菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2017年12月

12星座に見る人間の普遍的課題

 記事「12星座に表れる心理的ゴール」に書きました通り、星座ごとに異なる成長のプロセスがあります。

 「蠍座の月」「天秤座の土星」「獅子座の冥王星」を持つ人の場合、内面の主観的・情緒的世界においては「蠍座」の、忍耐と自己鍛錬を通しての成熟においては「天秤座」の、魂の再生においては「獅子座」の成長プロセスに取り組む必要があります。

 成長がうまくいく場合、その星座の特質がプラスに出ます。反対に成長がうまく行かない場合、その星座に特有のマイナスが出ることになります。マイナスに気づいたらプラスにシフトできるように取り組むことが大事です。

 では12星座(12の成長プロセス)のプラスとマイナスを見ていきましょう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

牡羊座 ➕ 勇気をもって自分自身でいられる
    ➖ 他人のことを考えず支配的・暴力的になる

牡牛座 ➕ 安定した生活を築き上げられる
    ➖ 対立を避けて成長(=変化)できない

双子座 
➕ コミュニケーションを通して視野が広がる
    ➖ 表面的になったり、焦点を絞れない

蟹座  ➕ 自分や他人の内面に優しく親密であれる
    ➖ 人の世話役に回ることで孤独を避ける
 
獅子座 ➕ 自己表現を通して生きる喜びを感じる
    ➖ 自己中心性や特権意識に陥る

乙女座 
➕ 自己改善を通して何かを極め人に奉仕する
    ➖ 高過ぎる理想でもって自分を否定する

天秤座 
➕ 人間関係や芸術において調和や平和をもたらす
    ➖ 周囲に合わせ過ぎて自分を見失ってしまう

蠍座  
➕ 裸の真実を求めることで力強く変身していける
    ➖ 強烈な刺激の虜になって破滅に向かう

射手座 
➕ 普遍的視野を獲得する
    ➖ 自分の悟りを絶対化してしまう

山羊座 ➕ 忍耐と自己鍛錬を通して実力を発揮する
    ➖ 権力を振りかざしたり、デリケートな感情に鈍感になる

水瓶座 
➕ 未来的なヴィジョンを実現し個性を開花させる
    ➖ 反抗的になったり、極端な革命に走ったり、感情から離れ過ぎる

魚座  
➕ あらゆるものを受容する愛を体現し自我を超越する
    ➖ 現実に生きることができず妄想や酒や宗教へと逃避する

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 人間の心理的問題はこれら12の領域に大別されます。

 これらの成長課題は、さらに6つの対立軸に分けられます。成長課題はそれぞれが孤立しているのではなく、対立する課題と補完し合う関係にあります。よって、成長課題を理解するには、対立構図の本質を見抜くことが重要です。

 人間は2つの正反対の学びを統合することによって成長していくようになっています。

 言い換えますと、
人間には6つの統合課題があるということです。

 ①牡羊座と天秤座、②牡牛座と蠍座、③双子座と射手座、④蟹座と山羊座、⑤獅子座と水瓶座、⑥乙女座と魚座の6つのペアがそれを表しています。

 例えば、牡羊座と天秤座の成長課題を見ると、正反対であることがお分かりいただけるでしょう。牡羊座の課題は勇気を持って自分自身であること、自分を主張すること、自分の望むものに向かっていくことです。そして天秤座の課題は他者と調和することなわけで、協調性の学びと言えます。

 さて、これらの2つをバランスよくできることが理想かもしれませんが、両方を同時に学ぶということはなかなかできません。人間は、片方ずつ集中して取り組むようにできているようです。つまり、勇気を持って自分自身であることがその人にとって重要であるときには、牡羊座に集中する。協調性の学びの方がその人にとって重要になったときには、天秤座に集中する。そうやって長い時間をかけて2つを統合していくものと思われます。

 人によって成長課題は異なります。
「6つの統合課題」という視点は、一人一人が今どこでつまずいているのか、また、何を目指せばいいのかを教えてくれるので、成長を大きく後押ししてくれるという意味でたいへん貴重です。

12星座に表れる心理的ゴール

 天体(太陽・月・8惑星)は私たちの心理的機能を、その位置は心理的ゴールを表していると考えられます。

 天の位置は春分点を起点として12に分割され、それぞれに星座の名前が与えられてきました。

 天体が春分点から30°以内にあるとき、人間に一定の作用を及ぼすということを数千年という経験の蓄積を通して分かってきたわけです。

 ふつう「私は牡羊座です」と言うと、太陽が春分点から30°以内にあったときに生まれたことを意味します。

 「牡羊座の性格は◯◯です」と説明する本が多いのですが、実は「牡羊座を生きることがその人にとっての成長の道だ」ということなのであり、そこには心理的ゴールがあるのです。

 つまり、「牡羊座である」というのは固定的なものではなく、
「牡羊座を成就することで達成したいことがある」と考えられます。 

 言い換えますと、その人が「牡羊座の太陽」をもって生まれたのは決して偶然ではなく、その人の成長にとって必要だったからということです。

 同様に、「牡牛座の金星」や「蠍座の火星」にも目指しているものがあります。

 この記事では、10の天体が表す心理的機能と12星座が表す心理的ゴールを簡単にご説明しましょう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

10の心理的機能

 太陽ーー自我、行政機能
 月ーー主観的・情緒的慈愛の授受
 水星ーー知的・言語的収集と判断
 金星ーー人間関係の調和と美の希求
 火星ーー自己主張、願望成就への邁進
 木星ーー自信の鼓舞、ポジティブな人生観の形成
 土星ーー自己鍛錬による成熟
 天王星ーー個性化の促進、部族意識からの自立
 海王星ーー自我からの脱同一化、霊的真理の覚醒
 冥王星ーー変容と再生

12の心理的ゴール

 牡羊座ーー勇気を発達させること
 牡牛座ーー静寂と安定を経験すること
 双子座ーー知的世界を広げること
 蟹座ーー主観的フィーリングの世界を開拓すること
 獅子座ーー自己表現を通して生きる喜びを感じること
 乙女座ーー完璧に近づくこと
 天秤座ーー揺らがない平安に到達すること
 蠍座ーー自分の中にあるあらゆる偽りを捨てて本当の自分になること
 射手座ーー生きる意味を掴むこと
 山羊座ーー忍耐と自己鍛錬を通して成熟すること
 水瓶座ーー個人として生きること
 魚座ーーあらゆる命との一体感を感じること

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 例えば、「蠍座の海王星」をもっている人は、無意識にある闇と向き合うことで魂として成長していきます。

 「水瓶座の金星」をもっている人は、社会通念に縛られない自由で個性的な人間関係(恋愛関係を含む)が幸せへの道であり、成長の道でもあります。

 「牡羊座の月」をもっている人は、情緒的満足の世界を決して無視することなく、きちんとケアしてあげることで、自分という存在を育てていければ成長します。
 

他者に貢献できているという実感が幸福

(これは2014年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 「嫌われる勇気」のコメンタリー第12弾(完結編)です。


 私たち人間はみな、「自分はここにいてよい存在なのだ」と感じたいし、「自分には価値がある」と感じたい。

 だから、他者にどう見られているかが気になるわけです。他者からの評価が気になります。

 ところが、アドラーが言うには、私たちが本当に望んでいるのは、他者から「いいね」と評価されることではなくて、他者から「ありがとう」と感謝されることなのです。

 「あなたは素晴らしいね」ではなく、「あなたがいてくれたお陰で私は助かった」と言われたいというのです。

 私たちはみな、「自分は誰かの役に立っている、有益な存在なのだ」と感じたいというのですね。

 これは見事だと思いませんか。

 「他者に貢献できている有益な存在だ」と感じて生きることが、対人関係における最高の幸福だというのが、今回の結論でございます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

哲人 劣等感について語り合ったとき、これは主観的な価値の問題なのだ、という話をしましたね? 「自分には価値がある」と思えるか、それとも「自分は無価値な存在だ」と思ってしまうのか。もしも「自分には価値がある」と思うことができたなら、その人はありのままの自分を受け入れ、人生のタスクに立ち向かう勇気を持ちえるでしょう。ここで問題になるのは、「いったいどうすれば、自分には価値があると思えるようになるのか?」という点です。

青年 そう、そうですよ! そこを明確にしてもらわないと困ります!

哲人 いたってシンプルです。人は「私は共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。これがアドラー心理学の答えになります。

青年 わたしは共同体にとって有益なのだ?

哲人 共同体、つまり他者に働きかけ、「私は誰かの役に立っている」と思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができるのです。
(p. 206)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 私たちが対人関係において幸福を感じるのは、「貢献感」(p. 254)があるときです。

 つまり、「幸福とは貢献感である」と言ってもいい。

 ただし、他者から好かれよう、認められようとして行う貢献からは、この「貢献感」は得られません。

 この幸福感を得るには、自由でなくてはならないのです。

 自由の中で自分を活かしながら他者に貢献できていると感じたとき、はじめてこの「貢献感」が得られるのです。

 ですから、自己犠牲による貢献、他者に服従する形での貢献では、幸福にはなれないのです。

 「自由」と「貢献」の両方を満たす生き方をしたければ、「私は他者のために何を喜んでしてあげられるか?」と問えばいいのです。「喜んで」が鍵です。

 そう、自分が喜んでできる貢献を見つけることが、自分を活かすことになります。

 そして、このように自分を活かせたとき、心の底から充実感を感じるでしょう。他者の幸福に貢献できたという喜び、自分の存在が全体の安寧に寄与できたという喜びを味わいながら生きるのは、とても幸せなことだと思いませんか。

推薦図書

対人関係のゴールは「共同体感覚」

(これは2014年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 「嫌われる勇気」のコメンタリー第11弾です。


  これまで、対人関係における「課題の分離」や「自由」について語ってきましたが、これらはすべて本当の幸せに向かう「入口」でした。

 この第11弾と次の第12弾(完結編)をもって、いよいよ対人関係における最高の幸福について述べたいと思います。

 キーワードは「共同体感覚」。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

青年 先生は、課題の分離は対人関係の出発点だとおっしゃいました。じゃあ、対人関係の「ゴール」はどこにあるのです?

哲人 結論だけを答えよというのなら、「共同体感覚」(太字は著者)です。 (中略)もしも他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。さらには、仲間たち——つまり共同体——のために貢献しようと思えるようになるでしょう。このように、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。(太字は著者)
(p. 179)

(中略)

哲人 アドラーは自らの述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、としています。

青年 はっ?

哲人 つまり、われわれが「共同体」という言葉に接したときに想像するような既存の枠組みではなく、過去から未来、そして宇宙全体までも含んだ、文字通りの「すべて」が共同体なのだと提唱しているのです。
(p. 180)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 対人関係において、相手との間に上下や優劣などを意識したり、相手の課題と自分の課題を混同したりすると、適切な心理的距離で付き合えません。そして、対等な仲間であるという意識が育ちません。

 そこで、まずは相手と対等であるという関係性を確立することが大事だったわけです。しかし、これは終着点ではなくて、この前提の上に、あらゆる者との間に「仲間意識」をもつことができたとき、私たちは世界に自分の居場所があると心底思えてきます。

 世界は敵だらけではなく、すべてが仲間であるという意識へと向かっていく。

 自分の課題をこなしていけばいくほど、自己実現が進めば進むほど、自己執着から脱して、「自分は共同体のために何ができるだろうか?」と問う人間になっていくわけです。

 そして、いよいよ次回、完結編では、共同体にコミットし、みんなのために自分ができることをしているという感覚をもったときに、所属感と貢献感が得られるというお話をいたします。

推薦図書

すべてのカードは自分が握っている

(これは2014年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 「嫌われる勇気」のコメンタリー第10弾です。


 自分が幸せになるためには「息子はこうあらねばならない」「妻はこうあらねばならない」「職場ではこう接してもらわねばならない」、と思えば思うほど、幸せの条件を相手に渡してしまっています。

 「相手がこうあれば私は幸せ」「相手がこうでなければ私は不幸せ」と捉えることは、幸福の決定権を相手に譲渡しているのと同じです。

 幸せのカードを握っているのは相手ということになります。

 自分が幸せかどうかが、相手によって決まるのであれば、一生懸命相手を操作しようとして当然でしょう。実際こういう人間はたくさんいます。

 また、自分が不幸なのは、自分の過去のせいだ、自分の生い立ちのせいだと捉えれば捉えるほど、幸福の条件を過去に委ねてしまっています。 

 幸せのカードを握っているのは過去ということになります。

 カードを握っているのが他者であり、過去であるとなれば、今の自分は無力です。無力であれば、自分の幸福への責任をとれるはずがありません。

 すると、自分の不幸を他者のせいにできます。過去のせいにできます。そして、自分の無罪を主張できるわけです。

 ところが、他者はコントロールできないし、過去は変えられません。

 相手がどうあろうが、過去がどうあろうが、私たちは今幸せになることができます。しかし、そのためには、幸せのカードをすべて自分で握ることが必要です。その自由を手にしたいなら、同時に責任も引き受けなくてはなりません。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

哲人 わたしは幼いころから父との関係がうまくいきませんでした。会話らしい会話も交わすことのないまま、20代のころに母が亡くなり、父との関係はますますこじれていくことになります。そう、ちょうどわたしがアドラー心理学と出逢い、アドラーの思想を理解するまでは。

青年 お父様との関係が悪かったのはなぜですか?

哲人 わたしの記憶にあるのは、父から殴られたときの映像です。(中略)しかし、「あのとき殴られたから関係が悪くなった」と考えるのは、フロイト的な、原因論的な発想です。
 アドラー的な目的論の立場に立てば、因果律の解釈は完全に逆転します。つまり、わたしは「父との関係をよくしたくないために、殴られた記憶を持ち出していた」のです。

青年 先生にはお父様との関係をよくしたくない、修復させたくない、という「目的」が先にあった、と。

哲人 そうなります。わたしにとっては、父との関係を修復しないほうが都合がよかった。自分の人生がうまくいっていないのは、あの父親のせいなのだと言い訳することができた。そこには、わたしにとっての「善」があった。あるいは、封建的な父親に対する「復讐」という側面もあったでしょう。

青年 ちょうどそこがお聞きしたかったんです! 仮に因果律が逆転したところで、つまり先生の場合でいえば「殴られたから父との関係が悪いのではなく、父との関係をよくしたくないから殴られた記憶を持ち出しているのだ」と自己分析できたところで、具体的になにが変わります? だって、子ども時代に殴られた事実は変わらないのですよ?

哲人 これは対人関係のカード、という観点から考えるといいでしょう。(太字は著者)原因論で「殴られたから、父との関係が悪い」と考えているかぎり、いまのわたしには手も足も出せない話になります。しかし、「父との関係をよくしたくないから、殴られた記憶を持ち出している」と考えれば、関係修復のカードはわたしが握っていることになります。わたしが「目的」を変えてしまえば、それで済む話だからです。

青年 ほんとうに、それで済みますか?

哲人 もちろん。

青年 心の底からそう思えるものでしょうか。理屈としてはわかりますが、どうも感覚的に腑に落ちません。

哲人 そこで、課題の分離です。たしかに、父とわたしの関係は複雑なものでした。実際、父は頑固な人でしたし、あの人の心がそう易々と変化するとは思えませんでした。それどころか、わたしに手を上げたことさえ忘れていた可能性も高かった。
 けれども、わたしが関係修復の「決心」をするにあたって、父がどんなライフスタイルを持っているか、わたしのことをどう思っているか、わたしのアプローチに対してどんな態度をとってくるかなど、ひとつも関係なかったのです。たとえ向こうに関係修復の意思がなくても一向にかまわない。問題はわたしが決心するかどうかであって、対人関係のカードは常に「わたし」が握っていた(太字は著者)のです。 

青年 対人関係のカードは、常に「わたし」が握っている・・・・?

哲人 そう。多くの人は、対人関係のカードは他者が握っていると思っています。だからこそ「あの人は自分のことをどう思っているんだろう?」と気になるし、他者の希望を満たすような生き方をしてしまう。でも、課題の分離が理解できれば、すべてのカードは自分が握っていることに気がつくでしょう。これは新しい発見です。 
(p. 166-168)


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 私は幼少期に母にされた幾つかの行為に深く傷つき、25年間恨んでいました。

 ところが、30代後半になり、この恨みを手放すべく、セラピーを受けたのです。そして、この恨みから自由になることができました。

 このときにも、それ以後も、私は母に謝罪を求めたことはありません。

 私が平安に至るために、母の謝罪を必要としませんでした。

 なぜなら、私の心を動揺させ続けていたのは、母の行為ではなく、母の行為に対する私自身の思考と感情だったからです。

 私は自分の思考と感情の責任をとり、自分が楽になれるように自分を導きました。私は過去との関係性を変更することで、自分の現在の幸福の責任をとったのです。 

 母が私にしたこと、そしてそのことについて母が感じたことは、母の課題です。

 母にされたことに対して、私がどう感じ、どう捉えたか、その出来事とどういう関わり方をするかは、100%私の課題なのです。

 私が選択する思考や感情によっては、私は苦しみを永続させることもできるし、苦しみから抜け出ることもできます。その切り札は、母の手にあるのでもなく、過去にあるのでもありません。私の手の中にありました。

 私は不幸を母のせいにすることに疲れ果てました。そして、犠牲者であることをやめようと決心しました。私は私の課題をひとつこなしたのです。

 この体験を通して私はひとつのことを学びました。自分の幸福を決定するのは、「相手が自分に何をするか」「相手が自分をどう思うか」ではない。「自分が相手に何をするか」「自分が相手をどう思うか」ということ、そして「自分が自分に何をするか」「自分が自分をどう思うか」であるということを。そして、それらの幸福の決定要因は、すべて自分の手中にあるのです。

 私たちは相手に否定されたり拒絶されることで不幸になりません。私たちが不幸になるのは、相手を否定し拒絶するときと、自分自身を否定し拒絶するときです。そして、この力をもっているのは自分自身にほかなりません。

 私たちは愛されないことを怖れます。しかし、私たちを最も傷つけるのは、相手を愛さないことであり、何よりも自分を愛さないことなのです。そして、相手を愛するかどうか、自分を愛するかどうかは、100%自分の課題です。

推薦図書

自由になりたいなら嫌われる勇気をもつ

(これは2014年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 「嫌われる勇気」のコメンタリー第9弾です。

  私は1年11ヶ月前に、自分がバイセクシュアルであることを当ブログで公表しました。

 嫌われるのが怖くなかったと言えば嘘になりますが、この約2年の間に、私に差別をしたり、暴言を吐いたりした人はひとりもいませんでした。

 私に驚きだったのは、私のところに来てくださるクライアントさんは減るどころか増えて、収入も上がり、バイセクシュアルである私は受け入れられているのだなあとつくづく感じる体験が大部分だったことです。

 隠さなくてよいというのは、本当に心理的に楽なものです。私が味わっているこの自由と、自分らしく生きられている喜びと誇りは、勇気ある行動を起こしたが故に私が手にできたものです。

 他者が私のセクシュアリティーをどう思うかは、私の課題ではない。私の課題はひとえに、私がどう生きれば私が幸せかを追求することである、という思いから、私は私の自由のために、カミングアウトしたのでした。

 そのお陰で、あるがままの私と付き合ってくれる人との偽りのない心の通い合いを日々楽しんでいます。

 私は性的少数者に限定したカウンセラーではありません。私のところに来るクライアントの大部分は性的少数者ではありません。私をカウンセラーとして評価してくださるからいらっしゃるのです。嬉しいではありませんか。

 そして、カミングアウトしたからこそ来て頂ける、性的少数者のクライアントさんと出会えることもまた、喜びです。

 私がこのブログでカミングアウトしたとき、「ええい、嫌われても構わんわい。あるがままの自分をさらけ出そう」と決心しました。「きっとそれで勇気づけられる人もいるだろう」とも思いました。そうしたら、結果としてそれほど嫌われてはいないようです。というか、嫌う人は私に近寄ってきません!(笑) 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

哲人 あなたが誰かに嫌われているということ。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。

青年 い、いや、しかし・・・・。

哲人 たしかに嫌われることは苦しい。できれば誰からも嫌われずに生きていたい。承認欲求を満たしたい。でも、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由きわまりない生き方であり、同時に不可能なことです。
 自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです。
(p. 162-163)

(中略)

哲人 他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。(太字は著者)つまり、自由になれないのです。
(p. 163) 

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 とうとう、本書の題名でもある「嫌われる勇気」について出てきましたね。

 自分らしく生きるためには、嫌われる勇気が必要です。嫌われることを目的とするのではありません。好かれる嫌われるという軸で物事を決断しないということです。

 自分にとって最善だと思うことをする。やりたいことをする。判断基準は人の反応ではないということです。

 自分らしく生きていたら、必ずそれが気に入らない人、批判して来る人がいるものです。でも、それは相手の課題なのですから、彼らの不満を自分の責任だと思わなくてよいのです。

 批判したくなる感情をもっている人には、その人なりの原因と目的があるので、こちらはそれに対してどうしようもないのです。

 相手がこちらを嫌ったからといって、自分が悪いことをしたという意味にはなりません。私に非があるという意味にはなりません。

 もちろん、自分の不注意で、相手の迷惑になってしまった場合には、こちらの行動を修正しますが。

 相手が気に入らなかったということは、相手の迷惑になったということと同意義ではありません。しかし、相手の批判の中には、自分にとって学ぶべきものが含まれていることもあります。ですから、きちんと聞く耳はもっていたいですね。

推薦図書

課題の分離ができないから他人の目が気になる

(これは2014年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 「嫌われる勇気」のコメンタリー第8弾です。


  対人関係の中で、自由でいられるためには、是非とも課題の分離を徹底しなくてはなりません。

 第7弾に引き続き、この重要なトピックについてお話ししたいと思います。

 今日は、日本人の多くが信仰している、儒教に基づいた「親孝行」という習慣を覆してみましょう。 

 親を愛し、親に与えることで喜んでもらうことに何も問題はありません。しかし、親のわがままに沿って自分を曲げることは是非とも避けなくてはなりません。

 多くの人は、親がわがままを言ってきたときでさえ、それに応えられない自分を「悪い息子」「悪い娘」と捉えて罪悪感をもってしまいます。ここには真理も正義もありません。 

 子どもは親の期待に沿うために生まれてきたのではありません。子どもは子ども自身の人生を生きるために生まれたのです。

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哲人 図書館司書なんてぜったいに認めない、お兄さんと一緒に家業を継がないのなら親子の縁を切るとまで迫られたと。しかし、ここでの「認めない」という感情にどう折り合いをつけるかは、あなたの課題ではなくご両親の課題なのです。あなたが気にする問題ではありません。

青年 いや、ちょっとお待ちください! つまり先生は、「親をどれだけ悲しませようと関係ない」とおっしゃるのですか?

哲人 関係ありません。

青年 冗談じゃない! 親不孝を推奨する哲学など、どこにありますか!

哲人 自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。

青年 相手が自分のことをどう思おうと、好いてくれようと嫌っていようと、それは相手の課題であって、自分の課題ではない。先生はそうおっしゃるのですか?

哲人 分離するとは、そういうことです。あなたは、他者の視線が気になっている。他者からの評価が気になっている。だからこそ、他者からの承認を求めてやまない。それではなぜ、他者の視線が気になるのか? アドラー心理学の答えは簡単です。あなたはまだ、課題の分離ができていない。本来は他者の課題であるはずのことまで、「自分の課題」だと思い込んでいる。 
(p. 147-148)

(中略)

哲人 わたしの提案は、こうです。まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。そして課題の分離をしましょう。どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きするのです。
 そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。

青年 ・・・・はああ、先生が今日の議題は「自由」だとおっしゃっていた意味が、少しずつ見えてきましたよ。

哲人 そう、われわれはいま「自由」について語ろうとしているのです。
(p. 150) 

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 「他人の目が気になる」のは、相手の課題に対して自分が責任をとろうとしているから、つまり課題の分離がまだできていないからなのですね。

 つまり、自分の選択に対して相手がどう感じるか、どう評価するかは、相手の課題だと思えたら、他人の視線は気にならなくなるということです。

 課題の分離ができていなければ、相手が不満になったら自分のせいだ(自分が相手を不満にした)と思って責任を感じてしまうので、相手の反応が気になるのです。

推薦図書

自分の課題と他者の課題を分離する

(これは2014年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 「嫌われる勇気」のコメンタリー第7弾です。

  幸せになるために、そして自己実現するためには、自分の人生への責任を負わなくてはなりません。

 自分の人生への責任を負うためには、何が自分の責任であり、何が他者の責任であるのかを混同してはなりません。

 自分の責任であることを相手の責任にしたり、相手の責任であることを自分の責任のように思っていたのでは、自分の人生への責任を負うことはままならないのです。

 ところが、実際には、多くの人間が、他者の人生の責任をとろうとして介入しすぎたり、自分でとるべき責任を周囲に転嫁してしまって、対人関係がぐじゃぐじゃになっています。

 そこで、人生には自分の課題と他者の課題があり、それをどう見極めるか、というとても大事なトピックを今回扱うことにいたします。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

哲人 勉強することは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。これでは衝突を避けることはできないでしょう。われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要がある(太字は著者)のです。

青年 分離して、どうするのです?

哲人 他者の課題には踏み込まない。(太字は著者)それだけです。

青年 ・・・・それだけ、ですか?

哲人 およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと――あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること――によって引き起こされます。(太字は著者)課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。

青年 ううむ、よくわかりませんね。そもそも、どうやって「これは誰の課題なのか?」を見分けるのです? 実際の話、わたしの目から見れば、子どもに勉強させることは親の責務だと思えますが。だって、好きこのんで勉強する子どもなんてほとんどいないのですし、なんといっても親、保護者なのですから。

哲人 誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」(太字は著者)を考えてください。
 もし子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末――たとえば授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなど――を最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません。間違いなく子どもです。すなわち、勉強とは、子どもの課題なのです。

青年 いやいや、まったく違います! そんな事態にならないためにも、人生の先輩であり、保護者でもある親には「勉強しなさい」と諭す責任があるのでしょう。これは子どものためを思ってのことであって、土足で踏み込む行為ではありません。「勉強すること」は子どもの課題かもしれませんが、「子どもに勉強させること」は親の課題です。

哲人 たしかに世の親たちは、頻繁に「あなたのためを思って」という言葉を使います。しかし、親たちは明らかに自分の目的――それは世間体や見栄かもしれませんし、支配欲かもしれません――を満たすために動いています。つまり、「あなたのため」ではなく「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです。

青年 じゃあ、子どもがまったく勉強していなかったとしても、それは子どもの課題なのだから放置しろ、と?

哲人 ここは注意が必要です。アドラー心理学は、放任主義を推奨するものではありません。放任とは、子どもがなにをしているのか知らない、知ろうともしない、という態度です。そうではなく、子どもがなにをしているのか知った上で、見守ること。勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝えておく。けれども、子どもの課題に土足で踏み込むことはしない。頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのです。
(p. 140-142)

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 自分の課題と他者の課題を分離することの重要性は、「親業」で知られるトマス・ゴードンも、「ザ・ワーク」で知られるバイロン・ケイティも強調しています。しかし、この二人より遥か前に、アドラーが語っていたとは驚きです。

 親が子の課題に踏み込んだり、教師が生徒の課題に踏み込んだり、夫が妻の課題に踏み込んだり、上司が部下の課題に踏み込んだり、といったことが日常茶飯事に起こっています。とても醜いことです。

 子どもが決めた結婚相手が気に食わないと言って反対する親。まったくもって自分勝手です。

 彼らの言い草はいつも同じです。「あなたのためを思って言ってるんじゃないの!」

 これは全くの欺瞞です。「自分が望んでいるような人と結婚してくれなくては、私がイヤなの」という自己中心性以外の何物でもありません。

 他者の課題に土足で踏み込むとはこういうことを指します。

 「そろそろお前も結婚した方がいいんじゃないか」という先輩面も同じです。まったくのお節介。

 また反対に、相手に踏み込まれているにもかかわらず、それが侵害であると思えない弱い善人も多いのが今の日本です。

 「親を悲しませるような結婚相手を選んでしまった」などと言って、自分の至らなさを思う子どもにも、問題があります。

 自分の人生のパートナーを選ぶときに、親の承認など必要ありません。親がどう思うかは、親の課題であり、子どもが気にするべきことではそもそもないのです。

 ところが、「親の承諾と祝福を得て結婚せねばならない」という思考パターンが習慣になっているので、それに沿おうとする人が多いわけです。でも、これは絶対的なルールでも何でもありません。 

 イギリスのエドワード8世は、現在のエリザベス女王の伯父に当たる人です。1936年に王となりましたが、アメリカ人で離婚歴のあるシンプソン夫人と熱烈な恋愛の末、結婚することに決意しました。当時は、離婚歴のある女性が王の伴侶となることは許されませんでしたので、エドワード8世は1年足らずで王座を捨てて、彼女と結婚したのです。ものすごい勇気ですね。 

 世間を敵に回してでも自分の幸せの責任をとったエドワード8世の勇断を、私は讃えます。 

 因みに、私の父は公立中学校の校長でしたが、息子である私に「勉強しろ」と言ったことは一度もありません。このお陰で、私は好きなときに好きな勉強を好きなだけすることができ、勉強が好きになりました。

 父は私が勉強が分からなくて聞きにいくと教えてくれましたが、父のほうから「これをせよ、あれをせよ」と言われたことはありません。父は私をいつも見守ってくれていました。このことは今でも感謝しています。

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承認されることをゴールにしない

(これは2014年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 「嫌われる勇気」のコメンタリー第6弾です。


 「人からの評価をものすごく気にする」「嫌われたくない」「承認されたい」という人がたくさんいます。

 その原因としては、「賞罰教育」の影響が大きいとアドラーは考えました。「親」や「教師」や「世間」の期待に沿ったときご褒美がもらえ、逆らったときに懲罰をくらう。

 このような育てられ方をすると、他者の期待に沿って褒められることでしか生きられない大人がわんさか生産されます。 

 「自分がやりたいからやった」という「内的動機」ではなく、「これをしたらあれがもらえるからやった」という「外的動機」で釣られてきた人にとっては、外からの褒美がすべてになってしまいます。

 アドラーは、自分らしく生き、幸せになるには、他人から承認を求めてはならないと言います。

 承認されてもいいのです。ただ、承認されることをゴールにしないということなのです。言い換えると、他者の期待に沿うことをゴールにしないということです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

哲人 アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。

青年 承認欲求を否定する?

哲人 他者から承認される必要などありません。むしろ、承認など求めてはいけない。ここは強く言っておかねばなりません。

青年 いやいや、なにをおっしゃいます! 承認欲求こそ、われわれ人間を突き動かす普遍的な欲求ではありませんか!(中略)他者から承認されてこそ、われわれは「自分には価値があるのだ」と実感することができる。(中略)わたしは両親からの承認が得られなかったからこそ、劣等感にまみれて生きてきたのです! 
(p. 132-133)

(中略)

青年 ごみを拾うのは「みんなのため」です。みんなのために汗を流しているのに、感謝の言葉ひとつもらえない。だったらやる気も失せるでしょう。

哲人 承認欲求の危うさは、ここにあります。いったいどうして人は他者からの承認を求めるのか? 多くの場合それは、賞罰教育の影響なのです。

青年 賞罰教育?

哲人 適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる。アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。ほめてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。そして誰からもほめてもらえなければ、憤慨するか、二度とこんなことはするまいと決心する。明らかにおかしな話でしょう。

青年 違います! 話を矮小化しないでいただきたい! 私は教育を論じているのではありません。好きな人から認められたいと思うこと、身近な人から受け入れられたいと思うこと、これは当たり前の欲求です!

哲人 あなたは大きな勘違いをしている。いいですか、われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」(太字は著者)のです。

青年 なんですって?

哲人 あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の期待など、満たす必要はないのです。

青年 い、いや、それはあまりにも身勝手な議論です! 自分のことだけを考えて独善的に生きろとおっしゃるのですか?

哲人 ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。あなたは、あなただけの人生を生きています。誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためです。そしてもし、あなたのために生きていないのだとすれば、いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか。われわれは、究極的には「わたし」のことを考えて生きている。そう考えてはいけない理由はありません。

青年 先生、あなたはやはりニヒリズムの毒に冒されている! 究極的には「わたし」のことを考えて生きている? それでもいい、ですって? なんと卑劣な考え方だ!

哲人 ニヒリズムではありません。むしろ逆です。他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きる(太字は著者)ことになります。 

青年 どういう意味です?

哲人 承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。 
(p. 134-136) 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 アドラーは自分勝手に生きることを推奨しているのではありません。

 「他者に与える」ことは生きる喜びの大事な部分です。ただ、「他者に与える」ことには2種類あります。

 1つは「自分を裏切って与える」。相手に嫌われたくないから、承認されたいから、自分の本心に反して与えるということです。

 もう1つは「自分を活かしながら与える」。与えることで相手の役に立つこと自体が喜びだから与えるということです。本心で与えたいと思ったことに限って与えます。

 前者の場合、自分の手に入るのは相手の承認からくる偽の自己肯定感です。これは自分への裏切りという高いコストを必要とします。

 後者の場合、相手の役に立ったという満足感・充実感があり、そのことで自然に自己肯定感と自信が湧きます。相手からの感謝や承認がたとえなかったとしても、与えることができたそのこと自体に喜びがあります。この場合、承認されることがゴールではありません。役に立つ喜びがゴールです。

 役に立つ喜びを味わうには、自分を偽ってはなりません。本当に与えたいものに忠実であることが不可欠です。

 アドラーは、この後者の生き方を勧めているのです。

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人と競争すると不幸になる

(これは2014年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 「嫌われる勇気」のコメンタリー第5弾です。

 なりたい自分になっていくのに役立つ「競争」と、自分らしく生きることを邪魔する「競争」があります。

 自分を育んでいくために、他人と切磋琢磨する「競争」なら、何も問題はありません。

 しかし、相手より優位に立つことを求める「競争」は、幸せを壊します。勝つことで自分の価値を確かめようとする「競争」においては、他人は敵であり、彼らの幸せを喜ぶことはできません。

 このような「競争意識」は、幸せの根幹である「共同体意識」の対極にあるものです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

哲人 対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。

青年 なぜ?

哲人 競争の先には、勝者と敗者がいるからです。

青年 勝者と敗者、大いにけっこうじゃありませんか!

哲人 具体的に、ご自分のこととして考えてみてください。たとえばあなたが、周囲の人々に対して「競争」の意識を持っていたとします。ところが競争には、勝者と敗者がいる。彼らとの関係について、勝ち負けを意識せざるをえなくなる。A君はこの名門大学に入った、B君はあの大企業に就職した、C君はあんなにきれいな女性と付き合っている、それに比べて自分はこんな具合だ、というように。
(p. 95)

(中略)

哲人 さて、このときあなたにとっての他者とは、どんな存在になると思いますか?

青年 さあ、ライバルですか?

哲人 いえ、単なるライバルではありません。いつの間にか、他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」だと見なすようになるのです。(中略)競争の怖ろしさはここです。たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも、競争のなかに身を置いている人は心の休まる暇がない。敗者になりたくない。そして敗者にならないためには、つねに勝ち続けなければならない。他者を信じることができない。社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争に生きているからです。彼らにとっての世界が、敵で満ちあふれた危険な場所だからです。
(p. 96)

(中略)

哲人 もしもあなたが、お兄さんやその他の対人関係を「競争」の軸で考えなかった場合、人々はどんな存在になると思いますか?

青年 まあ、兄は兄ですし、他人は他人でしょう。

哲人 いえ、もっと積極的な「仲間」になっていくはずです。

青年 仲間?

哲人 あなたは先ほどいいましたね? 「幸せそうにしている他者を、心から祝福することができない」と。それは対人関係を競争で考え、他者の幸福を「私の負け」であるかのようにとらえているから、祝福できない(太字は著者)のです。
 しかし、ひとたび競争の図式から解放されれば、誰かに勝つ必要がなくなります。「負けるかもしれない」という恐怖からも解放されます。他者の幸せを心から祝福できるようになるし、他者の幸せのために積極的な貢献ができるようになるでしょう。その人が困難に陥ったとき、いつでも援助しようと思える他者。それはあなたにとって仲間と呼ぶべき存在です。

青年 ううむ。

哲人 大切なのはここからです。「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方はまったく違ったものになります。世界を危険な場所だと思うこともなく、不要な猜疑心に駆られることもなく、世界は安全で快適な場所に映ります。対人関係の悩みだって激減するでしょう。
(p. 98-99)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 「あそこのAちゃんはできるのに、どうしてあなたはできないの?」「あなたも医者になるのよ」「勝ち組・負け組」・・・・

 人と比べられ、優位に立つことを求められた子どもは、心がすさんできます。

 あるがままの自分では価値がないと言われているのと同じだからです。「勝たなくては自分に価値がない」なんて嘘は捨ててしまいましょう。

 幸せになるためには、人の優位に立つ必要など全くありません。

 たとえば、Aさんはフォアグラが好き。で、私は納豆が好き。

 私はフォアグラは好きではないけれど、「フォアグラが好きな人のほうが納豆が好きな人より上だ」と思い込んだらどうでしょうか。

 Aさんに敵意を持ちますよね。そして、納豆しか好きになれない自分を嫌います。

 でもよく考えてみると、Aさんは優れたくてフォアグラを食べているのではなくて、好きだから食べている。私は納豆が好きなんだから納豆を食べているときに、からだは喜ぶ。

 優劣という概念を入れなければ、私は納豆を食べているとき幸せを感じられます。

 そして、Aさんがフォアグラを食べて美味しそうにしているとき、「へえ、あなたはそれが美味しいと感じるんだ」と納得し、それを受け入れ、むしろ喜んであげられます。

 Aさんがフォアグラを楽しむことが自分にとって脅威だと感じられるのは、それが自分の価値を下げると思い込んだときだけなのです。

 「フォアグラが好きな人にとってフォアグラを食べるのが幸せ」「納豆が好きな人にとって納豆を食べるのが幸せ」と思えれば、比較しようとはしません。

 私は私の幸せを生きるだけでいいのです。つまり、勝者も敗者もいないという世界に住むことができるわけです。

 たとえば、私は心理カウンセラーですが、心理カウンセラーよりも弁護士のほうが優れた仕事だと信じ込んだとしたら、弁護士が羨ましくなります。でも、私は心理カウンセラーを楽しんでいるので、他の仕事はしたいとは思いません。ですから、弁護士になりたくないので、弁護士が羨ましくはありません。

 自分が食べたいものを食べて人生を楽しんでいるとき、自分が嫌いな食べ物を楽しむ人が気にならないように、自分が楽しめる仕事をしているとき、自分がしたくない仕事をしている人が気になりません。

 自分の幸せと他者の幸せは衝突しないのです。

 つまり、自分が求めるものを純粋に追求できているとき、他者の幸福と比べようという発想は起きて来ない。ですから、自分が自分の求める自分に向かって進めているかだけが問題なのです。

 自分が生きたいように生きられているとき、他人とは競争するという発想がそもそも生じて来ない。

 自分を抑えて、自分を偽って、我慢して自分でないものになろうとしているとき、他人と競争することで勝ちたくなってしまう。それ以外に価値を感じることができないからです。

 自分に本当の充実感がないときに、人と比べてしまいます。そして、充実感がないのは、自分に忠実に生きていないからです。

 ですから、他人と比べて劣等感を感じたり、人が羨ましくなったりしたら、することはただひとつ。もっと自分に正直に生きるには今何をしたらいいのかを考えることです。もっと自分でいる充実感を味わうには、何ができるかを考えることです。

 その方向を見つけて進めば、他人と競争することなどつまらないと感じている自分を発見するでしょう。だって、自分らしく生きることは楽しいんですもの!
 
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劣等コンプレックスは言い訳である

(これは2014年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 「嫌われる勇気」のコメンタリー第4弾です。

 アドラーによれば、人間誰でも「向上したい」「理想の状態を追求したい」と思っている。つまり、「優越性の追求」をするようになっています。

 そして、目標に到達していない現在の自分に対して一種の「劣等感」を感じるものであり、それは健全なことだとしています。

 たとえば、志の高い料理人ほど、今の自分の腕に対して「まだまだだ」「もっと極めなくては」と感じる。

 このような、自分の理想とのギャップを感じることで生じる「劣等感」は、現状に満足せず、一歩でも前進しようとするときに役立つので、何も問題はありません。

 それに対して、「劣等コンプレックス」は全くの別物だと言います。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

哲人 アドラーもいうように、劣等感は努力や成長を促すきっかけにもなりうるものです。たとえば、学歴に劣等感を持っていたとしても、そこから「わたしは学歴は低い。だからこそ、他人の何倍も努力しよう」と決心するのだとしたら、むしろ望ましい話です。
 一方の劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のこと(太字は著者)を指します。具体的には「わたしは学歴が低いから、成功できない」と考える。あるいは「わたしは器量が悪いから、結婚できない」と考える。このように日常生活のなかで「A であるから、B できない」という論理を振りかざすのは、もはや劣等感の範疇に収まりません。劣等コンプレックスです。
(p. 81-82)

(中略)

哲人 たとえば先日も、「自分がなかなか結婚できないのは、子ども時代に両親が離婚をしたせいです」とおっしゃる方がいました。(中略)しかしアドラーは、目的論の立場からこうした議論を「見せかけの因果律」だと退けるわけです。

青年 それでも現実問題として、高い学歴を持っていたほうが社会的な成功を手に入れやすいのですよ! 先生だってそれくらいの世間智はお持ちでしょうに。

哲人 問題は、そうした現実にどう立ち向かうかなのです。もし「私は学歴が低いから、成功できない」と考えているとすれば、それは「成功できない」のではなく、「成功したくない」のだと考えなければなりません。

青年 成功したくない? どういう理屈です?

哲人 単純に、一歩前に踏み出すことが怖い。また、現実的な努力をしたくない。いま享受している楽しみーーたとえば遊びや趣味の時間ーーを犠牲にしてまで、変わりたくない。つまり、ライフスタイルを変える "勇気" を持ち合わせていない。多少の不満や不自由があったとしても、いまのままでいたほうが楽なのです。
(p. 82-83)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 「A であるから、B できない」が「劣等コンプレックス」だというのは、明快な説明ですね。


 私は以前、自分の容姿について「劣等コンプレックス」を持っていました。私は小さい頃からガリガリだったので、顔と言うよりは、胴体の「みすぼらしさ」に強烈な劣等感をもっていました。

 そして、貧弱な胴体をした自分が好かれるはずはないと思っていたわけです。ここまでくると、劣等感ではなくて、劣等コンプレックスですね。「自分は拒絶されるに違いない、この胴体のせいで」とずっと思い続けていたわけです。

 でも、私の胴体のことなんて、他人はほとんど考えていないんですよね。アハハハハ。

 まだ劣等感は少し残っていますが、今では劣等コンプレックスではなくなっていると感じます。

 自分が変わった原因はいろいろありますが、1つには、実際に多くの人と関わってきて、対人関係においては様々な課題があることが見えてきたことによって、自分の容姿の問題が相対的に小さくなったということがあります。

 また、自分を拒絶せず、好いてくれた人との出会いも大きかったですね。「そんな風に思う必要はないよ」と言われているようでした。

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傷つくのが怖いと自分嫌いになる

(これは2014年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 「嫌われる勇気」のコメンタリー第3弾です。


  今日は、傷つかないように傷つかないようにと生きていると自分が嫌いになるというお話です。

 傷つかないようにと自己防御すると、自分が出せません。自分が出せないと不満になります。そうすると、自分を満足させられない自分に嫌気がさします。自分が嫌いなので元気が出ません。元気が出ないので、自分がさらに出せなくなります。こういう悪循環に陥るのですね。

 ではどうするか。

 傷つかないなんてあり得ないのだから、勇気をもって自分を出して、自分らしく生きていこう、ということです。

 自分を出しても出さなくても、一部の人からは必ず嫌われます。否定されます。それを受け入れるのです。そうすると、怖いものはありません。

 好かれるか嫌われるかに関係なく、自分の本心で生きるとどうなるか。自分が満足させられるので、元気になります。勇気を出して生きている自分を見て、自信がどんどん出ます。そんな自分が好きになります。自分が自分を好きだから、多少嫌われても苦しくなくなります。

 他人の自分への評価ではなくて、自分の自分への評価が高くなる。これが幸せにとって大事なんですね。

 傷つくのが怖くて自分が出せない、そんな自分を好きになれる人はいません。でも、傷つくのが怖いけどそれでも自分を出す勇気を出せたとき、そんな自分を好きだと感じられるのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

哲人 なぜあなたは自分が嫌いなのか? なぜ短所ばかり見つめ、自分を好きにならないでおこうとしているのか? それはあなたが他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に怖れているからなのです。

青年 どういうことです?

哲人 (中略)あなたは他者から否定されることを怖れている。誰かから小馬鹿にされ、心に深い傷を負うことを怖れている。そんな事態に巻き込まれるくらいなら、最初から誰とも関わりを持たないほうがましだと思っている。つまり、あなたの「目的」は、「他者との関係のなかで傷つかないこと」(太字は著者)なのです。

青年 ・・・・・・。
(p. 68)

(中略)

哲人 対人関係のなかで傷つかないなど、基本的にありえません。対人関係に踏み出せば大なり小なり傷つくものだし、あなたも他の誰かを傷つけている。アドラーはいいます。「悩みを消し去るには、宇宙のなかにただひとりで生きるしかない」(太字は著者)のだと。しかし、そんなことはできないのです。
(p. 69)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
 アドラーは「すべての悩みは『対人関係の悩み』である」(p. 70)と言いました。

 もしこれが真実であるならば、「幸せは対人関係のなかにある」ということになります。

 そうすると、対人関係を避けることは、幸せを否定することとイコールだということです。

 自分嫌いの人は、対人関係に踏み込んで傷つくということを避けたい。対人関係を避けるので、幸せになれない。幸せになれないので自分嫌いは一層深まる。こういう悪循環に陥るわけです。

 自分が幸せであれば、自分嫌いにはなりません。

 ですから、どうすれば自分が好きになれるかというと、幸せになってしまえばいいのです。

 では、どうすれば幸せになれるかというと、勇気をもって対人関係に踏み込むことによってです。対人関係の悩みをひとつひとつクリアしていくことによってです。

 「否定されるのが怖い」「嫌われるのが怖い」を日常の具体的状況において、ひとつひとつ乗り越えて、それにコントロールされている自分から、それを克服した自分へと変わっていくのです。

 そうすれば、以前より幸せになっている自分、そんな自分を誇らしげに思っている自分、自信がついた自分になっていることに気づくでしょう。

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幸せになるには勇気が要る

(これは2014年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 「嫌われる勇気」のコメンタリー第2弾です。


 多くの人は、現在の「不満」と、新しい自分になる「不安」とが対立したとき、「不安」を避けて、慣れ親しんだ現状維持を選びます。怖いからです。

 「ああ、不満だあ。でも変わるのは怖いからやめとこ」ということです。でも不満はなくならないので、だらだらと不平を言い続けます。そして、勇気ある一歩を踏み出さない。

 そういうとき、アドラーなら、「勇気をもって、望む未来へ向けて前進しましょう」と言うでしょう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

哲人 人はいつでも、どんな環境に置かれていても変われます。あなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているから(太字は著者)なのです。

青年 なんですって?
(p. 51)
(中略)

哲人  つまり人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。

青年 変わりたいけど、変わるのが怖ろしいと?

哲人 ライフスタイルを変えようとするとき、われわれは大きな "勇気" を試されます。変わることで生まれる「不安」と、変わらないことでつきまとう「不満」。きっとあなたは後者を選択されたのでしょう。

青年 ・・・・いま、また "勇気" という言葉を使われましたね。

哲人 ええ。アドラー心理学は、勇気の心理学(太字は著者)です。あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ "勇気" が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていない(太字は著者)のです。 
(p. 52-53)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 勇気って本当に大事なのだなあと再確認しました。

 考えてみると、人間として生きていくとき、勇気は必要ですよね。そして、誰にでも勇気はあるのではないかと思います。これまで出してきた自分の勇気に気づいてみましょうよ。

 私が小さなころ、はじめてひとりで歯医者さんに行くとき、とても怖かったです。でも、頑張って行きました。それから、はじめて歯を抜いてもらうときに、歯茎に注射をされると知って、これまたとても怖かった。両親に、「ねえ、どれぐらい痛いの?これ位?」と言って、手をつねった覚えがあります。

 子供のころ、ピアノの発表会で暗譜で曲を弾かなくてはなりませんでした。ドキドキハラハラでした。でもそれも乗り越えました。

 はじめて外国人に電話をかけて英語でしゃべったときは、怖かったです。ちゃんと言えるかなあ、通じるかなあと。勇気が要りました。

 はじめて好きな女の子に告白するときは怖かったです。でも勇気を振り絞って伝えました。

 金沢で10年間経営した英語教室・ピアノ教室を畳んで、心理カウンセラーとして出直そうと決心したときは、うまくいくか不安でした。でも本当にやりたかったことだったので、勇気を出して前に進みました。本当に良かったです。

 こんな風に、新しい自分になるために、一歩一歩勇気を出して進んできた自分がいます。

 そして、皆さんもきっと、これまで何百回、何千回と勇気を出して前進して来られたからこそ、今の自分がいるのだと思うのです。

 だから、次の新しい自分になれないはずはない、そう思います。

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人を羨む人は自分を生きていない

(これは2014年12月に投稿した記事の復刻版です。)

 2014年のベストセラーに次の本があります。


 岸見一郎・古賀史健共著『嫌われる勇気ーー自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイアモンド社)。

 これを書いている時点で、アマゾンのカスタマーレヴューでは、673人中458人(68%)が最高の五つ星を、103人(15%)が四つ星を与えており、多くの人に共感されている本であることが分かります。 

 この私も大変感銘を受けたひとりであり、その内容と私のコメントとを、数回に分けて書いてみることにします。

 本書から引用している箇所を除いて、私自身の表現であることをお断りしておきます。

 「嫌われる勇気」は、哲人と青年との対話という形で進んでいく本です。

 この青年は、自分より恵まれていて人からも愛されている(と感じている) Y という男を羨ましく思っています。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

青年 わたしの友人に、いつも明るくて初対面の誰とでも屈託なく話せる、Yという男がいます。みんなから愛され、周囲の人々を一瞬で笑顔にしてしまう、ひまわりのような男です。一方、わたしはどうにも人付き合いが苦手ですし、いろいろと屈折したところのある人間です。さて、先生はアドラーの目的論によって「人は変われる」と主張されるわけですね?

哲人 ええ。わたしもあなたも、人は誰でも変われます。

青年 では先生、わたしはYのような人間になれるとお考えですか? 無論、わたしはYのようになりたいと、心から願っているのですが。

哲人 この段階で申し上げるとするなら、およそ無理な相談でしょう。
(p. 39)

(中略)

哲人  そもそもあなたは、どうしてYさんのような人間になりたいと思うのですか? Yさんであれ、あるいは他の誰かであれ、あなたは別人になりたがっているわけです。その「目的」とはなんでしょうか?

青年  また「目的」の話ですか。先ほども申し上げたでしょう、わたしはYのことが好きだし、もしも彼のようになれたら幸せだと思うからですよ。

哲人 彼のようになれたら幸せだと思う。ということはつまり、あなたはいま幸せではないわけですね?

青年 なっ・・・!!

哲人 あなたはいま、幸せを実感できずにいる。なぜなら、あなたは自分を愛することができていない。そして自分を愛するための手段として、「別人への生まれ変わり」を望んでいる。Yさんのようになって、いまの自分を捨てようとしている。違いますか? 

青年 ・・・・ええ、そのとおりですよ! 認めましょう、わたしは自分が嫌いです!
(p. 42-43)

(中略) 

哲人 いいですか、どれほどYさんになりたくても、Yさんとして生まれ変わることはできません。あなたはYさんではない。あなたは「あなた」であっていいのです。
 しかし、「このままのあなた」でいていいのかというと、それは違います。もしも幸せを実感できずにいるのであれば、「このまま」でいいはずがない。(太字は著者)立ち止まることなく、一歩前に踏み出さないといけません。 

青年 手厳しいお話ですが、たしかにそうです。このままのわたしでいいはずがない。前に進まなければならない。

哲人 再びアドラーの言葉を引用しましょう。彼はいいます。「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである(太字は著者)」と。あなたがYさんなり、他の誰かになりたがっているのは、ひとえに「なにが与えられているか」にばかり注目しているからです。そうではなく、「与えられているものをどう使うか」に注目するのです。
(p. 43-44) 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 人生は料理と同じだなあと私は思うことがあります。

 羨ましいと思う誰かさんは、私が持っていない食材を与えられているのです。「ああ、あの人はあんなにいい食材を与えられている。羨ましい。私が彼(女)だったらなあ!」と思っている限り、私は不幸です。

 どれだけ羨んでも、その食材は私の元には来ません。

 そして、ここが大事なところなのですが、「幸せになるために必要なものが自分には与えられていない」と思うこと自体が誤りなのです。「自分には何々がないから不幸なのだ」という発想が間違っているのです。

 そう、私が幸せになるのは、自分が持っている食材で、美味しい料理が作れたときです。

 自分が持っていない食材についてあれこれ考えるのではなく、持っている食材を最大限に活かして、自分にしか作れない料理を作れた喜びを感じたとき、私はもはや「自分があの人だったら」とは思わなくなっています。

 「私の食材でよかった」と思えるのです。

 ということは、私が幸せになるには、自分の食材をよく知らなくてはなりません。そして、その食材がどうすれば美味しくなるのかを研究しなくてはなりません。

 そうやって自分を活かすことに忙しくしていたら、持っていない食材について考えている暇はないのです。

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