菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2017年01月

自己否定の根底にある自罰思想

 私は多くの人の心の中を見せてもらって、「自分を裁いている」「自分を嫌っている」「自分を否定している」「自分を罰している」という現象に度々出会います。

 自信がない、自己否定感が強いという人の中で、誰か他の人に否定されたというのではなく、自分が自分を否定しているという現象が見られるのです。

 これは辛いですよね。

 私自身が自己否定を抱えて悩んで来た経緯があるため、この問題には大きな関心を寄せてきました。どうやったら人は自己否定から解放されるのだろうかという問いにです。

 今日は、自己否定の全容を解明することはできませんが、その一部分を構成している現象についてお話しすることにいたします。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 自分が自分を否定するという心理に向き合う前に、まず2人の人間の関係から始めましょう。

 相手のすることが私は気に入らないとき、相手を殴るとか蹴るとかして痛い目に遭わせることで私の思い通りに動かそうとする。これは暴力と怖れを用いて相手を操作することです。

 身体的暴力の代わりに、言葉の暴力を用いることもあります。

 「出来損ない」「馬鹿野郎」「クズ」などと罵倒したり、「言う通りにしないと◯◯するぞ」と脅したりする。言葉の暴力を受けるのが怖いので相手はこちらに従うという図式です。

 暴力には3つの次元がありますが、身体・言葉の次は思想です。暴力的な考え方をするというだけの話なので、外からは見えないこともありますが、これも重要なので述べておきます。

 相手に何も言わなくても、心の中で「こいつは何の価値もない馬鹿野郎だ」とずっと思い続けたとしたらどうでしょうか。それは視線や態度に滲み出て相手に伝わります。無意識のエネルギーが相手を脅します。これも立派な暴力だと私は考えています。

 たとえば、勉強が出来る出来ないが人間の価値のすべてだと思っている親に育てられた子供は、悪い成績を見せるとき、たとえ親が身体的暴力も言葉の暴力も振るわなかったとしても、「はあ」と漏れる溜息の中に自分がバカにされていることをひしひしと感じるものです。

 勉強ができない自分をダメな人間だと親が思っている、そう「思っている」というだけで暴力になります。思想上の暴力なのです。このような無言の暴力を怖れて、イヤイヤ勉強をし、親に嫌われないようにしようと迎合する性格になるかもしれません。

 このように、マイナスの(相手に痛みを与えるような)身体的行動、言葉遣い、思想を使って、相手を否定しイヤな思いをさせることで、自分の思い通りに動かそうというやり方は、破壊的な支配行為です。

 罰を与え、その痛みを避けたいという動機を相手に生じさせることで思い通りに動かそうという魂胆なのです。支配構造そのものですね。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 さて、このような痛みや怖れを通して相手をコントロールしようとする思想や言動は社会のあちこちに見られます。子育てや教育にも見られます。人類の歴史で見ても長く世界各地で用いられてきました。人間どうしは、牛や馬を鞭打って労働させるがごとく、お互いを扱って来たのです。

 そして、この習慣は内在化し、個人が自分自身を扱う際にも用いられています。

 つまり、自分のことが気に入らないとき、自分を罰することで思い通りに変えようという方法を無意識に用いてしまっている人がとても多いのです。

 自分が気に入るように行動できないとき、自分自身に身体的暴力を振るう。たとえば、頭を壁にぶつけるとか、リストカットするなど、自分の身体を痛めつけることで自分を罰するんです。そうすれば、改心して気に入るように自分が行動すると言わんばかりに。

 暴言を自分自身に吐くことで自分を動機づけさせようという方法には、「馬鹿野郎」と自分に言い聞かせる、自分に「のろま」「出来損ない」「ブス」などという言葉を浴びせる。

 最後に、思想レベルでは「自分はダメな人間なんだ」「自分は幸せになってはいけないんだ」「自分は無能な人間だ」などと思うことを指します。

 自己否定的な思想を抱くことは、自分への暴力なのですが、このことは意外と知られていません。普通のこととして受け入れてしまっている人が何と多いことでしょう。立派な暴力なのだという知識が広がって欲しいものです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 自分自身に身体的暴力を毎日振るっていたら、体が弱っていくことは明白です。そして、自分自身に否定的な評価を下し続ければ、心が弱っていくことも等しく明白なことなのです。

 思想的に自己否定的な考えを抱き続けることは、心の元気を削ぎます。そして、やる気や勇気がなくなっていくのです。生きる喜びも。

 なので、自己否定的な思想は自分を勇気づけて成長や学びに導くことのない全く無用で非生産的なものだということをしっかり理解することが大事です。そして、気づくたびに手放していくことが必須です。もし、心の健康を取り戻したいのなら。

自分に暴力を振るって弱らせるのは STOP しよう
身体的にも・言葉上でも・思想上でも

自分の元気を削ぐような
否定的な行為・言語・思考は
雑草のように抜いてしまわなくてはならない
幸せの実を刈り取りたいなら
苦しみを生む雑草を1つずつ根絶すること
そして喜びの行為・言葉・思想を植えよう
 
 

依存心の強い親に愛を要求するのは諦める

 多くの人は愛する能力の低い親に育てられ、その親に十分愛されなかったという不満をもって大きくなります。

 愛する能力の低い親は、親自身が苦しくて自分のことで精一杯。むしろ、自分の不満を子供に聞いてもらうことで癒してもらおうとしたり、子供を思い通りにすることで自分の劣等感を癒そうとしたりする。親の不満のはけ口として利用された子供は、固有の存在として大事にされたという実感が薄い。

 親の「子守り」をさせられたのです。依存心の強い親は、こうして精神的には子供に頼ります。

 こうして育った子供は大人になって、如何に辛かったかということを親に分かってもらおうとする。ところが、親は聞く耳を持たない。子供の痛みに共感できるだけの余裕がない。子供はますます激怒する。愛することのできない親から愛を搾り取ろうとしがみつく。

 こういう人はとても多いです。

 ではどうしたらいいのか?

 この親から自分が欲しかった愛が得られず辛かったことを悲しみ弔う。そして、愛を他の人や自分自身から得ようと決める。このとき、この親から愛はもらえないのだと諦めることなのです。

 自分が望んでいる愛をこの人は与えられないのだと理解して悟ることができれば、この人にしがみつくことはやめられます。この人を正しく理解し、期待できないことを諦めるのが必要な成熟なのです。

 とともに、自分の傷は別のところできちんと対処し癒してあげる。自分が必要なことを放っておけというのではありません。ちゃんと調達してあげることが大事です。ただ、この親からではない。

 1月27日のテレフォン人生相談は、このような典型的な相談者からの内容です。
http://tel-soudan.com/mother-of-dependent-constitution-170127/ 
 
依存する人と依存される人は
いっしょになって問題を形成している

依存されて困っている人は
依存する人を変えようとする代わりに
依存する人と合わない自分になることで
問題は生じなくなる

依存する人に困惑する人は
依存を許してしまう弱さが
自分の中にある
その弱さに向き合えば
依存する人は問題でなくなる
 
依存する人に「困らされている」という人は
実は自分自身の問題がゆえに
依存する人に自身が依存しているのだ
自分の依存を解決すれば
自分に依存する人に悩まされることはなくなる

自分が解けるのは
自分自身の依存心だけである

依存してくる相手に困らされているように見えるが
実際は自分自身の依存心に悩まされているのである

3つの神経症的解決

 人間関係において私たちが満たされず、それが健全な形で解決されないと、不完全な形で対処してしまいます。

 「不完全な対処」とは心がスッキリしない形での対処であり、別の言い方をすると「神経症的解決」です。

 ホーナイによると、神経症には ① withdrawal(自閉)、② aggression(攻撃)、③ submission(服従)の3つの要素があるということです。

 つまり、相手との関係において自分が満たされない場合、相手に対して心を閉ざして距離をとるという解決法が1つある。また、満たしてくれない相手を責めて攻撃する、あるいは操作・支配することで自分を満たそうとする解決法がある。これが2番目。そして最後に、満たしてくれない相手を喜ばせたり服従したりすることで自分のニーズを満たしてもらおうとする迎合的な解決法がある。

 これらの3つの解決法は、いずれも心に未解決なものを残します。そして、それを解決することによってのみ、この人は健全な自己実現へと前進することができるのです。

 自閉、攻撃、服従の3つの習慣を乗り越えることによって、人間関係の問題をより満足いく形で解決できる人間へと成熟していく。それが自己実現の道のりなのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

精神的未熟さには3種類ある

 ホーナイの理論をもとに考えてみますと、人間のあらゆる精神的未熟さも3種類に還元できるように思います。

 まずは不安や恐怖が強い人は、変化を怖れ、現実で生きることを怖れ、相手と対することを怖れ、自分を閉じてしまう。相手と接触せず、独りでいる。そして変化を拒む。ここに閉塞感が生まれます。

 これはいわば恐怖に支配されて動かない生き方です。凍りついたような感じです。

 2つ目はもう少しエネルギーが高いのですが、怒りに支配された状態です。とにかく相手や社会と敵対し、すべてを勝者・敗者を決める闘いだと捉える。そして、相手を蹴落としてでも勝とうとする。自分の望みや考えを通し、相手のことは聴かない。共感しない。支配欲が強い。

 これは1番目とは異なる種類の未熟さです。優しさや柔らかさの欠けたタフな世界です。

 3つ目は自分を犠牲にして相手に迎合する未熟さです。自分を出すことを諦め、周囲に合わせることで安全や承認を確保しようとします。依存心が強い人です。嫌われることが最も怖いので、自分を抑えてしまうという欠点があります。嫌われるよりは自分を偽ってでも繋がってくれる人を確保したいのです。人が善すぎて、保証人にすぐなってしまったり、人の借金を背負ったりして自分の利益を守れない人もここに入ります。

 ナルシシストは2番目、共依存者は3番目の未熟さを有しています。

3つの智慧の裏返し

 自閉、攻撃、服従という3つの未熟さは、実は成熟した3つの智慧の低い次元での表れだと私は考えています。つまり、より高いレベルで顕現すれば、それぞれには大きなプラスがある、そういうものだと思うのです。

 自閉というのは、より成熟した形で実現したならば、「健全な境界線を引く」ということだと思います。私たちは周囲の人間と繋がることによって満たせるニーズもありますが、必要に応じて人から離れ孤独の中でしか満たされないニーズもあります。また自分に対して攻撃的・依存的な人に境界線を侵害されないように適当な距離をとったり、自分の限界をきちんと伝達し守るということも必要です。

 そういった健全な心の開け閉めができることが自閉の成熟した姿だと捉えることができます。

 攻撃がより成熟した形で実現したならば、健全な自己主張となります。怒りに頼らずに、真っすぐに自分の価値や考えやリクエストを表現できる。これが高いレベルに昇華された攻撃心だと思います。

 服従の成熟した姿とは、自分を否定したり犠牲したりしない形での相手への共感です。相手との繋がりを本当の意味で大事にすることができれば、服従という低いレベルでの形はもう必要なくなります。

 まとめますと、「健全な境界線を保つこと」「健全な自己主張ができること」「健全な心の繋がりを楽しめること」の3つが習得され実践可能になるにつれて、これらの低次元での形である自閉、攻撃、服従(依存)は不要になり、いわば卒業できていくのです。
 

心の奥の痛み

 多くの人の心の中を見せて頂いて思うのは、心の奥に痛みを抱えていない人はひとりもいないということです。人間として地上に生きるということには、満たされない痛みがついてくる。これを避けられる人はいません。

 何かこれだけ読むとネガティブな気持ちになるかもしれません。しかし、苦しみや痛みには救いが必ずあります。なので絶望する必要はありません。

 さて、意識の奥にすべての人間が抱えている「心の痛み」に対して複数の反応が生じます。

 1つ目は「恐怖の反応」です。「また同じ目に遭うのが怖い」という防衛反応です。警報ベルのように当人に警告を発します。

 2つ目は「怒りの反応」です。「また同じ目に遭わないように先手を打って攻撃しよう」という塩梅です。

 3つ目は「依存の反応」です。「また同じ目に遭わないように必要なものを相手からもらおう」という策略です。

 このように、あらゆる心理的問題は「恐怖による回避」、「怒りによる攻撃」、「依存による執着」という3種類に分類することが可能だと私は考えています。 

 たとえば、失敗や批判を怖れて自分を表現できないというのは1番目の「回避反応」です。ちょっとしたリクエストをしたらすぐカッと怒り出すというのは2番目の「攻撃反応」です。自分を哀れむ犠牲者としての話をクドクドと話すのは「依存反応」です。

 このような3種類の心理的反応の奥には「心の痛み」があります。そして、その「心の痛み」を避けようと自己防衛している仕組みが働いています。 

 自己防衛反応が当人に苦しみをもたらすため、本来その人を守るために生じているにもかかわらず、それに悩まされることになります。

 すぐ引きこもってしまうことに悩む。すぐ恨んだりイラッとしたりすることに悩む。依存と執着から自由になれず悩む。

 こういうとき、自己防衛反応そのものをなくそうと思っても無理です。なぜなら、心はそれらの自己防衛反応が絶対に必要なものだと確信しているからです。

 自己防衛反応を解くためには、心がその自己防衛をもう必要としていないのだと納得しなくてはなりません。

 そして、それには自己防衛反応が二度と味わわなくてよいように守ってくれている「心の痛み」そのものを自分の責任においてアクセスして癒してあげることが最も重要です。

 つまり「心の奥の痛み」に直に触れて、それが必要としている癒しを与えるのです。「心の奥の痛み」を避けようという姿勢をすべて捨てなくてはなりません。それが唯一、自己防衛反応から自由になる方法です。
 

「悔やみ」vs.「罪悪感」

 似て非なる心理の1つに「悔やみ」と「罪悪感」があります。

 たとえば、私が愛犬の脚を踏んで骨折させてしまったとしましょう。私が愛犬を大事に思っていればいるほど、私の不注意で痛い思いをさせてしまったことを悲しく思います。私はこの犬を愛しているので、この犬には幸せであって欲しい、安らかであって欲しいという欲求が働きます。そして、苦しむ犬を見ていると、「もっと注意して歩きたかった。踏まずに済ませたかった。痛い思いをさせたくなかった」と悔やまれます。

 この「悔やみ」は愛犬に対する愛の裏返しです。何かを大事に思えば思うほど、それを傷つけたときの「悔やみ」と「悲しみ」は大きくなります。

 この「悔やみ」によって、私は愛犬を病院に連れて行ったり看病したりすることでしょう。そして、愛犬がよくなるにつれて、この「悔やみ」は少しずつ癒されていきます。

 愛がなければ「悔やみ」は生じません。犬に関心がなければ、骨折していても何とも思わないでしょう。犬が苦しんでいることを悲しく感じるのは、犬の安寧を祈っている気持ちが根底にある証拠なのです。「痛い思いをさせたくなかった」と悔やまれることは、犬への愛なのがお分かりでしょうか。

 それに対して、同じように愛犬を骨折させたとき、「私はなんてドジなんだ」「私は飼い主として失格だ」「私は大バカものだ」などと自分を裁いて責めたとしたら話は変わってきます。

 これらは自分を罰しようとする行為であって、「悔やみ」とは違います。「自罰的」な思想を持ち出して、自分を痛めつけているのです。そして、それによって生じる感情を「罪悪感」と言います。

 「罪悪感」は自分が自分を処罰する思想を採用することで生まれます。そして、これは思想によって生じるものなので、時間とともに癒えません。思想を手放すまで「罪悪感」を生み続けます。

 多くの人は「悔やみ」を感じたとき、それが自動的に自罰的思想と「罪悪感」に結びついてしまいます。ところが、本来、愛するものを傷つけたとき「罪悪感」は全く必要ではありません。「悔やみ」だけで十分なのです。「悔やみ」は叶わなかった愛(大事にできなかったこと)を弔う行為であり、愛を大事にするが故に癒されていくものです。これは抱擁されるべき大事な大事な感情です。「悔やみ」は避けてはなりません。心が修復するために必要なものなのです。

 ところが、「罪悪感」は心を傷つけます。そして、全く不必要なものです。「罪悪感」は愛ではありません。「罪悪感」は怒りであり、自分に向けられた不寛容です。裁きです。心が救われるためには、こういったものを排除するしか方法はありません。
 

「愛から出た気遣い」vs.「怖れから出た気遣い」

 同じ「気遣い」と言っても、愛から出たものと怖れから出たものでは似て非なるものです。

 形としての言動は同じように見えても、心の出所が違えば、本質的には全く異なるものだと思ったほうがいい。

 たとえば、クライアントが電話をしてきて日時を変更して欲しいとしましょう。変更してもらうことは私にとって大丈夫かと気にするという場合にも、私から嫌われたり拒絶されたりすることを怖れて心配して気になる場合と、私に迷惑でないかを気にしてくれている場合とでは微妙に違う。

 前者は「怖れから出た気遣い」であり、後者は「愛から出た気遣い」です。後者は受け取ったときに温かい感じがしますし、心身が緩みます。それに対して、前者は受け取ると心身が緊張します。

 「◯◯してもらっても大丈夫ですか?」という同じ質問を相手に投げかけるにしても、心の中で味わっている感情が愛なのか怖れなのかによって、相手に伝わるエネルギーは全く違います。

 一方は「私は嫌われるんじゃなかろうか。拒絶されるのが怖い」という波動を発している。もう一方は
「あなたのニーズを私は大事に思っていますよ」という波動を発している。後者は相手への温かい関心の表れであり、前者は自己防衛反応です。

 このように、人間の言動には外側の形だけで判断すると全く同じものに思えてくるけれど、内実は全く異なるということが結構たくさんあります。
 

「融合」と「自己分化」

 「赤信号、皆で渡れば怖くない」という言葉がありますが、人といっしょなら心強いと感じるところが人間にはあります。「あなたと私は同じ」と感じることに安心感があります。これは母子の「融合状態」と同じで、見捨てられない所属感のようなものがあるのだと思います。

 ところが、精神的に成熟し自立していくプロセスは、「相手と自分は別なのだ」と意識し、それを認めていく道のりです。もちろん共通点があってもいいけれど、基本的に「相手と自分は別の存在であり違っていて当然だ」ということを認められること。それが個人として成熟していくことです。

 これをボーエンは「自己の分化(differentiation of self)」と呼びました。

 「分化」というのは個性がはっきりしていくということであり、ユングの「個性化」と基本的には同じことだと思います。

 私たち人間の肉体は受精卵という1つの細胞から始まり、それが細胞分裂を繰り返し、ある細胞は内臓になっていく。またある細胞は神経になっていく。皮膚になるものもある。

 とても神秘的な作用を通して、ある細胞は肝臓になろうと決める。肝臓になろうと決めたとき、心臓や膵臓になる可能性は捨てられたわけです。皮膚になろうと決めた細胞は筋肉にはなれない。何になるかを規定したところで、他の可能性は捨てたわけです。

 このように、肉体という全体に奉仕できるためには、1つ1つの細胞はその役割を決めなくてはなりません。「私は肝臓です」「私は心臓です」という風に。「何でもなれる」というポテンシャルの状態というのは、「何にもならない」ということでもあります。万能細胞のままだと、実際には役に立てないわけです。

 人間もこれと同じようなところがあって、幼いうちは万能細胞のように将来何になるのか定まっていない。ポテンシャルが大きい。大きくなるにつれて、道を選んでいく。選ぶということは他の可能性を捨てていくということ。それによって、サラリーマンの道を歩む者、アーティストの道を歩む者、宗教家の道を歩む者などが出てきます。

 「自分はこういう人間である」「自分はこういう人生を歩む」ということが明確になっていく。それは他の人間とは違って自分はこうであるということを決定することであり「自己分化」のプロセスに他なりません。

 ただ、自己決定をすれば自動的に「分化」するというものではありません。人生の決断のときに、自分の内面に従ってするのではなく、他者や世間の期待など外的なものを拠り所にすると、それは部族に服従しているのであって、個性として自立しているわけではない。そういう人間は「自己分化度」が低いのです。

 つまり、自分を拠り所として決断することがどこまでできているかによって「自己分化度」が決まってくる。「自己分化度」が低い人とは、本当の意味で自分らしく生きられていない人です。世間と「融合」しているがために、個性が発揮できない人なのです。

 「自己分化度」を高めて自己実現を進めていくには、世間への恐怖を捨てなくてはなりません。世間への恐怖を乗り越えていなければ、世間に迎合し個性を抑え込んでしまいます。そして、世間を怖れる者は世間を形作るリーダーにはなれないのです。世間によって自分を形作られる受身の追随者として生きることしかできません。

 マズローは自己実現的な人間を研究しましたが、その特徴の1つに、周囲の文化に組み込まれることを嫌うと述べています。自己実現した人は、文化を超越し、文化の創造者としての立場を取ろうとします。

 世間体を怖れず自分らしく生きる実践ができている人ほど「自己分化度」が高いと言ってよいでしょう。

 世間体に反することのできない人は、社会を親として自分が子供のポジションにいる人です。社会という親に逆らうことは怖いのでできません。なので社会と融合状態を保とうとします。社会に迎合することで保身しようとするわけです。

 「自己分化」は孤独を受け入れなくてはできません。個性として成熟するには避けられない孤独というものがあります。「みんなといっしょ」という心地よさを捨てて、「自分であること」を抱擁しなくてはならない。それには自分にしかできないこと、それも孤独の中でしか達成し得ないものを受け止められる必要がある。自分が何者であるかは、長い長い自分自身との対話の中で目覚めていくもの。それには人と離れて「独りでいること」が耐えられなくてはならない。

 孤独を怖れる者は個性として成熟することはできません。孤独を抱擁できた者だけが、他者と同じでないことへの怖れを捨てて、自分自身であることの喜びと孤独を手にすることができるのです。

 孤独を怖れて「融合」しようとする者が体験する他者との繋がりは原始的なもの。動物的なもの。部族的なもの。孤独を抱擁し統合した者は、より根源的な宇宙的な繋がりを感じることができます。そしてそれは、部族を超越した繋がりです。その中で、個人としての孤独もまた超越されます。
 
 孤独への恐怖を捨てた者は、独りでいることを受け入れたが故に、根源的に独りではないことを悟ることができる。孤独を怖れる者は、表面的な絆を方々に求め、淋しさから解放されることはありません。

 他者と違わないように違わないようにと自分を抑える者は、他者とバラバラであるという根本的感じ方から自由になれません。他者と異なることを怖れず受け止めた者は、個性として完成に向かうが故に、深いところでは全ての命とひとつなのだと感じることができます。

 実存的な孤独と劣等感を癒すには、自分であることを抱擁するしかないのです。

 ひとりひとりに求められているのはただ1つ。勇気をもって自分であることなのです。

「欲求」と「欲」は違う

 「欲求」という言葉を私は頻繁に用います。人間の心理のルーツを理解するために不可欠なのが「欲求」であり、最も重要なものの1つなのです。

 私の中では「欲求」は健全なものであり、生命の肯定そのものなのですが、「禁欲」や「無欲」をよしとする多くの人は、「欲求」という言葉を聞くと乗り越えるべき「欲」と同一視してしまう傾向にあります。

 そこで、心を豊かにして幸せにする「欲求」と、心を苦しめる「欲」とを明確に区別する記事を書きたいと思いました。

 多くの人は自分の中に肯定し満たしてあげるべきものを拒絶し、許すべきでないものに従って苦しみを深めてしまっています。言い換えると「欲」に従ってしまうと苦しみを深め、健全な「欲求」にきちんと従えれば満たされた幸福感へと至る、そのことをきちんと理解できている人が意外と少ないのです。

 「欲求」と「欲」を混同すると、心理的問題を解こうにも解けなくなってしまう。なので、これは是非とも押さえておかねばならない重要な区別です。 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

まずは分かりやすい「食欲」「性欲」から

 「食べたい」という「欲求」は、肯定し満たしてあげることで、生きる喜びを味わえます。この「欲求」を否定すると私たちは生きていけません。「食べる」という行為は、人生のすべてではないにせよ、大事な一部分であり、「食べる喜び」は「生きる喜び」のなくてはならない一部分だと思います。

 「食欲」は体を健康に維持する栄養を摂取するだけでなく、美味しいと感じる味覚の満足によって、生きる喜びを感じることでもあります。 

 なので、健全な方法で満たしてあげる限りにおいて、この「欲求」には何も問題はありません。

 ところが、健康や美味しさを味わうためだけでなく、「食べる」という行為が他のニーズを満たすために用いられたとしたらどうでしょうか。

 たとえば、心を触れ合える相手がいない。淋しい。なので、淋しさを紛らわせるために「食べる」。生きる意味が分からない。人生が虚しい。なので、虚しさを埋めるために「食べる」。

 そうすると、「食べる」という行為は本来の目的を逸脱した形で複数の「欲求」を埋めるための手段として用いられることになります。

 「心の触れ合い」という「欲求」と、「生きる意味を感じたい」という「欲求」は、それぞれ独自に満たされる必要があります。ところが、それらが慢性的に満たされない状態にあるとき、心に痛みが生じ、その痛みから解放されるために「食べる」という不健全な行為になることがある。

 こういうときの「食べたい」は「欲」に成り下がっています。そして「欲」は人を苦しめます。

 この「欲」に従って食べ続けると、肥満になったり病気になったりして本人を苦しめることになります。本来の満たし方からズレているのです。 

 さて、「性欲」も同様に「欲求」と「欲」に分けることができます。

 愛する人とセックスをしたいというのは健全な「欲求」であり、それ自体は心を豊かにしかしません。本来のセックスができているならば、性欲を満たすことで不幸になるということはないはずです。

 しかし「性欲」を通して、満たされていない他の心を満たそうとしているなら話は別です。

 たとえば、自己否定感が強い人が、「性欲」を通して相手を支配し、「自分は価値ある存在だ」と思いたいとしましょう。そうすると、この人は「性欲」を純粋に満たしているのではなく、セックスを自己否定の苦しみから自分を解放するための道具として使ってしまっている。このように求めるセックスは「欲」です。そして「欲」として求めるセックスは純粋なセックスではありません。

 食べ物を通して心の虚しさを埋めようとするのが食べ物の乱用であるのと同様に、劣等感を埋めようとしてセックスをするのもセックスの乱用です。

 このように、代用物として何かを求めるということは、「欲求」を本来の満たし方で満たしてあげるという本来の解決を困難にし、苦しみを永続させてしまいます。なので「欲」に従うことは奨励できません。

 セックスの快楽にはものすごいものがあるため、多くの満たされない「健全な欲求」のはけ口として人類によって用いられて来た歴史があります。そのため、セックスは不健全なものになりやすい。だから、心の苦しみを解くためにはセックスから一時遠ざかるのがよいという面は確かにあります。けれども、それは「性欲」自体が不健全なものであるからでは決してありません。

 「欲」としてのセックスを否定し、「欲求」としてのセックスは肯定すべきなのです。 

 意識するとよいのは「食欲」を自分がどのように満たす習慣があるか、「性欲」を自分がどのように満たす習慣があるかということです。純粋な「欲求」として満たしているか、あるいは別の不満のはけ口として乱用しているかを見極めることです。

「欲求」を健全な方法で満たしてあげれば「欲」は必要なくなる

 人間が「欲」に苦しめられるのは、満たすことが悪いからではありません。ちゃんと満たしてあげていないものがあるから、曲がった方法で満たすことを強迫的に欲してしまうのです。

 「欲」とは曲がった方法で何かを求めてしまっているという現象だと私は考えています。そして、それを改善するためには、本来の満たし方ができていない「欲求」を自分の中にきちんと認識をし、健全な方法で満たしてあげられるように自分が変わること。それが大事です。 

 つまり、「心の通い合い」がなくて淋しいから食べてしまうという場合、「心の通い合い」ができるようになれば食べることに依存しなくて済むようになります。

 「生きることの意義」を感じられなくて虚しいから食べてしまうなら、「生きることの意義」を感じられるようになれば解決します。

 このように、「欲」とは本来の課題に向き合わないで、代用物で満たしてしまうことで依存が生じている状態なのです。

 淋しいからセックスをするとか食べる。自分に肯定感がないから、相手を支配することで癒す。本来の充足が得られないために、偽物の充足で済ませてしまっているわけです。偽物だからいつまで経っても虚しいまま。本来の解決には至らない。

 1月13日のテレフォン人生相談(http://tel-soudan.com/occupation-of-marriage-partner-170113/)では、娘の結婚相手が気に入らない父親が相談者でした。この父親はもっと収入のある男がいいのではないかと娘に再三言うけれど、娘はそういうことは承知の上で彼が好きだと言う。

 娘には社会的ステータスのある男と一緒になって欲しいと思うこの父親は、純粋に娘の幸せを願っている「欲求」に基づいて感じているのではない。これは完全に「欲」であり、これを追求すると娘との関係は断絶します。父親の我がままであり、劣等感や不安の裏返しなのです。

 問題は、特定の資質をもった男性と娘を結婚させられたら、この父親の何が満たされる(と本人は思っている)のかということです。おそらくですが、この父親にとって社会的評価が極めて重要なのです。それによって自分の価値も測っている。しかし娘は父親とは違った価値観でパートナーを選びました。この娘の価値観を父親は理解していません。娘が選んだ低学歴の男では、父親自身の価値が下がってしまうような不快感があったのではないかと推測します。

 つまり、父親の「自己肯定の欲求」が著しく阻害されるように彼は感じてしまっている。

 言い換えると、この父親は自分の劣等感を、社会的評価によって埋める生き方をしてきた。出世によって自己価値を感じようとした。

 このように社会的評価を強迫的に求めるということ自体が実は「欲」です。これは、本来の「自己肯定の欲求」を満たす健全な方法ではありません。

 この父親の中では、健全な方法で「自己肯定」が成立していないのです。

 「自己肯定」が本当に満たされてきたならば、人とは違う個性としての自分を実現できてきた喜びが父親の中にあるはずです。ところが、彼にはそれがない。他人からの評価でもって代用してきてしまった。だから、世間体がすべてになっている。「自分の価値」イコール「世間の評価」なんですね、この人の中では。 

 これは「欲」であり、人を苦しめます。

 自分を肯定するために、社会的評価に拘るのは「欲」です。健康な「欲求」とは異なります。

 「自己肯定」の「欲求」はそれ自体肯定されるべきものです。健全な方法で満たされる必要があります。ところが、この父親は健全な方法でそれを満たすことをまだ知らない。なので世間体という代用物に依存しているのです。

 本当に自分を肯定するということが実感として分かっていない。なので、ずっと満たされず辛いという気持ちが深層心理としてあると思います。 

 娘とのことを通して、この父親が自分自身の劣等感に向き合うことができれば、人間として成長できるでしょう。この娘は自分を肯定するということを教えてくれている教師のようなものです。 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

求めることが悪いのではない。求めるべきものを求めよ。

 まとめますと、「欲」は「欲求」が曲がったものであり、満たすと不幸になります。本来満たすべきなのは「欲求」であり「欲」ではありません

 「欲」は満たしても満たしても不満がなくならず、自分も他者も不幸にします。本来の満たし方ではないからです。

 「欲求」は満たせば満たしただけ幸福感が得られ、心は豊かになります。生命が成就したがっているものを成就してあげているのです。

 この2つを混同し、「欲求」を満たそうとする動きそのものを「煩悩」であるかのように誤解してしまうと、人間の苦しみは深まってしまいます。ですから、乗り越えるべきは「欲」であり「欲求」ではないということをしっかりと意識している必要があります。
 

アドラー心理学を取り上げたTVドラマ明日スタート

 アドラー心理学を取り上げたTVドラマ『嫌われる勇気』が明日始まります。

1月12日(木)午後10時スタート(フジテレビ)

 主演は香里奈。ほかに、椎名桔平、加藤シゲアキ、戸次重幸など。

 原案はこのブログでも以前取り上げた、岸見一郎・古賀史健共著『嫌われる勇気』です。


参考サイト

フジテレビ・番組サイト
http://www.fujitv.co.jp/kira-yu/introduction/index.html

参考記事(当ブログ2017年12月アーカイブでお読みいただけます。)

アドラー⑫ 他者に貢献できているという実感が幸福
アドラー⑪ 対人関係のゴールは「共同体感覚」
アドラー⑩ すべてのカードは自分が握っている
アドラー⑨ 自由になりたいなら嫌われる勇気をもつ
アドラー⑧ 課題の分離ができないから他人の目が気になる
アドラー⑦ 自分の課題と他者の課題を分離する
アドラー⑥ 承認されることをゴールにしない
アドラー⑤ 人と競争すると不幸になる
アドラー④ 劣等コンプレックスは言い訳である
アドラー③ 傷つくのが怖いと自分嫌いになる
アドラー② 幸せになるには勇気が要る
アドラー① 人を羨む人は自分を生きていない

参考図書

トリガー療法

 これは私が最近クライアントに実践している療法で、短時間で深い感情的癒しが生じる優れものです。このやり方は私が考案しました。

トリガー(trigger)と反応(reaction)

 まず、基本的な考え方として、感情的苦しみが生じたとき、「トリガー」と「反応」の2つを見ていきます。

 たとえば、高学歴の人を見ると劣等感が刺激されて苦しくなるという人の場合、「高学歴」が「トリガー(引き金)」となって「劣等感」という「反応」が自分の中に生じてくると捉えます。

 体の大きな人に暴行を受けた女性は、「体の大きな男性」という「トリガー」に出会う度に「恐怖心」という「反応」が生じてくるかもしれません。

 あるいは、「何かをお願いされる」という状況になると、「イヤなのに断れない」という気持ちになる。こういう場合、「お願いされる」が「トリガー」で「断れない」が「反応」と考えてもいいでしょう。

 私たちが苦しむ心理的反応にはパターンがあって、それらは無意識に、つまり自動的に生じてくるため、自分で意志を使って制御できないと感じます。そう、これらの反応は潜在意識に既にプログラミングされているので、意志に関わらず生じて来てしまいます。なので、どうやって変えたらいいのかが分からないというのが大部分の素人さんです。

セラピーはトリガーと反応の関係を変えてしまうこと

 私ども心理療法家のすることは、無意識に自動的に生じる心のプログラミングを変えることです。男に暴行を受けたので男を見るたびに怖くなるという人の場合、トラウマ体験を元に自己防衛反応が生じているわけです。これは二度と過去のような思いにならなくてよいようにと心が自動的に作り出したものです。これは自分を守ろうとしてくれているという意味では有り難いものではあります。ところが、これが存続すると、男にずっと近づけなくなってしまう。なので、ある程度時間が経ったら、プログラミングを解いてあげて、「もう非常事態ではありませんから大丈夫です」と心に思ってもらうほうが、男に近づくことで夢実現へと進めるわけです。

 なので、過去のトラウマに縛られ続けるというのはよろしくない。不自由です。

 ということで、セラピーではトラウマによって生じた自己防衛反応をキャンセルし、脱プログラム化してあげるわけです。心のリハビリと言ってもいい。 

トリガーをわざと使って反応を意識的に生じさせる

 私の療法では、トリガーを意識的に用いて、セラピー中に反応をわざと生じさせます。

 たとえば、男性に暴行を受けた女性の場合、その男性を頭で思い出してもらう。高学歴に反応する人は、わざと頭で高学歴を何度も考えてもらう。

 そうすると、恐怖心や劣等感が非常にクリアに浮上してきます。 

 大部分の素人さんは、こういった反応が起きないように起きないようにと腫れ物を触るかのようにトリガーを避けて生活しようとします。反応自体が苦しいので、反応が起きないように生活するとなると、トリガーを避けるしかありません。

 男性が怖い人は、男性に近づかないことによって、高学歴に劣等感を刺激される人は高学歴の人に近づかないようにして、そういう話は聞かないようにして自分を守ります。

 ところが、こういうやり方ばかりしていても、反応パターンそのものはなくなりません。つまり、情緒的には爆弾を抱えたまま、爆弾のスイッチを入れないようにと気をつけて気をつけて生活するので、それに用いる心理的エネルギーはものすごく大きいです。

 なので、反応が起きたとき、反応をキャンセルして、トリガーによって反応が刺激されない状態へと心を変容させてあげればいいのです。

 そして、反応を変容させたい場合、反応がクリアに浮上している状態を作り出すことが最もうまくいきます。なので、わざと劣等感や恐怖心を体の表面で明らかに感じられる状態を人工的に作り出すわけです。

反応をキャンセルするには

 反応をキャンセルするやり方を簡単に説明します。

 私が発見したところによると、反応がまざまざと生じているまさにその瞬間に、3つのことをやると反応が消えていきます。これらは反応に対する基本姿勢であり重要なので覚えておいてください。

 1つ目は、抵抗を捨てて受け入れることです。力みを解いてリラックスし、反応と一緒にいることをしばし許すのです。肉体的には深く呼吸をし、体の強ばりを解いてじっとしているという単純なことです。

 たとえば、男性に暴行を受けて怖い思いをしたという女性の場合、男性の顔を思い出すと恐怖の感情が強く現れてきます。このとき、この感情に呑み込まれてしまって辛いので、抵抗して感じないように体の内側を強ばらせてしまう人が多い。これが大部分の素人の反応です。

 つまり、恐怖反応を拒絶しようと戦ってしまうのです。

 そうではなくて、恐怖反応が出たら、恐怖反応を受け入れて無抵抗になるのです。「まあいいや、感じてやろう」と心を開くのです。5分間は一緒にいようと決めて、慌てないで落ち着くのです。そして深呼吸をする。怖い反応が起きているそのままで、じ〜っと落ち着くのです。そして深くゆっくりと呼吸をする。そして、怖さを感じても大丈夫だと自分に言い聞かせて、感じることを許可するのです。これが抵抗を捨てて無抵抗になるということです。

 2つ目は、一体化を解いて脱同一化することです。別の言い方をすると、対象化することです。高学歴が「トリガー」となって、自分の中に気持ち悪い「自己否定感」が湧いてくる人の場合、頭で高学歴を何度も思うと、体に気持ち悪さが浮上してきます。

 その体の気持ち悪い感覚に呑み込まれず、じ〜っと静観して観察するわけです。そして、自分は自分、感覚は感覚だとしっかり意識します。自分とこの感覚は別であるとしっかり意識するのです。これが脱同一化、対象化のプロセスです。

 これをやらない場合どうなっているかと言うと、気持ち悪い感覚と自分との境界が曖昧になっていて、自分イコール気持ち悪さになっています。つまり一体化しているわけです。何かと一体化しているとき、私たちはそれから自由になれません。なので、自分と観察している対象としての感覚は全く別の存在なのだとしっかり意識することがこのエネルギーを扱うことのできる必要条件なのです。

 3つ目は、手放すことです。何かを受け入れて、それを対象化して距離をとれる状態になりましたね。そうすると、ようやく、それを手放せるという選択肢を手にしたことになります。

 何かを受け入れていないとき、それを手放すことはできません。執着が自動的に生じます。なので、受け入れる前段階が必要です。次に、自分とそれと区別できていない意識状態では手放せません。なので、手放したいものを対象としてしっかり意識する必要があります。そして3番目にようやく、これを手放すと意志するプロセスが来ます。このとき自分の中で「これを手放す」と思うだけでもいいし、神様や天使に「手放すのを手伝ってください」と祈ってもいい。

 いずれにせよ、反応は「受け入れる」「対象化する」「手放す」の3原則によって変容します。

手放す以外に必要なプロセス

 実際のケースでは、手放すというだけでは終了しないことも結構あります。それは共感的愛を必要としている場合で、手放すというより真逆の統合するというプロセスが必要です。その気持ちを十分に深く傾聴してあげるという過程をまず経なくてはなりません。それから、トラウマによってショックが大きかったため心理的エネルギーが分裂を起こしている場合、断片を集めて来てからでないと癒せません。

 こういった例外的なプロセスを加える必要が実際にはありますが、基本的なところだけをとりあえずご説明しました。

ナラティブ・セラピーより遥かに即効性がある

 来談者中心療法など主流のカウンセリングだけだと、深層心理の問題が露呈するまでに時間が結構かかります。クライアントが自覚できる範囲で話が進んでいきますので、自己防衛が強い人の場合だと問題の核心になかなか至りません。話が表面的なレベルでグルグルと回ります。

 なので、深層心理に素早くアクセスできる手法があるとセラピーが速く進むと私は考えています。

 クライアントのパワーを上から支配しないで、自律性を最大限に尊重したい私は、勝手に潜在意識のプログラミングをこちらで解除したりするという方法には躊躇を感じます。

 そこで、折衷案として現在試しているのは、クライアントさんがご自分でも実感できる形で潜在意識の探究を進めていくというものです。それは、クライアントさんに肉体感覚にフォーカスしてもらい、潜在意識から浮上するものに直接接触してもらいながら進めていくというやり方です。

 こうすると、セラピストが勝手に進めているのではなく、クライアントさんの顕在意識の自覚もきちんと参加しながらなので安心感が強いと思います。

 劣等感がある人の場合、トリガーである高学歴などの刺激を与えて、クライアントの「今ここ」での肉体反応として気持ち悪さを実感してもらう。セラピーをすることで反応がなくなる。肉体が気持ちよくなるのを体感してもらう。それによって、実際に効果があることをクライアント自身に味わってもらうのです。 

 クライアントの潜在意識と顕在意識の断絶を解いて、2つを繋げる支援をする際に、肉体感覚に焦点を当てるということは極めて重要であり有効性の高いものです。

 楽になったかどうかは、クライアントさんは体が楽になることで確かめられます。概念的なものではありません。

 言語は頭が把握できる範囲でしか使えませんので、セラピーのできる範囲が狭まってしまいます。けれども、体の感覚を使えば、クライアントさんが自覚できていない領域にまでご本人の意識を導いていくことができる。現実的であり実際的であるわけです。

エネルギー処理・波動調整という考え方

 感情や思考を私は意識エネルギーとして見ています。波動をもったエネルギーとして全てを見ています。

 ということは、心理カウンセリングや心理療法でやっていることは、エネルギーを処理したり調整したりしていることに他なりません。

 傷ついた感情があって、その話を聞いて差し上げるということは、実は心の傷に私の共感的意識が届いて触れることを意味します。傷ついた感情というエネルギーと、共感的愛のエネルギーが混じり合って、傷が癒されていきます。

 マイナス信念「私はダメな人間だ」などが意識に抱えられている場合、それを発見してクライアントに手放してもらう。すると、この信念が固く意識にしこりのように掴まれていた状態から解き放たれ、心と体は自由に軽やかになります。固く苦しいエネルギーを掴んでいたものが、意識を離れて去っていく。それによって、その人の心と体が楽になる。これも波動調整です。 

高次元のエネルギーに繋がりながらする

 私は毎日神様や天使たちなど、そして自分自身のハイアーセルフの高次元のエネルギーに意識的に触れて自分を浄化し、またクライアントの心理的支援のエネルギーをそこから得ています。

 悲しみ・怖れ・怒り・自己嫌悪などの暗くて重たい低次元のエネルギーに変容をもたらすには、自分自身は光と愛の高い周波数にアクセスできなくては体がもちません。

 ですから、私の毎日はお祓いとお清めに多大な時間を費やしています。 

 クライアントさんたちにも、ご自分でハイアーセルフや天使たち、あるいは神々と直接繋がってお祓い・お清めをしてもらうようガイドしています。

 ただ理性を使って心理を操作するということには限界があります。深い絶望や自己嫌悪や悲しみのエネルギーに対して、考え方をポジティブに変えるだけの対処では足りないこともあるのです。

 ですから、おひとりおひとりの方が何らかの形で純粋なポジティブエネルギーに繋がる方法を持ってもらうことをアドバイスいたします。
 

自己成長4つの柱

(これは2014年6月に投稿した記事の復刻版です。)

 私は自分の自己成長(自己治癒・自己実現を含む)の経験と、他者へのカウンセリングの経験の両方から、人間の心が成長していくには、大きく分けて「4つの柱」に取り組むことが大事だという考えにたどり着きました。


 「4つの柱」とは:

1.自分に忠実に生きる
2.自己表現と傾聴を学ぶ
3.真我に目覚める
4.無意識を浄化する

 です。

 1つずつ詳しく見ていきましょう。

1.自分に忠実に生きる

  「こうあるべき」という人生を歩むのではなく、ハートの喜びに従う生き方を通して、主体的に自分自身を幸せにするような考え方、言葉遣い、行動を身につけ、喜びを拡大して人生をエンジョイすることが何よりも大事です。

 感情に現れる自分の欲求と接触し、その声に素直に従う人生が送れず、周囲の期待や意見を優先したり、外側にある規範をハートの感覚より優先することで自分を見失うと、幸せにはなれません。

 私は、ジョーゼフ・キャンベルの教え (Follow your bliss: あなたの至福に従いなさい)、バシャールの教え(ワクワクすることをする)、エイブラハムの教え(人生の目的は喜びである)などから学んできました。

  レベル1:自分の気持ちを尊重した行動がとれない。自分の中の「べき」思考や周囲の期待に沿ってしまうことが大部分。

 レベル2:自分の気持ちを尊重した行動をとることの方が多いが、自分の中の「べき」思考や周囲の期待に沿うこともまだあり、取り組み続けている。

 レベル3:自分の気持ちを尊重した行動をとって、自分らしく生きている。


2.自己表現と傾聴を学ぶ 

 私たちが人間として生きている以上、相手の欲求と自分の欲求が対立するということを経験しない人はいないでしょう。人と人との対立を平和的かつ建設的に解決するには、積極的自己主張と共感的聴き方のバランスが大事です。

 ところが、私たちの多くは、攻撃的あるいは消極的なコミュニケーションによって、対立をうまく解決できず苦しんでしまいます。

 私は、ウィン・ウィン・コミュニケーション、カール・ロジャーズの「傾聴」、トマス・ゴードンの「親業」、アサーションなどから学んできました。

 
レベル1:自分の欲求を表現できない(消極的)か、相手を責めること(攻撃的)が大部分。

 レベル2:相手を責めずに自分の欲求を表現し、相手の言い分にも共感的に耳を傾けることの方が多いが、消極的 or 攻撃的なコミュニケーションをとることも時々ある。

 レベル3
:自分も相手も責めずに、双方の欲求を平和的に交渉できる。


3.真我に目覚める

 瞑想などを通して、心の中に生じる思考や感情を観察し、その中に巻き込まれず、心を超えた領域への気づきを目覚めさせることで、心の現象からの自立と自由、そしてより拡大した自己意識が得られます。

 この領域に取り組まない大勢の人たちは、自我と完全に同一化した生活を送り、自我の反応に振り回されています。

 私は、アウェアネスの実践、座禅、ヴィパッサナー瞑想、呼吸の観察、エックハルト・トールの静寂の実践、祈りなどから学んできました。

 レベル1:心に生じる怒り、怖れ、悲しみ、自己否定感と同一化し、それが自分だと思っている。そこから自由になる術を知らない。

 レベル2心に生じる怒り、怖れ、悲しみ、自己否定感を無執着の状態で受容し、観察することができ、自我の世界を超えた意識を体験的に味わい始めている。自我の反応に対して、気づきをもって処理できることの方が多いが、同一化して苦しみの世界に引き込まれることもまだある。

 レベル3心に生じる怒り、怖れ、悲しみ、自己否定感を気づきの中で受容し、観察できている。これらのマイナスが生じても、引き込まれず、脱同一化している。


4.無意識を浄化する

 私たちの心理的苦痛の原因の多くは、無意識の領域にあります。現在の状況によって刺激される苦痛の反応は、過去から持ち越したマイナス信念・マイナス感情であることが多いので、心理的苦痛が生じた時に、無意識にあるその原因を突き止め、取り除けることが大切です。

 私は、ヴィパッサナー瞑想、フォーカシング、セドナメソッド、コア・トランスフォーメーション、論理療法、
NLP、EFT、バイロン・ケイティのワーク(ザ・ワーク)、エモーション・コード、ボディー・コードなどから学びました。

 レベル1:心理的苦痛が生じると、快楽を求めたり、否認することで対処するため、苦痛は永続する。

 レベル2心理的苦痛が生じると、その原因を自分の中に探り、取り除くことで楽になった経験が多少ある。苦痛の原因は、相手とか状況ではないということに気づき始めている。自分の内的体験に対する責任が自分にあるという考えに共鳴する。

 レベル3心理的苦痛が生じると、その原因を自分の中に見つけて取り除くという実践を続けて長いので、どんどん自分を解放してあげているという実感がある。

問題は「今ここ」に現れてくる

 カウンセリングをしていると、ご自分の問題を理解しようと質問をし、私の回答を一生懸命にメモに書き留めてお帰りになる方々がいます。

 いわゆる「講義」を受ける形式のやりとりです。

 まず知識として頭に入れて、家に帰ってからそれを反芻し、自分のものにする。

 これが機能すれば立派なことだと言えます。ひとつのアプローチとしてその価値を私も認めます。

 しかし、全く異なったアプローチというものもある。

 「講義」形式のやりとりが「知的理解」と「実践による習得と変容」を2段階に分けたものだとすれば、「体験」形式のやりとりは「習得と変容と知的理解」をいっぺんに達成してしまいます。頭と体を分けません。

 フレンチトーストの作り方を私が説明してあなたがメモをとるというやり方は前者。あなたと私で実際に作ってしまおうというのが後者です。

 実際に「やる」ことで、「ああ、こうすればいいんだ」「こうするとうまくいかないんだ」と、体験から分かることがある。頭で分かるだけでなく、実際にできるようになる。

 私のカウンセリングはこういった「体験的変容」を中心にしています。

 なので、自己嫌悪に苦しむ人の場合、自己嫌悪がなぜ起こるかという理論を説明して帰ってもらうのではなく、実際に自己嫌悪を一緒に見ていくのです。

 自己嫌悪という体験を「いまここ」で体で味わいつつ、一緒に解いていきます。

 頭と体を分けません。

 自己嫌悪という問題を抱えている人であれば、それが「今ここ」に必ず現れています。過去や未来ではなくて、今現在それを感じているはずです。

 あくまで「今ここ」にその実体が五感で感じられます。それを材料にして、実体に接触して扱っていくのです。問題を概念的に処理するのではなく

 つまり、「今ここ」でその人は自分が嫌いであり、自分を責めている。自分の中に罪悪感や無価値感がある。それを話してもらいます。

 「頭でまず理解して」という方法をとると、その間は実体に接触することを拒むことになります。

 体や心の実際を横へ置いておいて、理論的理解を純粋に求めると、体や心の実際に触れないので、それらに教えてもらうことができません。体や心から出ているシグナルを受けとって学ぶという回路が閉じてしまいます。体験に意識を開けません。

 なので「頭で考える」というモードは、意識変容を邪魔します。実際を「知る」という大事なプロセスを不可能にしてしまうのです。

 実際を「知る」という体験は、「頭で考える」というモードが静止して、完全に受身になって、知らない世界に開かれたときに起こります。体験は考えるというモードがストップしたときに可能になるのです。

 パールズが「考えるな、感じろ」と言ったのは、そういう真理を突いたわけです。

 自己嫌悪の人は、私と話していると、私が言ったひとことに対して怖くなったり、心を閉ざしたくなったりという反応を起こすことがあります。

 私との関係性において、「今ここ」で自己嫌悪の症状が出ます。それを横へ置いておかないで意識的にセラピーで取り上げることが大事です。

 「今、菅波さんが言ったことで、私は怖くなりました。自分が責められるのが怖い、否定されるのが怖いと感じています」と表現する。

 これは、「頭での勉強」ではありません。自己嫌悪を避けずにしっかりと味わう、そして認める。その中で、何かが深く変容していくのです。

 「今ここ」で感じていることを後回しにしない。「後で解決しよう」ではない。「今ここ」ではっきりと目を開いて見るのです。五感を開いて感じるのです。怖いことを認めて口に出すのです。相手に聞いてもらうのです。

 セラピーは「講義」ではありません。「生の体験」です。

 「今ここ」での体験に自分を開いていくと、問題が体の現実として感じられます。そして、それに接触し取り扱うことで、解決もまた「今ここ」で可能になるのです。「家へ帰ってから解決」ではありません。

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