菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

世界中どこからでも、カウンセリングを受けられます。面談(金沢市)・電話・スカイプ・FaceTime 対応。

2017年06月

天は自ら助くる者を助く

 私の好きな英語のことわざに、次のようなものがあります。

Heaven (God) helps those who help themselves.

天は自ら助くる者を助く。 

 カウンセリングをしていてつくづく思うことは、「救われたい」と思って私に依存してくるクライアントは救えないということです。

 お稽古事でもそうですよね。自分が練習することなく、先生が上手にしてくれるということはありません。

 自分の中に「上手になりたい」と目指す気持ちがあり、練習をして、いろいろ気づこうとしている。上手になる手がかりをふだんから探している。そうしてはじめて、お稽古のときに「あ、そうか」と気づくことが出てくる。

 自分で練習したり探究したりしているから、「受け皿」ができてくる。すると、お稽古のときに、新しいことが「受け皿」に引っ掛かってくる。

 自分で一歩あるくから、次が見えてくる。

 ふだんから練習や探究をしていなければ、「受け皿」がない。そのままお稽古に行っても、何も引っ掛かってこない。

 自分から学ぼうと動いているから、お稽古から得るものが得られる。

 自分で求めているから、学んでいける。自力でできることをすべてやった上でお稽古に臨むからこそ、手応えがある。

 自分が注いだだけの真剣さが、お稽古から返って来る。

 真剣でなければ、お稽古も真剣さを返してくれない。

 真剣に取り組まずに、素晴らしい結果だけくれと要求しても、お稽古は黙っている。

 カウンセリングもお稽古とまったく同じように、注いだ分しか返って来ません。

 クライアントが「私はこれを解きたいのだ」という問題意識と覚悟をもち、自分でできることをすべてやってきた。そういう人が、カウンセラーに向き合ったとき、得るものは大きい。

 ところが、自分では何もやってきていない。カウンセラーが何とかしてくれるだろうとしか思っていない。こういうクライアントは、練習をせずにお稽古に臨む生徒と同じように、カウンセリングは思ったほど応えてくれないものだと感じることでしょう。

 人生の課題、悩みというものは、基本的に「自分で何とかするもの」です。

 自分で考えられるだけのことをやり尽くして、それでもできないとき、人に相談するものです。

 何もやり尽くさないで相談するというのは、虫が良すぎます。

 私は若い頃、多くの人から「どうすれば英語が上手になりますか?」という質問をよく受けました。

 そういう質問をする人の大部分は、さして英語が上手になりたいとは思っていないんです。興味本位で聞いているんだろうと思います。

 「どうすれば英語が上手になりますか?」という質問は、一見まったく罪のない純粋な問いのようですが、胡散臭く感じることが多かったんですね。

 すでに英語に真剣に取り組んでいるなら、「どうも長文が苦手なのですが、どう克服すればいいでしょうか?」とか、「リスニングが苦手なのですが、どのような訓練をすればいいでしょうか?」などと、もっと具体的な問いが出てくるはずなんです。

 「英語はどうすれば上手になりますか?」などと丸投げしたような質問をする人というのは、英語をやっていない人だろうと思うんですね。ただ憧れているだけとか。

 本気の人には、本気で質問に答えたいというエネルギーが自然に湧くものですし、本気でない人には、本気の答えは心に浮かんで来ないものです。

 私たち人間は、相手の誠実さ、覚悟の程度などを、エネルギーとして感じるようになっています。それは偽ることができません。

 人間というのは、こちらが注いだ分、相手が応えてくれるのであって、注がないものを相手から奪いとろうとするのは貪欲なんです。

 真剣に問うていない質問に対して、相手に真剣に答えてもらおうとするのは貪欲です。

 自分が努力して、考えつくことを全てやっていないことを、相手に解いてもらおうとするのも貪欲です。

 悩みを相手に丸投げするというのは、恥ずかしいことです。

 自分のできる範囲で考えるだけ考えた上で、「ここが分からないんです」と相談する。すると、相談されたほうは、相談されるまでにこの人が注いできた誠実さをすべて肌で感じます。敬意をもって応えたいという気持ちにさせられるのです。 

 真剣に学ぼうとする生徒の心に触れて、教師は謙虚になります。

 自分を一生懸命に救おうとするクライアントの心に触れて、カウンセラーは謙虚になります。

 「この人は、これだけ一生懸命に自分を救おうとしておられる」「私ができることをして差し上げたい」という気持ちにさせられるのです。

 天は自分を救おうとしない人を黙って見守ります。

 その人が自分を救おうとしたとき、手を差し伸べるのです。
 

精神的に自立しなくてはならないか

 精神的に自立するとか、情緒的に成熟するということは、「しなくてはならない」と思ってできることではありません。

 依存している(甘えている)状態にほとほと嫌気がさしてきて、もっと自由になりたいと思ったときに、自立に向かうのです。

 また、情緒的に未熟な状態のままでいることが心地悪くなったとき、自然の流れで新たな心地よさを求めて動きます。この「動く」という前進が、結果として成熟を生むとも言えるし、成熟へ向かおうとする力が働いているから「動く」とも言えます。

 つまり、「今のままでいたい」という気持ちよりも「今のままではイヤだ」という気持ちが勝ったとき、前に進むなと言われても進みます。そういうものです。

 ところが、「今のままでいたい」という気持ちが勝っているときには、前に進めと言われても進めません。これまた、そういうものなのです。

 自立したいなら自立しますし、成熟したいなら成熟します。そして、自立したくないなら自立しませんし、成熟したくないなら成熟しません。

 真実はいたってシンプルです。

 ところが、世の中には「自立したいわけではない」のに、「自立しなければいけない」と思って、あるがままの自分を拒絶する人がいます。

 未熟なままだと気持ち悪いので、成熟に向かいたいという気持ちになる場合と、未熟な自分が嫌いなので、成熟を手に入れて自己嫌悪から解放されたいという場合は、動機が全く違います。

 前者は健全な成長ですが、後者は自己拒絶です。

 以前、私のところに相談に来た20歳代の女性は、自分の時間を持ちたいのだけれど、両親から電話がかかってきて遊びに来いと言われると、断れずに行ってしまうと言いました。

 「両親の誘いを断れないのがダメなのかなあ」「断れるようになって、自分の時間を持てるようになったほうがいいのじゃないか」と思ってカウンセリングを受けたのです。

 はじめ私は、彼女は両親に嫌われるのが怖くてノーと言えないのかなと思いました。両親を怖れていて、自分の気持ちを素直に認められないなら、怖れを克服して、自分の気持ちに沿って行動できる方向に進めばいい。そう思って、カウンセリングを続けていました。

 ところが、よ〜く話を聞いてみると、彼女は両親の誘いを受けて実家を訪れるのをとても喜んでいたんです。自分の時間を持ちたいという気持ちはそれほど強くなく、それよりも実家へ行きたいという気持ちが強かったわけです。

 つまり、この女性は自己認識において間違っていました。

 「自分の時間を持ちたいという本音を抑えて、行きたくもない実家に誘われると行ってしまう」のではなくて、「自分の時間を持ちたいという気持ちはさほど強くなく、実家に誘われると行ってしまいたい」。それがあるがままの彼女でした。

 そして、おそらく彼女の中には「自分の時間をしっかり持てる自立した女性」のイメージがあったんでしょうね。それと比べて、あるがままの自分ではダメじゃないかと悩んだ。

 つまり、自分の時間を持ちたいのに持てないという悩みではなくて、自分の時間を持ちたいと強く思えない自分を肯定できないという悩みだったのです。

 それで、私は彼女に「あなたはご両親のところに行くのが好きなんでしょう? 楽しいんでしょう? そのままでいいんじゃないんですか?」と言いました。

 すると、彼女は嬉しそうにしていました。彼女は変わりたかったわけではなく、このままでいいと言って欲しかったんですね。

 「精神的に自立しなくてはならないか?」と聞かれたら、私は「しなくていいですよ」と答えます。

 「しなくてはならないか?」と尋ねている段階では、「したくない」わけです。「したい」という段階に来たら、「しなくてはならないか?」とは問いません。

 お腹が減ったら、「食べなさい」と言わなくても食べます。お腹がいっぱいのときには食べたくないし、食べなくていい。

 全く同じことが、精神的な自立や情緒的な成熟にも言えます。

 自立したくないときに自立する方法はありませんし、成熟したくないときに成熟する方法はありません。

 自立したいときが自立するときで、成熟したいときが成熟するときです。

 ときが来る前に成し遂げることはできませんし、その必要もありません。

依存に飽きたら、自立するなと言われても自立するもの
未熟に飽きたら、成熟するなと言われても成熟するもの
 

反復強迫(repetition compulsion)

 反復強迫とは、過去の辛い体験や状況を、くり返し再現しようとすることを言います。

 トラウマなど、辛い体験をしたら、すぐに忘れてしまって思い出さないような仕組みになっていれば、こんなに楽なことはないんですけれども、実際は、人間の意識というものは、何度も何度も同じことを思い出しては、くり返して苦しみを永続させてしまうんですね。

 「くり返す」と言うのは、もちろん「くり返そう」と意識的に決めているわけではありません。無意識の衝動が起こって、くり返してしまうんです。

 いったん、あるパターンが出来上がると、CDがスキップするような感じで、何度も何度もくり返すわけです。

 たとえば、「自分の気持ちは尊重されない」という辛い体験をしたら、「そういう体験は二度としたくない」と意識で思っていても、無意識では「自分の気持ちは尊重されない」という体験を何度も何度もくり返していきます。

 反復強迫がなぜ起こるのか、ということについて長いあいだ考えられてきました。

 そして、分かってきたことは、うまく対処できなかったことに、ちゃんと対処できるようになって、「マスターしたい(乗り越えたい)」という根源的な欲求が働いているようだということです。

 「自分の気持ちは尊重されない」という辛い体験をしたとき、傷ついたままだったとします。そうすると、この体験は「未完結」なんですね。

 「未完結」というのは、自分なりの答えがまだ出せていないということ。

 そして、「未完結」のものに対しては、何度も挑戦して、打ち勝とうとするエネルギーが動き出すんです。

 つまり、反復強迫が起こって、何度も同じ体験をするとき、何度も同じ目に遭うことを嘆くのではなく、「完結に向かって自分なりの答えを出す」と決めたほうがいい。

 同じ体験を「命」から振られたときに、同じように反応しているから、また同じ振られ方をしているのです。ですから、次回は違った「返し」をする必要があるんです。

 たとえば、「人にいじめられる」という体験を何度もくり返している人がここにいたとしましょう。いじめられるたびに、これまでは泣き寝入りして、自分の運命を恨むだけだったと。毎回おなじ対応をしてきたと。すると、「命」は、「お前、もうちょっと違う対応したらどうなんだよ」と言っているわけです。

 「命」のほうは、ちゃんと満足できる「返し」をしてくるまで、何度も同じトスをしてくれるわけです。「はい、もう一度」と言ってボールを投げてきている。

 泣き寝入りしていた人が、たとえばですよ、「いじめを許してしまっていた自分が間違っていた」「きちんと反抗しよう」と決めたとしますね。そして、次のいじめのとき、「やめてくれ」と大声で言えたと。そうすると、同じ体験に対して「違う答え(対応)」をしたということです。

 この人の中で「自分をもっと尊重する」という気持ちが育ったことで、「いじめ体験」をマスターできたわけです。そうすると、「いじめられる」という体験を無意識に何度も何度も引き起こすということがなくなります。

 反復強迫が起こったら、これまでと同じ対応をしてはいけません。

 「この体験が完結するには、何が必要か?」とよく考えてください。

 そして、「最高のボール」を返してください。
 

自分にとって「いいもの」は嗅ぎ分けられる

 誰でも自分にとって「いいもの」とか「必要なもの」と、自分にとって「悪いもの」とか「不要なもの」は判別できるようになっています。

 自分にとって「いいもの」とは、自分の成長や幸福や癒しに役立つもので、こういうものに出会ったとき、自分の生命力が活性化されて、波動が上がります。

 それに対して、自分にネガティブな影響のあるもの、あるいは全く必要のないものに対しては、ポジティブな関心が湧きませんし惹かれません。

 理性を使うことも大事ですが、理性では分からない微妙なことについては、直感のほうが頼りになります。「なんとなく」の感覚です。

 頭では相手に何もおかしなことが見つからない。疑う必要性はないように思える。けれども、「なんとなく」この人は信頼してはいけない気がするというような直感が働くことがあります。説明できないけれど、「この人とは働きたくない」という感覚が強くしてくる。

 こういうシグナルは無視しないほうがいいです。

 また、周囲の人が反対したり無理解を示したとしても、自分の中で「この人には絶対に会いたい」「このセミナーには絶対に出たい」というような強いポジティブな反応が起きたときには、それを信じて進むべきです。

 常識や理性もある程度の参考にはなりますが、最終的には、自分が何を必要としているか、自分に合った場所や相手や仕事は何かといったことについて、他人は全く当てになりません。

 自分にしか分からないのです。

 自分にとって美味しい食べ物は自分にしか分かりません。自分にとって感動する映画は自分にしか分かりません。同様に、今の成長段階にいる自分にとって、最も成長や幸福や癒しに貢献してくれる人や物や場所は、自分にしか嗅ぎ分けられないのです。

 頭とか心とか体といった部分ではなく、その人の「全体」でもって、何が自分にとっていいのかが感じられるのだと私は思っています。

 その「ひとりひとりに備わったコンパス」を私は信頼しています。
 

相手に悩まされているのではない その2

「結婚しない息子たちの将来が不安」という相談
2017-6-3 テレフォン人生相談の内容です。)

 相談者は78歳男性。43歳と41歳の息子がいずれも未婚で、何とか結婚させたいと思っている。

 こういう親御さんはたくさんいらっしゃるだろうと思います。

 親が子供に結婚して欲しいと願うことを、皆さんはどう思いますか?

 当然のことだと親御さんに同情する人もいるでしょうし、ここに親の我がままを感じる人もいるでしょう。

 回答者のマドモアゼル愛さんとのやりとりを聞いていると、息子たちの将来が不安だというこの父親の気持ちは、息子たちへの愛によるものではなく、息子たちの結婚を通して自分が満たされたいものを持っていたということが明らかになっていきました。それはこの父親の次のことばに表れています。

「子供のためと思って家を守ってきて、息子に引き継ごうと思ってたやつが、皆パーになってしまうと思ったらもう・・・」

 この父親、息子たちのためを思っていろいろやって来られたんでしょう。息子たちを思う愛も入っていたことでしょう。けれども、これはこの父親が叶えたいことであって、息子たちには息子たちの思いや事情というものがある。息子たちは父親の思い描いた将来を生きなくてはならないわけではありません。

 この相談を通して、この父親がここのところを理解できたのかどうか、私には分かりません。

 この父親が悩んでいるのは、息子たちが自分の望んだ通りになっていないからであり、まだもって自分の思い通りに息子たちをさせられなくては許せないからです。

 この父親は、息子たちのためと思っていますが、息子たちに怒りを持っています。愛ではなく執着です。執着なので、息子たちの選択した人生を祝福できません。彼らを自由にしておけません。

 これがこの父親のまだ未熟なところです。子離れができていない。この悩みは彼が自立することでしか解決しません。

 自立とは、自分が拘っていた夢が自分自身のためだったことに気づくことによって達成されます。
結婚するかどうかは息子たちに任せて、支配したいとは思わない。彼らの幸せを祈り、彼らが望むサポートをしてやることだけでいいと思える。それが成熟なのですが、それができるには、自分を生きなくてはなりません。家のために生きるとか、息子たちのために生きるというのでなく、「自分のために生きる」という課題をきちんとこなす必要があります。

 自己実現した人間は、子供たちをどうこうしようとしません。自己実現をしていない人間だけが、子供たちに口出しをするのです。口出ししなければ不安でしょうがない。なぜなら、子供たちに自分の人生の意義を求めているからです。意義を子供たちに頼っているのです。

 子供を通して生きるということが、愛ではなく依存だと気づく必要がある。それが、自立にとって大切なことです。

自立していない親は、子供が思い通りにならないことに動揺する。
なぜなら、子供を通して自分が満たされることを期待していたからである。
これが愛ではなく依存だと認めたとき
この親は自立に向かえる。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

融合依存的な親子関係の特徴

 記事「パートナー関係に見る4つの発達段階」でお話しした4つの発達段階は、親子関係にも当てはまります。

 人間関係における精神的発達には①自己中心的→②融合依存的→③分離独立的→④自由自在的という4つの段階があると考えられます。

 この父親は
②融合依存的な段階にいる人の典型的な症状を表しています。

 それは、「いろいろ我慢して奉仕するから私の期待に応えてくれ」という考え方と、「周囲から承認されたい」という情動です。社会規範を絶対視し、世間の評価が自分の判断基準になります。

 この段階では、個人の自由はあまり尊重されません。集団の秩序に従い、自分を抑制して貢献することが美徳とされます。

 奉仕した相手や集団からの評価や報酬によって、見返りをもらえる。そのことによって、自分を抑制した甲斐があったと思えます。見返りがなければ、「裏切られた」と捉えて憤ります。見返りを期待しない、与えっぱなしの愛ではまだありません。

 次には③分離独立的な段階が来ます。

自立した者どうしの親子関係とは

 この段階の人たちは、基本的に個人の自由を重んじて生きています。親子関係なら、親は親で自分の好きな仕事や生き甲斐をもって生きている。自分の生き方に満足できるだけの自己実現があるので、子供を通して生きようとはしません。子供の人生は子供のものだと思える。そこの線引きがちゃんとできています。お互いの固有性を認めた上で、一定の距離を保ちながら付き合うわけです。

 これが「精神的自立」のレベルと言ってよいでしょう。親離れ・子離れができて、自分の人生の責任を自分で背負うので、孤独に耐えられないから相手と一緒にいるという依存性は超越されています。
 

相手に悩まされているのではない その1

 自分を生きていない人は、「他人に悩まされている」という現実認識になりやすい。

 「悩まされる」原因は自分にあるのですが、自分が変わろうとせず、思い通りに相手を操作しようとします。

 自分の中に向き合っていない問題があると、相手に対する要求が大きくなります。というのは、自分の不満を自分で解消できない分、相手に救いを求めざるを得ないからなのです。

 自分を生きていない人、つまり自分の問題を自分で解こうとしない人は、支配的・依存的に相手と関わります。そして、自分の望むようにならない相手を許せません。

 自分が情緒的に相手に依存していることを認めることができれば、この人は成長できるのですが、自分が依存しているどころか、相手のためを思って愛しているのだと言い張る人も少なくありません。ここに人間関係がややこしくなる1つのパターンがあります。

 「相手にこうあって欲しい」「相手にこうしてもらわねば困る」と思って気が気でないとき、自分の中に「不安」と「強い要求」があることを自覚することが大事です。

 この「不安」と「強い要求」のまま相手に向かっていくと、操作的かつ依存的な関わりになってしまいます。

 「相手が自分を不安にさせている」と思うから、不安を解決するには「相手に変わってもらわねば困る」となってしまうわけです。

 ところが、不安になる原因が自分の中にあるとしたらどうでしょうか? 相手を操作しようとするのは責任転嫁になりますよね。

 責任ある自立を目指すのなら、「不安の原因を突き止めて自分で解決しよう」と思うことが重要です。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「どうすれば彼氏に就職してもらえますか?」という相談
2017-6-1 テレフォン人生相談の内容です。)

 相談者は21歳女性で会社員。彼氏は19歳の高校生で、ふたりとも実家暮らしです。彼氏はミュージシャンになる夢を持っていて、収入を得ていく見通しが立っていない。そんな中、来年同棲しようと彼氏に言われた。経済的なことが心配なので、彼には就職して欲しいと思っている。どうすれば彼氏に就職してもらえるだろうか? そういう相談です。

 さて、「どうすれば彼氏に就職してもらえますか?」という質問に依存と支配の匂いがします。

 彼氏が就職をするかどうかは相談者には支配できません。なので彼氏に就職させる方法などないのです。

 相談者が支配できるのは、「こういう条件なら同棲する」という条件を自分で決めること。つまり、無条件で同棲に同意するとなると、自分がお金を払ってもいいと言うに等しい。だから「就職しなければ、同棲はない」と決めて伝える。

 「就職して」と頼むわけではない。「私と同棲したいなら、就職するのが条件。収入がない人を養うつもりはないから」と明確に言う。

 それが回答者の答えでした。

 つまり、「どうすれば相手を動かせるか?」と問うのではなく、「自分はどうするつもりなのかを決断する」ということが、自分の答えを出すということです。

 条件をはっきり伝えるということは、相手に拒絶されるリスクを負うことになるので不安になるでしょう。実際、相談者はそうでした。

 不安から逃げようとすると、どうしても自分を明確にすることを避けて、相手から歩み寄ってもらう方法はないかと考えてしまうものです。

 回答者の言うように、条件を出したとき、彼氏がそれなら就職するとか、収入について真剣に考えるとなれば、付き合えばいい。けれど、それなら別れると言い出すかもしれない。そうなったら、その程度の男だから別れた方がいいというアドバイスでした。

 いずれにせよ、譲れない大事なことについては、本音を伝えることで関係が深まっていったり、逆に壊れていったりします。不安に負けてこのような「対決」を避けてしまうと、問題が先送りされて、不本意な状態に悩まされ続けることになりかねません。

 ですから、覚悟を決めて伝えることです。

 自分の選択に責任をもてさえすれば、相手に一方的に「悩まされる」ということはあり得ません。なぜなら、自分が困らない条件を自分で決めて、その条件で相手と付き合うからです。
 
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