菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

世界中どこからでも、カウンセリングを受けられます。面談(金沢市)・電話・スカイプ・FaceTime 対応。

2018年07月

見返りを求めての努力はやめた方がいい

 「努力をする」ということは必ずしも良いとは限りません。

 「我慢しながら努力する」のであれば、見返りがなかったとき許せない気持ちになります。これは「不健全な努力」なんですね。

 「健全な努力」というのは、やっている本人が「努力」だとちっとも感じないものなんです。好きだからやっているだけ、やりたいからやっているだけと感じていること。それが「健全な努力」だと言えます。

 こういう「健全な努力」は、それをやっていること自体が楽しいとか面白いわけですから、やっている中にすでに見返りを得ているんです。

 つまり、それをやっていること自体が目的であることが「健全な努力」であって、それをやることが別の何かの見返りを得るための手段に過ぎないことは「不健全な努力」です。

 自分の本性や才能に合ったことというのは、やっていると楽しく感じます。楽しいので苦にならないわけです。そうすると相当の努力をしているのだけれども、本人の中では努力しているという感覚にはならない。向いてないこととか好きでないことを無理矢理やろうとすると、自然に逆らっているわけです。そこにものすごい抵抗が生じます。その
抵抗に耐えて頑張るとき「努力している」という感覚が生じるわけですが、これを私たちは美化し過ぎてしまったわけです。

 脳科学者の中野信子さんも明石家さんまさんも言うように、こういう「我慢を伴う努力」はしてはいけません

 楽しくてついやってしまうこと、やっていることの中に喜びがあること、努力だと感じないことをやった方がいいのです。



 



黒柳徹子LGBTについて語る(アメリカ大使館でのインタビュー)

 徹子さんのアメリカ人の友達にはゲイの人がとても多いのだそうです。

 差別する心がなければ、いろんな人に対して好奇心をもって接することができる。

 人間は誰でも変わったところをもっているので、LGBT の人だけが変わった人間だと思ったことがないのだそうです。

 みんな一緒に生きていくんだという気持ちと、自分が知らないことに対して面白いと感じる関心があれば、問題は起こらない。

 海外経験も含めたいろんなお話をされています。(動画10分32秒)



規範と欲求がぶつかったとき

 多くの人の悩みを聞いていると、彼らの中で「規範」と「欲求」がぶつかっています。

 「こうあるべき」というルールと、「こうしたい」という実際の欲求とが対立している。

 すると、「したいようにする」とルールを犯すことになり罪悪感が生じて苦しい。かと言って「こうあるべき」に従ってしたいことをしないでおけば満たされずに不満になる。

 左へ行けば罪悪感、右へ行けば不満。どっちへ進んでも苦しい。

 こういうのを「葛藤」と言うわけです。

 「規範」と「欲求」の衝突をたくさん解いてきた経験からお話しするなら、こういう時には「規範」を捨てることが唯一の解決です。「規範」と「欲求」が対立するとき、「規範」は変えられますが「欲求」は変えられません

 これは多くの人が理解していないことなのですが、
心の底から欲していることは、欲しないことにできないのです。「欲求」は有機的なものであり、満たされるまで満たされることを求めてきます。それに素直に従ってあげる以外に心を安らかにする方法はありません。

 それに対して
「規範」は人間が勝手にこしらえたものです。無機的なものであり、捨ててしまえば私たちに影響を及ぼすことはできません。

 ということで、「規範」と「欲求」が対立したときは、常に「欲求」が正しくて「規範」が間違っていると私は考えています。

 ところが、現代社会に住む多くの人は、「規範」が正しくて「欲求」が間違っているという風に真逆の発想で生きているのです。

 私のように発想すれば葛藤は解決してしまいます。ところが、真逆の発想をすると葛藤は絶対に解けません。

 さて、このような規範主義が感情を病ませ幸福を妨げると気づいた人たちがこれまで何人もいました。

 三木清、岸見一郎、島野隆などです。

 彼らはいずれも幸福の要求に応える生き方を奨励しています。幸福の要求に応えるとは「欲求」に現れてくるものを満たしてあげることです。

 多くの人は知らず知らずのうちに「欲求」を否定して「規範」を優先してしまいます。「したい」「欲しい」と感じることに対して「したいと思ってはならない」「欲してはならない」という信念をもち、信念を優先させるのです。

 「規範」に従っているのだから「正しいこと」をやっている。でも「欲求」は満たされないからちっとも「幸せではない」。このような矛盾した生き方になってしまいます。

 なぜこうなるかと言うと、「正しさ」というものを完全に誤解しているからです。

 本当の「正しさ」とは「欲求に素直に従うこと」なのです。「欲求に従わないこと」「欲求を裏切ること」は「間違い」なのです。

 こちらの「正しさ」に従えば、「正しいこと」がそのまま「幸せ」に繋がります。「心が求めていることを大事にする」から「満たされる」。「満たされる」から「幸せになる」んです。

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 では、もう少し具体的に見ていきましょう。

 「大学に行きたくない」という人が、「大学に行かないといい仕事につけないよ」と言われて「大学に行ったほうがいいのかなあ」と悩んでいる。

 この場合「大学に行きたくない」が「欲求」で「大学に行ったほうがいい」が「規範」です。

 「規範」を優先して大学に行ってしまうと、いろいろな心理的問題が出てきます。やりたくないことを自分に強制していますから。

 「行きたくない」なら「行かない」ほうがスッキリします。「これをやりたい」と思えることをやるほうが、その人は幸せになれます。

 ただ、多くの人は自分の「欲求」に素直に従えるだけの自信を持っていません。なので「規範」に従うことで少なくとも周囲から承認されようとするわけです。

 自分が結婚したいと思った相手を、親が気に入らなかった。「親が認めてくれない相手と結婚することは親不孝ではないか」と思って悩んでいる。

 これも「欲求」と「規範」の衝突です。

 「その人と結婚したい」が「欲求」で、「親が認めた相手と結婚すべき」が「規範」。

 「欲求」をとれば自分の幸福は拡大する。「規範」をとれば親の承認範囲の中でしか生きられないことになります。

 「欲求」と「規範」は質的にとても違います。「欲求」は喜びに向かっていくものなのに対して、「規範」は正しさに向かっていくものです。ただ、正しさと言っても「自分がそう決めている正しさ」に過ぎません。

 「大学に行くべきだ」とか「親が認めない相手と結婚すべきでない」という「規範」を正しくないと思っている人も世の中にはたくさんいます。宗教の教義のように、守らないと罰せられるというものではありません。

 「正しさ」というものは、自分の意識が拡大するにつれてバージョンアップしていかなくてはならないものです。

 そして、「欲求」と「規範」が衝突してジレンマに陥った時ほど、それに相応しい時はありません。
 

老婆心にはご注意を

 「老婆心(ろうばしん)」を辞書で調べると「度を越して、必要以上に世話を焼いたり心配したりすること。おせっかいのこと」とあります。

 2018-7-26 テレフォン人生相談(←クリックすると内容が読めます)の相談者は62歳の女性。タトゥーをしていることについて娘婿を叱ったところ、婿は怒って娘に「実家に行くな」と言った。叱った自分は間違っていないと思うが、これから娘と娘婿とどう付き合えばいいかという相談です。

 回答者の三石由起子氏は、「あなたが間違っています」と一刀両断。

 まず、娘は婿のタトゥーを認めている。娘と娘婿の間ではタトゥーは問題になっていない。婿はちゃんと働いているし、税金も払っているし、法に触れていることは一切していない。要するに誰にも迷惑をかけていない。娘は独立して別の家庭をもっているわけで、親が口出すことではない。

 私もその通りだと思います。

 この女性はタトゥーが嫌いなわけです。これは私的感情としては何ら問題ありません。好きでなくてはならないなんてことはない。けれども、価値観の違う相手を嫌悪感だけで叱ってはいけない。

 相談者は「タトゥーをしたままだったら、これから子供の運動会に出なくてはならない時どうする?」「子供とプールにも行けないじゃないか」というような心配をしている。

 けれど、三石氏が言うように、それは娘婿が工夫すればいいことであって、長袖を着るなりいくらでも解決法はある。子供とプールに入りたいからタトゥーを消す親だっている。本人が困るなら本人が変わる。

 要するに、自分が相手の行動に迷惑をかけられていると客観的に言えない状況で、相手の行動を変えさせようとするのは間違っているし、これは明らかに相手の価値観を否定する「干渉」だったのです。

 だから、娘に「俺を否定する母親を取るのか、俺を取るのか決めろ」と迫ったのは、男気があって大した人だと言う三石氏に私も賛同します。

 「老婆心」はこのように自分の価値観が絶対的に正しいという独善と、相手のことに口を挟むという失礼に基づいているので、想像以上に相手の反発を買うものなのです。

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価値観の違いは認め合うしかない

 価値観の違いは、話し合いによって埋まるものではありません。

 例えば、息子が夜中にステレオを大音量で鳴らすので親が眠れないならば、これは親が迷惑を被っているわけですから、やめてもらわねばならない。けれど、息子が自分の部屋でロックやラップを聞いているとき、親がロックやラップに反対だからと言って、それらのジャンルの音楽を否定してはいけない。

 ファッションの好みも同じ。自分は美しいと感じないからと言って、本人が気に入っているものを否定してはいけない。「自分は好きになれないけれど」で留めておく。相手の世界に踏み込まない。それが礼儀です。

 自分は肉や魚を食べる。けれども相手はベジタリアンである。自分はベジタリアンの価値観が理解できない。理解できないならできないままでいい。けれどベジタリアンが自分に迷惑をかけていないなら、「それは間違っている」と否定してはいけない。ただベジタリアンの料理を求められて出したくないなら「私はベジタリアンの料理は出せない」と言えばいい。相手に合わせる義務はない。「あなたはあなたで自分の必要なものを調達してちょうだい」と言えれば尊重していることになる。

 価値観の違う相手とは、お互いを尊重し合う距離感というものがあります。お互いを否定せずに済む距離で付き合う。決して同じ価値観にしてしまおうと働きかけない。

 「同じ価値観にならなければならない」という姿勢で働きかけることが最も危険です。十中八九、相手はあなたと付き合いたくないと思うでしょう。

 「自分は相手の価値観を理解できていないのだ」ということを謙虚に受け止めるべきです。「相手の価値観が間違っていると言えない」ということを認めるべきです。

 「自分は正しくて相手は間違っている」と思った瞬間、相互尊重はもうそこにありません。

カウンセリングが目指す「3つの変化」

 カウンセリングには目指すものがあります。その目的が達成されればうまくいった、達成されなければうまくいかなかったと言っても差し支えないでしょう。

 これは私の考えですが、カウンセリングは主に3つの変化が生じることを目指しています。

①「動揺(disturbance)」から「平安(peace)」への変化
②「混乱(confusion)」から「明瞭さ(clarity)」への変化
③「不満(unfulfillment)」から「充足(fulfillment)」への変化

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①「動揺(disturbance)」から「平安(peace)」への変化

 不安や怒りや絶望や罪悪感や自己嫌悪や執着や依存で「心が乱れている」という状態は辛いです。それを解決して「心が安らかになる」のを目指します。

②「混乱(confusion)」から「明瞭さ(clarity)」への変化

 どうしたらいいのか分からない、どう理解すればいいのか分からない、何を目指せばいいのか分からない、何も決められないというのは「心がはっきりしない」ということですが、これも辛いですね。それを解決して「心がはっきりする」のを目指します。

③「不満(unfulfillment)」から「充足(fulfillment)」への変化

 自己肯定の欲求が満たされないまま。繋がりの欲求が満たされないまま。平等の欲求が満たされないまま。心理的安全の欲求が満たされないまま。自己決定の欲求が満たされないまま。このように「心が必要としているものが得られていない」という状態は辛いです。それを解決して「心が必要としているものが得られる」のを目指します。

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 ①には「感情の癒し」が、②には「心の整理」が、③には「満たしてあげること」がそれぞれ必要です。

 実際には、この3つが絡み合っていることが少なくありません。例えば、満たしてあげるためにはまず感情の癒しが必要で、そのためには何を癒す必要があるのかを整理しなくてはならないといったことがよく起こります。

カウンセリングの目的は
①苦しみから解放され「楽になること」 
②整理ができて「はっきり分かること」
③必要なものが得られて「幸せになること」

EXPLICIT vs. IMPLICIT COMMUNICATION

 コミュニケーションは「明示的(explicit)」なものと「暗示的(implicit)」なものに分かれます。

 人に何かを伝えたいとき、はっきりと口に出してストレートに言うのが「明示的」です。それに対して、間接的な言い方をしてほのめかしたり、態度や行動で伝えようとするのが「暗示的」です。

 例えば、相手と恋人になりたいと思ったとき、「あなたのことが好きなので付き合ってくれませんか?」と尋ねるのがストレートで「明示的」なのに対して、「今度食事でもどうですか?」と誘ったり「メルアドを教えてくれませんか?」と尋ねたり「どんな人がタイプですか?」と質問したりすることで相手への興味をほのめかすのが「暗示的」です。

 近所の人にコンサートに誘われたけれど、その人とは行きたくなくて断りたいという場合、「あなたとは行きたくありません」と「明示的」に言ってしまうと角が立つ。そこで「その日はちょうど用事があって」とか「ロックは苦手で」とか「仕事が溜まっているので」などと間接的な方法で「行きたくない」ということを伝える場合「暗示的」です。

 「明示的」コミュニケーションにも「暗示的」コミュニケーションにも長所と短所があります。そして、必要に応じてどちらも使えるようにしておくことが理想です。

 まず「明示的」コミュニケーションの長所は、誤解や混乱の余地を残さず明確に伝わるという点です。それに対して短所は、不必要な波風を立ててしまうことです。オブラートに包んで優しい言い方をすればスムーズに行く状況で、露骨な言い方をすることによって、お互いのストレスを増やしてしまいます。

 「暗示的」コミュニケーションの長所は、衝突を避けてストレスを減らすことです。それに対して短所は、明確さを必要とする状況で使うことによって、問題を却って悪化させたり、誤解や混乱を招いてしまう点だと言えましょう。

 相手の反応を怖がる人は、対立を避けるために「暗示的」コミュニケーションを多用する傾向にあります。はっきりと物を言うのを避けて、曖昧な言い方や態度で相手に察してもらおうとするわけです。これが期待通りに動かないとき、問題を解決することができません。

 こういう人は、勇気をもって「明示的」コミュニケーションをとる練習を重ねる必要があります。ほのめかしているものを、少しだけはっきりと言葉にして伝えるようにするのです。

 反対に、何でもはっきりと言い過ぎることで周りと衝突を生む傾向が強い人は、言葉のインパクトをもう少し考えて、ほのめかす練習をするといいでしょう。

 きちんと言わなければ伝わらないことは「明示的」に伝えるべきですし、口に出さないほうがうまくいく場合には「暗示的」に抑えておくことが功を奏します。

 私と親しいある人が「人を紹介したい」というメールを私にくれたことがあります。「彼は悩み事をもっているらしいのだけれど、きっとあなたなら力になれると思う」と書かれてありました。「彼はセラピストを必要としていると私は思う。けれど、カウンセリングを受けなかったとしても、二人は仲良くなれるように思う。彼にあなたの連絡先を渡しても構わないか」という内容でした。

 私の気持ちとしては、この「彼」が何を望んでいるのかが分からない以上、カウンセリングをしましょうとも仲良くなりたいとも回答できません。もしも「彼」が私のカウンセリングを受けたいのであれば、クライアントとして歓迎する気持ちはある。けれど、プライベートで「彼」の悩み事を聞くだけの関係にはなりたくないと思いました。

 そこで、何を「明示的」に伝え、何を「暗示的」に伝えるかを私はよく考えたわけです。

 「彼」が何を望んでいるか分からないので、今のところ決定的なことは言えないという内容を言葉にして書くべきか。私はこれは「暗示的」の方がよいと判断しました。「もし彼が私のカウンセリングを望んでいるならば、クライアントとして喜んで引き受けます」という言い方にしたのです。

 言外に「彼がカウンセリングを望んでいないなら、私は彼と付き合うつもりはない」という意味を込めています。これをあからさまに言うと角が立ちますし、まったく不必要なことです。

 効果的なコミュニケーションとは「必要を十分に満たしているもの」であると同時に「不要なものをできる限り排除したもの」である必要があります。
 

弱い人どうしの依存的集団

 ある人たちの悩みを聞いていると、その集団にいる人がみな弱くて依存的なために、誰も積極的な解決に向けて行動していないし、これからもするつもりがないということが分かってくることがあります。

 不満があるけれど、それを相手に伝えてきちんと解決しようとしない。伝えられない理由がちゃんとある。伝えなければ解決するはずがないので、あとは我慢するしかない。では我慢できるかというと、我慢できないししたくない。我慢したくないなら話し合うしかないのではないかと言うと、それはやりたくない。では不満を解消するために、その集団から出て一人で生きていくという選択もあるが、それはどうかと言うと、それは嫌だと言う。

 つまり、相手には不満だけど、不満だ不満だと言いつつ付き合い続けることしかできないわけです。対決することも離れることもできない。相手も弱い。意地になって突っ張っている。それに腹が立つけれど、この相手に依存しているから関係を切れない。

 こうやって、不満をうまく解消できない弱い人どうしが集まって一緒に生活しているわけです。

 2018-7-23 テレフォン人生相談(←クリックすると内容が読めます)では93歳の姑との関係に23年間悩み続けてきた61歳の嫁が相談者です。姑に対してずっと不満を抱えているけれど、夫に話しても姑側につかれてしまう。では「それでは困る」と夫に強く迫れるかというとできない。この家を出るという選択もできない。

 このような「半煮え状態の不満」を23年も続ける人は、完全に受身の人ですね。自分を通す強ささえあれば、いくらでも打開する機会はこれまで何度もあったはずです。でも問題を解決せずにここまでやってきました。

 自分の弱さと意固地を認めれば、この集団で生きていくことへの不満がある程度解消できるかもしれません。

 人生の問題を解決していくにはある種の「強さ」が必要です。この「強さ」は肉体的強さでもなければ、相手を支配する強さでもありません。「自分自身である強さ」「自分が必要としていることを満たしてあげる強さ」「自分の人生への責任を背負う強さ」です。

 この3つがあれば人生の問題を解決し道を切り開いていけますが、「自分自身を裏切ってしまう弱さ」「自分が必要としていることを諦めてしまう弱さ」「自分の人生の責任を負えず他者に依存してしまう弱さ」があると、人生の問題を解決できなくなってしまいます

 不満を積極的に解消したいなら強くなることです。強くなれないなら不満を受け入れることです。
 

「禁止」と「強制」があると感情が分からなくなる

 自分が欲しているものに対して素直であれば、感情との関係は真っ直ぐでスッキリしたものになります。感情が分からなくなるということはありません。

 けれども、自分が欲しているものと欲していないものに対して「素直でないもの」を抱えていると、感情との関係は複雑になります。「素直でないもの」をたくさん抱えていればいるほど、自分の感情は分かりにくくなるのです。

 感情との関係を複雑化するものには大きく分けて2種類あります。1つ目は「禁止」、2つ目は「強制」です。

 「禁止」とは、感じているものを「感じてはいけない」、欲しているものを「欲してはいけない」と自分に禁ずることです。

 反対に「強制」とは、感じていないものを「感じなくてはならない」、欲していないものを「欲しなくてはならない」と自分に強いることです。

 この「禁止」と「強制」が多ければ多いほど「感じているままの自分」「欲しているままの自分」が受容されていないことになります。「自分でない自分として生きている」ということです。

 「感じているままの自分」「欲しているままの自分」が即ち「あるがままの自分」であり、「禁止」と「強制」はその「あるがままの自分」をいわば否定して「特定の形」を課してきます。

 「特定の形」を課すとは「感情を否定すること」に他なりません。「禁止」と「強制」に従うということは「感情を否定すること」と同じなのです。感情を否定し、感情に抵抗し、感情に逆らっているから、だんだん感情が分からなくなります。 

 こうやって心が病んでいくのです。

 「禁止」と「強制」に縛られている度合いが強い人ほど、あるがままの自分の感情を否定している人です。そして、感情を否定する度合いが強い人ほど、心が病んでしまいます。

 こういう感情否定の状態から脱却するには、自分の中にある「禁止」と「強制」に気づいてやめる決断をすると同時に、「あるがままの自分」の感じていること、欲していることを素直に認め、それに従う生き方にギアチェンジしなくてはなりません。
 

「智慧のある人」とは

 皆さんは「智慧のある人」と言うとどんな人を思い浮かべますか。

 そもそも「智慧(wisdom)」と「知識(knowledge)」はどう違うのでしょうか。

  「知識のある人」というのは「たくさん物事を知っている人」ですよね。どの分野でも専門知識の多い人は「知識人」と呼ばれます。

 政治や経済に詳しいとか、心理学に精通しているとか、木や昆虫については百科事典のように詳しいとかですね。

 ところが、専門知識をたっぷり持っている人が、必ずしも「智慧のある人」とは限りません。「智慧」というのは、もう少し、人間として生きていく上で大事な本質のようなものを掴んでいることじゃなかろうかと思います。

 例えば「自分の器を超えた仕事をしようと思っても、結局しんどくなって周囲に迷惑をかけるだけだから、自分の器にあった仕事をしなければいけない」というようなことは、専門知識ではありませんね。人間として長年生きていくうちに、自然に分かってくるようなことであって、どんな分野の人にも当てはまることです。

 人生経験の豊かな人であれば、誰でもいつか悟っていくような内容だと言えます。

 ある政治家が首相になれる場所にいた。けれど「自分は首相の器ではない」と言ってなろうとしませんでした。私は彼を尊敬します。彼は卑下していたわけではない。自分は一国の首相として相応しくないということを弁えていた。これは立派なことであり、彼は「賢い人」だと思います。

 ひょいひょいと周りに持ち上げられて、自分の器を超えた高い地位についてしまう人は「愚か者」です。「智慧」という点では劣った人だと思います。

 同期生と比べて劣等感を抱く青年に、ある指導者が「人にはそれぞれ違う時計があるんだから、他人の時計を覗くな」とアドバイスをしたそうです。これは「智慧」ですね。

 「自分のペースで成長し自分になっていけばいいんだ」「人より成長が遅いからといって、自分がダメだと思う必要はない」。こういうことを知っていることが「智慧」だと思います。

 「智慧」の特徴は、分野を問わず、人間にとって普遍的なものだということです。

 専門知識はその専門の人からしか学べない。けれど「智慧」はどんな職種の人からも学べる。医者が漁師に教わることができる。教師が商人から学べる。ビジネスパーソンが僧侶から得ることができる。弁護士が芸術家から受け取ることができる。要するに専門分野は関係ない。

 教育を受けていない人がしばしば「生きる智慧」をたっぷり持っている。中卒の人が70年生きていると、人生について知っていることが多い。「知っている」というのは本から学んだのではない。学校で学んだのではない。70年の人付き合いから、働くことから、困難をくぐり抜けることから、周りの人と喜びと悲しみを分かち合うことから、何が大切なのかを掴んできた。

 佐賀の「がばいばあちゃん」などは典型でしょう。「悲しい話は夜するな。つらい話も昼にすればなんということもない」というのは本当に「智慧」ですね。

 がばいばあちゃんは、勉強が好きでなかった島田洋七さんに、無理に勉強させませんでした。歴史の答案用紙には「『過去にはこだわりません』と書いておけ」。英語の答案には「『私は日本人です』と書いておけ」。漢字テストには「『僕はひらがなとカタカナで生きていきます』と書いておけ」と言っていたそうです。

 おかしくて笑ってしまいますが、でも「勉強嫌いな子が無理に勉強する必要はない」「この子の良さは他にちゃんとあるだろうから」とおそらく思っていたと思うんですね。これは「智慧」に違いありません。

 学校の勉強に向いている子と向いていない子がやはりいると思います。向いていない子はダメなんだという判断は、その子をとても傷つけてしまう。勉強だけが人間としての価値であるかのように考えると、人間として生きていく上で何か根本的に誤ってしまう。こういう「愚かな親」が多い世の中において、がばいばあちゃんは「とても賢い人間」だったと思います。

 はるな愛さんのおばあさんは、愛さんが小さい頃から「この子は女の子なんだなあ」と分かっていた。何も言葉では言わず、女の子として生きる道を後押ししてくれた。これは「智慧」ですね。もちろん「深い愛」も感じますけれども。

 いろんなことには「道理」というものがあって、それに反したことをいくらやってもうまくいかないものです。この「道理」というのは、人間が作った規則ではない。大自然に備わったものです。「智慧」というのは、この目に見えないけれども万物に働いている「法則」のようなものを知っていることなのでしょうね。

 私たちひとりひとりは、生きていく中でいろんな問題に直面して「道理」に目覚めていくのだろうと思います。そして「智慧のある人」になっていくんですね。

怒り・攻撃・敵意を周りから受けているなら

 周囲の人間に怒り・攻撃・敵意を生じさせる人というのがいます。

 どういう人が周囲からの怒り・攻撃・敵意を受けやすいのでしょうか。

 大きく分けて3つのパターンがあると思います。

1. 自分がこれまで怒り・攻撃・敵意を周囲に発してきた。

 自分自身がアグレッシブな人で、これまで他人に怒り・攻撃・敵意で接してきた。そのような暴力的な人は暴力的な反応を周囲から受けます。

 なので、このパターンから自由になるには、自分が発しているエネルギーを非暴力的なものに変えなくてはなりません。

2. 自分のことを弱くて無力な存在だと定義してきた。

 1とは逆に、「弱くていい人」も周囲から暴力的なエネルギーを受けやすいです。自分で自分を守るという気概がありません。そして主張すべきこともしない。臆病なんですね。そうすると、意地悪な人のターゲットになりやすいわけです。

 こういう場合には、自分の中に本来備わっているパワーをきちんと掴んで使わなくてはなりません。

3. 執着して変わろうとしない。

 人間は常に変化して成長し続けるのが自然の理です。成長に必要な変化を拒み続けると、その頑なな抵抗を周囲が壊そうとします。このように、必要な変化の流れに抵抗し続けていると、破壊的なエネルギーが自分のところに集まってくるのです。

 例えば、自分の問題を認めず現状維持を貫き通そうとすると、周囲がその問題を突いてきます。

 このパターンから解放されるには、勇気を持って変化の方向に舵を切ることです。変化の必要性を素直に認めることです。しがみついている手を放すことです。

「敵意」「臆病」「執着」があると
周囲から暴力的エネルギーを受けやすい

慢性的な不満から解放されないとき自問すべきこと

 不満からなかなか自由になれない。困った状況が続く。あれこれ解決を模索するが打開できない。悩み続けるだけで一向に改善しない。

 こういうとき、問題を解きたいと一方で思いつつ、おそらく自分で問題を解けなくしている部分もまたあります。

 自分で問題を解けなくしている部分を抱えているなら、それを放っておいて悩みから自由になることはあり得ません。

 ですから、本当に悩みを解きたいのであれば、「自分で問題を解けなくしている部分」を暴く必要があります。

 そこまでの真剣さのある人は、次のように自問してみてください。

☆ 認めたくないものはないだろうか?
☆ 蓋をしていることはないだろうか?
☆ 避けていることはないだろうか?
☆ 感じないようにしていることはないだろうか?
☆ 自分に嘘をついているところはないだろうか?
☆ 本当は問題を解きたくなどないのではないだろうか?
☆ 何を最も優先しているだろうか?
☆ 執着しているものはないだろうか?
☆ 受け入れることを拒否しているものはないだろうか?

 自分の中にある「虚偽」「拒否」「執着」などに気づけると、「自分で問題を解けなくしている部分」が自分次第でいくらでもコントロールできるものだと分かってきます。そうすると、悩みを解くも解かないも自分の選択になってくるわけです。

 何をどうすれば解けるのかがさっぱり見えずに混乱状態にある、ということはなくなります。
 

イエス様を感じるたびに涙が出ます

 私はクリスチャンではないのですが、度々イエス様の存在を感じたことがあります。

 今日はたまたまキリスト教に関わるご相談があり、カウンセリングをしている途中にイエス様の存在を近くに感じ始めました。そして涙がポロポロ出ました。

 イエス様が近くに来られると、いつも涙がポロポロ出ます。そしてハートがものすごく熱くなって溢れんばかりの愛で満たされるんです。

 そういう体験を今日また久しぶりにしました。

 純粋な心でイエス様を求められる方には必ずその存在を感じさせて下さいます。

 私はキリスト教を特にお勧めしているわけではありません。仏教や神道にもそれぞれ素晴らしいところがあります。

 それぞれの魂に最も響く霊性のあり方でよろしいと思います。

4つの意識モード

 意識エネルギーを無駄使いしたり、負のスパイラルに入ったりするのを防ぐためのガイドラインを作成しました。

 以下に「4つの意識モード」というものを解説してあります。常にこの4つのうちの1つをしている状態を保つというのが具体的実践法です。4つのうちどれをしていても構いませんが、ここから外れないように生活をします。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

第1意識モード:「今していることに没頭する」
        (Be completely absorbed in current activity.)

 サッカーをする、お皿を洗う、本を読む、掃除をする、ピアノを弾く、友達とおしゃべりをするなど何でもいいです。とにかく、今していることに没頭して、他のことは全て忘れます。

 「現在」に没頭しているので、過去を悔やんだり未来を心配したりすることから自由です。

第2意識モード:「実現したい未来を想像する」
        (Imagine a future that you desire.)

 やりたいこと、行きたい場所、参加したいイベント、達成したいこと、経験したいこと、成し遂げたいこと、感じたいことなどを想像します。想像すると嬉しくなるプラスのことだけです。「こういうことは経験したくない」「こういうことは避けたい」というマイナスのことは想像しません。

 「実現したい未来」を想像しているので、苦しみはないはずです。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 さて、不安や怒りや罪悪感などのマイナス感情が強く浮上してきていると、第1意識モードにも第2意識モードにも集中できないことがあります。こういうときは、第3意識モードに移ってください。

第3意識モード:「問題を究明し解決する」
        (Investigate a problem and solve it.)

 苦しみ、悩み、課題などを解決すべく、原因を究明したり解決法を考え出したりする。心理的問題の場合にはマイナス信念を解除したり、マイナス感情を癒したりする。頭が混乱しているときは整理する。自力で解けないものは誰からどのような支援を得るのかをはっきりさせる。

 問題解決を目指して積極的に時間を使う。ただ苦悩の中に受け身で浸かっていることのないように。

第4意識モード:「休む」
        (Rest.)

 何の努力もしないで、ただ意識を休息させる。昼寝をとる。横になる。ぼーっとする。マイナスのことをグルグルと考えない。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 1と2は積極的に生きている状態であり、悩んだり苦しんだりしている暇が基本的にありません。ただサッカーに没頭している瞬間、ただお皿洗いに没頭している瞬間、ただ本を読んでいる瞬間には、悩み事は忘れられているのが理想です。

 もしも、忘れられないのであれば、3の問題解決モードに入って、問題とだけ向き合う時間を持つといいでしょう。活動や想像に意識を向けず、しばらく問題解決に意識を集中させることがおそらく求められています。

 1、2、3の間で循環できる間は、何も問題ありません。このうちどれもできなくなったら、4です。意識を休ませます。

 次のモードには入らないように注意してください。

第5意識モード:「ただネガティブな気持ちに浸る」
        (Brood over negative feelings.)

 「解決を目指して」など積極的な目的がない状態で、絶望感に浸る、不安に浸る、怒りに浸る、悲嘆に暮れるなど非生産的な時間を過ごす。

 「あ〜ああ、どうしよう」「もうダメだ」「私はどうしていつもこうなってしまうんだろう」などと自分を責めたり絶望したりただ文句を言うだけ。解決を目指して問題が何なのかを考えようとはしていない。

 苦しみ悩みをただ深めてしまうだけに終わる危険があります。

 第5意識モードに入ってしまったと気づいたら、第1〜第4のどれかにすぐシフトしてください。どれでも構いません。

 悩み苦しみや問題があるなら、積極的に問題解決モードに入るか、入らないならそれについて考えず何かに没頭するか、実現したい未来を想像することに意識を使うか、それとも横になって休息します。

 多くの人は第3モードと第5モードをしっかり区別していません。悩み事について何となく思考している、不安想念の中をただグルグル巡っているだけ。怒りの中で文句を言っているだけ。明確な解決の意思や方向性を決めない状態で悩み事に注意を受け身で払っているだけ。これは第5モードです。避けてください。問題について取り組むなら取り組む。積極的に取り組む時間以外は問題から意識を離すことが大事です。

社会的影響の範囲内に留まるか外に出るか

 人間が成長していく過程で避けて通れないのが「親離れ」と「社会離れ」です。

 「親離れ」とは親への恐怖と服従を乗り越えて自分自身になることを、「社会離れ」とは社会への恐怖と服従から自由になり個性が開花することを指します。

 「社会離れ」は反社会的になることではありません。世間にどう思われるのかが怖くて自分を抑えてしまう状態から、社会からの承認があってもなくても自分の判断基準に従って生きられる状態へと成熟することです。

 「社会離れ」を達成する前の人は、同調圧力に屈してしまいます。そして、それによって自分の個性の一部を抑制して生きるわけです。これがある程度続くと、自分らしく生きたい衝動と、所属する集団によって認められたい衝動との間でせめぎ合いが起こります。

 自分らしく生きたい衝動が優ったとき「社会離れ」が達成されるわけです。

 心理的に幼い段階では、社会的影響の範囲内で生きることで、庇護を受けようとします。まだそこを出て生きることができません。それが、ある程度の成熟を達成すると、その外に出ることができるわけです。

 社会的影響というのは、育った社会的環境の中で教えられた規範や伝統的慣習などを指します。心理的に自立した人は、必ずしもそれらすべてを拒絶するわけではありません。納得できるものは受け継ぐし、納得できなければ自ら新しい規範や慣習を創っていくということです。

 ですから、自立した人は時には周りと同じ行動をとっているように見えることもあれば、周りと違う行動をとっているように見えることもあります。同じか違うかというところが成熟度を表すのではありません。自分を拠り所としているか否かで決まってくるのです。

 ただ反抗的になって社会の規範や伝統的慣習に反した行動をする人は、心理的に未熟かもしれません。成熟した自分に従っているとは言えないのです。

 そういう意味では、社会的影響に反抗しているだけの人は、盲従している人と同様に、社会的影響の中に束縛されています。自由ではありません。

 承認されたいという欲求よりも「これを自分は大事にしたいんだ」という価値観が自分の中に明確にあること、そしてそれに従って主体的に生きていること、それが社会の中で生きつつ社会に束縛されない「社会離れした人」の特徴です。

THANK YOUR DEFENSE REACTIONS, DISABLE THEM, AND GO DEEPER

 アメリカのある友人宅に行くと、毎回ちょっと料理をしただけでキッチンの煙探知機が大きな音を立てて鳴り出したものです。友人は慣れたもので、煙探知機の電池を抜き取り、料理が終わるとまた電池を入れ直していました。

 この煙探知機はあまりにも敏感で、オンにしておくと通常の料理さえ非常事態だと認識してしまうのでした。セキュリティー・システムは私たちを危険から守ってくれるためにあるはずなのに、あまりに敏感だと却って生活の営みの邪魔になってしまうなあと思ったものです。

 私たちの「心のセキュリティー・システム」もこれと同様で、危険なものから守ってくれるだけならありがたいのですが、敏感すぎて生活に支障をきたすことがあります。こういうとき、私たちは危険によって苦しめられるというよりも、自分自身の「防衛反応」によって悩まされてしまうのです。それはちょうど、不必要に鳴ってしまう煙探知機のような「過剰反応」だと言えます。

 例えば、イライラしてもしょうがない状況でイライラする。このイライラは「防衛反応」です。イライラが何かから自分を本当に守ってくれるのなら有益ですが、実際はイライラによって悩まされるだけのことが多い。つまり「防衛反応」そのものが悩みの種になります

 心配とか不安もそうですね。心配という「防衛反応」さえなければ安らかに生活できるのに、不必要な心配によって困ってしまう。これも先ほどの敏感すぎる煙探知機と同じです。

 イライラや心配といった感情が「防衛反応」だと知っていれば、実は私の友人と同じく電池を抜いて対処してしまうことができます。

 「この状況では非常事態を警告してくれなくてもいいよ」と「防衛反応」に伝えるのです。そして解除してもらうわけです。

 今度イライラしてきたら、イライラに向かって次のように語りかけてみてください。

 「あなたは私に警告することで守ってくれようとしているんだね。どうもありがとう。でもこの状況では警告してくれなくても私は大丈夫だよ。休んでいていいよ」という具合に。

 そうすると、「防衛反応」は静かになることでしょう。

 ただ、ここで終わりではありません。

 「防衛反応」が静かになると、その奥から「何か気持ちの悪いもの」が浮上してくるはずです。

 これが実は溜まっていた不満感情なのです。これを感じずに済むように「防衛反応」がそもそも生まれていました。だから「防衛」を解くと、その奥の不満感情が出てきます。

 悲しみだったり傷ついた感情だったりしますので、聞いてあげてください。深くゆっくりと息をしながら、上がってくる感情エネルギーを受け止めて流してあげてください。数分間、気持ち悪くなるかもしれませんが、これがクリアになると心がスッキリし「防衛反応」からも自由になります。

SOME NEED TO LEARN THE HARD WAY

 人によっては苦しみを重ねないと学習できません。

 「こうすれば苦難を避けられるのに」と周囲の人がいくらアドバイスして救おうとしても、本人にとってはさっぱり分からない、あるいは容易な道を選びたくても選べないということがあります。

 最小の苦難で教訓を学んでしまう人もいますが、最大の苦難を通らないと同じ教訓を学べない人もまたいるのです。

 「苦難の道を行かなければ分からない人もいる」という表現が英語にあります。 "Some need to learn the hard way." と言います。

 自分の子供がそうだと、親はなかなか見守れないものですね。なんとかもっと簡単な道を行かせようと働きかけます。

 子供が転んだり怪我をしたりして苦しむのを見るのは親として時に辛いものです。自分が楽になるためにも転ばぬ先の杖になろうとしたりする。

 けれど、最終的には、子供自身の人生なんですよね。彼(女)が引き受けていかなくてはならない。

 子供の課題を親が背負うことはできない。ここに子供の尊厳があります。子供は自力で学んで成長して生きていく必要がある。それを親が尊重できるかどうか。背負わずに信じて見守れるかどうか。自分の辛さに負けて手を差し伸べてしまうということを控えられるかどうか。

 苦難は時に最良の教師です。長い目で見ると、苦難の道を通ることがその相手にとっては最短の道かもしれません。苦難を回避させてあげるのが愛だとは限らないのです。苦難を取り除こうとすることが相手の成長を妨げているだけかもしれません。宇宙は苦難の道を行く人をそのままで受け止めています。見守っています。

 もし相手を見て受け止められない苦しみに困っているならば、コントロールすることを手放すことです。それが見守る側の学びなのです。

助けようとしている相手が良くならず無力感を感じたら

 何とか人を助けたいと思って奉仕している。けれども良くならない。あるいはどんどん悪くなっている。そして無力感を感じる。

 こういう苦しみを味わっている人が世の中にいます。子供の問題をなんとかしようとしている親だったり、逆に親の問題をなんとかしようとしている子供だったり、夫の問題をなんとかしようとしている妻だったり、友達の問題をなんとかしようとしている友達だったりするわけです。

 このように援助者が無力感に苦しむとき、援助者自身に「心の問題」があります

 この「心の問題」は見過ごされることが多いんです。なぜかと言うと、まず人を助けようとすることは素晴らしいことだと世間一般では理解されているので、相手が良くならないことで胸を痛めていると聞くと、多くの人は援助者の思いやりの深さを賞賛してしまうからです。

 つまり、苦しむ人に寄り添って慈愛から共に苦しんでいる人だと認識されることが多い。援助者に「心の問題」があるということが外から分かりにくいんです。そして、多くの場合、援助者本人も自分は単にいいことをしているだけだと思っています。

 相手がもし苦しんでいるとすれば、その姿を見て慈悲を感じる、慈愛を感じるというのは十全的なことです。

 しかし、無力感に悩むというのは、それとは違います。

 まず「私が相手を助けられる」という強い期待が裏切られて落胆しているという感情がある。また、「相手を助ける責任が自分にある」という感じ方をしています。相手の人生の責任をとることはできないのにです。

 この援助者はこの相手を助けて良くしてあげたいという強い気持ちで関わってきました。でも、その動機はなんでしょうか

 ここが大事なところです。

 本当に相手のためなのか、という点です。

 相手が自分の期待通りに良くなったとしたら、自分はどういう気持ちになるだろうか。嬉しいだろうか。嬉しいとすれば、それは自分の中の何を満たしてくれるから嬉しいのだろうか

 相手が良くならなかったとしたら、それは自分にとって何を意味するのだろうか。

 こういう無意識で思っていることを明らかにしていくと、「自分は無力でないと思いたかった」とか「自分には価値があると思いたかった」など、自分側の理由が見えてきます。

 この人は、相手を助けることで、良い結果を生むことで、自分の中の何かを埋めようとしていた部分があったはずです。

 相手が良くならないことを見て、自分の中の傷が刺激されています。人助けを通して回避できると無意識で思っていた自分の中の痛みが、ちっとも回避できないことに絶望を感じているのです。

 ここまで強く相手が良くなることに依存してしまうのは、自分がそれによって救われようとしているからだと言えます。

 「心の問題」を人助けに絡ませない人は、もっとサラッと人を支援できるのです。相手の責任と自分の責任をこのように絡ませません。自分のできる限界を弁えて、背負える責任の限界を理解して、相手にしか背負えないものは相手に背負ってもらう。そういう線引きができます。

 けれども、自分の救いを相手の救いに重ねている人は、そこまで割り切ることができません。相手の問題が解ければ、自分の問題も解けると密かに望んでいるからです。

 そこに気づいて、自分の問題を相手と切り離して向き合うと、苦しみから解放されます。

あなたの最大の貢献はあなたのエネルギーにある

 あなたは誰かの役に立ちたい、社会の役に立ちたいと思う。サラリーマンになろうか、公務員になろうか、役者になろうか、教育者になろうか、表現者になろうかと考える。

 もちろん、どういう形の貢献をするかも大事です。

 けれども、実はそれより根源的に大事なのは、その仕事にあなたがどういうエネルギーをもたらしてくれるかなのです。

 私たちの多くは、自分のエネルギーがどういうものか自覚していません。自分のエネルギーは常に自分のそばにあるというか自分の一部なので特別に何も思わない人が多いんですね。

 けれども、ひとりひとりのエネルギーは異なっています。

 あなたのエネルギーの中には、長い前世を含めてこれまでの人生体験のすべてが詰まっている。体験だけでなく、そこで考えたこと、感じたこと、決心してきたこと、行動してきたこと、それらのすべてが凝縮されてあなたのエネルギーフィールドに脈打っているのです。

 人にこれまでいっぱい優しいことをしてきた人は、優しいエネルギーをしている。深いことをいっぱい学んで智慧深くなっている人は、智慧深いエネルギーをしている。危険なこと、難しいことに果敢に挑戦してきた人は、勇敢なエネルギーをしている。苦しい人をたくさん助けてきた人は、慈愛に溢れたエネルギーをしている。人生にユーモアをたっぷり見つけてきた人は、面白いエネルギーをしている。

 あなたがスーパーのレジ係であっても弁護士であっても、幼稚園の先生であってもNGO職員であっても、警察官であっても客室乗務員であっても、出会う人がまず感じるのはあなたのエネルギーなんですね。

 ああ、この人はなんか明るい人だなあ。この人はなんか賢そうな人だなあ。この人と会うとなんか知らないけど愉快な気分になるなあ。この人と会うと身が引き締まるなあ。この人と会うと涙が出るなあ。

 こういう風に、あなたのエネルギーは人に何かを感じさせるんですね。それは、あなたの過去すべての集積なので、偽ることができません。あなたの人となりが、これまで生きてきたことすべてが、財産となってあなたのエネルギーになっています

 それこそが、あなたの貢献なのです。

  あなたが人と出会うとき、そしてあなたのエネルギーが相手に触れるとき、あなたのこれまでの軌跡がすべて相手に触れます。あなたの勇気、優しさ、智慧、厳しさ、慈愛、ユーモア、それらすべてが相手にインパクトを与えます。それがあなたの貢献です。

 あなたが掃除のおばさんをしていて、相手にどんなインパクトを与えているか分かりません。ユーモアを振りまいているかもしれません。優しさを振りまいているかもしれません。智慧を振りまいているかもしれません。

 職種は「形」ですが、貢献の「実」はあなたの「エネルギー」。

 同様に、あなたはあなたの出会う人から何かをもらっています。その人のエネルギーに触れて、その人のこれまでの生きてきた軌跡が伝わってくる。その人から勇気を感じる。優しさを感じる。寛容さを感じる。愛を感じる。その人から何かをもらっている。その人の人生が無言のうちに教えてくれるものがある。

 その人の貢献をありがたい恵みとしてあなたも受け取る。

 人と人との交流とはそういうものではないでしょうか。

 人間は半身不随になっても与えるものがあるんですね。その人が生きているだけで貢献できることがあるんですね。その人の発するエネルギーというものが、何かを与えているんですね。

 あなたの最大の貢献は、あなたのエネルギーです。あなたが存在するだけで周りに発しているエネルギーです。

 その宝を大事にしてください。

被害体験をどう乗り越えるか

 自分も含め多くの人の「心的傷害」を癒してきて気づいたことがあります。

 それは、すべての人が何らかの「被害体験」を経てきているということ。それから、私たちを苦しめるのは「未処理の被害体験」であって「処理済みの被害体験」は苦しみを生まないということです。

 つまり、重要なのは「被害体験をきちんと処理してしまうこと」だと言えます。

 まず、「被害体験」にはどういうものがあるかというお話をした後で、「きちんと処理する」とはどういうことかをお伝えしましょう。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆
 
様々な「被害体験」

 ☆ いじめられる
 ☆ 嘘をつかれる
 ☆ 嫌だということをやめてもらえない
 ☆ バカにされる
 ☆ 気持ちを無視される
 ☆ 服従を強いられる
 ☆ 見捨てられる
 ☆ 差別される
 ☆ 暴力を振るわれる
 ☆ 脅される

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「被害体験」を乗り越えるためには①癒しと②方向づけが必要

 実は、「被害体験」を消化して完全に乗り越えるためには、2つの正反対のことを完了しなくてはなりません。私は①「癒し」②「方向づけ」という言葉で表すことにしました。

 まず、「被害体験」をすると心が傷つきます。その傷が癒されないうちは、乗り越えることができません。まだ痛み続けているのですから。

 傷が癒されないうちに、無理やり前に進もうとしてもできません。怪我が治っていないのに仕事に復帰しようとするようなもので、これは自分をいじめることに等しいのです。

 つまり、傷が癒されないうちは、癒しが最も必要とされます優しさ、共感的寄り添い、慈愛が何よりも求められるのです。別の言い方をすれば「母性的関わり」ですね。

 「いつまでもショボくれているのは良くない」「いい加減吹っ切って前に進もうよ」というのはある意味でとても頼もしい精神です。これは「父性的関わり」であり「方向づけ」なわけです。これも必要なのですが、これは傷がある程度癒されてから力を発揮するわけで、癒される前にやろうとすると厳しすぎます。

 まずは「母性的関わり」でもって、どれだけ辛かったか、どのようにして欲しかったかということをとことん聞いてあげて、苦しみに寄り添うという時間がたっぷり要ります。苦しみを分かち合う心のやりとりですね。これを続けていると、傷が癒されて楽になっていきます。

 痛みがとれてくると、いよいよ前を向いて「これからどうしていこうか」という話ができるわけです。あるいは、「被害体験」について別の視点から見られる余裕が出てくる。「自分の中にある自己否定に気づかさせてくれた貴重な体験だった」なんて思えるようになる。これが「方向づけ」です。プラスの解釈をして前に繋げるという作業。辛い体験の中からでも教訓を見つけるという作業。

 この「父性的作業」は、「母性的作業」が終わってからすべきです。

まずは癒し、次に方向付け
この順番を守る

 多くの人は、母性的作業をすっ飛ばして、早く父性的作業をやろうとして失敗します。傷がまだあるのに、自分を教育して乗り越えようと焦り過ぎるんですね。

 いつまでも辛いと思っていたら不自由だから、「こういう体験をしてよかったのだ」と思うことにする。そうやって癒しの作業を省略してしまおうとするんですね。

 これはうまくいきません。

 乗り越えるためには、いかに辛かったかという気持ちを思う存分吐き出し、涙を流して泣く必要があります泣くことを我慢しているうちは癒されないのです。

 なぜなら、「悲しむ」ということが癒しのプロセスだからです。完全に「悲しみ切っていない」場合には、傷は完治しません悲しむことによって、涙を流すことによって、心は修復するのです。

 多くの人は、泣くのは辛いのでこらえています。こらえたままで、何とか気分を前向きにしようともがいてしまいます。「いつまでも悲しんでいてはいけない」と自分を叱咤激励して前を向かそうとするのです。けれども、これはうまくいきません。

 心の底からスッキリするには、許していないのに許していることにしたり、怒っているのに怒っていないことにしたりしてはいけません。許せない気持ちや怖かった気持ち、嫌だった気持ち、これらをすべて紙に書くなり、口に出して表現するなりして、表に出すことが大事です。

 傷を感じ切る空間と時間が必要なのです。傷に寄り添って共感的愛がそこに届く空間と時間が要ります。

 あるがままの感情をすべて認めて、また感じてあげて、その上で、どのように考えどのように行動していくかを決めていくのです。

 悲しみ切った後、泣き切った後、考え方や行動を吟味していけます。「父性的関わり」がここからスタートできるわけです。

 傷が治っているにも関わらず、体験したことに関してマイナス思考しかできない場合には、「父性的関わり」の方を必要とします。マイナスに捉えていても何も生産的なことはないと悟る必要があるのです。ここからは積極的な思考と行動へと自分をガイドしていく関わりの方が重要になってきます。

 「母性的関わり」ばかりで「父性的関わり」が足りないと、いつまでも無力な犠牲者になり切って、自分の道を切り開いていこうとしません。甘えん坊になってしまいます。そういうときは、優しさよりも厳しさが必要です。父性愛が求められます。

 このようにして「被害体験」が母性面と父性面の両方から処理されると、心に引っかかっている感情や傷というものがなくなります。そしてまた、この体験への見方がプラス化されてきます。なので、もはやこの体験は自分を苦しめなくなるのです。「被害体験」はこのようにして乗り越えられます。

優しさ(母性愛)が足りなくても
厳しさ(父性愛)が足りなくても
「被害体験」は乗り越えられない

悲しみ切るプロセスがもっと必要なのか
思考と行動を前向きに方向づけすることが必要なのか
よく見極める

犠牲者意識(victim consciousness)

 究極的には「犠牲者」というものは存在しません。しかし、相対的世界では「加害者」と「被害者(=犠牲者)」が存在すると認めた方がいい場合もあります。

 例えば、いじめた人といじめられた人の場合、いじめた人が「加害者」でいじめられた人が「犠牲者」だと明確に認識しないとおかしなことになる。殴った側、恐喝をした側が「害を及ぼした人」であり、殴られた側、恐喝をされた側が「害を及ぼされた人」に違いありません。いじめた側がいじめられた側を傷つけたのであって、逆ではないのです。

 相対的現実では「加害者」と「犠牲者」をきちんと二分して認識することが求められます。と同時に、いじめてはいけない、殴ってはいけない、恐喝をしてはいけないという指針を確立して事に当たるということが重要です。

 これを「喧嘩両成敗」的なあやふやな処理をしてしまっては「被害者」は救われません。「いじめられる側にも問題がある」「殴られる方も悪い」「恐喝される方も悪い」という風に片づけてしまうと、有害な行為が無罪放免にされてよくありません。

 と同時に、絶対的現実においては「犠牲者」というものは存在しないという真理もまたあるわけです。この次元では、いじめられた側は単なる「被害者」ではなく、その体験を選んでいる主体的責任を問われます。

 つまり、いじめられた側は、いじめられる要因をやはり自分の中に持っているわけです。そして、いじめられたくなければ、いじめられた経験の後で、自分を変えていかなくてはなりません「犠牲者」のままでいてはいけないのです。

 これは、いじめた側に問題がなかったということではありません。いじめることはいけないのです。いじめる側は反省する必要があります。そこを混同しないことは肝心要です。

 加害・被害体験においては、このように絶対的物差しと相対的物差しという一見矛盾したように見える2つの原理を合わせて考える必要があります。

 相対的物差しではいじめた側を「加害者」、いじめられた側を「被害者」としてきちんと扱わなくてはならない。これは主に外の客観的現実における対処で重要になります。それに対して、いじめられた側がこの体験を主観的にどのように処理するかという次元においては、絶対的物差しを持ってくる必要があるわけです。あくまでも「被害者」の主観的内面を立て直すためには、相対的物差しだけでは不十分で、絶対的物差しによって見直さなくてはならない。

 いじめられた側が相対的物差しだけで「自分は被害に遭った者である」という認識だけに凝り固まると、いつまでも相手を許せないというような「恨みの永続化」が起きます。「1つの状況において被害者という立場だった」というだけに留まらず「私は被害者という存在である」というアイデンティティーのようなものにまで膨れあがるのです。

 「私は被害者である」という自己イメージがその人の中心になると、他者との軋轢を深めてしまいます。うちの主人が悪い、会社が悪い、政府が悪い、役人が悪い、学校が悪いなどと言って、自分が苦しい原因をいろいろなところに求めるわけです。そして責める。

 バイロン・ケイティは「犠牲者ほど暴力的な人はいない(Victims are the most violent people.)」と言います。

 「私は犠牲者(被害者)である」という感じ方が自己アイデンティティーになっている人は「犠牲者意識をもっている」と表現されます。

 犠牲者意識を持つ人は、自分に問題があったとしても、常に「自分は悪くない」「相手が悪い」「自分は被害に遭っている側だ」という見方をし、相手への攻撃を正当化します。

 自分が被害者だとなれば、いかなる攻撃も許されてしまう。ここが恐ろしいところです。

 本当に純粋な犠牲者ならそれで済む話ですが、実際にはこの人自身も問題に加担している部分がある。この人にも責任がある。なのに、自分の責任をとらない。そして都合よく相手の非だけを挙げる。

 自分が学ぼう、自分が変わっていこうとは思えないわけです。いつも変わらなければならないのは周り。

 こういう偏った意識なわけです。

 幼少期に親から冷たく扱われたとか、恋愛で恋人に騙されたとか、明らかに「被害体験」をした場合でも、「被害者意識」をアイデンティティーにまでしなければ、自己実現に向かっていけます。「被害体験」を消化して、自己実現の肥やしにできれば、強く輝かしい個人になっていけるのです。

 なので、1つ1つの体験を見れば確かに「被害」に遭っていると認めたとしても、被害者のままで居座るのではなく、そこから何かを掴んで、より良い自分になっていく契機として活用することが重要なのです。

 いじめられた体験を消化するときに、自分を責めてはいけません。責めるのではないし自己嫌悪するのでもない。けれども、いじめられないためにどういう自分になったらいいのかと考える。

 恋人に騙されたことについて自分を嫌悪したり責めたりする必要はない。けれども、騙されない恋愛、信頼し合える恋愛をするには、どういう自分になっていけるだろうかと考える。騙された経験を肥やしに、何かを掴む。

 この「マイナス体験から何かを掴む。より良い自分になるための契機として活用する」という積極的姿勢があると、「犠牲者精神」にならずに済みます。

 外の現実での対処と内面の対処は、このように異なる2原理に従うことが求められるのです。

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 次の記事では、「被害体験」をどう乗り越えるかというお話をいたします。

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