菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2017年04月

繋がりの欲求(need for connection)

 私は心理学を学ぶまで、自分に「繋がりの欲求」というものがあることを知りませんでした。多くの人も自覚していないのではないかと思います。

 「繋がり(connection)」とは、誰かと心が触れていると感じることを指します。これが欠けていると、「心理的孤立(psychological isolation)」に陥ってしまいます。

 「繋がりの欲求」はどうすれば満たされるのでしょうか?

 それは、相手と自分との間で感情が共有されることによってです。

 物理的に同じ空間にいるだけでは、心理的に「繋がっている」かどうか分かりません。

 たとえば、20年連れ添った夫婦で、夫はちゃんと働いて収入を家庭に入れている。毎日夫婦で食事を一緒にとっている。でも、それだけでは「繋がりの欲求」が満たされることにはなりません。

 気持ちのやりとりがなければ、職務的に日常生活をこなせていても、心は触れていない可能性があります。こういう場合、一緒に住んでいても、心の中は「寂しい」はずです。 

 「繋がりの欲求」は、お金や物質に困らないだけの世話をし合っていても、それだけで満たされるわけではありません。気持ちの通い合う会話がなくては満たされないのです。

 気持ちをただ言い合うだけでも満たされません。感情を表現し合うだけで、きちんと相手に聞いてもらえた、分かってもらえたという実感がなければ、感情をぶつけ合っているだけかもしれません。お互いが自分の感情を防衛し、相手の感情には抵抗する。心の壁がある。こういう状態では、「繋がりの欲求」は満たされないのです。

 また、本心を隠した表面的な関係では「繋がりの欲求」は満たされません。構えがあって本当の気持ちを出していないのですから、心が触れ合うはずはないのです。自分を偽った関係が多い人は、内心とても淋しいはずです。

 「繋がりの欲求」が満たされるのは、自分も相手も素の心を出し合えるときです。真の親密さがなければ満たされない、極めて重要な欲求だと言えます。

 気の置けない仲間と本音で触れ合っているような「親しさ」があるとき、この欲求はたっぷりと満たされます。本当に親しい夫婦や恋人同士でも、満たされます。

 幸せな人生を送るためには、極めて重要な欲求です!
 

自分の「感情反応」を吟味するという姿勢

 人間関係の学びは感情の学びだと私は思っています。

 自分の感情が分かり、相手の感情も分かる。それを目指して聞き合う。その姿勢があって初めて人間関係から各自が成長していけるのです。 

 私たちは相手との関係で様々な「感情反応」を体験します。相手にも「感情反応」が生じます。 

 人間関係がうまく行かないとき、自分の感情と相手の感情が通じ合わず、競合的になります。あるいは、隔絶的になります。

 感情の学びはとても深く、10年や20年でマスターできるようなものではありません。一生かけて学んでも学びきれないほど奥行きがあります。

 私たちは自分自身の「感情反応」を完全に理解していません。なぜこんな感情になるのか、自分でも分からないのです。ただそう感じるから感じるままに相手に話す。それが通じない。そこが感情の難しさです。

 自分の「感情反応」にはいろんなものが混じっています。思い込みや癒されていない過去の傷や相手への期待や隠れた恐怖心など、自覚していない様々な要因の寄せ集めです。

 自分をよく知るには、自分の「感情反応」を意識的に吟味するという習慣を持つ必要があります。「私はあのときどうして怒ったのだろう?」「この淋しさは何だろう?」「私は何かを怖がっているようだけれど、これはどこから来るのだろう?」などと問うことで、自分の内面を探究しなければ自分を深く理解することはできません。 

 ふたりの人間が関わり合うとき、各自がこの吟味する姿勢を持っていてくれると、関係で生じた問題が解きやすくなります。心のもつれが生じたとき、そこから各自が学ぼうという姿勢で臨めば、それぞれに得るものがあります。

 しかし、往々にして、ふたりのうちひとりが、あるいは両者がこの姿勢を持っていない。「感情反応」のままで自己防衛をし、自分には学ぶべきことなどない、このままでいいと主張する。そうすると、戦闘状態に陥ります。

 「相手に耳を傾けることが自分のあり方に脅威となる」という感じ方があると、防衛的になります。そして相手を聞こうとしません。自分の正しさを主張するだけになります。

 相手に自分側のことを聞いてもらうよう強制することはできません。聞く気のない相手に聞かせる方法は存在しません。こういう状態のとき、自分ができることは自分側の問題を吟味することだけです。

 対話を通して現実的問題を解くことは横に置いておいて、内面的成長だけをとりあえず目指すのです。

 自分が自分をより深く理解できるために自己探求をする。自分の「感情反応」に向き合う。掘り下げる。そして、相手の「感情反応」も遠くから理解できるよう分析してみる。

 自分と相手をより深く理解するということは、相手の参加がなくてもできます。

 「なぜ相手はこんな風に言うのだろう?」「相手は心の底では何を望んでいるのだろう?」「相手は何を怖れているのだろう?」「相手はどういう性格の人だろう?」という問いを考えることで、相手への理解を育てることは可能です。

 相手を理解できればできるほど、その相手とどう関わったらいいのかが明確になります。これは相手のためにすることと言うより、自分のためにすることです。相手がどういう人か分からなくては、関わり方が分かるはずはありませんよね。

 自分が感じていること、そして必要としていることが深く見えてくる。そして、相手が感じていることと必要としていることも前よりはっきり認識できてくる。そうすると、相手の参加がなくても、両者を自分の中で理解できる器は大きくなります。

 そうすると、その人間関係の問題を解く能力が発達し、自分が人間的に成長できるわけです。

 あらゆる人間関係の学びは、自分の感情と相手の感情を深く理解できることに基づいています。
 

「満たされないニーズ」に対する4つの反応

 私たちが「精神的健康」を保つためには、満たされなくてはならない「精神的ニーズ」があります。たとえば、「自己肯定」「他者貢献」「自律」「心の触れ合い」「平等」などです。

 何らかの「精神的ニーズ」が満たされないときにはマイナス感情が生じ、心は「不快」を感じるようにできています。そのシグナルを通してニーズを満たせる方向に進むよう促されるわけです。

 さて、「自己肯定のニーズ」を例にとりあげて、「満たされない」ときに起こる4つの反応についてお話ししましょう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

すべての人間には「自己肯定を感じたい」という根源的欲求がある

 誰でも自分という存在を肯定的に感じたいと思っています。これは人間の幸福を左右するとても大事な「精神的ニーズ」です。

 「自己肯定のニーズ」が満たされている状態では、「自分は生きていてよい価値のある存在だ」という基本的な感じ方が根底にあります。これは、家族によって自分の存在が喜ばれていると感じることによっても満たされますし、自分が自分であることを楽しめることによっても満たされます。

 「自己肯定のニーズ」が満たされるために、特定の身体的・精神的特徴を持たなくてはならないということはありません。特定の容姿や才能、達成や業績などに依存していません。こういった特定要素とは無関係に、本人が自分の存在を「価値あるもの」と感じられてさえいれば「自己肯定のニーズ」は満たされるのです。

 容姿や才能、達成や業績において優れている人であっても「自己肯定のニーズ」が満たされず自信のない人もいますし、反対にこれらにおいて優れているわけでない人であっても「自己肯定のニーズ」が満たされて自分であることを喜べる人もいます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「自己肯定」を妨げる「肯定の条件」

 多くの人は「こういう条件が満たされた場合に限り自分を肯定する」というルールを持っています。たとえば、「頭がいい人」には価値があり、「頭が悪い人」には価値がないと思っている人の場合、この条件によって自分も他人も評価するわけです。

 そうすると、この「物差し」に合わない自分がちょっとでも見つかると、自分で自分を「価値のない存在」として見てしまいます。 

人間の価値は「頭の良さ」で決まると信じている人は
「頭の悪い自分」=「価値がない」と思ってしまう

 また、「美人」には価値があり、「ブサイク」には価値がないと思っている人の場合、自分が美人であるかないかにものすごく拘ります。

 「美人」という「物差し」に少しでも合わない自分がいると、自分で自分を「価値のない存在」として否定してしまうのです。

人間の価値は「美しさ」で決まると信じている人は
「美しくない自分」=「価値がない」と思ってしまう

 このように、「この条件を満たした場合にだけ自分を肯定できる」というルールがあると、それによって自分の価値を否定し「自己肯定のニーズ」を自分で阻害してしまうことになります。

 多くの人の内面で「自己肯定のニーズ」が満たされずに不幸を味わっているのは、条件つきでしか自分の価値を認められない「非人間的厳しさ」によってなのです。 

 こういう場合、「非人間的な物差し」に気づいて捨てられれば、「自己肯定のニーズ」は満たされて心は穏やかになっていきます。

自己拒絶は「自己肯定のニーズ」を阻害する
自分で自尊感情を傷つける

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

「自己肯定」を妨げる「トラウマの傷」

 「自己肯定のニーズ」を阻害するもう1つの要因は、癒されていない「トラウマの傷」です。たとえば、親に共感してもらえなかった経験、友だちに仲間はずれにされた経験、不安なときにバカにされた経験など様々な辛い体験を誰でも多少しているものですが、そういう経験を通して多くの人が「自分はダメな存在なのかなあ」という不安を抱えています。

 「共感のニーズ」「繋がりのニーズ」「尊重のニーズ」「平等のニーズ」などが阻害されたとき、精神的には大事なニーズが満たされなかったためマイナス感情が生じました。けれど、その解消のしかたが分からなかったため、そのまま意識内に残留しています。

 こういった「癒されていないマイナス感情」が自己肯定感を蝕んでしまうのです。 

 こういう場合には、「癒されていないトラウマ感情」を癒すことで、「自己肯定のニーズ」は満たされていきます。

癒されない感情が「自己肯定のニーズ」を阻害する
心の傷は「自己価値への不安」として体験される

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

満たされないときの4つの反応

 さて、「自己肯定のニーズ」が満たされずに慢性化すると、様々な心理的症状が出てきます。 ここでは4つの反応パターンに分けてみました。

攻撃的搾取:相手から支配的手段を用いて「肯定感」を奪おうとする
迎合的搾取:相手から服従的手段を用いて「肯定感」を奪おうとする
自己放棄と絶望:ニーズを捨てて絶望する
自己共感と成長:自己共感を通して健全な満たし方へ前進する

 「自己肯定のニーズ」が満たされずに心が慢性的に不快な状態にあると、外の世界から自分を肯定してくれるものを探して得ようという心の動きになることがあります。

 相手や周囲に自分を肯定してもらおうという動きですが、これが攻撃的な性格を帯びると、自分が相手より優位な立場に立つことで賞賛・服従を求める形になります。

 ナルシシストはこの典型例です。

 自分は偉くて特別な存在であるという「マスク」を作り出し、周囲にかしづかせる。そのようにして、自分の根底にある極端な劣等感を、優位に立つことで癒そうとするのです。

 攻撃的になれない優しいタイプの人は相手の下に立ち奉仕することで「肯定感」を得ようとします。「良き妻」や「良き息子」になることで「必要とされる価値」を味わおうとするのです。

 攻撃的搾取も迎合的搾取も、他者との関わりを強く求めます。相手は「自己肯定感」を与えてくれる資源ですから関わらずにいられません。相手を本当の意味で愛することはできませんが、執着してしまいます。

 3つ目の反応は「満たされていない自己肯定のニーズ」が満たされることへの諦めです。自己肯定において絶望し、自己否定のまま意気消沈して暮らすことになります。「自己肯定」をどうやって満たしたらいいか分からなくなってしまい、どんな方法もとれないまま凍結してしまうのです。

 最後の4番目の反応は、「満たされない自己肯定のニーズ」に自分自身で向き合うという方法です。相手に満たしてもらおうというのでもない、絶望しているだけでもない。「自己肯定のニーズ」を妨げている要因に自己責任において向き合うわけです。

 このようにして、精神に意識の光と共感の愛を注ぐことで、「自己肯定のニーズ」が自然な形で満たせる状態へと持っていくことができます。

 こういったカウンセリングや心理療法が成功したときには、相手に対して搾取的にならず、絶望もせず、健全な方法で「自己肯定のニーズ」を満たしながら自分の人生を楽しめる人へと成長していけるのです。
 

サイモン・バロン=コーエン「自閉症と科学的才能」

自閉症は極端な男脳

 サイモン・バロン=コーエン(英国ケンブリッジ大学)は、自閉症の専門家です。

 自閉症になるのは男性が女性の4倍だそうです。「アスペルガー症候群」の語源にもなっているオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーは、次のように言っています。

Autism is an extreme of the male mind.
Hans Asperger

自閉症は男性的マインドの極みである。
ハンス・アスペルガー

 バロン=コーエンは著書『共感する女脳、システム化する男脳』で、女性は男性より共感能力が高く、男性は女性よりシステム化能力が高いと述べています。個人で見ると反対の例はいくらでも見つかりますが、集団として調べると性差があるということです。

女の子は人の顔に、男の子は機械に関心がいく

 人の顔と機械を見せると、女の子は人の顔を、男の子は機械を見つめる時間が長い。そして、機械を見つめる時間が最も長い子たちが自閉症でした。つまり、自閉症は男の子の特徴を極端に表しているということです。

 カレン・ピアース(カリフォルニア大学サンディエゴ校)は、社会的パターン(social patterns)と幾何学的デザイン(geometric design)を子供に見せたとき、幾何学的デザインを見つめる時間が70%を超えた子は100%の確率で自閉症であったと報告しています。社会的パターンというのは私が想像するに、人と人が笑顔で話しているとか、人が人を叩いているとか、心理的なやりとりがあるイメージなのでしょう。

 また、遊びの種類にも性差は表れます。平均して、女の子は人形を使って気持ちのやりとりを楽しむ遊びが多いのに対して、男の子は物事のパターンに興味を示し、レゴやミニカー、鉄道模型などに夢中になる。

 女性のほうが男性よりも人の感情を読み取れるとか言語能力が高いこと、男性のほうが女性よりも空間認知力や数学の才能があるということは知られています。

 自閉症は、この男性的特色が極端なレベルにまで到達したものだと言うのです。

 自閉症者は社交が苦手で、数字の羅列を覚えるとか、景色の詳細まで記憶するとか、10種類の音を一瞬で把握して楽譜に書けるとか、客観的世界の事物のパターンに多大な関心を示し、特殊な才能を発揮することがあります。

 映画「レインマン」でダスティン・ホフマンが演じた自閉症者も、何年何月何日と言えばそれが何曜日だったかを正確に当てることができました。

男性ホルモン(テストステロン)との関係

 胎児のテストステロン値を測り、追跡調査をしたところ、胎内で男性ホルモン値が高かった子ほど、人の顔よりも機械的パターンに関心を示す割合が高かった。そして、自閉症である確率も上がった。

 つまり、男性ホルモンは共感能力ではなくシステム化能力と関連しているようです。

自閉症者と数学・工学との関係

 数学専攻の学生には、他の分野よりも高い割合で自閉症が見つかりました。また高校生に工学の問題を解かせたところ、自閉症の生徒は一般の生徒よりも高い点数を取りました。

科学で成功するには少し自閉症だったほうがいい?

 ニュートンやアインシュタインも自閉症だったそうですが、科学の研究に没頭して優れた成果を上げるには、人間関係から離れて無機的なパターンに深い関心を寄せられる資質が重要なようです。

 ここでまた、ハンス・アスペルガーは面白いことを言っています。

"For success in science, a dash of autism is essential."
Hans Asperger

「科学で成功するには、ちょっぴり自閉症であることが不可欠だ。」
ハンス・アスペルガー

 実際、科学者に占める自閉症者の割合は一般人口より高いことが分かっています。また自閉症者の父親に最も多い職業はエンジニアです。

 オランダの IT都市であるアイントホーフェンには、ハーレムやユトレヒトの2倍の割合で自閉症の子供が見つかりました。理系の優秀な人材が集まる都市には自閉症の子供が多いのです。

女性が科学に向いていないわけではない

 バロン=コーエンによると、ケンブリッジ大学の学生数は、工学・数学では男性が多数派だけれども、医学・心理学・獣医学などでは女性が多数派だと述べています。特に人や動物を相手にする科学分野では共感能力や社会的スキルも重要であり、女性の特性も等しく求められているのですね。


参考動画(英語)



「認知的共感」と「情動的共感」

2種類の「共感」

 「共感」には「認知的共感(cognitive empathy)」「情動的共感
(affective empathy)」
の2種類あります。

 「認知的共感」とは、相手の思考や感情を「知的に認識できること」です。それに対して「情動的共感」とは、相手の思考や感情に対して「情的に繋がって反応できること」です。

 どちらも「相手の内面を理解すること」という点で同じですが、前者が「頭による知的理解」なのに対して後者は「心による情的理解」だという違いがあります。

 「認知的共感」が強く「情動的共感」が弱いと、相手の心理への洞察力があるけれど、温かく寄り添う感情反応はあまりない。逆に「認知的共感」が弱く「情動的共感」が強いと、温かい情はあるけれど相手の心理への洞察はありません。

 たとえば、私が困っているときに、私に対してたっぷりと思いやりのある知り合いが何とか私を助けようと思ってくれる。これは有り難いことです。けれど、その人は私がなぜ困っていて何を必要としているかを正確に理解せず、自分勝手な援助のしかたをしてきて困る。この場合、この人には「情動的共感」はあるけれど「認知的共感」は少ないわけです。

 逆に、私が困っているときに、私が何で困っていてどうすれば解決するかを正確に把握できる心理学者のような人がいたとする。内面のカラクリを見事に言い当てられる。けれどもこの人は冷酷であり、人を物のようにしか見られない。なので、私を助けてあげたいというような温かい情動はない。こういう場合、この人には「認知的共感」はあるが「情動的共感」はないということになります。

 「トンチンカンな理解をするけれど、とにかく情に厚い人」と「分析力・洞察力は優れているけれど、冷たい人」が対極にあるのです。この2つの例は、それぞれの本質を明らかにするために、わざと極端に偏ったフィクションにしてあります。実際の人間は、2つの中間に位置する人が大部分でしょう。

 難しい外科手術が必要な場面では、外科医には「認知的共感」の強い人がいて欲しい。内面のカラクリを理解し適切な判断ができる頭脳明晰な人が求められる。もちろん「心の温かな人」であれば尚いいけれど、心が温かで頭の悪い人よりは、心が多少冷たくても頭の良い人が欲しい。けれど、手術後の看護をする人には「情動的共感」の強い人が傍にいて欲しい。「辛そうだなあ」などと自然に感情が触れてこちらの心理的ニーズに温かく寄り添える人がいると心強いし慰められる。

 両方とも発達しているのが人間としては最も望ましいのかもしれませんが、やはり得意不得意が人間にはありますので、どちらかが優性になることが多いと考えられます。

周囲の感情がどれだけ「移る」か

 楽しい集団に入ると自分も楽しくなる。悲しい集団に入ると自分も悲しくなる。怒っている集団に入ると自分も怒ってくる。という風に、相手と同じような感情になる傾向が強い人は「情動的共感」が強いということです。

 ドラマや映画、苦しんでいる人のイメージを見ると感情的に辛くなったり泣けてくるという人は「情動的共感」が強い。

 それに対して、周囲の感情がそれほど「移らない」人。映像を見ても辛くなったり泣けてきたりしない人は「情動的共感」が弱い。

 人の苦労話などを聞いてすぐ泣いてしまう涙もろい人、たとえば西田敏行や織田信成は「情動的共感」が強いだろうと思います。

 「情動的共感」があることによって「人との情的交流」が可能になります。知的交流や議論ではなく、「心の繋がり」を感じるにはこちらのほうが重要な役割を果たすわけです。

 そうすると、「情動的共感」のほうが良いように思うかたもいるかもしれませんが、「情動的共感」が強いと却ってやりにくくなる仕事もあります。感情反応が強いとそれが邪魔になる場合もあるのです。

「認知的共感」が優性なほうがやりやすい仕事

 職業によっては「情動的共感」はほどほどで、「認知的共感」が優れているほうが耐えられるものがあります。企業経営者、弁護士、外科医、救急隊員、警察官、自衛官、消防隊員、取締官などです。情的にはタフな職務なので、感じやすい人には務まりません。

 「認知的共感」が優れていて「情動的共感」が弱い人の中には、詐欺師や犯罪者、冷血な統治者もいます。

「情動的共感」が求められる仕事

 保育士や幼稚園教諭、福祉士、介護士、看護師、カウンセラー、芸術家、職人、ヘアースタイリスト、接客、客室乗務員などには「情動的共感」のほうを多く求められます。優しい心の繋がりや感性のほうが重要な位置を占める職務です。

サイコパスと自閉症は対極

 イギリスの自閉症の研究者、サイモン・バロン=コーエンは、自閉症者は共感能力が一般的に低く人間関係が築きにくいけれど、持っている共感能力の中では「情動的共感」のほうが強いと言っています。他人が苦しんでいると、優しく反応する人が多く、相手を苦しめるようなことはふつうしない。社会的スキルが育ちにくいのは、認知的に相手の内面を把握しにくいからだということのようです。

 それに対してサイコパスは真逆で、「情動的共感」がなく「認知的共感」はある。相手の内面を見事に読み解くことができ、かつ相手を支配したり操作したり搾取したりして傷つけても平気だということです。
 
 ナルシシストも「情動的共感」が欠けています。
 

「ワクワク」→「どん底」→「再生」→「真の充実」

 私たちが何かを求めるとき、それは健全な自己実現欲求の表れであることもあれば、不健全な神経症的欲求の表れであることもあります。

 ここでは後者の場合のみを扱うこととします。

 神経症的欲求とは、無意識に埋もれた欲求不満があり、その補償作用として別のものを強く求めることを指します。

 たとえば、無意識に癒されない劣等感がある場合、名声や成功を求めるという形で表れることがあります。社会的評価で自分の価値を肯定したいという人を例にとりますと、名声や成功に向かえている時期というのは、その方向性を疑いません。また、それを得られると信じている限り希望に胸が膨らむので、明るい気持ちがします。

 本人は自分の劣等感を癒したいという動機に気づいていませんが、会社で昇進して自分を証明してやろうという気持ちにワクワクするのです。

 平社員から課長になり部長になりと順調に行っているときには、どんどん満たされていく気がします。

 この時期を「ワクワク期」と呼ぶことにいたしましょう。

 あるとき、同期のヤツが自分より先に昇進するとか、自分が失敗を犯してそれ以上出世できないような状況になることがあります。そうすると、そこで「どん底」に突き落とされるのです。暗〜い気持ちで落ち込む。

 望んでいるものが得られない、夢がもう叶わないというような「危機」を体験するのです。

 この「どん底期」は辛いものですが、そこで味わう劣等感や無力感は、逃げることなく直面すべきものです。

 実は、自分の気づかない無意識の領域に、この劣等感と無力感はずっとありました。それを社会的評価で埋めようとしていただけなんです。そのアディクションがもう機能しなくなって、奥にある問題がさらけ出されたのです。

 「もう成功や出世に逃げるな」という人生からのメッセージなわけです。

 この「心の闇」から逃げずに対峙すると、「本当に満たしたいもの」と接触し始めます。欲求が違った方向に流れていく。その注ぎ先が見えてくる。それがその人の「再生(生まれ変わり)」であり、そこから新しい人生が始まります。

 自分の本当の肯定感、充実感を目指して自己実現できる人間になるのです。

 なので、「どん底」の体験は極めて重要です。古い秩序が崩壊し、新しい秩序がそこに生まれるスペースができるからです。

 他の例としては、孤立を避けるために恋愛や結婚をする人が、理想の相手を求められている間は興奮する。理想の相手と出会えたと感じているときには歓喜する。ところが、その幻想が破れるときがやってくる。「幻滅」する。孤立の恐怖に向き合わざるを得ない。

 また、虚しさをどんちゃん騒ぎやドラッグで埋められているとき楽しい。ハイになる。けれどどんちゃん騒ぎができなくなる。ドラッグで捕まる。虚しさからもう逃げられない。

 無力感を子育てで癒そうとする母親。自分で思い描いた通りの「理想の子」に仕立てあげることで立派な母親になれば、無力感から解放される。そう思うと、子供を塾に通わせ、いい学校に入れ、社会から「素晴らしい母親ね」と言われるという夢に向かってエネルギーが湧いてくる。子育てという事業に興奮し躍起になる。それなのに子供が不登校になってしまった。ニートで就職をしない。名門大学に落ちた。こんなはずではなかったと思って落ち込む。元の無力感を突きつけられる。

 このように、「幻」に向かっているときには非現実的な歓喜があります。それが崩れたとき、現実の感情に直面せざるを得ない。その「どん底」にどう向き合うかで、その後の成長が決まります。

 私の仕事は、「どん底」から「再生」への道のりを伴走することです。

フロイト「『それ』が『わたし』になるプロセス」

 フロイトが残した有名な言葉に次のようなものがあります。

"Wo Es war, soll Ich werden."(ドイツ語)

 これは普通、英訳すると次のようになります。

"Where Id was, there Ego shall be."(英語)

 和訳は、いちおう以下のものを採用しておきます。

「エスがあったところに自我をあらしめよ。」 (日本語)

 この言葉によってフロイトは何を意味したのか。そこに彼の天才が表れています。今日は、彼の洞察のスゴさを少しずつ読み解いていきます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 この記事は、心理学をあまりよくご存知ない方に、フロイトの天才を少し味わってもらおうという目的で書かれています。

「エス」も「イド」も「それ」という意味

 フロイトは人間の精神構造を「エス(イド)」「自我」「超自我」の三部に分けて考えました。これは精神分析の解説書ならどこにでも書かれている内容です。三部の名称ですが、原語のドイツ語で考えると興味深いことが分かるので、まずそこからお話ししましょう。

 「エス(イド)」「自我」「超自我」というと難しい専門用語のように響きますが、
フロイト自身は平易な日常語を使っています

 ドイツ語、ラテン語、英語、日本語で比べてみましょう。

ドイツ語 das Es das Ich das Über-Ich
ラテン語 Id Ego Superego
英語 Id Ego Superego
日本語 エス(イド) 自我 超自我

 精神分析はイギリスやアメリカで流行りましたが、英語名はラテン語を使用したため、英米経由で日本語に入ったとき「イド」という名称を採用したわけです。ドイツ語から直輸入した場合は同じものが「エス」と呼ばれ、日本には2つの呼び名が混在することとなりました。日本語の解説書に「エス」となっているものと「イド」となっているものの2種類あるのは、こういう理由からです。

 さて、「エス」とか「イド」というと日本人にはピンと来にくいのですが、何のことはない。フロイト自身は「それ」と言っただけなんです。そう、ドイツ語の das Es とは英語で言えば the It(それ)なんです。

 「それは美しい」を英語で言えば "It is beautiful." ですよね? ドイツ語では "Es ist schön." となることからも分かるように、Es はふつうの「3人称代名詞」なのです。それに定冠詞の das(英語の the)がついているだけ。

 「自我」もフロイトは「わたし」という「1人称代名詞」を用いています。そして、「超自我」はおそらくフロイトの造語でしょうが、「わたしの上」という面白い言い方をしています。das Über-Ich を英語で言うと the Over-I とか the Above-I となります。

 フロイトの言ったことをお茶の間ことばに直すと、「人間の心は『それ』と『わたし』と『わたしの上』という3つの部分でできています」ということになります。

 こうすると、何か分かりやすくなりませんか? ずっと身近な感じがしますよね? それにしても、自分の中にある「それ」とか「わたしの上」って何だろう? そういう好奇心が湧いて来た方のために説明を続けましょう。

 「それ」というのは、自分の中に起こってくる衝動のうち、きちんと取り入れられていないために、それによって振り回されたり困らされたりと受動的にならざるを得ないものです。

 たとえば、なぜか知らないけれど、人を殴りたくなってくるとか、相手構わずセックスをしたくなるとか、お酒を飲まずにはいられないなどという衝動が起こってきて、その人はそれに従ってしまう。

 「何か」がわたしに「殴れ」と強制している。「何か」がわたしに「誰とでもセックスせよ」と要求してくる。「何か」がわたしに「酒を飲め」と命令してくる。そう感じて自己統制がとれない。衝動の奴隷になってしまう。

 こういう風に、自分の中に起こってくることなのに、「自分はこうしたい」という自分の意志を反映させられない領域というのがある。自分はその衝動の犠牲になってしまう。どうしようもない。

 このように、意志に反して自分を突き動かしてくる衝動を「それ」とフロイトは呼んだのです。自分の意志ではないので、「わたし」とは言えないわけですね。「それ」が「わたし」に強制してくるという構図です。

 それに対して「わたしの上」というのは、「わたし」に対して上から目線で「こうしなさい」「ああしなさい」「こうしてはならない」「ああすべきではない」と親や教師のように規範を突きつけてくる意識です。

 「お酒ばっかり飲んでいたらダメでしょ?」と叱ってくる意識が自分の中にある。「わたし」は「それ」からの衝動に従って酒を毎晩飲む。けれど「わたしの上」は「お酒はやめなさい」と言ってくる。

 そうすると、「わたし」は「それ」と「わたしの上」の板挟みになって苦しむんです。

 このように、心の問題というのは、3つの部分に分裂して収拾がつかない状態を指します。 

無意識を意識化すると「それ」が「わたし」として統合される

 「それ」の中には、本来は「わたし」だったのに抑圧されて、いわば「3人称化」されてしまっているものがあります。もともと「自分」の一部なのに、否認されて「物」にされてしまっている。 

 神経症においては、抑圧されたものが無意識にあって症状として出てくることでその人を悩ませるわけです。

 本当は父親に傷つけられて悲しい。そして怒っている。けれど、それを意識すると生きていけなかったので抑圧した。すると意識では「わたしは父が好きだ」と思っている。悲しみや怒りは「それ」として「3人称化」されて正体の分からない形で「わたし」を突き動かす。「人に嫌われるのが怖い」というような神経症症状となる。

 無意識を意識化していくと、「わたしは父に傷つけられて怒っている」ということが見えてくる。そうすると、その「本当の感情」は「それ」から「わたし」に変換されたことになります。

 自分が気づいていなかった「自分自身」を自覚できるようになる。これは自分の心の内容が「物」から「わたし」に変わることなのです。 

 「それ」が「わたし」に変わると、自分の真の感情や欲求として自覚できるので、意志をそこに反映させられるようになります。もう得体の知れない「何ものか」に悩まされるという構図ではなくなる。そうすると、症状の犠牲者ではもうなくなります。

 神経症が治るのは、「それ」のあったところが「わたし」になるときだ。

 それをフロイトは表現していたのです。 

 どうです? 天才でしょう?

アディクションでは真の欲求が埋もれている

 過去の体験があまりに辛かったためその感情を埋もれさせたという場合、その感情といっしょに付随する欲求も隠れて自覚できなくなります。

 すると、「本当に満たしたいもの」が本人に分からなくなってしまう。分からなくなったからと言って、「満たしたい衝動」がなくなるわけではありません。その衝動は違う形として訴えてきます。

 本当に欲しいものは「水」なのに、「泥」が欲しいというような変な形になって現れるのです。

 本当に欲しいものは「安全」や「心の触れ合い」なのに、それが自覚できない。埋もれている。そうすると、自分が欲しいものは「セックス」だという風に自覚されたりするのです。 

 このように、恋愛やアルコールや名誉など、対象は何でも構いませんが、アディクションが生じているとき、その対象は「本当に欲しいもの」ではありません。それは「代理欲求」の激しい動きに過ぎないのです。 

 「泥」ばかり食べてしまう。けれど、食べても食べても満足できない。それは、本当に欲しいのは「水」だからなんです。

 では、なぜ「水が欲しい」という心の真実が分からないのでしょうか?

 それは、その真実を意識することがものすごく怖いからです。無意識に避けてしまうからです。

 では、なぜ怖くて避けてしまうのでしょうか?

 それは、その領域にトラウマが癒されずに残っていて、蓋をすることで自己防衛を無意識でしているからです。この人にとって「水が欲しい」と意識するということは、以前の生活で「水が欲しかったのに得られなくてものすごく辛かった」という感情と直面することを意味します。それはあまりに辛かったので感じたくないのです。死ぬほど怖かったのです。認めたくないほど辛かったのです。

 「泥」ばかり求めてしまうアディクションから自由になるには、「水が欲しかったのに得られず辛かった・怖かった」という「本当の情動」にアクセスしなくてはなりません。それを通してその人は再生できるのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 本日のテレフォン人生相談(2017-4-10 テレフォン人生相談)では、いつも既婚者との不倫になってしまうという女性が相談者です。独身男性とまともな恋愛をしたいけれど、気づいたらいつも不倫だ。なぜか分からない。

 相談が進むにつれて、この女性はとにかく「手当たり次第、男が欲しい」という強い衝動に突き動かされていることが判明します。幼少期の思い出を聞かれると、「ない」と答える彼女。加藤氏は、彼女が生育環境で恐怖を感じていたことを見抜きます。「あなたの欲しているのは心の触れ合いだ」と言われて彼女は納得したようでした。両親との関係が恐怖だったと認めることができた彼女は、本当の情動に触れ始めています。

 抑圧された無意識を意識化することで心の問題を解こうとするアプローチは「精神力動論(psychodynamics)」と呼ばれ、フロイトやユングによって提唱されました。


代理欲求を満たそうとするアディクションの生活が崩壊したとき
本当の情動に触れ、「本当の欲求」を意識化する事業が始まる
トラウマを乗り越えて、本当の自己実現へ向かうのだ
自分らしい人生はこれからスタートする!

「ナルシシスト」とよく混同される「能動的共依存者」

 「共依存」には「能動的(active)」なタイプと「受動的(passive)」なタイプがあるとロス・ローゼンバーグは言っています。

 このうち「能動的共依存者(active co-dependents)」は「ナルシシスト(narcissists)」とよく混同されます

 ローゼンバーグは、「私はナルシシストかもしれない」と言ってセラピーを申し込む人はほぼ確実に「共依存者」だと言っています。「共依存者」が自分を「ナルシシスト」だと勘違いするなどということがなぜ起こってしまうのでしょうか。

 これはセラピーの成否を左右するほど重要な勘違いです。

 「ナルシシスト」は「自分はひょっとしてナルシシストじゃないか」と心配することはありません。そういう心配をするのは「共依存者」だけなのです。「共依存者」は自分のニーズを主張することを「我がまま」だと咎められてきた人なので、自分が我がままであることを心配するのです。

 「ナルシシスト」は我がままを正当化し「何が悪い?」と開き直るほうなので、我がままであることを心配するということはまずありません。そして、大部分の「ナルシシスト」は自分からセラピーを受けようとはしません。不安や劣等感はそれほど深いところに抑圧されているので、自分の病理を自覚することが極めて難しいのです。

ナルシシストは自分が我がままであることを何とも思わない
共依存者は自分が我がままでありたくないと強く思う

 なので、「私はひょっとしたらナルシシストじゃないか?」と心配になる人には「いい知らせ」と「悪い知らせ」があります。「いい知らせ」は「あなたはナルシシストではありません」ということです。「悪い知らせ」は「あなたは共依存者で自分のニーズを主張することに罪悪感を感じるようプログラムされています」ということです。

 ということで、今日は「ナルシシスト」と「能動的共依存者」の違いについてさらにお話を続けたいと思います。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「共依存者(co-dependents)」の定義

 まず、「共依存者」とは何かを明確にしておきましょう。ロス・ローゼンバーグの定義をご紹介します。

"Codependency is a psychological conditon that is manifested in
relationships.  Codependents give a great deal more love, respect and care (LRC) from others than they expect, request and
ultimately receive.  Even though codependents are resentful and angry about the LRC inequality, they do not terminate the
relationship.  In the event that they or their partner do end the
relationship, codependents perpetually find themselves on the
giving end of a new relationship."

 「共依存は人間関係において表れる心のあり方です。共依存者は相手から受け取る LRC(愛と尊重と世話)よりも遥かに多くのLRCを与えます。彼らはこのLRCの不平等に不満をもち怒っているのですが、関係を終わらせようとはしません。彼らか相手のどちらかが関係を終わらせた場合でも、また新たな関係において、相変わらず相手より多く与える側に回るのです。」

 LRC(Love Respect Care: 愛・尊重・世話)というのは面白い言葉ですね。

 対等な人間関係においては LRC は平等にやりとりがなされる。ギブアンドテイクがバランスよく行われる。自分ばかりが世話を焼いて、相手からは何も得られないという関係ではない。

 けれども、「共依存者」というのは、相手から得られるLRCが少なくても、自分から相手にはたくさんのLRCを与えてしまう。そういう不平等な関係に常に縛られる傾向がある。不満なのだけれど、そういう不平等さから解放されない。

 これが「共依存者」の抱える心理的問題です。

 尽しては不満、尽しては不満を繰り返してしまいます。

 逆に「ナルシシスト」とは、相手から多くのLRCを期待し、自分からはそれより少ないLRCしか出さない人です。相手が自分の我がままに合わせて当然だと感じ、奉仕されることを要求します。

 相手が尽してくれなければいとも簡単にポイと捨てます。相手を傷つけることなど朝飯前です。「もう飽きたからバイバイ」と平気で言ってしまえる冷酷さがあります。「ナルシシスト」は「共依存者」のしがみつきを利用して搾取する側なのです。

「共依存者」が関係を持ちやすい相手とは?

 「共依存者」はLRCを十分に与えられない親に育てられました。自分がLRCを与える側に回ることで居場所を確保してきたので、このパターンから外れると不安になってしまうのです。

 そして、親と同じようにLRCを与えられない相手と愛着関係を築いてしまいます。

 LRCを多く与えられない人物には以下のようなタイプが含まれます。

 ①ナルシシスト(自己愛性パーソナリティー障害)、②境界性パーソナリティー障害、③反社会性パーソナリティー障害、④その他、身体的・精神的疾患をもつ人、⑤アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存、恋愛依存の人。ここには暴力性や無責任も含まれます。

 こういう人に自己犠牲を払って一生懸命尽す。LRCをたくさん与えるのに自分はLRCをそれほどもらえないため、いつも不満になる。けれど「相手は自分を必要としている」「相手を癒せるのは私しかいない」などと発想し、不満の関係から離れようとはしない

 これが「共依存者」の病理です。

「受動的共依存者」と「能動的共依存者」

 次に、2つの「共依存者」のタイプを定義しましょう。再びローゼンバーグの解説を引用します。

Passive Codependents: Passive and stoic -- gave up hope for
controling the Narcissist
Active Codependents: Willfully and manipulatively fights back.  
Mistaken for a Narcissist

受動的共依存者:受身でストイック。ナルシシストは変わらないと絶望している。
能動的共依存者:強情で操作的。ナルシシストの支配に反逆する。ナルシシストと間違われやすい。 

 「受動的共依存者」は現状を受け入れるしかないと絶望し、不満のままでいます。それに対して「能動的共依存者」は「ナルシシスト」の一方的支配に文句を言い、「ナルシシスト」に働きかけて何とか変わってもらおうとするのです。

 「能動的共依存者」はとても積極的で、攻撃的・支配的な部分があるので、「ナルシシスト」と間違えられやすいのです。懸命に「ナルシシスト」を改革しようとします。「ナルシシストの夫」にカウンセリングを受けさせようと躍起になるのも「能動的共依存者の妻」です。強引な人だと、ナルシシストの夫を引っ張ってきます。(笑)

 ところが、「夫に変わってもらわなくては困る」という要求は、強い依存心の表れです。奥には「ナルシシスト」から離れられないという執着が潜んでいます。その奥には「ひとりになるのが怖い」という不安が抑圧されている。

 「夫に変わってもらえば私はこのままこの人にくっついていられる。そうすれば孤独の恐怖に向き合わずに済む」という依存心が働いているのです。「自分が変わらなくても、彼が変わってくれさえすれば万事解決」と思いたい。

 夫のDVや支配や嘘に対する文句を声高に叫びつつ、「問題は夫なのだ」「問題は彼氏なのだ」と主張し、彼を改革させようとエネルギーを集中する。そして、自分がなぜ彼にしがみついているのかをなかなか見ようとしない。


 「能動的共依存者」はこのように、自分の心の問題から逃げるために相手の問題に干渉していきます。相手の問題を放っておけないのです。ナルシシストさえ健全になってくれれば自分の不満はなくなる、というシナリオに没頭することで、自分自身に直面することを避けます。

 このように、自分の問題から逃避するために他人の問題に干渉し操作しようとする人は、時には暴力的・支配的な性質を見せるため、その我がままさから「ナルシシスト」と混同されることがあるというわけです。

 「ナルシシスト」と「能動的共依存者」を見分けるポイントは、人間関係において相手よりもLRCを多く奪う傾向にあるか与える傾向にあるかです。

 根底にある人間関係が、自分を殺して相手に尽すことで孤独を避けるというものであれば、そこから発生した不満が相手への暴力性や操作性に及んだとしても、その人は「ナルシシスト」ではありません。「共依存者」です。

LRCを奪う人、与える人

 LRCを奪う傾向の強い人の特徴を挙げます。

★相手が反対しても自分を押し通す
★我がままだと思われても何とも思わない
★相手は自分に尽して当然だという特権意識が強い
★自分をしっかりと主張してくる相手は嫌いだ
★歯向かうことなく服従してくる人が好きだ
★自分は正しいといううぬぼれが強い

 LRCを与える傾向の強い人の特徴を挙げます。

★できるだけ相手に合わせたい
★相手が喜んでくれさえすれば私は折れてもいい
★相手は可哀想な人で私を必要としていると思う
★自分のニーズを表現することは苦手で躊躇しがち
★相手が決めたことに従うのが楽
★相手とぶつかるのはイヤなので対立を避ける
★自己中心的だと思われるのはイヤだ

 前者は「ナルシシスト」、後者は「共依存者」の傾向を表しています。ご参考まで。
 

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「カチカチの自我」vs.「ブヨブヨの自我」

 生命力が漲るのは、しっかりした土手のある川に滔々と水が流れるように、またしっかりとした茎に支えられて繊細な花びらが妖艶に開いているように、固さと柔らかさがバランスよく支え合うときです。

 土手が柔だと洪水になるし、茎が柔だと花は折れてしまう。柔らかさだけだと氾濫と混乱が起きます。

 土手だけで水がなければ、川は乾涸びる。茎だけで花がなければ、美しさは半減する。固さだけだと安定はするが、生命は踊らない。

 健全な自我も、固さと柔らかさをほどよく兼ね備えています。

 ほどよく固い自我とは、しっかりしているということです。また、ほどよく柔らかい自我とは、感受性に開かれているということです。

 固さが行き過ぎると、火を通し過ぎた卵のようにカチカチで美味しくない。固さに問題のある自我を「カチカチの自我」と呼ぶことにしましょう。また、柔らかさが行き過ぎると、火の十分通っていない卵焼きのようにブヨブヨでまずい。柔らかさに問題のある自我は「ブヨブヨの自我」と命名いたします。

Defensiveness(防衛性)vs. Fragility(脆さ)

 「カチカチの自我」とは「防衛的な自我」のこと、「ブヨブヨの自我」とは「脆い自我」のことを指します。

 「カチカチ」も「ブヨブヨ」もその人の成長を妨げるので問題ですが、解くために必要な処方箋は異なるので、別々に理解することが大切です。

 たとえば、嘘をついた人に私が「それは嘘ですよね?」と迫った場合、防衛的な人は「嘘を認めない」という否認に出たり、「何を証拠にそんなことを言うんですか?」と反撃に出たりすることで、真実と直面するのを避けます。

 不当な批判に対して自分を守るのは「健全な自己防衛」ですが、自分の成長に必要な真実を拒むのは「不健全な自己防衛」です。これをやっている限り、心の問題は解けず苦しみが続いてしまいます。

 なので、防衛的な行動に気づいたら、それを潔く認めることが重要です。自己防衛を指摘されたとき「そうだ。私は確かにいま自分を防衛した」と認めると、固さが取れます。そして、嘘を認められることでその人は真実を受け入れ成長できるのです。「頑固さを乗り越え」て、少し健全な柔らかさを身につけた瞬間です。 

 反対に「それは嘘ですよね?」と迫られた人が、泣き出して崩壊してしまうとすれば、この問いかけを受け止められるだけの精神的安定がないということです。これが「脆さ」です。

 真実に抵抗せずにそのまま認められるのが「強さ」です。認められず、どうしたらいいのか混乱して泣いてしまったり、感情的に収拾がつかなくなることが「精神的な脆さ」です。こういう場合、「強くなる訓練」を受けることができます。

 「カチカチ」と「ブヨブヨ」は正反対に見えますが、「カチカチ」の内面は「ブヨブヨ」なのです。内面がものすごく不安で弱い、それをまともに認められないので表面では強がっているわけです。強がる人は、決して強いわけではありません。強がらずにはいられないほど実は弱いのです。「カチカチの人」が自分の防衛に気づいて認めると、柔らかくなります。柔らかくなると、内面にある「ブヨブヨ」に向き合わざるを得なくなります。その弱さを受け止められることが本当の強さを養うのです

「カチカチ」の鎧を脱ぐ

 「カチカチの人」は自己防衛によって「ブヨブヨ」を隠しています。心に鎧を着ているので、本当の自分と断絶しているのです。なので、本当の自分になっていくには、鎧を脱いでいかなくてはなりません。

 つまり、「自己防衛に気づいて解除していく」という実践になります。これによって、表面の虚勢や逃避をストップして、奥にある「ブヨブヨ」の弱い部分に勇気をもって直面するのです。

「ブヨブヨ」がしっかりとする3つの方法

 「ブヨブヨ」、つまり「精神の脆さ」とは、何を指すのでしょうか。

 それは、①自分を客観的に見られない、②不安を管理できない、③感情を感じる耐性が足りない、の3つです。

 言い換えると、「精神の脆い人」とは、自分の真実をしっかり見つめて自己理解をすることができない人、つまり真っすぐに現実を知覚できない人です。嘘や幻想に逃げるのです。それが第1の側面です。

 「精神の脆い人」とは、不安になったときしっかりと行動できない人でもあります。不安に負けて必要な判断や行動がとれないのです。それが第2の側面です。

 そして、第3の側面は、感情を受け止められないということです。自分の喜怒哀楽を受け止めて、感情に寄り添えるだけの「心の器」が育っていない。なので、怒りが出てくると壊れる。悲しみが出てきたら逃げる。怖れが出てきたらパニックになるのです。

 「精神の健全な強さ」を養うには、この3つの弱点を補強していけばいいことになります。

 つまり、①自分の内面を客観的に見つめてしっかり把握することで自己理解を深める、②自分に直面しようとするときに生じる不安に負けず、不安を一定範囲内に管理できるよう呼吸法やプレゼンスを習得する、③不安の奥にある本当の感情に出会い、しっかりと感じる実践によって、感情への耐性を鍛える、の3つを実践するというわけです。

 次に、この3つの側面をひとつずつ見ていきます。

実践①:自分を客観的に見つめて把握する

 「ブヨブヨの自我」の人は、真っすぐな目で自分の内面を正確に把握できません。見ないように触れないようにしてしまうのです。なので、勇気をもって客観的に内面を知ろうという心構えをもつことがまず重要です。そして、自分の中にある規範、感情、欲求、行動パターンなどを第三者になったつもりで観察し、理解を深めるのです。

 「ああ、私はこういう人が嫌いなんだ」「私は尊重されたいのにされていないと感じているんだ」という風に感じていることや欲していることを「言葉にできる」ということは、その分だけ自己理解ができていることなのです。自己理解を積み上げていくことが、「自我を育てる」ことになります

 自分のことをよく知らなければ知らないほど、精神は脆くなるのです。自分のことをしっかり理解していればしているほど、精神はシャキッと強くなります。認識を通して「自分を受け止められている」ということですから。

 普段から、「自分と対話する」ことで、自分の好き嫌い、本当に望んでいること、大事に感じている価値観などを明らかにすることは、「自我をしっかりとさせる」のです。

 自分のことをよく理解できており、自分自身のよき理解者になれていると感じるとき、私たちは自信を感じるのです。それが精神がシャキッとすることなのです。

実践②:不安を管理する

 これは記事「不安を適度なレベルに管理する」で詳しく述べましたので、そちらを参照してください。

実践③:感情への耐性を鍛える

 「感情への耐性」という表現をはじめて目にする方も多いのではないでしょうか。

 これはあまり世の中で語られることはなく、常識の一部にもまだなっていない新しい考え方かもしれません。

 しかし、これはとても重要な概念なので、是非多くの方に理解していただきたいと思います。

 ひとりひとりの人間には、「感情を溜めておく器」が内側にあります。

 この器がしっかりしていて、ある程度の大きさがあると、喜怒哀楽を内側でしっかりと受け止めて、必要な範囲で外に出したり、あるいは出さずに内面で味わったりとコントロールできます。

 たとえば怒りが生じたとき、器がしっかりしていて、ある程度の容量があれば、「ああ、私はいま怒っているなあ」と把握しつつも、それを内面でしっかりと味わい、受け止められます。受け止められるということは、怒りに操られることなく、「この怒りをどうしようか」と主体的に決められるということです。

 器が小さくて、怒りがすぐ満杯になってしまうと、外に漏れます。自分の中に抑えておこうと思っても、できません。こういう場合、すぐに周囲に暴言を吐いたり、暴力を振るったり、物に当たったりすることになります。

 このように、「感情を溜めておく器」が小さいと、すぐに外に出てしまうのです。感情的になって相手にぶつけてしまうという人は、「溜めておく能力」が小さいのです。漏れるのを我慢できません。

 器が大きいと、怒りを味わったあとで、何をどの程度相手に伝えればいいかを冷静に判断して、感情レベルをコントロールしながら適切なコミュニケーションをとることができます。「こういうことをされてイヤだった」と冷静に説明することで、怒りの内容をバランスよく伝達できる。「溜めておく容量」があるからこそ、感情的にならずに感情の内容をむしろもっと明確に表現することができる。これが成熟した自我です。

 すぐ外に出てしまうことを抑えられない人は、抑える訓練をしてください。たとえば、すぐカッとなって暴言を吐いてしまう人は、怒りが出たときに、その怒りを自分の中で溜めて自分だけで味わう時間をしっかり持つのです。相手に出す前に、自分の中で抱えたままで見つめる、感じる、味わう、観察する時間を長くします。そして、感情をどう伝達するかよく考えて工夫するのです。

 「感情を溜めておく器」が小さい場合、外に出てしまうだけでなく、内側に押し込めてしまうときもあります。自分の中で蓋をして感じないように無視するということです。

 「非抑制型」の人は、内面を周囲にパアッと無配慮に出してしまう。未熟さがそういう表れ方をします。けれど、反対に「抑制型」の人は、むしろ周囲に吐き出せなくて、自分の中で呑み込んでしまいます。怒りの感情の場合だと、相手に怒りをぶつけるという対処のしかたではなく、怒りを感じないように押し殺してしまうのです。

 怒りを感じるのがイヤだ、怖い。なので、怒りをかみ殺して蓋をする。これも「感情を溜めておく器」が小さいことを意味します。

 もし、感じることが怖くて感じないようにしてしまうという人がいたら、蓋をしないでまじまじと感じる訓練をしてください。怒りが出たらそっぽを向かないで、「あ、私はいま怒っているんだ」と認めることがこの人にとっては成長になります。そして、じいっと怒っている感情を内面で溜めてじっくりと味わう、そして観察するのです。怒りを感じることへの抵抗を捨てて、きちんと認めて感じてあげられるようになることを目指してください。 

 「感情の耐性」があることが精神的成熟の大切な一部分です。「自分自身の感情を拒絶せず向き合える健全さ」があってこそ、感情を周囲にばらまかず、また自分に蓋をしてしまわず、どのような感情になろうともその自分を支えていけるわけです。

ロス・ローゼンバーグ「自分優先・相手優先の度数」

 「ナルシシズム」と「共依存」の専門家であるロス・ローゼンバーグは、
The Continuum of Self Theory という理論を打ち立てました。

 この理論では、「−5」から「+5」までの度数を以下のように用います。

 −5 −4 −3 −2 −1 0 +1 +2 +3 +4 +5 

 恋愛や夫婦関係において、「自分優先」の人をプラス、「相手優先」の人をマイナスで表します。「自分優先」とは、自分が決定を下し、相手を導き、自分の好きなことをするということです。また「相手優先」とは、自分のニーズよりも相手が喜ぶことを考え、相手に尽すことを優先するということです。

 亭主関白で妻は夫に従うという関係では、夫がプラスで妻がマイナスとなります。

 さて、「0」は自分の満足と相手の満足を等しく大事にするバランスポイントです。

「1」と「2」は健全な範囲

 大部分の人は、自然に「自分優先」か「相手優先」の傾向をもち、「0」である必要はありません。「+1」と「−1」、「+2」と「−2」のカップルはバランスがよく、関係は安定しやすいとローゼンバーグは言います。 

 これらのカップルは、お互いに尊重し合う部分も多く、すべてがプラスの人の我がままに沿うわけではありません。大部分は平等であり、マイナスの人がやや後ろから支えている構図です。

「3」はマイルドな病理のはじまり

 「+3」と「−3」のカップルになると、プラスの人はやや我がまま、マイナスの人はやや我慢し過ぎとなり、不健全な関係になりやすくなります。

相手と自分を足して「0」になると釣り合う

 プラスは言わば自己主張の強さで、マイナスは言わば自己犠牲の強さです。自分の数字と足して「0」になる人に惹かれるとローゼンバーグは言います。

 「+4」と「−2」では釣り合いません。もし一緒になったら「+4」は「−2」にもっと自分に奉仕して欲しいと不満をもつでしょうし、「−2」は「+4」が我がままで強過ぎると感じるでしょう。

「4」と「5」は病理的

 「+4」と「+5」は病的な「ナルシシスト」です。そして「−4」と「−5」は病的な「共依存者」です。そして、この二者はお互いに惹かれ合います。

 「+5」のナルシシストは「−5」の共依存者を完全に服従させ、支配下に置きます。「−5」は自分のニーズというものを全く考えず、すべては「+5」に尽すという生活になるのです。

セラピーを受けると「0」に近づく

 「−5」の共依存者がセラピーを受けて健全化すると、「−4」「−3」という具合に減っていきます。「0」に近づくにつれて健康になるのです。

 「+5」の夫と「−5」の妻のうち、妻だけがセラピーを受けて「−2」になったら、「+5」と「−2」はもはや釣り合いません。

 こうなったとき、夫もセラピーを受けて「+2」になれれば、この関係は継続できます。しかし、往々にしてナルシシストはセラピーを受けようとはしません。その場合、妻はこの夫と別れるしかありません。「−2」にまで健全化したこの女性は、もう「+5」の男性には魅力を感じません。そして、「+2」の新たな男性と釣り合うので、そういう男性を見つけられる可能性が開けていきます。

 セラピーを受けて元気になることには代償があるとローゼンバーグは言います。その代償は、それまで釣り合いの取れていた相手との関係が壊れるかもしれないということです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 さて、あなたの恋愛関係、夫婦関係において、あなたと相手の「自分優先度」「相手優先度」はどれだけですか?

 いつもあなたが「折れる側」「従う側」「尽す側」にいるなら、あなたは「マイナス」です。あなたが自分を通す割合が高ければ「プラス」です。自分のニーズを表現さえできない人がいるなら、病的な範囲に入るでしょう。

 もしあなたが「+4」「+5」「−4」「−5」なら、とても苦しいパートナー関係になってしまうだろうと思います。その場合、もう少し自分を出せるようになったり、もう少し相手のニーズを受け入れられるようになるよう、セラピーを受けることをお勧めします。

 あなたの内面が健全化することで、精神的に健全な人と釣り合うようにいくらでも変われるのです!
 

フロム「ナルシシズムからヒューマニズムへ」

 エーリッヒ・フロムは、人類の歴史はナルシシズムとヒューマニズムの対立だと言いました。

 個人の成熟はどれぐらいナルシシズムを乗り越えられるかによる。また集団の成熟もどのぐらい集団ナルシシズムを乗り越えられるかによるというわけです。 

 ナルシシズムとはエゴイズムと同義で、「自分さえ良ければいい」という感じ方です。相手を慮る度量がなく、劣等感を誇大自我像への執着で癒そうとしてしまう。

 ナチスの「アーリア民族優位説」も、中国の「中華思想」も、日本の「神の国思想」も民族ナルシシズムを助長する。

 どの民族も、自分のところが世界一だと思いたい。それは、うちの野球チームが一番だと思いたいとか、うちの母ちゃんが一番美人だと思いたいというのと変わらない。

 結局、自分のことを一番だと思いたい。その延長に、「私の家族」「私のチーム」「私の宗教」「私の国」があるだけなのです。

 なので、個人ナルシシズムも集団ナルシシズムも根っこは同じ。「自分」というものへの執着なのです。

 「執着」するとは「愛する」ということとは違います。

 「自分を愛する」ことができた人は、「自分には執着」しなくなります。「自分を劣等なもの」と感じているからこそ、自己有力感に拘るのです。

 つまり、ナルシシズムの根幹には、癒されない劣等感、無力感、孤立感がある。それにまともに対峙できないので、安易な解決をしてしまう。自分の劣等感を抱きかかえられないから、相手を否定することで、あるいは自分の優位を誇張することで対処してしまう。これが、人間関係と国際関係に破壊的な影響を与えるのです。

 ナルシシズムを個人レベルでも集団レベルでも乗り越えたいならば、根幹にある劣等感、無力感、孤立感から逃げないだけの度量をもたなくてはなりません。直面できる覚悟と勇気を発揮した人だけが、乗り越えてヒューマニズムへと移行できるのです。

 ナルシシストは社会を毒します。我がままと支配を続行するからです。しかし、ナルシシストに立ち向かえない服従者も等しく社会を毒します。ナルシシストに支配されることを許す「弱者」も、ヒューマニズムへの進化を妨げるのです。

 ひとりひとりが自分自身の中にある「依存と敵意」を意識化することによって、自分のナルシシズムを乗り越えることしかできません。個人レベルでナルシシズムを乗り越えた人が増えるに従って、その人の所属する集団でのナルシシズムも相対的に超越され減っていくのです。

 あなたと私が、私たち自身の「依存と敵意」に向き合うことが、人類の進化への直接的な貢献となるわけです。
 

隠されたナルシシスト(Covert Narcissists)

 ナルシシストには大きく分けて① Overt と② Covert の2種類あります。

 ① Overt とは「開かれた」という意味で、自己陶酔が外から見え見えの「分かりやすいナルシシスト」のこと。

 ② Covert とは「隠された」という意味で、自己陶酔が外からよく見えない「分かりにくいナルシシスト」のこと。

 ここでは①を「顕在型」、②を「潜在型」と仮に呼ぶことにします。

 「顕在型」も「潜在型」も強い自己不全感を無意識に抱え、他者から多くの注意や賞賛を求める点、他人への共感が欠けている点で同じです。

 違うのは、「顕在型」が周囲に尊大な態度をとったり、支配的だったり、自分の話ばかりして相手の話は聞かなかったり、批判する者には激怒したりするので、ナルシシストだと分かりやすいのに対して、「潜在型」は「羊の仮面を被った狼」のようにその正体を見せないことです。

 「潜在型」はシャイで傷つきやすく、繊細で優しい人に見えます。人当たりが良く愛他的であるように振る舞うことも少なくありません。深く付き合わないと、その「自己陶酔」と「共感の欠如」の実体に触れられないのです。

 加藤諦三氏は、日本にはこの「潜在型」のほうが多いと言っています。

 ナルシシストには「あからさまなナルシシスト」と「隠されたナルシシスト」がいる。
 露出症的で壮大な自我像をもったナルシシストと、過敏に反応し、傷つきやすいナルシシストとがいる。 
 日本で一般的なナルシシストは、どちらかというと後者のタイプである。
 そしてこの過敏で傷つきやすいナルシシストは、もちろん内向的で防衛的である。
 この二つのナルシシストは現象としては反対のようであるが、うぬぼれと他者への無関心は共通している。

  加藤諦三著『なぜ、あの人は自分のことしか考えられないのかーー「ナルシシスト」という病』p. 89 

 権威主義的でワンマンで自分がいつも正しいと主張し暴力を振るうような「顕在型ナルシシスト」も困りますが、その自己中心性と暴力性が誰から見ても明らかなので、問題を見逃すという危険は少ない。

 しかし、「潜在型ナルシシスト」は自己中心性と暴力性を隠しているので、騙されてしまう危険が大きいのです。

 たとえば、「自分はこんなに苦しんでいる」と自分の話を延々とする人も、間接的に自分の欲しい注意を相手から奪っているかもしれません。積極的に解決したいわけではなく、ただただ話を聞いてもらうことでエネルギーを得ているのです。

 この人に対して「聞いてあげない」という反応をした人は「悪い人」にされてしまう。罪悪感を用いて自分の要求を通す。攻撃的に支配的に命令することで注意を引くのではない。自分が如何に偉いかを主張することで注目を集めるのではない。自分はあなたの優しさを必要としている弱い存在ですとアピールすることで、相手の好意を奪うのです。

 「いい人」「か弱い人」「苦しんでいる人」「被害者」を演じて、その実、我がままを通している人が近くにいませんか? 他人のことを全く考慮していない人がいませんか?

 断るのが悪いかなあと思って無理に付き合っていませんか? その人と付き合うたびにエネルギーが奪われる感じがしませんか?

 その人は、心の中で、あなたのことを本当に大事にしているでしょうか? あなたのニーズや都合を考慮してくれているでしょうか?

 
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