菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2017年10月

心理的問題に対する2つの分かれ道

 心理的問題を解こうとするとき、2つの分かれ道に気づくことが重要です。

 多くの心理的問題の奥には「満たされていないもの」が絡んでいます。

 「満たされていない」から苦しい。

 心理的問題を解くということは、この「満たされていないもの」を解決してあげることなわけです。

 そうしますと、「満たされていないもの」が何であるか、そしてまた、なぜ満たされていないのかを理解する必要があります。

 これが、その人の「感情の歴史」を辿る旅になります。

 多くの場合、心理的問題というのは昨日や今日に始まったものではない。長い年月をかけて出来上がっています。

 目の前の人に「不満」を感じているように見えるけれども、同じような「不満」はずっと以前からいろいろな人に対して感じてきたことだという場合が多いわけです。

 そうしますと、ここが肝心なところなのですが、このように「不満」に苦しむ人の中には、「不満」を解決したいという思いと同時に「不満」の責任を負いたくないという思いがあって、なかなか解決への道を進めないことがあります。

 多くのクライアントは、自分が現状によっていかに満たされていないかという話をまずされます。これはこれで何ら問題はありません。

 そのうち、あるクライアントは、満たされていない原因を自分の内側に求め始めます。いろいろと探求していくと、同じように辛かった体験が当時の感情とともに出てきます。「未解決の不満」を掘り下げていくと、そこには気づいていなかった様々な思いがあるということが体験的に分かってきます。

 気づいていない領域には、「不満」のままでいることを不本意ながら望んでいるような思いがあることさえあります。つまり、「不満」を解決できなくしている要因を自分が抱えていることだってあるのです。

 「不満」を解決できなくしている要因を自分が抱えていて、しかもそれに気づけていないとすれば、「不満」を解きたいと一方で思いながらもずっと解けなくて苦しむことになります。

 そうすると、解決に向かうためには、「なぜ不満は解けないのか」という質問に答えを見出す必要があるわけです。 

 これを相手とか外の状況に求める人は、解けないままで苦しみ続ける可能性が高い。そして、これを自分の内側に求める人は、解決への道を進める可能性が高い。

 内側に答えを求めるとは「自分が変わろうとすること」です。それに対して相手や外の状況に答えを求めるとは「相手を変えさせようとすること」です。

 心の問題に向き合っていると、あるとき分岐点に到達します。左には「自分が変わる道」、右には「相手を変えさせる道」がある。

 左をとると「不満」が解消された未来へ進めます。そして、右をとると「不満」が解けないまま苦しむことになる。

 この分かれ道に気づくことが重要です。

親への拘りから自分を解き放つ

(これは2016年6月に投稿した記事の復刻版です。)

 あなたが「親への拘(こだわ)り」からどの程度自由かは、次の文を口の出して読んだときのご自身の感情反応で分かります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

A 私は親に嫌われてもいい
B 私は親に嫌われてはならない

A 私は親に認められなくてもいい
B 私は親に認められなくてはならない

A 私は親に愛されなくてもいい
B 私は親に愛されなくてはならない

A 私は親に見捨てられてもいい
B 私は親に見捨てられてはならない

A 私は親を嫌ってもいい
B 私は親を嫌ってはならない

A 私は親を認めなくてもいい
B 私は親を認めなくてはならない

A 私は親を愛さなくてもいい
B 私は親を愛さなくてはならない

A 私は親を見捨ててもいい
B 私は親を見捨ててはならない

A 私は親に反抗してもいい
B 私は親に反抗してはならない

A 私は親を満足させなくてもいい
B 私は親を満足させなくてはならない

A 私は親の責任をとらなくてもいい
B 私は親の責任をとらなくてはならない

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 A のほうが気持ちにしっくりくる場合、「親への拘り」から自由です。B のほうが気持ちにしっくりくる場合、「親への拘り」に縛られています。

 B が多ければ多いほど、親との精神的癒着が強いことを表しています。

 心理的自由に向かう1つの方法は、B を信じている場合に A をアファメーションとしてしばしば唱えることです。「親に認められなくてはならない」と信じている人は、「親に認められなくてもいい」としょっちゅう唱えるのです。

 A を唱えるだけで B が手放せてしまう場合は軽い執着です。それはそれでお終い。けれど、A を唱えると暗くて重たい気持ちになったり、不安や動揺が強く生じてくることもあります。その重たくて暗いものを解放してあげると、A の気持ちが自然にしっくりくるところまで辿り着けます。

 この記事は猪狩祐希氏のプレゼンからインスピレーションを得て書いたものです。

 アダルトチルドレンの方にはもちろん有益ですが、それ以外の人でも自分の「親への拘り」に気づくために効果の高い方法だと思います。

防衛機制としての否認(denial)

 現実をそのまま認めることが脅威だと感じられると、不安から自分を守るために「嘘をつく」ということを人間はやります。

 「現実を認めない」という手段で自分を安心させようとするわけです。

 これを「否認(denial)」と呼びます。

 自分は現実を知っているけれど、バレるとまずいので相手には「否認」するという場合もあれば、現実を認識することさえ怖いので自分に対して「否認」するという場合もあります。つまり、「相手に対して嘘をつく」という場合と「自分に対して嘘をつく」という場合があるわけです。

 たとえば、すでに夫婦関係が破綻しているのだけれど、破綻していると認識すると別れなくてはならなくなる。それは怖い。すると、破綻していると自分が気づかないようにするわけです。「まあ、どこでも夫婦なんてこんなものだ」と思い込むことで精神的に安定しようとする。こうやって自分に嘘をつく。関係が破綻しているという現実を認めたくないので「否認」して自分を守っているわけです。「夫婦仲はいい」という幻想を信じ込み、周囲にもそのように振る舞います。

 これは
「自分に対して嘘をつく」という例です。

 現実を認められるということは強くなければできません。人間は弱いところがあって、どうしても現実よりも幻想を信じたくなるものです。幻想に寄りかかってなんとか安心を得ようとするわけです。

 「否認」は現実逃避の一種です。そして、現実逃避をしていると、実際の問題が悪化することが少なくありません。そうすると、いつか現実から逃げられなくなり、直面せざるを得なくなります。

 借金や浮気や裏工作などを隠して人間関係を保っていたという場合、自分は借金があること、浮気をしていること、裏工作をしていることを知っているわけです。
「相手に嘘をつく」ことで人間関係を維持してきた。けれど、それがバレてしまう。「否認」が暴かれて、現実に向き合わざるを得なくなるわけです。

 相手に対する「否認」も自分に対する「否認」も、自覚して認めることによって成長に向かいます。


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防衛機制としての希望的観測(wishful thinking)

 不安を避けようと思うと、あるがままの現実を見ずに「こうあって欲しい」=「こうである」という認識になってしまいます。

 たとえば、付き合っている時に暴力的なところを見せた彼氏。どうしても結婚したいので「暴力的なところは結婚すればそのうち治るだろう」と目をつぶる。

 これを「希望的観測」と言います。

 あるがままの相手を見ないで「こうあって欲しい相手」を見ている。

 現実と願望が合わないとき、願望のほうが本当なんだと信じ込むことで不安から逃れるんです。

 そうすると、その場はいい気持ちになるかもしれませんが、後で現実が追いついてきます。

 問題があるのに「大丈夫、大丈夫、そのうち何とかなるって」と呪文のように言い聞かせ、問題がないように振る舞う。そうすると、きちんと向き合わない現実がどんどん大きくなって無視できなくなります。

 結局は自分を守っていることにはならないわけです。

 「結婚すれば彼氏は変わってくれるだろう」ーーーこれはヤバいですよ。

 あなたの「ポジティブ・シンキング」が希望的観測でないかどうかよくご吟味のほどを。


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防衛機制としての置き換え(displacement)

 感情を素直に相手に表現することができないとき、同じ感情を別のターゲットに表現したり、別の行動に移し替えて表現したりすることで、その感情が蓄積してしまうことから自分を守ろうとする。これを「置き換え」と言います。

 たとえば、職場で上司に叱られたけれど、納得できない。上司に怒りを感じているが、素直に出すと解雇されるかもしれないので出せない。すると、帰宅して妻のちょっとしたミスを極端に怒ったりする。上司への怒りを妻にぶつけるわけです。夫に文句を言えないこの妻は、息子にあたる。息子は猫を蹴飛ばす。

 こうやって、怒りを感じている相手に直接向けられないので、別のターゲットに向けることで感情から自由になろうとするわけです。

 ミーティングで発言したいのに、自分に順番が回ってこないのでイライラする。本当は言いたいことがある。けれど言う機会がやって来ない。すると、このイライラを紙に落書きをすることで収めようとする。イライライライラと強くペンを握りしめて、怒りを紙にぶつける。

 これも「置き換え」です。 

 ポジティブなところでは、会社で昇進が決まった。嬉しくてしょうがない。誰かと分かち合いたい。ホントは妻に電話をしてすぐにでも知らせたい。でも妻は今いそがしい。今晩まで言えない。そうすると、道を歩いている赤の他人に「今日、昇進が決まったんです」と言って握手してしまう。誰かに言わずにはいられない。誰でもいいからこの喜びを分かち合いたい。

 これも「置き換え」です。相手は「キョトン」とするかもしれません。「なんで私に?」って。 

 宗教的な生活をしている人が、性欲を抑えようとする。本当は性的に興奮しているのだけれど認めるわけにはいかない。すると代わりにグルメになって美味しいものを食べるようになったりする。

 これも「置き換え」です。

 彼氏に冷たくされて不満だ。不満を伝えようとしても聞いてくれない。バーで会った好きでもない男と浮気をして気持ちを晴らす。

 これも「置き換え」です。

 「置き換え」ばかりやっていると、元々の問題から目を背けて解決されないことになるし、「置き換え」によってターゲットにされた人との関係が新たな問題を生んだりするので気をつけなくてはなりません。


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防衛機制としての身体化(somatization)

 心理的問題ーーたとえば自分の衝動や感情や葛藤などーーに向き合うことが不安なためできない。そうすると、本来は心の問題なのだけれども、それが肉体的な問題に姿を変えます。

 病院で検査してもらっても異常なし。でも頭痛がする。腹痛がする。吐き気がする。

 このように、心理的問題に向き合わずに済むように、肉体症状に変えることを「身体化」と言います。

 自我が未発達で心理的問題に直面できるだけの強さがない場合にも起こりますし、自我が強すぎて我慢し過ぎるときにも起こります。

 たとえば、学校に行くのが不安な子が、「行きたくない」と言えない。「行かないと怒られるかもしれない」という思いと葛藤する。この葛藤を意識的に処理できない。そうすると、腹痛などの症状になって出るわけです。

 大人の場合、タフな人が自分の弱い感情を認めず「へっちゃらへっちゃら」なんて言いながら無理してしまう。自分の感情に背いて理想の自分を演じ続ける。そうすると、無視された心の葛藤が肉体症状になって出たりするんです。

 精神がある程度やわらかで繊細だと、心の葛藤を強く感じるので無視できない。だから、心理的問題として抱えて悩むことになる。こういう場合、神経症になることが多い。

 ところが、精神がタフな人は、心を無視して頑張れてしまう。本当はしんどいのに、その声を聞かないで突っ走ることができちゃう。

 そうすると、精神の問題を通り越して、肉体が異常を示すわけです。

 心に無理がかかっているのに、鈍感で気づいてあげられない。そうすると、体がその負担を背負うことになります。

 「何、これしき」などと言って、心に反したことをやり続けると、体が壊れてしまうのです。

 こうなったとき、心理的問題に気づいて取り組めば改善するのですが、こういう人はまたこの段階で「何、これしき」と言って薬を飲んで、悪化させたりするので要注意。

 「心因性のものですね」と言われたら、ちゃんと心と向き合って、解決していないものに解決をつけることが大事です。

 自分が蓋をしてきた感情や葛藤は何か。内面をよく見つめましょう。


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防衛機制としての攻撃者との同一化 (identification with the aggressor)

 親から虐待されたり、支配されたりして傷ついている子供が、親の悪さをまともに意識すると一緒に生きていかれなくなります。生きること全体に関してその親に頼っているのですから。

 すると、本当は親がいじめているのだけれども、親のやっていることは「正しい」と信じることで精神的に安心しようとします。つまり、
このような扱いを受ける理由が自分にあるのだ、親は間違っていないのだと思うことで生き延びようとするわけです。

 これを「攻撃者との同一化」と言います。

 自分が攻撃者の立場に立って、そちらに擦り寄るんです。 

 「お前はブスで生きている価値などない」と父親が言うと、「何て酷いことを言うんだ」「この父親はおかしいのじゃないか」と意識できるだけの強さがない。なので、「そうなんだ。私はブスで生きている価値のない存在なんだ」と同調することで、
私は「いい父親」と一緒に住んでいるという幻想にしがみつくんです。

 親に酷い目に遭わされていて、心の底では憎んでいるのだけれど、30歳、40歳になっても、「素晴らしい父でした。父は私のことを可愛がってくれました」などと幻想を語り続ける人がいます。

 虐待され、いじめられて辛かったという感情は意識の深くに追いやられています。それに触れることはとても怖い。怖すぎてその存在すら認められない。

 これほど意識と無意識の断絶が顕著だということは、いかにトラウマが深刻なものだったかを物語っています。

 これは「ストックホルム症候群」に似ています。

 誘拐事件や監禁事件の被害者は、加害者といっしょに過ごしているうちに、加害者に過度の同情や好意を抱くという現象が見られるそうです。それを「ストックホルム症候群」と言います。

 つまり、あまりに怖い思いをすると、犯人に脅かされているという事実をまともに認識できない。
「私はこの人と仲がいいんだ」「この人は素敵な人だ」「私はこの人のことが好きだ」という幻想にしがみついて、辛い現実を意識の奥に追いやるわけです。

 生き延びるために、加害者(攻撃者)とひとつになろうとする。そういう自己防衛なのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

いじめっ子は暴力の被害者であることが多い

 しつけの名のもとで、親が子供をいじめるという行動は、今でも世界のあちこちに残っています。多くの子供が親の暴力にさらされているのが現実です。

 こういう子供の中で心理的に何が起きるかと言いますと、スプリッティング(分裂)という現象です。傷つけられている被害者感情が一方でありますが、これを意識することはあまりに辛いので抑圧されます。そして、「加害者は正しい」という親との同一化による自己防衛がもう一方であります。

 スプリッティングというのは、被害者感情と加害者との同一化という2つの部分に精神が分裂することを指すのですが、前者は抑圧され意識から排除されるわけです。そして、後者は2つのパターンに分かれます。

 1つは父親と同じように「いじめっ子」として自我形成をするパターン。そして、もう1つは父親に対して従順になる「言うことを聞く子」として自我形成をするパターンです。

 「いじめっ子」になる子供は、本当は父親に向けたい攻撃性を、他の子供に向けることで晴らそうとします。

 被害者の自分を直視できないので、自分の外に投影され、周囲に「いじめられる子供」を見つけることで、彼らを被害者にしたい衝動に駆られます。自分以外の子供を被害者にできれば、自分は被害者ではないと思えるからです。

 つまり、まったく無意識なのですが、いじめっ子は、父親にいじめられる辛さから自由になりたくて、自分がいじめることのできる側に立とうとするのです。そういう意味では、いじめっ子はいじめられる子に癒しを求めています。いじめられる子に救いを求めているのです。

 いじめっ子は攻撃してこない「優しい子」を本能的にターゲットにします。優しい子というのは共感能力が高い。自分が相手を苦しめるぐらいなら自分で苦しみに耐えようという部分がある。

 共感能力のある優しい子をなぜいじめるかと言うと、無意識ながら、いじめっ子は共感的愛を求めているからです。自分の辛さを分かち合ってくれる人を探しているのです。

 本当はこういう屈折した形で共感を求めてはならないのですが、共感の求め方が分からないんです。共感してくれる大人がいないんです。だから、いじめることで、つまり自分の痛みを相手に与えることで、心の底では「僕はこの辛さにおいてひとりぼっちではない」と思いたいわけです。

 世の中の多くの親には共感能力が育っていません。そして、子供の心を傷つけてしまいます。子供は共感的愛が欲しくてたまらないのに、与えてくれる大人は周りにいない。自分の気持ちに寄り添ってくれる大人がいない。この子がどれほど寂しく心細いかお分かりになりますか。自分が求めている共感的愛はそのままでは得られない。すると、屈折した要求へと姿を変えるわけです。その1つが「いじめ」だと考えられます。

 暴力をふるう人は、心の奥でとても傷ついています。その痛みを本当は分かってほしい。けれども、自分が求めているのが共感的愛であると気づいていません。わけも分からず辛くなるのです。そして、他人を痛めつけることで癒そうとしてしまう。

 このような悲劇をなくすには、共感的愛の重要性を社会の隅々まで認識してもらうしかありません。「気持ちを聞く」「気持ちに寄り添う」という関わり方が、まずは夫婦関係と親子関係に根付いていることが基盤です。それに加えて、教師と生徒の関係などあらゆる大人と子供の関係が共感的愛に基づいたものになり、また大人同士がお互いに共感的であれば、子供と子供がいじめ合うという現象は激減していくものと思います。

 大人の暴力性が子供を傷つけることが根本原因なので、大人の子供への接し方から変えなくてはなりません。そして、暴力をふるい支配的になってしまう大人自身も、子供のころに暴力と支配を受けて傷ついています。ですから、大人がセラピーを受けることで次の世代を守ることも大事です。

世の中に多い「自分を出すことを怖れる人」

 暴力と支配の被害者は、いじめっ子だけではありません。多くの優しい子は攻撃性をどこにも向けられず、攻撃性をのみ込んでしまいます。その結果、他人の目を気にする、自信のない、周囲に合わせ過ぎる人になるのです。

 ひとことで言えば「自分のない人」です。

 自分の本当の感情を出したら、親は受け止めてくれるどころか責めてくる。そういう非共感的な環境で育ってきたのですから、無理もありません。

 そういう親といっしょに生きていくには、「自分」というものがあっては不都合です。なので「自分」を抑え込まざるを得ないのです。

 周囲の期待に応え、「いい子」として生きている子供は、意識の奥ではものすごく傷ついています。本当の感情を出したいのだけれど、出せません。それは、怖いからです。この子もまた、共感的愛を必要としています。

 共感的愛を十分受けなかった人は、攻撃的・支配的になるか、あるいは服従的・迎合的になります。どちらも相手を通して癒されようとするのですが、共感的愛というものを知らないので、屈折した形の代用物を相手に求めるわけです。攻撃的・支配的な人は「相手からの服従」、服従的・迎合的な人は「相手からの承認」という代用物を通して自分を癒そうとします。

 「自分のない人」は攻撃者・支配者と同一化することをやめ、自分の感情を取り戻す必要があります。共感されなかった痛みに向き合えば、どんどん自分で自分を支えられるようになります。自分というものがはっきりしてくるし、自分の感情が分かるようになるし、自分であることが心地よくなってきます。

 攻撃者・支配者と同一化するということは、攻撃者・支配者の味方をして、自分自身と敵対することです。自分と敵対していれば、必ず自己嫌悪に陥りますし、対人不安も生じます。このままだと劣等感は深まってしまいます。

 自分を出すのが怖いのは、怖い環境に適応してきたからなので、そういう自分をまずは責めないで認めてあげることが大事です。

 共感能力のある人とできるだけ関わるようにしてください。そして、その人の前ではあるがままの感情をさらけ出しても大丈夫だと感じると思うので、否定されず受け止めてもらえるという体験を積み重ねてください。共感されることで、自分が自分の感情を受け止められるようにもなります。こうやって、心(感情)のリハビリをすることが大事です。

 いきなり、攻撃的・支配的な人に自分をさらけ出すとか、共感してもらおうとするのは、お勧めしません。同じようなマイナス体験を繰り返すだけに終わってしまうリスクがあります。

 それよりは、あるがままのあなたの気持ちを聞くことのできる人との関わりを求めてください。そういう人は、世の中に少なからずいらっしゃいます。


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防衛機制としての合理化(rationalization)

 心を不安から守るメカニズムの1つが「合理化」です。

 本当は「悔しい」と感じているけれど、「悔しい」ままだと苦しい。そこで何とか解消しようとする。そして、「あれで良かったのだ」という知的納得の力を使って、「悔しい」という感情をもう感じていないという暗示を自分にかけるのです。

 感情は本当には解消していないのだけれど、解消したことにする。「あれはもう終わったこと」と信じ込むことで、感じたくない感情はないものとされてしまうのです。

 イソップ童話「狐と葡萄」では、狐がブドウをとろうとしたけれどとれなかった。その悔しさを解消するために「あれはきっと酸っぱいブドウだったに違いない」「とれなくて良かったんだ」「何も損はしていないのだ」と思うことにしましたよね。あれが「合理化」です。 

 「合理化」をすると、マイナス感情はないという暗示を受け入れることになるので、表面上は安らかになります。たとえば、本当は誰かが許せないという憤りがあるのだけれど、「合理化」をするとその人を許してしまったという暗示を受け入れますので、本当に許してしまったかのような安らかさが表面上はあるのです。

 では、それの何が問題なのかと言いますと、意識の根底にある「悔しさ」とか「憤り」は未解決のまま残留し、表面の穏やかさと切り離されてしまうことです。これは、本当に解決したのとは違うので、未解決のまま残留しているマイナス感情は、間接的にいろいろな問題を生じさせてしまうことになります。

 つまり、「合理化」は「疑似解決」だということなのです。本当の解決をせずに、安易に「解決してしまったことにしている」のです。 

 解決策は、「合理化」を解いて本当の感情に触れることです。


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防衛機制としての外化(externalization)

 防衛機制(defense mechanisms)とはフロイトが創始した精神分析学の概念で、不安を避けるために私たちが用いる心理的メカニズムのことです。

 たとえば、否認(本当のことを認めない)、合理化(納得いく説明を捏造する)、反動形成(感じていることと真逆を装う)などいろいろあります。

 防衛機制はその場での不安を避けるのに有益なこともありますが、無自覚のまま用い続けると、自分の本当の気持ちや相手の本当の気持ちから疎外され、心理的に病んでしまう原因にもなりかねません。

 多くの心理的問題には、本人が気づかないまま用い続けている防衛機制が関わっているため、セラピーでは、本人に防衛機制を自覚して乗り越えてもらうことを重視します。

 今日お話しする「外化」も多くの心理的問題に関与するメカニズムです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 「外化」とは読んで字のごとく、自分の中にあるものを外にあるものとして捉えることを言います。典型的な例は、本当は自分が選んでいるのに「相手に選ばされた」と思うことです。

 何でも相手のせいにしている人は、「外化」を多く用いていると言っていいでしょう。自分の責任を認めるのが不都合だと感じると、責任逃れをするために、「これは相手が悪いんだ」と思うことにする。そのほうが心が楽だからです。

 具体例を1つ挙げましょう。

 あるお母さんは2時に美容院の約束がありました。車で30分かかるので、遅くとも1時半に家を出る必要があります。娘さんが途中まで乗せていって欲しいと言うのでこのお母さんは引き受けました。1時半には出なくてはいけないからと伝えたのですが、娘さんはシャワーに入ってなかなか出てきません。「遅れるから早くして」と何度も言うのですが、娘さんは「もうすぐ終わる」と言うだけです。結局、家を出たのが1時50分で、お母さんは美容院に20分遅刻してしまいました。

 このお母さんは、「また娘が私を待たせたの」と友人に愚痴をもらします。「急いでと言うのに急いでくれない」と文句たらたらです。「おかげで遅刻せざるを得なかった」と言います。

 これのどこがおかしいかお気づきでしょうか?

 娘さんが1時半までに準備できなかったとき、このお母さんは娘さんを置いて家を出てもよかったのです。自分の約束に間に合うためには、時間通りに行動しなかった娘さんを待たずに出る必要がありました。けれども、このお母さんはそれをしなかった。娘を待つことに決めたのです。

 お母さんが遅刻したのは、娘を待ったからです。待つ選択をしたのはお母さんであり、その責任はお母さんにあります。

 こう言うと、お母さんは「でも、娘を置いていけるわけないでしょう?」と反論するかもしれません。「娘を置いていってはいけない」と決めているのはお母さんなのです。他の人がそう強制しているわけではありません。お母さん自身が、そういう規則を自分に課しているのです。

 「時間通りに行動しない娘を放っておいてもいい」という考え方も存在します。そう考えねばならないというのではありません。そういう考え方をすれば遅刻せずに済みますが、「遅い娘を待たねばならない」という考え方を採用すれば遅刻する以外に方法はなくなります。お母さんが自分の選択の結果を受け止める責任を果たせば、どちらを選んでも構いません。

 ただし、「自分が選んだのではない」と主張することは許されないのです。

 自分の遅刻を娘のせいにするということは、自分が「娘を置いておく訳にはいかない」という考え方を選択し、娘を待てば遅刻する結果になることは明白だったにも関わらず「娘を待つ」という選択をした自分の責任を認めず、自分は無力だったと主張することを意味します。

 「自分には待つ以外になかった」と主張することが、無責任なのです。待たなくていいように、遅刻を回避できるように、自分にできることは実際あったのです。それを選ばなかった責任を認めないことが「外化」です。


「娘が私を待たせた」は「外化」(防衛機制)
「私は娘を待った」が真実
 

 「外化」は自分も周囲も傷つけます。困った状況になるのを自分で防がず、「しかたない」と言って遅刻したり、貸したくない金を貸してしまったり、やりたくない仕事を引き受けてしまうし、また「そうさせられた」と言って相手を責めますので、人間関係も悪化します。

 自分の責任を認めない人は、自分が自分で困った状況を作り出しているのですが、「周囲によって困らされている被害者」として振る舞い、実際は「相手の責任でないことで相手に責任を追求する加害者」となって周囲に迷惑をかけます。

 解決策は、自分の責任に気づいて認めることです。


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防衛機制としての反動形成(reaction formation)

 私たちは「本当の気持ち」が脅威だと感じると、その正反対を装うことがあります。

 たとえば、本当は相手のことが嫌いだ。けれど嫌いだと意識するのが怖い。すると相手にフレンドリーに接することで「本当の気持ち」に気づかなくて済むようにします。

 このように、実際とは逆を装うことで、真実に直面する恐怖を回避することを「反動形成」と言います。

 カウンセリングの終了時に、「またお願いしてもいいですか?」と聞く人がときどきいます。「また是非お願いしたいと思います」と熱心な気持ちを強調する。しかし、その熱心さがどこかぎこちない。こういう人は、二度とやってきません。

 つまり、本当は「もう来たくない」と感じているんです。でも「もう来たくない」という顔をして私に否定されるのが怖いので、「来て本当に良かった。また来たい」という顔をすることで不安を避けるのです。

 本当に「また来たい」と感じた人の感情表現はもう少し自然です。「また来たい」ということをあえて強調しません。ただ次の予約をとるとか、次回についての質問をしてくる。それによって私は「また来たいから尋ねているのだな」と文脈で察知する。

 親しさを強調する人は、本当は相手に親しみを感じていない人だったりします。どこかぎこちない。本当の感情を押し殺して、正反対を演じている居心地悪さがどうしても出てしまうのです。

 とても好きな人の前に出ると緊張して、好きだという感情が素直に認められないことがあります。そうすると、「私はあなたに何も思っていませんよ」という無関心を装うことで精神的安定を保とうとします。これも「反動形成」です。

 好きな子に意地悪をするというのもそうです。本当は優しくしたいしされたい。けれど素直に優しさを出すのが怖い。なので、意地悪をするんです。実際の気持ちと正反対を出しています。

 威張るというのも「反動形成」です。本当は自信がないんです。劣等感があるんです。それを感じたり認めるのが怖いので、「俺は偉いんだ」という姿勢を作るわけです。劣等感にまっすぐ向き合えないので、正反対に逃げているのです。

 浮気をしたことについて本当は罪悪感をもっている。けれども罪悪感を感じるのが怖い。そうすると、正反対を装います。「何が悪いんだ?」と開き直るのです。「浮気ぐらい男の甲斐性なんだよ」と強がる。これも「反動形成」です。

 「反動形成」をしていると、本当の自分の気持ちが分からなくなる。つまり自分とコミュ二ケーションがとれなくなる。そして、相手とのコミュニケーションも妨げられてしまう。なので、心の問題を解いていくときに、自分の「反動形成」を自覚していくことが助けになります。

 「好きだ」という構えに気づいて、「本当は嫌いなんだ」と認める。

 「無関心」という構えに気づいて、「本当は相手に興味があるんだ」と認める。

 「正当化」という構えに気づいて、「本当は罪悪感を感じているんだ」と認める。

 このように自己防衛を解いていくと、実際の自分と接触して、人格が統合されていきます。


参考記事

防衛機制としての知性化(intellectualization) 
 

防衛機制としての知性化(intellectualization)

 「知性化」とは感情を感じる代わりに思考することで自分を守ろうとすることです。

 感情を感じたり意識することは時に怖いものです。自分の中に恐怖や絶望や無力感や罪悪感などがあるとき、まともに感じていると圧倒されそうに思う。そして自分を安定化させようとするとき、無意識にこれらの感情を感じないように蓋をするわけです。つまり抑圧するということです。そして、感情を味わうことを避けるために知的作業に忙しくします。

 心で感じたくないものがあるとき、私たちは頭を忙しく動かすのです。頭で考えるとき、感じるという機能をオフにできるからです。

 心の問題を解くとき、そこに横たわる感情にアクセスして意識化することが重要です。そのため、「どう感じていますか?」という質問をしばしば私はクライアントに投げかけます。ところが、感情を意識したくない、あるいは意識できない人の場合、感情を答える代わりに思考を答えるということが起きるわけです。

 たとえば、「お父さんに叱られたとき、どう感じましたか?」と尋ねると、クライアントは「お父さんは自分勝手だなあと感じました」と言うかもしれません。

 「お父さんは自分勝手だ」というのは思考であり分析であり意見です。これは感情ではありません。本人は気づいていないかもしれませんが、この人は感情に触れてはいません。

 この人が父親に叱られたとき本当に感じていたのは「恥ずかしい」という感情かもしれませんし、「傷ついた」という感情かもしれません。あるいは「腹が立った」という怒りかもしれません。

 「お父さんに叱られたとき、傷ついた」と答える場合、クライアントは自分の感情に気づいています。感情に接触しています。体でその感情を感じているとき、思考しているのとは違う次元で事が動いています。

 「知性化」が起こっているとき、感情と思考は分離され接触していません。感情と断絶した形で思考が一人歩きしています。すると心と頭は統合されません。

 しかし、心で感じていることに意識を向けると、感情と接触し始めます。意識化が起こります。そうすると、頭が心の感じていることを捉えて言葉にできます。このとき、頭と心が一致している、つまり統合されつつあるのです。

 心で「傷ついた」と感じている。味わっている。体験している。これは観念ではありません。体験的な現実がそこにあります。それを頭が認識して言語化する。「傷ついた」という名前をつけてあげる。このとき、体験と概念が一致します。それが心と頭が一致するということです。そして、それは自己認識ができているということでもあります。

 私たち人間は、自分が体験しているものを観念によって認識できるとき、無秩序な体験に秩序が与えられます。体験している幾万の事象すべてに言語を当てはめることは不可能ですが、すべてを意識化する必要など実はありません。

 意識化する必要があるのは、特に無意識に葛藤がある場合です。対立がある場合です。

 心理的な問題は無意識の葛藤によるものです。自分では把握できない対立が起きている。けれど、その対立が何と何との間に起きているものかさっぱり分からない。そうすると、解決する力を自分は持てないことになります。

 しかし、無意識だった葛藤の実像がすっかり見えてきたとしたらどうでしょう?

 自分でそれを解く可能性が出てきます。「なんだ、A と B の間で自分は迷っているんだ」と見えてきたら、葛藤を解決する力を手にするのです。 

 ですから、自分が把握できていない自分の中での出来事を把握することには大きな意味があります。それが心理ワークの1つの価値でしょう。 

 「知性化」を含む防衛機制は、内面で起きている実像に意識を向けないで済ませるための防衛反応です。ですから、これをやっている限り葛藤の正体はいつまでも見えてきません。

 ということで、セラピーにおいてはクライアントの防衛機制に同調することなく、問題解決の方向にクライアントを導くことが大事ですが、そのうちの1つは感情を感じて意識化する方向にガイドすることです。

 多くの人は自分の心理的問題について心理学の本を読むなどして知識をたくさん溜め込みます。頭の知識をどれだけ蓄積しても、心の問題を解くことには必ずしも繋がりません。

 それは道路工事の本をいくら読んでも、実際に道路工事をしなくては道路ができないのと同じ理屈です。

 心の問題は、心の内側に入っていて、そこに何があるのかを実際に確かめる作業を通して解決されます。それには感情に触れて、そのルーツまで辿るプロセスがとても重要です。そして、その大事なプロセスへの障害となるのが、観念的になり過ぎることなのです。

 内面の葛藤を解くには、感情に触れて把握することが必須です。感情に触れることで心と頭が一致し、自己認識ができます。自己認識ができることで、内面の問題を解く力を手にするのです。

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