かく支えられている気持ちになります。「ああ、この人は私のことを分かってくれる」と思えるんです。なので、どんどん自分の気持ちが吐き出せ、それだけで気持ちが楽になったり、やるべきことが明確になって整理されたりするので、ホント有り難い。

 けれど、共感軸の意識だけだと、この相手のことを知りたいと思ったとき物足りなかったり、気持ちを理解してくれるだけ以上の、状況への洞察や、上司への洞察が欲しいときには欲求不満になるかもしれません。

共感軸の意識が強い人はこちらの身になって気持ちを理解してくれる
でもその人自身を出さなかったり、俯瞰的な洞察が得られないことも

客観軸の意識が強い人は状況を打開するような鋭い指摘をしてくれる

  客観軸の意識が強い人に相談すると、予想もしていなかったような広い視野や異なる視点から問題が見えてきて、時にはそれだけで打開できたりします。智慧深い人、洞察の深い人のひと言が、問題の認知を根本的にガラッと変えてしまうので、独特の有り難さがあります。

 上司の叱責に悩んでいる人が客観軸の意識が強い人に相談したら、「あなたは自己否定ですべて捉えるから苦しんじゃないの」と言われて、「そっか、自己否定の原因を追求して自分を楽にしよう」とすぐ思えてしまったりする。あるいは、「あの上司は劣等感の塊だから、あなたに当たっているだけ。気にすることないよ」なんて言われて、それだけで上司への脅威や敵意が消滅してしまったりする。

 このように、洞察が鋭く適切な場合、悩みが消滅してしまうほどの威力を発することがある。しかし、いくら客観軸の意識が強い人であっても、すべてが見えるわけではない。気持ちの奥にあるものを共感によって聞いてもらってからでないと問題の本質が見えないようなとき、やはり客観軸だけではうまくいかない。それに、客観軸は冷静な理性や直観なので、気持ちで繋がる温かさが欠けている場合が少なくない。寄り添ってもらいたい人にはやはり不満材料となる。

客観軸の意識が強い人は物事の本質を突く洞察や智慧を提供してくれる
ただし心の温かい通い合いを阻害することもあるし
こちらの気持ちに沿わない洞察なら重荷になるだけ

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

3つの意識の間を行ったり来たりする

 実際のコミュニケーションでは、どれか1つだけを使っているというより、3つすべてを交互に使っていることが多いでしょう。

 具体例を挙げてみます。

 これまで嫌いな料理を作って我慢してきた主婦の A さんが、より自分の正直な気持ちに即して今後料理はしないことにしたい。それを夫に打ち明けて、何とか双方にとって WinWin になる解決ができないものかと思っている。勇気をもって夫に気持ちを話すところからスタート。

A:ねえ、あなた。大事な話があるんだけど、聞いてくれる?
共感軸の意識で相手の気持ちを思いやりつつも、主体軸の意識で自分の気持ちを伝えようとしているのがメイン。)

夫:何?

A:これまで主婦は料理をするものだという規範に従って料理してきたんだけど、ホントは料理したくないのよ、私。それで、自分に背いて料理をするのはもうやめようと思うの。
主体軸の意識がメイン。)

夫:え? もう食事は一切作らないってこと?

A:びっくりするわよね、突然で。
共感軸の意識で夫の気持ちに寄り添う。)

夫:そりゃびっくりだよ。

A:そうよね。
共感軸の意識で夫の気持ちに寄り添う。)

夫:それで?

A:料理をゼロにするかはまだ決めてない。むしろ、まずあなたに相談して、あなたのニーズもちゃんと尊重した上で、現実的にどうするのがベストか話し合いたいの。
主体軸の意識がメイン。)

夫:俺のニーズと言われても・・・俺は今まで通り料理してくれたら有り難いけど。

A:あなたは今まで通り私に料理して欲しいのね? 
共感軸の意識で夫の気持ちに寄り添う。)

夫:うん。そうだね。

A:私がもし今まで通り料理をし続けたら、それはあなたにとってどういう意味があるのかしら?
共感軸の意識で夫の主観的世界を知ろうとしている。)

夫:そりゃあやっぱり、ちゃんと夫婦関係の中で役割を果たしてくれて、協力してくれているなあと感じられるし、俺や子供たちの健康を気遣ってくれて嬉しいなあとも感じるし、家のことは任せられて安心して仕事に行けるっていうのはあるよね。

A:ちゃんと夫婦として協力し合えているっていうことと、あなたや子供たちの健康に気遣ってもらえているっていうことと、家のことは心配しないで安心して仕事ができるっていうことね?
共感軸の意識で夫の気持ちに寄り添う。)

夫:そう。

A:これらは皆とても大事なことだと思うし、私は尊重するつもりよ。ただ、私が料理をするというやり方では私のニーズが満たせていないことも理解して欲しいのよ。そして、新しいやり方であなたと私の双方のニーズがすべて満たせる創造的解決を私は望んでいるの。あなたのニーズを阻害したい気持ちは全くないということを理解してもらえるかしら?
主体軸の意識で新たに自分を出している。)

夫:今のままで満たされない君のニーズって何?

A:聞いてくれて嬉しいわ。私は結婚した当時気づいていなかったんだけど、これまで周囲の期待通りに応えるのがいいと思ってきた。自分がどうしたいかなんて問わずに生きてきた。でもね、最近感情的に元気が出なくなってカウンセリングを受けているのよ。そして自分のこれまでの生き方を見つめたら、自分の本心に反していろんなことを「やらねばいけない」ってやってきたことに気づいて涙が出たの。もっと自分の本当の気持ちを大事にして生きたいって強く思ったわ。料理は妻として母親として当然の義務だと思ってやってきたんだけど、本当は無理しているの。そして、無理しているからやった後で不満がずっと溜まってきたのよね。そうすると、子供に知らず知らずにキツく当たったり、あなたにも心の壁を作ったりしちゃうの。いろんなマイナスの結果が生じているのよ。それじゃあ、この家族関係にもいい影響ないなあと気づいた。だから、もっと自分に正直に生きることで、あなたにも子供たちにも本当にキレイな心で接することができるようになると思うの。
主体軸の意識がメイン。)

夫:そんなに深いことだとは分からなかったよ。わかった。じゃあ、君がもっと自分に正直になることで無理なく自分らしく生きられるんだったら、応援するよ。

A:本当? 嬉しいわ! (涙)
主体軸の意識がメイン。)

夫:気持ちは分かったんだけど、現実的にこれからの食事をどうするかってことだよな?

A:それを一緒に考えたいの。でも、その前に1つ言わせて。あなたが私の気持ちを理解してくれて、心が繋がったこと、ものすごく嬉しいの。これは私にとって何より大事なことなの。だから、ホントにありがとうね。
主体軸の意識がメイン。)

夫:(嬉しそうに)どういたしまして。これからも宜しくね。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 この会話では、A さんは夫のショックや不安などを予想して、それらに寄り添いながら、自分の気持ちを偽らずに伝えています。

 A さんは共感軸の意識をかなり多く使い、相手の心がこちら側の気持ちをどれぐらい受け取れる状態かということに気遣っています。そして、聞いてもらえそうだと思ったときに、適度な量で主体軸の意識で自己表現をしています

 なので、夫は A さんの気持ちやニーズを理解してくれるところにまで到達できました。気持ちがひとつになれたので、後の現実的な対処は技術的な問題のみです。心理的な問題はすでに解けていますから、あとは協力して双方に都合のよい解決が2人で創造していける可能性は大です。

 さて、次に、同じ状況にある別の夫婦の会話をご覧ください。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

A:ねえ、あなた。大事な話があるの。
共感軸の意識で相手の気持ちを思いやっていない。主体軸の意識で自分の気持ちを今日こそは伝えてやろうと強気である。)

夫:何?

A:私もう料理しないことにしたわ。
主体軸の意識で自己主張。)

夫:何をバカなことを言ってるんだ! そんなことが許されるはずないだろ!
主体軸の意識で自己主張。客観軸の意識で相手の行為を規範に反するものとして裁いている。)

A:私が言うんだから、許されるに決まっているわよ!
主体軸の意識で反撃。意地になっている。)

夫:絶対に許さんからな。ダメだぞ。
主体軸の意識で自己主張。譲らないという強気。)

A:あなたはいつもそうやって人の気持ちを聞かないわよね。
客観軸の意識で相手の行為を描写している。感情は隠されている。)

夫:そんなことはないよ。ちゃんと聞いているよ。お前の言い分がおかしいからおかしいと言っているだけだ。
客観軸の意識で相手の描写を否定し、自分の行為を正当化している。)

A:この頑固親爺!
客観軸の意識で相手の人格を否定している。)

夫:何だと。この分からず屋!
客観軸の意識で相手の人格を否定している。)

A:もう今晩から食事は作りませんから、そのつもりで。
主体軸の意識で一方的に自己主張。)

夫:勝手にせえ!
主体軸の意識で反撃。売り言葉に買い言葉。)

A:ああ〜ん、もう。腹が立つ!!
主体軸の意識で独り言。)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 この会話では、共感軸の意識が完全に欠落しています。言い換えると、どちらも相手の気持ちを聞こうとしていないということです。

 それから、主体軸の意識を表現するとき、競合的かつ非協力的です。

 また、気持ちの伝え合いをする代わりに、客観軸の意識で相手を説得しようとしている箇所が目立ちます。

 自分が「こうして欲しい」と心を打ち明ける形ではなく、「こうするものではないのか」と正義や規範を持ち出して相手を動かそうとしています。これは裁き合い評価のし合いになりやすく、責め合いからお互いの感情を害してしまうという結果に陥っています。

 この2人は、お互いの気持ちに労りを見せることを知らないだけでなく、客観的な規範や正義を持ち出さずに自分の内面を表現するという習慣がありません。なので、心と心を親密に繋げるという会話がそもそもできないのです。

 このように、頭の思考によって自分のニーズを伝えるという人が世の中に結構多くいます。自分は理性的になって話しているつもりなのですが、感情を吐露しないコミュニケーションになるので、心に壁がどうしてもある。自己防衛的なやり取りに終始し、感情が通い合わないのです。

 まずは、共感軸の意識を育てて、客観軸の意識をできるだけ使わない訓練をすることが大事です。また、主体軸の意識は自分の正しさを主張するために用いるのではなく、誰も責めずに自分の正直な事情を明らかにするという姿勢のものに変換するといいでしょう。

 皆さんは、3種類の意識をどのようにお使いでしょうか。
 

人と人との心理的境界線

(これは2015年10月に投稿した記事の復刻版です。)

 家と家の間に
物理的境界線があって、私は勝手に他人の家に入らないし、他人も勝手に私の家に入りません。

 互いの住空間を尊重して侵害しないことが、人づきあいの基本です。

 同様に、心と心の間に心理的境界線というものがあって、互いのそれを尊重して侵害しないことが大事なのですが、皆さんは心理的境界線を意識していますか?

人によって「OKできるもの」と「OKできないもの」は違う

 A さんの家ではタバコを吸ってもOK。B さんの家ではタバコを吸うのはOKでない。そうすると、B さんの家に行ってタバコを吸うのは B さんの心理的境界線を侵害することになります。

 B さんにとってイヤなことをしないのが、B さんの心理的境界線を尊重することです。

 C さんは夫がキャバクラに行ってもOK。D さんは夫がキャバクラに行くのはOKでない。そうすると、D さんの夫がキャバクラに行くのは、妻の心理的境界線を侵害することになります。

 このように、心理的境界線は人によって違うので、人づきあいにおいては自分と相手の心理的境界線を知ることが大事です。

 つまり、自分にとって「このラインを超えたら許せない」という線はどこなのか、そして相手にとっての線はどこなのかを知ることが、付き合い上とても大事だということです。

心理的境界線を侵さず侵させない

 相手がイヤだということをしない、そして自分がイヤだということをさせない、これが相互尊重の根本です。 

 心理的境界線は人によってまちまちなので、言わずに察してもらおうという姿勢には無理があります。相手が自分の心理的境界線を侵したとき、「あなたの言動は私の心理的境界線を超えています」ということを伝える責任は自分にあると理解するほうがうまくいきます。

 自分の境界線を主張し守備することは、自分自身の責任であり、相手の責任ではありません。

 相手が自分の境界線を侵しているのにノーと言わなければ、自分で自分を守っていないのですから、自分を傷つけている責任は自分にあります。

 また、相手がノーと言っているにも関わらず、相手にとってイヤな言動を自分がやめないなら、相手を故意に傷つけているわけですから、意識的暴力だと見なされます。

 人間関係は時に複雑なもので、自分が自分の望むように行動しようとすると、それが相手の心理的境界線を侵すことになったり、相手が相手の望むように行動しようとすると、それが自分の心理的境界線を侵すことになったりして、対立が起きることがあります。

 このように、一方にとって利益となることが、他方にとって害となる場合、対立の解消はなかなか難しい。

 時には相手と距離をとるしか方法がないこともあります。

心理的境界線そのものが健全でないこともある

 相手の言動が受け入れられないと感じて不満になるとき、相手が悪いのではなく、自分の要求に問題がある場合もあります。

 たとえば、息子を弁護士にしたいと勝手に線路を敷いてきた父親は、息子が別の職業を選ぶと知ったとたん、自分の心理的境界線を侵害されたと感じて怒り出すかもしれません。

 この場合、息子の行動が父親の正当な要求を阻害しているとみなすのではなく、父親の息子に対する不当な要求が父親の不満となっていると理解し、息子を自由にさせてやるのが解決としてはベストでしょう。

 また、1日に10回も妻の居場所の確認をしないと気が済まない束縛心の強い夫にとって、電話に出ない妻は許せません。この場合も、妻が夫の正当な要求を阻害しているとみなすのではなく、夫が妻に対して不当な要求をしていると理解し、妻を自由にさせてやるのが解決としてはベストでしょう。夫が自分の神経症的執着に取り組むほうが望ましいと言えます。

 ということで、自分が不満になったときには常に相手の行動が問題だとは言い切れません相手への要求が正当なものかどうか吟味することが大事です。

 健全な心理的境界線であれば、侵害してくる相手にノーと言うことが健全な行為ですし、不健全な心理的境界線であれば、侵害してくるように自分から見えている相手にノーと言うことは、実は相手の健全な心理的境界線を自分自身が侵害していることかもしれないのです。

相手と自分に対して思いやりがあるかどうかが最重要

 技術的なことはいろいろありますが、最も大事なのは、お互いに思いやりがあるということです。

 相手がイヤだと感じることは控えてあげたいという暖かい気持ちが自分にあり、自分がイヤだと感じることは断ろうという自分自身への労りもあり、お互いに心地よい領域でお付き合いしようという精神があってはじめて、いろいろな対立は平和的に解決できます。

 ですから、最終的にはテクニックではなく、優しさなのです。
 

葛藤が起きたら喜びと怖れの方角を見極める

 葛藤が起きたら、正反対の方向に引き裂かれている感じがあると思います。

 でも、自分に正直になって内面に向き合うと、進むべき方向は見えるものです。常に内側から幸福に向けて導かれているものだからです。ハートの喜びというコンパスが必ずあります。

 ただ、既成概念、規範、そしてトラウマ感情、恐怖心と勇気のなさなどがあると、喜びへ向かうのを阻止しようとします。

 「こっちへ進むのが幸せ」というのはどうやって分かるかというと、それが叶ったことを想像したときワクワク感があるんです。そして、それを阻止しようとする既成概念や規範やトラウマ感情や恐怖心などの声を聞くと、そこには暗闇しかない。喜びは全くありません。

 典型的には「喜び」と「不安」の声が衝突するという形になります。

 「こっちへ進めたら幸せだなあ」という「喜び」の声。そこへ、「そんなことしていいの? ◯◯になっちゃうよ」と脅しが入る。規範の声。不安の声がする。

 そうすると、「喜び」に向かうのが怖くなるんです。進むのが不安になる。そして「不安」に従う人も多い。でも、それだと「不満」はなくならない。葛藤は決して消えない。葛藤が消えるのは、「喜び」に向かって歩み出したときなのです。勇気をもって幸せに向かわなければ葛藤は解けない仕組みになっている。

 「喜び」を選ばないという選択をしたら、葛藤は解けないのです。つまり、答えはもう出ている。その答えを自分のものだと宣言するかしないかだけが任されている。「喜び」に向かって進むまで葛藤から自由にはなれません。 

 この宇宙ではすべての存在が進化発展していく秩序になっています。安定志向は宇宙の原理に反するのです。

 宇宙の原理に従って、成長に向かう勇気を出さなくては、人生の課題には答えは出ないことになっています。

 「不安」が消えるまで待っている必要はない。「不安」があってもそのままで「喜び」に向かって歩き始めるんです。そうしたら、不安が小さくなっていることに気づくでしょう。葛藤が消えようとしていることに気づくでしょう。

 怖いことをあえてやり、快適な領域を出ることでしか成長できないときもあるのです。

選択に迷ったら
喜びを感じる方角が進むべき方角
怖れの方角を向いたらワクワク感はない
不安でも進めたら生き生きするなあという方角
それが成長の方角 & 幸せの方角

思考をストップする時間をもつ

 「頭」を使うことに偏りがちな現代人。「頭」を休めて「心」や「体」を中心とした時間を過ごすのは大事です。

 スポーツや農作業や登山などが好きな人は、「体」を動かせていいですね。

 美しい自然に触れたり、映画や小説に感動したりするのは、「心」が動いていい。それから、人との気持ちのやりとりも「心」を動かします。

 こういう、多くの人がすでにやっている常識的なもの以外にもあります。

え? メディテーションって「頭」が休まるの?

 たとえば、私なんかはメディテーションをやりますが、このときは意識的に「思考停止状態」を作るんです。

 能動的に考えるのをやめて、ただあるがままを観察するだけにマインドを使うんです。

 そうすると、たとえば座ってやるメディテーションの場合(日本語では「座禅」と言いますが)、生じてくる考えや感情や体の感覚(呼吸を含め)をすべて放っておいて、ただただ気づくだけ。

 そうすると、「気づいている意識」だけはあるので、昏睡状態ではないんです。だけれど、「これはどうだったっけ?」とか「明日は何をしようか?」とか一切考えるということをしない。音が聞こえたら、「あ、音だ」。足がかゆくなったら「あ、かゆい」。息を吐いたら「あ、吐いた」。ただ気づいているだけなんです。

 そうすると、頭をあれこれ動かしているわけじゃなく、根本的な意識だけに戻っている感じなんですね。余計な気遣いや心配は全くせず、浮上してくるものをぼ〜っと見ているだけみたいな状態。これって結構休まるんですよね。「心」も落ち着いてくるし、「体」もすっきりしてくる。

 「頭」を「生きているだけでいいよ」という状態にしてあげると言ってもいいでしょう。これは、ある意味、寝るより「頭」が休まるんですよね! 不安思考でぐるぐるして苦しい人には、メディテーションを是非お勧めします。

 「頭」の中を空っぽにすると言っても、何も浮かんできてはいけないのではありません。初心者は「雑念はいけない」「雑念を消さなくてはいけない」と思い込んで格闘してしまうんです。そんな必要は全くない。「考えない」と意志で決めても、無意識から思考は出続けるんです。それで問題ありません。出なくなるときもありますけれど、意志に関係ない思考の流れというものはあるんで、それはあっていいんです。ただ、それに能動的に関わって参加しない。放っておく。無意識で生じてくる思考の流れを観察だけしているんです。

 「考えよう」と意志で決めて考えているときの思考と、「考えよう」と思わなくても勝手に浮上してくる思考とは違うということはあまり知られていないかもしれません。前者は止められますが、後者は止められないのです。そして止めなくていいし、放っておけば自然に落ち着いてきたりします。「思考停止状態」というのは、前者の能動的思考を止めるだけで、放っておいても生じてくる思考を止めるわけではないんです。

 能動的な思考をとめる「思考停止」になるだけでも、「頭」は最大限に休まります。すっきりします。

 寝ているのじゃなく、余計な思考活動から「頭」が解き放たれて、ベーシックなあり方に戻るんです。

 そうすると、「心」と「体」もリセットされて、すっきりする。だから、私はメディテーションが大好きです。呼吸を観察して10分とか20分過ごすだけで、「心」も「体」もリフレッシュするんです。やったことない人は、是非やってみてください。 

 これは「気づき」という「頭」の機能を通して、内面から「心」と「体」のフィーリングと「頭」が一致していくので、ホーリスティックな意味で三位一体が調和していくんです。

 「心」と「体」が感じていることにすべて「頭」のアンテナを共鳴させていくので、ぴたっと合致するんです。意識が「心」と「体」と「頭」でひとつになる。これはとても気持ちいいですよ!

座るのがイヤな人のための「動くメディテーション」

 さて、じっと座っているのが嫌いな人に、「動く瞑想」というものがあります。

 一番ポピュラーなのは「歩く瞑想」で、歩きながら足を一歩一歩出す感覚に気づく。呼吸に気づく。顔に当たる風の感覚に気づくなど、あれこれ概念せずに、歩きながら起こってくるもの1つ1つに純粋な意識を向けるだけです。

 歩くだけでなく、何の動作でもメディテーションにすることが可能です。たとえば、余計なことを何も考えずに、花を生けるなら花を生けるひとつひとつのしぐさに全意識を向ける。ダンスをしながら、ひとつひとつの動きに全意識を向ける。そうすると、「体」の動きと「頭」の気づきが一致している状態です。そこに本当の感情があれば、つまり喜びからそれをしているという本心があれば、「心」も一致しています。


 大事にしたい相手のためにお茶一杯を入れてあげたいと思う。もてなしたいと思う。そういう「心」で、ひとつひとつの所作を「頭」で把握しながら、「体」をひとつひとつ動かしていくとき、この人は「頭」と「心」と「体」がひとつになってそこにいるんです。

 これは尊いことです!

 やりたいという感情(心)に素直に従って、1つ1つきちんと意識をして(頭)1つ1つの動きをする(体)とき、それはホーリスティックな動きになります。それは自分も周りも幸せにし、自分も他人も活性化させ、調和と秩序を周囲に放出します。

 やりたくないことをやっているときには、「心」はそこにあらず。「頭」が強制させて「体」を動かしているので、三位一体の自己としては不自然な緊張とストレスにさらされています。「心」と「頭」が一致していない動きをするのは、当人に苦痛を与えます。なので、いくらそれが「相手に親切である」という思想を持ち出したとしても、ホーリスティックな動きではないので、自分も周りも幸せにはしないし、自分がだいたいそれをやることで元気になりません。自他ともにエネルギーを落とすことになるのです。

「心」のまま「体」を動かす AUTHENTIC MOVEMENT

 さて、ヨガや茶道など、内面と動きを一致させる「行」であっても、「こうあるべき」という形にはめようとする人間の意識から完全に解放されるのは難しいかもしれません。

 そこで、伝統や規範など全くないやり方で、内面からほとばしるものだけに忠実になる。つまり「心」のあるままに「体」を動かすというものも存在します。

 それは、先日ご紹介した AUTHENTIC MOVEMENT というもの。

 目を閉じて、体が動きたいと感じる動きだけをするんです。これも「頭」と「心」と「体」を一致させますが、特に「心」と「体」を一致させます。

 「心」と「体」を一致させるとは、感情や意欲のまま「体」に動くことを許すということ。

 鬱々とした気持ちのときは、鬱々とした「体」の動きでいい。寝そべりたければ寝そべる。腰を動かしたければ動かす。背骨をくねくね揺らしたければ揺らす。動きたくなくなったら止まっていたっていい。悲しいなら悲しい動きでいいし、怒っているなら怒っている動きでいい。とにかく何も決まりごとはないんです。

 そうすると、とっても深いところで「心」と「体」が一致してくる。これはとっても気持ちのいいことです。「頭」は気づいているだけで主体的な操作をしないので、休んでいるようなもの。主に「心」と「体」の会話なんです!
 
 ということで、今日は「頭」「心」「体」の調和についてお話ししました。特に「頭」が思考することに傾きがちな人は、「頭」を気づくだけのモードにして、「心」と「体」に意識を向ける時間をもつと、とっても楽になったり、癒されたり、気づかなかったことに気づいたりと、きっといいことがたくさんありますよ。^^/ 

したいことが分からないと言う人へ

 今できることが「散歩にいく」「昼寝をする」「友達に電話する」「買い物に行く」という4択だとすると、その中で一番ワクワクするものを選びます。

 「買い物に行く」を選んだとしましょう。

 そしたら、「A店に行く」「B店に行く」「C店に行く」「D店に行く」という4択だとすると、その中で一番ワクワクするものを選びます。

 「C店に行く」を選んだとしましょう。

 そこで買うものも、選択肢の中で一番ワクワクするものを選びます。

 こうやって、一日中、その時点で現実的にあり得る選択肢の中から一番ワクワクするものを選ぶことをただただ繰り返します。

 そうすると、自然と生活の中に喜びが増えてきます。いつも一番喜びの大きいものを選択するからです。

 こうやって喜びが増える方向に人生を歩み続けていくと、自分の成長と幸福に必要な出会いが自然に起きてきます。

 付き合う相手や、読むべき本や、天職と言える仕事のようなものは、この「喜びの方向に歩む」ことの繰り返しの途上に現れて来るものです。

 大事なのは、この瞬間に、そして次の瞬間に、存在する選択肢の中で一番喜びの大きいものを選んでいるかどうかだけです。

この瞬間に、そして次の瞬間に
存在する選択肢の中で一番喜びの大きいものを選ぶ

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「無意識な生き方」から「意識的な生き方」へ

 無意識でやっていたことに意識が入っていくと気づきが生じます。

 すると、そこに選択の自由が生まれ、自分の意志を反映させられるようになります。それが進化のプロセスです。 

 たとえば、私は以前ピアノを弾くときに肘を固めてしまっていました。もちろん無意識にです。すると上腕と前腕を合わせて1つの部品であるかのように使っていたので、ピアノを弾くと腕が疲れるし、いい音が出ませんでした。

 ところが、ある日、肘に力が入っていることに気づいたんです。そして力を抜いて弾いてみたら、上腕と前腕は別々に動かすことができました。そして以前よりずっと楽に弾けただけでなく、いい音が出るようになりました。

 「肘を固める」という無意識の行為に意識が入ったことで、「肘を固める」と「肘を固めない」という2つの選択肢が初めて現れたのです。そして「肘を固めない」という選択肢を選ぶ自由が生まれました。これは無意識の状態では起こり得ないことですよね。

 こういう日常の進化は至るところに見られます。 

 「〜しなくてはならない」「〜べきだ」という規範や信念の多くは無意識です。批判能力が発達する以前、幼少期に周囲から素直に吸収したものが多いと思います。 

 仮に自分が生まれ落ちた社会では父親が子供の職業を決めるのが常識になっているとしましょう。そうすると、そこで育った自分は将来の仕事はお父さんが決めるものだと信じます。周りの子も皆そうしているので、そんなものだろうと思うわけです。

 大人になって職業を決める時期になりました。父親は自分に教師になるようにと言った。でも自分は教師になりたいと思えない。葛藤が始まります。

 ちょうどその頃、外国の文化に触れる機会があり、驚いたことにそこでは職業は自分で決めてよいと言う。親が決めるものではないと言う。

 そこで自分は立ち止まって考える。「職業は父親が決める」というのは、我々の社会でルールになっているだけで、絶対的なものではないのではないか。

 このとき、「職業は父親が決める」という規範が自分の社会にあるということを初めて意識した。そして意識することで、「規範に従う」と「規範に従わない」という2つの選択肢が姿を現したのです。

 さて、どちらを選ぶことになったのかは想像にお任せすることといたしましょう。

 私たち人間の中にはこのように多くの無意識のものがあります。そして、無意識であればそこに自由はない。それに自動的に従って生きてしまう。先祖と社会と同じように反応して生きているだけです。唯一無二の個性として目覚めていない。

 ところが、無意識のものに意識の光が入るとどうなるか。

 無意識の遺産に対して「私はどうするのか」を主体的に意志できるようになります。そして、そこからは自分の責任において選んだ生き方となります。

 民族集団に従属した受身の生き方ではなく、そこから独立し超越した者として、民族集団を俯瞰し導くことのできる存在へと成長するわけです。

 自分の無意識に気づきを入れる。それが自分自身になっていくプロセスなのです。

未熟な人とは無意識で不自由な人
成熟した人とは意識的で自由な人

 
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