菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2018年04月

欲求は意思で選べない

 欲求をどのように満たすかにおいて多様な選択があり得ますが、欲求そのものを自分の意思で作り出したり無くしたりすることはできません。

 つまり、欲求は自分の意思とは無関係に存在するものです。

 人間なら誰でも「愛の欲求」「尊重の欲求」「自由の欲求」「美の欲求」「成長の欲求」「自己実現の欲求」などを持っています。そして、それらが満たされたとき嬉しく感じ、満たされないとき不満になるのですが、そのメカニズム自体をコントロールすることはできません。

 例えば、人間なら誰でも「尊重されること」を求めます。そして、尊重されれば気持ちがいいし、尊重されなければ気持ち悪い。もちろん、尊重されたかされないかを判定するにはその人の「認知」が関わってきますので、「尊重されなかった」と認知された場合のすべてにおいて実際に「尊重されなかった」のかどうかは吟味しなくてはなりませんが、現実と認知のあいだにズレがないという仮定のもとで話を続けますと、尊重されたことで気持ち悪くなり、尊重されないことで気持ちよくなるという逆の反応を自分で選ぶことはできないのです。

 人間は自分を満足させるものを選ぶことはできません。例えば、自分にとって美味しいと感じるものをまずいと感じたり、まずいと感じるものを美味しいと感じることはできないのです。欲しいものを欲しくないと感じたり、欲しくないものを欲しいと感じることもできません。自分が惹かれる相手も選べません。好きだと感じるものを嫌いだと感じる自由や、嫌いだと感じるものを好きだと感じる自由もないのです。

 つまり、欲求というものは素直に従って満たしてあげるのがいいということになります。

 ただ、これは「したい」と感じることはすべて「するのがいい」、「したくない」と感じることはすべて「しないのがいい」という意味ではありません。

 というのは、私が「欲求」と呼ぶものと「したい」という「特定の願望」との間には距離があり、この2つは同じものではないからなのです。

 もし「欲求」と「願望」が同じものであれば、私の理論に従うなら、「一日中、酒を飲んでいたい者は酒を飲んでいればいい」「給料のすべてをギャンブルに費やしたい者はそうすればいい」ということになってしまいます。けれども、「一日中、酒を飲んでいたい」「給料のすべてをギャンブルに使いたい」というのはすべての人間によって共有されている「欲求」ではありません

 「欲求」か「願望」かを見極める簡単な方法があります。それは「すべての人間に共有されているか?」と問うだけです。「イエス」なら「欲求」、「ノー」なら「願望」だと言えます。

 例えば、「学びたい」はすべての人間に共有されているので「欲求」です。けれども「大学に行きたい」は一部の人間だけが持つ「願望」です。「大学に行きたい」はより根元的な「学びたい」の1つの表れだと考えられます。

 ほとんどの人間にとって「一日中、酒を飲むこと」も「給料のすべてをギャンブルに使うこと」も気持ち悪いことです。こういう「願望」を持たない人の方が数は多い。なぜなら、これらの「願望」は私たちの根元的な「欲求」を満たさないからです。

 では、なぜ一部の人間はこのような「願望」を持ってしまうのか。それは、何らかの「欲求」が満たされていないからであり、その満たされていない辛さから逃れるために「代替物」としての快楽を求めるからです。

 つまり、本当に満たしたいものから目を背けているという事情があるものと推測されます。そして、本当に自分を満たすものを理解し、それを満たしてあげることができれば、これらの「願望」は消滅するのです。

 劣等感が強い者ほど虚勢を張ります。虚勢を張りたい願望は自己肯定感のある者には生じません。「自己肯定の欲求」が満たされていないからこそ、虚勢を張ることで補おうとしてしまうわけです。「自己肯定すること」は欲求であり、「虚勢を張ること」は欲求ではなく願望に過ぎません。

 「自己肯定すること」の方がはるかに深く根本的なものなのです。「自己肯定の欲求」を平たく言えば「自分という存在について肯定的に感じたいという気持ち」となります。

 ということで、私はカウンセリングをするとき、クライアントさんの「欲求」と「願望」をはっきりと区別して扱います。「願望」はそのまま満たしてあげるべきかどうか吟味しなくてはなりません。けれども「欲求」は必ず満たしてあげる方向に進むべきものなのです。ずっと満たされていない「欲求」は満たされるまでその人を放してはくれません。満たされることを求め続けます。ですから、どのように上手に満たしてあげるかを考える必要があるのです。それ以外に解決の方法はありません。

 健全な状態では「欲求」がまっすぐ「願望」という形となって表れており、後者は前者の表現形態なのですが、不健全な状態では「欲求」と「願望」との間に混線や断絶があり、後者は前者の表現形態として信用できません。

 従うことで満たしてあげても不幸が深まるようなものは「不健全な願望」です。この人の中では「健全な欲求」というものが埋れていて、本人が自覚できない状態にあります。やりたいようにやっているとどんどん苦しみが深まってしまう。これは辛いです。

 こういう場合、カウンセリングではご本人が自分の「健全な欲求」を感じられるように自己治癒のプロセスを支援します。


「欲求」を捨てることはできない
だが「願望」を捨てることはできる

「欲求」は意思でコントロールできない
だが「願望」は意思でコントロールできる

「尊重」と「尊敬」

 英語の "respect" は「尊重」や「尊敬」と訳されます。

 「愛」に無条件の母性愛条件つきの父性愛があるように、「リスペクト」にも無条件の尊重条件つきの尊敬があるというのが私の考えです。

 「尊敬」されるには、それだけの資質、能力、達成がなくてはなりません。偉業を成し遂げた人が尊敬され、成し遂げない人は尊敬されない。高い能力を身につけた人が尊敬され、身につけていない人は尊敬されない。心の広い人が尊敬され、狭い人は尊敬されない、という風に、「尊敬」はされる者とされない者とに二分されるからこそ意味があるわけです。能力があってもなくても尊敬される、資質があってもなくても尊敬されるというのでは、尊敬が尊敬たる所以がありません。

 それに対して、「尊重」されるには、条件が要りません。資質、能力、達成がなくても、その人を無下に扱ってよいことにはなりません。すべての人は尊重に値するのです。尊重するとは、大事に扱うということです。立派な意見もそうでない意見も尊重する。丁寧に受け取る。もちろん、同意はできなくていい。能力の高い人だけを丁寧に扱って、能力の低い人を無下に扱うことはしない。人間として存在するだけでその人には尊厳というものがあるからです。

 このように、「尊重」と「尊敬」は違います。ですから、同じ人を「尊重」はするが「尊敬」はできないということがあるわけです。

 「尊重」と「尊敬」は異なったままで両方とも必要なものだと考えます。

「渇望」と「拒絶」の奥を探る

(これは2017年4月に投稿した記事の復刻版です。)

「渇望」と「拒絶」とは

 「しつこい感情パターン」(怒り、悲しみ、怖れ、自己否定、執着で強迫的なもの)には「渇望」と「拒絶」が関わっています。

 「渇望」は「欲しい欲しい欲しい」と強く求める気持ち。「拒絶」は「絶対にイヤだイヤだイヤだ」と強く嫌悪あるいは恐怖する気持ち。

 人間はこの2つの動きによって苦しめられます。

 「渇望」と「拒絶」は常にセットで現れます。「好かれることへの渇望」は「嫌われることへの拒絶」とイコールで、同じことを逆方向から見たに過ぎません。

 いくつか例を見ていきましょう。

 渇望:常に誰かと恋愛関係でいなくてはならない
 拒絶:ひとりでいるのは絶対に受け入れられない

 渇望:毎晩お酒を飲まなくては気が済まない
 拒絶:お酒を飲めないのは受け入れられない

 渇望:妻は外で働かず家にいなくてはならない
 拒絶:妻が外で働くことは受け入れられない

 渇望:息子はいい大学に行かなくてはならない
 拒絶:息子がいい大学に行かないのは受け入れられない

プラスとマイナスを交互に想像することで、奥にあるルーツが体感できる

 「渇望」と「拒絶」のパターンは無意識の「必要性」から生まれます。そこには「痛み」があり、その「痛み」に対する反応として「渇望」と「拒絶」があるのです。

 そして、「無意識の痛み」を意識化することで、「渇望」と「拒絶」は止みます

 「無意識の痛み」を意識化する1つの方法は、「渇望」が満たされたシーンと「拒絶」したいことが現実になったシーンを交互に想像するというシンプルなものです。

 このとき注意が必要なのは、満たされたときのプラス感情も満たされないときのマイナス感情もしっかりと体感することです。知的作業としてするのではなく、感情をしっかりと動かして体で感じることが大事です。

 例として、次のパターンをもつ男性を想定してみましょう。

 渇望:息子はいい大学に行かなくてはならない
 拒絶:息子がいい大学に行かないのは受け入れられない

 彼には「息子が実際にいい大学に通っているところ」をイメージしてもらいます。いい気持ちがしてくるはずです。「嬉しい」とか「ホッとした」とかプラス感情が「今ここ」で体に実感できるはずです。

 次に、「息子はいい大学に通っていない」というシーンを想像してもらいます。このときに湧いてくる感情をそのままで味わってもらいます。「落胆」「怒り」「怖れ」「悲しみ」など、どれが出てくるかわかりません。とにかく、あるがままの感情を味わい、あれこれを思考しないようにしてください。

 「考えるモード」に入ると「感じる」ことが疎かになります。考えずに「ただただ感じる」だけで結構です。

 「プラスのシーンを想像してプラス感情を感じる」、そして「マイナスのシーンを想像してマイナス感情を感じる」。これを何回か繰り返すと、だんだん苦しくなる箇所(体の部位)が見つかるはずです。たとえば、みぞおちが固く痛くなってくる。あるいは、胸が締め付けられるように痛んでくる。下腹部が冷たく固くなってくる。

 このように、「楽ではない」「痛い」「気が流れない」「緊張する」と感じる肉体部位に「無意識の痛み」があります。

出て来た「痛み」と交信する

 このように苦しく感じる肉体部位が特定できたら、そこにそっと意識を向けて寄り添います。

 「渇望」と「拒絶」を生んでいる根本原因が、そこに埋もれています。あとは、そこに意識を向けて交信をして、内容を共感的に受け取っていけば解決に向かうのですが、それには基礎的技術が必要です。

 その基礎的技術は共感的な傾聴やヴィジュアリゼーションなど、いろいろなところで学べますので、ここでは割愛します。

 この記事では、「渇望」と「拒絶」に伴う感情を交互に刺激することで、心の奥にある問題を体の表面に導き出してくる方法があるというお話をいたしました。

 

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(2018年10月更新)
 

愛を動機として生きる

 私は愛を動機として生きています。

 愛を動機として生きていると言うと、何か大袈裟なことのように聞こえるかもしれません。

 けれども、これは誰にでもできることだと私は思っています。

 愛を動機として生きるとは、仏陀やキリストのような特別な存在しかなし得ない高尚なことだと思う方もいらっしゃるでしょう。

 実際は、意図さえあればできることです。

 まず、あらゆる人の幸せを願うというところから始めます。(人間だけでなく生きとし生けるもの幸せを願うのでももちろん構いません。)

 誰に対しても「傷つける」という意図を持たないと決めるのです。

 自分の存在が、世界全体にとってプラスの貢献ができるようにという気持ちを人生の根幹に据えます。

 何をするにしても、自分のためになるか、誰か他の存在のためになるか、どちらかの動機で行い、悪意をもって自分に対しても他者に対しても接しないと決めます。

 これだけです。

 愛というのは、それを向ける対象に対して「幸せであって欲しい」という気持ちがあることだと言えます。

 愛は、あらゆる善意の源です。

 ただ、愛は自分にも他人にも強制してはいけません。愛は自発的で能動的なものであり、またどのような形で与えられるかは、その場その場で違います。

 相手の求めに応えられなくても、そこに愛がないとは限りません。応えないことが自分への愛だったり、相手への愛でもあることがあるのです。

 例えば、自分の限界を超えた要求なら、「それは私には無理です」と言って断ることは、自分への愛です。相手への悪意から断るわけではない。自分を大事にするために断るんです。

 相手の望みに応えてしまうと、相手を甘やかしてダメにしてしまうという場合もあります。そういう場合は、相手のことを考えて断るのが愛です。相手を本当の意味で大事にしたいから断るんです。

 このように、何もしないことが愛であることもあります。相手の幸せを願うからこそ何もしないということもあるのです。

 自分が必要としている愛を拒んで、他者だけに愛を与えるという禁欲精神を美化することに私は賛成ではありません。イエスは「隣人を汝と同じように愛せ」と言ったのであって、「隣人を汝自身よりも愛せ」とは言っていないのです。


 つまり、「他者を大事にすると同じぐらい自分自身も大事にせよ」というメッセージが隠されていると私は考えているんです。

 愛を動機として生きるということは、自分も含めたすべての人を愛するということであって、除外する人が出てくるなら、それは愛ではありません。

 エーリッヒ・フロムは、家族だけ愛して、その他の人は愛さないとすれば、それは愛ではないと言っています。本当の愛というのは、生き方の全体に関わることであって、対象が限定されるものではないのです。

 愛を動機として生きるということを別の言い方で表現すれば、「人間愛を生きる」となります。

 仕事において「愛を動機として生きる」「人間愛を生きる」とはどういうことか、少しお話ししましょう。

 自分が仕事をすることで、相手の幸福に貢献したい。そういう気持ちが根底にある。そして、その気持ちに反することは一切しない。これだけです。

 相手に有益だと思ったことはする。害があると思ったことはしない。

 また、自分に対しても愛で接する。つまり、自分に負担が重すぎることや、やりたいと思えないことは断ってあげるということです。

 簡単に言ってしまうと、「自分と相手の双方に有益なことだけをする」ということになります。

 これを、あらゆる人間関係に応用すると、「自分と相手の双方に有益な関わりだけをする」ということです。

 有益なことが何もできないなら、何もしない。

 これが私が考える愛に基づいた根本原理です。

 意図さえあれば、どんな人でもできるということがお分かりいただけたでしょうか。

親子愛や異性愛の前に兄弟愛がなくてはならない

 フロムが言うように、兄弟愛があらゆる愛の基本だと思います。

 兄弟愛というのは、人類全体に対する愛であり、そこには差別や主従関係の入る余地はありません。兄弟愛においては、愛の対象とならない人はいないすべての人の幸福を願うのであり、全員は対等な関係にあります。

 フロムによれば、イエスが教えた隣人愛は兄弟愛と同じです。兄弟愛を生きるということが、イエスの体現していたものでした。

 さて、愛には親子愛異性愛などもあります。これらの愛は兄弟愛と違って排他的です。つまり、対象にできる相手が限られています。それから、愛の性質自体も十全的ではなく部分的です。

 例えば、父性愛は自立に向けて促したり、基準を教えたり、責任感や問題解決能力を育んだりします。けれども、あるがままの相手を無条件で受け止めてあげることはできません。それは母性愛の特質なのです。そして、無条件受容ができる母性愛も、父性愛の助けがなければ、相手の依存を許してしまい、自立を阻害してしまうという欠点を持っています。

 このように、親子愛には偏りがあるため、親子愛だけに支配された人間関係は人間の成長には好ましくありません。

 私は、親子の間であっても、まず根本的には兄弟愛の関係でなくてはならないと考えています。つまり、対等な存在としてお互いの固有性を尊重し「所有し合わない」ということです。

 親はひとりの人間として、まず人類全体への愛に生きている。兄弟愛がまずある。そして、自分のところに子供としてやってきた存在に対して親の愛を注ぐことによって、人類全体を愛するというより大きな目的の一部を担っているに過ぎないと解釈するのです。

 世界がこの子を愛するのである、そのための媒体に自分がなっていると捉える。兄弟愛の1つの現れとして親子愛を実践する。

 そうすると、この親は自分の子供を「自分の所有物」とは見なしません。世界から借りているのです。世界に代わってこの子が自立できるまで父性愛と母性愛を注ぐという仕事を務めます。

 この子が自立すれば父性愛と母性愛を必要としなくなります。親が要らなくなります。親子愛に執着している親であれば、これは受け入れることができません。けれども、兄弟愛がベースにある関係であったならば、親子愛が必要なくなったとき、兄弟愛の関係になれます。独立した大人同士として尊重し合える関係になれるのです。

 異性愛の関係でも同じことが言えます。フロムは、性的関係においても、兄弟愛がベースにあるものは長く続くけれども、兄弟愛がないものは続かないと言っています。

 つまり、男と女の関係というものは重要なのですが、男と女としてだけの関係というものは壊れやすい。異性愛だけに支配された関係というものは安定しない。

・・・異性愛が同時に兄弟愛でないときは、その合一はつかのましか持続しない。性的に引かれあう二人は、ほんのつかのま、合一の幻想を抱くが、もしそこに愛がなければ、その「合一」によっても二人は以前に劣らず離れ離れのままである。

   エーリッヒ・フロム『愛するということ』p. 88
(太字は菅波)

 やはり、異性愛の前に兄弟愛がなくてはならない。男性や女性である前に、対等な存在として尊重し合い、お互いの幸せを願っているという兄弟愛が異性愛より深いところにあることが大事なんだと思います。

 そして、兄弟愛に根ざした異性愛においては、そのパートナーシップが決して排他的なものに留まらず、人類全体を愛するというより大きな仕事の一部としての愛情関係になるわけです。

 それに対して、兄弟愛に根ざしていない異性愛関係というものは、自分たちだけの世界に閉じこもっている自己中心的なものになります。二人だけの幻想の世界に酔っているような人がいますよね。

 私は人間が成熟して個性化し、自己実現していくプロセスを、その人を通して愛が実現されていく道のりだと捉えています。

 愛が成熟するということがその人の成熟であり、愛が未熟のままであるということがその人の未熟さそのものなのです。

 人が成熟した愛を体現する存在になるためには、親子愛や異性愛の前に兄弟愛によって方向づけられていることが必須条件だと思います。

成熟とは自分の父となり母となること

 未熟な人は、自分の外に父と母を必要とします。

 成熟するにつれて、父性愛と母性愛が自分の中に育まれていくと、外に父と母を求める必要がなくなっていきます。自分の必要とする父性愛と母性愛は、自分の中で得られるようになるわけです。これは、いわば、自分自身の父となり母となることだと言ってよいでしょう。そうすると、父性愛と母性愛をもらう存在から与える存在になるのです。

 父性愛と母性愛を与えられる存在になること、それが成熟だと言えます。

 さて、多くの人は、自分自身の中に父性愛と母性愛を発達させる過程で何かがうまくいきません。そして、肉体的・社会的には成人年齢に達したのにもかかわらず、情緒的にはまだ父性愛と母性愛を外からもらわねばならない子供のままです。

 情緒的には子供ですから、愛情関係において相手に親の愛を求めます。愛する能力はまだ十分に育っていませんから、愛するためではなく愛されるための恋愛や結婚をするわけです。

 健全な父性愛と母性愛を親からもらった人は、自分の中に健全な父性愛と母性愛を育んでいきやすい。けれども、現実の多くの家庭では、親の愛が弱かったり、あるいはマイナス面が強く出ていたりするため、父性愛と母性愛のどちらか一方あるいは両方への欲求が満たされないまま大人になるわけです。

 父性愛への渇望が満たされていない大人は、父性愛に執着し、父性愛を提供してくれる人にしがみつきます。また、母性愛への渇望が満たされていない大人は、母性愛に執着し、母性愛を提供してくれる人にしがみつくのです。

 このように、愛する能力の発達に支障が出ている状態を「神経症」と呼びます。

 エーリッヒ・フロムは『愛するということ』の中で、神経症の例をいくつか挙げています。

 1つは、母親に愛情はあるけれど、甘すぎたり支配的だったりして、かつ父親が弱くて子供に関心がない場合。この子は、健全な父性愛をほとんど受けていませんから、自分の中に父親的な資質が育たないことになります。つまり、規律、独立心、自分で自分の人生をコントロールする能力などが欠如しているわけです。そして、母性愛のマイナス面が出ている。つまり、自立を促すことができず、いつまでも依存的融合状態を継続してしまうということです。このように育った子は、大人になっても、ずっと母親的存在を自分の外に必要とします。

 この人は健全な父性愛を必要としていますが、必要としているということさえ本人には分かりにくい。というのは、そういうものをもらった経験がそもそも欠如しているからです。母性愛によって甘やかされてしまったわけです。

 もう1つは、父親が権威主義的で子供に執着している場合、子供は父性愛に執着します。その1つの例が強迫性神経症です。強迫性というのは「こうあらねばならない」という硬直した価値基準を暗示していますが、これは父性的病理だと言えます。自分に対して不可能なことを要求してくる父親に好かれようとしてきた子供は、不健全な父性愛に執着してしまうのです。

 このような神経症の方がカウンセリングを受けに来たとき、彼らが渇望している父性愛や母性愛について客観的に理解してもらいます。そして、それらを自分の中に育てていく作業を支援するわけです。

 例えば、母性愛が足りていない人は、無条件で自分のことを受容できていません。ですから、あるがままの自分を優しく受け入れるという心を育んでもらいます。また、父性愛が足りていない人は、判断基準というものを自分の中でしっかり持つとか、他人と自分との境界線をしっかり引くとか、自分の決断に自分で責任を負うとか、依存から自立へと自分を励ますとか、そういう態度や行動を実践してもらいます。

 成熟過程に必要だったけれども両親から得られなかった分を、カウンセリングにおいて補うわけです。そして、自分で自分をもういちど育てていきます。

 自分で自分を育てていくという作業を通して、自分が自分自身の父となり母となっていくわけです。

 そうやって、自分を愛せるようになると、他者もまた愛せる人へと成長している。こうやって、神経症が克服され、成熟した人間性が実現されていくのです。


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男性的病理と女性的病理

 すべての人間には男性的心理と女性的心理がありますが、男性的心理が勝っている人を「男っぽい」、女性的心理が勝っている人を「女っぽい」と言うわけです。

 男性的心理にも女性的心理にも長所と短所があります。

 例えば、男性は自己主張をしたり、欲するものに真っ直ぐ向かっていくことが上手ですが、相手の気持ちを聞くことが苦手です。それに対して、女性は相手の気持ちを聞くことが上手ですが、自己主張をしたり、欲するものに真っ直ぐ向かっていくことが苦手です。

 また、男性は考え方をなかなか曲げません。しっかりしているとも言えますが、頑固だとも言えます。それに対して、女性は考え方が柔軟です。相手に合わせるのが上手である一方で、相手にすぐ呑み込まれてしまうという弱さもあるわけです。

 このように、男性的心理と女性的心理は対極にあり、お互いを補完し合っています。

 優柔不断な男がしっかり者の女に惹かれるという場合、男の中にある女性性が女の中にある男性性に惹かれているのです。

 さて、男性的心理も女性的心理も、成熟していれば主に長所が発揮されますし、未熟であれば主に短所ばかりが出ることになります。

 例えば、男性的心理の特徴である「自己主張」は、成熟した形においては、相手の気持ちも十分に聞いた上での非攻撃的なものとなりますが、未熟な形においては、やんちゃで我がままなものになります。

 また、女性的心理の特徴である「他者受容」は、成熟した形においては、自分というものをしっかり持った上での非服従的なものとなりますが、未熟な形においては、自分のニーズを無視した自己犠牲的迎合になるわけです。

 未熟な心理が行き過ぎると、それぞれ「男性的病理」「女性的病理」と言ってもよい性格となります。

 「男性的病理」とは、相手を自分を満たす道具としてしか見られないこと、相手を思い通りに支配し虐めることで自分の力や価値を感じようとすることです。「サディズム」と言います。

 「女性的病理」とは、自分を相手を満たす道具にしてしまうこと、相手の思い通りに支配されることで孤独や無力感から解放されようとすることです。「マゾヒズム」と言います。

 未熟な男性性はSに流れやすく、未熟な女性性はMに流れやすい。

 例えば、自分というものをしっかり持てていない未熟な女性が、押しの強い男性に惹かれて恋に落ちる。彼女は自己主張ができないので、しっかり自己主張ができる男性を魅力的だと感じる。「頼もしいなあ」と思うわけです。ところが付き合ってみると、彼は何でも自分の思い通りにならないと怒り出す。その度に「どこが悪かったのかなあ」と反省し、もっと喜んでもらえるように努力する。これがしばらく続くと、彼女は尽くしても尽くしても愛されているように感じられないのでイライラしだす。

 こうやって、だんだんと、彼には愛する能力があまりないということに気づいていきます。そして、自分が自分を大事にしていないことにも気づいていきます。

 相手の「サディズム」と自分の「マゾヒズム」に気づいて、自分の病理を克服できたなら、より成熟した女性的心理を体現する方向に向かえるでしょう。

 愛する能力が成熟した人の中では「サディズム傾向」と「マゾヒズム傾向」の両方が乗り越えられており、自分も相手も本当の意味で大事にしながら、バランスのとれた人間関係を築けるようになっているわけです。

 けれども、「サディズム」と「マゾヒズム」は、客観視できなければ治すことはできません。多くの人は自覚できていないのです。自覚できていないということは、「サディズム」や「マゾヒズム」と一体化していることを意味します。

 なので、まず大事なのは、「サディズム」や「マゾヒズム」に気づくことです。


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過去の選択を悔やんでいるなら

 「過去の選択が間違っていた」と思っていつまでも悔やみ続けている人がいます。

 例えば、「結婚相手を間違えてしまった」「進学先を間違えてしまった」「就職先を間違えてしまった」と思っている人です。

 そして、
「あの時に私の人生は狂ってしまった」と悔やみ、現在の不幸の原因をすべてその「1つの間違った選択」に求めています。こうした後悔の生活を10年、20年、30年と過ごしているのです。

 こういう人に共通しているのは、
現在と未来を良くするための能動的な努力をしていないということ。

 「自分の人生を改善するにはもう遅すぎる」と解釈して、もっと満足のいく人生を切り拓いていこうとはしません。

 「間違っていた」と思っているその選択には、「正しかった」という面が必ずあります。その選択をして良かったことを挙げてみてください。

 また、その選択をしたことで学んだことが必ずあります。
その選択をしなければ学べなかったことは何ですか?

 その学びを大切にして現在と未来に活かせば、もっと幸せになれます。


 過去から学ぼうとしていないことが、不幸であり続ける原因なのです。

 今の自分が不幸なら、それは過去の選択のせいでは決してありません。

 それは、
幸せになる選択を今ここでしていないからです。

 最も重要な選択はつねに「今ここ」でなされる選択なのです。



「観念」を使って相手を動かそうとすることの問題

 「勉強をしない子供」に「勉強をすることは大事だ」とか「勉強するのは誰のためでもない自分のためなんだ」とか「勉強しないと後で後悔する」などという「観念」を使ってなんとかこの子に勉強させようとする親がいます。

 「料理や掃除をあまりしない妻」に「家事をちゃんとするのが妻の務めだ」とか「その程度できなくて人間としてどうする」とか「誰でもそのぐらいのことはやっている」などという「観念」を使ってなんとか妻に家事をさせようとする夫がいます。

 「遅刻する人」に「遅刻することはいけないことだ」とか「遅刻することは無責任だ」とか「遅刻するのは気がたるんでいる証拠だ」などという「観念」を使ってなんとかこの人に時間を守らせようとする人がいます。

 「観念」で相手を動かそうとするとき、「こういう風に考えて行動するべきである」というある種の思想を伝えているわけです。 

 もしも相手がこの思想に心から同意できれば、それに従うでしょう。

 しかし、多くの場合、相手は同意できず、従いたい気持ちになりません。

 つまり「正しさ」を主張することで相手を動かせることは、むしろ稀です。

 そもそも、なぜ相手を動かそうとしているのでしょうか?

 自分側に「勉強して欲しい」「家事をして欲しい」「時間を守って欲しい」という要求があるからですよね。

 このような要求をストレートに表現せずに、「観念」という間接的な形で表現しているため、「心」がまったく伝わりません。

 もし、この親が「お父さんはお前に勉強して欲しいと思っている」と言えたなら、夫が「もっと家事をして欲しいと思っている」と言えたなら、遅刻する人に「時間通りにきて欲しい」と言えたなら、望んでいることがストレートに伝わります。

 こうなると、「観念」のやりとりではなく、「気持ち」のやりとりというコミュニケーションになるわけです。もっと心の内側を伝えようとしています。

 「勉強すべきか否か」「家事をすべきか否か」「時間を守るべきか否か」という観念上の議論をしてもしょうがない。

 「なぜ勉強して欲しいのか」「なぜ家事をして欲しいのか」「なぜ時間を守って欲しいのか」を話し合うなら、それは気持ちの交流になるんです。

 気持ちの交流に善悪は用いません。何が満たされるか満たされないかという話をするだけです。

 「あなたが遅刻してくると、私はその間待っていなくてはならない。それから何があったのかと気を揉んでしまう。私の時間や都合を慮ってくれていないと感じて居心地も悪い」「だから時間を守って欲しい」「時間を守ってくれたら、私は待つ必要がない。何があったのかと気を揉むことからも解放される。私の時間や都合を慮ってくれていると感じて気持ちもいい。なのでそうしてもらえると嬉しい」という風に自分の気持ちとニーズ(必要としていること)を伝えるんです。

 この言い方の中には、「どうあるべきか」という「観念」や「思想」はいっさい入っていませんよね。

 「欲しいこと」と「なぜ欲しいか」を純粋に言葉にしているだけです。

 「観念」と「思想」を使わなければ、相手は非難されたとか、否定されたとか、裁かれたと感じて反発したり遠ざかっていくというリスクがかなり減ります。

 もちろん、こういう風に伝えたからと言って、相手がこちらの望みにそのまま応えてくれる保証はありません。けれど、相手の答えがノーであったとしても、なぜノーなのかをストレートに伝えてくれる可能性が高まります。

 心を開いて、「なぜ勉強したくないのか」「なぜ家事をやりたくないのか」「なぜ遅刻しないようにと思ってもしてしまうのか」など、正直な気持ちを相手も表現しやすくなるんです。

 そして、相手の気持ちを聞いて理解しようとする。そこに本当のコミュニケーションが生まれるわけです。

 不満を解消するためのコミュニケーションを取ろうとするとき、多くの人は気持ちを伝えずに、「観念」や「思想」を伝えようとします。これは、心の中身を隠して、表面的に「観念論」で片付けてしまおうとすることです。心と心は交流しません。

 不満を解消するには、お互いの「ニーズ(満たしたいもの)」を聞き合うことが必要です。そして「ニーズ」を聞き合うには、「何が欲しいのか」「なぜ欲しいのか」という事実こそ伝えるべきなのです。

 コミュニケーションとは、心が求めているものを裸にして伝え合うことによって成り立ちます。そして、「観念」に頼ることは、お互いの心を見えにくくしてしまうのです。

 「観念」と「気持ち」との間には距離があります。

 「気持ち」の伝え合いによって心は触れ合いますが、「観念」の伝え合いだと心は触れ合わないのです。

話が抽象的すぎると問題は解けない

 人間は物事を抽象化することができます。事実に意味を与えたり、カテゴリーに入れたり、評価をしたりして、概念を操作できるわけです。

 この「概念を操作できる能力」が時にはマイナスに働いて、問題を解きにくくすることがあります。

 例えば、「私はダメな人間なので、価値のある人間になりたい」と誰かが言ったとしますと、「ああ、この人は自分がダメな人間だと思っているんだなあ」ということぐらいは分かりますが、何をもって「ダメな人間」だと捉えているのか、それは本当に「ダメなのか」、もっと具体的な話を聞いてみなければ分かりません。つまり、この段階では話はあまりにも抽象的であって、実際にはどういう問題がそこにあるのかがまったくわからないわけです。

 それに比べて「お腹が痛いので病院に行きたい」と言う人がここにいたら、ここに抽象性はありません。話が具体的でよ〜く分かります。誰にでも分かります。「お腹が痛い」というのは「あるがままの現実」を表現したものであって、その実際性とでも言うものが真っ直ぐに伝わってきます。

 「お腹が痛い」という言い方をする代わりに「具合が悪い」と言えば、やや抽象的になります。「具合が悪い」だと「吐き気がする」「頭が痛い」「歯が痛い」「眠れない」など様々な状態をまとめて表すことができるわけで、一種の「カテゴリー」のようなものです。

 さらに「私は健康ではない」などと言ってしまうと、さらに抽象度が高まります

 このように、心身で体験している実際に近い言葉は具体性をもち、実際を超越して遠ざかれば遠ざかるほど抽象性をもつのです。

 抽象的な世界は観念的な世界です。

 さて、実際の問題を解くには具体的な世界、実際の世界を知らなくてはなりません。観念的な世界から現実に近づいていく必要があります。

 「健康ではない」という認識から「具合が悪い」という認識へ、そして「お腹が痛い」という認識へ進むとき、世界はどんどん具体的になっているわけです。さらに「お腹のどの部分がどのように痛むのか」が分かれば、もっともっと具体的になります。「みぞおちの辺りがキリキリ痛む」という風に。

 さて、心理的問題を解く場合も同じです。

 「私はダメな人間だ」というのは極めて観念的な言い方で、実際がよく見えません。

 そこで「ダメな人間とはどういう意味ですか?」とか「どういうときに自分はダメな人間だと思うのですか?」などと尋ねることで、心の中の現実を知ろうとするわけです。

 そうすると、「女にモテない」とか「仕事ができない」とか「ギャンブルがやめられない」とか、もう少し具体的な悩みが出てきます。

 「ダメな人間であるということに悩んでいる」という極めて抽象的なレベルでは問題を解決する方法がありません。けれども、「ギャンブルがやめられない」という悩みだと分かれば、問題を解決する糸口は見えないまでも、「だいたいこういう悩みなんだな」という認識はできます。

 さて、もしこういう人が私のところに来たとしたら、私は次のように問うでしょう。

 「あなたはギャンブルをやめるための支援が欲しいのですか、それともギャンブルをやめられない自分を否定しなくても済むための支援が欲しいのですか?」

 この人は自己否定から解放されたいだけかもしれないし、ギャンブルをやめたいのかもしれない。

 それは、本人の「本当の気持ち」を聞いてみないと分かりません。

 「ギャンブルをやめたいわけではない」のだけれど、周囲にいろいろと言われて「やめなきゃいけないのかな」「やめられない自分はダメなのかな」と思っているだけという場合、周囲の声を呑み込んで「自分自身の良心」であるかのように扱っているわけです。

 この人は「ギャンブルをどうするか」を自分で決められていません。「ギャンブルを続けるかやめるか」という選択を自分でできずに迷っている。それが「あるがままの事実」です。

 問題の定義をここまで心の現実に近い形で言語化できると、解きやすくなります。

 「ダメな人間だ」という問題を解きたいと言われても何のことやらさっぱり分からなかった。けれど、「ギャンブルがやめられない」という問題を解きたいと言われたら少し分かりやすい。さらに心の中に入っていくと「ギャンブルをやめたい」と決断できているわけではなく、「ギャンブルを続けようかやめようか迷っている」という問題が見えてきた。認識がどんどん具体性を帯びたものになっていますね。 

 さらに「なぜ迷っているのか」と問うていくと、さらに具体性が増していくわけです。

 「ギャンブルをやめたくない理由」が「ギャンブルをすることで虚しさから解放される」だという事実が見えてきたら、「虚しさから逃げるためにギャンブルをしている」ということが分かります。

 すると「この虚しさに向き合う代わりにギャンブルへ逃げている限り虚しさから自由になれない」という真実が見えてくる。

 「この虚しさって何なんだろうね?」という探求をしてもいいし、したくないかもしれない。

 問題はこの虚しさにあるわけですが、認識が最初とはまったく別物になっていることにお気づきでしょうか。

 抽象から具象に進めば進むほど、問題の実際の姿が見えてくるんです。

 「虚しさ」は観念ではありません。実際にそこにあって体験できる現実なんです。

 「何をどう虚しく感じているのか」を探求していくと、さらにそこにはもっと具体的な事実があると分かります。その事実に触れることで問題の本質が見えてくるんです。

 事実に触れるとは体験に入っていくことを意味します。

 反対に、抽象的に考えるとは、体験から遠ざかることです。

 体験から遠ざかると、体験を通してしか分からないものは分からないままです。体験知がないわけです。

 体験知がない状態で、あれこれ分析したり解決法を探したりしても、問題は解決できないことが多い。というのは、体験知がないということは、そもそも何が問題なのかを把握していないということだからです。

 問題を知らないので答えも出ない。単純にそういうことなんです。

 問題を解くには、問題をよく知らなくてはなりません。そして問題をよく知るために必要なのは、問題を具体的に体験的に知ることです。

 体験に入っていくことで探求しなければ、問題を知ることはできません。

 よって、問題を解くために必要なことは、自分自身を探求的に体験的に発見することなのです。

 自分を知らないから問題が解けない。そして、問題を解くには自分を知らなくてはなりません

 そして、自分を知るとは知的に観念的に知るのではなく、体験的に実際に知ることです。

「謙虚さ」とは「成長に対して素直であること」

 「謙虚さ(humility)」はあらゆる問題を解くときに必要です。

 ただし、「謙虚さ」は「自責(self-blame)」や「自罰(self-punishment)」や「無価値感(a sense of unworthiness)」と混同されることが多いので気をつけなくてはなりません。

 ということで、「謙虚さ」とは何か、「自責」「自罰」「無価値感」」とどう違うのかについてお話ししたいと思います。

 例えば、「人の反応が怖くて自分が出せない」という問題を抱えている人がとても多いのですが、この場合、「謙虚さ」とはこういう自分はダメだと思うこととは違います。「こういう風になっているのには原因があるはずだから、それを理解して解いていこう」というオープンさが「謙虚さ」であり、「私には現時点で理解できていないことがあるから理解したい」という向上心が「謙虚さ」なのです。

 すべての人間は発展途上です。完成されてこれ以上向上できることは何もないという人はいないと私は考えています。

 言い換えますと、すべての人間には「知らないこと」「分からないこと」「できないこと」があるということです。

 「知らないこと」「分からないこと」「できないこと」が何もないという人は存在しません。

  ということは、すべての人間はミスを犯すということになります。

 さて、私たちひとりひとりがミスを犯したとき、「謙虚」であるならば、そこから学習しようとするでしょう。

 そう、「謙虚さ」とは「学習に開かれていること」なのです。

 私たちが「学習に開かれている」ならば、ミスを通して向上しようとしますよね。「なぜこうなったのか」と考え、「今後はどうすればいいか」を決めて実行する。

 それに対して「自責」「自罰」「無価値感」があるとミスから学べません。ミスを犯したこと自体に囚われて、「犯した自分は何と情けない存在なのだろう」とか「犯すべきでなかった」と思って、不可能なことを自分に要求しているのです。

 「自責」「自罰」「無価値感」には、「すべての人間はミスを犯すものであり、そこから学んでいけさえすればいい」という優しさが欠けています。 

 「自責」「自罰」「無価値感」は、愛と智慧の足りない完璧主義のようなもので、成長の妨げになります。そういう意味では「自責」「自罰」「無価値感」もまたミスであり、「こういうことをしていても自分が苦しいだけで何にもならないんだなあ」と気づくことが大事です。こういう風に気づくことができる人は「謙虚」なんです。

 「謙虚さ」があると、自分の成長にとって必要なものと邪魔なものがはっきりと見えてきます。「学ぶということに対して素直である」ということが「謙虚さ」です。

 「人の反応が怖い」ということは「人の反応によって傷ついてきた」ということです。

 「怖い」という自分を責めるということは、「傷ついているのに傷ついてはいけない」と自分に言うようなもので、うまくいくはずはありません。

 人の反応によってどのようにして傷ついてきたのかを優しく理解してあげれば、だんだんと怖くなくなっていきます。

 このように、問題解決には、ステップごとに必要とされるプロセスがあるのですが、その学習過程を一歩ずつ進んでいくには、「知らないことを知りたい」「分からないことを分かりたい」「できないことをできるようになりたい」という向上心がなくてはなりません。

 向上心があるということが「謙虚さ」だと私は思います。

 学ぼうという心がなければ、問題を嘆くだけになってしまう。問題を嘆いて向上しようとしない、これが「謙虚でない」ということです。

 学習に対して閉じている人は、非生産的です。問題から何のプラスを生み出すこともできません。そして、マイナスの状態から抜け出せないことになります。

 「謙虚さ」の第一歩は、あるがままを真っ直ぐに認めることです。

 「知らないこと」「分からないこと」「できないこと」をそのまま受け止める。

 「今の私は怖くて自分が出せない」「どうやって対人不安を減らせるのかが分からない」「自分を責めないでおこうと思ってもやめられない」。これが今の偽らざる自分であると認める。

 謙虚でない人は、これすらできません。あるがままを認めたくないのでいろんな方法で抵抗します。

 「対人不安を減らす方法なんて誰も知りませんよ」と防衛的になる。「これは治らないと思いますよ」と学びたくないことを正当化する。「私だって責めたくなんかないんです」と願望を強調する。

 これらはすべて、素直にあるがままを認めるというところから逸脱しています。虚勢を張っているとき、私たちは謙虚ではありません。学ぶことに対して閉じているんです。

 多くの人は、あるがままを冷静に客観的に見るということができません。自分が見たいものを見ている。感じたくないものは感じないようにして済ませてしまう。

 「自分から見えているものは歪んでいるかも知れない」「それなら真っ直ぐに見えるようになりたい」と思うこと、これが向上心であり謙虚さです。

 「謙虚さ」の第二歩は、あるがままを認識した後で、「自分はどうなりたいのか」「自分はどんな風に成長したいのか」を素直に認めることです。

 「対人不安を減らす方法が分からないので知りたい」「今は人が怖くて自分が出せないけど、恐怖を克服して自分が出せるようになりたい」「自分を責めるということがどうしてもやめられないけれど、やめられるようになりたい」「ミスを犯してもそういう自分を優しく受け止められるようになりたい」。

 このように自分の成長課題を素直に言えるという状態が「謙虚」です。

 真っ直ぐにこのように目標を表明できる心の状態は、学習に大きく開かれています。

 それに対して、謙虚さのない人は、「何を目指したいか」を言えません。ゴチャゴチャ、タラタラ、グニャグニャと口実を並べ、学びたくなどないという心を表現します。

 問題を解くということは学ぶということであり、学びたくない人に問題は解けないのです。

 「謙虚さ」の第三歩は、自分の目標に向けて必要とされる努力ができるということです。

 目標を設定しても、その達成に必要な作業をやりたくないなら、目標は単なる夢に終わります。何かを成し遂げるには、それに向けて努力をしていくという「精進」が必要です。

 謙虚な人は、精進なしに成果だけを手に入れることができないということを理解し、精進します。

 必要な努力ができるという心の状態、これが「謙虚さ」なのです。

 このように、「謙虚さ」とは「自分を責める」とか「卑下する」とか「自分を拒絶する」などということとは無縁で、「成長に対して素直であること」だと言えます。

 生きていく際に出会う課題から逃げず、そこから学んで成長し続けようとしている人の中に「真の謙虚さ」を見るのです。


「謙虚さ」とは「成長に対して素直であること」
①あるがままを真っ直ぐ見ようとすること
②成長目標を素直に言えること
③目標達成に必要な精進ができること

愛のある人は相手にしがみつかない

 「相手にしがみついている」だけなのに「相手を愛している」と錯覚してしまうことがよくあります。

 「しがみつく」ということは「執着している」ということであり、「愛されようとしている」だけです。

 「愛のある人」は相手を「大事にしたい」と思う。「愛に飢えた人」は相手から「大事にされたい」と思う。

 相手にしがみつくのは「愛に飢えた人」です。

 「愛に飢えた人」は相手を束縛したい。いなくなってもらっては困るからです。

 「愛のある人」は相手を束縛しません。相手を自由にしておきます。しがみついて愛を要求しないのです。

 「あなたなしでは生きられない」というのは「愛している」のではありません。「愛されることを渇望している」だけです。

 浅丘ルリ子さんが先日テレビで、石坂浩二さんとの29年に及ぶ結婚生活にピリオドを打ち2000年に離婚したことについて語っていました。

 石坂さんは浅丘さんの女優業をサポートするために家事を免除してくれた。いろんなことを教えてくれた。とても感謝している。自分は石坂さんの子供を産むことができなかった。石坂さんには新しい女性ができて、その人と一緒になって子供を持ちたいと言われた。自分は「どうぞどうぞ」という気持ちだった。

 これを聞いて、私は浅丘さんがなんて素敵な方なんだろうと感銘を受けました。強がりで言っているのではないことは明白でした。

 浅丘さんは石坂さんにしがみついていない。彼を本当に愛しているんだなあと思ったんです。

 石坂さんを愛している(大事に思っている)からこそ、彼が望んでいることを叶えてあげたかった。子供が欲しいという石坂さんの思いは、自分と一緒にいては叶わない。新しい女性となら叶う。なら喜んで行かせてあげたい。

 29年間、石坂さんと夫婦でいられたことの恵みに心から感謝しつつ、別れてもなお彼を大事にしている浅丘さんの笑顔には、愛を与えることで満ち足りている「まん丸な心」が輝いていました。

 「執着」がなく「愛」のある人とは、このように清々しいものです。

心が触れ合わない家族

 ある夏の海岸での話です。

 砂浜に座って海を眺めていた私の目に、家族連れの姿が映ってきました。水際から少し入ったところで父親と息子と娘3人が遊んでいたのですが、12歳ほどの兄が少し下の妹にちょっかいを出し始めました。妹にとっては背がやっと立つほどの水深だったので、溺れるかと思ってパニックになったんです。そしてキャーっと大声を出したところ、父親が妹の顔も見ずにほっぺたをいきなりパシーンと叩いて「うるさい!」と言うではありませんか。

 この女の子は黙ってひとりで砂浜に戻り、お母さんの側に座り、うなだれていました。

 私はいたたまれない気持ちになって、彼女に話しかけました。私は彼女が何も悪いことをしていないこと、父親が誤解したことを私が理解しているよというメッセージを伝え、彼女の悲しみに寄り添うと、彼女は泣き声で気持ちを少し出してくれたのでした。

 母親は私たちの1メートル先で本を読んでいて、女の子の心が深く傷ついていることに全く気づいていません。

 私はこの母親に、お兄ちゃんがいたずらをしたので妹さんがキャーっと声を出したらお父さんがいきなり彼女を叩いたんだということを伝えました。そうしたら、この母親は女の子の心配をするでもなく、私がわざわざそんなことを気にしている様子が可笑しく思えたのでしょう。せせら笑ったのです。

 この家族は4人一緒に海岸にやってきて休日を過ごしていたけれど、心は全く触れ合っていませんでした。

 この女の子にとって、この一日は深い傷を受けた一日だったのに、そのことを理解する人がこの家族にはひとりもいないのです。

 彼女が味わった「情緒的孤独」は、残念ながら決して稀なことではありません。機能不全家族にいる多くの子供が同じような辛さを体験しています。

 共感能力が乏しい人が家庭を持つと、表面的には一緒に食事をする、一緒に旅行に行く、けれども心はバラバラなんです。

 「本当の親密さ」がない家族って悲しいですね。

「結果を与えようとする」のではなく

 「ほら、あの景色を見て。綺麗でしょう?」と子供に促す母親。子供は嫌な気持ちがしていることを母親は理解しない。この母親は「この子には自然の美しさが分かる人間になって欲しい」と思っている。「本当だ。綺麗だね、お母さん」と子供が言ってくれたら母親は嬉しい。

 この母親は「特定の結果」を欲している。

 「特定の結果」を求められた子は、自分自身であるスペースがないと感じます。

 「自然の美しさが分かる人間になって欲しい」と言われて「自然の美しさが分かる人間になる」わけではありません。

 「結果」が先に決められていて、「そうなれ」と要求されても、子供は困ってしまう。

 ここに、この母親の「欲」というものを感じるのです。

 自分の子が「自然の美しさが分かる人間」であったなら、それがこの母親に何をもたらすのだろうか?

 子供を自慢して自分の評価を上げたいのか、子育てにやり甲斐を感じたいのか、いずれにしても、母親の自己満足のための「結果」であることは間違いありません。

 「特定の結果」を求めないことが愛なのですが、この母親はそれを理解しません。

 不安な子供に「怖くないよ」「大丈夫だよ」と安心させようとする大人。これも安心という「結果」を与えようとしているだけで、そうされた子供は嫌な気持ちがする。

 どうすればこの子が不安でなくなるかを考えないで、「不安になる理由はないよ」と教え諭そうとする。これもまた大人の「欲」です。

 大人は子供を「安心させたい」と思っている。「不安のままの子」だと困るからでしょう。

 誰のために「安心させたい」のか。

 大人の目線からすれば恐れるまでもないということでも、子供の目線からすれば恐れて当然であることもたくさんあります。

 こういう場合、結果を先に持ってくるのではなくて、
あるがままを受け止め必要性に応えることが大事です。

 この子が「本当に必要としていること」に応えるためにはプロセスを大事にしなくてはなりません。

 プロセスとは、相手の心の声に耳を傾けるということです。「どうして欲しいんだろう?」と肯定的関心を持って、相手の心に近づくのです。

 その瞬間に相手が必要としていることは、相手の心から伝達されます。相手の心に対して受容的にならないと相手が必要としていることは伝わってきません。

 この受容的能力・共感的能力が発達していない人がたくさんいます。

 こういう人は、「特定の結果」や「特定の形」を相手に与えることで自己満足しているだけで、相手にとって大事なことが何なのかを理解しません。

 良かれと思ってやっていることが、相手に嫌がられている。いろんな努力が裏目に出る。

 「特定の結果」や「特定の形」に拘るのをやめて、プロセスを優先すると、心と心が通い合うようになります。


 心と心の通い合いによって相手の深い必要性と自分の深い必要性が分かってくる。

 こうやって心を大事にし合う関係においては、お互いに「自分自身であるスペース」があり、それは常に「結果」よりも大事にされるのです。

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