菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

世界中どこからでも、カウンセリングを受けられます。面談(金沢市)・電話・スカイプ・FaceTime 対応。

2016年09月

感情はいろんな形に化ける

 仕事柄、私は多くの人の「感情」に耳を傾けます。

 「感情」には分かりやすいものと、複雑でさっぱり分からないものがあります。

 分かりにくい「感情」は紐解いて、根っこが何なのかを探るのが、私の仕事の重要な一部です。

 「感情」はいろんな形に化けて原型を留めていないことがある。そして、なぜそんな「感情」を抱くのか、本人さえ分からないことが多い。つまり、自分の「感情」がよく分からないまま、悩み続けているわけです。

 本日のテレフォン人生相談では、義兄の逮捕歴を姉の子供たちに伝えるべきかどうかで迷っている男性が相談者です。

 義兄の逮捕歴は結婚前の話で、姉も父親もそれを承知の上で結婚している。なのに、なぜこの男性は姉の子供たちにそれを伝えようなどという発想になるのか。

 「他の人から聞いたらショックだろうから、母と相談して今のうちに伝えてあげたほうがいいのではないか」と迷っていると言う。

 釈然としない。

 このように聞いていて釈然としない「感情」の場合、何かが隠れています。

 「感情」というのは、常に何かを満たしたくて存在しているものです。動機と言ってもいいし、欲求とかニーズと言ってもいい。そして、それを発見することが「感情」を理解することです。

 この場合、この男性が姉の子供たちに義兄の逮捕歴を伝えたとき、彼の何が満たされるのかと問います。何を満たしたくて、彼はそんなことを望んでいるのか、ということです。

 明らかにこれは、姉の子供たちへの愛が動機ではない。愛を装っているだけです。

 そうやって出て来たのは、相談者の恨みでした。

 この相談者の亡くなった父親は、父親の仕事を手伝ってくれる人材として、前科者の義兄を自分の娘と結婚させた。けれど、義兄は父親の仕事を離れて自分の仕事をうまくやっている。それを父親は生前、ぼやいていたと言う。相談者には、義兄が父親を裏切ったという思いがあったのでした。

 義兄の前科を子供たちにばらすというのは、仕返しじゃないのかと問われた相談者は、黙ってしまいました。図星だったのでしょう。 

 それならば、「なぜ父親の仕事をやめて、離れていったのか」と義兄に直接問うべきではないか、というアドバイス。

 子供たちを通して復讐しようとするのは良くない。そういう回答でした。

 この男性が義兄に対して、「父親の仕事を離れたことに納得がいかない」「父親を裏切ったことが私は許せない」と言うのが、本当の感情を表現することです。

 けれども、彼が自分の義兄への憤りを自覚できない。あるいはきちんと所有できていない(怒っているということにしたくない)。そうすると、変な形で出てきてしまう。「義兄の前科を子供たちに知らせるほうが子供たちのためではないか」などという奇妙な姿に化ける。 

 変装した「感情」のルーツを見事に暴いた本日の相談でした。

 決して珍しいケースではなく、多くの人間の中で起きている典型的な現象だと思います。自分の「感情」がよく分からないとき、奥にもっと本当の感情が埋もれているのではないかと問うてみることが大事です。

 大事な問いは「この感情は何を満たそうとしているのか?」です。

http://tel-soudan.com/arrest-record-imai-ai-160930/ 
 

定まらないものは何か

 「悩み」はしばしば「定まらないもの」として現れます。

 「自分が何に悩んでいるのか」を発見するには、「定まらないものは何か」を問えばいいのです。 

 たとえば、夫婦仲が悪くて、もう離婚しようと決意したとすれば、離婚の意志が固まった時点で「解かなくてはならない問題」ではもはやありません。解いてしまったのです。あとは離婚を実行するのみとなります。

 決意できた時点で、人に相談する必要はありません。「どうしたらいいでしょうか?」と聞く必要はなくなります。

 妻に離婚したいと言われたけれど、自分は離婚したくない。自分は離婚したくないという気持ちが固ければ離婚したくないわけですから、これも人に聞く必要はない。はっきりしているわけです。こういう場合「離婚に応じたほうがいいのでしょうか?」という質問は出ません。 

 つまり、自分の中で明確なものについては、私たちは悩まないのです。 

 私たちが悩むのは、離婚に応じたくない気持ちが一方であって、でも離婚するしかないだろうかという気持ちも他方であるとき、つまり揺れているときです。

 こっちを取ろうかあっちを取ろうかで葛藤するとき、「どうしたらいいだろうか」と悩むのです。

 定まらないから悩むのです。 

 たとえば、人から何かを頼まれる。やりたくない。やりたくないけど、断る気持ちになれない矛盾する2つの感情の間で引き裂かれるのが辛い。これが悩みです。 

 「定まらないものは何か」を探っていくと、そこには葛藤が見えてきます。自分の中で何と何が対立しているのかが見えてきます。 

 私たちが心理的に成長するのは、自分が直面している葛藤にまっすぐに向き合い、それを解くときです。 

 葛藤を解くということが、自分を定める過程そのものなのです。 

 たとえば、私は好きな人と結婚したいとする。両親も向こうの両親も反対している。恋人は結婚したいと言う。自分の中で親の祝福と承認が欲しい気持ちと、好きな人と結婚したい気持ちがぶつかる。この結婚はやめたほうが親孝行なのかと悩む。親の反対を押し切ってでも自分を通すのが正しいのかと悩む。

 こういう葛藤を私がどのように解いて、どのような答えを出すのか。これが生きることそのものです。自分が自分の生き方を定義するのです。自分はどのような人間でありたいのかを決意するのです。

 この葛藤を親の承認を優先することで解決する人もいれば、結婚したい気持ちを優先することで解決する人もいます。あらゆる場合にこちらが正解だというものはありません。葛藤を解くには価値観や世界観や「こう生きたい」というその人の指針が必要です。そして、実は葛藤を解く過程に向き合うことで、自分の指針というものが固まっていくのです。 

 葛藤に出会う前には、指針などないのです。

 葛藤を解くことで、指針が確立されていきます。指針がないと選べないからです。 

 これが「自己決定をする」ということです。人生の課題を解くことで「自分は何者なのか」を規定していく。 

 最初は自分が何者か分からない。霧のようで捉えどころがない。そこに対立軸が現れる。人生は「お前はどうする?」と問うてきます。

 葛藤とは「お前はどうする?」と問われているということです。 

 「自分がしっかりとある人」「自分が確立されている人」とは、葛藤にきちんと向き合い、自分なりの答えをちゃんと出して来た人それがちゃんと蓄積されてきている人です。

 葛藤が生じたとき、自分で考えて答えを出すということをせず、誰かに頼って、その人の責任において答えを出してきた人は、自分が確立されていきません。こういう人は依存的性格になります。精神的自立へと向かいません

 「自己決定をする」ということには、責任が生じます。決定を下し、葛藤を解決したなら、その結果を自分で被らなくてはならないからです。自分が不満になれば他人のせいにはできない。その代わり、自分が満足できれば自分の選択を喜べます。自信を深めることができます。

 いずれにせよ、自分というものに自分が責任を負う必要がある。

 ところが、これは時に怖いと感じるものです。

 決定をしなくてよい方法はないかと探す。できれば葛藤に向き合いたくないと思う。そして逃げてしまうこともあります。回避するわけです。

 定まらないまま漂流するのです。

 そして、答えを出さないまま漂流していると、状況が悪化してくることがあります。答えを出さなければ、人生のほうが答えを突きつけてくる。にっちもさっちもいかない状況になり、答えを出すことで何かを捨てていれば幸福になれたかもしれないのに、何もかも失うような目に遭う。

 葛藤に向き合わない、答えを出さないことにもコストがあるのです。 

 ということで、葛藤から逃げないで「定まらないもの」に向き合うことを勧めるのですが、反対に今解けないものを腕づくで解こうと焦り過ぎてしまう人もいます。

 もう少し長い目で見て、ゆっくりと答えを出していくほうがいいのに、今すぐに答えを出してしまわねば気が済まない。これも問題です。

 人生の大きな葛藤には、10年20年かけて答えを出すぐらいで丁度よいものもあります。深い課題の中には、長い時間と経験を通して、答えを熟成していくものもあるわけです。ゆっくりと腰を据えて取り組むのがよい葛藤です。

 葛藤とジレンマに数十年向き合うことで、ゆっくりゆっくりと自分というものが出来上がっていく。そういうタイプの葛藤もあります。

 こういう長期的葛藤の場合には、答えが出ない状態、定まらない状態に耐える強さを培うことが重要です。対立による緊張が続くことを受け入れ、それに耐えることで人間が強くなっていく。そういう成長もあるのです。

 気が短い人は、長期的に答えを出すべき葛藤でも、すぐに解いて終わりにしてしまいたい衝動に負けてしまう。忍耐がないのです。この人の成長課題は、解けない葛藤の緊張を受け入れる度量を育てることです。待つということを学ぶのです。

 それから、失敗についてひと言。葛藤に出した答えが後で間違っていたと分かっても、自分のベストを尽したのであればいい。失敗から学んで次に活かせばいい。

 失敗やミスは、活かすことで資産になりますもったいないのは失敗やミスを怖れて行動しないことと、失敗やミスを犯したとき嘆くだけでプラスへ繋げないことです。
 

親が子供に与えられる一番大事なもの

 親が子供に与えられる一番大事なものは何でしょう?

 これがもらえた子供は最も幸せである、そういう親からのギフトとは何でしょう?

 教育でしょうか、栄養たっぷりの家庭料理でしょうか、何不自由ない豊かさでしょうか?

 私は心理的健康の根本となる3つの「心の栄養」だと考えています。

① 親が子供の存在を無条件で喜んでいること

 これは偽ることができません。親が心の底からその子が存在してくれていることを自分の喜びだと感じているなら、それは無条件の肯定として子供の潜在意識にしっかりと伝わります。

 その子は「私の存在は無条件で歓迎されている」「私が存在することは無条件で喜ばれている」と感じて生活します。

 これが、その子の自己肯定感の基礎となります。

 親が心底、その子の存在を喜べないとき、この無条件肯定という「心の栄養」を受けずにその子は育ちます。それでも生きていけますが、「心の満たされ方」は全く違います。

 女の子に対して「男の子だったら良かったのに」と言ったり、我が子に「あなたを産まなければ良かった」という思いを伝えることはもちろん、心の底でそのように思っているだけでも子供の潜在意識に深い傷を残します。

② 親が子供のニーズを守ってあげること

 子供の心理的ニーズは最初、親によって満たされなくてはなりません。自分では満たせないのです。共感や理解や尊重や安全や快適などのニーズが満たされると喜びが生まれ、満たされないと不快感や痛みが生まれます。

 親が子供の充足に積極的な関心をもち、利益をきちんと守ってあげる実践を積み重ねることで、子供は親と一緒にいて安心でき、満たされる喜びを味わいます。

 子供は親に対して「この人といると、私の利益は守られる。この人は私の幸福を願っている」という信頼を感じることができます。

 それに対して、親が子供のニーズを理解できないでニグレクトしたり、親が自分勝手に振る舞うことで子供が心理的に苦痛を感じても無頓着だったり、子供が喜ぶことを全くしてあげなかったりすると、この「基本的信頼」が育ちません。

 子供にとって最も重要な大人である親が自分の安全や利益を守ってくれず、苦痛を与える存在だという体験をすると、この子は社会全体に対して、生きること全体に対して、疑いの目で見るようになります。社会とは自分にとって危険な場所であると感じるようになるのです。他人の存在とは、基本的に怖れの対象となるのです。 

③ 親が子供の心と繋がってあげること

 子供は生まれたとき無力です。不満や苦痛があるとき、うまく表現できません。泣くしかできません。親が子供の心と繋がり、聞いてあげる存在であること。子供が不安なとき、悲しいとき、痛いとき、怖いとき、苦しいとき、ひとりぼっちにして放置しないで、温かい理解者として見捨てないこと。これがあると、子供は孤独ではなく、誰かが常に自分といてくれると感じます心の触れ合い、心の絆を感じて安心できます。

 逆に、子供が怖いとか苦しいとか寂しいときに、その気持ちに関心を寄せたり、共感的に寄り添ってあげられない親の場合、子供は自分の感情とひとりで向き合わなくてはなりません。子供は自分ひとりで自分の感情をうまく処理できませんので、マイナス感情を感じることと孤独とがセットになります。

 マイナス感情を感じることが脅威となります。こうやって感情を抑圧して、感じられない人間になっていきます。

 マイナス感情を感じたときに、温かく共感的に聞いてくれる存在がいることは、想像を絶するほど大きな贈り物です。「心の栄養」の3つ目なのです。 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 このように、親が子供に与えられる最も大事な贈り物は「無条件肯定」「保護」「共感的心の繋がり」の3つだと私は考えています。

 これは、恋人同士や夫婦間での愛情関係についても同じことが言えます。

 最も恵まれた人間関係というのは、この「3つの宝」が存在する関係です。

 お金や物質的豊かさ、食べ物や栄養、教育の質の高さなどは、「3つの宝」が欠けている親子関係で与えられても虚しい。子供は心理的に健康で幸福になれません。

 たとえ経済的には多少貧しくても、粗食であっても、高い教育を受けられなくても、「3つの宝」をすべてもらえた子供は、心理的に健康で幸福な人生を送れるだけの「情緒的資産」をたっぷり持っています。自分で自分の人生を切り開いていけるだけの「感情の力」を備えているのです。

 愛によって心が強く優しく育っている。それが何よりの親力だと思います。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 さて、これを読まれた方の中には、振り返ってみると自分は「3つの宝」をもらっていないと気づく方がいらっしゃるでしょう。また、親として我が子に「3つの宝」を与えられていないと自覚する方もいらっしゃるでしょう。

 そういう場合、何かできることはあるでしょうか?

 はい、あります。

 自分の中に欠けているものを自覚し、意識的に補っていくのです。

 「無条件肯定」が欠けていると気づいたら、親にもらえなかった「無条件肯定」を自分自身で与える訓練をするのです。大人になった今の自分が、「無条件肯定」を望んでいて得られなかった子供の自分(インナーチャイルド)に親に代わって与えてやるのです。

 これをすると涙が出てきます。

 親にもらえなかった「心の栄養」は、大人になった自分が自分に与えることができます。そして、自分で自分の子育てを継続するのです。心理的な子育てをです。

 「保護」が欠けていると気づいたら、これまた自分自身で自分を「保護」する習慣を身につけるのです。「保護」が欠けている人というのは、自分の利益を自分で守らず、他人に対してすぐ折れてしまったり、迎合したり、服従したりします。自分のニーズを満たす方向で選択したり行動したりすることに慣れていません。

 これも、子育てのやり直しをします。「あなたのニーズは大事なんだよ」と自分に言い聞かせて教えてあげるんです。親に接せられたかったように、自分で接してあげるのです。

 「共感的心の繋がり」が欠けていると気づいたら、自分がマイナス感情になるたびに、「どうしたの?」と聞いてあげる。「何が必要なの?」「どうして欲しい?」と聞いてあげる。自分の感情に寄り添って、自分の気持ちを切り捨てない。感情を拒絶しない。自分と繋がってあげる習慣を身につけるのです。

 このように、自分の欠損を補っていくと、だんだんと我が子に対しても、周囲の人間に対しても優しくなれる強い心になっていることに気づくでしょう。

 「心の栄養」は何歳になっても与えることができるのです。

 「心が育つためには何が必要か」ということを理解し、その通りに実践を重ねることが大事です。

 心は「無条件肯定」「ニーズの保護」「共感的繋がり」によって育ちます

 今日は「豊かな心」を育てるレシピをお伝えしました。
 

☆人間活動の「4つの層」

 人間を理解するときに、4つのレベルで捉えるといろんな問題が解きやすくなります。

 私はしばしば人間には「奥行き」があると実感してきました。表面から最も奥に至るまで、地層のような厚みがあるのです。

 その人の表層にあるものは、外から見えやすい。けれど、奥のほうにあるものは、見えにくいだけでなく、本人さえ気づいていないことも少なくありません。

 私がカウンセリングを通していろんな人の悩み苦しみを解くお手伝いをする際、「4つの層」のどこに問題があるのかを見極めるようにしています。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 表面から奥に向かって「第1層」「第2層」「第3層」「第4層」と名づけることにします。 

 「第1層」は行動、「第2層」は思考、「第3層」は感情と願望、「第4層」はニーズです。 

 私たちが自己充足的に動いているときには、「第4層」のニーズが「第3層」の願望へと姿を変え、「第2層」ではそれを叶えるような思考法を用いて「第1層」で積極的に行動をとることができます。

 「第4層」の動機を満たす方向に他のすべての層が協力するので、「4つの層」が1つの目的に向かって一丸となります。 

 ところが、「第1層」から「第3層」までのどこかに問題があると、自己充足ができません。そして、不満が蓄積していきます。これが慢性的になると、マイナス感情が深刻化していきます。「第3層」に膿が溜まったような状態になるのです。

 認知行動療法は「第1層」と「第2層」に取り組むものです。行動と思考をプラス化することで、自己充足ができるようにクライアントを導きます。

 しかし、多くの人は「第3層」にマイナス感情の蓄積を抱えています。よって「第3層」を主にターゲットとするセラピーが最も有益である場合もあるわけです。

 私は「4つの層」をすべて扱いますが、特に「第3層」と「第4層」といった深い領域を中心にセラピーをすることが多いです。

 多くの人にとって「第3層」と「第4層」は無意識であり、そこに問題の核心があることが少なくありません。ということで、私のカウンセリングでは、クライアントの意識を奥へ奥へと入っていって、「第3層」と「第4層」にあるものを明らかにしていく作業をします。

 「第3層」と「第4層」は心の最も深い領域で、地表から距離があります。深海に潜るような感じです。また、「第1層」と「第2層」のように形がはっきりと確認できる世界ではなく、より精妙で形がはっきりしない世界なので、慣れていない人にはチンプンカンプンかもしれません。

 私の仕事は、ある意味、コンシャスネス・ダイバー(意識のダイバー)のようなものです。意識の最も深いところを探検し、そこにあるものを識別し、問題があればそこで解く技術をもっているわけです。

 「第3層」には幼少期はもちろん、前世から持ち越した未解決の感情が蓄積されています。私たちの顕在意識での思考や行動は、そういった古い古い感情の蓄積によって影響を受けています。

 なので、プラス思考で何でも乗り切ろうという「第2層」のアプローチや、何でも行動で解決しようとする「第1層」のアプローチでは浅過ぎて解決できない場合には、問題の根っこがもっと深いところにあることを疑ってみるとよいでしょう。

 「第4層」は実は純粋なニーズの世界で、ここには問題はありません。ここは二元を超えた一元的な世界です。生命が自らを成就させようとする躍動そのものがあります。 

 「第4層」は意識の最奥にあり、ここを体験した人は、あらゆる形を超えた愛や平安や喜びを知ります。

 この躍動が二元に分かれてできるのが「第3層」で、ここで初めてニーズが満たされるプラスと満たされないマイナスに分かれます。満足と不満足を感じるのがこのレベルの感情であり、好き嫌いを含めた様々な情緒体験がここで起こります。

 私たちが普通「心」と言うとき、「第3層」での活動を指しています。喜怒哀楽や満足・不満足の世界です。あらゆる情緒障害はここで生じます。

 感情は1つ上の「思考」とも連結していますが、1つ下の「ニーズ」とも連結しています。

 感情の問題を解くには、認知療法のように「思考」からアプローチする方法もありますが、ニーズとの関連においてアプローチする、より深い方法も必要です。 

 「第3層」と「第4層」を知るには、その領域まで降りていって直接体験をしなくてはなりません。地表から眺めて推測しているだけでは分からないのです。

 多くの人は「第2層」で思考と分析を重ね、自分の問題について知的理解を深めるのですが、「第3層」へ降りていく術を知らないため、感情的問題から解放されないでいます。

 頭ですべての心理的問題を解くことはできません。理性的アプローチには限界があるのです。

 深い心理的問題については、自分の深みに触れて、体験と発見を通して意識変容をしなくては解けません。自分の深みにダイビングする実践をすることで初めて分かることがあるわけです。

 多くの人は意識の表面で生きています。感情に接触せずに生きている人もいます。ほぼ「第1層」と「第2層」だけに意識を向けている人たちです。自分や相手がどんな考え方をする人か、またどのような行動をとる人かだけに注目していて、感情などはどうでもいいと思っています。

 こういう人の多くは、目に見える具体的世界にしか興味がなく、人の内面には関心がありません。感情を意識したり、心の触れ合いを通した親密さを感じることには抵抗があります。

 しかし、人間は進化の過程であるとき1つのことを悟ります。それは、外界で起きていることは内界の映しだということです。内界に問題があるとき、外界をどれだけいじっても解決はしないことに気づくのです。こうやって、内面のパワーに目覚めていくのです。

 ある段階に来ると、外界に働きかけるだけでなく、深い問題については内面に取り組むことが最短距離であることが分かってきます。

 外界で起きているように見える苦しい出来事と、内面の開発や癒しとの関連を痛感していくのです。 

 そうやって、内面に取り組むことの価値を実感していきます。

 こういう人は「第3層」や「第4層」を実体験していき、自己実現のレベルを上げていきます。
 

タオルで部屋を浄化する

 私のところには様々な悩みを持った方たちが来られます。仕事柄、カウンセリングルームには絶望感や深い悲しみ、自己嫌悪に怒りなどのマイナス波動が集まってくるわけです。前の人が置いていったマイナス波動で次の人が苦しくなってしまっては困りますので、私はしょっちゅう部屋を浄化しています。

 これは、ボディーワーカーなどの仕事をしている人にも大事なことだろうと思います。 

 私は2012年1月に『部屋を浄化するさまざまな方法』という記事を書きました。そこに書かれた方法は今でも使い続けています。

 今日はとても簡単で誰にでもできる浄化法をお教えしましょう。必要なのはタオル1枚と水だけです。

 フェイスタオルを水につけて絞り、広げます。タオルの端を片手でもって、プロペラのようにビュンビュンと回します。部屋の空気がタオルにあたると、空気に浮いている汚い物がタオルに付着します。これは、タバコの煙や菌だけでなく、エクトプラズム(人から出た想念)もタオルに付着してきます。

 水は大変浄化力が強いです。テーブルなど部屋の水拭きできるところはすべて水拭きをすると部屋のエネルギーが浄化されます。

 普通、私たちは空気は水で洗浄できないだろうと思い込んでいるのですが、そんなことはありません。

 濡れたタオルを空気に触れさせることで、空気を洗浄できるのです。

 ビュンビュンとタオルをプロペラのように回しながら、部屋中を回ります。部屋の隅々の空気を動かすようなつもりで。

 一度やってみてください。と〜っても気持ちいいですよ。お勧め!

 マイナス感情で重たくなったと感じたら、ビュンビュンとタオルで浄化。タバコ臭かったら、ビュンビュンとタオルで浄化。花粉などが心配な人は、ビュンビュンとタオルで浄化。ホテルに泊まるときは、部屋に入ったらタオルで浄化。いろいろ使えます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 入浴やシャワーなどは、肉体的な汚れを落とすというだけでなく、エネルギー的にも浄化されるので大事です。

 神社に入るとき水でお清めをしますが、昔から水には浄化力があることは知られていました。 

 人と会ったあとでイヤな気分が抜けないときには特にしっかり入浴をする。入浴もシャワーもできないときには、濡れたタオルで体を拭くだけでも違います。

 体を拭けないときには、せめて手と顔を水かお湯で洗うとよいでしょう。足を拭くことで下から邪気を抜く方法もあります。

 体に触れられないときには、体の周囲の空気を濡れたタオルでさっと通すだけでもエネルギーが浄化されます。オーラの邪気を濡れたタオルで吸い取ると念じてください。

 あと、7つのチャクラを浄化するために水を使うこともできます。それぞれのチャクラの場所に手で水をパッパッと少しふりかけるのです。たとえば第7チャクラを浄化したいと思えば、頭頂に水を手でパッパッとふりかける。第5チャクラ(ハート)を浄化したいと思えば、胸に水を手でパッパッとふりかける。

 浄化法には火を使うもの、音を使うもの、光を使うもの、お香を使うものなどいろいろあります。私はすべてを組み合わせています。

 水は誰でもどこでも手に入るものなので、手軽です。知っておくと便利ですね。 
 

本当にやりたいことだけにYESと言う

(これは2011年6月に投稿した記事の復刻版です。)

 あなたは心の底から納得し、喜んでできることをもって他者に貢献していますか?それとも、本当はやりたくないけれど、やらないといろんな問題が起こることを恐れて、「仕方なく」他者に貢献しているほうが多いですか?あなたの人間関係でのやりとりは、本心から出る喜びに導かれたものと、義務感(「べき」「ねばならぬ」とか貸し借り)に根ざしたものとどちらが多いですか?

 世の中には、「好きなことだけやっていてはいけない」「嫌でもやらねばならぬことはある」という人生哲学が幅を利かせているようですが、私は敢えてそこに疑問を投げかけてみたいと思います。「自分が本当にやりたいことだけをやったらどうなるのだろうか?」「納得できないことはやらないようにしたらどうなるのだろうか?」

 実は、ここ20年ほど、私はこの実験をまさに生きてきました。その結果、自分が本当に何を望んでいるのか、そして宇宙はどういう原理で私たちを生かしているのか、ということについて若干の洞察を得ることができたと思っています。言いたいことはたくさんありますが、まず第1のポイントは、自分が本当に望んでいることに正直に向き合えば向き合うほど、自分を深く充足させる方法が見つかり、それが同時に自分を他者のために最大限に生かす方法でもあるということです。つまり、自分を抑えて他者のために尽くすという図式(つまり「私はあなたのために尽くしています」という生き方)は、共依存の要素が強く、両者の成長を制限する危険があるということです。

 本当にその人が必要としていることが明白で、そこに喜んで貢献したいとこちらが思う場合、葛藤はありません。こちらは喜んで何かをして差し上げ、相手に喜んで頂く。そこに後腐れがありません。しかし、世の中には、相手が望んでいることの背後にある本当の動機が見えなかったり、明らかに動機をよく思えない場合があります。そういう時に相手のリクエストにYESと言ってしまう自分がいるとすれば、それはなぜなのか、よく考えてみることには価値があると思います。やりたくないことにYESと言ってしまうとすれば、それはYESと言うことによって何か別のものを手に入れようとしているのです。別の欲求を満たす手段としてYESと言っている訳です。YESと言うことで仕事つまり収入を確保しようとしているなら、経済的見返りを得るためにYESと言っているということです。それは良いとも悪いとも言えません。あなたがそれに納得しているなら、それは問題でも悩みでもありません。経済的見返りのために、やりたくないことをやってはいけないという規則はありません。ただ、そういう行動パターンを脱出して、もっと自分の本心を大事にした生き方をしたいと思うなら、そういう段階に進む選択肢もあるということです。

 やりたくないことにYESと言うことによって得なことはたくさんあります。なぜなら、相手にYESと言うことは、相手の期待や望みに応えますということですから、それで喜ぶ人はたくさんいるからです。生きる上で誰も避けて通れないのは、自分の欲求と相手の欲求の交渉をすること、つまりバランスを取ることです。

 自分の欲求にNOと言い、相手の欲求にYESと言う人は、社会で喜ばれます。協調性があると評価されます。しかし、この生き方が行きすぎると、自分が何を望んでいるのか分からないことになってしまいます。つまり、自分を見失うということです。こういう生き方をしている人は少なくありません。自分を愛することを知らないのです。自分が必要なものを自分で認め与えてあげるという基本的なことができていないと、自分に自信もつきませんし、自分の中にあるパワーも相手に手放してしまって、自己実現もしにくくなります。

 自分が望んでいる領域で人に尽くすことは自分に喜びをもたらしますので問題ありません。自分が望んでいる以上に相手に与えると、怒りや愚痴が出てきます。こういう時は要注意です。あなたは、自分に正直に行動していないのです。自分は1000円なら貸していいと思っているなら、2000円貸してはなりません。2000円貸してしまって愚痴を言うとしたら、自分が自分を怒らせていることになります。もうこの辺で電話を切りたいけど、相手の長話をずっと嫌々聞いているとしたら、ストップしないあなたが自分を守っていないことになります。自分を傷つけているのです。暴力を振るう人から自分を遠ざけない人は、自分に暴力を振るっているのと同じです。ここまでならOK、ここを超えたらNOですよ、という境界線をきちんと持っていることは、精神衛生のためにとても重要なことです。エンドレスに人に与えなくてはならないと思っていて、NOと言うことに罪悪感を感じる人は、心理的に問題ありです。

自分の独善性と自己中心性に気づく

 誰にでもある程度の独善性と自己中心性があるものです。それが極めて強い人をナルシシストと呼びますが、ナルシシズムは白か黒かではなく、誰でも0から100までのスケールのどこかにいるわけです。

 私にも自分自身の自己中心性に気づいて愕然とした経験が何度もあります。たとえば、私は他人が自分に関心をもってくれないことに不満を感じていた時代がありましたが、あるとき、自分こそ他人に関心を向けていないという事実が見えてきました。

 私は他人に肯定的関心を向けていないと気づいた瞬間、等身大の自分がはっきりと見え愕然としたのですが、同時に不思議な感覚が芽生えました。「他人を分かりたい」という温かい気持ちが湧いてきたのです。

 他人に関心がないと気づいて認めた瞬間、他人への関心が芽生えたのです。

 このとき以来、私の中では「自分とは異なる他人」というものへの関心が広がり、彼らの気持ちや立場や視点をとにかく聞きたいという姿勢ができていきました。 

 自分の中の自己中心性をちょっぴり克服したプロセスだったと思います。 

 それから、私は30代のころ、いろいろと社会を良くすると思うものを広めたいと活動をしていました。ニュースレターを作って配ったり、人にアドバイスをしたりしていました。

 私は社会に必要なものを理解していると思っていました。そして、その私の考えに抵抗を示す人たちに敵意をもちました。そういった衝突を何度も繰り返したある日、私こそ自分と違う価値観の相手を受け入れていないことに気づいたのです。何てこった!

 私は自分が独善的に行動していたことに気づきました。とてもショックでした。

 それからは、自分が広めようとしている価値というものを理解しない人も受け入れるようになりました。人それぞれが、その人に合った価値観や世界観というものを持っていて、私と必ずしも同じではないことを受け入れたのです。

 これは私自身の中にあった独善性をちょっぴり乗り越えた体験でした。 

 こういった体験は私に限らず、人間ならば誰にでもある程度あるのではないかと思います。

 精神的に成熟する過程では、前の段階の狭さが見える瞬間というものがあります。自分の無知や自己中心性がまざまざと見えてくる。それは気持ちよい経験ではないかもしれませんが、確かに成長している証でもあるのです。 

 自分の独善性や自己中心性に気づいて自覚できるということは、実は素晴らしいことです。無自覚のままでいると成長できませんが、自覚できるということは、もうある程度、脱同一化が起こり始めているということです。

 独善性や自己中心性を客観視できるということは、意識がそれだけ広がっているということです。

 本日のテレフォン人生相談では、結婚して1年という43歳の男性が相談者です。妻が赤ちゃんを連れて実家に帰ってしまった。どうしたら元に戻れるかという内容です。この相談者は自分の独善性と自己中心性を素直に認めて前に進もうとされています。多くの人の手本になるようなやりとりです。
http://tel-soudan.com/yomeshuto-problem-katou-oohara-160914/ 
 

HIGHER PURPOSE

 人と人が出会うとき、そこに偶然というものはありません。何らかの必然があって出会います。会う必要が互いにあるのです。

 たとえマイナスだと思われるような関係であっても、その関係を通して互いに学ぶことや癒すことがあるのです。

 そして、その学びや癒しの目的が達成されれば、その関係は役立ったと言えます。 

 私のところに来られるクライアントさんひとりひとりも、私との間で達成されるべき目的というものがあります。ご本人はそれを自覚しているかも自覚していないかもしれません。

 また、私にもその出会いを通して達成すべき目的をもっています。

 この目的は高次元のもの(魂のもの)なので、ハイアー・パーパスと呼ばれます。この高次元の目的は、この世的な理解ではなかなか分からないこともあります。

 たとえば、1歳でこの世を去ってしまった子供であっても、1年間この世にやってきた目的、また1歳で亡くなることによって周囲の人間に与える影響を含め、高次元の目的というものがあります。

 目的なく生まれてくる魂というものはありません。

 クライアントさんが来られたとき、カウンセリングを受ける目的を伺いますが、ご本人が意識されている目的はしばしば魂が望んでいる本当の目的とずれていることがあります。 

 そういうとき、クライアントさんの言う通りの目的でカウンセリングを進めてしまうと、双方とも何か釈然としない不満を残すことになります。それに対して、ハイアー・パーパスを達成できたときには、「ああ、このために出会ったのだなあ」という充実感が湧いてきます。

 さて、皆さんがマイナス体験(不幸と言われる体験)をしているとき、心を静めてハイアー・セルフに次のように尋ねて、完全に受身になって静かに答えを待っていると、洞察が得られるかもしれません。

「私にとってこの体験を経ることにはどのようなプラスの意味があるのか?」

 リストラに遭うとか、離婚をするとか、人に騙される。大事な人に先立たれる。そのような体験においても、魂にとっては経験する中で得られるものが必ずあります。 

 その体験に潜むプラスの価値を本当に知りたいというオープンさが持てるならば、答えは与えられるでしょう。

 誰でも意志さえあれば、高次元の意識にアクセスできます。慣れない人は練習が必要かもしれませんが、能力のない人は基本的に存在しません。

 自分はできないという思い込みや恐怖心を捨てて、気楽な気持ちでやってみるとだんだんと上手にできるようになります。

 すべての魂は、この世に来て何かを「体験したい」「創造したい」「癒したい」という根本動機をもっています。

 今世で「体験したい」と思っていることが体験できて、「創造したい」と思っていることが創造できて、「癒したい」と思っていることが癒せたら、「ああ、私は充実した人生を送った」と思ってこの世を去ることができます。

 人によってこの3つのカリキュラムは異なります。

 ある人の「体験したいこと」の中には、親のいない孤児としての人生を生きたいというものが含まれていることがあります。外から見たら不幸にしか映らないかもしれませんが、魂の視点からすると、体験価値の高いものだと映っているのです。

 また、ある人の「体験したいこと」の中には、血の繋がらない子供を養子として育てたいというものが含まれることがあります。血縁を超えた愛を味わうことは、魂にとって大きな喜びとなるのです。

 「創造したい」の中には、新しい価値観の社会を作りたいというものが含まれているかもしれません。たとえば、前世では女性として社会で活躍できずに亡くなった。すると、女性でも活躍できる社会を創りたいという情熱は人一倍強いんですね。そうすると、こういう人は女性への差別を撤廃するような仕組みを作ったり、男女平等の職場を作るために発言をしたりすると、魂の目的が達成されて深い充実感を味わうわけです。

 また、魂によっては前世で途中で終わってしまった仕事の続きをやりに生まれてくる場合もあります。同じプロジェクトを継続して成就させようという情熱をもってくるわけです。場合によっては、創造活動というのは一生を超えて続くのです。 

 たとえば、音楽家が次に生まれてもまた音楽家になることがあります。

 さて、3番目の目的の「癒すこと」にも大変深い意味があります。

 私たちは皆、何度も輪廻を重ねてきた存在であって長い長い過去というものを持っています。そこには、傷つけたり傷つけられたりといった体験もたくさんありますし、逆に助けたり助けられたりという体験もあります。その中で、癒されないで残っている傷とか、自分を許していないなどの未解決の問題があるわけです。

 そうすると、「今度の人生ではこれを癒したいな」「これを乗り越えたいな」という目標をもってくるんですね。

 たとえば、人に厳しかった前世ばかりの人は、「今回は人を許す心を育てよう」と思ったりするわけです。あるいは、自分を裁いて許せなかった前世の人は、「自分というものを受け入れるようになりたい」と思って生まれてくる。「自己嫌悪から自分を解放しよう」というゴールを設定してくるんです。

 あるいは、前世では頑固親爺で、妻や子供たちを思い通りに支配して、相手の気持ちを全く聞かなかったという魂は、今世では勉強のために、反対に支配される妻としての体験を望んだりするんです。

 そうすると、端から見ていると「まあ、頑固な旦那さんをもった可哀想な奥さん」としか見えないかもしれない。けれど、この奥さんは前世で頑固親爺をたっぷりやってきているんですね。そして、魂的には支配されることがどれほど苦しいかを味わうことで大きく成長しているんです。

 だから、支配することを是認するわけではありませんが、魂によってはわざとそういう体験を教育カリキュラムとして選んできているんです。支配する側と支配される側の両方を味わうことで、双方の気持ちが分かる人へと成長していくとすれば、大変貴重な体験だということになります。

 今世で支配される辛さを味わうことで、前世で他者を支配してきたという偏りを癒して、よりバランスのとれた魂になっていくんですね。

 また、前世で自分を否定した人は、自己否定という傷を今世で癒そうと決心して生まれてくるかもしれません。すると、若い時期にあらゆる自己否定というものを味わうんです。自分なんて嫌いだというわけです。いじめを受けるかもしれない。虐げられるかもしれない。

 自己否定の辛さをイヤというほど味わうと、反対に自己肯定を求めたくなりますね。なんとか肯定したいという気持ちが強くなる。そうして、自己否定を癒していく旅をするんです。この人が70年生きたとして、その70年の間に自己否定を半分でも減らせて、自己肯定を育めたとしたなら、魂の目的としては上出来です。

 人によって「癒したいこと」は違います。しかし、自分が生まれてくるときに「癒したい」と思ってきたものは、必ず人生の過程で表面化してきます。自分の悩み苦しみとして出てきます。そして、自分の人生の問題に直面して、取り組むことで、その目的が達成されるようになっているのです。

 魂が成就したいカリキュラムは神秘的で不明瞭なものではなく、日常生活の中で具体的問題として現れてくるものなのです。

 ですから、日常生活に向き合い、そこで出てくる悩みや問題に直面し解いていくことで、誰でも魂の望む方向に成長していけるようになっているのです。

 日常生活の課題の中に、ハイアー・パーパスが潜んでいるのです。
 

相手が望む援助だけをする

 私たちは相手に援助や愛やアドバイスを与えるとき、「相手が必要としていると自分が思うもの」を与えようとします。

 つまり、「私たちが与えたいものを与えようとする」のです。

 ところが、受け取る相手からすると、それは迷惑なことかもしれません。相手はそんなものを望んでいないということが往々にしてある。

 こういうときに、相手が欲していない援助は控えるのが原則です。相手がノーと言っている援助やアドバイスや愛について、「断る相手が間違っている」と解釈し、与えることを止めないならば、それは迷惑行為と言ってよい。

 「私はあなたが必要としていることをあなたよりよく理解している。あなたは分かっていないのだ」と主張するこの人は、全く自己中心的な人なのです。お節介や干渉は、どちらもナルシシズムの症状だと言えましょう。

 困っている人は、自分が受け取る援助を選択することができます。援助を断る自由だってあります。

 その人が何を取捨選択するかは、その人が自分で決めるべきことです。それが万人に備わった自律の欲求であり、自己決定の尊厳だと言えましょう。

 相手が断っているものを与えようとする人には、この根本的な尊厳への理解がありません。

 時には、相手にとって最も有益な援助は、その人を信頼して放っておくことなのです。

 ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」に、次のような件があります。 

     Never offer the kind of help that disempowers.  Never insist on offering the help you think is needed.  Let the person or people in need know all that you have to give--then listen to what they want; see what they are ready to receive.

     Offer the help that is wanted.  Often, the person or people will say, or exhibit by their behavior, that they just want to be left
alone.  Despite what you think you'd like to give, leaving them
alone might be the Highest Gift you can then offer.

     If, at a later time, something else is wanted or desired, you will be caused to notice if it is yours to give.  If it is, then give it.

     Yet strive to give nothing which disempowers.  That which
disempowers is that which promotes or produces dependency.

     In truth, there is always some way you can help others which
also empowers them.

   Neale Donald Walsch, Conversations with God, Book 2, p. 178.

 相手の力を奪うような援助の仕方は絶対にしないことです。必要とされていると自分が思った援助を与えねばならないと言い張らないことです。ニーズをもった相手にあなたが与えられるものを知らせて、相手が何を欲しがるかに耳を傾けるのです。彼らが受け取りたいと思うものを見るのです。

 相手に望まれる援助を差し出しなさい。しばしば相手は言葉で、あるいは態度で、放っておいて欲しいという気持ちを表明します。そういうときは、あなたが何を与えたいかに関わらず、放っておくことが最高の贈り物かもしれません。

 もしも後になって、他の援助が望まれているとなったら、それがあなたの与えられるものかどうかに気づくでしょう。もし与えられるものであれば、与えなさい。

 しかし、相手の力を奪うようなものは与えないようにしなさい。力を奪うものとは、相手の依存心を助長するものです。

 実際には、相手の力を尊重する援助は、どのような時でも可能です。

 ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』第2巻、178ページ 
 (英語版) 

 相手の尊厳を傷つける援助、相手を自分に依存させるような援助、相手の自己決定の自由を阻害するような援助は、是非とも控えたいものです。

 でないと、援助は自己満足にしかなりません。

 独りよがりではない援助を提供するには、相手への真の尊重が根底になくてはならないのです。
 

自分の限界を認めることも成熟

 成熟した人は、何でもできる訳ではありません。何でも知っている訳ではありません。限界がなく、無限に与えられる人ではありません。

 成熟した人とは、自分の器を知って、その限界を偽らない人なのです。

 「この病気は自分では治療できない」と認めて他の医者を紹介できる医者。これが成熟した人です。自分の器を超えているのに、超えていることに気づいていない、あるいは超えていないと強がっている医者。これが未熟な人です。

 「私はヴィジョンを持っているが、マーケティングは苦手だ」と認めて、苦手な分野は人に任せられる社長。これが成熟した人です。自分ができないことまでできるように錯覚して、何でも自分でやってしまおうとする人。これが未熟な人です。

 未熟な人は、理想や絶対的物差しを自分に課して、あっぷあっぷしている。完璧主義的になって、満点でない自分を認めることができないし、他人も認めることができない。

 自分の限界を知るから、自分の良さも認められる。そして、自分の持っていない良さを持つ他人を尊敬できる。あるがままの自分を見ているから、あるがままの他人も見える。

 限界を知るとは卑下することとは違う。自分の本質を正しく理解するということ。

 限界をよしとするから、持っているものが活かされる。限界のないものなど本当はない。限界を認めないとは、それを理解しないことに等しい。

 繊細な人は鈍感な人と同じ生き方はできない。双方に良さと限界がある。そして、どちらも社会に必要とされている。互いに相手の任は担えない。

 自分の限界は自分の良さでもある。それを知ることが自分を活かせることである。そして、相手の良さを尊ぶことができることにもなる。

 成熟した人は、実際の自分を生きようとする。そして、実際の相手を知りたいと思う。実際を大事にできるのが成熟であり、未熟な人ほど現実を無視した物差しを用いる。
 

「思考」「態度」「行動」のパターンを吟味する

 人間の苦悩のかなりの部分は、自分自身の誤った選択に基づいています。

 これは、言い換えると、自分の選択を変えれば苦悩のかなりの部分が解けるということでもあります。

 「この苦しみは甘んじて受けるしかないのだ」という結論を導き出す前に、「私の中に自分を苦しめるような『思考』『態度』『行動』のパターンはないだろうか?」と問うてみることには大きな価値があります。

 多くの人間は、故意に自分を苦しめたいと思っているわけではないけれど、無知から自分を苦しめるような「思考」「態度」「行動」を選んでしまっています。それらが苦しみを生むことを知らないで、無自覚の状態で選択をするのです。

 毒だと知らないで、毒を飲んでしまう感じなのです。

 自分に毒となる「思考」「態度」「行動」を選んで、その結果として自分が苦しんでしまう。しかし、そこには無罪性があります。智慧がないだけなのです。

 人間が自分自身の苦しみを解こうとして自分に向き合うとき、無自覚の選択に対して意識をするというプロセスになります。

 毒となる「思考」を1つ見つけては、それを手放す。この意識的な取り組みは、ちょうど未開の土地を開墾していくような作業です。 

 自分の意識を開拓していくとは、このような地道な作業の積み重ねです。 

 無自覚なものに意識が入ると、そこに智慧が生まれます。そして、その智慧がその人を苦しみから解放します。 

 問題がなかなか解けなくて膠着状態にあるとき、解けなくしている「思考」「態度」「行動」のパターンが自分の中にないだろうかと吟味してみることをお勧めします。 

 多くの場合、私たちには「当たり前である」と思って当然視している「思考」「態度」「行動」があります。「これ以外にはない」と思い込んでいて、他の選択肢を認めていない。絶対的な物差しになってしまっている。

 こういったものを「私はこれを絶対的なものとして掴んでいるのだ」と気づいて認めることができると、意識はものすごく進化します。

 「これを絶対視しているのは自分自身である」と認めるということは、「これを採用し続けるも、捨てるも私次第である」と選択のパワーを自分に認めるということに他なりません。

 これを採用し続けるも自分の自由なら、捨てるのも自分の自由だという視点に立つ。

 そうすると、選択した結果への責任は自分で引き受けるしかありません。他の誰かのせいにはできないのです。

 何かを意識的に選ぶことで生じるすべての結果を引き受ける覚悟であるならば、誰もその選択に文句は言えません。あなたがすべてを理解した上で選択したのですから。

 問うべきは「自分が自分自身の選択に満足か?」ということのみです。

 満足ならば、あなたには問題は一切ない。文句も出ない。すべて受け入れているのですから。その場合、苦しみはないはずです。苦しみとは「受け入れられない」と感じることであり、別の言い方をすれば拒絶であり抵抗なのです。 

 精神的に未熟であるとは、自分自身の選択に満足できないということです。精神的に成熟しているとは、自分自身の選択に満足できるということです。

 自分が自分を苦しめる選択をしておいて、それに責任をとれない。それが未熟さです。自分自身を引き受けられないということなのです。

 納得できないなら、納得できる選択に自らを導いてあげる。それをひとつひとつ積み重ねていくことで、自分は自分を幸せにできるのだ、自分は自分を救えるのだ、自分は自分を守れるのだ、自分は自分の最良の理解者たれるのだという自信がついていきます。自分というものを信じることができるのです。
 

「楽しい」「好き」「満たされる」が分からない人

 私はことあるごとに、自分の感情に触れていることの大切さについて語るのですが、なぜかと言うと、人間にとって「自分であること」とか「自分が分かるということ」とか「自分である幸せを感じながら生きること」は基本的に感情次元のことだからなんです。

 幸せというのは観念の中にはありません。幸せというのは必ず感情としての体験なんです。喜びとか充足感とか安らかさというのは、すべて感情的体験であるわけです。

 なので、感情が健やかであるということが、自己実現においても、幸福な人生を送るにしても、最も重要なことだと考えています。

 頭は良いに越したことはないけれど、頭が良いということと幸せとは必ずしも一致しない。頭が多少悪くても、心が健やかで幸せだということはいくらでもある。そして、頭がとっても良いけれど、心は不幸であるということも珍しくない。

 ということは、人間が幸せに生きていこうとするときに、最も大事なのは頭の良さではありません。自分の感情というものに真っすぐであるかどうかということが危機的な重要性をもってきます。 

 さて、自分というものを知ることは、知的理解、観念的理解ではないんですね。自分というものは頭で把握する部分ももちろんありますが、頭は自分自身という存在を作り出すわけではありません。

 考える前に、感じるままの自分というものがあるんです。

 そして、もっと言いますと、感情というものの奥に欲求という生命エネルギーが動いています。その人その人が満たされるものがどうやって分かるかというと、感情反応によってです。スポーツが好きな人は、スポーツをやっていると感情が生き生きしてくる。私みたいにスポーツが嫌いな人は、スポーツをするとイヤになってくる。

 私たちが「自分はこういう人間なんだなあ」と分かる根本は何かというと、自分の感情反応なんです。つまり、自分の好き嫌いの反応、自然に興味が湧く対象といったものは、自分が何によって満たされる存在なのかを明らかに示してくれています。

 自分の欲求が満たされたときプラスの感情が生じ、「私はこれが好きなんだ」「私はこれによって満たされるんだ」ということが体感として分かります。また、自分の欲求に反したことが起こるとマイナス感情が生じ、「私はこれがイヤなんだ」「私はこういうことによって欲求が阻害されるんだ」と実感します。

 このようにして、「その人らしさ」はまず第一に、その人の欲求の反応に現れます。ですから、その人の欲求の反応を大事に扱うということが、その個性を大事にすることに等しいと私は考えています。

 さて、「自分の感じ方」つまり「欲求の動き」をそのままで受容し肯定して生きている人は、自分であることが心地よいと感じます。

 ところが、「自分の感じ方」は間違っていると感じている人、つまり「欲求の動き」を否定している人は、自分であることが心地よくありません。こういう人は、自分の感情を素直に受け入れることができません。

 本当は淋しくて心の通い合いが欲しいのに、淋しいと感じる自分はいけないとか間違っていると思ってしまう。これは自分の個性を否定して生きているのです。

 広範囲で「自分の感じ方」を否定してきた人には、ある症状が現れます。それは、「楽しい」「好き」「満たされる」という感覚がないということです。深い感情反応というものが実感できません。 

 こういう人は、「自分の感じ方」を全面的に否定され、親の喜ぶように存在することを期待された子供時代をもつ人に多く見受けられます。

 自分が満たされる満たされないという軸で物事を決めることができません。そういう風に生きてきていないのです。そして、親に認められたい一心で、親の期待に沿うようにします。

 ひと言で言うと、この人は「自己喪失」の状態にあります。

 けれども、立ち直れないわけではありません。奥に埋もれているかもしれませんが、本当の自分というものは決して失われてはいません。

 日常生活の中で、ちょっとでもいいので、自分の本当の感情が動いたときに気づく練習をするのです。

 それはプラス反応でもマイナス反応でも構いません。満たされたときにプラス感情が生じ、満たされないときにマイナス感情が生じますが、これらは1つの同じ欲求の動きに他なりません。プラスの実感があってもマイナスの実感があっても、欲求が生きている躍動には違いないのです。

 つまり、「うわ、これまずい!」とはっきり感じられる人は、「これすごく美味しい!」とはっきり感じられるということです。

 欲求の働きが強い人は、美味しい・まずいという反応がはっきり出ます。欲求の働きが弱い人は、美味しいとまずいの違いがないんです。何を食べても同じ。生命力が弱い状態とは、満足と不満に違いがないわけなんです。

 好きと嫌いがはっきり出る人も、生命力が強い。

 この仕事は楽しい、この仕事はつまらないという違いがはっきり出る人も、生命力が強い。

 こういうのは絶対イヤだという明確な反応がある人こそ、こういう生き方をしたい、こういう仕事がしたい、こういう場所に行きたい、こういう人と結婚したいという気持ちが明確にあるということです。

 プラスとマイナスがはっきりすることは決して悪いことではなく、むしろ自分という生命が進みたい方向が明確に出ているということですから、生命力が強いことを意味しています。

 ということは、「楽しい」「好き」「満たされる」という実感がはっきりある人ほど、自分として実現ができているということです。

 そして、そういった実感の薄い人は、自分らしくあることを何らかの理由で抑えて来ざるを得なかったため、生命力が出し辛い状況にあるわけです。

 それを取り戻すためには、小さいところから、自分らしい反応というものを認めて、「ああ、これが自分の反応なんだ」という風に肯定してあげることを積み重ねる必要があります。

 ちょっとでも美味しいと感じたら、「ああ、僕はこれを美味しいと感じる人間なんだなあ」と認めてあげる。景色を見て美しいと思ったら、「ああ、私はこういう景色を美しいと感じる人間なんだなあ」と認めてあげる。

 感じたままの自分をこうやって無条件に認めてあげると、即、ある種の反応が内面に起きてきます。

 認めてあげた瞬間、心が喜ぶんです。そして、感情が活性化されて元気になるのが心身の現実の中で確かめられるはずです。

 感じるままが肯定されるということ自体、自分の生命力をアップすることになるんです。そうやって、感情が元気になると、どんどん自分らしい素直な反応が出てきます。

 こうやって、だんだんと素の自然のあるがままの自分として生活できている範囲が広がっていきます。

 本日のテレフォン人生相談では、「楽しい」「好き」「満たされる」という実感のない54歳男性が相談者です。十数回の恋愛を重ねて来たけれど、だいたい「しつこい」と言われて関係が壊れてしまう。どうしたらいいだろうかという内容です。
http://tel-soudan.com/insistent-katou-oohara-160907/ 
 

本当であっても言わない方がいいこともある

 本当であれば何でも口にしてよい訳ではありません。

 何のために口にするのかをよく考えてみると、本当のことであってもあえて言わないでおくほうが相手と自分のためには良いということもあります。

 私は子供のころある親しい大人との間でイヤな体験をしました。その人は誰かが私の悪口や批判を言うと、それを私に伝えたのです。私はとても傷つきました。

 「あの人があなたのことを◯◯と言ってたよ」なんて、なぜわざわざ伝えるのでしょう?

 私はこのことを何度も何度も考えてみました。

 私があなたの悪口や批判をどこかで聞いたら、私はあなたにそれを伝えようとは思いません。あなたを不快にする必要性などないからです。

 仮に、誰かがあなたの批判をしているのを聞いて、私がそれに同意するのであれば、私自身の批判としてあなたに伝えるほうがスッキリします。つまり、批判をあなたに伝えたいという自分の主体的動機があれば伝えてもいいと思います。

 でも、私が聞いたあなたへの批判が当たらないと感じたなら、放っておきます。わざわざあなたに伝えることで誰も得をしません。

 誰かがあなたのことを良く思っていないとして、そのことをあなたに伝えなければ、あなたに困った事が起きると思うならば、あなたを守るために「あの人はあなたのことをこんな風に思っているから注意してね」と伝えるかもしれません。この場合は、あなたを大事にしたいから伝えるわけです。

 こういったポジティブな理由がないのに、聞いたからただ伝えるというのは感心しません。

 批判をした人は、本人に伝わると思っていないかもしれません。秘密を守ることを期待して打ち明けているかもしれません。それなのに、本人に伝えるということは、その人との間の信頼関係も崩します。誰にとっても良いことはありません。

 ですから、私は又聞きしたことや噂は、本人には決して伝言しないことに決めています。

 もう1つ、私が20年ほど教師をしていたころのお話です。教師も人間ですので、すべての生徒を等しく好きになることはなかなか難しい。やはり相性の良い生徒と悪い生徒はどうしてもいるものです。

 しかし、20人や30人のクラスを教えるとき、自分の好き嫌いを前面に出してしまうと、生徒たちが学ぶのをうまくサポートできません。ですから、私の考えでは、教師は生徒の好き嫌いをある程度隠しておくべきだと思います。

 内心では好きだと感じる生徒であっても、嫌いだと感じる生徒であっても、等しく学べるように、そういった私情はあまり出さないで距離を保つほうがよい。

 ある意味、嫌いな生徒であっても、その生徒が学ぶことを大事にしてあげるわけです。嫌いな生徒であっても、愛することはできると思います。

 それは、嫌いな部分があることを胸に秘めておくことによってです。本人に悟られないように隠しておくのも愛なのです。

 教師をしていると、生徒がとても初歩的で可愛い間違いを犯したりすることに出会います。そのとき、「あははは」と笑いたくなるんですが、私はそれをこらえるんです。その生徒の未熟さを笑いたくなる感情が湧きますが、それをそのまま出すと生徒は傷つくかもしれません。笑いものにされたと思ってイヤな気持ちになるかもしれません。私はそれを望まないので、可笑しくないという感情を装います。それは、生徒への尊重なのです。

 可笑しければ笑えばいいと私は思いません。それが相手にどんなインパクトを与えるかを考えて、時には笑わないことが相手への愛を表すことであるということもあるのです。

 私は正直さをたいへん大事にする人間ではありますが、何でも感じたままを口に出したり顔に出したりするのがベストだとは思っていません。

 相手にどう思われるかが怖いから気持ちを隠すというのとは違って、相手への尊重や愛から、本当の気持ちを胸に秘めておくのが良い場合があるのです。

 本当のことであっても、それを口にする以上、顔に出す以上、それが何の目的のためにされるのか、そして相手にどのようなインパクトを与えるのかを考えることはとても大事だと思います。
 

「許し」について

 人間は傷つけられると、相手を許せないと感じて恨んでしまうことがあります。

 私もそういうことが何度もありました。

 でも、恨んでいてもポジティブなものを生み出すわけではないし、恨む本人を苦しめます。

 なので、自分を恨みから解放してあげるほうがいい。そうすると安らかになれます。

 私は何度も自分を恨みから解放してあげて、スッキリしたことがあります。

 その体験から学んだことを、今日は書いてみようと思います。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「許せない」から「許しても大丈夫」へ

 「許せない」と掴んでいることを「許してしまう」。

 「恨まないと私は大丈夫じゃない」から「恨まなくても私は大丈夫だ」に移行する。

 これを「許しのワーク」と呼ぶことにいたします。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

なぜ人は恨むのか

 自分が被害に遭ったと感じたとき、加害者に恨みをもつ。これは、加害者に仕返しをし、「自分がどれだけ苦しんだかを思い知らせてやりたい」という感情です。

 一方的に傷ついたままでは気が済みません。相手も自分と同じような目に遭って苦しめば許せると信じているのです。

 ここで私は考えました。なぜ人間は加害者を苦しめたいのだろうかと。それは、自分が苦しんだことを相手に分かって欲しいからだと思います。

 傷ついた私たちが本当に欲しているのは、相手の苦しみではなく(それは単に手段であり目的ではない)、自分の痛みに対する相手からの共感なのです。

 その証拠に、相手が同じ目に遭わないとしても、相手が自らの行動を本当に後悔してくれたら、自分が傷ついたことを悲しんでくれたら、相手への恨みは消えることが多い。気が済むことが多い。

 そのとき、被害者は「怒り」という感情から、「悲しみ」へと移行することができます。「悲しみ」とは島野隆氏が言うように「癒されるときに生じる感情」です。「心を修復するときに現れる感情」です。

心の傷は「怒り」を手放し「悲しむ」ことで癒されていく

 心に傷を負ったとき、「悲しみ」が働くままに任せておくことができれば、傷は治っていきます。

 心に傷が生じた瞬間に「悲しみ」だけになれれば、すぐに癒しのプロセスが始まります。けれど、多くの人は「悲しみ」を抑えて「怒り」を選択します。自分が癒されることを後回しにして、相手が苦しむことを、あるいは相手が自分の傷に共感することを優先的に要求するのです。

 相手の「苦しみ」あるいは「共感」が得られるまでは、自分の傷を癒すことを拒絶してしまうのです。

 「恨む」ことは「治ることの拒絶」なのです。

 「怒り」を捨てて相手の「苦しみ」も「共感」もいらないと決断したとき、即座に「悲しみ」のプロセスへと移行でき、その瞬間から心の傷は回復に向かうことができます。

「許しのワーク」とは「自分を元気にすることを優先すること」
 
 多くの人は、自分が苦しいのは相手の苦しみや共感が得られないままだからだと勘違いします。相手に仕返しができたら自分は楽になるとか、相手が謝ったら自分が楽になると信じています。そして、自分が平安になるために、一生懸命相手から苦しみか共感を要求し続けるのです。そして、それが得られない間、心を動揺させ、苦しみ続けます。

 しかし、自分が苦しいのは加害者から苦しみや共感が得られないからではありません。自分の心の傷が癒されるために最も必要なこと、つまり「悲しむこと」を自分に禁じているからなのです。

 相手が同じように苦しんだらそれから「怒り」を手放すという発想をするのではなく、相手が謝って共感を示したらそれから「怒り」を手放すという発想をするのではなく、今すぐに自分が癒されることを最優先すればいいのです。そうすれば、心の傷が癒され平安になります。

 この方法だと、苦しい体験から来るマイナス感情からも最速で自由になれますし、相手を恨むことに付随する苦しみからも解放されます。そして、冷静になって自分が通った体験から学んだことを意識することさえ可能になります。

 心が回復してから、相手にはどう接するかを考えればいい。遅くはない。

 自分が苦しみ続けているときに相手と接すると良い結果は出ません。心のバランスを失っていて感情的になってしまうからです。

 なので、相手にはまず何も求めず、ひたすら自分の心を元気にすることに集中するのです。

 「怒り」を捨て、「悲しみ」とともに傷に寄り添うのです。

 「許し」とは、相手から何かが得られる前に、自分自身の愛で自分の傷に寄り添い、傷が必要としている共感的愛を自らが与えてあげることです。

 「怒り」はそれを妨げます。ですから、「怒り」は横へ置いておいて、「癒しの悲しみ」を大事にするのです。


アクセスカウンター

    アクセスして頂いたページ数(PV)です。

    QRコード
    QRコード