菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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エトセトラ

「お話しする」は尊敬語ではない

 敬語の誤用でよくあるのは尊敬語と謙譲語の混同です。

 前回お話しした「頂く」は「もらう」の謙譲語で、もらう人を一段低くすることで、与えている人への敬意を表す言葉でした。

 「頂く」の主語である人を低くするわけですから、相手(二人称)を主語にしては失礼です。「私が頂く」は適切ですが、「あなたが頂く」「先生が頂く」と言うのは NG だと説明しました。

 さて、「お話しする」「お聞きする」「お会いする」「お尋ねする」など、「お+動詞の連用形+する」は謙譲語の作り方の1つです。

 謙譲語ですから、自分を主語にして低くする分には構いません。

(正)今日あったことを先生にお話ししました。
(正)治療法について主治医にお聞きしました。
(正)社長にお会いしました。
(正)分からない点について教授にお尋ねしました。

 しかし、次のように相手(二人称)に使ってはいけません。

(誤)あなたは監督にそのことをお話ししましたか?
(誤)それは主治医にお聞きしたことですか?
(誤)社長にお会いしましたか?
(誤)教授にお尋ねすべきだと思います。

 尊敬語は「お+動詞の連用形+になる」で作ることができます。「お話しになる」「お聞きになる」「お会いになる」「お尋ねになる」などです。

 上の4つを正しく言い換えてみましょう。

(正)あなたは監督にそのことをお話しになりましたか?
(正)それは主治医にお聞きになったことですか? 
(正)社長にお会いになりましたか?
(正)教授にお尋ねになるべきだと思います。

 相手(二人称)に対して「お話しする」などの謙譲語を使うというミスは、マスコミの人たちの間でもよく聞かれます。

 例えば・・・

(誤)監督にはいつお会いしましたか?
(誤)そのことを社長にお話ししましたか?

 尊敬語を使うと次のようになります。

(正)監督にはいつお会いになりましたか(or 会われましたか)?
(正)そのことを社長にお話しになりましたか(or 話されましたか)?
 

「頂く」は尊敬語ではない

 「頂く」は謙譲語ですが、尊敬語のように使う人がとても目立ちます。テレビ番組の司会者でも次のような言い方をしているのを毎日のように聞きます。

 「今日は A 先生がスタジオに来て頂いています。」(誤)

 「来て頂く」は「来てもらう」の謙譲表現ですから、主語は「私たち」のほうです。

 「(私たち A 先生来て頂いています(来てもらっています)」なら問題ありません。

 「A 先生」と A 先生を主語にするなら「来てくれる」の尊敬表現である「来て下さる」を使うのが適切です。

 「
A 先生が(私たちのために)来て下さっています(来てくれています)」という風に。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 同様に、「朝ごはんを頂く」「賞を頂く」などの表現は1人称(自分・自分たち)について使うのが適切で、2人称(相手)や3人称(第三者)について使うとおかしなことになります。謙譲語は主語の人間を一段低くすることで主語とは別の人間に対する敬意を示すためのものだからです。

(正)私はもう朝ごはんを頂きました。(謙譲語)

(誤)(あなたは)もう朝ごはんを頂きましたか?(謙譲語)
 →(正)(あなたは)もう朝ごはんを召し上がりましたか?(尊敬語)

(誤)田中さんはもう朝ごはんを頂いたそうです。(謙譲語)
 →(正)田中さんはもう朝ごはんを召し上がったそうです。(尊敬語)

(誤)山中教授はノーベル賞を頂いた方ですよね?(謙譲語)
 →(正)山中教授はノーベル賞を取られた(もらわれた、受賞された)方ですよね?(尊敬語)

(誤)師匠は先代からこれを形見として頂いたそうです。(謙譲語)
 →(正)師匠は先代からこれを形見としてお授かりになった(もらわれた、受け取られた)そうです。(尊敬語)

気をつけたいカタカナ英語

 日本語の一部になっているカタカナ英語で気になるものが幾つかあります。

「シュミレーション」or「シミュレーション」?

 とても多くの人が「シュミレーション」と発音していますが、正しくは「シミュレーション」です。英語では "simulation" と書きます。

 日本語にはもともと「ミュ」という音がありません。「シ・ミュ」はとても言いにくいので、「シュ・ミ」と変えたくなる気持ちはよく分かります。

 分かりますが間違いです。

「クオーター制」or「クオータ制」?

 「割り当て制」のことを「クオータ制」と言います。例えば、これまで差別されてきた女性を一定の割合で国会議員にしようと考え、「議員の最低3割は必ず女性にしなくてはならない」などと決める。これまで差別されてきた黒人を一定の割合で大学に入れようと考え、「学生の最低2割は必ず黒人にしなくてはならない」などと決める。こういう制度のことです。

 英語では "quota" なので、「クオータ」という風に語尾の「タ」は短く発音されます。ところが、日本人にもっとよく知られている "quarter" 「クオーター(4分の1とか25セント硬貨の意味)」との連想から「クオーター制度」と「タ」を長く言う人がとても多いのです。

 「ク・オ・ー・・せ・い」と6拍で言い「ク・オ・ー・タ・ー・せ・い」と7拍にならないように注意しましょう。 

「フューチャー」or「フィーチャー」?

 「田中さんの作品が雑誌でフューチャーされました」という言い方をよく耳にしますが、これは間違いです。「特集する」という意味なら「フィーチャー(feature)」と言わなくてはなりません。「フューチャー(future)」だと「未来」とか「将来」という意味になってしまいます。

 ここまでの3項目は、明らかな誤りですが、次の2つは辞書で「正しい日本語」とされている表現だけれど違和感があるので私個人は使わないものです。

「ピックアップ」?

 ニュース番組などでも使われ日本中で定着した感がある「ピックアップ」という表現。「選ぶ」という意味で使われていますね。

 「今日のニュースを幾つかピックアップしてみます」とか「出された提案の中から適当なものをピックアップして」などと使われます。

 私はこの表現にとても違和感があるので個人的には使いません。と言うのは英語では "pick up" に「選ぶ」という意味はないのです。"pick up" は「拾う」とか「車で迎えに行く」という意味で、「選ぶ」という意味で "pick" をしいて使いたいなら "pick""pick out" と言わなくてはなりません。

 「好きなのを1つ選んで」は英語で "Pick the one you like." と言います。
"
Pick up the one you like." と言うと「好きなのを1つ拾って」という意味になってしまいます。 

「ナイーブ」?

 「デリケートな」「繊細な」「傷つきやすい」という意味で使う人が多いし辞書にも載っています。間違いとは言えません。

 けれども、原語のフランス語や外来語として取り入れた英語では「未熟な」「世間知らずな」「うぶな」というネガティブな意味なので、私は「デリケートな」という意味で使う気持ちになれません。

 日本人以外に使うときにはくれぐれもご注意ください。

 西洋で「ナイーブ」と言うのは、例えば次のような状況です。「彼は変な宗教に引っかかって魂の救済のためとか言って100万円も出して壺を買ったそうです。彼も随分とナイーブなんですね。」

 「子供のように純粋で判断がつかないから、悪い人にまんまと騙されてしまう」ということを欧米人は「ナイーブ」と呼ぶのだということを知っておく必要があります。

 因みに原語のフランス語では「ナイー(naïve)」は女性形で、元々の男性形は「ナイー(naïf)」なんですよ。「彼はナイー、彼女はナイー」とフランス人は使い分けます。

 「デリケートな問題」「繊細な男」と英語で言いたいなら「センシティブ」を使うといいでしょう。"a sensitive issue" "a sensitive man" と言えば通じます。

私が感じた日本とアメリカの違い その6

アメリカの運転免許証には身体的特徴が記されている

 アメリカでは50の州がそれぞれ異なる法律を持っています。そして、運転免許証も州によってデザインから記載事項まで違うんです。

 私はマサチューセッツ州とカリフォルニア州の免許証を持っていました。マサチューセッツの免許証には私の身長が書かれていますし、カリフォルニアの免許証に至っては身長、体重、髪の色、目の色と4つの身体的特徴が記されているんですよ。

 アメリカでは免許証が身分証明に使われることが多いので、写真プラス身体的特徴を記しておくことで、本人認証の精度を上げているのでしょう。

 因みに、免許証は州ごとの発行ですが、アメリカならどこでも使えます。例えば、マサチューセッツの免許証があればニューヨークでもハワイでも運転できるというわけです。

 日本の免許証には現住所と並んで本籍が書かれていますが、アメリカの免許証には現住所しかありません。アメリカには戸籍というものがそもそもないんです。出生地や生年月日を証明するときなど、アメリカ人は出生証明書に頼るしかありません。

 ところで、アメリカでは「アメリカ生まれ(born in the USA)」でなければ大統領になれません。外国人だった人が10歳の時にアメリカ国籍になったというような場合、その人は大統領になる資格がないのです。バラク・オバマが大統領候補となったとき、彼の父親がケニア人だったり、幼少期をインドネシアで過ごしたりしていたことから、「彼は本当にアメリカ生まれなのか?」という問題が取り沙汰されました。それに対して、オバマは出生証明書を提出してハワイ生まれであることを証明したのでした。

 戸籍を取り寄せれば出生地や生年月日、親族の情報などいろいろ分かる日本のシステムとはかなり違いますね。

 では、免許証に話を戻しましょう。

 マサチューセッツでは飲酒年齢が21歳でした。酒屋でアルコールを買うときには、年齢がチェックされます。21歳未満の人にアルコールを売った店は厳重に罰せられますので、ほぼ必ずと言っていいほど免許証の提示を求められるんです。

 あと、アメリカでは買い物をするときに小切手をよく使ったのですが、その際にも免許証を身分証明のために見せることが多かったです。

 こんな風に、アメリカでは運転免許証を人に見せる場面がたくさんありました。


アメリカ人の14%は基礎的な読み書きができない

 皆さんの周りには読み書きのできない人がいますか? 昔の日本には結構いたでしょうが、今では義務教育が普及したことによって、ほとんどいなくなりました。

 日本は世界でも識字率(字が読める人の割合)の最も高い国の1つです。

 アメリカでは読み書きのできない人が結構います。7人に1人と言われています。

 アメリカは世界で最も豊かな国である一方で、富める人と貧しい人のギャップ、教育レベルの高い人と低い人のギャップが日本より遥かに大きく、そういうアメリカの闇の部分もたびたび感じました。

 例えば、私はアメリカでピアノ教師をしていましたが、日本では義務教育で音楽を習うため、ドレミぐらいはみんな知っているのに対して、アメリカでは音楽が義務教育に含まれていないので、ピアノを習いに来る子たちにはドレミの基礎から教えなくてはなりませんでした

 日本ではあり得ないような低いレベルから子供たちを教育しなくてはならなかったのです。

 日本の教育にもいろいろと問題はありますが、それでも一定レベルの教育を全国民に行き渡らせるという目標を達成してきたということには価値があったと私は思います。日本では当たり前のことが欠落している国に生活してみて、日本はいろいろな意味で教育的な国だと感じるわけです。

 例えば、日本で外国語を勉強しようと思うと、NHKの教育テレビやラジオで安く学べます。中国語、韓国語、アラビア語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、スペイン語など、英語以外にもたくさん語学番組が全国放送されている。こんな国は珍しいと思います。

 それから、外国語の文法を解説した専門書が全国の書店で入手できます。ところが、アメリカで英語の文法の本を買おうと思っても売っていません。英語の文法の本というもの自体、買う人がいないんでしょう。普通の本屋で見たことがないんです。

 英語の文法を勉強したかったらアメリカより日本の本屋へ行った方がいいなんて皮肉だと思いませんか?

 ただ、日本の教育がアメリカの教育より全ての点で優れているわけではありません。私が暮らしたマサチューセッツにはシュタイナー学校やモンテソーリ学校、そして自宅でのスクーリングをしている家庭など様々あり、そこを出たアメリカ人の友人などは、やはり日本人に比べて遥かに創造性が豊かな人生を送っているように見えました。

 アメリカ人と同じ授業を受けていると、彼らが臆せずに自分を表現し、自由発表の場などでは個性を思う存分出して独創的なプレゼンをしているのをひしひしと感じました。そういう時、「ああ、私はやっぱり日本的教育を受けてきたことで、独創性の芽を摘み取られてきたなあ」と痛感したのです。

 私の街にはハンプシャー大学というちょっと変わった大学がありました。そこでは、学生が自分の専門を自由にデザインしていいシステムだったんです。通常の大学では、経済学を専攻するなら経済学を専攻する。哲学なら哲学。文学なら文学と線引きがされますよね。ところが、「経済学と社会学」とか「宗教と東アジア研究」とか「音楽と哲学」とか学生の関心によって分野を組み合わせて、自分だけの専門分野を作ってしまってもいいよ、という大学なわけです。

 こんな風に、アメリカでは
ひとりひとりが持っている可能性をできるだけ自由に引き出そうとする数々の試みがなされていました。

 「個性を伸ばす」という点においては、日本はアメリカに遥か及びません。

 なぜアマゾンやグーグルやフェイスブックやスターバックスなどの「斬新なビジネス」がアメリカからどんどん出てくるのか。それは、アメリカには「個や創造性を最大限に活かす豊かな土壌」があるからだと思います。

 日本は一定レベルの水準は達成したのですから、今後は「人間の幅を広げること」、「創造性を育てること」、「自律性を高めること」などにゴール設定をシフトしていく必要があるでしょう。
 

私が感じた日本とアメリカの違い その5

異人種の子を「我が子」として育てるアメリカ人

 私は何度となくアメリカ人に頭の下がる思いになることがありましたが、その1つは、自分とは人種の違う子供を「我が子」として愛情深く育てている人を目の当たりにした時でした。

 アメリカ人は結婚して自分たちの子供がなかなかできないと、里親になろうとする人がとても多いんですね。血が繋がっているとか繋がっていないということに、日本人ほど拘りがありません。彼らは「親として子供に愛情を注ぐという経験」を望んでいるんです。そして、何らかの理由で、生みの親と暮らせない子供が世の中にたくさんいることも分かっています。そういう、愛を必要としている子供のニーズに応えられるということも、里親になる大きな理由なんですね。

 いやあ、なかなかできることではありません。

 血筋よりも、愛の体験を優先できるのは、やはりアメリカ人の精神的支柱に「愛」というものがあるからだと思います。これはキリスト教徒が1%しかいない日本社会では、なかなか実感としてわかりにくいものかもしれません。

 白人の夫婦が、アジア人の子供を連れているのを度々見ました。一番多いのが韓国人の孤児です。韓国はキリスト教徒が多いのもあり、孤児を愛してくれる里親をアメリカなど外国にたくさん求めているという現状があります。日本人はあまり知らないでしょう。

 彼らは最初から自分が里親であることを正直に伝え、我が子として愛しているというメッセージを伝え続けます。私はそういう家庭を2つばかり個人的に知っていましたが、いずれの家庭でもその子が韓国文化に触れられるように配慮してあげていました。

 養子として育つことに問題がないわけではもちろんありません。生みの親と離れ離れになったことについてどう折り合いをつけるのか、そこにひとりひとりの精神的課題があります。最近では、養子として育った人たち同士で繋がるようなサポート・ネットワークもあるようです。


子供の権利をしっかりと守るアメリカの離婚制度

 アメリカでは州ごとに法律が違いますので、「アメリカではこう」と一口で言えないのですが、子供のいる夫婦が離婚する場合、一般的に日本より遥かに厳しい法的基準を満たさなくては成立しません。

 日本では、親権者を決めて提出すれば、離婚の申請は簡単に受理されます。養育費をいくらにするとか、財産分与をどうするとか、親権者でない方の親が子供とどういう頻度でどういう形で面会できるのかといった問題については、二人の間で合意さえできれば調停や裁判を経なくてもいいわけです。

 つまり、裁判所が離婚に関わるのは、二人の間で合意できない場合に限られています。

 ところが、アメリカでは、二人の間で勝手に決めることは許されておらず、州によっては、必ず裁判をして離婚条件を正式な判決によって整えなくてはなりません。

 アメリカでは離婚後も両親ともに子供の養育に関わることが大前提になっています

 ですから、母親が引き取って父親には全く面会させないなどということは許されません。子供は生涯を通して自分の両親と関わりを持つ権利を持っているので、それを大人の事情で奪うことは認められていないのです。

 離婚後、アメリカの子供達は、法的に決められた条件で、両親の家を行ったり来たりします。親権者が母親である場合、父親と週末は必ず過ごすとか、クリスマスやサンクスギビングの長期休暇の時は父親のところで過ごすとか法的に合意された通りに従うのです。

 日本の制度だと、例えば、父親が子供を跡取りとして引き取るという場合、母親は家から出ていった外部者として見られ、子供とは絶縁されたかのような扱いを受けることがあります。片親を子供の生活から追い出すというような冷酷なことがこの社会ではこれまで許されてきました。

 私は、血を分けた親子がこのように引き離されるということは非人道的なことだと思っていますし、子供の権利を守る離婚制度が日本にも必要だと考えます。

 アメリカの法律は、離婚が子供に与える悪影響が最小限になるように、様々な配慮をしています。
両親の身勝手によって子供が傷つかないよう、離婚の条件を厳しく整備しているのです。

 アメリカ人の夫婦が離婚しようと決めてから、最終的に離婚が法的に成立するまでに、2年かかったなんていう話をよく聞きます。

 親権や財産分与で争うような場合、また子供の両親との面会条件や養育費に関してもなかなか合意に至らない場合、それだけ成立までに時間を要するわけです。

 子供の親との面会条件が、子供の成長とともに変更を要するときがありますが、そういう場合も、裁判所に申し立てて条件の変更を正式に決定してもらうとか、弁護士を挟んで新たな合意文書を作成するなど、必ず法的な手続きを経ます。

 親たちが好き勝手に決めることはできないのです。

 日本は余程のことがない限り、子供のことを親たちの判断に任せてしまっています。その方が時間もお金もかからないで楽ですが、子供の権利を守るという観点からすれば、日本の法整備はまだまだ十分とは言えないのではないでしょうか。

 「離婚の先進国」であるアメリカから我々が学べることは多いと思います。

私が感じた日本とアメリカの違い その4

アメリカ人の家に遊びに行くと「家のツアー」が始まる

 私はアメリカ人の家の中を見せてもらったことが何十回とありますが、とても素敵な住空間を創っている人が多いです。物が散らかっていないし、壁を自分で塗ったり、自分に合った創造性を発揮して、自分にとって心地よい場所にしているだけでなく、「自分の作品」としてお客さんに見てもらうことも楽しんでいるように感じます。

 アメリカ人の家に招かれると、
リビングから台所、寝室やトイレ、浴室、地下室に至るまで一通り全部見せてくれるんです。庭にプールがある家だったらプールも見せてくれる。寝室が複数あれば、お客さん用の寝室からマスター・ベッドルームまで解説付きのツアーをしてくれます。

 それがアメリカ人にとっての
「おもてなし」の一環なんですね。

 お恥ずかしい話が、私が育った金沢の実家は、収納スペースが不足した昭和初期の木造町家だったことと、「物を捨てられない明治生まれの祖父母に昭和戦中世代の両親」がいたこともあり、我が家は物で溢れていました。そして、お客さんが来ると、
物を隣りの部屋に放り込んで、一時的に「お客さんに見せても恥ずかしくない空間」を作ってお通しする、というあり様で、とてもとても家中を見せられたものではなかったのです。(笑)

 私は大人になってから、できるだけ必要最小限の物、しかも自分が本当に好きな物だけに囲まれた住空間を作るように心がけています。


「ガレージ・セール」でいろんな私物をお金に変えられるアメリカ

 マサチューセッツに住んでいた頃、道端で「ガレージ・セール」を開いている人たちをよく見かけました。売っているものは、何のことはない、古着とか食器とか本とか電気製品とか、普通の日用品なんです。しかも使い古しの。

 「ガレージ・セール」は元々、自宅の「車庫」に私物を置いて「店開き」をし、売りたいものを売るという習慣から始まりました。

 日本人の感覚だと、道端で売っている他人が使ったお皿を買ってきて、それで食事しようと思う人はほとんどいないのではないかしら。

 でも、アメリカ人は日本人よりも、他人が使ったものをまた使うことに抵抗がないのでしょうか、結構売れるんです。

 私が1999年にマサチューセッツから日本に戻る直前、10年間に溜まった私物を処分しようと「ガレージ・セール」を開きました。私の場合はアパートの中で「店開き」をしたんです。地元紙にいついつ何時に何通りの何番地のアパート何番で「ガレージ・セールしますよ」と宣伝するわけです。そうすると、20人ほど来てくれましたかね。私はテレビに布団に電子レンジにお鍋やスプーン・フォーク類など、要らないものすべてに値札を貼って置いておいたら、テレビとスキー用品以外は全部売れました。そいで、私のアメリカ人の親友が、売れ残ったテレビとスキー用品を引き取ってくれたんですよ。優しいでしょう? それで完売。

 今でも私の使っていたお箸とかスプーンで食事している人がマサチューセッツにいるのかもしれません。

 アメリカには日本とは違う「物を使い回すシステム」があるというお話でした。


「持ち家」をそのまま売買するアメリカ

 最近では古い民家を買って自分風にアレンジして住むなんていう人も日本で出てきているようですが、日本人は元々「我が家」というものに特別な感情があって、簡単に他人に譲ったり売ったり買ったりしません。他人がその家や土地を買うという場合にも、家を取り壊して、新しい家を建てる場合が多い。つまり、「他人にとって『我が家』だったもの」を「自分にとっての『我が家』」だとなかなか思えないところがあるんでしょう。

 日本人にとっては「家」は下着と同じように、他人からもらって「はいそうですか」と言って自分が身につけるようなものではない。自分が住むなら、やはり「新調したい」わけです。

 なので、日本では、何十年もある家族の「家」だった建物に、市場価値はあまりありません。

 ところが、アメリカでは、「家」に対してこのような執着はないのです。マンションやアパートと同じような感覚で、一戸建てを買い替えます。同じ人がずっと住んだ一戸建てにも市場価値がちゃんとある。

 そのようにして、
同じ「家」にいくつもの家族が交代で住み続ける、ということはアメリカでは当たり前のことなのです。

 「家」を前の家族から買って、それに自分なりの加工を施し、「マイホーム」にしてしまえる。壁紙を替える、フェンスを違う色に塗る、木や花を植えるなどして、大事に使うんです。その柔軟性はいいなあと思います。

私が感じた日本とアメリカの違い その3

アメリカ人教師は教室の電気を消さずに帰る

 私はマサチューセッツのNPO音楽学校で7年半ピアノ教師を務めました。夜8時ごろまで教えるのですが、帰宅前には教室の電気を必ず消していました。ところが、ほかの先生たちはレッスンが終わって学校を出るときに、教室の電気を消さないんです。つけっぱなしで帰るんです。

 「うわ、もったいない」と思って私は周りの教室の電気を全部消してから学校を出ていました。

 なぜアメリカ人の教師は教室の電気を消さないか分かりますか?

 それは、「それが自分の仕事だと思っていないから」というのが1つの理由です。電気を消すのは管理人の仕事なんですね。だから、自分の責任範囲ではないと思っているんです。

 言い換えると、アメリカでは「役割分担」や「責任範囲」がはっきりしています。そして、アメリカ人は自分の「責任範囲」でないことは、たとえそれが全体のためにいいことであっても基本的にはやらないのです。

 アメリカ人が電気を消さない理由のもう1つは、エネルギーがたっぷりあるので、浪費することが当たり前になっているという事情があります。アメリカでは、あまり「無駄だから電気を消そう」というような考えに出くわさない。日本より少し金持ち意識が強いのかもしれません。


宗教をとても意識するアメリカ、意識しない日本

 アメリカに住んでいると、プロテスタント(キリスト教の新教)が最も多いわけですが、カトリック(キリスト教の旧教)も結構いることが分かります。アメリカは元々イギリスから来たプロテスタントが作った国なので、プロテスタントが社会的に最も強い力を持っているわけです。これまでの大統領は、ジョン・F・ケネディー(カトリック)を除いてすべてプロテスタントでした。

 ところが、ラテンアメリカからの移住者が急増してきたこともあり、カトリックの人口が爆発的に増えています。オバマ政権での副大統領を務めたジョー・バイデンはカトリックだったし、ヒラリー・クリントンが大統領候補になったとき、副大統領候補として選んだティム・ケインもカトリックでした。それは、プロテスタントとカトリック両方の票を得たいからなんです。

 このようにして、アメリカの選挙では、候補者の宗教というものが強く意識されます。

 日本人は選挙の時に、「あの人は私と同じ浄土真宗だから一票入れよう」とか「私は神道だから、神道の候補に入れよう」なんて思いませんよね。

 さて、皆さんは次の歴代総理大臣に共通する宗教は何だかお分かりですか?

 吉田茂、片山哲、鳩山一郎、大平正芳、細川護熙、麻生太郎、鳩山由紀夫。

 答えは「キリスト教」です。彼らは全てクリスチャンです。

 「へえ、知らなかった」という方も多いのではないでしょうか。それほど、私たち日本人は政治指導者の宗教にほとんど拘りません

 日本人口に占めるクリスチャンの割合が1%ほどであることを考えると、クリスチャンの総理大臣が著しく多いのですが、そんなことを気にする日本人はほとんどいません。「クリスチャンの政治家を選んだら、我々仏教徒に不利な政策を出してくるだろう」なんて考えないわけです。

 さて、アメリカに話を戻しましょう。アメリカに住んでいて強く意識せざるを得ないグループがもう1つあります。それは「ユダヤ人」です。

 英語で Jewish(ジューイッシュ)と言い、日本語では「ユダヤ人」「ユダヤ教徒」「ユダヤ系」と呼ばれます。

 クリスマスが近づくと、多くの人が「メリー・クリスマス」と言い合う中、「メリー・クリスマス」と言ってはいけない相手がいる。それがユダヤ人なんです。だから、アメリカで生活していると、相手がクリスチャンかユダヤ人かということに無頓着ではいられません

 私が住んでいたマサチューセッツは、ユダヤ人の人口がかなり多い地域だったこともあり、私はた〜くさんのユダヤ人と親しく付き合ってきました。ユダヤ人とルームメートになったこともあるし、ユダヤ人の先生に教えてもらったこともあるし、ユダヤ人の生徒を私が教えたこともあるし、ユダヤ人の友達もたくさんいたし、またユダヤ人と恋に落ちたこともありますよ。(笑)

 ユダヤ系アメリカ人で有名なのは、マリリン・モンロー、スティーブン・スピルバーグ監督、ダスティン・ホフマン、ハリソン・フォード(母方)、ポール・ニューマン(父方)、ウッディー・アレン、バーブラ・ストライサンドなどです。

 ユダヤ人が大統領や副大統領になったことはまだありません。2016年の大統領候補だったバーニー・サンダースはユダヤ人でしたが、歴史を塗り替えることにはなりませんでした。かつてユダヤ人で最も高い公職に就いたのは、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官(日本で言う外務大臣)でしょう。

 アメリカでは民主主義の根幹の1つである「政教分離」がされていますが、それはどんな信仰を持つ者も保護され差別されないことを保証するということであって、信仰のない者が国を統治することは想定されていないんです。

 ですから、大統領就任式には、初代大統領ワシントンが使っていた聖書に新大統領が左手を置いて、右手を上げて神に祈らなくてはなりません。つまり、これまでの歴史を見てみると、キリスト教徒でない者が大統領になったことは1度もないのです。

 アメリカの大統領は、政治のトップであると同時に、宗教の実践者としての模範でもある。そこが日本人には分かりにくいかもしれません。

 大統領がスピーチをしたり、国民に話しかけるとき、GOD という言葉がよく出てきます。また、アメリカのお札や硬貨には In God We Trust (我々は神を信頼する)と書いてある。つまり、信仰が国の根幹を成しているのがアメリカというわけなんです。

 バーニー・サンダースが話題になったのは、単に彼がユダヤ人だったからではなく、彼は共産主義者であり、神を信じない無神論者ではないかという噂が流れたからです。一時期、アメリカのメディアは、「あなたは神様を信じていますか?」という質問を彼に浴びせかけていました。

 神様を信じない者がアメリカの大統領になるかもしれない、ということが大騒ぎになったのです。

 サンダースは「私は無神論者ではない」と回答しましたが、「私にとっての信仰とは、全ての人がひとつに繋がっているということである」と説明するに留め、「私は神様を信じている」と明言しなかったため、これまでの大統領とは明らかに違う宗教観を持っていることだけは確かだと思います。

 このように、アメリカでは「きちんとした信仰を持っている」ということが国のリーダーに求められているわけです。

 信仰がなくても問題とされない日本とは違いますね。

私が感じた日本とアメリカの違い その2

おもてなしーー日本人は察する、アメリカ人は選択肢を提示する

 アメリカは「自由の国」。お互いの自由を最大限に尊重しようという文化なんです。そして、それはおもてなしにも表れます。

 例えば、私がアメリカ人の友人宅に遊びに行くと、「リョウ、何飲む?」って聞いてくれます。それで、その家にある飲み物の全リストが暗唱されてくるんです。

 「ええっとねえ、オレンジジュースがあるでしょう、それでアップルジュース、コーク、セルツァーウォーター、ジンジャーエール、白ワインはシャルドネ、カリフォルニアの赤ワイン、それからコーヒーに紅茶。。。」と延々と続きます。

 「じゃあ、アップルジュースお願い」と頼む。

 こんな風に、アメリカでは、お客さんが最も飲みたいものを出そうとするんです。そのために、あらゆる選択肢を提示して選んでもらいます。相手の「選ぶ自由」を尊重するわけです。

 日本みたいに黙ってコーヒーを出すことはありません。なぜかと言うと、人によってはコーヒーを飲まないからです。相手にとって嫌かもしれないものを出すことは失礼に当たります。なので、相手が何を飲みたいのかをちゃんと尋ねるのが礼儀というわけです。

 ところが、日本でこれをやると却って嫌がられるかもしれません。と言うのは、日本人にとって、
客に「これが欲しい」とわざわざ言わせることは失礼であり、察して出すことがおもてなしだからです。あと、日本では「みんな同じものを飲む」というような連帯感を重視します。なので、「私はこれを飲む」とか「飲まない」と主張するのは我がままだと捉えられることも少なくない。おもてなしをする側もされる側も「『みんな』に合わせて」という考えに影響を受ける。なので、「だいたいこういう場ではコーヒー」とか「こういう場では一般的にビール」という慣習に従って、黙って出すことが多いわけです。

 アメリカのレストランでは、サラダを注文すると、ドレッシングが5〜6種類あることが多く、ウェイターがすべて教えてくれます。「ドレッシングは、イタリアン、フレンチ、サウザンドアイランド、シーザーヴィネグレット、ハニー味噌、オイル&ヴィネガーでございます」といった調子。

 日本の料理屋ではサラダを注文すると、その店の作った一種類のドレッシングがかかって出てくることが多いですね。

 そういう日本も、個人主義が進んだのか、いくつかの選択肢から好きなものを選べるレストランが今では結構ありますね。


見知らぬ人といきなり親しい会話をするアメリカ人

 日本人は見知らぬ人にすぐ心を開かないことの方が多いと思います。相手が「どこのどなたか」ということが大事で、素性の知れない相手といきなり親しくなるということはあまりありません。日本人はよそよそしい人が多い。鶴瓶さんみたいな人は特別ですね。誰とでも最初から打ち解けてしまうような人。

 アメリカ人は、結構、鶴瓶さんみたいな人が多いんです。

 例えば、私がアメリカでスーパーに行くとしましょう。(スーパーの話ばっかりですね〈笑〉)レジの列に並んでいたら、後ろの人が話しかけてきて、いきなり個人的な話をしだすなんていうことが結構あります。

 アメリカ人は、長く付き合った人とだけ親しい会話をするのではなく、出会ったばかりの人とでもすぐに打ち解けてパーソナルなことを分かち合うようなところがあり、私は結構好きです。

 「なんでアメリカ人はこうなんだろう?」と考えてみるに、1つには「開拓者精神」があると思います。つまり、東海岸から始まって、どんどん西へ西へと国を開拓していったわけですよね、アメリカ人は。一箇所に長く留まるというより、常に新しい土地を求めて進んでいくライフスタイルだったわけです。そしたら、引っ越したばかりの街で、すぐに人と仲良くなれなければ生きていけなかったと思うんですね。みんなが「新参者の寄り合い」のような街だったと思うんです。だから、長い間かけて付き合ってきた人とだけ親しくするなんて言っていられない。

 それからアメリカは移民の国でしょう? みんな「よそ者」なんですよ。だから、日本みたいに「ウチ」と「ソト」なんて区別していられないんでしょうね。

 そういうアメリカだから、日本という外国から来た私に対しても、温かく迎えてくれて、最初からフレンドリーに接してくれる人がとても多かったです。とてもありがたいことでした。

 アメリカには11月下旬に感謝祭(Thanksgiving)という祭りがあって、七面鳥のディナーを食べるんです。この時に、近くに見知らぬ人がいたら招待して一緒に食事をすることになっています。
家族から離れてひとりでいる人、外国人、留学生などを自宅へ招待してもてなすという素敵な伝統があるんです。これにあやかって、私は何度もアメリカの家庭でおもてなしを受けました。

 「ウチ」と「ソト」という風に壁を作らないで心を開き合うアメリカという国が私は好きです。この精神の根っこには、「ひとつの神様の元に、すべての人間は兄弟姉妹である」というキリスト教の精神が脈々と生きているのを私は感じます。

私が感じた日本とアメリカの違い その1

 私はマサチューセッツに10年、カリフォルニアに1年住んだことがあります。20代のほとんどをアメリカで過ごした私は、3分の1ほどはアメリカに育ててもらったという実感を持っているんです。

 今でも日本語半分、英語半分の生活を送り続けています。

 アメリカで働いて税金も納め、社会保障番号もしっかりあるんですよ。

 そういう私が感じた日本とアメリカの違いについて書いてみます。面白いと感じてくださる方がいれば嬉しいです。

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アメリカでは「お客様は神様」ではない

 日本からアメリカに親戚たちが遊びにきたときのことです。レストランに連れて行ったのですが、ウェイトレスが「こんにちは」と話しかけてきたとき、我が親戚団は誰一人としてウェイトレスの方を見ずに黙々とメニューを読んでいました。

 私はドキっとして、慌てて、「ハ〜イ。この人たち日本からきた私の親戚なんですよ」なんて挨拶をしたわけです。その時に気づいたんです。アメリカでは、ウェイトレスとか店員が挨拶をしてきたら、同じ人間として挨拶をするのが礼儀なのに対して、日本ではウェイトレスや店員が一方的に客に愛想良くしていればよく、客は無愛想でも許されるということに。

 そう、日本での店員と客の態度を見ていると、アメリカ文化からすれば客の態度がものすごく失礼なんですね。アメリカでは客が上で店員が下という感じではありません。そして、レストランに行ったら、客と店員としての立場を超えて、人間同士としての挨拶をまずすることになっています。

 日本の店では、店側が一方的に「いらっしゃいませ」と言い、客は無言でも構いません。けれども、アメリカでは店側が May I help you? と聞けば、必ず応答するのが礼儀です。


アメリカの接客ではリラックスが基本

 日本の接客は、失礼にならないように緊張し、恐縮することで相手への尊敬を伝えようとします。けれども、アメリカの接客は、基本的に接客する側もリラックスしていますね。

 例えば、日本のスーパーであれば、お客さんが並べばレジ係は自分のやっていることをやめてすぐにレジにつきます。客を待たせないように気を遣うのが当たり前です。けれども、アメリカのスーパーでは、客がいないときにレジ係が隣りのレジ係とおしゃべりを始めたりすると、客がひとり並んでも、おしゃべりが一段落しないと接客を始めないんですよね。アハハ! 少しぐらい客を待たせても、自分らのおしゃべりのオチまでは続ける。そういうリラックスした雰囲気なんです。緊張して恐縮して「お客様第一」なんてやりません。客もそのぐらいのことは問題にしないんです。

 この前、アメリカの銀行に用事があって電話をしたら、パソコンで作業をしてくれている間、その女性はずっと鼻歌を歌っていました。それがちっとも嫌だと感じなかったんです。日本ではあり得ないですけれども。私は微笑ましく聞いていて、心がほっこりしました。「ああ、アメリカやのう」と思いつつ。

 日本では緊張と礼儀が結びついていますが、アメリカは違います。例えば、日本の卒業式はフォーマルで真面目な雰囲気ですが、アメリカの卒業式はお祭りムードです。


アメリカではしょっちゅうスキンシップしてます

 アメリカでは大人になっても家族同士でハグしたりキスしたり忙しいです。それから友達同士でも、先生と生徒との間でもハグします。こういうのは嫌いな人もいるんでしょうけれども、私はとても好きな方です。

 アメリカで生活していると、友達に会うたびにハグする。先生と会ってもハグする。1日に何度も人の体に触れるんですね。これは結構大事なことだなあと思います。日本に帰ってくると、家族にも触れないし、友達同士でも触れないことが多いし、スキンシップが本当にないんですよね。私は寂しい。(笑)

 ちょっと困るのは、アメリカでは小さい子供が親とキスするとき、口でし合う家族もいるんですよ。最初は「ええ!?」と思いましたが、「まあ、そんなものか」と段々と慣れました。家族でするのはいいんですが、私の親しい友達の家に遊びに行くと、その子供達とも挨拶をするわけです。それで、たまに、小さい子供が私の口めがけてキスしてこようとするではないか! ほっぺならいいけれど、流石に口にするのは私は恋人だけにしたいと思う方なので、ひょいとよけてほっぺにしてもらうんです。

 アメリカ人は愛情表現をたくさんするんですよね。私はそれが基本的に好きなんですが、「口だけはやめて」と思います。(笑)
 

アメリカ人が間違える英語

 日本人でも日本語を間違えるように、アメリカ人でも英語を間違えます。

 ただ、アメリカ人が英語を間違えるとき、日本人が間違えないようなところを間違えるんです。

 そこが面白いですね。

 頻繁に出くわすアメリカ人のミスについてお話ししましょう。

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1. its を it's と書く

 信じられないかもしれませんが、アメリカ人の多くが極めて初歩的なミスを犯します。日本人なら誰でも中学で習う its と it's の違いをアメリカ人の多くが理解していません。私の肌感覚で言うと、2割から3割ぐらいの人かしら。

 例えば、「各国は自国民を保護しなくてはならない」を英語で言うと・・・

 Each country must protect its citizens. ですが、これを・・・

 Each country must protect it's citizens. と書いてしまう。

 出版されている書籍や公的なホームページなどでも見られます。

2. for you and me を for you and I と言う

 前置詞(for, with, to など)の後にくる人称代名詞は目的格(me, him, us など)にしなくてはならないのですが、主格(I, he, we など)を使うことがファッショナブルになっています。

 例えば、「これは君と僕のためだ」を英語で言うと・・・

 This is for you and me. が正しいのですが、これを・・・

 This is for you and I. と言う人がたくさんいます。

 他に、動詞の目的語として人称代名詞を使う際にも、目的格を使うのが正しいのに主格を使ってしまう人が爆発的に増えています。

 例えば、「ジョンソン夫妻が妻と私を招待してくれた」は英語で・・・

 The Johnsons invited my wife and me. ですが、これを・・・

 The Johnsons invited my wife and I. と言う人がものすごい勢いで増えています。

 これは「過剰修正(hypercorrection)」によるものだと私は分析しています。

 「過剰修正」とは、本当は正しいのに類推によって間違いだと誤認し、修正しなくていいものを修正することを意味します。

 アメリカ人は "Me and my brother went to town." という具合に "me" という目的格を主語として使うことがあります。これは教養のない誤った英語だと学校で教わり、"My brother and I" と言うように直されます。

 そうすると、「I は正しい英語で me は誤った英語なんだ」という感覚が無意識に生まれる。

 そして、"my wife and me" は教養のない言い方なんじゃないかと思えてくる。そして、正しく話そうとして "my wife and I" と言ってしまうんです。

 この間違いは大学教授や政府高官に至るまで、教養のある人の間でも蔓延していて、手をつけられない状態にあります。

3. The problem is を The problem is is と言う

 これも手をつけられないぐらい蔓延していて、しかも大学教授や政府高官に至るインテリ層でも気づいていない人が多いです。

 「問題は、民主主義が機能していないということです」は英語で・・・

 The problem
is that democracy isn't functioning. ですが、これを・・・

 The problem
is is that democracy isn't functioning. と言ってしまう人がものすご〜く多くいます。

 is を2回言うんです! 動詞は1つでいいのですが、繰り返すんです!

 主語は、The problem、The question、The thing など数種類あります。

 流石に書き言葉にするとおかしいと分かるので、文体では見られません。話し言葉だけです。

 なぜ動詞を2回も言うのだと思いますか?

 これも「過剰修正」だと私は分析しています。

 英語には、次のような言い方が存在します。

 What the problem is is that democracy isn't functioning.

 「問題が何かと言うと、民主主義が機能していないことです」という意味です。

 この場合 "What the problem is" という句が主語になっていて、それに対して動詞の is が次に来ています。主語の一部として存在する is は、「問題が何であるか」の「ある」の部分です。そして、2番目の is はこの文章全体の動詞です。

 つまり、読むときは・・・

 What the problem is / is that democracy isn't functioning. という風に斜線のところで切ります。そこに意味の切れ目があるからです。

 この What 付きの文章からの類推で、The problem is is ... と2回動詞を重ねてしまうのだと思われます。最初の Is と2番目の is は意味が違うということを意識的に理解していればこのようなミスは起こりませんが、何となく音で覚えているものだから、無意識に Is を繰り返してしまうのでしょう。

4. lead の過去形・過去分詞 led を lead と書く

 lead(導く)の過去形・過去分詞は led なのですが、lead と書いて [led] と読ませようとする人がたくさんいます。これも私の肌感覚だとアメリカ人の3割から4割、ひょっとするともっといるかもしれません。しょっちゅう目にします。

 "lead to 〜" で「〜に至る、つながる」という意味があります。

 「不景気が彼らの倒産につながった」は英語で・・・

 Recession has led to their bankruptcy. ですが、これを・・・

 Recession has lead to their bankruptcy. と書く人が極めて多い。

 ここにも「類推」が働いているものと思われます。

 1つは、read(読む)という動詞からの類推です。read の過去形と過去分詞は現在形と同じ read と書いて [red] と発音します。ここから、lead という動詞も、そのままの綴りで [led] と読ませることができると勘違いをしたのでしょう。

 もう1つは、lead(鉛)という名詞からの類推です。これは lead(導く)という動詞と全く同じ綴りをしていて [led] と発音されます。lead と書いて [led] と読ませる単語をすでに知っていることも手伝って、led とわざわざ綴りを変える必要性を感じにくいのだろうと思います。

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 今日は、私が普段から気になっているアメリカ人の英語のミスについてお話ししました。

 ネイティブスピーカーだから正しい英語を使っているとは限りませんので、ご注意ください。

最も自然に英語を身につけるには

英語習得の全貌を中学時代で掴んでしまった

 私は中学時代に、「こうすれば英語がペラペラ話せるようになる」というからくりの全貌が見えてしまいました。

 そして、そのヴィジョンに忠実に勉強をし、高校3年で英検1級に合格し、上智大の英語学科を卒業した後、アメリカの大学院に行ったときには、すべての授業について行けました。アメリカへ行って言葉の壁を感じたことはありません。

 アメリカで働くようになって、日系アメリカ人だと間違えられたのは2度や3度ではありません。英語のネイティブにネイティブだと間違えられるほどの自然な英語力を私が身につけられたのは、中学時代に英語を話すために最も自然な脳の使い方を感覚的に掴んでしまったからだと私は思っています。

 念のために言っておきますが、私は帰国子女ではありません。私の英語力の基礎はメイド・イン・ジャパンであり、英語圏で生活した1年目からコミュニケーションに困ることはありませんでした。

 私は完全にバイリンガルだと自分のことを思っています。テレビも本も映画もYouTube動画も、日本語と英語はほぼ変わりなく理解できます。英語を使うときには、日本語を介さずに意味を感じます。「英語で考えている」ということです。

 高校時代に他の生徒たちがみな長文を上下左右に往来しながら苦戦していたとき、私は英語の順番に素直に読んでそのまま理解していました。英語から直接意味を感じる脳がすでに出来上がっていたからです。

 私がこの記事を書いているのは「威張るため」ではありません。(笑)

 多くの日本人が必要以上に英語を難しくし過ぎているので、「英語で考える」ということが誰にでもできる簡単なことなのだという真実を知って欲しいからなのです。

 もちろん、英語を操れるようになるには、数年の集中した訓練が必要なことは変わりありません。でも、私のやり方を守って頂ければ、3年〜5年の間にコミュニケーションの少なくとも初歩が完成できると思っています。


 多くの人が間違った努力をしているため話せるようにならない中、正しい訓練をすれば、最短距離でマスターできることを私は知っています。そして、そのやり方をお伝えしたいと思っているのです。

英語学習は「肉体の訓練」と「意識の訓練」の2部構成

 私の極意の最も重要なポイントは「意識の訓練」にありますが、その前に「肉体の訓練」もしておく必要があります。

 「肉体の訓練」とは、音を出す練習です。英語を聞いて、文章を声を出して読む、いわゆる「音読」を中心とします。

 日本の中学生と高校生の大部分は声を出さずに英語を黙々と机に向かって勉強しています。これは外国語学習としては最悪です。

 シュリーマンにしても國弘正雄にしても、語学の天才と呼ばれた人はだいたい「音読」が外国語学習の王道であると言っていますし、私も完全に同意します。

 声を出さずに英語を習得しようというのは、水に入らずに泳ぎを学ぼうとするようなものです。

 発音はネイティブと同じ完璧度でなくてもいいとは思いますが、できるだけ英語の音体系の中で意味が異なるものを区別できることは大事です。LとRをまずは聞き分けられ、発音できるということは、やはりクリアしたいですね。TH や F や V など日本語にない音は特に耳と口の訓練が必要です。

 英語の音を出すことを楽しむ。よく聞いて音を出す訓練。これは「肉体の訓練」であり「五感の訓練」なのです。このときに意味を分かっていなくてもいい。だから、歌が好きな人は英語の歌を聞いたり歌ったりすれば素晴らしい訓練になります。

 私が英語教室を経営していた時代には、生徒に合ったレベルの三段落ぐらいの文章を「音読」させていました。すらすら声に出して、ある程度正確に音が出せるように「肉体の訓練」をしました。

 そして、その次の「意識の訓練」へと移行していったのです。

「意識の訓練」とは「意味」と「言葉」の同時想起

 私が教えていた「意識の訓練」は、学校英語教育と一線を画す内容です。これが「英語で考える」プロセスを教えることなのです。

 私は自分の生徒である中学生と高校生にこれを教えていました。 

 各自に合ったレベルの長文1ページほどを選びます。そして、「肉体の訓練」を通して、音を出せるようになったら、次に「音読」しながら英語の順番で「意味」を感じる訓練をするのです。

 日本の学校では、教室で英文を音読させるとき、生徒が棒読みをしていても注意されません。意味を解釈するのは音読が終わった後で構わないのです。

 私はこの「棒読み」を許しませんでした。「棒読み」とは死んだ言葉です。意味を感じずに言葉を発するなどということは、言葉の教育にあってはなりません。

 英語は人間が使う「ことば」なのです。「生きた言葉」なのです。私はこれを伝えたかった。そこに妥協はありません。

 私のところに来たばかりの生徒の大部分は「棒読み」です。

 読み終わったとき、「今の文章、読みながら意味を何%感じてた?」と尋ねると、「30%ぐらい」とか「25%ぐらい」などという答えが返って来ました。

 私が気づいたのは、「意味を何%感じていた?」と尋ねて、答えられなかった生徒はひとりもいなかったということです。

 これはどういうことか?

 人間であれば、言葉を読んでいるとき、意味を感じながら読んでいるのか感じないで読んでいるのかを区別できない人はいないということなんです。

 誰でも「死んだことば」と「生きたことば」の違いが分かる感性を持ち合わせているのです。これはとても明るいことだと思いました。

 「棒読み」に慣れている中学生・高校生は、英語の音を出しながら同時に意味を感じるという脳の使い方を訓練されていません。でも、訓練すればできるのです。その重要性が学校で理解されていないだけなのです。

 「棒読み」をしている生徒をどうするか?

 私はまず、「ゆっくりでいいから、ひとつひとつの言葉の意味を感じながら声を出す練習をしてみて」と言いました。意味が分からなくなったら日本語に訳してよい。でも、音読するときには日本語を挟まないで「意味はフィーリングで感じるだけ」ということにしました。

 こうやって、何度も繰り返して音読させました。すると、最初は音読しながら30%しか意味を感じられなかった生徒が、「50%」「70%」と上がっていきました。

 英語の音を出しながら、頭の中では意味を味わっているという状態を掴んでいったのです。

 彼らの音読は、だんだんと「生きた言葉」に変わっていきました。「生きた言葉」になると、生徒の発する英語を聞いている私の心に意味が伝わって来るんです。感動でした。

 まずは1ページの英文を、声を出しながら意味を感じられる状態にする。それだけで、頭の中に「英語と意味の絆」が育っています

 このようにして、学ぶ英文ごとにこの状態になるまで「意識の訓練」を行うのです。これを2年、3年続けていけば、自然と英語と意味の行き来が速くなります。これが「英語で考える」ということなのです。

 私はこれを10年ほど続けて、ネイティブとほぼ同じレベルになりました。

 この脳の使い方は、英米人と同じなので、最も人間に自然な意識の使い方なのです。そして、これは実は日本人が日本語を使っているときの操作と全く同じです。

 そう、英語を上手に話せるようになるには、私たちが日本語を操るのと全く同じ方法で、英語を操ればいいのです。私たちが日本語を話すとき、意味を直接日本語に盛ります。英米人は英語を話すとき、意味を直接英語に盛ります。それが最も自然なのです。

 そして、意味を英語に直接盛るのは、英語圏で育った人だけの特権ではありません。誰でもできるのです。「意味と英語の絆を育てる訓練」を1年、2年と続ければ着実に身につく、というのが私のメッセージなのです。

まずは翻訳、次に日本語を外して

 最初新しい英文に出会ったとき、分からない単語があったりして、そのまま意味を掴めないのは自然なことです。この段階では日本語に直して、日本語の媒体を通して「意味」を感じればいいのです。

 翻訳してはいけないのではありません問題は翻訳した後なのです。

 翻訳でストップせず、私はその先の一歩を必ず踏んだのです。それは、日本語というお皿に盛られた「意味」を、今度は英語というお皿に盛るという訓練をしたのです。

 意味とは日本語とか英語など特定の言語を超えて人類共通のものです。「犬」という意味を感じるとき、私たちは「犬」という言葉がなくても感じられます。意味は言葉を超えていますが、相手に伝達したいときに「犬」という器を借りて、そこに意味を盛っているだけなのです。

 翻訳するとは、器から器へ変えること。

 英語を日本語に訳して分かる。この状態は、英語というお皿を日本語というお皿に直して、日本語のお皿から意味を感じるという脳の使い方。

 これが第1段階。

 この次に私は第2段階を必ずやった。

 それは、日本語というお皿の助けを借りて想起した「意味」を、今度は日本語というお皿を排除した状態で英語のお皿に直接盛るというプロセスを訓練したということです。

 そうすると、「意味」を想起した瞬間に英語のお皿がイメージとしてパッと出てくるし、英語のお皿を聞いた瞬間、直接「意味」が連想として出てくるという意識を創り上げているのです。

翻訳のプロセス:英語の器→日本語の器→意味を感じる
英語脳のプロセス:英語の器→直接意味を感じる、意味を感じる→英語の器が出てくるように訓練

意味はコンテクストとして使う人の気持ちを想像する

 もう1つだけ、私が心がけていたことをお伝えしましょう。

 「私は先週東京に行きました」と言いたければ、英語では・・・

 "I went to Tokyo last week." になりますよね。

 この1文を「英語脳」で音読するとすれば、まず意味を感じなくてもいいから、すらすらと音を出せるように練習します。次に、最初は日本語訳の力を借りながら意味を想起し、だんだんと英語の音を出しながら、同時に意味を感じるように持っていきます。

 このときの「意味の感じ方」なんですが、多くの人は「私は先週東京に行きました」という言葉通りの額面通りの「機械的な意味」を頭で理解するに留まっているんです。

 ところが、私は中学のころから、意味の感じ方をコンテクチュアル(前後関係、文脈、状況)なものとして体験していました。

 つまり、「私は先週東京に行きました」と言いたい気持ちのこの人って、どんな気持ちなのだろう? どこにいて、誰に向かって話しているんだろう? という状況そのものと心情を私は想像しながら英語の練習を常にしていたのです。

 話す人の気持ちそのものを想起することが、意味を味わうということなのです。

 つまり、私は英語の勉強をしながら、感情を想像しながら、その人になったつもりになって、内面ではお芝居をしているかのような感じだったんです。

 そして、新しい表現を習うたびに、「わあ、嬉しい。今度はこんな新しいことも言えるようになる。新しい状況でこんな複雑な内容も言えるようになる」とワクワクしていたんです。

 なので、この文であれば、喫茶店で幼馴染みと久しぶりに会ってコーヒーでも飲みながら、「ところで、先週東京へ行ったんだけど」と言っている場面を想像する。

 そして、"I went to Tokyo last week." と言っている自分を想像するんです。

 そうすると、気持ちと音出しがピッタンコ合いますね。

「英語で考える」は単語から句、文へと広げる

 単語レベルで言うと、例えば "dog" とか "water" ぐらいなら、日本語に直さなくても直接意味を感じられる人は多いと思います。では、 "candidate" とか "Senate" はどうでしょうか。

 日本語を通して意味を感じている新しい単語を、英語から直接意味を感じ、また意味を想起した次の瞬間にすぐ英語の単語が出るように訓練すれば、もう単語レベルでは「英語で考えている」と言ってもいいのです。

 これを次に句(フレーズ)のレベルでもやります。"in front of the desk" とか "before next winter" などでもできるように訓練する。そしてセンテンス、段落、長文と広げていけばいいのです。

 1つのセンテンスを日本語の助けを挟まずに「意味と英語の直結」が頭の中でできるようになれば、もう本質は掴んだも同然です。あとは、新しく学ぶ英語すべてについてそれをやればいいのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 「音と意味の絆を強めるための訓練」という意識をもつかもたないかで、訓練の成果が大きく違ってくると私は思います。私の場合、これを英語学習の初期から徹底して実践したので英語をマスターできたのです。

 これを読まれた方のおひとりでも、この訓練を実践することで英語を自分の言葉として操ることのできる喜びを知ってくださったならば、これほど嬉しいことはありません。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2016年3月12日追記

 「音」→「意味イメージ」に至る所要時間と、「意味イメージ」→「音」に至る所要時間に常に注意を払いながら学ぶといいです。

 英文を読んだり聞いたりして、「意味」がイメージとして掴めるまでの時間(もちろん日本語を介さずに)に気づく。言いたいことを「意味」としてイメージした後、どのぐらいのスピードでそれが英語として出てくるか、それまでの時間に気づく。

 よく知らない新しい単語や表現だと数秒かかります。これを1秒未満、できれば 0.1秒ぐらいで双方向に反応できる状態になるまで繰り返し意識的に同時想起する。これを各表現が定着するまで続ければ、その定着した表現に関しては「自分の言葉になった」ということです。

 「意味を感じる」ということは私たちはすでにできているのですから練習する必要はありません。「犬」とか「候補者」という意味を感じることは日本語を通してもうマスターしているのです。問題は、「意味を感じる」というすでに出来上がっている我々の内面と、英語の音を一体化させることなのです。日本語を介して理解するのは距離があり過ぎます。なので、意味と英語の音との距離を縮めていく。これが英語学習の根本なのです。
 

戦争を全面放棄することが果たして善なのか

 私は元々、戦争絶対反対の平和主義者でした。

 そして、軍隊そのものを人類の未熟さの象徴として見ていました。

 アメリカ人の親友の息子が米軍に入り、彼がマサチューセッツに帰省したときに、久しぶりに会ったのですが、軍人というものに拒絶感を感じている自分がいて戸惑いました。

 私はこの青年が幼かったころ、その弟と2人を山に連れて行ったり、プールで一緒に遊んだりした仲でした。私がとても可愛がっていた親友の息子が軍隊に入っているという事実を、どう受け止めていいのか分からず、彼を直視できませんでした。

 気まずい再会のあとで、私は自分の気持ちと向き合いました。そして、自分の中に軍隊に対する拒絶的感情があることに気づきました。そして、このままでいいのだろうかと自問し始めたのです。

 数年後、私はある霊的教師の本を読んだとき、衝撃を受けました。その本では、平和主義は決して波動が高くないと書いてあったのです。また、ナチスと戦って多くの人を救った連合軍の戦意には、人類愛という高い波動が流れていたとも書いてありました。

 考えてみると、ナチスを放っておいたら、ヒトラーの侵略と虐殺はさらに続いたことでしょう。やはり、ナチスを止めてくれた連合軍には人類の一員として感謝したい気持ちを私は持っています。

 そして、私は1つの質問に辿り着きました。

 「戦争はいかなる状況においても避ける方がよいと言い切れるだろうか?」「戦争をしないことによって、害が増大する状況というものはあり得ないのだろうか?」

 つまり、相手を侵害することを目的とした戦争がダメなのは言うまでもありません。しかし、無実の市民を破壊している者がいるときに、武力を使って守りに行かないことで、被害が広がってしまうという世界情勢もあり得ます。戦争をすることで被害を食い止め、苦しみを最小限で抑えることができるならば、その戦争は避けてはならないのではないかと思うようになりました。

 警察の比喩を使うと最も分かりやすいのではないかと思います。

 警察は武装を許されています。もちろん警察はむやみやたらに武力を使って市民を傷つけてはなりません。しかし、犯罪者が市民の安寧を脅かしている状況で、その犯罪者に武力を用いなければ市民への危険が増大する場合に限り、犯罪者を射殺することは許されています。

 この武力は、市民を守るという目的のために使われる武力です。これは絶対に必要ですよね。

 これを国際的環境に当てはめてみると、たとえばサダム・フセインはクウェートを侵略しました。放っておけば、彼のやりたい放題です。ですから、国連でも武力行使を容認しました。「誰かが」武力をもって、サダム・フセインをクウェートから撤退させるということは、やはり正義だと言えましょう。

 日本が戦争をするかしないかという視点だけでなく、現在の地球でこのような戦争を全部なくしてよいかという視点で考えてみると、侵略をしたり、殺戮を犯している集団が現実にいるわけですから、「警察力」として「誰かが」武力を正義のために行使できることは、全人類にとって善だと思います。

 そして、アメリカやイギリス、フランス、オランダ、オーストラリアなどの国々は、民族や国家の権利を犯す破壊的集団から市民を守るという目的のために限って、戦争を行うことを是としています。

 日本は戦争を放棄していますので参加できませんが、これらの西洋の国々が「警察力」を発揮してくれているからこそ、日本は平和を享受できているという情勢があることを私たちは忘れてはなりません。

 「警察力」としての武力を世界からなくしてしまっていいのか、と人類規模で考えてみると、答えは「なくしてはならない」だと思います。つまり、世界規模で言えば、「警察力」としての戦争を放棄できる状況にはありません。それは、「警察力」をもって対処せねばならないような、破壊的集団が現存するからです。

 旧ユーゴスラビアでは民族浄化などと言って虐殺が実際行われ、多国籍軍が戦争に参加しました。誰も戦争に参加しなければ良かったなどと言うことができるでしょうか。できないと思います。

 スイスやコスタリカなど、中立国であったり軍隊を持たない国であったりという存在は世界にあります。特定の国が戦争を認めるか認めないかは、その国の国民が決めることです。

 私たち日本人は現在、日本が攻められたときの防衛戦争以外には、戦争をすることはないということになっています。ということは、第三国が侵害されたり、外国の民族がテロによって虐殺されたりするような状況において、アメリカやイギリスやフランスやオランダやオーストラリアの若者たちは自らの命を懸けて救いに行くけれども、私たち日本人は行きませんということです。

 本当にそれでいいのだろうか? という疑問が私の心にあります。

 私たちが自分の命を危険にさらさなくてもいいのは、西洋の若者たちが命を懸けて戦ってくれているからであるということを真剣に考えなくてはならないのではないかと思います。

 私は日本が戦争をできるようにすべきだという明確な結論をまだ持ちません。私の心は揺れています。ただ、何が何でもどんな理由でも戦争は二度としてはいけないという立場は、私の中ではクエスチョンマークがついているのです。

 私は小学校のときから、毎年8月に広島・長崎の話を聞き、そのおぞましさが体に染み付いています。そして、戦争は絶対イヤだという感覚を強くもって育ちました。

 ドイツではダッハウというナチスの収容所を訪問し、虐殺の行われたガス室にも入ったことがあります。ワシントンではホロコースト博物館に2度行きました。広島の原爆ドームにも2度行きました。サイパンの万歳クリフにも行きました。

 私の大学の恩師が平和主義者で軍縮活動をしていた関係で、私も平和を希求する気持ちがとても強いです。

 やはり、人々が苦しむことは減らさなくてはならない。

 簡単に戦争などしてはいけない。

 しかし、警察から銃を奪ってはいけないように、世界から軍隊をなくしてはいけないと思います。現在の人類の進化レベルにおいては。

 やはり、武力行使が愛であるということがあり得るのではないか。そして、愛として武力行使をしなければ多くの人の苦しみが増大するという状況で、それを回避するのはやはり無知と臆病ではないか。 

 平和主義だったときの私には、全く理解できない悪党のように思っていた「タカ派」の人たちの気持ちが、今は少し理解できます。

 平和主義者たちの多くが非現実的であるという指摘はあながち間違っていないと自分自身が感じるようになりました。そして、「タカ派」の大部分が、侵略を望んでいるとか、好戦的であるという指摘が必ずしも妥当ではないと思うようにもなりました。

 「タカ派」の中にある正当な欲求として、自分の国を自分で守りたいという男気のようなものをまず感じます。アメリカに守ってもらうだけではイヤなのです。自尊感情の一種です。これはある意味尊いものです。

 ただ、「ハト派」の言うことも分かります。戦争を許してしまうと、愚かで衝動的な首相が出てきたときに、武力を乱用して多くの国民の命を犠牲にしかねないという危惧です。

 実際、私が11年過ごしたアメリカでは、戦争をする度に、いろいろな議論が巻き起こります。石油が絡んでいる中東だからクウェートを助けに行ったけれど、国益のないアフリカで虐殺が起こっても助けにいかないじゃないかと言って自国政府を非難するアメリカ市民もいました。御都合主義の戦争であるという批判です。

 アメリカでは戦争をするとき、議会で承認されなくてはなりません。つまり、国民の代表である議員が賛成をしなくてはならない。国民の付託として戦争を行うのです。そして、国民が支持しない結果になれば、大統領は政治生命を断たれますので、勿論命がけの決断になります。

 それでも、戦争自体を二度と起こさないという発想はアメリカ人から聞いたことがありません。

 やはり、ならず者がたくさんいる世界において、戦争自体をしないと決めることに対して、大多数の人は賛成していないのです。 

 誰といつどのように戦争をするかという議論はするけれど、戦争を絶対的になくすかどうかという議論はないと言っていい。

 ただ、アメリカ人の多くが「アメリカは世界の警察をやり過ぎだ、もういい加減止めた方がいい」と言うのを聞いたことはあります。

 アメリカにいると、兵士が亡くなる度にテレビで顔写真とともに放送されるので、国民は死傷者の多さを実感しているのです。だから、「本当にこの戦争は戦う価値があるのか」ということを問いながら生活しています。それを私は肌で感じました。

 私たち日本人は、第二次大戦体験があまりに過酷なものだったため、そのトラウマをずっと引きずり、戦争というものを軍部の過ちや原爆や大空襲や沖縄の地上戦などという生々しい体験と引き離して考えることができない状況にあると思います。

 そして、そのトラウマが癒えていないために、愛としての戦争とか、正義として必要な戦争などということを考慮するだけの精神的スペースがまだない。

 そしてまた、中国や韓国などの隣国は、日本が武力を行使できるようになることに対して、脅威を感じるだろうと思います。

 これらの現実を総合的に考えると、日本が欧米の諸国のように世界において「警察力」を発揮できるようになることは近い将来には考えにくいでしょう。

 しかし、武力の乱用の可能性を最小限にした上で、人を救うための戦争というものに遠い将来参加できるほど、第二次大戦からの反動を抜け出して、よりクールに考えられる未来世代の日本人が出て来る可能性はゼロではないと思います。

 やはり、「ハト派」と「タカ派」は、互いに補完し合う性質を持ち合わせており、どちらか一方では国はうまく行かない、というのが現在の私の考えです。

 「ハト派」がいるから「タカ派」の暴走を止められる。でも「ハト派」だけだと、やはり心許ない。「タカ派」の自尊心や自衛などの男気もやはり神聖なものなのです。

 お互いに抑制しながら、丁度よいところを探って歩んで行っている、というのが実際のところなのでしょう。

 戦争についての様々な立場について、拒絶したい相手というものが私にはいなくなりました。

 もう1つ私の中で起こった変化は、自衛隊の方々に尊敬の念を抱いているということです。以前は自衛隊の存在を毛嫌いしていましたが、私は間違っていました。今は「命がけで日本を守って下さって本当にありがとうございます」と言いたい気持ちです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の考え:

1.あらゆる紛争や対立については、最大限に平和的手段を尽すこと。できるだけ人間を命の危険にさらす戦争へと繋げないように外交その他の手段を誠心誠意尽すこと。

2.犯人を射殺するしか市民の安寧を守ることができないときに警察が武力を使うのと同様に、国際社会においても破壊的集団の破壊行為を食い止めるために武力の行使しかない状況においては、苦悩の最小化と平和的秩序の確立という目的のために、愛の精神によって有志国が戦争行為に従事することは是認する。その際に、市民への被害が最小限となるよう尽力する。

3.日本が国家のエゴから戦争行為に従事することは今後一切認めない。しかし、愛の精神によって有志国が戦争行為に従事する際、できる範囲でサポートすることは人類への貢献と見なす。

4.遠い将来、愛の精神によって日本もこのような有志国として戦争行為に参加する選択肢を考慮してもよいと考える。ただ、そこに到達するには、第二次大戦の体験からある程度距離が必要であり、侵略戦争とポジティブな目的のための戦争との違いについて、国民が自覚と理解を深めなくてはならない。それにはまだ時間が必要であろう。
 

ロバート・フロスト「花のひとむれ」

 私はあまり文学を好んで読む人間ではないのですが、大好きな詩がひとつあります。

 アメリカの詩人ロバート・フロストの「花のひとむれ」です。

 原文のあとに、安藤一郎氏の訳を載せてあります。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

THE TUFT OF FLOWERS

I went to turn the grass once after one
Who mowed it in the dew before the sun.

The dew was gone that made his blade so keen
Before I came to view the levelled scene.

I looked for him behind an isle of trees;
I listened for his whetstone on the breeze.

But he had gone his way, the grass all mown,
And I must be, as he had been,--alone,

"As all must be," I said within my heart,
"Whether they work together or apart."

But as I said it, swift there passed me by
On noiseless wing a bewildered butterfly,

Seeking with memories grown dim o'er night
Some resting flower of yesterday's delight.

And once I marked his flight go round and round,
As where some flower lay withering on the ground.

And then he flew as far as eye could see,
And then on tremulous wing came back to me.

I thought of questions that have no reply,
And would have turned to toss the grass to dry;

But he turned first, and led my eye to look
At a tall tuft of flowers beside a brook,

A leaping tongue of bloom the scythe had spared
Beside a reedy brook the scythe had bared.

I left my place to know them by their name,
Finding them butterfly weed when I came.

The mower in the dew had loved them thus,
Leaving them to flourish, not for us,

Nor yet to draw one thought of ours to him,
But from sheer morning gladness at the brim.

The butterfly and I had lit upon,
Nevertheless, a message from the dawn,

That made me hear the wakening birds around,
And hear his long scythe whispering to the ground,

And feel a spirit kindred to my own;
So that henceforth I worked no more alone;

But glad with him, I worked as with his aid,
And weary, sought at noon with him the shade;

And dreaming, as it were, held brotherly speech
With one whose thought I had not hoped to reach.

"Men work together," I told him from the heart,
"Whether they work together or apart."



 「花のひとむれ」(安藤一郎訳)

わたしはそこへ行って草を一度ひっくり返した、
日が昇る前に露の中でそれを刈った者のあとに。

その平らになった場所に来て見る前に
鎌の刃をそのように冴えさせた露は消えていた。

わたしは木々の小島のうしろに彼の姿を探した、
わたしは微風の中に彼の鎌を研ぐ音を求めた。

だが彼は立ち去っていたのだ、草はすべて刈られて、
そこでわたしは当然、彼もそうだったようにーーひとりであった、

「だれもが当然ひとりなのだ」とわたしは心の中で言った、
「いっしょに働くとも、別々に働くとも」

そう言った折から、わたしのそばを音もなく
飛びすぎていく一羽のうろたえ迷う蝶があった、

一夜を経ておぼろになった記憶をたよりに
昨日の喜びであった憩いの花を求めて。

わたしは蝶があたりをぐるぐる飛び回るのを見ていた、
花が地上に倒れて萎んでいるところと覚しく。

それから眼のとどくかぎり遠くまで飛びさかって、
蝶はまたひらひらと翅をあおりながら戻ってきた。

わたしは自分で答えのない問いをめぐらして、
むしろ草をひっくり返す仕事に向かいたかった。

ところが蝶の方が先んじて、わたしの眼を導いていった、
小川のほとりにある丈高い花のひとむれに、

大鎌が残しておいた躍っている舌のような花々、
大鎌が刈りひらいた葦多い小川のほとりに。

露の中で草を刈った者はこのように花々を惜しんだのだ、
咲くままにおくことによって、しかもわたしたちのためでなく、

またわたしたちの或る思いを彼にひきつけるためでもない、
水辺におけるほんとうの朝の喜びからだ。

その蝶とわたしは、それにもかかわらず、
暁から寄せられた言葉に接することになった、

わたしに周囲の目ざめかける鳥の声を聞かせ、
大地に囁く彼の長い鎌の音を聞かせる、

そして私自身に近い一つの精神を感じさせる言葉。
故にそれ以後わたしはもう一人で働くことはなくなった。

彼と共にいることを喜び、彼の助けがあるとして働き、
そして疲れると、真昼には彼と共に日陰を求めた。

いわば、夢みながら、わたしが察知するとも思わなかった
考えを持つ人と親密な言葉を交わしているのだった。

「人々はいっしょに働く」とわたしは心の中から言った、
「いっしょに働くとも、別々に働くとも」 
 

韓国人のおばあさん

アメリカに住んでいたころのお話
ある日、町を歩いていると
向こうからアジア人のおばあさんが
笑顔で近づいてきた

「日本人ですか?」と嬉しそうに問うた
流暢な日本語を話すこのおばあさんは
韓国人だった
私は複雑な気持ちだった
だってこのおばあさんは
日本の占領下で育ったのだろうから

そんな私の気持ちを包み込むようにして
おばあさんは私のことをあれこれ尋ねた
そして日本語で私と話せることを
50年来の旧友に会ったかのように喜んだ

私が町でピアノを教えていると知って
孫娘を私のもとに送りたいと言った
私は驚いたが
おばあさんの声は確信に満ちていた

数ヶ月後、夏がやってくると
孫娘は本当にピアノを習いにきた
よその町の大学に通っている子で
休みの間だけということだった

夏が終わり孫娘は去っていった
その後私はおばあさんにも孫娘にも
二度と会うことはなかった

おばあさんはなぜ孫娘を私のもとへ送ったのか
ことばで表すことはなかった

でもおばあさんは何かを伝えたかった
韓国人から日本人へ
そして
おばあさんから孫娘に

それは私たち2つの民族を結ぶ愛だった

私のハートはそう言って今でも涙を流す

英語を自分のことばとして習得するコツ

 心理カウンセリングには全く関係のないテーマですが、今日は私が考える英語習得法についてお話したいと思います。

 野球やテニスが上手になりたいと思ったら、体育の授業以外に練習するのが普通だと思います。英語も自分のことばにしたいなら、学校の授業以外に練習する必要があります。

1.とにかく音を真似る
 まず第1にCDでもラジオでもテレビでもいいのですが、英語を母語とする人の話す英語をよく聞いて、細かく発音を真似ることが大事です。英語は日本語とは違う音の体系があります。それぞれの母音や子音を自分なりに区別できるようになることや、英語の強弱アクセントやイントネーション(抑揚)をまずよく感じて、自分のものになるまで真似ることが大事です。できれば遊び心をもってエンジョイしながらできたらベストです。音で遊びながら親しむ感覚があると一番いいです。発音記号を全部理解できるようにしておくと、とても役立ちます。

2.音と意味を脳に同時体験させる
 第2のポイントは、英語の音を出しながら、意味を直接感じる練習をするということです。日本語に直して理解するところで合格とされる学校英語とは、ここで一線を画します。dog とか yes とか snow ぐらいでしたら、日本語に直さなくても、そのまま意味を感じられるのではないでしょうか。習得したいすべての単語に、意識的にこの状態を作っていきます。
 例えば、candidate (候補者)という単語を覚えたければ、まず正確に楽にすらっと発音できるまで音真似をします。次に、「候補者」という和訳の助けを最初は借りて、「候補者」という意味をイメージします。意味のイメージという言い方が分かり難ければ、自分が「候補者」という言葉を使う具体的状況を思い描いてみます。例えば自分が中学時代に学級委員に立候補して候補者となった時を思い描いてもよし、最近の選挙での候補者を思い描いてもいいでしょう。そして、頭に意味や状況が思い浮かんだ時点で、「候補者」という日本語の音や文字を横にどけて、意味を純粋に感じる状態で何度も何度も英語の単語を発音するのです。
 人間の意識は同時に体験したことを連想します。例えば、失恋した時に聞いた曲を聞くたびに、その時のことを思い出したりしませんか。失恋した時の感情とその曲が同時に体験されたので、しかも強い感情があればなおさらですが、2つの事柄が強く結び付いて記憶されているのです。言語を習得するというのは、音と意味の連想なのです。私たちは小さい頃、ごはんを食べさせてもらいながら、「おいしい」という音を聞いて何度も真似ているうちに、食べ物を口に入れて快感を感じることが「おいしい」という音で表されるのだということを学びます。具体的な状況から意味を感じ取りながら、音の体験が同時に起こっているからこそ、意識の中に深く記憶されます。英米人は英語の音と意味を同時体験することで、その2つの間に深い連想体験をもっていると言えます。ですから、外国語として英語を習得したい私たちは、その疑似体験をすればよいのです。そうすれば、英米人と同じ脳の使い方で、英語の音と意味を強く結びつけることが可能です。
 日本語の音や文字を介さずに、意味の感覚とでもいうものと英語の音を同時にからだで体験することを繰り返すことが大事だというポイントをここで繰り返しておきます。

3.文法を感覚化する
 単語レベルで音と意味を結び付けられたら、それを単語と単語の関係にも応用します。例えば on the table, in the park, under the seat のような「前置詞」の使い方を習得する時には、まずすらすら音を出せるようにしてから、意味を英語の語順で感じる練習をします。日本語では「テーブルの上」「公園の中」「座席の下」というように、「上」「中」「下」という言葉は名詞の後にきます。英語では語順が逆なので、この逆の順序でも日本語に直さなくても意味を感じられるところまで音と意味の合体を進めます。何かがテーブルの上にあるのをイメージして、on the table と何度も言えばよいのです。その時 on と言いながら、「上」という言葉でなく「上」という感覚を感じていることが大事です。
 このように、現在形の肯定・否定・疑問や、過去形、未来形、現在完了、and, but,
because などの接続詞などの文法項目1つ1つについて、英米人と同じ脳の使い方になるまで、音と意味の結合を練習していきます。

4.英語独特の概念に慣れる
 日本語にはない形態として、簡単なところでは「単数・複数の差」「定冠詞・不定冠詞(the と a(n))」などがあります。「英米人はこれらの意味をどのようにして感じているんだろうか?」と問うて、その感覚を身につけることが大事です。最初から100%分からなくてもいいから、英米人の発音と伝えようとしている意味に注意を向け続けていると、だんだん「こういう感じかな?」というのが掴めてきます。それには、とにかく英米人のコミュニケーションに多く触れて、体験していくことです。実際に英米人と会う機会が多くなくても、CDやDVD、ラジオ、テレビなどで疑似体験として触れることは大いに役立ちます。
 日本語で「犬」という時、英語では a dog, dogs, the dog, the dogs という4種類の意味に分かれ、それぞれ異なる状況で使われます。単数・複数の差に定・不定の差が掛け合わされ4つということです。誰でも単数は1つ、複数は2つ以上と「頭では分かっている」と思いますが、聞いた時に単数・複数の差が即座に感じられ、また自分が話す時には単数・複数を感じながら発話できる感覚を養っていくためには、まず1匹の犬を思い描いて a dog と言ってみる。そして複数の犬を思い描いて、dogs と言ってみるということを無意識にできるまで繰り返すことが大事です。a dog と the dog の差も同じです。

5.ユーザーの意識を常にもつ
 従来の日本の英語教育は、外国から文化を取り入れる受け手としての教育だったため、翻訳中心でした。自分の言葉として英語を習得したいならば、単語であれ文法項目であれ、最初からそれを自分の思考と感情と結びつけて、自分を表現し、相手の表現を理解するという生きたコミュニケーションの道具として練習することが大事です。

6.どのレベルにおいても音読を続ける
 今勉強しているレベルの文章を、声を出して読む。何度も読む。すらすらと英語らしい発音で読めているかチェックする。次に、どのぐらい読みながらにして意味を感じているか、訳さなくても英語の音から直接意味を感じているかをチェックします。私の生徒には「今読んだ文章の何%意味を感じていましたか?」と聞きます。そう聞かれた人は、これまで全員答えられました。自分でどれだけ棒読みしていて、どれだけ意味を感じているか、分かるものです。同じ文章を何度も音読し、読みながら100%意味を感じられるまで続けます。これはとても優れた練習法です。このようにして読めるようになった文章は、自分が話したり書く時に使えるだけでなく、相手から話されたら分かるようになっていきます。音読は話す・聞くの訓練にもなっている、多目的な練習として非常に価値の高いものです。

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