菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2017年02月

「自己決定」の自由と責任

 自分に「起きてくる出来事」は選べません。自分の中に「生じてくる衝動や欲求」も選べません。

 しかし、「生じてきたものに対してどうあるのか」は自分が決められます「生じてきたものに対してどう関わるかと言っても同じことです。

 ここに人間の根源的な自由と責任があるのです。

出来事や他者の行動はコントロールできない

 出来事や他者の行動は選べません。

 両親の離婚も、地震による自宅の崩壊も、友人の暴言も、いったん起きたならば巻き戻して消すことはできないのです。


 けれども、出来事や他者の行動への「対応を選ぶ」ことができます。

 「対応を選ぶ」とは、①受容する or 拒絶する、②意味を与える、③行動するの3つです。

 たとえば、両親の離婚を①受容し、②「人生こういうこともある」と軽く受け止める自由もあれば、①拒絶して、②「私の人生は不幸ばかり。いいことは一つもない」と重たく解釈する自由もあります。

 
受容か拒絶かを決定するのは出来事や他者ではなく自分自身です。出来事や他者が決定すると認識した場合、自分には選ぶ自由がないことになり、「自分は不幸な出来事の犠牲者だ」という感覚が生まれます。

 意味を決定するのも出来事ではなく自分自身です。両親の離婚という出来事に一定の意味はありません誰でもこのように感じるべきだという意味が1つだけ存在するわけではないのです。すべての人は数多くの可能性の中から1つの意味を選んでいるにも関わらず、選んでいる自覚がないため、自分自身が選んだ意味に縛られてしまいます。

 どう行動するかを決定するのも出来事ではなく自分自身です。一緒に来て欲しいと言った母親についていくか、絶対父親と一緒にいたいと言い張るか、はたまた家出をしてひとりで生きていくか、自分が自由の中から選択します。

 このように、出来事や他者について3種の「対応」を選択することは、「自分がどのような人間であるかを決定すること」であり「自己決定すること」です。

 そう、私たちは出来事や他者への「対応」を選ぶことで「自分を形成する」のです。

内面で生じる衝動や欲求、感情もコントロールできない

 内面で生じる衝動や欲求、感情もまた選ぶことができません。

 休みたいという気持ち、相手を殴りたいという気持ち、同性の相手を好きだという気持ちが生じてきた場合、どれもコントロールすることはできません。気持ちは勝手に湧いてきます。それを消してしまうことはできません。

 けれども、気持ちに対して①受容する or 拒絶する、②意味を与える、③行動するの3つを選んで「自己決定」することができます。そして私たちは、自覚のあるなしに関わらず、実際そうしているのです。

 たとえば、「休みたい」という気持ちが生じたとき、それを①素直に受け入れて、②休養が必要だと解釈し、③昼寝をするかもしれません。あるいは①拒絶し(抑圧し)、②休みたいなど怠慢だ、自分はたるんでいると解釈し、③無視して頑張り続けるかもしれません。

 このように、私たちは内面の衝動や欲求、感情への「対応」を選ぶことでも「自分を形成する」のです。

幸不幸は「自己決定」が左右する

 幸福は、いいことばかりが起きることではなく、何が起きても幸福になるような「自己決定」をすることで得られると私は考えています。

 出来事や他者が自分を不幸にするのではない。出来事や他者に対してなされる決定によって自分を幸福にしたり不幸にしたりするのです。また、自分の中の衝動や欲求、感情が自分を不幸にするのでもない。衝動や欲求、感情に対してなされる決定によって自分を幸福にしたり不幸にしたりするのです。

日本の LGBT 映画がベルリン映画祭でテディー賞受賞

 脚本・監督 荻上直子
 出演 生田斗真、桐谷健太ほか

 映画『彼らが本気で編むときは、』

 今週末、2月25日公開

 生田斗真さんが、トランスジェンダー(MtoF)の人物を演じています。

 今回、荻上監督が受賞したテディー賞は、30年前よりベルリン国際映画祭で LGBT の映画を表彰する目的で設けられました。

 公式サイト http://kareamu.com



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2017年3月6日追記

 本日、映画館で見ました。心の芯まで優しくなる、女性監督ならではの映画でした。見ている間に泣けてくる映画は多いけれど、これは見終わって30分ほどしてじんわりと涙が出てくる感じでした。余韻がものすごい。

 荻上監督は「かもめ食堂」も作っていらっしゃるんですね。あれも私、大好きでDVD持っています。

 性的少数者としては、こういう映画が日本に生まれたことはとても嬉しいです。言葉やロジックで説得するよりも、人の心を動かしてくれますね。

 何度も何度も使われていたマクダウウェルの音楽、実は大好きでよく昔ピアノで弾いていた曲でした。

 生田斗真さんの演技は「圧巻」のひと言!
 

後味のよい断り方

 人間なら誰しも、自分の時間やお金やエネルギーを要求してくる人に対して「ノー」と言わなくてはならないことがあります。

 私自身、こういった状況で「ノー」と言うことが初めは上手にできませんでした。

 相手の反応が怖くてつい「イエス」と言ってしまうこともありましたし、露骨に「ノー」と言い過ぎて気まずくなったこともあります。

 「後味が悪くても断るしかない。しょうがないんだ。」長らくこんな風に考えていました。けれども、やはり心地悪さを放っておけず試行錯誤しているうちに、1つの真実に出会いました。

 後味が悪くなる原因が、「心の持ちよう(姿勢)」と「断り方(技術)」にあるということに気づいたのです。

 今日は、その断っても心がスッキリとしていられる方法をお伝えします。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

① 断ってもよいという軸が定まっているか

 断るときに心が不安定になる原因の1つは、「断っていいのかどうか」という判断軸がブレていることです。

 たとえば、忙しいときにセールスの電話がかかってきたとしましょう。セールスだと気づいた時点で断ることを自分に許可できれば問題ありませんが、多くの人は「断ってはいけない」「断るのは申し訳ないので聞いてあげるべきではないか」と思ってしまいます。

 つまり、断ることについて「悪い」という規範があって、断ることに罪悪感を感じているならば、そのことが心を不安定にさせます。ですから、断ることは何も悪くないという思想が自分の中で確立していることがまず大事です。 

② 明確に意思表示をし、引かない

 セールスの電話を断るとき、以前の私は「うちは結構です」といったん言うものの、相手がまた話し出すと聞いてしまっていました。断るつもりだったのに引いてしまったせいで、相手のペースに乗ってしまったわけです。

 こちらの意思表示が弱いと、相手はまだ可能性があるかもしれないと思い、要求し続けることがあります。断る意思がはっきりしているのであれば、相手が話し続けたとしてもそれを遮って「営業のお電話はお断りしております」などと毅然と伝え続けることが大事です。

 それでも遮って話し続ける相手の場合、「それでは失礼いたします」と言って電話を切ればいい。こちらの意思表示を無視して話し続ける人であれば、「用事がありますのでこの辺で」などと言って意思表示を貫きます。相手のペースに乗らないことが大事です。 押しが弱い人は、相手が強く出てくると引いてしまうのでいけません。引かないことです。

③ 相手への心遣いも添える

 そして、3つ目のポイントが結構大事なのですが、やはり相手の立場も考えて心遣いをすることが大事です。以前の私はセールスの電話を迷惑としか考えていませんでした。けれども、考えてみると相手も顧客を集めてくることを会社から要求されて一生懸命働いているのです。その人の立場に立ってみると、断るにしても相手の気持ちは大事にしたいと思い始めました。

 つまり、「ノー」とは言うのだけれど、相手への優しさも持とうと思ったわけです。

 「優しさ」=「聞いてあげる」と誤解すると不自由になります。あくまで断るのだけれど、断り方に優しさを添えるのです。 

 相手の立場を慮れるようになってからの私は、断り方が根本的に変わりました。

 「ご苦労さまです。大変申し訳ありませんが、私は営業のお電話はお断りしております」と言う私の声のトーンが柔らかく優しいものになりました。しっかりとした声なのですが、キツくないのです。

 そうすると、大部分の人は「そうですか」と言って理解してくれ、気持ちよく電話を切れるようになったのです。断ったのに、私の心はほんわかと温かい感じすらします

 後味のよい断り方のコツは、「ブレずに断ることで自分を大事にする」と同時に「断られる相手への優しさも示す」というシンプルなことなのです。

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魔法のことば「ごめんなさい」

 
「明確に断ること」と「相手に心遣いを示すこと」の2つの目的を同時に叶えてしまうのが魔法のことば「ごめんなさい」です。

 キッパリと、かつ優しく「ごめんなさいね」と言えば、十中八九、相手は分かってくれます。謝罪をしている相手、思いやってくれている相手に強く押し続ける人は滅多にいません。

 「ごめんなさい」以外にも「申し訳ないです」「折角◯◯くださったのに」などと心遣いを示すことで「断る意思」も伝わってくれます。

「自己」は映画のスクリーンのよう

 映画館へ行って映画を見るとき、私たちは白いスクリーンに映った映像を見ています。映像を見ているとき、白いスクリーンは意識されません。色と形に気を取られているとき、真っ白なスクリーンの存在に注意は行かないのです。

 映像とスクリーンは密着していて一体です。スクリーンなくして映像は見えません。

 人間の意識も同じです。

 人間の意識には有形の内容と、それを支える無形の純粋意識とがあります。純粋意識は無色透明で、それ自体を対象として知覚することはできません。純粋意識は対象となる思考や感情などを照らし気づかせてくれますので、私たちは思考や感情の存在には気づきます。けれども、思考や感情を照らしている純粋意識にはなかなか気づかないものです。

 この純粋意識は私たちの内奥にある「自己」そのものです。人間の「わたし」という意識は「自我」と呼ばれます。「自我」は「自己」から出てきた「自分という感覚」「自分というアイデンティティー」です。「私は日本人だ」とか「私は会社員だ」とか「私は慌て者だ」などという観念的イメージによってできているのが「自我」です。これは有形な自我像であって、スクリーンに映った映像と同じです。私たちの真の自分、つまり「自己」は、この「自我」を照らしている無形の自分です。

 瞑想で「気づき」とか「アウェアネス」あるいは「マインドフルネス」という言葉をよく使います。呼吸や心身の内容物を観察して一つ一つ気づくとき、この「気づき」や「アウェアネス」は無形の働きです。

 「アウェアネス」とはどういうものか、もう少しお話ししましょう。 

 もし皆さんが目の前の花びらに止まった蝶々の様子をじっと観察しようと思ったら、体の動きも止めて、あれこれ考える頭も止めて、意識をいわば空っぽにして蝶々に注意を向けることでしょう。

 意識が内容物でいっぱいだと、つまり考え事をしていたり、体を激しく動かしていたりしたら、蝶々の動きは察知できません。意識を受身にして、蝶々から来るものに印象づけられるよう開かれているとき、蝶々の羽の色や動き、触覚の様子などが細かく感じられます。

 蝶々の羽の模様に気づいている瞬間を思ってみてください。電灯の光が当たったかのように、対象がはっきりと知覚されます。このとき、蝶々の羽という対象にばかり気が行くかもしれませんが、気づくためには照らす意識の光が必要ですよね。これが私たちの根底に常に働いている純粋意識です。

 気づくということは思考するということとは違います。蝶々の模様に気づいているとき、その模様を考えているのではありません。気づいているとき、そこには思考は存在しません。

 このように「アウェアネス」とは、それ自体、色も形もない、純粋な光のようなものです。 

 あまりにも当たり前すぎて、私たちの中にある「アウェアネス」というものに気づかない人も多いのですが、言われてみるとどなたにでも分かるだろうと思います。

 蝶々の模様に気づいているとき、「アウェアネス」の対象としての蝶々の模様が意識の中にあります。と同時に、対象ではない主体としての無色透明の「アウェアネス」が白いスクリーンのようにそこにあり、これら2つは表裏一体を成しています。

 「アウェアネス」がなければ、物事を意識することはできません。

 私たちは何かを意識するとき、ほぼ常に意識される側の「対象」に注意が行きます。それは広いスクリーンに映った映像に注意が行くのと同じです。

 しかし、わざと意識される側の「対象」にではなく、意識する側の「主体」に注意を向けてみてください。「何が」気づいているのか。「何が」意識しているのか。光源そのものを意識するのです。

 その光源は無形であり無色透明です。なので対象物として意識することはできません。このように、絶対的主体はとらえどころがありません。けれども、あらゆる知覚の根底には必ず存在して働いていることがお分かりでしょうか。

 この無色透明の光源があなたであり、わたしです。本当の「自己」です。

 あらゆる有形のものは無形のものから生まれ出ています。そして、有形のものと無形のものは表裏一体です。無形がなければ有形もなく、有形がなければ無形もない。無形のもの即ち有形のものであり、有形のもの即ち無形のものです。 

 有限の世界はそのままで無限の世界の表れであり、有限の命はそのままで無限の命なのです。

 すべて「客体(対象)」として経験されるものは、「主体(自己)」の表れであり、主客一体と言えます。

線引き(父性)の上手な人・下手な人

 すべての人は「父性」と「母性」を兼ね備えていますが、どのような割合で体現しているかには個人差があります。男性性と女性性と同じく、人によって割合は異なるのです。

 この記事は、「父性」のあまりない、極めて女性的な人たちに向けて書かれています。とてもソフトで女性性が優位な男性たちもここに含まれます。

 「父性」がしっかりしていない人の特徴として、他人との境界線がきちんと引けず、相手からの侵害を許してしまったり、逆に相手のことに干渉したり世話を焼いてしまうというものがあります。

 「母性」は養育的なので、相手に尽すとか世話をすることが好きです。そして、繋がることが好きです。なので、イヤなことを頼まれても断れないとか、自分を傷つけるような人であってもなかなか切ることができないという風になりやすい。

 「母性」のマイナス面を音にすると、「ベタベタ」「ズルズル」。「父性」の潔さとは対極を成します。「父性」は「パシッ」「カキ〜ン」「スクッ」。

 女性でも「父性」が健全に発達している人は、割り切りがいい。自分の責任でないことを背負わずにいられます。「線引き」ができる。ところが「父性」の足りない女性は、「ベタベタ」「ズルズル」と相手に引き込まれてしまう。あるいは、相手を自分の事情に引き込んでしまう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 私の身近な例を挙げましょう。 

 自分のことを話すのが大好きなおじいさんがいました。淋しくて心の通い合いを求めているのだろうと見受けられました。このおじいさん、私が行くあちこちの店に出没するのです。

 A 店のママさんは、このおじいさんのおしゃべりに長い間付き合って、おじいさんが帰ると「やれやれ」と言う顔を私に見せました。「ああ、無理しているんだなあ」と分かりました。

 B 店の女性店長さんは、このおじいさんが話しかけても気づかない振りをして、店内を歩き回り仕事をしました。言葉に出さずとも、態度で「私はあなたのおしゃべりには付き合いません」というメッセージを発信していたのです。

 さて、皆さんは A 店のママさんが優しくて、B 店の店長さんは冷たいとお思いでしょうか? 「お客さんなのだから、話を聞いてあげるべき」だと思いますか?

 私の考えはこうです。

 このおじいさんには、癒されない淋しさがある。それを癒したいために人と関わりたい。それは理解できます。しかし、この人は自分の孤独や淋しさを自分で抱えきれないので、相手に癒してもらおうと依存しているのです。彼が店員に求めていることは、店員の仕事の範囲を超えています。店員にはそこまで応えてあげる責任はありません。

 かなり重たい依存がそこに見て取れます。通常の感覚の人であれば、このように依存されれば重荷に感じるものであり、その感じ方は正常だと認めて良いのです。

 つまり、「応えられない」としっかり認識し、行動でもそれを示すのが、しっかりと境界線を設けることになります。

 このような理解を確立すること、思想をしっかり持つことが「父性」です。「父性」がぐらついていると、この人の要望に応えるべきか応えなくていいのかという判断がつきません。規準がないのです。規準がなく気持ちが揺れているというのが「父性の欠如」を示しています。そして、イヤイヤ応えてしまっている A 店のママさんはまさにこれなのです。

 私は B 店の女性店長の「父性」に感服しました。この方はとても仕事ができる人で、社内でも高い評価を受けていました。

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 もう1つ例を挙げます。

 私はレストランで注文する際、食べたくない食材を抜いてもらえないか尋ねることがあります。もちろん同じ料金を払うつもりですし、都合により抜けないという回答であればそれを受け止めるつもりで尋ねます。強制するつもりはさらさらありません。抜いてもらえるなら食材が無駄にならずに済むし、私も料理をより楽しめるので、相手に負担でなければお願いしたいという気持ちなのです。

 これはリクエストであり命令ではありません。ノーならノーと言ってもらえばよい話です。

 このようなリクエストをしたとき、相手の反応は様々です。

 私の依頼に応えられない場合にその違いが顕著に表れます。

 「申し訳ありませんが、できません」とさらっと言ってもらうのが私には最も心地よいのです。それが店と客の間に健全な境界線が引かれている状態ですね。

 「店は客の要望にすべて応える必要はない」という思想が店員の側に確立していれば、スッキリとした気持ちで私にノーを言うだけで事足ります。

 ところが、店員によっては、私にノーと言うときに、明らかに不機嫌になったり罪悪感を感じて平謝りする人がいます。

 私に対して怒りを感じる店員も、私からの反応を怖れる店員も、境界線が健全ではありません。

 この両者はともに、どこかで「客の要望に応えなくてはならない」と信じているのだろうと推察します。そして、応えられないことを要求してくる私に対して必要以上に負担を感じ、私に嫌悪感を持つ。あるいは、罪悪感から逃れたい一心で私に対して平謝りをする。

 2人とも、私を満足させることへの責任を背負い過ぎているのです。責任を背負わなければ、「断ればいいだけ」と思える。その方が私も有り難い。なのに、背負い過ぎているばかりに、私からのリクエストをリクエスト以上のものとして感じてしまう。要求されているように感じて負担に感じる。負担に感じるのは、彼らの捉え方によるものなのに、私が彼らに負担を与えているように感じてしまう。なので、私に対して怒りか怖れを持ってしまうわけです。

 こういう場合私が彼らに伝えたいのは、「私を満足させなくてはならないと思ってもらう必要はないですよ」ということです。私は単に「可能ですか?」と聞いているだけなのです。

 このように、相手のことを背負い過ぎる人は、却って相手を大事にできません「ここまでは私の責任、ここからはあなたの責任」という線引きができている人のほうが、よほど付き合いやすいのです。

 「ごめんなさいねえ。ホント申し訳ないです〜」と顔をしかめて謝られることは気持ちよくありません。「そんなに謝らなくても応えてもらえない不満を自分で受け止められますから」と言いたくなる。

 相手の感情の責任を引き受けようとするのは、母親が未熟な幼児の世話をするのに似ています。母子融合状態なのです。これは相手を子供扱いすることです。

 一流のホテルやレストランでの接客を見ていますと、この辺の「父性」がしっかり確立されています。断り方がキレイです。「申し訳ございません。それはできかねます」とスッキリと伝えてくれます。「ああん、ご免なさいねえ」というねちょねちょした幼児扱いがない。一流の接客は、基本的に欧米から来た父性文化を継承しているからだと思います。

 相手の母親になろうとすることは、相手の能力や責任を軽んじる行為で、不遜なのです。相手を尊重するというのが「父性」であり、相手ができることをこちらで背負おうとはしない。相手の問題は相手が解けると信頼して放っておく。立ち入らない。

 それが「線引き」です。

 できないことはストレートにできないと言えばよい。それが「父性」です。それを相手が受け止められるかどうかと心配するのは「母性」。「母性」はあくまで相手を自分の養育が必要な未熟な存在だと見てしまう。そして「母性」は相手と自分が別の存在であるとは感じない。「一体感」を持ってしまう。なので相手の問題は自分の問題、自分の問題は相手の問題だと感じてしまうものなのです。

 なので「母性」だけの人は「線引き」ができません

 もしあなたが「線引き」の苦手な人であるならば、「父性」を徐々に養っていくことをお勧めします。「父性」的な思想に触れて取り入れていくのです。そして、実際に「線引き」の実践を積み重ねていく。「自分は自分、子供は子供」とか「自分は自分、相手は相手」と唱えて、課題をきちんと分離する練習を重ねる。

 「私は相手を満たすために生きているのではない。相手は私を満たすために生きているのではない」という文言はパワフルです。「母性」の対極にあります。

「父性」と「母性」は共に育つ

 「父性」と「母性」は共に育つのであり、片方だけが単独で成熟することはできない、というのが私の考えです。

 「母性」が成熟していない人の「父性」は権威主義的で一方的になりがち。また、「父性」が成熟していない人の「母性」は依存的で過干渉になりがち。

 つまるところ、「母性」が健全に機能するためには成熟した「父性」の支えが必要であり、「父性」が健全に機能するためには成熟した「母性」の支えが必要なのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 私は多くの悩める人の相談に乗って来て、「母性」を十分に受けなかった人が世の中に多いのだと最初は感じていました。

 「母性」とは「包み込むこと」「無条件に受容すること」です。不安や悲しみなどの感情があるとき、まるごと包み込みながら聞いてくれる人、それが「母性」の人です。そういう共感的聴き方を受けていない人がとても多い。そして、私がカウンセラーとして彼らの気持ちに耳を傾けるとき、私が「母性」を発揮しているように感じることがあります。

 ところがあるとき、「父性」を十分に受けなかった人も同じぐらい多くいるということに気づきました。「母性」が足りていなかった家庭には、「父性」もまた足りていなかったのです。

 「父性」とは「切り分けること」「線を引くこと」です。切り離すことのない「母性」とは対極を成し、「父性」は何かを選び何かを捨てる作用を含みます。

 「父性」は自分の責任において人生を選び取っていく中で培われます。「父性」は自分の中の「規準」と言ってもいいでしょう。

 自分の物差しがしっかりしていない人、人生の指針がはっきりとない人は「父性」の乏しい人です。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「母性」の負の側面が目立つ

 「母性」のマイナス面は「母子融合状態」のような人間関係を増幅することです。情緒的に自立していない人同士が、お互いの領域に干渉し合い、孤独を避けている。相手に自立してもらっては困るので、自分の必要性を満たしてもらうために相手を束縛します。

 これはしばしば「あなたのためを思ってしている」というロジックを用いてなされます。

 相手と自分を独立した「個」として切れない。境界線を引けない。こういう人が世の中にとても多いです。それには、依存的な関係を支持するような哲学が幅を利かせて来たことも関係していると思います。

 日本には「貸し借り」的な発想が多い。「これをしてもらったから、お返しをしなくてはならない」というような考えです。「恩」という言葉にも表れています。人間関係における「義務」についての信念がとても多く存在し、心を縛っています。

 こういう心理的環境において、多くの人が自分らしく生きることに罪悪感を感じてしまいます。「義務」を果たさず我がままでいるように感じてしまうからです。

 私たちは相手の不満感情に責任を感じるように教育されています。相手の期待に応えることが当然であるという思想を信奉しているわけです。すると、相手と自分との間に境界線を引くことが困難になります。

 このようにして、癒着の関係から自由になれない人がとても多いのです。

 では解決に向けて何ができるでしょうか?

 1つとても大事なことは「父性」を確立することです。人と人との健全な境界線を設けるための人生哲学が日本にはこれまで明確に存在しませんでした。ところが、近年になって、欠けている「父性」を補うような考え方がいろいろと輸入されています。

日本人に欠けている「父性」を補う思想

 私がお勧めしたいのは①アドラー心理学、②選択理論、③親業の3つです。

 これらはいずれも、自分の課題と相手の課題をしっかりと区分けし、相手の領域に口を挟まず自分側の責任だけを負う考え方に基づいています。

「母性」は存在に対する無条件受容へと昇華する

 それから、自分に未解決の情緒的問題があると、それを相手(自分の子供など)を通して解決しようとしてしまうことがあります。

 こういう場合、自分の感情に向き合って受容し、深く傾聴する実践を重ねることで、自分がどのように感じていても自分自身の存在を無条件に受け入れられる度量が増していきます。

 この実践が、「母性」を癒着的なものから、相手を自由にしておける無条件受容へと引き上げてくれます。 

 自分の中に癒されていないトラウマや束縛するマイナス信念があると、相手にも自分にも純粋に「母性」を発揮できません。ついつい縛ってしまいます。なので、自分の心の問題に取り組み続ける姿勢が重要です。

「厳しい親」は意外と「母性」

 「母性」は優しさで「父性」は厳しさだと単純に言うことはできません。

 「勉強しなさい」と口うるさく言う親は、「父性」ではなく「母性」の負の側面を体現しています。「父性」は子供を独立した人格として尊重できますので、子供の領域にずかずかと入っていくことはしません。「勉強したくないならしないでよい」「したくなるまで放っておく」「自分で試行錯誤して学んでいけばよい」と放っておけるのが「父性」なのです。

 ガミガミと子供を支配しようとするのは、未熟な「母性」の表れと言えるでしょう。

 「巨人の星」で息子に厳しい訓練を課す父親・星一徹は、母性の負の側面を表しているのであり父性ではない、と野口嘉則氏は言っています。自分の夢を子供に託して実現させようとするのは、健全な「父性」ではありません。

 あと、日本にとても多いのは、上下関係の中で先輩が後輩のプライベートなことに口を出す行為です。「お前そろそろ結婚したほうがいいのじゃないか」などと言う。これも母性の負の側面です。母子融合状態に酷似しています。

 私が11年過ごしたアメリカでは「父性」がかなり強いので、他人の結婚するしないにアドバイスする人というのはほとんど見聞きしません。「それはあの人が決めるべきことだ」という線引きがきちんとされているのです。親が結婚した子供に「早く孫の顔を見せてくれ」とねだるというのも見たことがありません。「子供を作るかどうかは、当人たちの決めること」と弁えている人が大多数です。

「自己受容」と「人生哲学の確立」によって成熟できる

 このように、母性の深化による「自己受容」と、父性の深化による「人生哲学の確立」が作用し合って、ひとりの人間が「自分であること」と「相手と関わること」の両領域において成熟していけるわけです。 

 

野口嘉則「自分という大地に根を張る生き方」

 いろいろな宝の詰まった素晴らしい講演です。




推薦図書

 

共依存者がナルシシストに惹かれる理由

 人が人に惹かれるとき、自分と同質のものを持っている相手に惹かれる面も確かにありますし、また異質の(しばしば対極の)ものを持っている相手に惹かれる面もあります。

 共通点がある程度なくては関係が成り立ちません。しかし、共通点だけだと面白くない。やはり、自分と違った面、特に自分の欠けているものを補ってくれるように感じる相手に私たちは惹かれるものなのです。

 この「補ってくれるように感じる相手に惹かれる」という法則は、男が女に惹かれるとか、感情的な人が理知的な人に惹かれるなどという現象に見られます。

 そして、共依存者がナルシシストに惹かれるのも、この法則から説明することが可能です。

 共依存者は「自己主張」を抑えて、相手への「共感」と「繋がり」を優先して生きて来た人です。それに対して、ナルシシストは、相手への「共感」と「繋がり」を抑えて、「自己主張」を優先して生きて来た人です。

 いずれも、健全でまん丸の成長を経て来ていません。感情的成長において欠損があります。

 共依存者が健全でまん丸の成長を遂げるためには、本来は「自己主張」を学んでいかなくてはなりません。ところが、自分が「自己主張」を統合する代わりに、「自己主張」の強い人に惹かれていくのです。

 ナルシシストもまた健全でまん丸の成長を遂げるには、本来は「相手への共感」や「繋がり」を学んでいかなくてはなりません。ところが、自分が「共感」を統合する代わりに、「共感」の強い人に惹かれていくのです。

 このように見ていきますと、共依存者にとってナルシシストは教師であり、ナルシシストにとって共依存者は教師であると言えます。つまり、相手は自分が欠けているものを体現しているのです。

 ところが、共依存者の「共感」は自分を抑えた不健全なものであり、またナルシシストの「自己主張」は相手を顧みない不健全なものであるため、自分が学ぶ必要のあるものの「歪んだバージョン」にしか過ぎません。

 つまり、やはり本来の成長という目的から見て、共依存者に必要なのはナルシシストと一緒にいることではなく、自分自身が「自己主張」を身につけていくことなのであり、ナルシシストに必要なのは共依存者と一緒にいることではなく、自分自身が「共感」を身につけていくことなのです。

 相手は、自分が体現すべきものの影を見せてくれているだけだと思います。

 自分が体現すべきものを体現せず、相手に補ってもらおうとしている限り、不満が解消されません。共依存者とナルシシストの関係は感情的に大きな不満を抱えるのが通常です。相手にどうしようもなく惹かれつつ、関係は健全に機能しません。

 共依存者とナルシシストの関係が崩壊するとき、双者にとって成長に向かう大きな機会です。関係の崩壊は、成長へと後押ししてくれるのです。 

 アイドルに陶酔するという現象もまた、自分が体現すべき自信を相手に肩代わりしてもらっていると言えます。自己実現を進めていくと、陶酔するということが次第になくなっていきます。それは、自分自身の生き方への肯定感がきちんと培われてくるからです。

 私たちは自分自身がこうなりたいと思う相手に惹かれます。そして、惹かれていることにいつまでも依存せず、そこから少しずつ相手と同じ資質を自分も身につけていくと、その出会いが成長に繋がるわけです。

 共依存者はナルシシストと恋愛を繰り返し、二度とナルシシストと恋に落ちないと意識では決めるのですが、無意識が変わらない限り、何度も同じ体験を引き寄せていきます。

 共依存に向き合って、深い感情の変容を通る必要があります。それが達成されると、自然とナルシシストが魅力的な人間でないように感じ始めます。ナルシシストの「自己主張」は決して健全なものではないので、健全な感覚の人からすると不快なのです。健全な自信を持ち、相手を慮りながら「自己主張」のできる人というのは、もう少し落ち着いた穏やかさを伴っています。

 そういう人を魅力的だと感じられるようになるためにも、自分自身が抑えて来た「自己主張」を掘り起こすことが大事です。

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