菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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2018年10月

問題行動に表れるその人の幼児性

 2018-10-29 テレフォン人生相談(←クリックすると内容が読めます)では、68歳の女性が相談者です。72歳の夫は会社社長。毎日午後5時から寝るまで酒を飲み、痴呆も始まっている。何とか酒を控えさせたいけれど、言うと怒り出すのでどうしたらいいかと悩んでいます。

 回答者は、この夫にとって相談者とお酒が「母親」だったと指摘しました。それを急に取り上げようとすれば夫は怒り出して当たり前である。夫の幼児期に母親は物理的にはいたかもしれないが、心理的には不在だった

 そして、72歳になった今日でも、お酒を通して幼児的欲求を満たそうとしている。

 この夫婦関係は、男と女の関係ではなく、母親と息子の関係のようなものですね。それを何十年もやってきた。それが夫婦の暗黙の了解だった。ところが急に妻が男と女の関係、夫と妻の関係に変えようとしている。夫にすれば「どういうことだよ!」となる。

 回答者は、お酒をやめさせようとするのではなくて、晩酌に付き合い、夫の感情を聞いてあげるように勧めています。そして、段取りを踏んでいくようにと促しています。関係性を変えるにしても、まずは相手の懐の中に入っていくようにというアドバイスでした。

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 相談者の夫のように、社会的年齢と心理的年齢にギャップがある人は、世の中にたくさんいます。社会的には会社の社長である、家庭では夫であり父親である。けれども心理的には7歳とか3歳の部分を抱えている。

 そうすると「成熟した人間」を一方で演じ、では「未熟なままの人間」をどこかで発散させなくてはなりません。この「未熟さの発散」が、ある人の場合は大量の飲酒という形をとり、またある人の場合には借金を抱えるほどのギャンブルという形を取ります。40歳になってもアイドルを追いかけて何十万円も使うとか、キャバクラ嬢にうつつを抜かすとか、メイド喫茶に入り浸りになるなどということをするわけです。

 大量の飲酒も疑似恋愛もアイドル追っかけも、ティーネイジャーが一時的に通過する「未熟な行動」としては理解できますが、60歳や70歳になってもこういうことをする人が少なからずいます。

 こういった中高年の問題行動の根底には、満たされていない幼児的欲求がある、と少なくとも周囲の人間が理解すれば、適切な対応がしやすくなるでしょう。

 親の愛を無自覚で求め続けているということなんです。本当は、本人がそれに気づいて、親の愛の代用品を配偶者やお酒やアイドルやギャンブルに求めるということをやめて、無意識にずっとある感情に対して向き合うことができれば、根本的な解決ができるのですが、そこまで前進できる人ばかりではありません。本人が変わるということは諦める以外にないこともあります。

 幼児期の心理的問題に向き合えずに亡くなるということは、珍しいことではありません。

 他人はコントロールできないので、気づいた人から自分に取り組んでいく。それが大事なことだろうと思います。

幼児的欲求を自覚しなければ問題行動はやめられない

「ハゲ」をなぜ気にするのか

 日本人男性は「ハゲ」を気にする人が多いように思います。しかし欧米人男性はそれほど気にしていません。堂々とハゲている人が多いのです。

 男性ホルモンが多いほどハゲやすいので、「ハゲ」は男性的であることの表れだと言えます。

 欧米では男がハゲているからモテないということはあまり聞きません。「ハゲ」はみっともないという否定感は日本ほどは強くないのでしょう。

 髪が薄くなってきたら、スパッと思い切って短髪にしたり、広くなった額を隠さずに堂々と見せている欧米の男性は頼もしく見えますし、自信のなさを感じさせません。

 むしろ、みっともないのは「ハゲ」を否定的に捉えすぎて隠そう隠そうとすることではないかと思います。元々その人の中にあった自信のなさが「ハゲ」という舞台の上で展開されているだけであって、「ハゲ」が根本的な問題ではない場合も多いでしょう。

 大事なのは「ハゲ」について自分がどう感じているかという内面です。その内面が仕草や表情に出て、相手に印象を与えます。「ハゲ」について自分が気にせず肯定的に思っていれば、相手に貧弱な印象は与えません。けれど、自分が自分のことをみっともないと思っていれば、相手に貧弱な印象を与えてしまうのです。

 「ハゲ」だから貧弱な印象を与えるのではありません。内面が先なのです。

避けられない苦しみは受け入れることで内面が熟する

 苦しみには努力によってなくせるものと、避けられないものがあります。

 努力すれば苦しみを和らげられる、あるいはなくせるのに、努力しないのは惜しいことです。こういう苦しみは積極的に解決していくべきだと思います。

 しかし、人間として生まれた以上、避けられない苦しみというものもあります。これは甘んじて受け入れることで、その人の内面が熟していくのです。

 誰しも愛する者と別れなくてはなりません。永遠に一緒にいることはできないのです。このことを受け入れることで内面が熟します。

 すべて自分の思い通りにいくということはありません。どれだけ願っても叶わないことが誰にでもあるものです。このことを受け入れることで内面が熟します。

 自分がどれだけ努力しても、理解してくれない人、仲良くできない人、関わりを持とうとしてくれない人がいます。そういう経験も受け入れることで内面が熟します。

 人間は幼いとき、受け入れるべき苦しみがあるということが分かりません。無邪気で明るいのです。

 しかし、人間は成熟していくにつれて、人間には避けられない苦しみがあるということを学んでいきます。苦闘しながら、徐々にそれを受け入れていくのです。

 このように、障害者として生まれた我が子を受け入れて育てていくとか、何とか維持しようと努力したけれど壊れてしまった夫婦関係を離れてひとりになるとか、怪我のためにアスリートになる夢を断念するとか、友人を自殺によって失うといった体験を受け止めていくことで、内面が深く豊かになっていきます。

 大いなるものに委ね、自分の願いを手放していくことで、内面が永遠なるものに開かれていくのです。

 そうすると、その人の中に深い安らぎや慈しみが息づくようになります。

樹木希林さんに学ぶ「自分の愛し方」

 樹木希林さんは卑下したり迎合したり相手に媚びたりというところがなく、あるがままの自分をスッと出せる潔いところがあります。

 自分を抑えて相手に合わせることで波風を立てないようにする人が多いこの日本社会において、「自分を大事にするとはどういうことか」を教えてくれる貴重な存在です。

 今日は「さんまのまんま」「NHKスペシャル『”樹木希林” を生きる』」「直撃!シンソウ坂上」という3つのテレビ番組で目に止まった希林さんの行動について考えてみたいと思います。

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「さんまのまんま」(2018年4月27日放送、10月21日再放送) 

 この番組では、さんまさんがゲストの飲みたいものを出すところから始まるのが通常なのですが、希林さんは梅干しの入った茶碗を持参し、お湯を入れてくださいとさんまさんに頼みました。

 たいていのゲストはウーロン茶とかコーヒーとかコーラとかオレンジジュースなどをさんまさんに頼むのですが、そういう普通のもので飲みたいものがなかったのでしょう。飲みたくないものを無理に飲むより、自分が飲みたいものを持参すればお互いに助かると思ってなさったことだろうと思います。

 多くの人は、身勝手に思われたくないので、こういう状況でも飲みたくないものを無理に飲んで済ませるでしょう。そうすると、体はしんどいですよね。

 自分の体が欲しているものを飲むというのは「自分を愛すること」です。それをさんまさんに出してもらうのも悪いなあと思ったから自分で持ってきた。ここに相手への優しさもちゃんとあります。

 希林さんの行動は決して我がまま(自己中心的)ではありません。自分への労りと相手への優しさが両方ちゃんとあるのです。

 こういう行動を非難する人は、みんなと違う行動を取ること自体を悪いことだと考えているのだろうと思います。みんなと同じ行動をとるかどうか、周囲が期待している行動をとるかどうかで気遣いの有無を判断するというのは、本来間違っているのです。

 どういう心でそれをやっているのか、そこに本質があります。

 私もカフェインを取りたくないので、コーヒーを出されても困るとか、番茶がないときには白湯を飲みたいというところがあり、こういうことは人に説明するのが面倒くさいので、自分で飲めるものを用意するという気持ちはよく分かります。 

「NHKスペシャル『”樹木希林” を生きる』」(2018年9月26日放送) 

 長期の密着取材を断り続けてきた希林さんが、初めてOKして実現したNHKのドキュメンタリー番組です。ただし、木寺一孝ディレクターがひとりで(カメラマンや照明なしに)彼女に随行するという条件でした。

 2017年6月から1年に渡る密着取材でしたが、半年が過ぎたころ、続けることに意義を感じられなくなった希林さんとディレクターが本音をぶつけ合うシーンが2つあります。1つ目は車の中、2つ目は楽屋です。

樹木:ただ漠然とこうやってついて来て何か出てくるんならいいんだけど、私から何か出そうったってそれは出ませんよってのが本当のところでね。(カット)だけどほら、何にも出てこないじゃない、私からは。

木寺:いや、そんなことないですよ。いや、そんなことないです。そんなことないです。

樹木:いや、あなたは言っているけど、私は達成感がないから。

木寺:ああ、そうですか。

樹木:う〜む。(ため息)

木寺:希林さんの達成感がないんですね?

樹木:う〜ん。発見がないからね。

木寺:ああ、自分の?

樹木:うん。

木寺:ああ。

樹木:まあ、こんなような人間なんだよね。(カット)

木寺:だから、そういう意味では偶然しかないなと思ってちょっと長く恐縮なんですがロケさしてもらってて、ふとしたことで・・・

樹木:だから何か悪いから喋んなきゃなと思って喋ってるっていう感じ・・・するじゃない?

木寺:うむ、それがちょっと、あんまりあれですもんね?

樹木:う〜ん。

木寺:まあ、負担になりますもんね?

樹木:負担っていうか、悪いなあと思って。

木寺:うん。

樹木:うん。何かいい方法ないかね・・・


 ディレクターが漠然とついてくるだけでは何も出せないし達成感もないということを正直に語っています。

 次はその続きです。

樹木:何が面白くて私を撮っているのかという、まあ、これは私が「4本映画をやるから、それにくっついて来たらどう?」って言ったのが良くなかったんだけど、映画をどう向き合っているかっていう話を撮るわけではないわけだからね、結果的に。じゃあ何に興味があって、何に興味がないのか、ちょっと教えてもらいたいわ。あんまり反応が・・・私に興味を持つのは何が興味持つの? NHKが「ちょっとやってみな」って言うから来たわけ?

木寺:いや、そんなことないです。

樹木:何なの?

木寺:その、生き方にやっぱり惹かれるというか・・

樹木:漠然としているよね、それではね。仕事をする対象として私が興味を持つ話もしているけれど、だいたいこう反応で分かるんだけど、実に律儀な反応が返ってくるから弾んでいかないんだよね、話が。(カット)どうするか。どうするかねえ。

木寺:あれですよね。だんだん希林さんと喋れなくなってきた自分がいて・・・

樹木:どういう?

木寺:すいません何か。

樹木:え?

木寺:甘え話みたいで恐縮なんですけど。

樹木:うん。

木寺:やっぱり、こういう風に、まああのこうやって撮ったやつ後で見るじゃないですか?

樹木:うん。

木寺:やっぱり、こう希林さんが今みたいに問われることを、やっぱり誤魔化すんですね、僕が。はぐらかすっていうか。笑って誤魔化すっていうか。多分そうやって自分はまあ多分そういう子供の頃そういう生き方をしてきているので・・・

樹木:うん。

木寺:・・・何かちょっとこう人から怒られると、こう誤魔化したり、あるいはもう最初から近づかなかったり。

樹木:それは人間誰でもそうだから、別にあなたに限らず。(カット)

木寺:だから、結構僕は突きつけられてて、嫁との関係もそうやって多分、子供を作ることについても、別の次元の、家を例えば買うとか、どこに住むかっていう問いかけに、いつもはぐらかすっていうか、誤魔化して・・・(泣き出す)


 「私の何に興味があってこの取材をしているのか?」「あなたから律儀な反応しか感じられない」という希林さんの言葉に触発され、木寺ディレクターは自分の生き方の根本的な部分にまで意識を馳せています。相手が真剣な問いかけをしてくるときに、はぐらかし誤魔化し表面的にしか返さない自分がいる。妻とのやりとりもそうだ。

 希林さんが真剣に生きていて、いろいろなことをあやふやにせず、本当のところはどうなのかを突き詰める人であるからこそ、いい加減な取材では満足できません。求める側に真剣さがあってこそ応えられる。そういうレベルでの仕事をしたい。そうすると、ディレクターも自分の中の真実と向き合わなくてはならなくなったんだろうと思います。

 多くの人は、相手との仕事に納得できなくても、ある程度のところで妥協して、これ以上相手に求めるのは悪いかなあなんて遠慮してしまうものです。けれど、高いレベルの仕事をしようと思えば、本心をぶつけ合わなくてはならない。映画づくりも結婚生活もそうでしょう。

 自分が満足できないとき、その気持ちをストレートに出すことで、相手の真実を引き出そうとする。そういう希林さんに「真実へのコミットメント」を強烈に感じます。

 納得できないものを放置しない。とことん話し合う。これも「自分の愛し方」に違いありません。そして、このように自分を本当の意味で大事にできる人は、相手が逃げたり偽ったりすることを許さないが故に、相手にも自分を大事にすることを促してくれるのです。

「直撃!シンソウ坂上」(2018年10月25日放送)

 2013年に初めて伊勢参りをした希林さん。神社近くのうどん屋に入ったときお店の女将さんがお土産を渡そうとしたのですが受け取りませんでした。

 その時のやりとりです。

女将:(お店のロゴが入った浴衣のようなものを持ってきて)これをな、是非な。これ。ちょっと希林さん、あなた好きじゃないですか?

樹木:好きじゃないです。

女将:好きやと思うて。

樹木:いやいや。(手を合わせて)どうもありがとう。気持ちを頂きました。

女将:(納得できない顔でじっと希林さんを見つめる)

樹木:何か言ってる。文句言ってる。

女将:せっかく用意したのに。

樹木:それはやっぱりまずいよ。

女将:宮本亜門さんもな「おうちで着せて頂きます」言うて持っていってもらいましたんよ。

樹木:ああそう。私それ、うちでは着ません。

女将:あらそう。(カット)

樹木:もらっちゃった方が和気あいあいでいいの。だけど、それ粗末にしたら申し訳ないからもらわないの。そうすると喧嘩腰よ。だってそれ着ないよ、そんな尊いもの。

女将:飾っといて、これ。

樹木:お母さんも頑丈だよ。心が頑丈。でも私は負けない。私はご辞退いたします。

 念のために言っておきますが、このシーンの雰囲気は決して険悪なものではなく、ユーモアたっぷりの和やかなものでした。

 この女将さん、お店にまつわるものを希林さんにあげたかったんですね。希林さんにもらって欲しかった。けれど、これは女将さんのためなんですよね。希林さんのことを思ってのプレゼントではない。

 それが証拠に、要らないと言われたときに「せっかく用意したのに」という愚痴が出ました。

 こういう風にもらいたくない物をくれる相手に対して、多くの人は自分を偽って親切を装います。「ありがたく頂きます」と言って受け取るのです。それが相手への思いやりだと思っている人が多い。

 でも、欲しくないものを受け取ることは決して相手への親切ではないと思います。丁寧に断れば十分に礼を尽くしたことになるのです。

 受け取りたくないとこちらが言うのに、「受け取らないとは失礼な」と怒る側に問題があります。ノーと言わせないのですから、強要しているわけです。

 私も英語教室とピアノ教室を経営していたとき、教え子の親御さんから菓子箱をもらって困りました。私はできるだけお菓子を食べたくないわけです。そして砂糖のたっぷり入ったものを家族にも食べさせたくない。「ああ、また甘いお菓子かあ」と困りました。

 ではどうしたかと言いますと、新しい生徒さんが来ると、私は贈答品は受け取らないことにしているのでお気遣いなくと最初に伝えておくようにしたんです。それで9割は解決。知らないで最初に持ってくるような相手には、希林さんと同じように「お気持ちだけいただきます」と言って菓子箱を持って帰ってもらいました。

 要らないものを受け取らずに断る。これが「自分の愛し方」の3つ目です。

 人からのプレゼントやアドバイスや親切行為で、要らないものは受け取らず丁重にお返しします。それで礼は尽くされたのです。

 希林さんの対応には、あちこちに相手への気遣いが感じられます。まず、手を合わせて感謝を伝えています。相手が与えようとしている「物」を悪く言わず、「尊いもの」と呼ぶことで、相手の気持ちを大事にしています。それでも食い下がる女将さんを「頑固」と言わず「頑丈」と柔らかく言っています。

 受け取らないことに対して相手が不機嫌になるなら、その人が自己中心的であり我がままなのです。自分が与えたいものを受け取らせたいという一方的な気持ちであって、こちらの本当の利益には関心がありません。ですから、「何かをあげる」ということは親切行為のように見えて、実質は迷惑行為だという場合が多々あると弁えておきたいものです。

 「受け取らないと失礼」などと解釈し罪悪感や義務感で受け取る必要はありません。それは自分を大事にしていることにはならないのです。

 プレゼントは自分が欲しいものであり、かつ純粋な思いやりから出たものである場合にだけ受け取ることに私はしています。

「立場」ではなく「ひとりの人間」として相手と接する

 10年前の自分と比べると、人付き合いでこういうことが大事なんだなあと分かってきたことが1つあります。それは、「立場」で相手と接するのではなく「ひとりの人間」として接するということです。

 例えば、最近あったことですが、自動車屋さんの不手際で困ったことが起きました。詳細は省きますが、彼の側に問題があって、困った状態が数週間も続いたわけです。それでとうとう彼が説明にやってきたとき、最初まったく謝罪も何もなく、ただ経緯を長々と話していました。

 イライラしてきた私は、こちらにはまったく非のないことであり、謝罪をしていただきたいという気持ちを伝えたんです。そしたら、彼は深々と頭を下げて「申し訳ありませんでした」と謝ってくれました。それはそれで有り難かったんですが、何を謝ってくれているのかがよく分からなかったので、「何を謝って下さっているんですか?」「もう一度やり直せるとしたら、何を変えたいと思っていらっしゃるんですか?」と尋ねました。

 そしたら、彼自身が判断ミスだったと反省している点について語ってくれました。それを聞いて大分ホッとしてきました。この人は本当に反省をしてくれているんだなという誠意が伝わってきたからです。でも、判断ミスの後でこちらが連絡しても長く放置されたことについてはまだ解決していませんでした。なぜ対処が遅れたのかと尋ねると、他のもっと緊急の仕事があって手が回らなかったと彼は言いました。

 そこで私は「他に緊急の仕事があってこちらにすぐに対処できないのであれば、それは言ってくれれば理解できる。そういうことは誰にでもあるでしょうから」と言ったわけです。そしたら「いや、他の仕事を先にしなくてはいけないと言うのは失礼なので」と返答したので、私は「それは違うと思います。あなたが本当のことを言わないことで、こちらは放置されたように感じて不安になるんです。一番大事なのは、放置されているわけじゃないんだと感じられることなのですよ」と言ったら分かってくれたようでした。

 このように「気持ちのやりとり」をとことん終えたところで、私の心は安らかで温かくなりました。そして、彼にありがとうと言って、必要な対処をお願いしたわけです。

 嫌なことが起きて、それについて話し合ったわけですが、ビックリするほど清々しい気持ちになりました。こんなに「やりとり」がうまくいってポジティブな結果になったということが、これまでそんなになかったと思うのです。

 昔の自分はとてもこんな風にコミュニケーションが取れなかったなあと振り返って思います。

 なんでうまくいったんだろう? と考えてみるに、お互いを「同じ人間だ」と思って感じるままを素直に表現し、また相手の感じているままを理解しようと心の耳で聞いたからだろうと思った次第です。

 「自動車屋としてどうあるべきか」とか「客として」ということじゃなく、彼が「ひとりの人間」としてやったことが私という「ひとりの人間」を困らせた。ただそういうことだと思うんです。 

 それで「こういう風にされると、こんな風に困るのよねえ」と彼に分かってもらいたかった。そして「分かってくれればそれで十分」なんです。「ああ、またこの人を信頼していこう」という気持ちになれました。それで心はポカポカと温かかった。

 まあ、彼も心が通じる人だったからうまくいったわけで、通じない人だったらこの出来事を通して関係が壊れていたかもしれません。彼も私に真摯に向き合ってくれた、それは大きかったですね。

 もう1つ別の話ですが、今日あるところから電話があって、新しい事業を始めるんで挨拶に来たいとその女性は言いました。いちおう、どういう事業なんですかと尋ねましたが、私の仕事と接点がなさそうだったので、その通りに伝えたわけです。

 でも、向こうはなかなか諦めないものですから、何を望んでいらっしゃるのですかとストレートに聞きました。そうすると、向こうの利用者の中にはカウンセリングを必要とする人もいるだろうから、こちらに紹介できればとおっしゃる。

 私は直感で、コラボレーションができる可能性は極めて低いと感じたので、「そちらの利用者さんと私のクライアントさんでは、おそらく被らないと思うんですよね」「そちらのお仕事と私の仕事に共通部分がないように思うので、お越しいただいても仕方がないと思います」と言ってお断りしました。

 向こうの要望に私は応えられずお断りしたわけですから、気まずく終わってもおかしくない会話だったと思うのですが、なぜか嬉しくなって心がポカポカの状態で電話を切ったんです。向こうもこっちも少し笑い出して、「じゃあ、頑張ってくださいねえ」なんて彼女に言いながら微笑ましいエンディングでした。

 これも、私はただ「自分」という人間のままに素直に表現し、相手の気持ちや事情を「同じ人間」として受け取っただけなんですが、それが心を一つにすることになったのでしょう。

 一緒に仕事をする気にはなれませんでしたが、「うわ、この人とてもいい人だなあ」と感じたし、この電話が来て楽しかったとさえ思いました。

 やっぱり、「立場」で物を言うのではなくて、「ただの人間」として相手と接するということがものすごくパワフルなんだなあと痛感しています。

「不満」は誰の未熟さによって生じているのか

 人間関係が本当に調和できるためには、お互いの「不満」がきちんと処理されることが必要です。

 さて、「不満」を適切に処理するためには、「至らなさ」や「未熟さ」が相手にあるのか自分にあるのかを見極めなくてはなりません。

 この記事では、「不満」を3種類に分けて考えます。その時に「不満は相手か自分の至らなさや未熟さによって生じている」という視点を重視するわけです。

 ①相手の未熟さが問題である場合
 ②自分の未熟さが問題である場合
 ③お互いの未熟さが問題である場合

 ①の場合、自分には全く非がなく、相手の問題によって自分が困らされているだけの状況です。こういう場合、自分の「不満」は正当なものであり、この「不満」を解決するには相手に変わってもらうか、変わらないときには距離を取るしか方法はありません。自分は純粋な「被害者」なのですから、「不満」を我慢しなくてはならないとか、「不満」になる自分が悪いと考える必要はないのです。

 例えば、ハラスメントを受けている場合、ハラスメントをする相手に問題があります。どのような理由があろうともハラスメントは正当化されません。ハラスメントをするということは「至らなさ」であり「未熟さ」なのです。ハラスメントはする側に100%の非があります。

 ハラスメントをされて「不満」を感じない人はいないでしょう。「不満」になることは正常なことであり健全なことです。

 ②の場合、①とは反対に、「不満」になる自分の側に「至らなさ」や「未熟さ」があります。例えば、情緒的に未成熟な男性が結婚し、妻に自己犠牲的奉仕を要求することがあります。「自分のことだけ構って欲しい」「全てのことにおいて自分を優先させて欲しい」と妻に要求するわけです。そうすると、妻が友達と遊びに行くことも許せない、24時間居場所を知らせないと許せないとなります。常に束縛しておきたいわけです。この望みが叶わなかったとき、妻を責めます。

 このように、情緒的に未成熟な人は、自分の思い通りに甘えさせてくれない相手に対して不機嫌になってしまうわけです。この「不満」は相手に非があることで生じているのではなく、自分の「未熟さ」によって生じています。その意味で、この「不満」は正当なものではないわけで、「不満になる側に問題がある」と言って差し支えありません。

 この「不満」を解決するには、この男性が自分の「未熟さ」を自覚して、成長を決意するしかありません。自分が相手に要求していることは不当なのだときちんと認識して、要求することをストップする。と同時に、自分の幼児的願望に向き合っていくことが求められます。

 さて、①と②で見てきたように、「不満になったときは必ず相手に問題がある」とも「不満になる側に常に問題がある」とも言えません。「不満」は「相手の未熟さ」によっても生じるし「自分の未熟さ」によっても生じるものなのです。

 ということで、「不満」を処理する際に大事なのは「誰の未熟さ」によって「不満」が生じているのかを見極めることだと言えます。これを間違えると、問題を解決するどころか悪化させるだけになりかねません。

 さて、どちらか一方にだけ問題がある場合は分かりやすいのですが、実際には自分にも相手にも「未熟さ」「至らなさ」があって「不満」が生じていることも少なくありません。それが③です。

 例えば、夫婦関係で言えば、 DVをやめない夫、浮気を繰り返す夫には確かに「未熟さ」があります。けれども、それに悩まされる側の妻にも「そういう男と別れられない」という「未熟さ」があったりするわけです。職場関係で言えば、残業時間の隠蔽を強要するブラック企業に「未熟さ」があるのは当然ですが、そういう虐待や搾取の環境から「身を引けない」という社員にも「未熟さ」があります。

 多くの人は「加害者から自立できない」という問題を抱えています。その根本的原因はその人の中にある「自己否定」です。

 自分という存在を根本的に肯定し、尊重している人は、自分をないがしろにする相手と一緒にいること、一緒に働くということを断ることができます。「あ、なめられているな」と瞬時に見極められますし、それを「許さない」という心の姿勢が断固として取れるからです。

 しかし、この基本的自己肯定ができていない人は、劣悪な環境であっても、それを容認してしまう。そういう「弱さ」があるわけです。セックスしたくない時でも夫に求められたら応えなくてはと思って夫からの強引な要求を呑んでしまう。これは「自分を守れないという未熟さ」です。

 24時間どこにいるか報告しろなどと要求されたら「何を馬鹿なことを」と反論できるのが正常な人間なのですが、自己否定が強いと、相手の要求がおかしいということが分かりません。ないがしろにされることに慣れている人は、なめられてしまうのです。

 このように「相手の未熟さ」が自分を害しているときに、正当な要求をしたり、そういう有害な相手から離れるということができない場合、「自分の未熟さ」が被害を食い止められなくしています

 こういう場合、「相手の問題」をきちんと認識すると同時に「自分の問題」も認めなくてはなりません。相手への接し方を変えるとともに、正当な要求ができるだけの自己肯定感を自分の中に育んでいく必要があるのです。

 今日は「不満」の原因が①相手にある場合、②自分にある場合、③双方にある場合に分けて対処することが重要だというお話をしました。

あらゆる性質は対極のものを統合することで高められる

 私はいろいろなことを考えるときに polarity(極性)という視点を大事にします。

 あらゆる現象は二元的であり、二極間の力動によって生じているわけです。

 例えば「男性性」と「女性性」を見ると、これらは対極を成していることが分かります。男性エネルギーは前に前にと出ていく性質をもっています。自分の欲しいものに向かっていくとか、獲物や女性を追いかけるとか、リーダーシップを発揮して「俺についてこい」という感じです。それに対して女性エネルギーは正反対の性質をもっています。相手の方から自分を満たしてくれることを待っているし、求められ追いかけられるのを期待しているし、リーダーシップをもった頼もしい人についていきたいと思うものなのです。

 「どちらの方がいい」という話ではなく、どちらが欠けても困ります。「上と下」「右と左」のように、対極というのは両方揃って初めて成り立つものなのです。

 さて、男は男になるために女を必要とし、女も女になるために男を必要としています。男は男だけで男になれるわけではないのです。女との相対的関係において男であるわけですから。世の中に男しかいなかったら、それは男ではありません。

 ということは、男性性が発達するときに女性性が大きな役割を果たすのであり、女性性の発達にも男性性が必要とされるということなのです。

 男性性が未熟な段階では、我がままでやんちゃです。自分の好き勝手に振る舞い、相手のことを考えません。しかし、女性性と関わっていくうちに、男性性の欠点が取れていきます。女性性によって男性性が洗練されてくるのです。

 女性性の柔らかさに触れて、男性性の自己中心性や頑なさが克服され、相手のことを慮れる性質を統合していきます。男性性の強さはそのままですが、その強さは自分のためだけに用いるのではなく、相手のために用いることができるようになるのです。

 このようにして、成熟した男性性においては、自己中心性や暴力性や頑固さが乗り越えられて、より洗練された強さになっています

 また、女性性が未熟な段階では、何でもかんでも受け入れてしまう節度のなさがあります。悪いものでも許してしまうし、自分の限界を超えて尽くしてしまうのです。自分を肯定できず自分を安売りしてしまったり、簡単に相手の犠牲になってしまいます。感情的で取り止めのない話し方をするので何かを達成するのが下手です。ところが、男性性と関わっていくうちに、女性性の欠点が取れていきます。男性性によって女性性もまた洗練されていくのです。

 男性性の強さに触れて、女性性の無秩序や自己犠牲が克服され、理性的に判断したり自分のことを大事にできる性質を統合していきます。女性性の受容性・共感性はそのままですが、その柔らかさは自分を害さない程度に相手に与えられるようになるのです。

 このようにして、成熟した女性性においては、自己不在や迎合性や優柔不断が乗り越えられて、より凛とした洗練された柔らかさになっています

 男性性も女性性も、対極の性質を受け入れて影響されることによって、自らを高めていくようになっているわけです。

 男性性が女性性から学ばず、女性性が男性性から学ばない関係においては、それぞれの未熟さが病的になってしまいます。

 我がまま放題の夫に黙って服従する妻。暴力を振るう夫に立ち向かったり離れたりできない妻。こういう夫婦関係がその典型です。

 こういう関係においては、男の強さが女を傷つけています。また女が男の我がままを許してしまうことで男は成長できないでいるわけです。

 それぞれが自分にない部分について完全に相手に依存していて、自分の成長に繋げていません。

 男は女から心の柔らかさを学ぶ必要があります。そして、相手の気持ちを聞いてあげるという実践を通して少し女性性を取り込むのです。そうすると、自分の男性性がレベルアップしていきます。

 また、女は男から自分を主張することや、奉仕に制限を設けることや、自分を害するものにノーと言うことを学ぶ必要があります。そうすると、自分の女性性がレベルアップしていくのです。

 男性性と女性性はあらゆる対極と同じように、支え合い高め合う関係にあります。

 「話す」と「聞く」もそうですね。

 「話し上手」になるには「聞き上手」であることが大きな力となります。話してばかりで聞かない人は、本当には話し上手にはなれません。というのは、聞くことができなければ、聞く人の気持ちが分かりません。聞く人の気持ちが分からずに喋る人は、自分勝手な喋り方をしていて聞く人を満足させられないのです。

 同様に、話すことが好きでなく、いつも聞いてしまうという人は、本当の意味で話す人が喜ぶような聞き方はできません。

 つまり、話すことが上手になればなるほど、聞き方も洗練されてくるのであり、聞くことが上手になればなるほど、話し方も洗練されてくるわけです。

 「聞く」と「話す」はお互いを支え、高めているということがお分かりいただけたでしょうか。

 あらゆる性質は、正反対のものを統合することで、1つ上のレベルに昇華されていくのです。

あなたの「火星」と「金星」どちらが強いですか

 人間関係の「ギブ&テイク」には「火星」と「金星」の発達が関わっています。

 単純化するなら「火星」は「自己主張の星」、「金星」は「協調性の星」。この2つは対極を成しているわけです。

 皆さんの中では「火星」と「金星」のどちらが強いでしょうか。あるいは同じぐらいでしょうか。また、それぞれの星のプラス面とマイナス面のどちらがより大きく出ているでしょうか。

 ご自分の課題を認識していただくために、「火星」と「金星」の特徴を次に挙げましょう。

火星(Mars)

プラス面
☆やりたいことに向かっていける
☆自分をきちんと主張できる
☆自分を害する者に立ち向かえる
☆活力がある
☆スポーツや武術に長けている
☆リーダーシップを発揮できる
☆性的魅力がある

マイナス面
☆欲深い
☆自分が優位に立たないと気が済まない
☆暴力的である
☆自分の話ばかりする
☆周囲に服従を強いる
☆セクハラをする
☆共感能力が低い

未発達
☆やりたいことに向かっていけない
☆自分をきちんと主張できない
☆自分を害する者に立ち向かえない
☆活力がない
☆スポーツや武術が苦手
☆リーダーシップがない
☆性的魅力がない

金星(Venus)

プラス面
☆相手の気持ちを敏感に感じ取れる
☆聞き上手
☆相手に譲ったり合わせたりできる
☆物事を平らに収められる
☆相手のニーズに喜んで応えられる
☆サービス精神が旺盛
☆美的感覚に優れている
☆麗しく落ち着いた雰囲気を持っている

マイナス面
☆本音を隠して表面的に済ませる
☆自分を偽って相手に迎合する
☆尽くし過ぎて不平不満が出る
☆虚栄心(見かけの美しさ)に溺れる
☆ひとりでいることができない
☆受け身で主体性に欠けている
☆自分軸がない

未発達
☆周囲の人の気持ちがよく分からない
☆人間関係に不器用
☆相手の喜ぶことをしてあげようと思わない
☆美的センスに乏しい(服装、身のこなし、言葉遣いなどに美しさがない)
☆粗っぽい
☆落ち着きがない

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 もしどちらかが未発達なら、意識的に育むようにしてください。また、マイナス面が強いならプラス面に変えていくように努めてください。

誰かを傷つけてしまった自分をどう許すか

 人間なら誰でも人を傷つけた経験があると思います。傷つけようという意図がなかったとしても、知らずに傷つけてしまうということがあるわけです。

 そういう私も人を傷つけてしまったことがあります。

 さて、人を傷つけてしまったとき、ずっと苦しみ続ける必要はありません。心が解放されるためには「3つのワーク」を行う必要があるのですが、1つずつお話しいたしましょう。

1.加害を認める

 まず、自分が相手に対して加害行為をした、自分が相手を傷つけたということを真っ直ぐに認めることが重要です。否認や正当化をして逃げていては前に進めません。

 ただ、加害を認めただけでは罪悪感に苦しむことになります。これを恐れるあまり、多くの人はこの1番目のワークから逃げるのです。なので、後でお話しする「自分を罪悪感から解放してあげる」という部分を予め理解しておくといいでしょう。

2.相手の痛みに共感する

 相手の気持ちになってみるということです。そして相手の痛みを共感的に理解する。被害者の気持ちに繋がるには勇気がいります。1番目と同様に、相手の痛みを感じると罪悪感を感じて自分が辛くなるからです。相手の苦しみから断絶し、知らん顔する方がずっと楽なのです。

 相手の心と繋がろうとすると、相手の痛みが伝わってきます。それに心を開いていくと、自然と悲しみが湧いてきます。この悲しみはとても重要です。相手を傷つけたことをきちんと「悔やんでいる」というプロセスなのです。

 相手に対してこの「悔やみ」の気持ちを伝えられる場合もあれば伝えられない場合もあるでしょう。伝えられない場合であっても、自分の中できちんとこの「2番目のワーク」を行っておくことが大事です。

3.自分を受容する

 相手の痛みに共感することと自分を責めることは混同されやすいので注意がいります。自分の行ったことをきちんと反省し悔やむことは大事です。その意味では、自分の行いを許してはいけません。そこから学び、ちゃんと次に繋げるということです。次回から同じようにはしないとしっかり決めるのです。と同時に、人間は不完全な存在であり、ミスを犯さない者は一人もいないのであるから、いつまでも責め続けるのは厳しすぎるということを弁えなくてはなりません。

 つまり、不完全である自分、ミスを犯さざるを得ない人間としての自分に対して、慈愛を持って包み込んであげることもまた重要なのです。

 ミスを繰り返さないようにしようと誓うことと、ミスを犯した自分の不完全さを受容し許すということは両立します。

 ミスに対して甘くなってはいけないけれども、ミスを犯したことは許すべきなのです。この2つを混同すると心の修復ができません。ですから、この違いをしっかり掴むことが肝心です。

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 自分が人を傷つけてしまったとき、3種類の対応が考えられます。最初の2つは未熟であり、心が修復できません。3番目だけが成熟した対応であり、心の修復に繋がります。

1.甘すぎる対応

 傷つけたことを認めないで逃げる。自分のミスを正当化する。これは自分に対して甘すぎるのです。無責任という未熟さがあります。

2.厳しすぎる対応

 反対に、相手に悪いことをしてしまったと反省し、悔やむことはできているけれど、ミスを犯した自分を許せない。ああすべきだったこうすべきだったと主張し、自分が不完全な人間であることに対して受容的になれない。完璧主義に陥っている。自分に対する慈悲が足りないという未熟さがあります。

3.潔くミスを認めると同時に自分の不完全さに慈愛を持つ

 成熟した対応は、ミスを真っ直ぐに認め、相手の痛みを共有し一緒に悲しむことができ、かつ自分の不完全さに対して慈愛を持って理解を示すことができるというものです。こうすると、傷つけた経験を乗り越えて、愛と智慧が深まっています。いつまでも罪悪感に苦しむということがありません。

 大事なことは、
被害者に対して慈愛があると同時に加害者である自分に対しても慈愛があるということなのです。

心理的に崩壊すると周囲か自分を虐待する

 不満の処理がうまくいかないと、その人の中に怒りが溜まっていきます。

 そして、この怒りのエネルギーはどこかに向けて放射されなくてはなりません。

 本来、怒りのエネルギーは不満の処理に用いられるべき積極的・創造的なものです。

 例えば、自分をないがしろにする相手がいたとき、その人ときちんと対立して、尊重をもった扱いを要求する。あるいは、そういう相手とは付き合わないとキッパリ関係を断つ。

 こうやって、自分を肯定するために怒りのエネルギーを使っていれば、不満はちゃんと処理され、溜まっていくということはありません。

 つまり、対立すべき相手とちゃんと対立していれば、怒りを適切に用いて不満を積極的に解決してあげられるわけです。

 ところが、何らかの理由があって、怒りを向けるべき相手に向けられないでいると、不満は放置されます。そして、そこから生じ続ける怒りは、どこか別のところに放射せざるを得なくなるのです。

 本当に怒っている相手には怒りを向けられません。ということは、全く悪くない第三者を怒りのターゲットにするしかないのです。

 こうやって、心理的に崩壊した人(不満を解決できない人)は、周囲の誰かをイジメます。「怒りのはけ口」として誰かを利用するのです。これがサディズムの心理です。この人の中では怒りのエネルギーが地下のマグマのように溜まって圧力が高まっていきます。ものすごく気持ち悪い。その圧迫感から解放されたいと思う。誰かを苦しめていると、その圧迫感から解放されるように感じるのです。イジメることによって得られる快感は、自分で処理できない怒りの圧迫感から一時的に自由になる爽快感だと思います。

 さて、心理的に崩壊した人(不満を解決できない人)の中には、生来の気質が優しいため、他人をイジメる気になれない人がいます。こういう人は、怒りを外に向けることができません。そうすると、どうなるか。行き場を失った怒りのエネルギーは、その人自身を蝕んでいきます。

 怒りは自分を責めるエネルギーになるのです。肉体的に自分を傷つけるような自傷行為をする人もいれば、心理的に自分を否定して自己無価値感や絶望感を持つ人もいます。長く続くとうつ病になったり、自殺に至ることさえある。これがマゾヒズムです。

 自分を殺すということは、自分に向ける攻撃性の中で最大のものだと考えられます。

 この同じエネルギーが外に向かうと、無差別殺人になるわけです。

 さて、「無差別殺人」(極度のサディズム)か「自殺」(極度のマゾヒズム)という最終段階に至る前に、自分の中にある怒りのエネルギーに気づいてきちんと処理できれば、いくらでも怒りを積極的・創造的な方向に流してあげることが可能です。

 漠然とした世間に対する敵意を感じるとか、時々訳もわからず殺意を感じるという人は、注意してください。おそらく、長い間いろいろな不満を我慢し続けてきているはずです。不満ときちんと向き合ってください。我慢は決して美德ではありません。

 それにはまず、「誰から何をされて不満だったのか」「本当に怒りを向けたいのは誰なのか」をしっかりと把握することです。敵意を世間一般に向けてしまわないために、また敵意を自分自身に向けてしまわないために、本当に怒っている相手をきちんと特定する必要があります。

 自分の怒りの交通整理をするのです。

 なぜ自分が怒っているのかが正確に分かると、無実の第三者や自分自身に怒りをぶつける必要性がなくなっていきます。

 そうすると、
自分の幸せを実現するための建設的なエネルギーとして怒りが用いられていくわけです。

 自分の夢に向かっていく情熱や、自分のことをきちんと主張する力や、有害なものを断ち切る潔さは、実は本質的に怒りと同じエネルギーだと私は考えています。「ファイト」の力と言ったらわかりやすいでしょうか。「ファイト」は相手を傷つけるエネルギーとしても使えるけれど、ポジティブなものを建設するためのエネルギーとしても使えるのです。

 怒りのエネルギーは、建設的に用いることができないときに、ポジティブな目的を見失って相手や自分を蝕んでしまいます

 ということは、怒りをきちんと解決するためには、その怒りが本来持っているポジティブな目的に繋いであげなくてはなりません

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 さて、2018-10-18 テレフォン人生相談(←クリックすると内容が読めます)では、10年間母親にイジメられてきたという50歳女性が相談者です。今朝生まれて初めて母親を叩いてしまったのだけれど、これからどうしようと悩んでいます。

 回答者はこの母親がずっと不満を解消できずに生きてきた人だと説明し、さらに母親が怒りを夫や娘に向けてきた構図を明らかにしていきます。そして、相談者自身もそういう母親への不満を10年間我慢してきてしまった。その怒りが「叩く」という形で出てきたことは基本的にいいことだと認めた上で、母親に頼るのをやめて実家を出ることを勧めています。

 心理的に崩壊した人と一緒に生活し、その人に依存し続ければ、自分自身が心理的崩壊に向かうほかない。そのことをはっきりと諭しています。

 世の中にはこのようなサディストの親がおり、子供はそういう親から離れる以外に道はない。厳しい現実ですが、自分を救う道がちゃんと照らし出されているところに救いも感じます。

「お話しする」は尊敬語ではない

 敬語の誤用でよくあるのは尊敬語と謙譲語の混同です。

 前回お話しした「頂く」は「もらう」の謙譲語で、もらう人を一段低くすることで、与えている人への敬意を表す言葉でした。

 「頂く」の主語である人を低くするわけですから、相手(二人称)を主語にしては失礼です。「私が頂く」は適切ですが、「あなたが頂く」「先生が頂く」と言うのは NG だと説明しました。

 さて、「お話しする」「お聞きする」「お会いする」「お尋ねする」など、「お+動詞の連用形+する」は謙譲語の作り方の1つです。

 謙譲語ですから、自分を主語にして低くする分には構いません。

(正)今日あったことを先生にお話ししました。
(正)治療法について主治医にお聞きしました。
(正)社長にお会いしました。
(正)分からない点について教授にお尋ねしました。

 しかし、次のように相手(二人称)に使ってはいけません。

(誤)あなたは監督にそのことをお話ししましたか?
(誤)それは主治医にお聞きしたことですか?
(誤)社長にお会いしましたか?
(誤)教授にお尋ねすべきだと思います。

 尊敬語は「お+動詞の連用形+になる」で作ることができます。「お話しになる」「お聞きになる」「お会いになる」「お尋ねになる」などです。

 上の4つを正しく言い換えてみましょう。

(正)あなたは監督にそのことをお話しになりましたか?
(正)それは主治医にお聞きになったことですか? 
(正)社長にお会いになりましたか?
(正)教授にお尋ねになるべきだと思います。

 相手(二人称)に対して「お話しする」などの謙譲語を使うというミスは、マスコミの人たちの間でもよく聞かれます。

 例えば・・・

(誤)監督にはいつお会いしましたか?
(誤)そのことを社長にお話ししましたか?

 尊敬語を使うと次のようになります。

(正)監督にはいつお会いになりましたか(or 会われましたか)?
(正)そのことを社長にお話しになりましたか(or 話されましたか)?
 

「頂く」は尊敬語ではない

 「頂く」は謙譲語ですが、尊敬語のように使う人がとても目立ちます。テレビ番組の司会者でも次のような言い方をしているのを毎日のように聞きます。

 「今日は A 先生がスタジオに来て頂いています。」(誤)

 「来て頂く」は「来てもらう」の謙譲表現ですから、主語は「私たち」のほうです。

 「(私たち A 先生来て頂いています(来てもらっています)」なら問題ありません。

 「A 先生」と A 先生を主語にするなら「来てくれる」の尊敬表現である「来て下さる」を使うのが適切です。

 「
A 先生が(私たちのために)来て下さっています(来てくれています)」という風に。

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 同様に、「朝ごはんを頂く」「賞を頂く」などの表現は1人称(自分・自分たち)について使うのが適切で、2人称(相手)や3人称(第三者)について使うとおかしなことになります。謙譲語は主語の人間を一段低くすることで主語とは別の人間に対する敬意を示すためのものだからです。

(正)私はもう朝ごはんを頂きました。(謙譲語)

(誤)(あなたは)もう朝ごはんを頂きましたか?(謙譲語)
 →(正)(あなたは)もう朝ごはんを召し上がりましたか?(尊敬語)

(誤)田中さんはもう朝ごはんを頂いたそうです。(謙譲語)
 →(正)田中さんはもう朝ごはんを召し上がったそうです。(尊敬語)

(誤)山中教授はノーベル賞を頂いた方ですよね?(謙譲語)
 →(正)山中教授はノーベル賞を取られた(もらわれた、受賞された)方ですよね?(尊敬語)

(誤)師匠は先代からこれを形見として頂いたそうです。(謙譲語)
 →(正)師匠は先代からこれを形見としてお授かりになった(もらわれた、受け取られた)そうです。(尊敬語)

気をつけたいカタカナ英語

 日本語の一部になっているカタカナ英語で気になるものが幾つかあります。

「シュミレーション」or「シミュレーション」?

 とても多くの人が「シュミレーション」と発音していますが、正しくは「シミュレーション」です。英語では "simulation" と書きます。

 日本語にはもともと「ミュ」という音がありません。「シ・ミュ」はとても言いにくいので、「シュ・ミ」と変えたくなる気持ちはよく分かります。

 分かりますが間違いです。

「クオーター制」or「クオータ制」?

 「割り当て制」のことを「クオータ制」と言います。例えば、これまで差別されてきた女性を一定の割合で国会議員にしようと考え、「議員の最低3割は必ず女性にしなくてはならない」などと決める。これまで差別されてきた黒人を一定の割合で大学に入れようと考え、「学生の最低2割は必ず黒人にしなくてはならない」などと決める。こういう制度のことです。

 英語では "quota" なので、「クオータ」という風に語尾の「タ」は短く発音されます。ところが、日本人にもっとよく知られている "quarter" 「クオーター(4分の1とか25セント硬貨の意味)」との連想から「クオーター制度」と「タ」を長く言う人がとても多いのです。

 「ク・オ・ー・・せ・い」と6拍で言い「ク・オ・ー・タ・ー・せ・い」と7拍にならないように注意しましょう。 

「フューチャー」or「フィーチャー」?

 「田中さんの作品が雑誌でフューチャーされました」という言い方をよく耳にしますが、これは間違いです。「特集する」という意味なら「フィーチャー(feature)」と言わなくてはなりません。「フューチャー(future)」だと「未来」とか「将来」という意味になってしまいます。

 ここまでの3項目は、明らかな誤りですが、次の2つは辞書で「正しい日本語」とされている表現だけれど違和感があるので私個人は使わないものです。

「ピックアップ」?

 ニュース番組などでも使われ日本中で定着した感がある「ピックアップ」という表現。「選ぶ」という意味で使われていますね。

 「今日のニュースを幾つかピックアップしてみます」とか「出された提案の中から適当なものをピックアップして」などと使われます。

 私はこの表現にとても違和感があるので個人的には使いません。と言うのは英語では "pick up" に「選ぶ」という意味はないのです。"pick up" は「拾う」とか「車で迎えに行く」という意味で、「選ぶ」という意味で "pick" をしいて使いたいなら "pick""pick out" と言わなくてはなりません。

 「好きなのを1つ選んで」は英語で "Pick the one you like." と言います。
"
Pick up the one you like." と言うと「好きなのを1つ拾って」という意味になってしまいます。 

「ナイーブ」?

 「デリケートな」「繊細な」「傷つきやすい」という意味で使う人が多いし辞書にも載っています。間違いとは言えません。

 けれども、原語のフランス語や外来語として取り入れた英語では「未熟な」「世間知らずな」「うぶな」というネガティブな意味なので、私は「デリケートな」という意味で使う気持ちになれません。

 日本人以外に使うときにはくれぐれもご注意ください。

 西洋で「ナイーブ」と言うのは、例えば次のような状況です。「彼は変な宗教に引っかかって魂の救済のためとか言って100万円も出して壺を買ったそうです。彼も随分とナイーブなんですね。」

 「子供のように純粋で判断がつかないから、悪い人にまんまと騙されてしまう」ということを欧米人は「ナイーブ」と呼ぶのだということを知っておく必要があります。

 因みに原語のフランス語では「ナイー(naïve)」は女性形で、元々の男性形は「ナイー(naïf)」なんですよ。「彼はナイー、彼女はナイー」とフランス人は使い分けます。

 「デリケートな問題」「繊細な男」と英語で言いたいなら「センシティブ」を使うといいでしょう。"a sensitive issue" "a sensitive man" と言えば通じます。

「相手に関心がある」とはどういうことか

 「相手に関心がある」とか「相手に対して無関心である」と言うとき、2つの全く異なる意味が込められていることがあります。

 ①「相手が満たされ幸せであることに関心がある」という意味と②「相手が自分に対してしてくれること、もたらしてくれること、満たしてくれることに関心がある」という意味の2つです。

 例えば、金儲けしか考えていないセールスマンがいたとしますと、商品を買ってくれそうな客にものすごく関心があります。「あの人なら買ってくれるかもしれない」と思って近づいていく。その人の幸せに関心があるというより、その人に買ってもらうことで自分にお金が入ることに関心があるわけです。これは②の意味ですね。

 ライオンが餌としてのシマウマに興味を示すのと同じです。

 親が子供に①の意味での関心がある場合、親の意思を子供に押し付けようとはしません。子供の意思を尊重し、子供がなりたいものになるのを支援したいと思うでしょう。子供が固有の存在として開花し、自分の人生を生きてくれることを親は自分の幸せであるかのように感じることができます。①の意味での関心は「愛がある」ことを示しているわけです。

 反対に、親が子供に対して②の関心しかなかったらどうなるでしょうか。子供に対して色々と与えガイドしますが、それは全て「それを通して親が何を得られるか」という観点からされるわけです。「これだけお前にやってやるんだから、私の願い通りになってくれ」という要求がそこにあります。なので、子供が自分の意思で人生を選ぼうとすると、親は裏切られたように感じて激怒するかもしれません。「あれだけしてやったのに」と責めてきたりするのです。

 子供に多額のお金を投じて、世話をしてやり、何不自由なく育てているつもりでも、それが親自身の願いを叶えるためであれば、親の自己満足の対象としてしか子供を見ることができていません。子供は親の道具であるかのように扱われています。

 こういう場合、①の意味において「この親には子供への本当の関心がない」という言い方をするのです。

 ②の関心は「執着」でもあります。良い例がストーカーでしょう。ストーカーは追いかける対象としての相手に異常な関心を持っています。これは愛ではありません。その人を大事にしたいという感情ではありません。その人に愛されたい、大事にされたいという愛情要求なのです。その人を通して自分が満たされたいと思って、相手は嫌がっているにも関わらず強要しているのです。

 「相手が好きだ」というのも②の場合は執着であり愛情要求です。「相手が好きだ」という意味が①の場合というのは、相手の気持ちを大事にしたいという愛情ですから、相手がどう感じているのか、相手が何を欲しているのかということを理解したいという気持ちが先にあります。相手の気持ちを無視して自分の要求を通そうなどと強引なことはしないのです。

①相手のことを本当に考えている
②自分のことしか考えていない

ハラスメントに対応する際の注意点

 これはハラスメントを受けている方に向けて書かれています。

 パワハラ・セクハラ・マタハラなどの被害に遭っているなら、泣き寝入りせずきちんと自分を守るための対応をすることが大事です。


 ただ、対応のしかたによっては被害が悪化しさらに傷つくことになりかねません。

 上手に対応するにはいくつかの大事なポイントがあるのでお話しします。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

3つのレベル

 まずは「加害者」と「加害者の取り巻き」の解決能力によって3つのレベルに分けて現状を認識することをお勧めします。

 あなたの今いる環境は3つのうちどれですか。

レベル1:「加害者」に訴えればハラスメントをやめてくれる。反撃に合うリスクはない。
レベル2:「加害者」に訴えてもやめてくれないが「加害者の取り巻き」に訴えれば「被害者」を守ってくれる。
レベル3:「加害者」も「加害者の取り巻き」も保身に走り「被害者」を守らない。「もみ消し」や「隠蔽」がなされてしまう。

 最も対応が易しいのがレベル1で、相手に「やめて」と言えばハラスメントがストップする程度の状況です。パワハラする上司に「それはパワハラなのでやめてください」と言うだけで上司がやめるなら、これ以上心配する必要はありません。セクハラをする父親に対して娘が「やめて」と言うだけで父親が反省してそれ以上してこないならそこで問題は終わります。

 しかし、「やめて」と言うだけではやめてくれない上司や父親だったら、上司のまた上の上司に訴えるとか、母親や祖父に訴えるという方法があります。要するに「加害者」に対して力を行使できるような人を味方につけるということです。こういう人が組織や家庭の内部にいるならば、外部に相談するまでもなく身内で解決できます。

 最も対応が難しいのがレベル3で、上司のパワハラや父親のセクハラを内部の最も力を持っている人に訴えても守ってもらえない状況です。上の上司や母親や祖父が「もみ消し」「隠蔽」を図ってくる。「お前が我慢していればいいんだ」的なことを言ってくる。

 こういう場合には、もはや組織や家庭の内部で解決することはできません。外部に信頼できる人を見つけて味方になってもらい、外から組織や家庭の闇に切り込んでいくという方法か黙ってその組織や家庭を離れるという方法しかないわけです。レベル3の対応においては、あなたがその組織や家庭に留まれない可能性を考慮する必要があります。

 レベル3の対応をすると、内部の闇が外部に漏れますので、組織の権力構造が解体されたり(上層部の辞任)、夫婦や親子の関係に亀裂が入る(離婚や親子断絶)という可能性も考えておかねばなりません。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

  ハラスメントをやめてと言えばやめてくれる。上の者に訴えればきちんと対応してくれ被害者を守ってくれる。これが理想です。

 けれども、実際の組織や家庭には、被害者の苦しみを放置してでも現体制を守りたいという人がたくさんいます。これが人間の弱さです。正義と愛から行動できるためには、人間ができていなくてはなりませんが、実際の人間にはできていない人が多いのです。

 あなたのいる組織や家庭がそのような「できていない人間」ばかりなら、そこはあなたの利益をないがしろにする環境です。本当にそこにい続けたいのかよくよく考慮していただきたい。

 ハラスメントが深刻で、対応してもらえそうにない環境であれば、外部に頼りになる人を見つけて力になってもらってください。ひとりで悩まないでください。あなたの利益を大事にできる人、大事にしたいと思ってくれる人は社会に必ずいますので。

 まずは「加害者」と「加害者の取り巻き」を見極めるところからスタートしましょう。

スピリチュアル・パートナーシップ・カウンセリング

 夫婦同士あるいは恋人同士でカウンセリングを受けて、二人のパートナーシップに取り組みたいという方向けの新しいプログラムです。

 これはパートナーシップをお互いの魂レベルでの成長を支援するためのものとして双方が意識しているカップルのみ受けられます。

 パートナーシップで直面している困難が、それぞれの無意識にあるトラウマや否定的信念などに気づき、執着や拒絶のパターンから解放されるための機会だとお二人が既に捉えられていることが前提です。

 申し込みの時点で、問題行動や問題感情を正当化したりアクティングアウトしたり嘘をついて逃避したりするといった無自覚の対処がどちらの人にもほとんどないということが求められます。

 また、お二人とも私との個人カウンセリングを少なくとも2回ずつ受けていることが条件です。私との相性もある程度確かめられているお二人がさらにパートナーシップに取り組むためのものだとご理解ください。

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回数:90分セッション X  5回

料金:90,000円(18,000円 X  5回)

媒体:面談、スカイプ(映像あり)、FaceTime(映像あり)のいずれか

間隔:週1、月2、月1などお好きな間隔で構いません。

支払い:第1回のセッションの3日前までに全額を振り込みにてお支払い頂きます。

日時変更:24時間以上前でしたら無料で対応します。24時間前を過ぎた場合には手数料5,000円を頂戴します。

途中キャンセル:途中でキャンセルされた場合、原則として料金の返金はいたしません。ただし、カウンセラーの落ち度が原因である場合、納得できる説明があれば返金に応じます。また、5回未満で問題が解決したとカウンセラーが判断した場合、途中で完了とし、残金をお返しする場合もあります。
 

自分の新しいパートに出会う

 自分の中には「何もしたくない自分」「ただじっとしていたい自分」という部分があります。そのことが今日、如実に感じられました。はっきりと自覚したのです。

 10年前にそういう自分がいるなあと意識したことがあったのですが、完全に受容し共感してきたわけではありません。

 無意識に「そういう自分」とは反対のことばかり求めてきました。もっと仕事をして、もっと活躍して、もっと収入を増やして、という風に。もっと仕事を増やしたい自分からすれば「何もしたくない自分」がいてもらっては困るんです。なので、そっちはできるだけ意識しないようにしていました。

 このように、人間の意識の中にはたくさんのパート(部分)があって、その全部が本人によって認められているわけではありません。本人によって嫌われているパートや存在が知られていないパートさえあります。

 拒絶されてきたパートに気づいて「自分の一部」にするというプロセスは、これまで何度も通ってきました。またクライアントがそうすることをサポートしてきました。

 そして今日また1つ、私は自分の中の新たなパートに出会ったわけです。

 「何もしたくない自分」というものを拒絶することなく、その自分ともっと対話し、もっと理解し、これからの生活に上手に組み込んでいきたいと考えています。

 そのパートは私の中で受け入れられ、とても喜んでいるようです。心が今とても温かいです。 

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 これと関連した話をします。

 なかなか自分の願いが成就しないで困っているクライアントの中には「拒絶されたパート」が絡んでいることが結構あるんですね。

 「絶対結婚したい」とか「絶対収入を上げたい」とか「絶対自立したい」などものすごく強い目標を掲げている人にしばしば強迫性拒絶感を感じます。

 こういう風に強迫性と拒絶感を伴った目標を目指している人の中には、「これが叶わないのは絶対に困る」という恐怖心があるわけです。つまり何かから逃げている何かを絶対に避けたいと恐怖している

 そうすると、「絶対結婚したい」と自分の中の一部分が主張しているのだけれど、別の部分は「結婚したくない」とか「結婚するのが不安」と実は感じているわけです。その後者の自分を無視して、前者の自分が全人格を強引に引っ張っていこうとしている。

 これではうまくいきません。

 「結婚したい」「収入を上げたい」「自立したい」という気持ちにばかり集中して、それにブレーキをかける自分と敵対していては、人格全体がハッピーになる解決はできないのです。

 なので、ブレーキをかける自分がいったいどんな「パート」なのか、好奇心を持って近づいてみる必要があります。その自分も認めてあげると、心が楽になるでしょう。温かくなるでしょう。もっとあるがままの自分でいいという自己肯定感が出てくるでしょう。

 あなたの中にはまだあなたの知らない「自分」が生きています。その「自分」は、あなたがその良き理解者になって欲しいと望んでいるのです。

男らしい母親と女らしい父親に育てられた私

 「女優さんって中身は男っぽい人が多い」と聞きます。沢尻エリカさんなんかは明らかにそうですね。姿形は美しい女性であっても、中身は男前かもしれません。

 私の両親にはちょっと「男女逆転」的なところがあって、子育てにおいては父親が母性を担当し、母親が父性を担当していたようなところがあるんです。

 父はとても優しい人で、声を荒げたりすることはほとんどなく、人と話すときもその人を共感的に受け止めらるキャパが深いと言いますか、とっても受容的な人なんですね。だから、私が小さい頃から、父と一緒にいると、あるがままの自分がそのまま受け入れられているという深い安らぎを感じていました。

 これって普通、母親との間で感じるはずのことなんだけど・・・

 それで母はと言うと、短気で勝気ですぐイライラするんです。気に入らないと私の頭を叩くわ、臆病な私を笑うわ。それで、母のことは嫌いでした。

 ただ、母の名誉のために言いますが、母は私のために色々とポジティブな影響もくれました。私にピアノや英語を習うように誘ったり、海外に行くように仕向けたり、こども劇場と言って子供用の観劇に連れて行ってくれたりと、何かと外の世界に私を連れ出してくれたわけです。

 これって普通、父親の役割でしょ?

 無条件受容をくれ、自宅を安らぎの場にしてくれるのが母性。家から離れて自立を促し、外の世界へと誘い、外で強く生きていけるようにいろんな経験に連れ出すのが父性。

 明らかに父が私にとっての母性を、母が私にとっての父性を担ってくれていたわけです。

 父と私が争うということは基本的にありませんでした。常に我が家での闘争は母と私との間だったんです。息子が父親と戦って超えていくというやつを、私は母との間でやってきたようです。

 数年前のこと、私はとうとう母に向かって「あんたは私の父親じゃないんだよ」と言って父親役をするのをやめてもらいました。あれが私の父親超えの儀式だったんでしょう。

 私の母は人を指揮するのが得意で、姉御肌。キャリアを持って最後は管理職になった人です。叱られたら「何クソ」と言って歯を食いしばってもっと頑張れるタイプ。叱られて伸びるタイプ。一方、私は繊細で叱られたら折れてしまう。褒められて伸びるタイプ。勝気ではない。

 なので、この辺の相性が最悪でした。

 それから母は非共感的で(ここが女らしくない)、一方的に指図してくる。こちらの気持ちを聞こうとしない。また対立が起きたとき、きちんと話し合って双方によい解決を目指そうとしない。頑固で自己中なところがある。つまり「頑固オヤジ」なんです。(笑)

 かと思うと、母にも女っぽいところがあって、家に蛇やネズミが入ってくると「いや〜ん」と言って逃げ出す。父が退治する。父も男らしさを発揮する。父が倒れたときも、母はオロオロしていた。そういうか弱いところもあるみたいです。そういう可愛らしさをもっと出せばいいのに、と思う。

 私の両親は不思議なことに仲がいい。よくもまあこの「頑固オヤジ」の母に愛想を尽かさず、父は一緒にい続けるものだと感心します。どうやら父はあるがままの母を受け入れ切っているようなんです。私にはできない芸当でございます。この父だからこの母とうまくやっていけるのでしょうね。

 男性的な父親と女性的な母親のいる家庭を見ると、うちと全然違うなあと感じます。それはそれでいいなあ、美しいなあと思うのですが、私の家庭はそうじゃなかったし、また私はそういう家庭は作れません。

 私とフィットする相手というのは、やっぱり男性性と女性性を兼ね備えた中性的な人なんだろうと思います。体が男なのか女なのかは知りませんが。

 私は母が好きではないのですが、なんだかんだ言って、母のように勝気な女性を好きになったりするんですよね。あまり女性女性した人よりも。これは第7ハウスにある私の火星なんでしょうね。(苦笑)

 皆さんは男らしい父親と女らしい母親に育てられましたか。それとも・・・

人によって持っている「男性性・女性性」は違う

 私がここ2〜3年で意識し始めたのは、「男性性」「女性性」にはいろんな種類があって、ひとりの人間がその全てを持っているわけではないということです。

 つまり「男らしさ」にも「女らしさ」にも様々なパターンがある。そして、「この人は男っぽいなあ」と感じる人の中にも全く存在しない「男らしさ」があるし、「女らしいなあ」と感じる人が全ての「女らしさ」を持っているわけではありません。

 なぜ私がこんな話をしているかというと、「男性性」「女性性」というものの多様性を知っておかないと、もし自分の「男性性」の定義が狭すぎたなら、自分の中に「男性性」がちゃんとあるのに、それが「自分の知っている男性性じゃない」ばかりに、自分には「男性性」がないと勘違いすることになってしまうからです。本当は「男らしい」ところが自分にもあるのに、それを自分で認めてあげることができない。歪んだ否定的な自己イメージに苦しむことになってしまう。それはもったいないと思いませんか。

 自分には男性的なところがない、女性的なところがない、と思っている方々の中にも、自分が認識していない「男らしさ」や「女らしさ」が実はあって、本人から発見されるのを待っているだけかもしれないのです。

 例えば、私は長く自分は「女っぽい人間だ」としか思っていませんでした。自分に「男らしさ」なんてあるのかよく分からなかった。20代・30代の私が「男らしさ」だと思っていたことというのは、例えば「闘争心がある」とか「スポーツが好き」とか「ラフだ」といったことで、私には全く当てはまらないことばかりだったわけです。

 ところが、40代になって、いろんな人から指摘されたり、性差について読んでいくと、どうやら私の中にも「男らしさ」なるものがあり、自分が認識していなかっただけだと思うようになりました。例えば、「ちゃんと自分の生き方というものをしっかり持っていて背骨が通っている」とか「恋愛においては求められるより自分から相手を追いかけたい」とか「後世に自分の遺産を残したい」とか「不正を正して弱い者を守りたい」という自分にとっては当たり前のことが「男らしさ」なんだと初めて知ったんです。

 そっか、私は女性性だけの人間ではないんだ。ふむふむ。

 それから、アメリカ人スピリチュアル・ティーチャーのティール・スワンが YouTube で「男性性・女性性」について複数の動画を公開していますが、女性性について面白いことを言っています。

 例えば、「女らしさ」の中には滋養的な面があり、こういう「女性性」を持った人は、子供や男性の面倒を見て、ご飯を作ってあげたり、病気の時は看病したりしてあげるのが好き。尽くすのが好き。けれど、この手の「女らしさ」がない女性というのもいる。では、その人は女性的ではないのかというとそんなことはない。その人の中に息づいている「女らしさ」は官能的なところだったりする。「艶かしい色っぽさ」と言いますか。そういう人の「女性性」は、やはり美しく着飾ったり、歌ったり踊ったりすることで輝く。

 それから、共感能力が高く、相手との間で情緒的なつながりを感じられるというのも「女性性」でしょうね。「心が通じ合う親しみ」を感じることに長けている。その人といると心が一つになるかのような安らぎを感じる。「無条件の受容性」も「女性性」ですから、そういう人といるとあるがままの自分で許されるように感じる。女神様や観音様のような慈愛ですね。

 大きく分けて「女性性」はこの3つかなあと思っています。①「滋養的」で「世話好き」な部分、②「官能的」で「艶かしい」「美しい」部分、③「共感的」で情緒的つながりが上手な部分。いかがでしょうか。まだあるかもしれませんね。

 「女らしい人」には美人で官能的だけれど滋養的関わりが苦手な人もいる。かと思うと、美人とは言えないけれど人の世話をたくさん焼いて助けている優しい人もいる。母親的な人ですね。でも世話好きだからと言って、相手の気持ちを本当に汲み取ってあげられているかというとそれは別の話で、「滋養的」だけれど相手のことを全く理解しないで自己満足のお節介になっている人もいます。それに対して、子育てや男の世話は嫌いだけれど、相手が誰であれ「話を聞いたり気持ちを聞いたりするのがとても上手」だという「女らしさ」を持った人もいます。内面に敏感なんですね。ヒーラーとかカウンセラーに向いています。

 なので、結論を言いますと、まずは自分の中にたっぷりとある「男性性」や「女性性」に気づいて、それを認めてあげる。そして、それを生かしていく。それをメインにして自分を輝かせていく。それが大事ではないでしょうか。自分の中にない「男性性」や「女性性」を目指しても、ひょっとして無理かもしれません。「無い物ねだり」。もちろん、そこに注意を向けて取り組むことで育てていける場合もあるでしょうが。

 私は闘争的になるとかラフになることで「男らしさ」をアピールするなんてことは無理なので諦めています。(笑)私にボクシングとかボディービルは似合わない。けれど、自分が大事だと思うことを社会に訴えていくとか、自分の経験を通して困っている人を援助したいということはやめろと言われてもやめられない。そういう自分を好きだと思ってくれる人と一緒になればいいんじゃないでしょうか。

 そう、あなたがたっぷり持っている「男性性・女性性」の魅力を好きだと感じてくれる人は必ずいると思うんです。そういう人と一緒にいたら幸せだと思いませんか。
 

私は自分の男性性と女性性にどう向き合ってきたか②

 さて、今回は私の「男性的なところ」と「女性的なところ」をどのように育ててきたかというお話をしたいと思います。それは、欠点に向き合い補強する道のりでもありました。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 まず、私の「男性的なところ」と「女性的なところ」をいくつか挙げます。

「男性的なところ」
☆決断力がある
☆目標を決めて邁進できる
☆曲がったことが嫌い
☆弱い者を守りたいと思う
☆愛されるより尊敬されたい
☆恋愛では自分からアタックする

「女性的なところ」
☆競争せず譲りがち
☆感受性が強い
☆聞き手に回ることが多い
☆女の子より男の子の方が可愛いと感じる
☆方向感覚が悪く目印で道順を覚える
☆無理をして相手に合わせがち

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 次に、欠点を補うために何をしてきたかをお話しします。

もっと自分を出すように努力してきた

 私はもともと自分を出すのが苦手で、人の話を聞くなど受け手になることの方が多かったんです。自分の気持ちをちゃんと伝えるとか、意思を伝えるということは、自分というものを前に押し出す力がないとできません。これは男性力なんですね。

 不満があっても黙って何も言わない、というのは男性力が足りずに弱いままでいるということなわけです。これじゃダメだなあと思って、意識的に「勇気をもって言いたいことをちゃんと言う」という訓練を積み重ねてきました。

 おかげで今では大抵の状況では言うべきことであれば言えるようになったのです。

自分のマイナス感情に寄り添ってきた

 「自分を出す」のは男性力、「気持ちに寄り添う」のは女性力です。遠心力・発信力は男性性、求心力・受信力は女性性だと私は考えています。

 30代半ばまでは、自分の中に生じた怒りや不安や悲しみを受け止め切れませんでした。それを何年もかけて受け止める訓練を重ねたわけです。自分の心にある感情を受容して共感的に聞く。これをやると自分の心に耳を傾けて深く聞く能力が育まれます。またフィーリング次元で自分というものを受容していることでもあるわけです。

 このようにして自分の女性性を育ててきました。

 現在、多くの人の悩みに耳を傾けて、気持ちに寄り添えるのは、自分の様々な気持ちに耳を傾けることで女性性を育んできたからです。

自分の限界を超えた奉仕をしないことにした

 私は多くの女性と同じようにノーと言うことが以前はとても下手でした。求められたら嫌でも応じてしまったりしていたのです。例えば、聞きたくない長電話でも付き合ってあげたりしました。

 女性性は「断つ」「切る」「線を引く」ということが基本的にできません。それは男性性の仕事なんです。女性性には無条件に何でも受容してしまう柔らかいところがあります。すると相手の望みは自分の望みと思ってしまいがちなのです。

 無理な我慢をして後で愚痴が出る。そういうことを私もやっていました。これじゃいけないと思って、自分が相手にしてあげられることには限界を設けるという「枠組み」を作ったのです。

 これは自分の男性性によって女性性を守ってあげることだとも言えます。

 無制限に相手に与えようとしてしまう「私の中の女性性」に対して、「これ以上与えたら君が傷ついてしまう。この辺で線を引いた方がいいよ」と優しく守ってくれる「私の中の男性性」を育てたのです。

感受性を意識的に磨いた

 感受性が強いと芸術とか癒しなどの仕事にはいいですが、面の皮が厚くないとできない仕事は私には無理です。

 例えば、私にはエネルギーを敏感に感じとる能力がありますが、敏感だと平均的な人が耐えられることに耐えられないという弱みになりかねません。この資質をプラスに生かすためには、感受性が強いことで困らないような生活の枠組みをきちんと自分で設ける(男性性の構築力)とともに、感受性をむしろ磨いて
(女性性の洗練)プロフェッショナルとして生かしていけるようにも努力してきました。

 具体的には、同じようにエネルギーの感受性をもったメンター(師匠)について、直感力を磨いたわけです。おかげで、感受性が強みとして人のために生かせるようになりました。 

不満を伝え合うコミュニケーションに取り組み続けている

 私が小さい頃から苦手だったのは、相手と自分との間に利害衝突が起きたとき、明瞭で非暴力的な方法で利害調整するコミュニケーションをとることでした。

 うまく自分が表現できず不満に終わるか、怒りという形で爆発して気まずくなるか、ということが多かったわけです。

 問題を解決するために心を伝え合うコミュニケーションが取れるためには、男性性と女性性がバランスよく協力できなくてはなりません。

 相手の気持ちや事情を相手の身になって共感的に受け止められるには、成熟した女性性が必要です。豊かな女性性がなければ、聞いたり受け止めたりできません。自分のことを主張するばかりになります。

 反対に、自分の言い分を非暴力的にはっきり伝えるには、成熟した男性性が必要です。怖くて自分が出せないとか、攻撃的な言い方しかできないというのは、男性性の問題だと言えます。

 ということで、男性性と女性性の発達度が最もはっきりと表れやすいのが、利害調整のコミュニケーションなのです。
 
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