菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2017年03月

相手と心が繋がらず迷子になるとき

 私は相手と「心が繋がっている」かいないかということを割合と敏感に感じるほうだと思います。「心が繋がっている」というのは、相手が「なぜこの話を今しているのか」という動機が透明に見えてくるので「心が分かる」ということです。

 相手の言動の背後にある動機が不透明なとき、「なぜこの話を今しているのか」「なぜこのような振る舞いをするのか」「なぜこのような依頼をしてくるのか」がピンと来ません。

 相手の言う「ことば」の機械的な意味はもちろん分かる。けれど、この「ことば」が心のどういうところから出てきているのか、どういう気持ちで話しているのか、何を求めて話しているのかが見えない。そうすると、私は自分が「迷子」になったように感じるのです。

 「心が通じていない」というのは淋しいもので、お互い「ことば」を伝え合ってはいても「心は触れ合っていない」のです。 

 たとえば、ピアノを練習したくない子供がピアノレッスンに通う。先生もその子の気持ちに注意を払わず、淡々と教える。ピアノレッスンは行われているけれど、「心の繋がり」はない。子供は本音でないところで習っているし、先生も本音でないところで子供と関わっている。表面上はピアノ教育が施されている。とても淋しい絵ですね。

 心が透明な人がカウンセリングを受けに来ると、その人の「ことば」は真っすぐに心に届きます。その人の言わんとしていることも明瞭だし、どういう気持ちからそれを言っているのかも淀みなく伝わってくる。そういう人ばかりだと有り難いのですが、実際には感情の混乱がある人が多いので、そうもいきません。感情の混乱を整理するのが私の仕事ですから、もちろん文句はありません。

 人は自分の動機になかなか気づかないもので、気持ちのまま話したいことを話す。けれど、何を求めて話しているのかと問われると言えない人が多いのです。

 人の心を理解するのはやはり簡単にはいきません。その人の用いている「ことば」が私の使い方と同じとは限らないし、形として出てくる言動の奥に、どういう欲求が働いているのかはほとんど隠れているからです。

 動機を理解することが「心」を理解することなのですが、しばしば動機は幾層にもなる思惑に覆われて霧の向こう側です。

 それでも私は、霧の向こう側を知ろうとして質問をするのです。なかなか繋がらない「心」と「心」に橋を架けようと頑張るのです。

 繋がる瞬間は、私も「迷子」でなくなり、相手も共感者を得て喜んでくれるのではと期待しながら。
 

トラウマ(未消化の過去体験)を処理する

誰にでもある「未処理のトラウマ」

 カウンセリングをやっていますと、ほとんどすべての人間に「未解決のトラウマ」があると分かります。

 「トラウマ」というと戦争や虐待など顕著な苦しみ体験を想像する人が多いかもしれません。けれども、実際には私たちの心はもっと微妙な日常の出来事によっても傷つくものです。

 たとえば、小学生のころ先生の質問に答えられなかったとき皆に笑われたとか、悲しい気持ちだったとき親に「いつまでも泣いているんじゃない」と叱られたなどという体験も「心の傷」になります。

 世の中の常識では、まだまだ人間の心が必要としている優しさや共感について、十分な理解がされていません。人間社会は、まだ極めて非共感的であり、無知と暴力性に満ちています。

 そして、ほとんどすべての人間は多かれ少なかれ傷ついてきているのです。 

 私は仕事柄、多くの人の内面を見せてもらいます。そして、傷ついていない人には会ったことがありません。

 「トラウマ」は、すべての人に関わる問題なのです。 

「トラウマ」は癒せる

 「トラウマ」は過去体験がその当時のマイナス感情とマイナス認知を伴って記憶されています。

 過去体験そのものは終了し、もう存在しません。残っているのは記憶だけです。

 「トラウマの記憶」に変化を加えないとすれば、苦しいままで凍結しているので、それを思い出すたびに苦しくなります。このとき、「トラウマは未処理の状態である」と言います。

 しかし、この「記憶」にある方法で働きかけると、
「記憶」の保存状態に変更を加えることが可能です。体験当初の感情と認知は苦しみを固定しますが、感情と認知を苦しみを生まないものに変更することで、「トラウマの記憶」は無毒化されます。

 このように処理された「トラウマ」は、それ以後、その人を苦しめることはありません。

 「処理済みのトラウマ」は苦しみを生まない。「未処理のトラウマ」だけが苦しみを生みます。

 私がカウンセリングと心理療法を通して行っている仕事の重要な部分が、この「トラウマの処理」なのです。

過去体験を「消化する」とは?

 「辛い体験の記憶」は「辛い状態」のままで残すしかないというわけではありません。

 この「記憶」にアクセスしたときに湧いてくるマイナス感情については、とことん傾聴し共感していきます。満たされなかった安全や理解や尊重などのニーズを理解し、その理解を感情に伝え返します。共感と理解を受けたマイナス感情は溶けていきます。また、マイナス認知については、「そのように捉える必要はない」と本人が納得すると、苦しみを生まないニュートラルかプラスの認知へと移行できます。

 感情的な辛さがなくなったところで、この過去体験への拒絶感はずいぶんと低くなります。そして、もっと冷静にこの体験から学べたことを自覚したり、以前は気づかなかったような周囲や相手の現実を理解できるようになることもあります。

 このように、感情的には平安になり、この体験を少なくともニュートラルなものとして、時にはプラスの学びを与えてくれたものとして認識することで、この体験を思い出したときにマイナス感情とマイナス認知が起きないようになります。

 「処理されたトラウマ」つまり「消化された過去体験」は、もう心の動揺を引き起こしません。

どんな辛い目に遭ったとしても、苦しくない状態に進める

 過去にどんな酷い体験があったとしても、その「トラウマ」にずっと苦しめられる必要はありません。その「記憶」に働きかけることで、苦しくない状態で保存し直すことはいくらでも可能です。

 この処理を経ることで、過去は過ぎ去ったものとして本当の意味で断ち切れます。そして前に進めます。

 ですから、まだ感情的に縛られている過去体験があるとすれば、きちんと処理をして前進することをお勧めします。
 

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心の奥の痛み
 

怒りの置き換えで生じる自己否定

 「怒り」は自分のニーズが侵害されたとき、そのニーズを守るために相手を攻撃しようとして起こる感情です。その意味で「怒り」には自己防衛・自己肯定の要因が含まれます。

 親に自分のニーズ(共感、尊重、理解、平等など)が侵害されたとき、親に「怒り」を感じるのが健全なことなのですが、親によっては子供の「怒り」を受け止められません。子供の「怒り」を聞いて、子供のニーズを侵害してしまったことを反省できる親なら問題ないのですが、多くの親は感情的に未熟なため、子供の「怒り」に対して「怒り」で対処してしまいます。

 支配的な環境で育った子供は、親に対して「怒り」を自覚すること自体に脅威を感じます。「怒り」を出すことは親との関係を危うくし、自分の生活環境を脅かすことになる。なので、「怒っていないことにする」ほうが心理的に安全です。

 こうやって、親への「怒り」は抑圧されます。

 しかし、この「怒り」のエネルギーはなくなりません。行き場を失った「怒り」は、しばしば自分に向けられます。本当は「親に対して不満」なのに、それをストレートに認めると生きていけない。なので、「自分に対して不満」という「置き換え」をやってしまうのです。

 親を否定する代わりに、自分を否定することで対処する。これは親への怒りを自覚せずに済ませる自己防衛策なのです。 

 夫にDVを受けている妻は、無意識では夫に不満だし怒りを持っている。けれども、夫への怒りを意識したら生きていけない。ひとりになるのが怖いので、夫への怒りは封印される。「夫には怒っていないことにする」のです。そうすると、その「怒り」は自分に向かい自己否定となります。「夫が怒るのは私に問題があるに違いない」と思うのです。「私が欠点を直せば夫は変わってくれる」というストーリーを信じて精神を安定させるという方法をとります。

 「私さえ変わればいい」「悪いのは私」というのは本当の感情ではない。本当の感情は「夫への怒り」。でも、それを意識するのが怖いので、怒りを自分に向けている。夫を否定すれば強くなれるのに、夫に頼りたい。だから、夫を否定せず自分を否定することで生き延びようとするのです。

 置き換えられた「夫への怒り」が、「私が悪いんです」という思想として現れます。

 相手への怒りを自分に向けていると、自分の心はどんどん弱っていきます。自己嫌悪によって元気を失っていきます。ますます無力感が増し、相手に依存せざるを得なくなる。悪循環です。 

 この人は、「夫への不満や怒り」から目を逸らす自己防衛をやめなくてはなりません。暴力を受けるに値する人などいません。暴力は誰に向けられたものであれ悪いのです。不満になるのは当然のことなのです。自己否定に逃げるのをやめるべきです。

 きちんと相手への怒りを自覚し認識すれば、自己否定はやめられます。

 自己否定は真実から逃げる安易な対処法であり、それでは人間関係の問題は解けません。 

あなたが嫌いな人は誰なのか、自覚する
あなたが怒っている相手は誰なのか、自覚する
何をされて怒っているのか、しっかりと自覚する
それはイヤだったとしっかり認める
代わりにこうして欲しかったということを自覚する
辛かった感情を受け入れて感じてあげる

自己否定に逃げず、本当の感情をきちんと所有する
そうすると自己統合・自己実現へ進めます
 

「共感(empathy)」が満たす3つの根源的ニーズ

 人間なら誰しも3つの根源的ニーズを満たしたいと思っています。

 「自己価値」②「パワー」③「繋がり」です。

 1つ目は「自分の存在を肯定的に感じたい」というニーズ。バリエーションとしては「認められたい」「愛されたい」「尊重されたい」など。

 2つ目は「自分は危険から守られ、自分を幸福にできるパワフルな存在だと感じたい」というニーズ。バリエーションとしては「守られたい」「自分を表現したい」「自分らしく生きたい」など。

 3つ目は「人と心が繋がっていると感じたい」というニーズ。バリエーションとしては「居場所が欲しい」「必要とされたい」「共感したい・されたい」など。

 それぞれが満たされない場合、1つ目は「自己否定」「自己嫌悪」「無価値感」になるし、2つ目は「被害感覚」「無力感」「無能感」になるし、3つ目は「孤独感」「孤立感」になります。

 「自己価値」「パワー」「繋がり」が満たされないとき、「劣等感」「無力感」「孤独感」になるわけです。そして、人間の苦しみは根本的にこの3つしかありません。

 この3つの苦しみを癒すときに大切なのが「共感(empathy)」です。

 感情に対して「共感」をもって接近する。そして深く傾聴する。

 このとき、3つのニーズを同時に満たしているのです。 

 カウンセラーがクライアントの話に耳を傾けるとき、ただ機械的に聞くのではなく、その人の存在そのものを無条件に尊重して聞く。つまり、「その人」を大事にしながら聞く。

 これは、相手の「自己価値」を肯定していることに他なりません。相手の話を大事に聞くということそのものは、相手の存在を大事にすることなのです。「あなたは大事な存在なんだよ」と言葉で伝えるのではなく、態度で伝える。それは、じっと全注意を相手に注ぐことによってです。

 相手が大事でなければ、注意をすべて注ぐなどということはできません。相手に肯定的な関心があるから、相手を大事に思っているから、相手の気持ちを聞きたいと思うのです。関心を寄せて相手の気持ちを聞くという行為自体が、相手の価値を肯定していることになります。

 人間は自分の話を誰かに聞いて欲しいと思う。自分を見て欲しいと思う。なぜなら、聞いてもらうこと、見てもらうことは、自分を大事にしてもらうこととイコールだからです。

 次に、「共感的な聞き方」は、相手を保護しています。相手の心理的安全を極めて大事にします。相手を責めたり非難したりしません。相手が感じるままを、そのまま理解しようとして寄り添う。これによって、相手は「守られている」と感じます。相手の個性を尊重して寄り添うので、相手は素の自分でいられます。そして、否定されることを心配せずに、自信をもって自分を出すことができる。自分でいることができるし、自分を表現できるパワーを実感できるのです。このようにして「パワー」のニーズも満たされます。

 3つ目に、「共感的な聞き方」は、何より相手の心と繋がることを可能にします。誰かがこのように聞いてくれることで「自分はひとりぼっちではない」と感じられます。「共感」は心と心を繋げて通い合わせてくれます。

 このように「共感」は、3つのニーズを同時に満たし、それらが満たされていない痛みを癒すことのできる万能薬なのです。 

 すべてのトラウマは「共感の失敗」によって起こります。そして、すべてのトラウマの治癒は「共感の回復」によって起こります。

 トラウマとは「自分の価値が否定される体験」「自分のパワーが脅かされる体験」「心の絆が断たれる体験」の3種類から成ります。そして、心のリハビリとは「再び自己価値が実感できるようになること」「再びパワーが実感できるようになること」「再び心の絆が実感できるようになること」です。

 そして、この3つの目的を達成するために、何より重要なのは「共感」なのです。

 「共感」を通して、私たち人間は「自分には価値がある」「自分にはパワーがある」「人と心を通い合わせられる(ひとりぼっちじゃない)」と感じることができます。

 ですから、セラピーでは過去に「共感の失敗」によって苦しんだ記憶を再想起し、そこに「共感」を送っていきます。「共感」は心の基本的な栄養。その栄養が断たれた部分に新しく栄養を送ることで元気になってもらうのです。

 3つの根源的ニーズが満たされなかった辛い体験を再訪問し、「今ここ」で新たに栄養を送り届けるのです。
 

表裏の差が激しい人

二面性の強い人

 意識と無意識の衝突が激しい人、つまり葛藤が解けない人は、統合されていない正反対の感情を持っています。

 たとえばハイになったりローになったりが激しい人。明るく振る舞うのだけれど、内面はとても淋しい人。暴力を振るった次の瞬間には平身低頭謝って許しを請う人。いい顔をして陰で愚痴を言う人。人によって支配的になったり服従的になったりする人。人当たりがいいけれど、1つ事が起きるとものすごくヒステリックに怒り出す人。

 このように、二面性が強い人の中には、癒されていない葛藤があるのです。

 この葛藤を生産的に解消することが自己統合です。

 葛藤が解けず、二面性の間で揺れるということは、まだ自分がよく分からないということです。自分の中によく分かっていない感情があるわけです。それらの感情と主体的に向き合うと、自分の内面が分かるようになります。

 正反対の感情のあいだでスッキリできないという場合、どうすれば自己統合に進めるのか。

 それは、2つの感情と対峙して、探究することによってです。2つの感情と対話して、中身をよく知るのです。 

ふたりの喧嘩を調停するのと同じように

 ふたりの人間が喧嘩をしていて、あなたが調停をしなくてはならないとしたら、どうしますか?

 ふたりの言い分をまずは聞くでしょう。

 たとえば、夫婦喧嘩の調停をあなたがするとします。妻は夫が子育てを手伝ってくれないと不満を言っている。夫は仕事で大変だからそこまでできないと言う。

 調停はそう簡単ではありません。「夫がもっと子育てを手伝うべきか」という問題として固定的に捉えると解けないこともあります。表面に現れている形は本質とズレていることもあるからです。この2人は現時点では「子育ての手伝い」という認識をしているだけかもしれません。

 とにかく、出てくるものに共感を示し、さらに奥にあるものを探究していきます。

 妻には「夫にもっと子育てを手伝って欲しいのですね?」と言ってまずは受け止める。「自分が望んでいるほど手伝ってくれていないと感じているんですね?」「それはどんな気持ちがしますか?」と感情を明らかにしてもらう。

 すると、妻は自分が大変な苦労をして子育てをしているが、その気持ちを夫に分かってもらえていないと感じていることが判明する。妻は夫の「共感」が欲しい。夫が妻の働きに感謝や喜びを感じているのかが実感できなくて「心が繋がっているように感じない」と淋しい思いをしている。

 夫の気持ちを聞いていくと、夫は夫で「子育てを手伝ってくれ」と言われると、いま仕事がキツい状況にあるのでアップアップしているのに、さらに負担を強いられる感じがして辛い。妻の力になりたくないわけではないが、外で働くことで支えようとしていることを分かって欲しい。夫も「理解」と「共感」が欲しい。

 調停者が「心の橋渡し」をする。夫には「奥さんをもっと手伝うか手伝わないかを論じる前に、奥さんは子育てが大変だという辛さに寄り添って欲しいと思っています。どう思っているのか、感謝しているのか、喜んでいるのか心で繋がりたいと思っています」と伝える。そして、夫の率直な感情を表現してもらう。夫から感謝の気持ちが出てくる。それが妻に伝わり、妻の心が少し穏やかになる。

 妻には「ご主人もいま仕事がとても大変な状況で、奥さんを手伝いたい気持ちはあるけれど、これ以上負担を増やすのは無理だと感じています。家庭を支えたい気持ちから仕事を頑張っていることを理解して欲しいと感じています」と伝える。そして、妻の率直な感情を表現してもらう。妻からも感謝の気持ちが出てくる。気持ちの伝え合いができたことを嬉しく感じているとも言ってくれる。それが夫に伝わり、ふたりの心が接近する。

 この夫婦の満たされていなかったニーズは、「子育てに関する協力」のように見えて、実際は「心の繋がり」「共感」だったのです。「相手は自分の気持ちを分かってくれている。私のニーズを大事に思ってくれている」と感じることが必要だったのです。

 ふたりがお互いに共感できたところで、夫から優しい提案が出る。「子育てひとりで大変だったら、何とか別の方法で援助を得られないかな?」夫は自分ができるときはできる範囲で支援をするつもりだと妻に言う。そして、足りない分は別の人に頼むことを話し合う。お互いのニーズを理解できたからこそ、心が繋がり、創造的な解決をふたりで話し合える段階に入りました。

 このように、バラバラな2つの心を繋げるには、「深く聞き合う」というプロセスが必要です。

 そして、自分の中にバラバラで繋がらない2つの感情があるときにも、必要なことは全く同じなのです。

 自分の中に相反する2つの心(感情)があるとき、「ふたりの喧嘩」を調停するがごとく、それぞれのニーズを理解しようと「聞く」のです。

「自分と自分との闘い」を調停する

 「相手を支配したい気持ち」と「相手に服従したい気持ち」の両方を「深く聞く」。

 「明るく振る舞いたい感情」と「淋しい感情」の両方を「深く聞く」。

 そして、この夫婦のように、いちばん深いところまで聞き合えたとき、そこに統合的解決の道が開かれていきます。

 こうやって葛藤が解けると、表裏がなく、統合された人格になります。

 自分の中に解けない葛藤があるというのは、自分の中で「喧嘩」が起こっているのと同じです。「自分と自分との闘い」があるので辛いんです。

 その「自分と自分との闘い」を終わらせて、心が穏やかになることが、自分を統合するということです。バラバラな心が、ひとつにスッとまとまるわけです。

心理には必ず表と裏がある

 「不安で人前に出られない」とか「恋愛依存だ」とか「暴力を振るってしまう」というような現象は、外から見える「表」の部分です。

 「表」には必ずそれを支えている「裏」があるもので、「裏」を解決せずに「表」だけ変えることはできません。

 「不安な人に、不安にならないようにならないように努力するとか、不安じゃないと言い聞かせる」などということはうまくいきません。「恋愛に依存する人に、恋愛に依存しないようにしないように努力するとか、してはいけないと言い聞かせる」という方法も無効です。「暴言を吐きたい人に、暴言を禁止する」だけでは強制的に我慢する時期が続いたとしても根本解決にはなりません。

 ということで、「表」の問題を解くために「裏」を探っていくわけです。 

 「人に対する不安」を詳細に見ていくと、「何を怖れているのか」がはっきりしてきます。ひとりぼっちになるのが怖いとか、価値を否定されるのが怖いとか、具体的に出てきます。これもまだ「表」の一部です。

 実は、この「怖い」という感情は、癒されていないものの再体験を避けようと一生懸命自分を守ってくれている防衛機能なんです。意外に思われるかもしれませんが、「怖い怖い」というのは、非常ベルのようなもので、危険を知らせることで自分を守ろうという動機が働いているわけです。

 「対人恐怖」という症状は非常に悩ましいものではありますが、この目的は自己防衛という正当なものです。

 では、「何から」自分を守っているのか。それは、無意識にまだ残っているトラウマ感情からなのです。内側に脅威の対象が実は埋もれている。それが抑圧されているので、外界に投影されているだけです。

 「ひとりぼっちにされるのが怖い」と言って外界を怖れ、未来の出来事を怖れているように見えますが、実は「ひとりぼっちにされた実体験の辛さ」が内側にちゃんと残っていて、それを感じないように感じないようにと抑圧を通して自分を守り続けている姿がそこにあります。

 防衛反応に気を取られて「表」しか見えていないとき、私たちの目には「癒されていないトラウマ感情」は見えていません。これが「裏」の部分です。

 つまり、「あなたは実際にひとりぼっちにされて辛かったことがあるんだよね?」と聞いていくと、「裏」の部分が表出してきます。この「裏」を完全に出してきて感じてあげる。認めてあげる。聞いてあげる。そうすると、「裏」は解消し、それとともに「表」も消滅します。

 「裏」が変わらない間、「表」は変われません。1対1で釣り合っているからです。

 「対人恐怖」の場合、「対人恐怖」にならざるを得なかった体験が過去にあったわけです。その過去の体験が「裏」、そして自己防衛反応が「表」。完全に釣り合っています。

 「表」を変えるには、「裏」を明らかにするプロセスが必要です。

 アルコール依存になる人の場合ですと、「アルコールを飲まずにはいられない」というのが「表」で、これは防衛反応です。「裏」にはアルコールを飲まずにはいられないほどの苦しみを過去に体験してきていて、その痛みが埋もれています。その痛みを吐き出させてあげることがセラピーです。

 「お酒を飲まずにはいられないほど、辛いことがあったんですね?」と共感的に寄り添ってあげることが基本です。

 「表」の悪さを説得してもダメ。「裏」が「表」を必要としていることを理解しなくてはなりません。「裏」が癒されることが根治に繋がるのです。

自己防衛の鎧に頼らずに済むには
隠れた苦しみを吐き出すこと

「愛情」「親切」「善意」の押し売り

 「愛情」「親切」「善意」が感謝されるのは、需要と供給がマッチしているときであって、需要に合わない供給は単なる「独りよがり」であり「ありがた迷惑」です。

 誰でもこの「ありがた迷惑」を受けたことがあるのではないでしょうか。また、誰でも人にしてしまったこともあるのではないでしょうか。かく言う私もそうです。

 相手は望んでいないということに気づいて軌道修正していけば成長します。ところが、中には失敗から学ばない人がいるのです。

 自分の「親切心」に陶酔していて、相手が見えていない。いや、最初から相手を見ようとしていない。「自分と違った相手」を知ろうという関心がないのです。こういう人が最も困ります。

 自分の世界でしか周囲を見ていない。迷惑だと伝えても理解できません。怒り出します。「人の親切を何だと思っているんだ」と責めてきます。聞く耳を持たないのです。

 押し売りを押し売りだと認めない人とは「心のコミュニケーション」はできません。コミュニケーションとは「自分と違う相手の現実」を知ろうとするから成立するのであって、その基盤がなく、ただただ自分の感情を出したいだけの人との間では成り立ちません。

 こういう人は、相手に「与える人」を演じつつ、相手から感謝や関与や繋がりを「奪っている」だけです。エネルギーを相手から欲している人なんです。

 典型は、人の事柄に口を出す「干渉好きの人」「お節介・世話好きな人」です。「先輩顔」をして説教やアドバイスをする人や、「尽す女タイプ」で重たがられる人も入ります。

親切の押し売りをする人は
与えるふりをして奪う人
自分の思いを通してしか周囲を見ない

これを「自己中心性(egocentrism)」と言います
 

心に葛藤があると

 心に葛藤があると・・・

 ★相手を操作しようとする
 
相手を支配しようとする
 
相手に暴力を振るう 

 心に葛藤があると・・・

 
相手にしがみつく
 
相手に迎合する
 
相手に依存する

 心に葛藤があると・・・

 
★アルコールに逃げる
 
★ギャンブルに逃げる
 ★異性関係に逃げる

 心に葛藤があると・・・

 
★名声・出世に固執する
 ★勝ち負けに固執する
 ★世間体に固執する

 心に葛藤があると・・・
 
 
★表裏のギャップが激しい
 ★内面(うちづら)と外面(そとづら)が違う
 ★相手によって態度がガラッと変わる 

 心に葛藤があると・・・

 
★自分の感情が分からない
 ★不満が解決できない
 ★人間関係の問題が深刻化する

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 葛藤を解決すると・・・

 
★相手と民主的な関係が築ける
 
★問題について積極的・創造的解決ができる
 ★誰に接するときも自分らしくいられる
 ★自分の感情が分かり、幸せが分かる
 ★自分軸で人生を歩める
 ★自分を偽らなくても等身大の自分でいいと感じられる
 ★素の自分と素の相手で心の通い合いを楽しめる
 

 だから・・・

 自分の幸せのために、自分の葛藤にきちんと対峙することが大事です。
 

愛情飢餓の3つの症状を自覚する

 親に甘えられなかった、愛されなかったという不満が残っていると、愛情飢餓を現在の人間関係で満たそうとします。

 親から欲しかったけれど得られなかった愛を、目の前の恋人や伴侶、子供、友だちに求めずにはいられません。 甘えさせてくれる相手を強烈に必要とします。

 相手に「親の愛」をどうしても求めてしまう。ところが、相手は「親」ではない。なので十分に応えてもらえません。

 愛情飢餓は完全に満たされることがないので、慢性的な「不満状態」となります。「こんなに求めているのに相手は満たしてくれない」という「不満」が解決できないのです。

①「怒り」

 不満が解消されないことに「怒り」が生じてきます。こういう場合、相手に対して「攻撃的」になります。「なんで私を愛してくれないんだよ!」という敵意を相手にぶつける関係になるのです。

 このように、愛情飢餓の症状の1つが「怒り」です。「不満」や「不幸」を相手にぶつけるという形をとります。 

 愛情飢餓が癒されていない人の1つの特徴は、とにかく「怒りっぽい」ことです。すぐ「不機嫌」になる。小さなことでも「暴言」を吐いたり、物に当たったり、暴力的になるんです。

 
暴力性は依存心の表れです。甘えを攻撃心で表現しています。

 支配欲や名声欲の強い「アグレッシブ」なタイプも、ここに入れてよいでしょう。人を蹴落としてでも勝ちたいという人、「他人の不幸は蜜の味」という嫉妬タイプも、本質的に同じです。

②「迎合」

 それから、愛情飢餓は「迎合」という形でも表れます。相手からの愛を強烈に求めている人は、その人から見捨てられるのを恐怖し、その人を怒らせないようにと機嫌をとる側に回ります。

 いい顔をして相手の喜ぶことをする。絶対に不満を言わない。こういう人もまた別の形で相手に甘えているのです。ノーと言えない人、自分の本当の気持ちが出せない人もまた「依存心」が強い人です。「嫌われたくない」というのは「相手の好意を強烈に必要としている」という「甘え」なんです。

 迎合は依存心の表れです。甘えを服従という形で表現しています。 

 「相手に必要とされたい」と思って自分を偽ってでも孤独を避けようとする共依存者は、依存心を迎合という形で表現しています。

③「引きこもり」

 愛情飢餓に無自覚だと、周囲への要求が非現実的なほど大きくなります。それに応えられる人はいません。そうすると、絶望して心を閉ざしてしまう人もいます。引きこもって社会との接触を避けようとするのです。社会的生活から撤退します。

 引きこもりは依存心の表れです。甘えを孤立という形で表現しています。 

 怒りを周囲に出せない人は、その怒りが自分の中に溜まって「抑うつ状態」になります。自己嫌悪と無気力に陥る人もいます。自暴自棄や自殺願望もそうです。

 愛情飢餓→周囲への強い要求→解消されない不満→怒り→自己嫌悪→抑うつという連鎖です。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「怒り」「迎合」「引きこもり」から積極的自己実現へ向かう

 愛情飢餓を「怒り」「迎合」「引きこもり」という3つの方法で対処しているうちは、心理的に自立できません。

 これらの対処法を卒業して自立へ向かうには、まず自分に愛情飢餓があることを認めることが第一歩です。そして、自分の「怒り」「迎合」「引きこもり」を客観視して自覚することが第二歩です。

 第三歩は「怒り」「迎合」「引きこもり」を脱して自己実現へ向かおうと志を立てることです。どうやって到達するかは置いておいて、まずそれを目指そうと決心する。

 そして第四歩は愛情飢餓に向き合うことです。愛情に飢えている子供の意識が自分の中にあるので、それと意識的に繋がって共感的愛を送ります。「心の膿」を全部出すのです。ひとりでできない場合は、心理プロの支援を得ることをお勧めします。

 第五歩は自分の自然な欲求に沿って行動することです。これは第四歩が終わってからでなくても構いません。いつでも、できる限り、自分の感情に素直に行動するのです。自分が「好きだ」「嬉しい」「美しい」「楽しい」「美味しい」「面白い」と感じることに向かっていく。そうすることで、自分自身の満足・充足に向けて自ら進んで行くわけです。自分の幸福の責任を負い、自分を幸せにしてあげられることを選んでいくのです。

 このとき、満たされる「嬉しい感情」も大切にしますが、満たされないときの「これはイヤだ」「嫌いだ」「醜い」「嬉しくない」「楽しくない」という感情も等しく大切にします。イヤなことを感じることで自分の喜びが分かるのですから、プラスにもマイナスにも感受性を持つことが大事なんです。

 自然な感情(欲求)が分かるには、ある程度の癒しを通らなくてはなりません。「心の膿」が溜まっている状態だと、自分の自然な感情にアクセスできない部分がどうしてもあります。

 愛情飢餓が癒され、感情に素直に行動できるようになるにつれて、「怒り」「迎合」「引きこもり」という対処法に頼らずに済むようになります。無意識にあった「心の傷」が癒されていくと、その分だけ自己実現が進みます。人間関係も健全化されていきます。

 「自覚」→「決意」→「癒し」→「自己実現」の順序で自分を変えていけます。

愛情飢餓に無自覚な人は
①攻撃的になる
②迎合的になる
③回避的になる

愛情飢餓を自覚すると
①②③を乗り越えて
自己治癒と自己実現へ向かえる


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3つの神経症的解決
 

意思決定は理性でなく感情で行っている

 意思決定ができる人は、感情を理性でコントロールできて、感情に負けない人だと思っていませんか?

 実は、脳の研究によって分かってきたのは、意思決定は「感情脳」(大脳辺縁系)によってされているということです。

 意思決定に最も関わっているのは「目的」とか「欲求」。どうしたいか、何を目指したいか、何が欲しいかということなんです。大脳新皮質の「理性脳」は、根本的な情動がなくては判断ができない。

 「感情脳」に支障が出ると、感情に左右されず論理的に決定が下せる人間になるかというと、実際は「何も決断を下せない人」になるとのこと。

 つまり、「決断が下せない人」というのは、自分の感情が分かっていない。感情に触れていない。感情が混乱しているということなんです。 

 これまでの私の人生を振り返ってみても、人生において重要な決断はすべて「感情」においてしています。英語をマスターしたいというのも、アメリカに住んでみたいというのも、カウンセラーになりたいというのも、強い感情が働いて意思決定している。「この女性と付き合いたい」と思って恋愛に突入したのも、すべて強い感情によって決定している。

 感情なしに理性だけで決断したことなどない。

 「感情に左右されずに」というアドバイスは誤解に基づいています。「感情の声をよく聞いて、感情に素直になって、感情に接触して、感情を整理して」というアドバイスがより的確だと言えましょう。

 感情に蓋をして、感情を避けて何かを決めようとする人は、袋小路に入ります。決定に最も重要な役割を果たす情動にアクセスできないというのは、目的や欲求を封印したまま行き先を決めようとするようなものでうまくいくはずはないのです。

 感情に順応的姿勢をもたず、拒絶的姿勢をもつがために「決断が下せない」という迷い状態が発生します。

 「これが欲しいのだ」「こっちへ行きたいのだ」「私はこう生きたいのだ」「私にはこれが大事なんだ」「これが大好きなのだ」ということが明確になること。それが意思決定において最重要項目なのですが、それはすべて理性で決まるのではなく感情で決まることなんです。
 
意思決定で重要なのは理性でなく感情である
 

解決は強さにも弱さにも偏らず中庸で

 人間誰しも弱く無知で劣等なところから出発している。なので、どの発達段階にあっても、自分の実力では解けない問題に遭遇する。それは幼稚園児から博士まで同じです。

 人生、問題に遭遇しない人はいない。その点で全員が平等なのです。

 自分の現在の実力では解けない問題があるのは、みんな同じである。そのことを知っていると、自分だけが特別劣っているわけではないという真実が見えてくる。卑下することはないと分かる。

 誰だってミスを犯す。ミスを犯さない人はいない。それを知ることは智慧の大事な一部分です。

 上手に生きるには、ミスを犯したとき、理解できないことに遭遇したとき、自分の能力ではとてもできない事柄に直面したとき、強さにも弱さにも偏らず中庸で接することが大切です。

中庸とは「等身大の自分を受容すること」と「学習に開かれていること」

 失敗したようなとき、私たち人間は失敗に関して2種類の間違った対応をしてしまいがちです。1つは、自分を否定し過ぎて自分のやる気を削いでしまうこと。自分を責めると罪悪感だけが生まれ、却って学習・成長できなくなります。自分に厳しすぎて、自分を裁いたり否定したりすることは、自分を不必要に弱らせてしまいます。落ち込む人は、「弱さ」に偏るのです。これでは自分との接し方がバランスを欠いたものになります。

 「等身大の自分を受容する」ということができていない。できなくて当たり前だという優しさが欠けている。非現実的な期待を自分にかけて、自分を苦しめている。これが多くの人が陥るミスです。

 もう1つは、ミスを犯したときの「恥ずかしさ」や「健全な劣等感」を感じたくないがために、それらの感情を封印して、「大したことない」と強がることです。あるいは、失敗したこと自体を否認する。柔らかな感情を否認して、虚勢を張る。本当は弱さが怖い。だから、弱くないことにしてしまう。現実を偽って認識することで自分を防衛する。このように、実際より強い自分を演出することで、「強さ」に偏る。これもバランスを欠いた解決法です。 

 「弱さ」に偏っても「強さ」に偏っても、ミスから学習して成長するという大事な部分が疎かになります

 「自分が如何にダメか」という非現実的な厳しさで自分を扱うことは「謙虚」とは違います。これは「自己嫌悪」であり「自己拒絶」です。「卑下」すると前進できません。

 「謙虚」とは、今の等身大の自分を偽らずにしっかりと認めることであり、その曇りのない正直な心の目は、現レベルの自分に対して優しく抱擁もしているのです。また、自分を必要以上に責め立てないからこそ、「何を学べばいいのか」という学習課題に真っすぐに向き合うだけの心理的余裕も出てくる。そこで「学ぶべきこと」に素直に開かれていること、それが「謙虚」のもう1つの意味です。

 このように、「中庸」とは「等身大の自分をまっすぐに受容し拒絶しないこと」と「学習に素直に開かれていること」なのです。

 多くの人が「ミスから成長する」ということができないのは、「謙虚」を履き違え、必要以上に自分を責め立てる過ちを犯しているからです。

 「弱さ」に偏ると、学習へと向かう勇気が出ない。やる気がくじかれてしまう。また、「強さ」に偏ると、ミスをそもそも認めず嘘に逃げる。そして、この2つのミスは根本的に同じなのです。というのは、なぜ「強さ」に偏るかというと、無意識では「弱さ」に偏っているからです。ミスを犯すということを必要以上にいけないことと思っているから逃げて虚勢を張るんです。だから、虚勢の「強さ」は「弱さ」の裏返し

 本当の「強さ」というのは、等身大の自分を偽らずに抱きとめられることなんです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 たとえば、心の問題を解く代わりにギャンブルに逃げ、多額の借金を作ってしまった男がここにいたとしましょう。 

 「ギャンブルで多額の借金を作った」というのは、どう考えても「ミス」です。この人は自分の「ミス」に向き合わざるを得ない。

 このときに、この男性が自分自身に絶望し、自暴自棄になったとしたら、「弱さ」に偏ったのです。あるいは、「なにが悪い!?」と開き直って自分の選択を正当化したとしたら、「強さ」に偏ったのです。

 しかし、この男性が「中庸」の態度でこの問題に向き合ったとしたらどうなるでしょうか。

 「ああ、私は心の問題から逃げていたんだなあ」「私は弱いから向き合う代わりにギャンブルで気を紛らわせていたんだなあ」「それが今現在の偽らざる私の姿なんだなあ」と認める。

 「このままではダメだ」と思う。「このままではダメだ」というのは自己嫌悪ではないんです。「成長へ向かおう」という意思です。「学習に開かれている」ということです。

 自己受容というのは、「この弱い自分が今の偽らざる自分なのだから、その自分を認めて大事にしよう」という優しさです。評価する必要はない。受け入れるのです。真っすぐに抱擁するのです。拒絶しない。裁きもしない。嫌悪もしない。ただ真っすぐ抱き入れるのです。

 だって、自分が自分を受け入れなくて、誰が受け入れてくれますか?

 「今のままの自分を受け入れる」ということと「このままの自分ではダメだ」というのは、矛盾するように見えますが、実はこの2つはお互いを支え合うんです。 

 
自分を受け入れるから変わっていけるんです。受け入れなかったら変わっていけないんです。

 ですから、いい塩梅で「自分を肯定」し「自分を否定」しなくてはなりません。

 この「自分の肯定のしかた」と「自分の否定のしかた」を間違えると成長できなくなります。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「健全な自己肯定」と「健全な自己否定」

 「健全な自己肯定」とは、どんな人でもミスを犯すものだ、誰でも未熟なところから出発するのだ。だから、今のままを否定せず認めていい。そういう「母性的な抱擁」です。

 「こんなこともできない自分はダメだ」というのは厳しすぎるんです。「ミスを犯すべきではなかった」という非現実的期待は心を弱らせます。これらは「不健全な自己否定」です。

 さて、では「健全な自己否定」とは何か。それは、次のレベルに向かって勇気づける「父性的な励まし」です。真っすぐに「何をどうすればいいのか考えよう」ということです。問題から逃げずに勇気をもって成長に向かう。それを励ますのが「父性」です。

 「こんなのはミスでも何でもない」と否認し、向き合うのを避けることを許してしまうのは「甘やかし」です。これは「不健全な自己肯定」なのです。「厳し過ぎる腐った父性」と違って、これは「甘過ぎる腐った母性」です。これがあると、成長を避けていつまでも幼稚なままで留まります。

 人間は「母性的な抱擁」による「自己肯定」と、「父性的な励まし」による「自己否定」のバランスが整っているとき、あらゆる困難から学んで成長に向かえます。 

 自分に対する健全な優しさがないと、自己嫌悪と自暴自棄と絶望から動けなくなる。

 また、
自分に対する健全な厳しさがないと、現実否認、虚勢、傲慢から逃避して自分の首を絞めることになる。幼稚さを隠して成長に向かえない。

 いろいろな体験から学習し人間的成長に繋げるには、「中庸」の態度で自分や状況に接することが極めて重要なのです。
 

愛着スタイル(attachment styles)

 親との間に信頼関係がしっかり築けた人は、つまり親と「心の通い合い」がしっかりできた人は、自分が怒ったときも怖くなったときも、あるがままの自分で見捨てられず繋がってもらえるという基本的な安心感を持って育ちます。

 どんな感情を自分が味わっているときでも、親は寄り添ってくれる。それが「情緒的な安心」であり「情緒的繋がり」です。 

 こういった「安定的な愛着関係」を子供は必要としています。それが満たされた人は、大きくなって様々な人と関係を築くとき、相手に基本的信頼を寄せることができるのです。

 ところが、自分が怒ったとき、怖かったとき、親は共感をもって繋がってくれなかったとすれば、子供は自分の感情とひとりぼっちでいるしかない。親は自分の心理的ニーズを理解せず満たしてくれない相手として体験します。こういう親子の愛着関係に対して、子供は常に不安な状態です。「安定的な愛着関係」がそこにありません。「愛着したいけどできない」という根源的な不安の中で生きています。

 この人が大きくなって恋愛をすると、恋人に愛着を求めますが、「繋がってもらえない不安」「見捨てられる不安」というものが常に根底にあります。根本的な情緒的信頼関係を経験したことがありません。そして、多くの人は親と体験した「愛着スタイル」と同じ体験を恋人と繰り返すことになります。

 さて、「愛着スタイル」には大きく分けて3種類あります。4種類に分類することもありますが、ここでは3つを扱います。

★Secure(安定型)
★Anxious(不安型)
★Avoidant(回避型) 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

★Secure(安定型)

 恋愛や結婚をすると、相手に対して基本的な情緒的信頼がありますので、違いは話し合いによって解決していけます。心と心が触れ合っている親しさがベースにあります。

★Anxious(不安型)

 恋愛や結婚をすると、相手と親密になりたい(繋がりたい)という思いが一方でありつつ、相手が応えてくれるかどうか大きな不安を抱えています。心が揺れて情緒不安定になりやすいわけです。返事がないとしつこくメールや電話をしたり、ひどい場合になるとパートナーの職場まで出かけていって不倫をしていないか確かめずにはいられないというような不安に悩まされます。

 今どこにいて何をしているのか、一日に何度もメールで知らせないと怒り出すボーイフレンドなどは典型的です。相手を管理して縛っておかないと不安でしかたがありません。

 見捨てられ不安に悩まされて情緒が安定しないのです。

 相手に合わせて迎合する共依存者もまたこのタイプです。自分を偽ってでも孤独を避けたいという強迫性を持っています。

★Avoidant(回避型) 

 自分の心と繋がれない親との関係において、繋がることを諦めて、親密さを避けることで生き延びてきました。相手を必要とすることが怖いので、全部ひとりでやろうとします。関係から逃げます。「ずっと1人でいいや」と強がっている人に多いタイプです。

 ナルシシストで相手に支配的であったり、共感を示さないタイプもここに入れていいでしょう。収入を入れてくれても感情の繋がりの全くない夫や、子供の気持ちを聞かずに親の意向を押しつけて過干渉をする母親などです。内面の親密さを避け、表面上の関係を保ちます。体裁を整え、心の親密さを犠牲にします。

 外から見て「親しそう」に演出されていても、本当の関わりはそこにありません。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 「恋愛依存」になるような人は、関係を強く求めていて同時に孤独を怖れています。繋がりが欲しいけど信頼できない部分も強い。ということで、「不安型」です。 

 夫とは物理的なニーズを満たすだけでなく心の通い合いが欲しい。けれど夫は会話をしてくれない。こういう不満をもらす妻は多いです。この妻は「不安型」で、夫は「回避型」か「不安と回避の混合型」である可能性が高いでしょう。

親との愛着関係を振り返って欠損を癒す

 いずれにせよ、親との間で満たされなかった幼少期のニーズを理解して共感してあげられると、自分の心と自分が繋がってあげられます。自分との「愛着関係」を築くと言いましょうか。それが根本治癒になります。

 自分自身の「愛着不安」は、今目の前にいる恋人や伴侶のせいではありません。親との関係でできたものです。これを自分の課題として解決すれば、「安定性」へと向かいます。そうすると、相手が自分と繋がってくれるように変化していくか、あるいは自分と繋がることのできる別の人とマッチするようになるのです。

 自分が求めている「愛着」を提供できない恋人や伴侶と一緒になったこの「ご縁」は、自分の傷を直視して解決するための「場」になってくれています。相手を変えようとするのではなく、自分自身の傷を癒してください。そうすれば、相手は新たなレベルで「愛着」のできる人に変わっていくかもしれませんし、あるいは別れるしかないと明確になるかもしれません。いずれにせよ、自分に取り組むことでこの関係は自分の成長と癒しに役立ってくれ、関係の目的は成就したことになります。

 関係の目的は長続きすることではありません。当事者が必要としている癒しと成長を提供することです。癒しと成長に貢献できなくなったとき、関係は終了すべきものです。
 

加藤諦三著『子供にしがみつく心理ーー大人になれない親たち』

 すべての心の問題は「親のせい」などとは言いません。けれども、心の問題の根底に「親子関係」が大きな要因としてあるのは疑いもないことです。

 やはりどのような親に育てられたかということは、心の最も深いところに影響を与えています。

 「親のせい」ではないというのは、どんなに酷い「親子関係」だったとしても、現在の自分を幸せにするためにできることは山ほどあるのであり、自己充足的な思想と行動へと進まないとすれば、本人の責任だということです。

 どんなに傷ついていても、癒しを受けることはできます。受けないことで苦しみ続けるとすれば、それはもはや「過去」のせいにはできません。「現在」の自分が良くならないことを選んでいるわけです。

 ですから、苦しみを「親のせい」にはできません。良くなるか良くならないかは、自分にかかっているからです。

 それにしても、共感と尊重と理解をたっぷり得られた親子関係で育った人に比べて、共感と尊重と理解の欠けた親子関係で育った人のスタート地点はやはり大変です。

 中でも、親に甘える代わりに親に甘えられた人、親に依存されて自分自身であることが許されなかった人は、最悪の環境で育つことになります。

 自我の確立していない、情緒的に幼い、周囲に敵意と不満ばかりの親が、あらゆる人間関係に失敗し、最後に我が子に頼る。伴侶にも頼れない。我が子に「母親」を求めるそれはどんな苛めよりも酷い結果を生むと加藤氏は言います。

 自らの無力感・劣等感・孤独感を子育てによって癒そうとする親の危うさ。親の癒されざる葛藤を解決するために絡まれる子供の悲劇。それを見事に暴いた本です。

 苛めの大部分は親から子にされていると私は考えています。親から傷つけられることが、社会の大部分の人間関係の病理の根底にある。この病理に光を当てない限り、上司と部下の病理、教師と生徒の病理、姑と嫁の病理は解けません。社会問題は解けません。

 子供に執着する親は、子供を愛していると思っている。そして周囲も騙される。そこがこの問題の難しさです。子供も自分は愛されていると思わされている。問題に当事者さえ気づきにくい。あからさまな暴力ではない。隠された暴力であるところがややこしいのです。

 ですから、まず問題に気づくこと、認識することからスタートしなくてはなりません。

 この本は、毒親を持った人の救いになるだけでなく、心理的病理を持つ人に関わらねばならない全ての人にとって参考になることでしょう。心より推薦いたします。


推薦図書

「今ここ(here & now)」の原則

 私たちは「体験の世界」と「イメージの世界」という2つの世界に住んでいます。

 「体験の世界」とは、心身で味わい感じるもので、常に現在です。過去の「体験」は「記憶」、未来の「体験」は「想像」でしかない。どちらも「イメージの世界」です。

 今ここで飲むお茶は、今ここで「体験」します。飲み終わったら「体験」の残像が意識にあるけれど、それはもう「体験」ではありません。

 「体験の世界」は「今ここ」にしかないのです。

 それに対して「イメージの世界」は時間を超越しています。過去を思い出すとき、「記憶」という「イメージ」を味わっている。そして、それはいつでもどこでも想起できるという特徴をもっています。

 「イメージの世界」には「観念の世界」も入れることにします。たとえば、「私はダメな人間だ」と思ったとしたら、これは「観念」であって「体験」ではありません。「ダメな人間だ」という「体験」は存在しないということがお分かりでしょうか。「ダメだ」というのは実在するわけではなく、人間の頭がこしらえた「アイディア」です。

 「アイディア(観念)」や「イメージ」は、「今ここ」とは独立して存在しています。

 「体験」は次々に過ぎ去っていき、常に「新しい」。二度と同じ「体験」はない。

 けれど、その「体験」についてコメントをする「観念(イメージ)」は過去・現在・未来を超えて存続できる。

 たとえば、プレゼンテーションで言葉を言い間違えたとしましょう。それは先月の3日の午後3時に起こったと。そうすると、その「体験」はその瞬間終わっているわけです。ところが、それについてコメントする意識が、今でも自分を悩ませている。「バカなミスをしてしまった」「恥をかいた」と言って自分を責めている。

 この「バカなミスをした」「恥だ」という「観念」は、「体験の世界」で起きていることではありません。「体験の世界」ではとっくに終わっていることであり、周囲の現実は先に進んでいる。ところが、「イメージの世界」でこの人は苦しみ続けているわけです。

 このように、この人は現実体験によって苦しんでいるのではなく(なぜなら現実としてはもう存在しないのだから)、過去の体験についての「イメージ・観念」によって苦しんでいるのです。

 問題は「現実の体験世界」にはなく、「イメージ・観念の世界」にだけあるわけです。 

 言い換えますと、苦しみは「客観的現実」にではなく、「主観的想像」の中にあるということです。

 さらに換言しますと、人間は自分のこしらえた妄想によって苦しんでいるわけです。

 問題は、大部分の人間が「苦しみは自分の内面が作り出している」ということに気づかないことなのです。妄想を現実だと思っている。夢を実在だと思っている。「体験の世界」と「イメージの世界」を混同して、同じものだと思っている。ここに基本的な無知があります。

 ということで、人間のこの基本的な無知から解放されるには、実在と想像の区別ができることが重要です。

 こっちは「体験」で、あっちは「観念・イメージ」だと分かる。この区別ができることが、妄想から目覚めて、実在を知ることです。 

 Reality(実在・現実・あるがまま)に目覚めるのは、常に「今ここ」においてです。過去と未来は想像でしかありません。実在する唯一の「時」は「今ここ」なのです。

 「今ここ」の「あるがまま」から離れて、想像の世界の虜になるとき、夢の世界に彷徨い実在を見失います。

 瞑想において、呼吸を観察するのはなぜかと言うと、1つには呼吸は常に「今ここ」で「体験」できる実在だからです。呼吸とともにいるとき、私たちは妄想していません。過去を悔やんだり未来を心配していません。呼吸は常に「今ここの体験」なのです。

 瞑想が意識を sane(まとも・正気)にするのは、「観念・イメージ」で成り立つ悪夢の世界を離れるからです。「今ここ」にあるものしか扱わない。私たちの意識を実在にアンカーする(錨を降ろす)のです。

 「今ここ」の「体験」以外はすべて妄想です。

 「このままいったら私は孤独死するのかしら」と思っているとき、これはイマジネーション(想像)です。そして、想像とは「今ここ」に存在しないものを思い描いているだけです。妄想によって苦しむという現象が起きます。

 この人が想像している未来は存在しません。存在するのは「今ここ」に「体験」できるものだけです。

 しかし、この人は好ましからざる未来を「イメージ・観念」することによって、自分自身を怯えさせているという「事実」がここにあります。これは、この人の「今ここでの体験」となります。

 この人は、怖い未来イメージを用いて、自分を怯えさせている。それが「今ここ」で行われている。それが真実です。自分が自分を怯えさせていることが本人には見えません。無自覚です。だからそこから自由になれません。想像している未来像が「現実」であるかのように錯覚しています。これが無知です。

 妄想を妄想だと看破できることが智慧です。そして、智慧が働いた瞬間、妄想を離れることができます。自分が自分を怖がらせていたのだと見えた瞬間、妄想への感情移入が止みます。

 妄想が妄想だと見えないこと。自分が選んでいることを自分が選んでいないと思うこと。これがあべこべであり、無知です。無知が見えたとき、智慧がそこにあります。そして、智慧が目覚めることによって、この人は自らの作り出した妄想から解放されます。 

 常に問題は「今ここ」で何が起きているかに洞察を得ることです。過去や未来はすべて「イメージ・観念」であり幻想です。Reality は常に「今ここ」にあります。

 問題を作り出すのが「今ここ」なら、解くのも「今ここ」です。束縛も解放も「今ここ」以外にはありません。

 実在は「思考」を超えたものです。なので、悟りを目指す人には「考えるな」という教えが与えられます。「考えず、感じろ」と言われます。なぜかと言うと、「思考の世界」は「イメージの世界」なんです。「体験の世界」を知的に掴もうとするとき、我々は「思考」を用います。けれども、思考で掴んだ瞬間、実在はするりと抜けて変化していきます。真理とは「思考」で掴んでしまえるようなものではありません。「思考」で「だいたいこういうこと」と指し示すことはできます。けれど、「思考」や「言語」は真理そのものではないのです。真理や実在は、体験し直覚する以外にない

 「思考」という形にしてしまったら、「今ここ」に生きた真理ではもうなくなっている。「実在」や「真理」は生きているものです。そして、それを味わうには「今ここ」を生きていなくてはならないのです。

不満が解けないのは不安を避けるから

 不満である状況からなかなか解放されない人がいます。

 相手は自分にとって大切なニーズ(必要性)を満たしてくれていない。たとえば、尊重して欲しいのにしてくれない。愛して欲しいのにしてくれない。守って欲しいのにしてくれない。

 ニーズが満たされないとき「不満」と言います。

 この人は、相手に再三「尊重してください」「愛してください」「守ってください」と伝えている。伝えているけれど解決しない。 そして「不満」のまま続く。

 なぜ「不満」が解けないのでしょうか?

 それは、「満たしてくれない相手が問題であり、相手が満たしてくれるように変わることが解決だ」という考えに囚われているからです。

 実は、解決は簡単です。自分のニーズに合わない人と別れて、その人に頼るのをやめれば済む話なんです。「この人は、私にとって大事なニーズを満たせない・満たす気がない」と現実をしっかり受け止められれば、解決は明確になります。

 ところが、別れて自立するのは「不安」なのです。この「不安」を避けようとするので、現実が見えません。

 「他者は自分のニーズを満たすために生きているのではない」「相手が自分を尊重するかしないか、自分を愛してくれるかくれないか、自分を守ってくれるかくれないかは相手の問題だ」というのが自立した人間の考え方です。

 ところが、依存的な人は、こういう考え方ができません。あくまで、「相手は自分のニーズを満たすべきである」としか思えない。 

 自分の付き合っている相手は、未熟で弱い。なので、こちらを守れないし愛を向けてくれない。それでは困る。そして、相手に成熟と強さを求める。

 なぜ相手に成熟と強さを求めねばならないのか?

 それは、自分で立つだけの成熟と強さが自分にないからです。自分の未熟さと弱さを棚に上げて、相手に成熟と強さを要求しています。

 自分が成熟に向かい、強くなることを目指すのではなく、自分は未熟で弱いまま、相手に成長して欲しいと願ってしまう。自分が成熟と強さに向かうのは「不安」。それは避けたい。だから、自分が成長するのではなく、相手に成長して欲しいと願望するのです。 

 こういう人は、相手が未熟で弱い人間だという現実を見ていません自分の願望があまりに強いため、非現実的な「相手像」にしがみついています

 相手をよく見ていない。相手を知らない。そして、自分をよく見ていない。自分を知らない。

 「相手には、あなたを守るだけの強さと成熟がありますか? 相手はあなたの望んでいる愛を与えられるだけの強さと成熟がありますか?」と私はこの人と対決します。

 こういう状況で、ほとんどの人は黙ってしまいます。

 真実と出会う瞬間です。

 「この人に求めても仕方がないんだ」という現実が見えてくる。徐々にそれを受け止める。そして、自分が変わるしかないと思い始める。

 これが成長です。

 「不満」を真剣に解きたいなら、自分を「不安」にさせるものから逃げては埒があかない。その現実を否認せず受け止められたら、事態は動きます。
 

怒りを呑み込むと自己肯定力が落ちる

 「怒り」とは自分の利益を守るために侵害要因と戦うべく自分を奮い立たせる感情です。

 「怒り」は警察力や軍事力のようなもので、正当防衛にも使えますし、他国侵略にも使えます。

 個人と個人の関係において、「怒り」は自分の正当な利益を守るために用いられたとき適切な使われ方をしたのであり、相手の利益を侵害するために用いられたとき乱用されたと私は考えています。

 さて、「怒り」の感情とあなたはどのような関係を持っているでしょうか?

 ①「怒り」を自分の利益が害されたときだけ表現している。
 ②「怒り」を自分の利益が害されたときだけでなく、相手を支配するためにも用いている。
 ③「怒り」は抑えて表現しない。

 今日は、③の人に焦点を当ててお話を続けます。

 「怒り」というものが自分の中にないと思っている人。あるいは、あっても出すことは全くない、あるいは滅多にないという人。「怒り」は悪いものだと思って抑えている人。

 こういう人の多くに共通する問題は、相手との間に不満があるとき、自分が折れることで丸く収めてしまうため、不満が本当には解消されないということです。

 支配的な人、我がままな人にきちんと対立しないので、いいように扱われてしまう。

 ひと言で言うと、「自分を守れない弱さ」を持っているのです。 

 こういう人の相談を聞いていると、相手からの一方的で有害な行為に対して「困った困った」と言うだけで自分の利益を守る行動に強く出られない。なので、支配を受ける状態から抜け出せません。

 「怒り」は自己肯定力にとって重要な位置を占めます。自分の利益が害されたとき、それを許さないという強い姿勢をもつことで、自分をしっかりと保てるのです。それが自分の存在を肯定することに繋がります。

 自分を守れない人が、自分について肯定的感情を持てるはずはありません。

 なぜこのような「弱い善人」が出来上がったのでしょうか?

 それは、両親との関係において、「怒り」を出すことを許されなかったからです。「怒り」を出したら、両親から「怒り」で応酬されたのです。そして、強者に世話になって生き残るには、「怒り」を呑み込むしかないと決断したわけです。親に反抗するだけの強さは幼い者にはない。

 本当は両親に対してものすごい「怒り」があります。けれど、それは無意識に追いやられている。それを意識するのはとても怖い。

 「怒り」を呑み込んで来た歴史があるのです。

 「怒り」が自分の中で否定されていると、生命力の大事な部分も抑圧されます。同じことです。ですから、元気がない。自己肯定できる頼もしさや楽天的な感情が湧いて来ない。

 支配的な親、愛の足りない親によって感情的に「去勢」されたようなものです。

 「去勢」された弱い子供は親にとって操りやすいです。思い通りに相手を動かそうとする支配者にとって、反抗できない弱者はいいカモです。

 こういう人が大人になると、支配的な夫や姑に立ち向かえない「いい人」になります。暴力的な上司に立ち向かえない「いい社員」になります。
上に立つ者の不正と戦うだけの感情力がないのです。 

 自分がこういう「いい人」だと気づいたらどうするか?

 
「怒り」を取り戻すのです。親によって削がれた牙や爪を取り戻すのです。それは親のように相手を支配するためではありません。相手を傷つけるためではありません。自分の正当な利益を守り、社会の不正と戦って、善きものを守れるだけの本当の優しさをもった人間として成熟するためです。

 警察力と軍事力は、暴力だから悪いのではない。
善きものを守るため不可欠で神聖なものです。

 
「怒り」は悪いという神話を信じてはならない。それは、あなたを弱い追随者に仕立てるために用いられる洗脳です。

 これまで
呑み込んで来た怒りと再会してください。無意識から取り戻してください。怒りを表現したかったけどできなかった相手をすべて自覚してください。そして、体の中に怒りのエネルギーが戻るのを感じてください。

 それとともに、自分の命をもっと大事にできる
自己主張のパワー、自己肯定のパワーが漲ってくるでしょう。そして、自分という小さな枠を超えて、公益を守れる逞しい存在になっていける希望も湧いてくるでしょう。

 小さい善人は公益にとって有害です。「怒りを捨てたいい人」は有害な人を社会にのさばらせるだけです。

 大事なのは「怒り」を智慧や善意と結びつけて統合することなのです。

親にされたことを子供はする

 多くの子供は、親との関係において傷つくという体験をします。

 親の愛や智慧は不完全なので、子供の必要性に100%応えられません。有害であることを「子供のために良い」と信じて行ってしまう場合もあります。

 善意か悪意かは別にして、親が子供を傷つけたとき、子供が親に怒ることができれば極めて強い子です。あるいは共感的な環境だということです。けれども、多くの子はそこまで強くないか、非共感的な環境に置かれており、怒りを出すことが安全だと感じません。そういう場合、子供は次の3つの反応のいずれかを表します。

 ①親にされたように自分にする
 ②親にされたように他人にする
 ③親にされたように他人にされることを怖れる

 子供は親の至らなさを理解し、きちんと自分を主張して「怒る」ことができれば問題はないのですが、子供はまだ精神的に弱い。あるいは周囲に子供の怒りを受け止める能力がない。

 すると、子供はだいたい親への怒りを抑え込んでしまいます。怒っても親は理解してくれないし、却って家にいづらくなる。こういう状況では、怒りを認めることは脅威だと感じるものなのです。

 「自分は怒っている」と認められるのが自我の強さですが、それはまだありません。そうすると、「自分は怒っていない」ということにして自分を防衛します。

 こういうときに生じる現象の1つが、親と同一化するということです。「親と同じ側に立つ」ということです。

 たとえば、親が子供に「お前は頭が悪いなあ」と言ったとしましょう。これはとんでもない暴力だと私は思いますが、多くの親は平気でこのようなことを言います。

 これを聞いた子供は悲しくなり、親に対して怒りを感じます。内面では。これが通常の感情反応です。

 この子供の内面に気づいて共感できる親であれば、「傷つけてしまったね、ご免ね」と謝って関係を修復できます。ところが、多くの親は鈍感で非共感的であり、子供が傷ついたこと、怒っていることを理解できるだけの情緒的成熟がありません。子供の感情を受け止める度量がないのです。

 そうすると、この親と同居していくには、子供は「悲しみと怒り」を呑み込むしかない

 「親にいじめられた怒りを抱えた子供」という本当の姿を認めるだけの度量が子供自身にもまだありません。そうすると、子供は親側に立って「私は頭が悪いのだ」と親の意見に同調することで身を守るのです。

 この子の意識の中には「お前は頭が悪い」と批判をする超自我ができあがります。暴言を吐く親と同じ意識を内在化させ、この批評家の意識が常に自分を責め立てるようになるのです。

 このようにして、親が子供をいじめる家庭では、子供がいじめる側の意識を身につけることで、いじめられる側の苦しみを回避しようとします。 

 ①の「親にされたように自分にする」とは正にこのことです。

 親に罰せられた子は、自分を罰する。親にバカにされた子は、自分をバカにする。親に暴力を振るわれた子は、自分に暴力を振るう。

 そのほか、②の「親にされたように他人にする」とは親から学んだ行動を自分にではなく他人に向けることです。

 親にいじめられた子は、他の子をいじめる。親に否定された子は、他の子を否定する。親に支配された子は、他の子を支配する。

 ①と②は子供が「加害者側と同一化すること」で被害者の苦しみを逃れようとする自己防衛です。

 この子の無意識には、親への怒り、傷つけられた悲しみが癒えずに残っています。

 さて、③の「親にされたように他人にされれることを怖れる」という現象を説明いたします。

 抑圧された親への怒りが、他人に投影されると、他人が常に自分に対して怒りを向けているかのように感じてしまいます

 そうすると、親にいじめられた子は、他の人もいじめてくるのではないかと怯えます。親に否定された子は、他の人も否定してくるのではないかと怯えます。親に支配された子は、他の人も支配してくるのではないかと怯えます。そして、対人恐怖症になるのです。

 ①の場合、親への怒りが自分に向かい、自己嫌悪うつになります。
 ②の場合、親への怒りが他人に向かい、反社会的になります。
 ③の場合、親への怒りが、他人から自分に常に向けられていると誤認し、被害妄想になります。現実認識力が害され、対人恐怖症統合失調症などにもなり得ます。

 親に怒りを表現できないために、①代わりに自分に向けたり、②他人に向けたり、③認識力の歪みとして表れたりするのです。

 ①の場合、自分は親と同じ加害者であると同時に、被害者でもあり、2つの間で葛藤しています。②の場合、自分が親と同じ加害者になり切っていて、自分の中にいるはずの被害者とは断絶しています。③の場合、加害者とともに健全な主張能力のすべてが捨てられており、無力な被害者と同一化しています。

 いずれの場合も、防衛を解いて「怒り」にきちんと触れる作業を通して、心理的問題は解決できます。本当の気持ちに気づいて統合すること、つまり「自己一致すること」が必要です。


本当の気持ちを偽ると心は病んでいく
本当の気持ちを認めると心は治っていく
 

内なる脅威

 心理的防衛は、外の脅威に対してのみならず、内なる脅威に対してもなされます。

 「内なる脅威」とは、自分の中にあって否認しているものです。「それ」を切り離した自分として生きているとき、「それ」が顔を出してくると不安になります。

 自分の中にありながら、ないことになっているもの。それは自分の精神的安定を脅かします。

 たとえば、本当は父親に対して怒りをもっている。大嫌いである。けれど、それを意識すると一緒に生活していけない。父親の保護なしには生きていけない。そうすると、父への怒りは否認されます。

 怒っていない自分の振りをして、精神的安定を得ます。

 この人は、怒りを抑圧して「いい子」として大きくなります。ところが、無意識にあって解決していない怒りが様々な人間関係の問題を引き起こします。切り離された怒りが、様々な症状としてその人を苦しめます。当人には心当たりがありません。

 人間関係に悩むこの人はカウンセリングを受けます。心を掘り下げると、父への怒りに触れ始めます。無意識にあった本当の気持ちが顔を出し始めると、怖くなります。逃げたくなります。また抑圧して自己防衛したい衝動に駆られます。

 このとき、抑圧という自己防衛を使っている限り、症状から自由になれないことを理解すると、本当の感情に向かって進めます。

 父への怒りを認知し、感じることを許したとき、幼少期に切り離した自分の一部を取り戻します。これによって、自分を悩ませていた症状は消えます。

 「内なる脅威」を克服したのです。


自己防衛を続け、本当の気持ちに蓋をしている限り、症状に悩まされ続ける
自己防衛を解き、本当の気持ちを認めると、症状から自由になれる

 

不安を適度なレベルに管理する

 不安(anxiety)をゼロにすることはできません。

 初めて何かに挑戦するとき、誰でも少しは不安を感じるものです。「緊張する」という言い方もできます。これまでの枠を超えて成長しようとするとき、不安がないほうがおかしいのです。

 不安を避けると現状維持の守りに入り、成長がありません。

 直面すべき問題に向き合わなければ不安は避けられますが、問題は解けないままで苦しむことになります。

 ですから、成長に向けて前進するために、不安があっても必要な行動をとれることが重要です。

 ただ、不安が過剰になったときには、無理をせず、不安を調整する必要があります。

交感神経と副交感神経

  不安が交感神経を流れているときには、「ファイト」が湧いてきます。手足などの随意筋が活性化してきて、いつでも動ける状態になります。心拍数が上がって、ため息が出て、呼吸が盛んになります

 初めて舞台に上がるような場面を想像してください。「これから行くぞ」という気合いが入って、からだ全体が緊張感に包まれています。

 これは「良い緊張感」です。

 こういうときは、現実や問題に向かって前進するのみです。

 それに対して、不安が副交感神経を流れているときには、耐えられる限界を超えています

 症状としては、頭が真っ白になる、考えられない、視界がぼやけてくる、耳鳴りがする、頭痛や腹痛がする、下痢をする、からだ全体がだらんと緩む、などです。

 こういうときは、ストレス過剰なので、自分を労ってあげてください。

 前進するのではなく、不安であることに気づき、不安に寄り添ってじっとしていることです。不安であることをまず受け止める。そして、前に進まなくていいと自分に言い聞かせる。そういう自分を大事に愛してあげるのです。

 無理に「前進せねばいけない」と自分に命令したり、「また弱い自分が出てきた」などと批判したり責めたりすると悪化します。これでは不安という問題は解けません。

 もし、不安が過剰であることを受け入れ、そういう自分を否定せず温かく包んであげられたら、時間とともに不安は減っていきます。そして、不安は副交感神経から交感神経へと移行します。

 「逃げるモード」から「戦うモード」へとシフトする瞬間があります。

 そうしたら初めて、前進すればいいのです。からだが自然に「戦うモード」になるまで待ってあげましょう。

 不安を否定するという意味で戦ってはいけません。不安を受け入れて、不安を管理するという考え方です。

 不安が過度になったときには、適度なレベルにまで下がるよう、寄り添ってあげる。適度なレベルに下がるまでは前に進まないことを自分に許可するのです。 
  
不安が交感神経を流れているときは
勇気をもって前進する
不安が副交感神経を流れているときは
不安が減るまで自分に寄り添う
 

「改善を要求する」か「距離をとる」か

(これは2016年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 人間関係の悩みがなかなか解けないとき、
相手に2つの相反する気持ちを持っていることがあります。

 たとえば、ハラスメントをする上司に大きな不満を持っていると同時に、その上司に評価されることで収入を安定させたいと思っている。

 いじめてくる姑が憎たらしいしやめて欲しいと同時に、子供の世話を頼んでいるので良好な関係を保ちたいと思っている。

 このようなとき、相手に改善を要求できれば嬉しいけれど、要求がはねつけられた場合、その人から得たいものが得られなくなるリスクがあるので怖くて要求できない。

 要求したいけど要求できない。なので不満は解決しないまま続く。どうしよう。これが心理的な袋小路です。

 これはちょうど、イヤなことをされている相手に弱みを握られているので服従を不本意ながら選んでいる関係と言ってもいいでしょう。

 多くの人は、自分を大事にできない人に依存しています

 相手は自分のニーズを満たせないし、ニーズを尊重できない。なので不満である。けれど同時にその相手を必要としているので離れられない。

 「不満の相手」「不満の状況」に縛られて、抜け出せないかのようです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1つ上のステージに成長するには

 心理的には依存から自立へ向かうことが成長です。

 具体的には「相手に改善をきちんと要求する」か、「その相手に頼らないと決める」かいずれかの形をとります。

 つまりハラスメントをする上司の場合、ハラスメントをやめてもらうためにきちんと対峙し、会社側に改善をとことん要求していく道が1つ。相手からバッシングを受けるかもしれない、解雇されるかもしれないという怖れを受け止めて、それに負けない。要求が聞き入れられるまで戦うという覚悟です。

 もう1つは、この会社はハラスメントを改善する気がない、その能力がないと見限って、辞める決意をするという道です。ハラスメントを改善しようとしない相手に収入や社会的評価を頼るということをきっぱり諦める。これも成長です。

 このどちらもできないままでいることが退行なのです。成長を拒んでいる状態です。

 成長するには「覚悟」が必要です。自分を大事にできない相手から愛や評価を得たいという甘えを捨てて、相手から愛や評価を得られなくてもよいと切り捨てる覚悟かもしれません。相手から嫌われたくないという気持ちを捨てて、必要なものをきちんと主張する覚悟かもしれません。

 いずれも、より高いレベルの満足へと自分を導くのです。

 1つ上のステージに行くには、何かを断ち切らなくてはなりません。下のレベルと繋がる「へその緒」を断ち切らなくてはならないのです。その覚悟ができたとき、成長に向かいます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「改善を要求する」か「距離をとる」かの決断

 イヤなことをされて困っている場合、イヤだからやめてくれと交渉することで解決するなら、自己主張によって自分の利益を守っていることになります。

 しかし、場合によっては交渉しても相手はやめてくれない、やめられない人だということもあります。そういう場合、不満を解消するには「距離をとる」しかありません

 「距離をとらない」とすれば、不満に自分をさらし続ける責任は自分にあります。

 「改善要求もしたくない」「距離をとることもしたくない」という「葛藤」が解けないと、現状維持から逃れられません。

 こういう場合、自分の恐怖心や思い込みに向き合うとよいでしょう。

 「改善要求」をするのが怖い。あるいは「距離をとる」ことが怖い。どちらに対しても抵抗しているので状況が動かないのです。

 このようなとき、冷静に考えてみて、現実的な解決はどちらかを見極めることをお勧めします。

 主張さえできれば、いくらでもその関係は満足いくものになる可能性が残っているなら、去らないで関係改善に取り組むことが成長です。けれども、改善要求しても変わってくれる見込みがないなら、その関係から遠ざかることが成長です。

(この記事の内容は男性的・父性的です。女性的・母性的と対極を成します。「決断する」「断ち切る」「諦める」「はっきりさせる」「覚悟をする」「前に進む」はすべて男性的精神性です。男性性の弱い人、母性に甘えている人が最も苦手とすることです。反対に、健全な男性性が発達している人は自然にできてしまいます。)

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