菅波亮介のエナジー・カウンセリング(石川県金沢市)

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保守とリベラル・日本人の成長課題

自民党に意義ある対立軸を提供できる野党とは?〜〜日本が前進するために必要な「政治闘争の場」はどこか?

なぜ日本社会は停滞しているのか

 「健全な対立」がある社会には進歩があるけれど、「健全な対立」が何らかの理由で阻害された社会は停滞します。日本にはそういう「行き詰まり感」があると思うのです。

 その一因に「保守は一体化できているのに、リベラルは分極化している」という現状があります。

 自公連立与党はこの社会に一種の「安定感」を与えていますが、構造改革やジェンダー問題(ジェンダー格差・LGBT・選択的夫婦別姓など)が遅々として進んでいません。

 この記事では、三浦瑠璃著「日本の分断」を教科書として用いながら、日本を前進させるために必要な「健全な対立」をどのように作っていくべきかを考えます。それは勿論のことながら、自民党に対して有意義な対立軸を提供し、政権奪取できる野党をどう作っていくかという話と同義です。

外交安保が投票行動を決める第1要因

 政治的立場には「外交安保」「経済」「社会」と3つの領域があります。3つとも自分と同じ立場の政党や候補者がいれば、誰でも迷わずそこに投票するのですが、1つか2つしか合わない政党や候補者しかいない場合、日本人は第1に「外交安保」を、第2に「経済」を、そして第3に「社会」を考慮することが「日本人価値観調査2019」で判明しました。

 日本人のマジョリティーは「外交安保リアリズム」で、憲法改正・日米同盟強化・自衛隊の役割拡大を支持しています。

 よって、どれだけ優れた「経済政策」を打ち出しても、「外交安保リアリズム」に反対している政党には政権を取る可能性がありません。現在の立憲民主党は、どれだけ「経済政策」と「社会政策」で優れた対案を出しても、「外交安保リベラル」であり続ける限り、日本国民から政権を委ねられることはないのです。

日本人の平均は「外交安保やや保守」「経済やや保守」「社会ややリベラル」

 日本人は穏健で中道な人が多く、極端な右派も左派もあまりいません。外交安保と経済においては中道のやや保守よりで、日米同盟支持と成長重視(分配よりも)です。また、社会政策では54%の人がリベラルであり、中道のややリベラル寄りに重心があります。

 ということは、国民の実情と自民党政権が最も乖離している領域が「社会政策」にあるわけです。

自民党の弱点は「社会保守」であること

 野党が政権を奪うには、自民党の弱点を争点化しなくてはなりません。そして、自民党の弱点とは「社会保守」であることなのです。

 自民党が取っている「外交安保保守」「経済保守」は日本人のマジョリティーと合致しているので強みですが、
「社会保守」だけは日本人のマジョリティーとズレていて弱みとなっています。平均的な日本人は、自民党が取っている立場よりもリベラル寄りであり、男女平等や選択的夫婦別姓やLGBTの人権などに配慮したいと思っている人が過半数です。また、若い層ほど「社会リベラル」が多いので、自民党がこのまま「社会保守」で行くと、国民の多数派から見放されるリスクがあります。

 自民党の「社会政策」には同意できない
多くの「社会リベラル」が自民党を選択している最大の理由は、「外交安保」を安心して任せられる野党がないという実情にあるのです。

「外交安保」での対立が解消したら自民党はヤバい

 憲法改正が実現し、日米同盟強化がコンセンサスとして定着し、自衛隊が合法的存在としてその活動を拡大していける環境が整ったなら、戦後ずっと続いてきた日米同盟や自衛隊に関する「保革対立」は影が薄くなります。

 そうなると、国民は「外交安保リアリズム」だからというだけで自民党を選んではくれなくなるでしょう。「保革対立」は「経済政策」や「社会政策」へと土俵を移していくからです。

 この時、「社会保守」を取り込んできた自民党に危機が訪れます。
「外交安保保守+社会保守」の自民党と「外交安保保守+社会リベラル」の野党なら、野党に十分勝ち目があるからです。

 自民党の存続にとっては、憲法改正を実現させずに謳い続ける方が得策だという考えもあります。多数派の支持を取り付けられるからです。

 自民党にとっては、野党が「外交安保リベラル」の立場を取り、憲法改正に反対し続けてくれる方が有難いと言えます。なぜなら、この状況が続く限り政権を握り続けられるからです。

 しかし、これは日本国民にとっては有害だと言えます。「外交安保」以外の領域での社会的進歩がいつまでも達成できないからです。

「自由主義者・リバタリアン(27.2%)」の受け皿になれる政党が決め手

 
「経済保守+社会保守」の票は自民党が一手に引き受けているのに対して、「経済リベラル+社会リベラル」の票は立憲民主党や共産党やれいわ新選組などに分散しています。

 与野党対立は、この「保守 vs. リベラル」の構図で捉えることが多いのですが、実際には、ここに含まれない人口層があるんです。

 1つは「経済リベラル+社会保守」である「介入的保守」と呼ばれる層で、これは17.7%と少ないのですが、もう1つの「経済保守+社会リベラル」である「自由主義者(リバタリアン)」は27.2%もいます。

 日本人のマジョリティーは資本主義や競争やある程度の格差に反対しているわけではありません。よって、「成長 vs. 分配」において野党が「分配」に偏り過ぎるとマジョリティーは取れないのです。

 現在のリベラル野党が「社会リベラル」の票をたくさん取り逃がしているのは、「社会リベラル」の半数以上の人が「成長重視」だからだと言えます。

 経済政策においては成長重視だけれど、社会政策においてはリベラルという「自由主義者(リバタリアン)」が日本人の27%もいて、この人口層の受け皿になれるメジャー政党が今のところありません。強いて言えば、維新の会と国民民主党ですが、まだ全国組織としては弱い。

 ということで、憲法改正や自衛隊や日米同盟での対立が意味を持たなくなった暁には、この「自由主義者(リバタリアン)」の層を獲得した政党が自民党を倒せる見込みは十分にあります。

 この観点から、立憲民主党が共産党と組んだことは、政権奪取に必要な条件から遠ざかったわけで失敗でした。日本人は「外交安保」と「経済」においてリベラルな政権を望んでいないからです。

 「社会リベラル」を掲げる政党が与党になるには、「外交安保」と「経済」において中道保守を掲げ、「社会」において中道リベラルを掲げる必要があります。そのような政党が大々的に出現した時には、自民党に大きな脅威となることでしょう。

 そういった「健全な対立」が政治闘争の舞台に立つまでは、「社会リベラル票」は様々な政党に分散してしまい自公連立与党に勝ち目がなく、社会政策における前進は日本人の大半が望んでいるにも関わらず阻まれ続けることになるのです。

推薦書


参考ウェブサイト

 

日本国民は「保守(28.8%)」「リベラル(26.3%)」「介入的保守(17.7%)」「自由主義(27.2%)」に分かれる〜〜「日本人価値観調査2019」が示す投票動機

 2019年に日本人の価値観をあぶり出した調査が行われました。山猫総合研究所(代表・三浦瑠璃)が実施した「日本人価値観調査」です。↓

 
 興味深いのは、「外交防衛」「経済」「社会」の3領域それぞれで、個々人の「保守ーリベラル」の度合いが異なることです。

 特に、「経済」を横軸、「社会」を縦軸とした4象限で、いろいろな人たちの「政治的立ち位置」を示した分布図には目を見張るものがあります。

 右上「経済保守+社会保守」=「保守」
 左下「経済リベラル+社会リベラル」=「リベラル」
 左上「経済リベラル+社会保守」=「介入的保守」
 右下「経済保守+社会リベラル」=「自由主義」

 ・・・という4区分です。

 現在の政党が代表し切れていない人たちがどの辺にあるのかも明確にされていて、政権担当を狙う野党には不可欠な情報だと言えます。

 なお、以下の無料サイトで「価値観診断テスト」が誰でもいつでも受けられます。数分で完了する簡単なものです。↓

  
推薦書


保守派とリベラル派では脳構造が違う

 ロンドン大学の研究によると、保守派とリベラル派には脳構造に明らかな違いが見られました。

リベラル派の方が前帯状皮質の灰白質量が大きい

 前帯状皮質の機能の1つは、不確実性や対立を監視することです。この容量が大きいリベラル派の方が、不確実性や対立への耐性が大きく、自由な物の考え方ができるものと考えられます。

保守派の方が右扁桃体の灰白質量が大きい

 右扁桃体は、恐怖や不安を管理します。このサイズが大きい保守派の方が、変化や脅威に対して敏感に反応し、防衛的になったり攻撃的になりやすい

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 他の研究でも、アメリカの保守派はリベラル派よりも外国からの脅威に対する不安が高いことが分かっています。自分たちと異質な者、外部の者からの悪影響を恐れていて、民族団結によって異民族からの脅威を排除しようとする傾向が強いのでしょう。リベラル派は保守派より、多様性や複雑性に耐えられ、物事を白か黒か、敵か味方かという単純思考で見ません。よって、時代の変化とともに、これまでの社会秩序の中で取り残されてきたような少数者や異民族の自文化への統合に対して許容度が高いものと考えられます。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 尚、ロンドン大学の研究によると、脳構造の違いが政治的志向に影響を与えているのか、反対に、政治的志向の違いが脳構造に影響を与えているのかは分からないということです。

護憲論者だった私がなぜ憲法9条改正が日本人の成熟にとって重要だと考えるようになったか ③

大戦のトラウマには2種類あったのではないか

 私はなぜ日本人が憲法改正において自画像を巡る熱いバトルになってしまうのかという問題を、日本人の深層心理から読み解こうと試みてきました。

 個人であろうが集団であろうが、深刻な葛藤に見舞われた時、私の大前提は「双方に真理があり、どちらも相手の真理を汲み取れていないから衝突しているのであり、統合的な解決を目指すなら双方の真理に対して心を開かねばならない」というものです。

 私は長らく左派側の自画像、つまり「戦争をしない平和国家」というアイデンティティーと同一化し、対極にいる「再び戦争ができる国にしようとしている奴ら」を敵視していました。けれども、この相手像は歪んでいたのです。相手の深層心理に対する共感的理解に基づいたものではありませんでした。

 右派側の目指す自画像や満たしたがっている欲求に対して共感的に近づいていった私は、彼らの心が次第に分かるようになりました。そして、それが日本人の統合のために必要なものであることも理解したのです。

 さて、私が理解したことは、左派も右派もともに大戦によって傷ついたその傷を癒したいがために一方は「軍隊の否定」を、他方は「憲法の改正」を目指した。ところが、この2つのグループは、目指すゴールがお互いを否定するものだったので、壮絶なバトルとなったのです。どちらも立ち直ろうとしているのに、なぜお互いを敵視せねばならないのでしょうか。それは、それぞれが自分の傷しか見えておらず、相手の傷への理解が足りてこなかったからだと私は考えています。

 左派のトラウマと右派のトラウマは若干異なっているんです。左派のトラウマは私には理解しやすい。軍部の愚行によって二度と国民が戦争に突入させられることのないようにと平和を祈る気持ちです。大戦による描写し難い人々の苦しみが根っこにあります。これはよ〜く分かるんです。

 しかし、右派のトラウマにも左派は寄り添わねばならない。それは、国の思想的断絶というトラウマであり、自尊心の破壊というトラウマなのです。つまり、それまで教え込まれてきた国に対する忠誠や信念が敗戦とともに覆され否定されたショックなのであり、先祖から綿々と続く父性的系統を尊敬できなくなった傷だと言えます。

 ある意味で、左派のトラウマとその反動として生まれた「反戦感情」は、弱者の苦悩に寄り添う母性的・女性的な姿勢に根付いたものです。それに対し、右派のトラウマとその反動として生まれた「愛国心を回復しようとする時に懐古的にさえ映る試み」は、我々の民族としての誇りと自尊心を取り戻したいという父性的・男性的な姿勢に根付いたものです。

三浦 次に、より理想や価値観を重視するタイプの保守と呼ばれる人々は、理想の状態が何たるかが、人によって異なることを都合よく忘れる傾向にありました。ひどい場合には、価値観の多様性を度外視することさえありました。このタイプの保守主義者にとっては、やはり、敗戦の政治的、思想的断絶が非常に大きなトラウマになっています
 保守主義の本旨は、年月を超えて築かれてきた価値観を重視することですので、どうしても過去を美化する傾向があります。日本において、それは、「戦前の日本のすべてが悪かったわけではない」という形をとります。ある時点を境に、すべての善悪がひっくり返るというのは不自然ですので、この主張には一定の説得力があります。問題は、この主張が「戦前のすべてが良かった」ということや、「明治時代や、江戸時代のすべてが良かった」ということに容易にすり替わってしまうところです。こちらには、どうしたって説得力がないはずなのですが。
 「すべてが悪かったわけではない」という主張もしばしば悪用されました。このように主張するからには、何が良くて、何が悪かったのか掘り下げなければならないはずなのに、それをしない。このあたりの細かいところに入ってくると主張がすっきりしなくなるからです。代わりに、現状を否定して「すべてが悪かったわけではない」を繰り返すということが行われます。

   三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 30-31

 保守は敗戦に至るまでの日本の選択を冷静に反省し、どこがどう悪かったのか、そしてどこは良かったのかを明らかにしてきませんでした。そこに触れるのが怖かったのかもしれません。自己否定の傷に触れたくなかったので、なんとなく「過去を美化する」方向に行った。すると、これはリベラルにとっては恐怖です。「あの人たちはまた過去と同じことをしようとしているのでは」と不信の目で見られることになる。

 保守がリベラルのニーズに鈍感だったことでリベラルの恐怖と反発を煽った面が一方であった。そして、逆もまた然り。リベラルも保守のニーズに対して鈍感だったため敵対心を煽ったのです。

 さて、憲法に対して保守が度々する主張に「この憲法はアメリカが作ったものだ」というものがあります。それに対して「でも素晴らしい平和憲法なんだから誰が作ったものであろうが堅持すればいいじゃない?」と反論する。

 この時に考慮されていないのは、武力を禁じられているということ自体が、戦勝国から敗戦国への罰であり辱めだと男気のある日本人は感じてきたということです。この自尊心の否定の重大さは、女性的精神では分かりません。

 三浦氏は女性ながら、この男性精神の尊さを理解しています。だからこそ、リベラルなのに保守に寄り添えるのです。三浦氏は、敗戦国は戦勝国への脅威とならないようにある一定期間軍備を許されない。けれども、通常は、年月とともに普通の国としての地位を回復していく。その際に再軍備するのが通常であると。

 日本が連合国によって強制された「武装禁止」を持ち続けようとすることは、「自分たちが軍隊を持ったら、またとんでもないことをしでかすに違いない」という不信であり、それは自虐的行為なのです。自信と誇りを失ったままの状態の方が安全だからこのままで行こうという母性的・女性的方針では、国の自尊心は回復できません

 では、これからの日本民族はどういう方向に進むべきか。まず、保守側が大戦の真摯な反省を表明し、二度と侵略戦争をしないという安心感をリベラル側に与えなくてはなりません。エゴイスティックな愛国精神にしがみついていてはリベラルを納得させられないのです。翻ってリベラル側は、大戦時の軍部の行動に対する恐怖心と不信感を現在と未来の日本に投影することをやめ、積極的に軍隊の管理と枠組み作りに協力すべきです。自分たちが安心できる条件をしっかり主張すると同時に、敗戦によって受けた謹慎状態から我が国を解き放つことで、保守が望む自信回復を支えねばなりません。

 このように、左右両陣営が互いの「心」を汲み取り、尊重し合い、その中で小さな我執を超えられた場合にのみ、日本人全体としてさらに高い統合状態へと成熟していけるものと思います。

 そして、冷戦終結後の日本において、左右の歩み寄りは随分と進んできました。双方の我執と幻想が少しずつ克服されつつあるようにも感じます。左右双方が納得の上で憲法改正を達成できれば、日本という国の新たな一章の始まりです。


〜〜3回シリーズ完結〜〜

関連記事

橋下徹&三浦瑠璃『停滞する日本社会を動かしていく』④


参考書



護憲論者だった私がなぜ憲法9条改正が日本人の成熟にとって重要だと考えるようになったか ②

リベラルだけでなく保守も自衛隊に対して無責任

三浦 自衛隊の人は、人員が足りないとか不眠不休で働いているといった厳しい現実を発言する場を与えられていません。そういう実態について、彼らが政権与党にいくら訴えても、自民党の幹部たちは興味を示さない。右の耳から入って左の耳から抜けてしまう感じでしょう。

(中略)

 自衛隊の庇護者であり、右派を自認するはずの自民党内に、
自衛隊の現実を改善しようと取り組む人がいないのはなぜか。そこで思い当たったのは、艦船や兵器は購入するだけで愛国者に見えるので、そうしたパフォーマンスがお手軽な愛国者の証明になっているのではないかという仮説です。

猪瀬 なるほど、お手軽愛国者

三浦 自衛隊出身の政治家はほとんどいません。そして少数の出身者があたかも全体の利益や政策志向を代表しているかのように受けとられてしまっている。右派も、艦船や兵器の予算を獲得するだけで愛国者のフリができるために、自衛隊の実態についてあまり関心を持たないし、改善しようなどという気運も起こりません

猪瀬 
稲田前防衛大臣のように軍事の素人を任命したこと自体、安倍総理も何を考えているのかと見識を疑う。トランプ大統領は批判されることが多いが、合衆国国防長官には海兵隊大将としてアメリカ統合戦力軍司令官、NATO変革連合軍最高司令官、アメリカ中央軍司令官を歴任したジェームス・マティスを任命した。議会での信任が厚いプロフェッショナルです。
 
軍人だから戦争をするのではなく、専門家だから戦争を抑止できる能力があると考えなければいけない。

(中略)

 僕は
「戦後の日本は『ディズニーランド』」とずっと皮肉を述べてきた。自衛隊というブラックボックスは、いわば「ディズニーランド」の倉庫でしかない。大量の兵器が仕舞ってあるけれども、外からは見えない。

三浦 そして
米軍基地の兵士が「ディズニーランド」の門番を務めていると。

     三浦瑠璃&猪瀬直樹共著『国民国家のリアリズム』pp. 35-37

 日本人は戦後、「安全保障」や「軍事」といった「危ない領域」を在日米軍と自衛隊に丸投げし、自分たちは私的な幸福の追求に専念してくることができました誰がどのように自分たちの安全を保障してくれているのかといった問題に無頓着でも生きてこられたのです。それを猪瀬氏は「ディズニーランド」と呼んでいます。「ディズニーランド国日本」では、みんなが「軍事の素人化」しているのです。

 心理的に見ると、何かを「タブー」としてしまうと、その領域において未熟なまま留まってしまうという原則があります。例えば真面目で性的なことを「タブー」とする夫婦は、息子や娘のセクシュアリティーの問題に建設的なアドバイスができません。親自身が怖がって近づかなかった性という領域で、素人のまま成熟していないのです。よって、どんな領域に関しても、成熟していくためには「タブー視することをやめる」必要があります正面から向き合うことでしか人間は成長できないのです。

 つまり、自衛隊や武力といったものを「タブー視すること」「日陰に追いやること」からそろそろ卒業し、成熟していきましょうというのが私のメッセージです。

憲法9条2項を削除する意義

三浦 私は九条二項削除の意義は大きく二つあると思っています。
 第一は、日本にまっとうな安全保障論議を根付かせること安全保障について語ることが、いつまでも憲法解釈をめぐる神学論争であっては困るのです。

猪瀬 まさにその通りだね。現実から遊離してしまう。

三浦 北朝鮮が事実上の核保有をし、中国の軍事的台頭が続き、米国が帝国の座を降りようとする今日にあって、この国にそんな神学論争を国会の場で繰り広げて満足しているような余裕はありません。防衛費のどの部分を重点的に増加させるべきか。ミサイル防衛なのか、敵基地攻撃能力なのか、それよりも、既存部隊の人員増や運用能力の強化が優先されるべきか。日本が直面する安全保障上の課題はリアルなものであり、その解もまたリアルでなければなりません。
 九条改憲は国民を分断し、安保論議を停滞させるという意見もありますが、私はその立場には与しません。九条改憲を避けては、いつまでも神学論争が続いてしまいます。それはいまの世代で決着をつけるべきことです。
 第二の意義は、統治の根本にあるごまかしを排することです。「戦力は保持しない」し、「交戦権は認めない」けれど、自衛隊は持っている。法には一定の解釈論がつきものですが、国の根幹にかかわる部分について中学生に説明できないような文言でいいはずがありません。安倍総理が提起するように、九条二項をそのままに、自衛隊を明記したとしてもこの問題は解決しません。「戦力」でないところの「自衛隊」とはいったい何なのかという、頓珍漢な議論がずっと温存されてしまうでしょう。
 本質的には、国民主権の日本が、軍隊という市民社会からは異質な存在を抱えながら、どのように生きていくかという問いと向き合うということです。これは、すべての成熟した民主国家が抱える安全保障とシビリアン・コントロールをめぐるジレンマであり、避けては通れないものです。それぞれの国が、歴史の蓄積と、政治の知恵と、国民の良識から解を紡いでいかなければなりません。ですので、自衛隊は明確に「軍」として位置づけるべきです。

     三浦瑠璃&猪瀬直樹共著『国民国家のリアリズム』pp. 45-47

 「自衛隊は戦力でない」とか「自衛隊は軍隊でない」とか、「そこは戦闘地域なのか戦闘地域でないのか」などという頓珍漢な議論は、憲法に曖昧さが残っているから生じる「神学論争」で、現実問題に向き合うことを困難にしてしまいます。

 憲法改正をし、自衛隊を軍として位置づけた後、はじめて国民総出で「軍と市民社会との折り合いをどうつけていくのか」というジレンマに正面から向き合うことなしに、日本が成熟していくことはできません。

 是非とも今の世代でこの問題に決着をつけ、後世にこの曖昧さを残さないようにしたいものです。

 ③につづく。


参考書


護憲論者だった私がなぜ憲法9条改正が日本人の成熟にとって重要だと考えるようになったか ①

護憲論者だった私が改憲論者に変わった経緯

 私は20代・30代・40代と「平和憲法」を誇りとし、この憲法を持つがゆえに日本が世界でも稀有な「戦争を放棄した平和国家」たり得てきたのだと固く信じてきました。また、憲法を改正しようとする保守勢力は、大戦における軍部の愚行を反省していない好戦的な軍国主義者であり、うまいレトリックを使って日本を再び戦争のできる国にしようと策略している危険な人たちだとも思っていたわけです。

 ところが、40代後半から50歳にかけて、私は徐々に「リベラルの幻想」から目覚めていきました。平和を希求する気持ちは些かも変わりませんが、日本を「軍隊を持たない国」にしておくことで平和を担保できるという考えは、実際の現実に直面しなくて済む「神学論争のバブル」に国民を閉じ込めることで、大人にならずに済む「まやかし」であり「甘やかし」であると気づいたわけです。

 現実に日本の国防を担ってくれている自衛隊を、現憲法によって「宙ぶらりんの存在」に留めておくことに多くの実害があります。例えば、自衛隊の過酷な労働環境や軍医の不足といった現実問題に国民の大部分が関心を示さない。国会でまっすぐ議論ができない。国民は「安全保障」のことなど考えなくても自分が平和でいられればいいという「他人任せ」になってしまうわけです。

自衛隊が直面している現実問題を議論できず放置している

 三浦瑠璃&猪瀬直樹共著『国民国家のリアリズム』から引用します。

三浦 問題は護衛艦の乗組員たちです。潜水艦の場合は定員が決められていますが、護衛艦の場合は定員すら決められていません。そのため人員不足から睡眠時間が削られてしまうわけです。
 そういう不当な労働環境をなぜ見直さないのか。その大きな理由に憲法九条が作った自衛隊への国民意識があると思っています。九条二項によって自衛隊の存在が表向き否定されていることによって、軍隊としての環境を整える取り組みについての積極的な意見が出てきません。極端な左派のなかには、人殺しを業とするような非倫理的な仕事に就くほうが悪いと考える人さえいます。

猪瀬 これほど自然災害の救助活動をしているにもかかわらず、法律的には日陰者扱いがされている。

三浦 それから、自分に引きつけて言うわけではないですが、政軍関係の理論研究をしている人がほとんどいないのも問題です。自衛隊を表向き軍と位置づけられず、また研究者の層が薄いため、政治と軍事の関係性について理論的に研究する学問が日本にはほとんど存在しないも同然です。多くの研究は戦前の政軍関係を対象としています。そのため現代の問題として実務的に語れる人は皆無に近いのが実情です。そもそも、大学には「軍」とか「戦略」と名のつく研究をすることすら、憚られる雰囲気があります。東大でもおおっぴらにそういう研究ができるようになったのは、比較的最近のことです。

(中略)

猪瀬 右派や左派がそれぞれの立場から自衛隊を語るが、具体的なことを言わない。だから道路公団民営化と同じくらい思い切った改革をやらないと、解決しないと思う。長年、フタをして誤魔化してきたことだから。

 自衛隊には「ドク」がいない

猪瀬 海自の潜水艦には軍医さえ乗っていないという。なぜなら、軍医の数が足りていないから。日本には防衛医科大学があるが、卒業後九年間、年季奉公をすれば、どこの病院でも働いてもいい決まりになっている。だから、年季が明けると民間の病院に行ってしまう場合がほとんど。それどころか、九年間待たなくても学費を返せば自由の身。「やむを得ぬ理由により、卒業後勤務年限が9年に満たないで自衛隊を離職する場合は、卒業までの経費を償還しなければなりません」という防衛医大の規定を逆手に取り、民間の病院が立替払いをして雇用するケースもあるという。

(中略)

三浦 加えて、自衛隊員が名誉やプライドを感じられないような状況があります。だからこそ、軍医で居続けるということは考えないのでしょう。

(中略)

猪瀬 東日本大震災でも問題になった。被災地支援で自衛隊が活躍したのは誰もが知っている事実だけれどもそこで、自衛隊の衛生兵が医療行為ができなかったことは知られていない。

(中略)

 左派には衛生兵の議論を持ち出すだけで「戦争の準備だ」と思考停止のブーイングを始める人たちもいる。
 こういう重大なことが国会でまともな議論にならないのは、憲法で自衛隊の位置づけがあいまいなままだから法律を整えていかないからグレーゾーンになってしまう。衛生兵が活躍できないと助けられる兵士の命も助けられない。

(中略)

三浦 左派が思考停止のブーイングをするというのはその通りなんですが、自民党も、保守や右派を自任する政治家もこれを放棄してきました。左派にはあきれますが、政権にあった保守へは、何のための保守なのかと腹が立ちます。

(中略)

いまの法体系は有事を想定していないものになっています。有事になったら、ろくに手当ても受けられずに苦しまなければならないし、救えるはずの命も救えないということになりかねない状態です。

     三浦瑠璃&猪瀬直樹共著『国民国家のリアリズム』pp. 27-33

 日本人は臭いものにはフタをしてきたんです。つまり自衛隊という問題から逃げてきたということです。軍事関係の事柄に意識を向けないことが平和なんだと考えてきた。それが未熟な「甘ちゃん」の思考だったのだと思います。

 日本人が成熟するには、日本には武力があるという現実をまっすぐに認め、それをどのように制御していくかという成熟した議論をする必要がある。また、政軍関係についても正面から研究し議論できる環境にしていかねばなりません。

 ②につづく。


参考書


「保守の課題」&「リベラルの課題」⑥

なぜ日本では保守とリベラルの二大政党制になり得ないか

 これは、地方の実態に対する生の感覚をお持ちの方々には当たり前だと思うのですが、日本の地方ではいわゆる名士、名望家によるリーダーシップが現在に至るまで非常に重要です。地方の首長、地方議会の議員は、当たり前ですが地域の有力者です。この層の大半は経済的、文化的な背景から本質的に保守的傾向があります。故に、地方の有力者を取り込んだ組織を有する全国政党となるためには、保守である以外にリアリティーがないということです。もちろん、例えば、大きな工場が集中して立地され、組織労働者の割合が大きくなった地域(例えば中部地域)では労働界に近い層が力を持つこともありますし、経済的に貧しい階層が集中する場合には左派的な政党が支持を集めやすいという傾向はあるでしょう。しかし、これはあくまで例外です。

   三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 64-65 
                           (太字は菅波)

 与党になるには地方の保守エスタブリッシュメントを取り込まねばならないので、必然的に保守政党しか政権担当の可能性はないということです。民主党政権が失敗した一因は、全国組織が作れなかったことにあると三浦氏は言います。

 民主党が失敗した理由は様々に分析されており、大変興味深いテーマなのですが、私は、大きく分けて二つあると思っています。一つ目は、経験不足から統治利権との闘いで空回りしてしまったこと。民主党が掲げた「政治主導」や、「仕分け」をめぐるつまずきがこれにあたります。二つ目は、そもそも、地方に根付いたしっかりとした経済利権(全国規模の保守系の地方組織)を築き上げることができなかったことです。民主党も、自民党出身の有力議員がいた地域(例えば、岩手、三重、長野等)には、この種の組織を持っていたのですが、それ以外の地域には築き上げることができませんでした。左派系議員の地元組織は、地元の保守エスタブリッシュメントとは肌合いの違う人々を中心に形成され、広がりを欠きます。メディアへの露出と政治的な風を頼りに、都市部から当選した議員達はそもそも強力な組織を築けずに終わってしまう。

(中略)

 日本の政治は、全国を網羅する保守系二大政党制が確立するか、一党優位の自民党から部分的譲歩を引き出す政党群が存在し続けるかという岐路に立っています。

   三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 67-68
                           (太字は菅波)

 日本の地方では、ここ石川県もそうですが、県知事・県議会・市長・市議会をはじめ地元有力者の大半は保守で自民党と強く繋がっています。保守エスタブリッシュメントが県や市の有力者として地元を運営しているので、リベラルな政治家が多数派の支持を集めることは現実的に難しい。

 そうすると、リベラルな市民は外野から主流保守に働きかけて譲歩を引き出す役割しか担えない可能性が高い。残念ながら。リベラルの私などは、地元の有力者とか県議・市議などとは、三浦氏も指摘するように「肌合いがまったく違う」ので、関わろうという気さえありません(笑)。保守の人たちの中にいても私は場違いな感じがするだけなんです。なので、保守の地方に住むリベラルとしては、私は故郷にいても常にアウェーな感じがします。東京など都会に行くと私と肌合いの似た人が多くて居心地がいいです。

 では次に、保守政党で二極を作るにはどうしたらいいかというお話をします。

第二の保守政党として自民党と対立構造を作りたいならば

 保守二大政党制の基軸は?

 これまで戦後リベラリズムの主導的な担い手が統治利権の側だったことを振り返ってきました。また、そもそも日本政治の今後の展開の鍵は、全国規模の保守系二大政党制が出現するか否かであるとも申し上げました。この二つの課題は、目下の現象である野党再編とどういう関係にあるのでしょうか。双方が本質的には保守系であったとしても、二大政党制である以上、何らかの争点を形作る軸が必要になります。これまで申し上げてきたとおり、この軸は、歴史的な経験と日本全国に広がる利権構造から言って、統治利権重視か経済利権重視かにならざるを得ません
 非自民の保守勢力が経済利権を代表したいとするならば、自民党を統治利権の側に追いやる必要があります。この場合の政策志向は資本主義重視であり、小さな政府であり、所得税の累進性の緩和等が重要になってきます。例えて言えば、米国の共和党に近い主張になるはずです。通常、小さな政府を主張するだけでは有権者の多数をひきつけることができませんので、歴史的・文化的に保守的な傾向を併せ持つことになるはずです。民主、維新、双方に存在する傾向です。
 反対に、非自民の保守勢力が統治利権を代表したいならば、自民党を経済利権の側に追いやる必要があります。政策志向は大きな政府反資本主義的となるはずです。権威主義的でありながら戦後リベラリズムを擁護する、エリート主義的な立場をとるはずです。自民党の議員の多くが二世/三世で経済的にも特権階級化しつつあることを攻撃し、公認候補から可能な限り二世/三世を排除し、女性の比率を高めたりすることにもなるでしょう。九〇年代以降、自民党の二世/三世化が進み、経済利権の側に傾いていくにつれて、多くの有為の官僚が民主党から出馬しましたから、現在でも、民主党の一部に垣間見える傾向でしょうか。(*菅波注:本書は民主党分裂以前の2015年に書かれました。)
 実現可能性は低いでしょうが、
論理的にあり得るのが、現在は存在しない「保守を分断する論点」を作り出すということです。グローバリゼーションや地方分権への姿勢はそのような可能性を秘めています。開国保守 vs. 鎖国保守、あるいは、中央集権保守 vs. 地方集権保守という構図は成立する余地はあります。ただ、社会的によほどの変革期にでもない限り新しい論点を人工的に作り出すことは非常に難しいことです。
 
自民党の本質が統治利権と経済利権を絶妙にバランスさせ、両者を絶対に手放してこなかったことだとすると、以上のような構図が形成される可能性はきわめて低い。ただ、それは今後二度と政権交代がおきないということではありません。九〇年代を通じて自民党は徐々に経済利権へと比重を移していき、リーダー人材の発掘/育成機能を低下させていきます。小泉政権が統治利権と戦うという「ウルトラC」を成功させて一時期求心力を回復させますが、これはいわば終わりの始まりで、後継内閣は改革姿勢を持続できず求心力を失います。二〇〇九年の民主党のように、反自民の風を受けたものの、本質的に自民党に対抗するだけの持続可能な権力基盤を確立しないままに瓦解するパターンは今後もありえるでしょう。
 持続的な二大政党制が定着するか、自民党の一党優位体制が続くかどうかは、
結局は自民党が自らのDNAを忘れ、二〇〇九年の政権交代直前のような「普通の政党」となってしまうかどうかにかかっています。そういった意味では、野党再編は注目すべき動きではあるけれど、自民党の党内改革やリーダー輩出方法や育成のあり方の変化の方が、日本政治の行く末にとってはより本質的な現象かもしれません

  三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 73-76
                           (太字は菅波)

 日本社会を動かしていくには
「有意の対立」が必要です。日本社会の成長にとって重要な意味を持つような「対立軸」がなければ、現状の維持にしかなりません。日本の前進を促すような「対立軸」とは何かを考えてみたいと思います。

 まず消去法で「有意な対立軸」となり得ないもの、すでにコンセンサスによって安定しているものを考えてみましょう。日本の地方がすべて「保守」であることを考えると、文化的には「保守」であることが基本です。例えば、「天皇制賛成 vs. 天皇制反対」は、天皇制を敬愛する国民が大多数の現在、意味を持ちません。「歴史認識」と「安全保障」に関しても保守を分断する対立軸は難しい。

 グローバル経済に対する対応に関して、「統治利権(中央官庁)」と「経済利権(民間企業)」の力関係は「有意な対立軸」を形成する可能性を秘めています。自民党の戦後とってきた政策は、多くの社会主義国出身の人たちが羨むほどの「社会主義的な国家」を実現してきました。

 自民党は「保守」とは言え、多くの国では左派がやるような「国による産業の管理」を基軸にしてきたのであり、資本主義がマーケットの理論だけで社会秩序を作ることを拒んできたわけです。純粋資本主義(右派)と社会主義(左派)の調整弁として自民党が機能してきて、時代の流れとともに国鉄や電電公社などの「国営企業」を「民営化」することで社会主義的側面を弱め、資本主義的方向に国を進ませてきた面があります。

 官僚が産業を管理するか、マーケットに任せるかの微妙なバランスには、自民党の政治家と中央官僚の既得権益が絡み、ここに変革の風を入れることは容易ではない。よって問題が解決されず膠着状態になる危険がここにある。非自民の第二保守政党が自民党と有意な対立軸を作りたいならば、自民党とは明らかに異なる「官僚とマーケットの関係性」を打ち出す手があります。

 また、自民党は今のところ、中央集権の秩序をなかなか変えられないでいますので、本気で地方分権を目指す保守第二政党が出現すれば、自民党への有意な脅威となるかもしれません。

 この点、「維新の会」に私は注目しています。地方官僚の既得権益にメスを入れ、マーケットに任せる領域を拡大し、その代わり役所にしかできない福祉を充実させる方向に進んでいます。大阪府の資本主義の方向にも社会主義の方向にも改革のメスを入れています。役所を削って単に市場に丸投げするような「新自由主義」とは異なり、むしろ役所にしかできない「現役世代への投資」や「高校授業料無償化」など極めて左派色の強い(社会主義的な)政策を実行しているのです。よって、「維新の会」は保守でありながら、ある面では極めてリベラルだと言えます。

 「維新の会」は「安全保障」「憲法」においては保守で、この点、全国の保守基盤に受け入れられるものです。と同時に、日本の成長のために必要とされる「既得権益構造」には果敢に改革のメスを入れることができています。手をつけている改革には「中央 vs. 地方」の構図も含まれている。ということで、「維新の会」が大阪府の改革に成功した後、全国規模の勢力として力を増すことができるならば、最も保守二大政党制の当事者となり得る候補者です。

日本の「保守」にはきちんと国家ビジョンを示して欲しい

 再度言いますが、私は自民党支持者でも保守でもありません。私は基本的にリベラルです。でも、日本の地方がみな保守で自民党であることを考えると、リベラルが政権を担える可能性が日本では極めて低いと諦めています(笑)。ただし、リベラルな改革が前進することを望み続けているわけで、それは主にリベラル勢力が保守勢力に働きかけて譲歩を引き出すことによって、そして第二に、保守勢力自体が時代の変化とともにリベラル化し、自らリベラルな改革を実践してくれることによってです。

 そういった中で、マイノリティーのリベラルからマジョリティーの保守にお願いしたいことは、どうか「国家の理想を掲げてください」ということです。現在の保守政策では、外国人の受け入れに関しても中途半端。移民受け入れをどうしたいのか。女性の地位をどうしたいのかもはっきりしない。価値観が多様化してきているこの日本をどのような方向で進めていきたいのか。国全体が賛同できるような理想を掲げてもらいたい。

「一体感信仰」という日本のくびき

 そこには私は1つ、保守が向き合うべき「くびき」があると思います。それは日本人が集合的に持っている「同調圧力」「一体感信仰」という病理です。「違うことが許されない雰囲気」「空気を読まない奴を罰しようとする病的協調性」。これをリベラル側が改革するのではなく、保守自身の手で解決していくことに意味があると思います。

 私は日本のくびきというのは、くびきを意識させない気風、ある種の一体感信仰ではないかと思っています。「和をもって尊し」というのはどの国民にもある動きだと思いますが、その優先順位が異なる。日本人に特異さがあるとすれば、その価値観がいわば憲法の第一におかれてきたということかもしれません。どんな国民よりも、差を際立たせること、くびきを意識させることに居心地の悪さを感じる。実際の程度問題とは別の次元で、格差という概念や言葉に我々が非常に敏感な理由もこの辺りにあるのだと思います。そして、一体感を損なう、空気の読めない行動や言説への反発と制裁には実に激しいものがある。

(中略)

 一体感そのものが悪いわけではありません。けれど、一体感を乱すものを敵対視してしまうこと、あるいは、一体感を弱い立場から支えている人々に手を差し伸べない冷淡さを生むことがあります。社会的弱者と向き合うことは、社会の欠陥を認めることであり、一体感への脅威にもなるのです。「みんな一緒だ」、「みんなでがんばろう」と言っているときに、「弱者、弱者とそんなしらけたことを言ってくれるな」という感情が我々の中に厳然と存在している。ありきたりの集団単位で弱者を認識するアプローチだけでは不十分なのかもしれませんし、文脈によって弱者とは何かは異なるのだけれど、それは地方であったり、女性であったり、非正規で働く人であったり、なんらかの病気や障害などの不自由を抱えた人々であったりします。これら条件のいくつかが重なるところにつらい思いを抱えた方々が多くいるものです。
 総理大臣とは国民すべての総理大臣であり、政権とは日本の民主主義の結果として権力を信託されている存在です。偉大な政権とは単に一体感を高めた政権ではなく、一体感の向こう側に意識を向けられたかどうかということではないかと思っています。希望のないところ、光の届かないところに目を向ける、本当の弱者に手を差し伸べることが一番の責務ではないかと思うのです。それこそ、開かれた保守ということの国内的な意味です。

  三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 99-101 
                           (太字は菅波)

 日本の政権は構造的に保守が担う以外に可能性がない。そうなると、保守は保守だけの保守であってはならない。リベラルのための保守でもあらねばならない。
社会が必要とするリベラル化は、保守が責任を担っていく以外にない。その理解と期待が、三浦氏の言う「開かれた保守」という表現に込められていると感じます。そして、その期待を私も共有するものです。

 今後の日本社会が実現していくべき「ビジョン」の1つとして、伝統的価値や国民の一体感を守護しつつ、多様な人々がそれぞれの生き方を許されるような寛容な国になるというものがあり得ると思います。日本人の多くが「同調圧力」によって苦しんでいる現状を見ると、そのくびきから国民を解放するのは保守政治家の役割ではないかと思うのです。

E PLURIBUS UNUM(多様性の中の統一)と父性の確立を目指す

 私はこの点において、アメリカ社会のモットーが参考になると思います。それは、アメリカの硬貨に刻まれている "E PLURIBUS UNUM"(エ・プルリブス・ウヌム)というラテン語で、意味は「多様性の中の統一」です。

 日本は「均一であることが統一」という風になりがち。そこを
「多様な国民がいるけれど、そこに統一感が自然とある」という国にしていきたいのです。 

 多様性を許すだけでは国はバラバラになります。多様な人々を束ねるには、様々なライフスタイルや世界観や信仰の有無などを超越した、全国民に訴える力を持つような「理念やビジョン」が必要とされます。多様化し続ける日本国民に統一感と誇りを与えてくれるものは共有する過去の伝統遺産だけであってはならない。むしろ、共通の未来に向かう理念やビジョンをこそ共有しなければならないのです。

 「おい、みんな、こっちへ行くんだぞ」と国の進むべき方向を定められるのは父性ですが、日本人に最も欠けているものだと言えます。日本人は政治家も含め、母性的であり人間関係依存的です。周囲の顔色を伺って協調性で、という母性原理に縛られ、理想を選びとることにおいて弱々しい部分を抱えているのです。これは日本人が民族として抱えている欠点であり病理だと言えます。

 我々は今、「未来へのビジョン」を明確化する途上にいるのだと思います。多様性を抱擁できるだけの一段階上の母性・女性性を育みつつ、新たに国民を統合していけるだけの「魅力的な理念」を掲げられるだけの父性・男性性をも育んでいかねばなりません。弱者へのコンパッションと力強いビジョンは、今後の日本が統合し続けなくてはならない対立要素でもあるのです。

〜〜6回シリーズ完結〜〜 


関連記事

橋下徹&三浦瑠璃『停滞する日本社会を動かしていく』①〜⑦



参考書

「保守の課題」&「リベラルの課題」⑤

日本では保守である自民党がリベラルな改革も担ってきた

 日本の「保革関係」を理解する際に重要なのは、社会のリベラル化を担ってきたのが必ずしもリベラル勢力でないということです。保守政党である自民党が数々のリベラルな政策を実行してきた経緯があります。つまり、自民党が長らく一党優位の状態を保つことができた原因の1つは、「保守」「リベラル」双方のニーズを一定範囲で汲み取りつつ国を運営してきたことなのです。

 今月1日より「改正健康増進法」が全面施行され、原則として「屋内禁煙」となりました。これにより、日本社会は受動喫煙防止という「リベラル」な方向に力強く舵を切ったわけです。自民党が反対すればこのような事態にはなっていませんから、保守である自民党も賛成した「社会のリベラル化」だと言えます。

 もし、自民党が保守勢力だけの声を拾うのであれば、「古い強者」である喫煙者の肩を持って「タバコぐらい吸えない窮屈な社会にすべきでない」とか何とか言って、喫煙者がどこでも吸える権利を擁護する立場をとってもよかったわけです。ところが、時代の流れや、オリンピック開催に向けて欧米側からの強い要請もあり、また医療関係者の賛同もあり、受動喫煙の被害者(弱者)を守るという「リベラルな価値」を優先した国家運営に前進しました。

 このように、保守勢力がリベラルな改革を推し進めるということが実はあるのであり、リベラル勢力が改革の担い手とは限らないという点が興味深いですね。


戦争が推進した世界のリベラリズム

 歴史的にはリベラルな勢力がリベラリズムの主要な担い手であったとは必ずしも言えません。むしろ、日本を始めとする多くの国においてリベラリズムは権威主義者や保守主義者によって推進されてきました。リベラリズムが多くの場合、本来の個人の自由と幸福の追求を通じてではなく、もっと不純な、それでいて強力な動機に基づいて進められてきたからです。
 世界史的に最も有名な例は、近代国家における社会保障の雛形をつくった帝政ドイツにおけるビスマルクの一連の改革でしょう。ビスマルク改革の対外的な目標は富国強兵であり、そのためには兵士として動員可能な層への飴が必要でした。同時に国内的には皇帝を頂点とする貴族層の特権的な国体の護持が重要でしたので、資本主義を通じて勃興しつつあった自由主義者への対抗という意味合いも存在しました。
 米国における公民権運動の成功も、大戦と朝鮮戦争で勲功を立てた黒人兵達の存在抜きにはおぼつかなかったでしょうし、英国の国民皆保険制度も労働者階級の動員の対価としての側面があります。国家総動員の時代におけるリベラリズムの大義の大きな推進力は実は戦争だったのです。

   三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 69-70 
                           (太字は菅波)


GHQが主導した戦後日本のリベラリズム

 日本にも同様の構図が存在しました。明治のリベラリスト=自由民権運動論者達は、普通選挙に象徴される平等な権利を有する国民を作り出すためにも、徴兵を始め国民の義務を重要視していました。そして、自由民権運動の高まりと呼応するように権威主義的だった当時の政府も義務履行と引き換えに上からのリベラリズム改革を推し進めていきます。この図式が変わったのが敗戦です。言うまでもなく、戦後リベラリズムの起源であり、土台はGHQ主導の諸改革です。
 米国の戦後統治の目的は、日本の特権階級に深く根付いていた権威主義の芽を摘んで再び敵国となる事態を避けることから、冷戦の激化を踏まえ上からの(穏健な)改革を通じて日本の共産化を防ぐことへと変化していきます。戦後の諸改革は、GHQという絶対権力の威をかる官僚たちによって次々と実行に移されます。財閥解体や農地改革を通じて、経済利権は次々に駆逐されていきますが、これを担ったのがGHQが温存した日本の官僚機構であり、統治利権の担い手たちです。GHQの民生官僚に浸透していたニューディール的なリベラリズムは、日本風にアレンジされながら、司法、社会保障、教育などの分野でも推進されていきます。興味深いことに、この戦後リベラリズムが戦後の統治利権のDNAとなっていくのです。

   三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 70-71
                           (太字は菅波)


リベラリズムを担ってきた戦後日本の官僚(統治利権)

 戦後日本は、統治利権を担うエリート達を世界的に見ても非常にフェアな方法で選別、育成してきました。統治利権の担い手たち=官僚+官僚出身の政治家一世は、基本的に試験の成績が良かった人たちで、お金はないけれど、権力を持つ人たちです。新興国はもとより、先進国でも経済的な特権階級と権力を有する階級には大きな重なりがあるのが通常ですが、日本ではこの重なりが非常に小さい。多くの方にとって、戦後のジャパニーズ・ドリームを体現した人というと、田中角栄や松下幸之助が思い浮かぶところだと思いますが、彼らに当たる人は各国にも存在します。むしろ、戦後リベラリズムの成果を誇る観点からすると、名もなき多くの財務次官や外務次官達が中産階級の出身であり、大きな権力を振るってきたことの方が世界史的に稀有な現象です。統治利権の担い手達は、経済的な特権階級をそれだけでは権力に近づけなかった代わりに、彼らを過剰に排斥もしませんでした。結果として日本には、これまでのところ持続的に権力を行使する政商も、祖国を捨てて大々的にキャピタルフライトする層も生まれなかったのです。

  三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 165-166
                           (太字は菅波)

 戦後の日本社会における「出世」「社会的成功」には主に2つのコースがあり、1つが国に仕える官僚となって統治利権を手にするもの、もう1つが民間で成功し財を成し経済利権を手にするものでした。平たく言えば「官僚になるか金持ちになるか」です。もちろん、宗教国家ではこれに「宗教のトップになる」という道も入るのですが、日本はかなり世俗化の進んだ社会なのでここでは考慮しません。

 さて、世界の国々を眺めてみると、金持ち特権階級が政治力の大部分を握っているような地域がある。上流階級や貴族階級や王族しか統治力を持てない。下流・中流の人間はずっと社会の下層に留まり、社会を動かすトップには登れない閉じた社会。そこでは、統治利権を握る者たちが最も金儲けをしていて、統治利権のない者が貧しい。つまり、経済利権と統治利権がかなり重なっている。

 そのような社会では、例えば「資産家」と「労働者」は階層によって明確に区分され、「資産家」が国家運営をする政治力を握る。すると「労働者」は虐げられて苦しむ。深刻な不平等がある。そのような資本主義社会の問題を解決するために考えられたのが社会主義や共産主義といった「リベラルな思想」なわけです。生まれた階級などによって社会的な力が自ずと限定されるような不平等さから人を救うのが目的だと言えます。

 そう考えると、戦後日本には金持ちの家に生まれなくても、勉強ができれば官僚になって国家運営に携われるという平等な道が設けられていて、三浦氏が言うようにこれはかなり公平な社会なわけです。

 官僚システムにおいて多くの中産階級の人間が統治利権での成功を収めてきたことにも戦後リベラリズムの成果が見られるし、また中央官僚が全国に普及させてきた民主的な教育や福祉もそうです。そして、自民党は官僚と一緒になって戦後リベラリズムを担ってきたと言えます。

 アメリカやイギリスと違って、保守とリベラルが頻繁に政権担当を交代するという風にならなかった一因は、日本の保守がGHQを引き継いで社会のリベラル化を推進してきたため、日本のリベラルが与党のリベラル政策を微調整する程度の役割しか果たせてこなかったことにあるのです。

 イギリスではイングランド北部に左派労働党支持が強く、南部に右派保守党支持が強い。アメリカでは東海岸・西海岸で左派民主党支持が強く、南部・中西部で右派共和党支持が強いという風に、保守地域とリベラル地域が分かれています。なので、国を挙げて左右がぶつかる選挙となるわけです。

 ところが、三浦氏も言うように、「日本の地方はすべて保守、すべて自民党」なので、保守政権がリベラル政権より遥かに誕生しやすい。保守とリベラルの政権交代が極めて起きにくい。そして、その一因は、保守政権がリベラル改革を担当するというパターンが根づいているからなのでしょう。

 つまり、日本社会では「保守が保守の枠組み内でリベラルを担当する」ことで安定し、動きにくくなりやすい。そして、戦後社会をリベラル化してきた官僚や自民党も、自身が長期に渡って権力を手にしたことで保守的になり、変革をする側から変革を求められるべき側にシフトしてきたのだと私は思います。

 そうすると、日本社会を動かしていくとは「自民党+中央官僚」という統治利権をどう変えていくかという話になるわけです。しかし、「自民党+中央官僚」が築き上げてきた中央権力構造はかなり堅固で、ちょっとやそっとでは動かない。民主党が一時政権を取って多くの人が変わるかなと期待したけれど失敗してしまった。そうすると、日本を動かしていくには、保守とリベラルの二大政党制ではなく、2つの保守政党による二大政党制にする以外にないというのが三浦氏の考えです。

 ・・・日本政治は保守系の二大政党によって担われるべき・・・

  三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』p. 85
                           (太字は菅波)

 リベラルにとって二大政党制に入れないのはキツいですが、ともあれ⑥では三浦氏の「保守二大政党制論」がどういうものかご一緒に見ていきましょう。


参考書

「保守の課題」&「リベラルの課題」④

否定形でしか語らない日本のリベラル

 どうして、日本のリベラル勢力は否定形でしか世界を語れなくなってしまったのでしょうか。いつの間にか、自己主張のほとんどが「〇〇反対!」という形になってしまいました。それでいて、リベラル勢力の役割がなくなったわけではないのです。言うなれば、日本にはリベラルの存在を十分に正当化するだけの不正義が十分に温存されています
 生活保護の受給者数抑制のために相当無理筋なことをやっているのに、受給者は過去最高を更新し続けています。現世代の経済格差が次世代の教育格差に結び付き、格差が再生産されることもはっきりしてきました。今日よりも明日はよくなるはずというもっとも力強い指標である出生率は社会が持続しえないところまで低下しているのに、その責任を若い女性にだけ被せる風潮から抜け出せません。労働者の四割は非正規で、技能を高めるチャンスも生活が改善する希望もほとんどありません。

     三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』p. 26
                           (太字は菅波)

 今の日本のリベラルは、保守に対して何でも反対・抵抗・否定するだけで、積極的ゴールに向かって何の前進もできない「不毛の闘い」に明け暮れるきらいがあります。議論を聞いているとウンザリするのです。私の性根はリベラルなのにリベラル政治家が嫌いになってしまいます(笑)。

 ちゃんと弱者が救えているのか、コンパッションの輪がちゃんと広がっているのか、的確なゴール設定ができているのか、到達するために用いている手段は適当なのかを問わねばなりません。

 さて、三浦氏はリベラルに対して「正しい戦場で闘え!」とエールを送っているのですが、闘うべきでないところで闘ってしまっていることが、彼らが社会を前進させることに失敗している一因だと三浦氏は分析しているようです。

 そして、その「不毛な闘い」には戦後「保革分裂」の泥仕合をしてきた「歴史認識」と「安全保障」の問題が絡んでいます。

「非武装中立」「日米同盟脱退」という非現実的な構想が生んだ弊害

 ところが、日本のリベラル勢力があまりに現実味に欠ける平和のための手段(=非武装など)の構想を持っていたがために、日本のリアリズム勢力は、ひたすらそれを打ち砕くことに心を傾けます。その結果、理想まで否定してしまう変な勢力を出現させてしまったのです。彼らの主張は、たいていの場合は強気一辺倒という形をとるのですが、中には、現状追認一辺倒というタイプも存在しました。

   三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 29-30
                           (太字は菅波)

 「リベラル」の中には共産党を含めて「日米同盟脱退」や「非武装」を目指そうという勢力が強く存在してきました。それは左派のアイデンティティーにさえなったイデオロギーだったのです。

 私自身が20代・30代にこの左派のイデオロギーに染まっていて、軍隊のない理想的な世界を思い描いたり、コスタリカのように非武装でも相手に攻められることはないと考えてみたりしていました。この「優美な理想」はナイーブだったと今では思います。私を含め多くの左派の人間は、あらゆる軍事的な事柄を忌々しいものとして回避し、心の中に描いたユートピアの世界に生きてきたのです。

 この幻想的な平和主義は第二次大戦の過酷な被害体験への反動に源を持ち、「二度と戦争はしてはならない」というスローガンの元に、あらゆる軍隊保有や日米同盟をも不要の長物として捉えてしまいました。

 しかし、湾岸戦争の時にこの「リベラルのナイーブなバブル」は外界から突かれます。世界の現実から乖離した日本の行動は、国際社会から「自己中心的な一国平和主義」としか見られなかったのです。

 「時には武力を持ってしか不正義を止められないこともある」という世界大半の常識から乖離した「夢の世界」に生きてきた「リベラル」は、「あらゆる軍事的な事柄への拒絶感」という病理によって大人になることを拒んでいます

 「リベラル」のナイーブな理想主義は日本が世界の現実にどう対処すべきかという成熟した議論を困難にしてきました。このことが日本全体の成熟と前進を阻んできたと言えます。しかし、中国の台頭や北朝鮮の核実験などを通して日本の置かれた東アジアの状況の厳しさが平均的な日本人にも明らかになるにつれ、自民党がこれまで一貫して堅持してきた日米同盟以外の選択肢がないことが大部分の日本人の合意するところとなってきたわけです。(ただし、今日でもまだ国民の25%ほどが「日米同盟脱退+非武装」を主張しています。)

泥仕合となった集団的自衛権論争

 安倍政権が憲法解釈の変更によって集団的自衛権を容認する方向に進んだことで、容認派の「保守」と反対派の「リベラル」が激突しました。安倍氏のやり方に強引さがあったとは思いますが、そもそも集団的自衛権を認めることが日本にとっていいのか悪いのかという議論と、それを達成するために安倍氏がとった方法が合憲なのかどうかという議論は次元が異なります。この2つをごちゃ混ぜにすることで、聞く側を辟易させる泥仕合になってしまいました。

 立憲主義や民主主義の立場から安倍氏の決断を批判することは、日本が進むべき方向性から考えて妥当ではありません。そもそも、日本人は「自衛隊」の問題について矛盾と曖昧さを残した憲法を維持することで、左右に「ごまかしの折り合い」をつけてきたのであり、とうの昔から国際社会での常識は集団的自衛権を各国に認めるというものです。「リベラル」は過去の軍部の過ちが二度と繰り返されないようにという善意から、日本の再武装を阻止することに正義を見出してきました。私自身がそのような平和主義者だったのでその気持ちは痛いほど分かります。ただ、この「リベラル」のこだわりには、「リベラル」自身が気づいていない病理が隠されています。それは、男に暴力を受けた女がそれ以後に出会う男すべてを暴力的だと想定して近づけなくなるように、軍部によって苦しめられたことの反動として、それ以後あらゆる武力行使を絶対悪として拒絶することで思考停止になっているのです。過去の恐怖にいまだに縛られ、より成熟したあり方に前進することを拒んでいると言えます。それが「消極的平和主義」であり、「積極的平和主義」でないと気づかねばなりません。

 「リベラル」の取るべき道は、「保守」が求める憲法改正と集団的自衛権の容認と自衛隊の正式な認知に合意した後、自衛隊の動きを国会でチェックできる仕組みを作ったり、武力行使が許される条件を厳しく定めることにエネルギーを注ぐことです。

 平和国家として武力を用いることについて成熟した議論を重ね、日本が国益に反した愚かな武力行為に巻き込まれないための枠組み作りをすることに努力すべきだと考えます。

 「憲法に残されたごまかし」をきちんと清算し、武力というものと真っ直ぐに向き合えるだけの成熟した国民になるためにも、左右が統合できる唯一の道を進まねばなりません。そして、それは憲法で自衛隊と防衛のための武力行使や集団的自衛権を真っ直ぐに認める方向に進むことです。それ以外に、日本国の保革分断を解消する方法がないことは明々白々だと言えます。

 冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。その上で、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきです。また、戦後日本が築き上げてきたガラス細工の微細加工という政治構造からはそろそろ卒業して、国際的な問題の解決につながらない武力行使や、国内的な不正義に支えられた武力行使に反対する国家=平和国家というのが日本の進むべき道ではないかと思っています。

  三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 165-166
                           (太字は菅波)

地方、女性、非正規こそ「リベラル」が闘うべき戦場

 本書の pp. 167-173 には「闘え左翼、ただし正しい戦場で」というタイトルがつけられています。

 日本には「白人 vs. 黒人」というような人種的分断もなければ、「ヒンズー教徒 vs. イスラム教徒」という宗教的分断もありません。しかし「歴史認識」と「安全保障」が戦後長らく左右を分断してきました。

 安倍政権には「保守であるが故の欠点(女性の問題に真の関心がない・官主導のため構造改革が進まない等)」はあるにせよ、戦後「リベラル」の病的で過度な戦後反省によって攻撃され否定されてきた「保守」が日本人の健全な自尊心を取り戻すべく「憲法改正」と「日米同盟の堅持と発展」と「自衛隊の正式な認知」に尽力していることは、実は左右統合へと国民を促してくれていると捉えています。この時期に、これまで日本国民がごまかしてきた数々の未処理問題を表面化させ、直面させてくれている。もう誤魔化しはきかないという風に国全体を突きつけている。特に「リベラルの未熟な病理」に対して毅然とした態度をとって動じないことは、「リベラル」が必要としている厳しい愛だと私は見ています。「リベラル」の多くはとてもとても認められないでしょうが、安倍氏は日本人の成熟過程にとって極めて重要な役割を演じてくれているというのが私の評価です。

 「保守」の復権は「リベラル」が恐れているような強権的な軍部の再現では決してないでしょうし、侵略戦争やシビリアンコントロールのきかない軍部の暴走にはならないでしょう。もちろん、そうしてはならないのであり、「リベラル」が望む平和は価値を持ち続けるのです。

 ただし、「リベラル」が望む平和は、戦後のごまかしを解消した後の枠組みで発揮されるべきと考えます。憲法改正を阻むことによって、自衛隊を違憲かどうか分からない曖昧な存在にし続けることで、平和が守れるのだという意固地なやり方はもうそろそろ卒業しようではありませんか。武力を成熟した方法でコントロールするという段階に進む時期です。

 「憲法」「自衛隊」「日米同盟堅持」に関する観念的衝突にエネルギーを奪われなくなった日本においては、「リベラル」は現行秩序内で苦しんでいる国内の弱者たちに目を向けられます。「リベラル」の情熱とエネルギーは、これらの人々を救済することにこそ使われるべきです。

 唯一のわかりやすい分断が歴史認識であり、安全保障をめぐる観念論の世界です。この分野だけは、左右のラディカルな意見が紙面を覆い、友敵概念が明確な泥仕合が展開されます。特に、冷戦後、一貫して押されがちのリベラル勢力にとっては生き残りをかけた戦いであり、自らの来し方に関わるアイデンティティーの問題になってしまっている。しかし、ふと、冷静になって考えたとき、リベラル勢力のエネルギー配分は果たして正当化されるものなのでしょうか

 地方、女性、非正規こそ戦場

 日本にはわかりやすい形での分断がないというのは、もちろん、見かけ上の問題であって、人間の集団である以上は日本にも重要な分断がいくつもあります。それは、例えば、地方であり、女性であり、非正規です。そして、これらの要素が重なるところにこの国の大きな不正義があります

  三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 171-172
                           (太字は菅波)

 是非とも「リベラル」の方々には、地方、女性、非正規のために闘っていただきたいと思います。日本をもっとよくしていくために「リベラル」のパワーこそこれらの領域で必要とされているのですから。

 ⑤につづく。


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戦争を全面放棄することが果たして善なのか


参考書

「保守の課題」&「リベラルの課題」③

「保守」は強者の味方になり弱者を疎外しやすい

 「保守」はその社会で長らく確立されてきたものを重視しますから、すでに権威を持っている強者を擁護する傾向にあります。そして、確立されたグループ(エスタブリッシュメント)から漏れた弱者の苦悩に共感できない鈍感さを持つきらいがあるのです。

 それまでの権威を保護するということは、権威構造の変更に抵抗し、新たな権威を認めないわけですから、苦しむ弱者を放置することになりかねません。

 このように、「保守」の欠点は社会が必要としている進歩に対して閉じているということです。「後ろ向きだ」という言い方もできます。

 例えば、アメリカの「保守」である原理主義的キリスト教徒は、長らく「同性愛は罪である」という立場を崩しませんでした。この「伝統的宗教観」は多くの性的少数者を苦しめてきましたが、この姿勢を保持しようとすれば、同性愛者の苦悩に寄り添い共感することは不可能です。

 「同性愛罪悪論」は「保守の病理」だったと私は思いますが、それによって社会の秩序が支配されることを許さなかった「リベラル」が最高裁で勝利し、アメリカ全土で「同性婚」が合法化されるに至りました。

 異性愛者や伝統的クリスチャンがアメリカ主流の「強者」だとすれば、その輪に入れない同性愛者やトランスジェンダー の人は差別と偏見に晒される「弱者」です。「保守」は、このように、「弱者」の苦悩に共感できない偏狭さを持ちやすいと言えます。「異性愛が正しい」「伝統的キリスト教が正しい」という思いを軸に「強いアイデンティティー」を築けば築くほど、対極の相手を疎外してしまうことを覚えておかねばなりません。

 よって、三浦氏は「保守」が弱者にコンパッションを向けられる『開かれた保守』である必要があると語っています。

 日本はまだまだ男性が女性より優遇される「男性優位の社会」です。つまり女性は様々な面で「弱者」として生活しているということになります。そうすると、「保守的な男(保守的な女も)」は、そういった女性の立場や感情に対して共感していない・共感できない偏狭さや無神経さを持っている場合が多いわけです。

 現在の日本は、かつて総理もなさった政治家の「日本女性には大いに活躍してほしい・・・特に茶道や華道の分野で」という趣旨の発言が別段問題にならない国です。でもこの女性らしさというものを定義した発言によって、どれだけの人たちが疎外感を覚えたでしょうかこの絶望感、わからない人にはわからないのです。

     三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』p. 13
                           (太字は菅波)


 三浦氏は安倍政権の「女性活用政策」が不人気な理由を次のように説明しています。



 安倍政権は女性活用を重視しているようです。(中略)政策目的は個人の自由や公正や平等よりも経済成長のようです。ただ、「保守主義者がリベラリズムの大義を別の目的から推進する典型的な政策」ですから、保守、リベラル双方の陣営から概して評判は良くないようです。
 保守主義者達は、女性の活躍を信じていないか、本質的に関心が無いので、例えばクォータ制の負の側面に飛びつきます。現行の人材構成を前提に指導的立場の女性比率を三〇%まで高めたら、能力では勝る男性が割りを食う場面は個別にはあるでしょう。クォータ制とはそもそも、短期的に割りを食う者がいたとしても長期的には社会全体のためにプラスであるという論争的な性質を有する政策ですから、このあたりにケチをつけている人々はそもそも男女平等の大義を重視していないのだと思います。
 安倍政権の政策は中小企業にとっては現実的ではないという批判もよく聞かれます。ギリギリのところで経営されている企業ももちろん存在するので、この批判の一部は当たっているのでしょう。しかし、男女平等にそこまでコストをかけられないよ、ということを言っているに過ぎないので、こちらも多くは大義が信じられていない部類に属します。


  三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 144-145
                           (太字は菅波)

 国際社会から日本は男女平等の実現度が低いと評価されているので、保守的政治家はいちおう「女性がもっと活躍できる社会」を目指していますよという「体裁」は整えている。しかし、内心は「このままで何が悪いの?」と思っている人が多いのでしょう。

 女性の自由や平等や尊厳が現状では侵されていて、とてもこのまま放置するわけにはいかないと感じている人は、「女性へのコンパッション」から社会改善を本音で望んでいる「リベラルな人」です。それに対して、男であれ女であれ「現状変更の必要性を感じない」という人は、弱者の苦悩に鈍感であり無関心だと思います。

 このような保守的な人が多い日本では、「男女平等」という建前は口にしても、集団内の男女の力関係は変わらないままなのです。「保守」は真剣に女性に関する問題を解く気がないのだと思います。


 女性の地位も、建前上は平等になりました。子育ても、介護も社会化される部分が増えて実質的に改善した部分も多いけれど、不見識な議員のヤジの例を挙げるまでもなく、変わっていない部分が多い。日本中のキャリアウーマンのほとんどは、セクハラのヤジのような状況に自らがおかれたとき薄ら笑いで傍観する冷たい男性社会の実態を経験していることでしょう。世代を超えて積み重ねられた差別意識は、世代交代でしか変えられないのかもしれないし、足を引っ張る同性も多いけれど、啓蒙の余地も、踏み込んだ政策の余地もまだ大きい

  三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』p. 172-173
                           (太字は菅波)

 日本社会に温存されている不正義として「男性優位」「男尊女卑」を挙げました。これはリベラルが闘うべき戦場です。リベラルの活躍が求められる所なのです。

 コンパッションの輪を広げていくべき対象としての弱者には、女性のほか、(中央に対する)地方や、(正規雇用に対する)非正規労働者があります。グローバル経済への対応のまずさから経済格差が広がっていますが、「負け組」とされた人たちにコンパッションの手を差し伸べるのは「リベラル」の役目です。

 「選択的夫婦別姓」を推進したいのは「リベラル」で、現状維持を望むのは「保守」だと言えます。世界中の国々で「夫婦別姓」を選択できないのは日本ぐらいで、これを認められない合理的な理由は何もありません。「保守」が拒んでいるのは「これまでやってきたやり方を変えたくない」というだけの話です。「夫婦別姓」にしたい人ができるようにすることで救われる人がいるなら合法化すればいいと私は思います。家族が壊れるなどと恐れる必要はないと思うのですが。

 夫婦別姓を許されないことから生じる問題を説明する議員に対して「そんなら結婚しなきゃいいじゃないか」とヤジを飛ばした
某自民党議員のことがニュースになりました。「保守」はみんなが当議員のようだとは思いませんが、コンパッションや共感の欠如が象徴された出来事でしたね。

 「同性愛者は可哀想な奴ら」という石原慎太郎氏の発言にも同様の「保守の偏狭さ」が表れています。

 「保守」には伝統や威厳を重んじる素晴らしい面もあるのですが、差別意識や無慈悲といった嫌らしい面もあるのです。


 ④ではリベラルの批判をいたします。


参考書

「保守の課題」&「リベラルの課題」②

「保守」と「リベラル」とは何か?

 「保守」とは「過去からの伝統を大事にする派」で、「リベラル」とは「未来に向けて現社会の欠点を直し改革していく派」です。「リベラル」は日本語で「革新」とも呼ばれ、二つの対立を「保革対立」とも言います。

 フランス革命では王様が支配する政治(王政)を維持したい「保守」と、王政を廃止して国民が指導者を選べる政治(共和政)に変えていきたい「革新」が衝突し、後者が勝ちました。「革新派」が勝って社会秩序が大きく変化したので「革命」と呼ぶわけです。

 フランス革命の時、議会の右側に座っていたのが「保守」、左側に座っていたのが「リベラル」だったので、「保守」を右派とか右翼、「リベラル」を左派とか左翼と言うようになりました。

「保守」=右派・右翼、「リベラル」=左派・左翼

 これに関係する別の概念で「タカ派」「ハト派」があります。「ハト派」は武力衝突など強硬な手段を用いず、できるだけ穏健に物事を進めようとする人たちなのに対して、「タカ派」は相手との対立や衝突を厭わず、時には武力に訴えることをよしとするわけです。

 日本では「保守」に自衛隊の正式な認知を含めた憲法改正を支持する人が多く、「リベラル」に憲法改正反対の平和主義者が多いので、「保守」=「タカ派」、「リベラル」=「ハト派」という構図になることが実際多いのですが、この組み合わせは絶対的なものではありません。

 日本赤軍のように暴力的手段を用いて日本を共産主義化しようとしたグループが存在しましたが、彼らは「リベラル」の「タカ派」でした。ソ連や中華人民共和国を建国したレーニンや毛沢東も「リベラル」の「タカ派」です。

 「タカ派」は「強硬派」、「ハト派」は「穏健派」とも呼ばれます。

 よって、世の中には「保守強硬派」「保守穏健派」「リベラル強硬派」「リベラル穏健派」がいるわけです。石原慎太郎前都知事などは「保守強硬派(タカ派)」ですね。

「タカ派」=「強硬派」、「ハト派」=「穏健派」
「保守」≠「タカ派」、「リベラル」≠「ハト派」

「保守」の本質とは?

 先ほど述べた通り、「保守」は「過去からの伝統を大事にする派」です。その本質は「年月を超えて築かれてきた価値観を重視すること」(三浦 p. 30)にあり、「世の中には守るべき価値がある」(三浦 p. 108)というスタンスだと言えます。

 「保守」は「保ち守る」と書きますが、その社会で長年継承されてきたものを維持し保護する立場なのです。「保守」を英語で "conservative"(コンサーバティブ)」と言いますが、これも「保護する」「保存する」という意味になります。

 例えば、私は社会がもっと性的少数者の生きやすいものになっていって欲しいと願っているという意味では「リベラル(革新)」ですが、2000年続く天皇家を敬愛しその維持を願っているという意味では「保守」です。このように、一人の人間に「保守的な面」と「リベラルな面」が共存していることは決して珍しくありません。ほとんどの人間は100%保守でも100%リベラルでもないのです。

 「保守」の感情があることによって、その社会には祖先との繋がりや、文化の統一性や、社会の安定性が得られます。過去や伝統をすべて否定して、ゼロから新しい社会を毎年作り変えねばならないと想像してみてください。ものすごいストレスだと思います。何でもかんでもしょっちゅう刷新していたら、人間の心は落ち着いて生活できません。なので、一貫性や安定性や落ち着きのためにも、過去からの遺産のうち価値あると思うものを守り伝えていくという姿勢は大事なのです。

 私が住む金沢は戦火に遭わなかったこともあり、江戸時代の城下町の様子が残っていて、落ち着いた雰囲気を持っています。古いものが残っているということは、やはり心を和ませ落ち着かせてくれるので、そういう金沢の面は好きです。

「リベラル」の本質とは?

 しかし、過去からの伝統や遺産を保持するだけでは十分ではありません。やはり、人間は時代とともに変わっていきますし、どんな社会にも克服されるべき欠点があるからです。

 どの時代にも、どの社会にも、「輪から漏れている弱者」がいます。そして主流に入っている者が困っていなくても、弱者は現体制によって苦しめられています。その「弱者にまでコンパッションの輪を広げていきたい」という優しさが「リベラル」の本質です。

 男性優位の秩序があるなら、その秩序を維持しようとするのが「保守」で、女性の苦しみに寄り添い、女性が男性優位の秩序によって苦しまなくても済む新しい社会に作り変えていきたいと願うのが「リベラル」だと言えます。

 最近では、ずっと差別されてきた婚外子(婚姻関係外で生まれた子供)が嫡子(婚姻関係内で生まれた子供)と同じ権利があるという風に法改正がされましたが、これは「リベラル」な動きなのです。

 黒人が白人に差別されてきた歴史を持つアメリカでは、白人優位を維持したい立場が「保守」なら、黒人が平等の尊厳をもって扱われる社会に変革したいと望むのが「リベラル」だと言えます。

 このように、どの社会も「伝統的秩序を守りたい人」と「弱者に寄り添い新しい秩序へと変えていきたい人」との対立によって動いていくのです。

 ③につづく。


参考書

「保守の課題」&「リベラルの課題」①

 どの社会も「保守」と「リベラル」が二極を作っています。時にはこの2つのグループの対立が激化して、国を分断することさえあるのです。

 一方が他方をどれほど敵視し排除しようとしても、それはできません。なぜならどの社会も二極を合わせて初めて「一体」だからです。

 社会の進歩が「保守」と「リベラル」の相互作用によって生じるとするならば、どちらも健全に機能していることが重要だと言えます。どれほど相手を嫌悪しようが、「保守」と「リベラル」はともに成長していかねばならないライバルなのであり、相手は時に自分の成長課題を突きつけてくる「厳しい教師」でもあるのです。

 「保守」と「リベラル」は建設的な議論を通してお互いの視点を豊かにし、より包括的な社会運営ができるように補助し合う関係にあります。ところが、いずれかに「病理(pathologies)」があると、お互いを否定し合うだけの「不毛の議論」にしかならず、その社会は停滞するのです。

 「未熟な保守」と「未熟なリベラル」が議論をすると、未熟な夫婦喧嘩のように何の結果も生み出しません。現実の問題を解決していくことができないのです。そして、みんなが不利益を被ることになってしまいます。

 よって、「保守」「リベラル」ともに成長課題をこなしながら成熟し続けていることが社会全体にとって重要です。

 このシリーズでは、三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』を参考書としながら、「日本の保守」と「日本のリベラル」がこなすべき課題について考えたいと思います。

 ②につづく。


参考書


橋下徹&三浦瑠璃『停滞する日本社会を動かしていく』⑦

「大阪維新の会」が「大阪都構想」で目指すもの

 大阪府と大阪市が縄張り争いをして地域全体を見据えた行政を行ってこなかったため、それぞれが同じような施設を作ったりといった二重行政の無駄が長らく解消されてきませんでした。また、地域全体の成長を考える人が誰もいなかった。よって大阪府と大阪市を一体化し、ちょうど東京の23区のように管轄する仕組みに変えていこうというのが「大阪都構想」です。

 「大阪都構想」を推進する「大阪維新の会」が大阪府民・大阪市民両方から支持され、現在、大阪府知事と大阪市長ともに「維新の会」のメンバーが担っているため、大阪府と大阪市は密な連携による統合的な行政をすでに始めています。つまり「バーチャル大阪都」が始動しているということです。

 大阪府は香川県に次いで日本で二番目に面積の小さい都道府県であるにも関わらず、狭い地域に府と市がそれぞれ同じような施設を作っていました。幾つか例を挙げます。

 大阪府:大阪府立病院
 大阪市:大阪市立病院

 大阪府:大阪府立大学
 大阪市:大阪市立大学

 大阪府:大阪府営湾港
 大阪市:大阪湾

 大阪府:大阪府立産業技術総合研究所
 大阪市:大阪市立工業研究所

 大阪府:大阪府中小企業信用保証協会
 大阪市:大阪市信用保証協会

 大阪府:りんくうゲートタワービル(ベイエリアの超高層ビル)
 大阪市:ワールドトレードセンタービル(ベイエリアの超高層ビル)

 府と市が協力して来なかったことで、このような無駄をずっと許してきただけでなく、環状高速道路の輪が途切れたままで完成しませんでした。道路工事も地域全体のことを考える人がいなかったため交通の便を悪くしていたわけです。

 また、「維新の会」の理念として「役所のための役所はやめる」「役所でないとできないことに専念し、民間でできることはできるだけ民間にやってもらう」というものがあります。

 これまで大阪エリアでは地下鉄や公園などを役所が管理していました。それをどんどん民営化してきています。つまり役所の統治利権を手放す方向に進めているということであり、「官」と「民」の役割分担のあり方を根本的に改革しているのです。

 橋下 大阪の市営地下鉄の民営化もその流れの一環です。当初は「民営化して何が変わるんだ!」と批判ばかりだった。ところが、二〇一八年に民営化して大阪メトロになると、一期目の決算で営業利益が11パーセント増になりました。組織内での改革が効いたようです。忙しい部門に人員を増やして残業代を減らすとか、部品調達のコストカットを行ったとか、まさに民間の経営判断の結果です。こんな実務的なことを役所がやるのはなかなか難しい。そして民営化された大阪メトロからは税金が入ってくるし、大阪市は株主だから配当金も入ってくる、これがなんと百億円単位ですよ。市営地下鉄のときには納税は0だし、配当などもなかった。

 三浦 すごい額ですよね。

         橋下徹・三浦瑠璃共著『政治を選ぶ力』pp. 115-116
                            (太字は菅波)

 「維新の会」はこの他、老年層の福祉に重点を置いている国とは違って、現役世代への重点投資を行っています。私立高校の授業料無償化など、子供・教育の分野へ予算を重点的に配分し、多子世帯に大きな配慮をしてきているわけです。

 「維新の会」が大阪で行なっている「役所のスリム化」と「現役世代への重点投資」が功を奏し、大阪府は現在順調に成長してきており、閉塞感を抜け出して明るい未来への希望を感じているようです。(もちろん新型コロナウイルス以前の話です。)

 三浦氏は著書『日本に絶望している人のための政治入門』で「維新の会」を次のように評しています。

維新は、大阪府や大阪市の放漫な財政を大幅に改善しました。火の車の財政を改善するためのコストカットには無慈悲な一律カット的要素も必要ですが、彼らはもっと本質に踏み込んでいます。例えば、行政の諸施策の評価については、(1)施策と事業の関係の明確化、(2)試作目的の達成度(成果)の数値化、(3)達成度による事業撤退判断のルール化が必要だと言っています。これは、先進的な組織では一般的になっている Good Governance の諸原則を取り入れた動きです。アカウンタビリティーという概念は、日本語では説明責任と誤訳されてしまうのですが、政策の目標と、過程と、結果のそれぞれにきちんと責任を持つという考え方であり、日本の行政にもっとも足りない部分です。他にも、維新は「トライ・アンド・エラー、エラー・アンド・トライ」を標榜しており、日本の行政の「無謬性の原則」からくる諸々のトンチンカンな性向にも挑戦しています多数決の原理を強調するのも、日本の政治/行政が一部の少数既得権益層に事実上の拒否権を与えてきたことに対するアンチテーゼであり、時代の要請に適っています。
 彼らの看板政策である大阪都構想についても、まず、二重行政の無駄を解消したいということにはわかりやすい大義があります。都構想は、「成長は広域行政で、安心は基礎自治体行政で」をスローガンにしており、地盤沈下が止まらない都市としての大阪の地位の回復は集権化された都で行い、住民へのサービスはより分権化した区で行うという発想です。

(中略)

 都構想に対する自民党以下の既存政党の反論も本質を物語っていて面白い。例えば、「今の制度の中で、やれることをやってから改革すべき」というのは、あらゆる制度改革をつぶすために繰り返し用いられてきた万能の論法です。「新制度になって(住民に)不利益がないか証明すべき」というのも、不存在の証明=悪魔の証明を要求しており、無理を承知の難癖に近い。「都構想区割り案及び最終案の二回の住民投票」をすべきというのは、手続き論のハードルを上げることを目的にしており、議会における政党の政策調整機能の放棄でしょう。「道州制との整理が不十分」というのも、「財政調整制度等の詳細が不明確」というのも、まず否定ありきで、その後に理屈を考えているという姿勢に見えてしまう。現状の課題がクリアであり、成果が上がるか確証はないが勝算はあるくらいの改革案が俎上にある中で、とにかく否定の一点張りということでは、現状に利益を見出しているのではと勘ぐられてもしょうがない面があります

支持の背景にはニーズがある

(省略)維新が汲み取っているニーズは、抽象的には日本の政治/行政におけるアカウンタビリティーの欠如への不満であり、既得権益に寄り掛かった政策判断の否定であり、そうこうしているうちに日本そのものが地盤沈下していくことへの苛立ちです。思えば、小泉政権が支持を集めたのも、民主党が政権交代できたのも、この不満のエネルギーを吸収することに成功したからです。前に私は、日本政治は保守系の二大政党によって担われるべきと申し上げました。その意味では、維新の挑戦は自民党と安倍政権へのもっとも本質的な挑戦です。維新ムーブメントの核心を担う人材は、自民党にあって、そのあり方に絶望した人々です。自民党がその脅威に打ち勝つ方法は、かつての自民党が幾度も成功させてきた方法しかないはずです。それは、維新の政策を率先して実行することで、その大義を奪うことです。

   三浦瑠璃著『日本に絶望している人のための政治入門』pp. 82-85
                            (太字は菅波)

 「維新の会」の原理原則や理念は、実は日本政治全体にとって必要とされているものだと思います。つまり、①アカウンタビリティー②既得権益からの分離、そして③失敗は成功に繋げればいいという考えです。

 日本政治の悪いところは、「目標」「過程」「結果」を公開し、誰が責任者かを明確にし、公に分かる形で評価するということをしないため、ミスから学んで改善していけないところです。何か問題が明るみに出たら申し訳程度の首切りをするけれども、問題の根本的解決をするわけではない。だから、問題が解けないまま放置されても誰も責任を取らないのです。そういういい加減さがある。

 「維新の会」の凄いところは、役所の決めたことを公開し「目標」「過程」「結果」を検証し評価できるようにすることで、責任逃れへの防止策を取っているところなのです。「説明責任」が誤訳だと三浦氏は言っていますが、その通りで、英語で「アカウント」というのはむしろ「責任をきちんと取る、応える」という意味だと言えます。誰がなぜ何を決め、どのように行い、どういう結果になったのかを公開し、問題が解けるまで最後まで完遂するということであるし、損害を生じさせたなら降格や退任などの形で責任を取るとか、選挙によって民意に問うとかする。こういった全過程をあやふやにせず完遂すること全体を指してアカウンタビリティーと言うのです。

 決定過程をあやふやにしたり、責任者をあやふやにしたり、結果がどうなったのかも公開せず、いつどのように改善策を取ったのか取らなかったのかも不明確のままであれば、無責任体制になるのは当然のこと。このような病的な体質がずっとまかり通ってきたのが日本政治の恐ろしいところで、そこに果敢にもメスを入れたのが「維新の会」なのです。

 また、「政」「官」ともに既得権益と癒着してきたのが既存の日本政治なわけで、世の中を改善するために有権者がせっかく投票しても、結局は政治家自身の権力保持に動くだけで物事は動かない。それに有権者は苛立っている。そこで、大阪府知事と大阪市長が自ら「既得権益」の側につかないという意思表示をしている。そして、政治主導によって「官」の既得権益との癒着にもメスを入れている。

 行政の闇にこれほど真っ直ぐに向き合って浄化プロセスを指揮できていることは驚嘆に値します。

 それから日本の行政にはびこる「無謬性の原則」という病理について。「無謬性(むびゅうせい)」とは「失敗しない」「間違えない」ということです。何か施策を決めたり実行したりするとき「失敗することは考えるな」という暗黙のルールがあると言われています。「ミスは許されない」ということです。

 人間はミスを犯すものですから、こんな不自然な規範を押し付けられても困る。実際には失敗もすれば間違いも犯します。「無謬性の原則」があると、失敗したり間違えたりした時、それを認めることができないので隠蔽したりします。言い訳をしたりします。責任を隠したり逃れたり裏工作をして辻褄を合わせます。こういう有害な行動パターンが生じるのです。

 そうすると、ミスを犯すよりもその隠蔽などによって生じる害の方が大きくなります。無責任体制になってしまう一因は、できるはずのない「完璧」を暗黙のうちに自他に要求する不健全な精神文化があることなのです。

 日本人は諸外国の人と比べて間違えることを過度に恐れると言われます。それは「間違えること=自分はダメな人間なんだ」と解釈する癖があるからでしょう。そうすると挑戦することもやめてしまうし、ミスを認めて改善しようという気にもならない。アカウンタビリティーが損なわれる一因がここにあるわけです。

 それに対する処方箋として「維新の会」では「トライ・アンド・エラー」(挑戦して失敗したら失敗したでいい)「エラー・アンド・トライ」(失敗したらまた挑戦したらいい)という考え方を導入することによって、ミスは悪いものではない、ミスは隠さなくていい、ミスを認めてそこから学び改善に繋げることに責任を負うことの方が大事なんだということを教えているわけです。極めて重要な精神的転換ですね。

 日本人の「心の問題」にまで踏み込んだ「新しい行政のあり方」を提示する「維新の会」は、大阪のみならず日本全国に新しいパラダイムを見せてくれています。社会の閉塞感・停滞感を根本的に解消する道のりを示してくれているのです。

 先日テレビに出演している吉村洋文大阪府知事を見て、私がふだん政治家を見た時に感じない「何か」を感じていました。口から発せられる言葉が内なる確信と直結していて嘘がない。誠実さと精悍さが滲み出ていた。政治家の大部分は自分の良心や信念とはズレた現状に幾分かは適応・迎合・妥協し、「それが大人なんだ」という論理でそのバツの悪さを隠蔽しているもので、そのことからくる一種の胡散臭さを漂わせている。つまり既得権益と一体になって甘い汁を吸っているために、清々しさを失っているものなのです。ところが、吉村氏にはそれがない。明治維新の志士のように、故郷を良くすることを真っ直ぐ考え、内に確立された原理原則に忠実でありそれを裏切っていない者だけが持つ「凛とした清涼感」を湛えている。

 重責を
真っ直ぐに受け止めていることが伝わってくる真面目でやや暗めの顔つきに、ヘラヘラ笑う飲んべの権力者には見られない「誠(まこと)」を感じました。「ここに日本の未来あり」「ここに日本の父性あり」と叫んだ私の心には希望が満ちていました。

〜〜7回シリーズ完結〜〜


参考書


橋下徹&三浦瑠璃『停滞する日本社会を動かしていく』⑥

「中央政府」は「地方」への母性的干渉をやめるべき

 「社会」とは一言でいえば「人間関係のあり方」なんですね。「成熟した社会」とは「人間関係のあり方が成熟している」ということで、「未熟な社会」とは「人間関係のあり方が未熟」ということだと言えます。「暴力的な社会」とは「人間関係が暴力的」なのだし、「甘えた社会」とは「人間関係が甘えに根ざしている」ということなわけです。

 そして、ここで私が「人間関係のあり方」と言う時、実は「雇用主と被雇用者の関係性」「官と民の関係性」「中央と地方の関係性」なども含まれます。

 「社会」は「関係性」によって成り立っているのですから、「社会」を理解するには「どのような関係性がそこにあるのか」を見ればいいわけです。

 人々の意識や価値観や理念を理解するにも、「その人(組織)」はどのような関わり方をしているかを見ることになります。

 さて、私は日本という社会が停滞している一因は、日本人の「ベタベタした関係のあり方」にあると思っているわけです。河合隼雄氏の言う「母性社会日本の病理」と基本的に同じだと思います。

 「父性も母性も効いた成熟した健全な人間関係」においては、父性を通して相手の固有性を尊重するので、相手の尊厳を守って何でも口出しすることは控えます。相手の自由を最大限に尊重するわけです。と同時に、厳しく相手の責任であることは相手に責任を求めて、ちゃんとしない時には許さないぞという毅然とした態度も持っています。そして、母性の優しさによって相手のあるがままを受容し、相手が困っている時には共感的に心を繋げることもできる。相手がどんな状態にあっても見捨てず繋がってあげられる。こういう感じです。「成熟した健全な関係性」においては、自立した者同士として尊重し合いつつお互いに必要としているケアは施してあげられます

 「母性が足りずに父性ばかり優勢の人間関係」だと、互いの自立性や責任は追求されるけれど、優しい満たし合いや繋がりが希薄になるので、冷徹で厳しい社会になるわけです。弱肉強食の戦闘的な世の中になります。何でもかんでも訴訟に持っていくような。

 逆に「父性が足りずに母性ばかり優勢の人間関係」だと、母が幼子の世話をするように、何でもかんでも相手のことに口出しをして、相手の事柄の責任を過剰にとってしまいます。「ここからが私の責任で、あっちがあなたの責任」という線引きが父性的社会のようにしっかりなされません。そうするとベタベタと相手の世話焼きをして、「あなたこうした方がいいわよ」とかアドバイスしたり、相手がすべきものを自分が面倒見てやり過ぎたりして、相手の自立性を阻害する干渉的な社会になります

 父性が不足し母性だけで相手と関わると、相手を自立させることができません。いつまでも可愛い我が子として自分の元に置いておこうとするし、絆をずっと保っていたいと思うわけです。子離れしないダメ親といつまでも自立できない依存的な子供との関係のようになってしまいます。訴訟が多く、18歳になったら子供は自動的に親の家から出される「厳しい父性のアメリカ社会」とは違って、日本という社会は「干渉し過ぎてお互いを甘やかしてしまう支配的・依存的社会」なのです。

 日本社会では一方で「これでもかと思うほど過剰な世話焼きをする」反面、「相手が自立したり成長したりするための自由度を許さず、いつまでも相手を支配していようとする」ところがあります。

 「干渉的で子供をダメにする親」の特徴を「官」が「民」に対して持っているし、「中央」が「地方」に対しても持っているのです。

 男性性や父性においては「自分と相手は別」という風に明確に二分します。1つのものを2つに切り分けるというのが男性性の特徴です。例えば、決断するという時、「これは捨てて、あれを取る」という風に取捨選択しますね? あれは線引きして切ることです。なので決断力は男性性から来ます。また、相手を甘やかさず自立させるために冷たく突き放すのも、二分することであり、男性性や父性の特徴です。

 それに対して、女性性や母性は、2つに分けない一体感に根ざしている。母親は自分と赤ちゃんを分けません。一体です。同様に、女性的人間関係・母性的人間関係においては「繋がり」が何よりも重視され、互いの独立性は損なわれる危険を絶えず孕んでいるのです。

 そして、基本的に「母性的社会」である日本では、「責任領域」が明確になっておらず、「過干渉」と「無責任」が絶妙にブレンドした「ベトベトした関係」がスタンダードになっています「相手と自分は同じである」という認識を都合よく用いて、自分の望みを相手に押し付けたり、やりたくないことは相手に丸投げすることがまかり通るのです。

 そうすると、例えば、親子関係においては、母親が子供の進学先や就職先に口を出して世話を焼き過ぎる。子供の借金を肩代わりして救済して甘やかす。子供に責任を取らせず親が決めてしまう。そうかと思うと、子供が必要としている情緒的栄養は与えない。例えば、子供が心の底で本当は何を欲しているのかを共感的に聞こうとはしない。深く子供の個性を理解して尊重しようという態度は欠けている。なので子供の自立性を片方で侵しておいて、過剰なほど不要な世話焼きだけはせっせとするという極めて偏った関係になるわけです。

 「地方分権」がなかなか進まないのは、母性的な「中央政府」が子供(地方)への口出しをやめたくないという病理を抱えているからだと私は分析しています。母親の権限にしがみついているのが中央政府であり中央官庁なのです。子供(地方)が自分の元を離れて自立していくことを許せません

 橋下 僕は八年間、地方自治体の首長をやってきましたし、道州制を導入して、もっともっと地方分権を進めるべきだと考えていますが、よく誤解されるのは、なんでもかんでも地方がすべて自由に決めるべきだとは思っていないんです。僕が考える地方分権とは、目指すべき国の大きな方向性は国会や政府で議論して決める。そしてそれをどのように実現していくかは地方が裁量を持ってやりましょうというのが原則です。地方の目指すべき方向性はもちろん地方で決めます。
 だから国が決めるべき領域と、地方が決めるべき領域の役割分担が最も重要なんです。しかし現状は、地方が決めるべき領域・責任を持つべき領域についても国が全て所管してしまっています。国が一律のルールを決めたり、国が主導権を握ったり。そこが日本全体における役所の仕組みの最大の問題点だと思っています。

 三浦 ビジネスや講演などで日本各地を訪ねて実感するのは、日本と一口に言っても、地方というのは非常に多様だということですね。特に大都市と地方では産業構造も違えば、住民のニーズもまったく違う。それなのに、霞が関は「全国一律」に過剰にこだわりますね。

 橋下 そうなんです。政策実施の具体的細部は、地域にもっとも密着した自治体がその地域の実情にあった形で行うのが最も合理的かつ効率的です。基本方針は経営サイドが考え、具体的な実施は現場が考えるという組織マネジメントの原則と同じです。
 また国があらゆる領域に主導権を握ることの弊害が、たとえば森友学園の問題です。一時期、国会が大紛糾しましたね。最初は安倍さんの関与が問われたのですが、やがて森友学園自体の問題、財務省の文書改竄・隠蔽の問題に移っていきました。もちろん改竄や隠蔽などの不正の問題は徹底追及すべきです。
 しかし、本来、あの問題は地方議会で取り扱うべき問題であり、国会を揺るがす問題ではありません。これは、森友学園に売却された土地を、財務省の地方出先機関である近畿財務局が所管していたから、財務省の問題となり国会の問題になってしまったのです。そもそも小学校の敷地になるような土地を財務省が出張って所管することがおかしくて、あのような土地は大阪府か関西広域連合が所管すればいいんです。その方が、地域の実情に合わせた活用を迅速・効率よくできます。そして何かあれば、国会ではなく地方議会で議論すればいい。国が主導権を握ってしまったがゆえの弊害の典型例です。

役所が市場をゆがめている

三浦 分権が進んでいるアメリカでは、連邦政府と州政府との役割分担がしっかりなされていますね。もちろん価値観が極端に保守的な州に住むマイノリティや弱者が不利益を受けるなどの弊害もありますが、行政サービスに関しては州政府や地元の自治体が責任を負う形は正しいと思いますよ。スウェーデンの福祉政策なんかはその最たるものです。最小単位の自治体(コミューン)が住民の介護と医療の連係に責任を持つわけですから。

橋下 日本でも国・中央政府の仕事をしっかりと絞り込むべきです。資源のない島国日本は、ことさら外交・安全保障が重要で、首相を中心とする中央政府は特にそこに力を入れ、国会も外交安全保障論議に力を入れるべきです。その他の医療・教育・福祉などの内政問題は基本的には地方の役割とすべきです。そうすることによって国・中央政府は強くなります。
 ところが、国会議員や中央省庁の役人たちの多くは、あらゆる仕事をぜんぶ自分たちでやりたい、主導権を握りたいと思いがちなんですよ。仕事が自分たちの手から離れて地方に行くということは、権限も離れていってしまうことになる。それは自分の権力の低下と考えてしまうんでしょうね。

三浦 それは、政治家や役人は本質的に新しい価値を生む仕事ではないからでしょうね。民間は生産し、流通させることで価値を生んでいきますが、政治家、役人の仕事は外交を除けば、富を分配したり、規制を作ったりすることに限られます。すると、新しく生まれた価値の量ではなく、縄張り=権限の広さが成功の指標になってしまっている。だから一度握った仕事を委譲できないのでしょう。役人はしばしば市場を歪めているのですが、その自覚に欠けています。

橋下 結局、政治家や役人たちは、自分が権限を持っているというところが充実感になってしまうんでしょう。

         橋下徹・三浦瑠璃共著『政治を選ぶ力』pp. 218-221
                            (太字は菅波)

 日本社会の閉塞感・停滞感の大きな要因の1つが、「過干渉で母性病理的な役人気質」であり「役人が執着している統治利権」と「それと一体化して一向に改革しようとしない父性欠如の政治家」だと思います。

 そうすると、この国の根幹の権力構造が病んでいるので、閉塞病・停滞病を治療するには、利権にしがみつく中央官庁と地方の歪んだ母子関係にメスを入れられるだけの極めて男性的・父性的な政治リーダーが必要なわけです。確かな理念と情熱と勇気で果敢に改革を推進していく「超男性的・超父性的なリーダー」がいなくては実現しません。

 本来は国会議員が率先してこのような改革を推し進めていかねばならない。病理を抱えているのは親(中央政府と中央官庁)なので、親が変わってくれれば話は早い。ところが、国会議員たちがだらしないので一向に進まない。それなら子供(地方)から親離れをして改革を進めていこうではないかという動きがあります。

 国に変わるのを期待してもダメだこりゃと。我々子供から変わっていって、国全体にまで波及させていこうと。そうやって母性病理的な自治体を確実に前進させているのが大阪の維新ムーブメントです。

 ということで、私は大阪府市の改革運動に注目し、応援し、大きな期待をしています。「社会を変えていこう」という大阪府民・大阪市民の熱量と男気あるリーダーシップを高く評価しているとともに、日本全体を変えていくための劇薬になって欲しいと密かに思っているのです。

 ということで、⑦では「大阪維新の会」と「大阪都構想」を論じます。


参考書


橋下徹&三浦瑠璃『停滞する日本社会を動かしていく』⑤

「自由と安心の保障」によって「流動性のある社会」にする

 人間には2つの正反対の欲求があります。1つは「安心したい」という安定指向。そして、もう1つは「自由でありたい」という自由指向。

 政府が国民を保護しようとして様々な規制をかけると、安定はしても動かない現状に縛られて不自由なまま。なので、あまり規制をかけず市場原理に委ねるところは委ねるべき。そうすると、雇用環境が流動化するので人の移動がしやすくなり自由が増す。自由度が高まると膠着状態ではなくなります。

 国民の自由への保障が上がったら、今度は自由な動きによって貧困に陥った者をケアするセイフティーネットが拡充されなくてはなりません。流動性の高いダイナミックな社会を作るには、結局、人々の移動の自由を保証し、解雇や再就職・再チャレンジのしやすい社会にし、その代わり自由競争や再チャレンジで失敗した人たちが安心できる最低限の保障はしっかり施すという方法が必要なわけです。

 ところが、安倍政権は労働者を守るために「官」を使って保護する方向ばかり行っている。「安定」を重視して「自由」を大事にしていない。そうすると人々は「不自由」なままなんです。これが停滞感・閉塞感の一因だと考えられます。

 橋下 さらに雇用問題を官が解決していく方向性を採るのか、マーケットが解決していく方向性を採るのかの政治の分かれ道は、雇用の流動性についての考え方によって決まってきます。安倍政権は「働き方改革」を強く打ち出していますが、日本の雇用問題は官が解決するという方向性の政治です。ゆえに賃金上昇も残業規制をはじめとする労働環境改善も、基本的には官が規制を用いて主導していく政治です。そうであれば、安倍政権とは異なる方向性としては、マーケットを重視するというものだと思います。
 雇用の流動性がないということは、社員が逃げないということと同義です。社員が半ば奴隷状態になることであって、会社にとってこんな好都合はありません。それが低賃金、長時間労働などの劣悪な労働環境につながっています。これには労働組合にも責任があって、本来は雇用主側に対して、そんな労働条件だったら社員に逃げられるかもしれないぞ! というプレッシャーをかけるべきなのに、クビを切られることを極度に怖がっているために、ひたすら解雇を止めることに終始し、結局雇用の流動性が高まらず、社員が転職できる環境を整えることができなかった。企業が良い人材をどんどん採用できるためには、解雇できる環境も必要なんです。

 三浦 日本では、転職に対して極度に否定的な意見が多いんですよ。降格とか待遇の悪いところにいくというイメージが強い。だから、以前討論番組で、米国の女性は転職を重ねてキャリアパスを築いているという話をした時に、ああ、女性は転職させられているんだ、という感じで忌避感は強かったですね。しかし、むしろ、転職は被雇用者の方が機会を有利に使えるんです。女性が会社での昇進を望んで得られないとき、転職は有効な手段だからです。いまの会社で、上に男性社員たちがつまっているとき、別の会社で空いているポストを捜すほうが早い場合もある。いなくなってしまうと思えば昇進させる。
 逆に雇用した側も、流動性の高い人材はマイナスではないんです。「あなたには、部長のポストでオファーしたけれど、期待には満たないから、次は契約できません」と解雇することもできる

(中略)

とはいえ、いまの日本では労働市場の流動性を促進するのは、そんなに簡単ではありません。社会保障は大幅に企業に委ねられているし、労働者に十分なケアがなされているとは言いがたいからです。
 まず、重要になってくるのは人事評価のあり方の見直しです。労働者の権利を守るためには、異議申し立ての権利を考えても良いかもしれない。たとえば、オーストラリアは労働組合が強いので、人事評価に意義があるときは第三者が入ってチェックすることができる。これは企業に不利であるようにも思えますが、逆に言えば、第三者のチェックを受ければ、指名解雇が可能になるわけです。
 その意味でこれからの日本で重要なのは、流動化を前提とした上で、解雇された人のケアの制度を整えることでしょう。自民党の大罪は、人材を流動化させなかったことと、業績の悪化した企業や産業を保護して廃業をさせないことでした。これによって生産性が改善しなかったわけです。さらに政府のやってきた社会福祉は高齢者福祉が中心で、労働者の福利厚生、子育て支援体制などの福祉は民間企業に丸投げしてきたといっていい。だからこそ大企業と中小企業では労働者の福祉に大幅な差が開いてしまうのです。それでは、もう立ち行かなくなってきています。

(中略)

橋下 (中略)
解雇を規制し一見労働者を守っているように思えても、実は労働者を半ば奴隷状態にしてしまう。そこで官が主導して労働問題を解決していかなければならない政治の方向性に対して、解雇された者をきっちりサポートすることを前提に解雇をある程度認めて雇用の流動性を高め、労働問題はマーケットが主導して解決していくことを目指す政治の方向性。僕は後者を支持しています。

         橋下徹・三浦瑠璃共著『政治を選ぶ力』pp. 73-77
                            (太字は菅波)

 日本人は「変わらず一箇所にい続けられる」ということが生活の保障であるという固定観念が強過ぎます。変化を忌み嫌い、できるだけ変化の起こらないようにと物事を持っていく。だから停滞する。

 国(政府+官)が国民(民間)に対して「間違った過保護」を与え「自由と成長」を邪魔している。そして、「本当に必要な保護」への責任は取らず民間に丸投げしている。国を親、国民を子供とするならば、子育ての仕方を誤っているダメ親ですね。良かれと思って子供を縛りつけているから、子供は自由に動き回れない。そして成長できない。そういう環境を作っているのは日本政治の大罪なのです。

 流動性の高い自由で活発な社会にするには、労働環境をもっと自由化し、官の規制を弱める。解雇も再就職もしやすくする。そしてキャンペーンを張って「職場を変わることは恥ずかしいことではなくキャリアアップだ」というメンタリティーを定着させるべく国が発信していく。と同時に、これまで民間に丸投げしてきた労働者の福利厚生を官がもっと責任をとって充実させる。そうすると、国民は安心してもっと満足のいく労働環境を求めてあちこちに移動するし、新しいことにチャレンジしていける。どこで働こうが最低限の福祉が保障されている安心感があれば、ダイナミックに変わっていこうと思える。奴隷状態から解き放たれて、自由にいい条件の場所へと移動していける。これがこれからの日本にとって必要な環境だと思います。

 それには「官主導の労働環境整備」ではなく「マーケット主導の労働環境整備」に主軸をシフトすることが肝心です。

 親が要らない口出しをして子供を縛るのをやめ、子供の自由と成長のためにもっと信頼して任せるべきところは任せるということですね(笑)。親(官)が子供への支配欲をちょっと削らねばなりません。高度成長期のように官主導で国民を引っ張っていた快感が忘れられないのかもしれませんが、子供は成長してもう自立できる年齢になりました。官にはもうそろそろ子離れをしていただかなくてはなりません(笑)。親に縛られている青年のように国民の精神は停滞していますから。

 ⑥につづく。


参考書


橋下徹&三浦瑠璃『停滞する日本社会を動かしていく』④

安倍与党のプラスとマイナスを公平に評価する

 感情的に与党か野党の味方をして、相手をとにかく批判するというやり方を私は好みません。対立は国全体の利益のための弁証法的統合のためにあるものと理解すべき、というのが私の考えです。与党のいいところを認めない野党を私は信頼しませんし、与党の問題点に対する積極的・能動的・創造的な代案や代替理念を出せない野党も信頼できません。

 念のため言っておきますが、私は基本的に自民党支持者でも保守でもないのですが、安倍政権のある部分については一定の評価をしています。また、私は基本的にリベラルなのですが、現在の日本のリベラル勢力にはかなり幻滅しており、行動力のある保守にとにかく社会改革を進めてもらいたいという期待さえしている人間です。

 保守とリベラルには共に成熟してもらいたいと思っています。なぜなら、それが国全体のために必要だからです。そういう思いから、双方がこなすべき課題を炙り出すために、ひとまず現政権の功罪を公平な目で見てみましょう。

 本書では、安倍政権のプラスとして、①政権の安定性、②外交・安全保障と憲法(自衛隊の公的認知)に関する方向性の正しさ(積極的平和主義による国際社会での存在感の増大)、③多々問題はあるにせよ低い失業率を実現した経済政策、④「戦後70年談話」による左右の歩み寄りが挙げられています。

 公文書隠蔽の問題や公的権力乱用の問題があっても、外交と安全保障で安倍政権に太刀打ちできる野党党首が今のところいません。アメリカ・ロシア・中国・北朝鮮などのしたたかな国家指導者と対峙し、一定の存在感を発揮している安倍首相を国民の約半数は支持しているのであり、それはある意味では当然なのでしょう。

 歴史認識問題で最初かなりナショナリズムの匂いが強かった安倍氏ですが、将来の日本人がずっと中国や韓国に謝り続けなくてはならない状況だけは避けたいという保守の気持ちを叶えるとともに、軍の否定的部分についてはきちんと謝罪すべきというリベラルにも歩み寄り、双方が納得できるところに落とし込めることができたのは私も評価します。三浦氏は、この左右の妥協は、右派の安倍氏だからこそできたと述べています。左派のリーダーなら右派を納得させる談話にはできず、左派だけの論理で進めていたでしょうから。

 さて、安倍政権を褒めた後は、今度は欠点・問題点に注目します。

 本書で挙げられている安倍政権のマイナス評価は以下の通りです。①生産性を高めるための構造改革に踏み込めていない、②人材の流動化(解雇や再就職のしやすい環境の整備)に失敗している、③業績の悪化した企業や産業を保護して廃業させない、④自分たちの都合でゴールをコロコロ変える、⑤矛盾する政策を同時に取ることで効果を相殺している(業界に賃金上昇を訴えながら、安い外国人労働を増やすなど)、⑥社会保険改革に手つかず、⑦官による需給調整を許しているため、官に影響を与えられる政治家の「口利き」が横行する(加計学園問題など)、⑧中央官庁への権限集中の構造に切り込めていない、⑨子育てしながら働く女性のための環境整備が進んでいない、などとなっています。

 これらの点を踏まえて、三浦氏は安倍首相を「アンシャン・レジーム(古い秩序)の代表」と評し、社会構造を根本的に維持したまま小さな改革をあちらこちらでするだけの「アイデンティティー・ポリティックス」と「ガス抜き」の政治家だと評しているわけです。そして、このままの安倍自民党では「動く政治」は実現しないとし、「動く政治」を担える人材への期待で本書は締めくくられています

 (三浦氏の「おわりに」から)人々の関心は冷戦時代のイデオロギーには向かず、あちらこちらを向いて多様化しています。非正規雇用の人びとが増え、女性の生き方も多様化し、労働組合は多くの労働者の利益を代弁できていません。そして、成熟し年老いた日本社会には閉塞感が漂っています。
 既存のシステムは制度疲労を起こしている。それにもかかわらず、旧い秩序(アンシャン・レジーム)は頑固に残っており、びくともしないように見える。ただでもグローバル化によって政策の選択肢の幅が狭まっているところ、抜本的改革をしようとしても、物事はまるで前に進まない。結果として、乱暴な言い方をすれば、世の中にある大きな課題の九割方はもはや動かなくなっているのです。
 アベノミクスで金融政策を振り切り、財政政策にもあらかじめ限界があるなかで、現状でほかにできることはもはやほとんどありません。結果、日本の政治社会はかつてないほどにまで膠着化しています。物事が動かせなくなったとき、何が起こるか。社会は内向きになり、アイデンティティ・ポリティクスが登場します。大きい論点が表出しづらい結果として、小さい情緒的な分かりやすいテーマに社会の関心が惹きつけられるからです。皆さんがTVなどで目にする小さな社会的な事件、それらがここまで話題となり、SNSで議論となって噴出するそもそもの理由は、社会の膠着化にあるのです。これは他の先進国にも言えることで、日本独自の問題とは言えません。
 閉塞感が極大化し、それがマグマのように溜まっている状態。それが続くと、「動かす」ことへの期待が高まります。閉塞感を打破してくれるかもしれない、九割の物事の方を動かしてくれるかもしれないという期待です。もうお分かりのように、この社会の膠着化に対する抗いが橋下徹という政治家であったわけです。そして、彼を支持した人々は閉塞感の打破に期待を込めたのだといえます。

(中略)

当時から、橋下さんが代表する運動は「ポピュリズム」ではなくて、「ムラ社会の閉塞感の打破」だと私は分析していたからです。二〇一九年四月の統一地方選と大阪府市の首長ダブル選挙で維新が躍進したのも、日本社会が相変わらず膠着化しており、閉塞感の打破に向けた人びとの期待が消えていないからです。ただひとつ、話すうちに確信を深めたことがあります。それは、橋下さんが意識的にせよ、無意識にせよ、こうした時代の流れを的確に読み取っているということ、そして、彼がアンシャン・レジームの破壊と閉塞感の打破の側に相変わらず存在しているということです。では、こうした立場と安倍政権との違いはいったい何なのか、と問う人もいるでしょう。両者を自由競争や保守イデオロギー、政治手法などで一括りにして論じる人は少なくありません。安倍さんは強引だとか、特定の価値観へ導こうとする傾向が強すぎるといった批判をする人に象徴されるように。
 確かに、
安倍さんは『美しい国へ』で示したようなアイデンティティ・ポリティクスを展開しています。しかし、同時にアンシャン・レジームの代表でもあるのです。だからこそ、手堅い政策は展開するけれども、社会の閉塞感は消えません。安倍さんはスタンダード化した「普通の国」論で示されたプラグマティズムをうまく継承しつつ、彼なりの「美しい国」論のような心象風景を交えた政治を行っているのだと私は見ています。
 そうしてみると、
安倍政権はアンシャン・レジームの枠内で行動しています。強い官邸とそれを生み出した小選挙区制度は現在批判にさらされています。とりわけ、ポピュリズム的なものを嫌う知識人のなかに、そうした批判が多い。しかし、他の先進諸国で吹き荒れているような、全て「ガラガラポン」することを訴える勢力から日本を守っているのは、まさに小選挙区制度なのです。先ほど述べたように、国の政策選択肢の幅が狭まり、政策課題をめぐる政党の立場がどんどん真ん中に寄らざるを得ない状況下では、一党優位の国は、むしろ中道の政策を取りやすい。つまり、日本が他の国に比べて安定しつつも閉塞感が漂っているのは、まさにアンシャン・レジームがまだまだ見かけ上は強いからなのです。その意味では安倍政権の用いるポピュリズム的手法は既存の秩序の中でのガス抜き効果しかありません
 現在、アンシャン・レジームを揺り動かすほどの勢力は政界には見当たりません。野党が与党と競い、改革と刷新をもたらすべく頑張るべきだ、というのは正論ですが、現在の日本における最大野党はかつてないほど小さくなっています。それは、野党が相変わらずイデオロギーの政治をやっているからではないかと私は思っています。

(中略)

 「普通の国」は実態としてほぼ実現しています。ただ、憲法を筆頭に日本の「建前」が引き続き存在しているがために、実状は掘り崩されていても論点が残存している。その残存している論点に引きずられて、日本の野党はいまだ戦うべきフィールドの足場を固められないでいます
 では、自民党内部からの改革は期待できるのでしょうか。平成という時代は、日本政治においては保守勢力による改革が繰り返された時代だったのであり、政治闘争と改革が互いを巻き込みながら展開した時代でした。しかし、保守が内部分裂を繰り返して改革を担う時代も、おそらく長続きはしないだろうと私は考えています。小選挙区制が定着し、一度政権交代を経験した今、自民党に自ら割れるインセンティブは存在しないからです。自民党内に政治闘争のダイナミズムが欠ければ、改革が停滞することは必然です。今の私たちが生きているのはそんな時代なのです。
 権力闘争が欠けているときには、人はリーダーに背を向け、攻撃します。飽きたから、という理由で権力の交代を望むようになります。けれども、単に権力を交代しても問題が解決するとは限らないのです。短命政権が続いた時代、日本は外交力も弱く、政治決断もできず、安定しませんでした。有為な政権交代勢力が存在しない中でリーダーをすげ替えることには国民自身消極的でしょう。
 したがって、今必要なのは健全なやり方で閉塞感を打破することです。保守の中の改革勢力にせよ、野党にせよ、あるいは新たな第三極であるにせよ考えなければいけないことは、九割とは言わないまでも、二、三割をどう動かすかという政治でしか、アンシャン・レジームは揺り動かせないということです。
 本書で私たちが提言したいことは、小さなことに次々と感情的に反応したり、自信回復を求めてさまよう無限ループから脱することです。ナショナリズムの発露を求めて反米から反中に情緒的に移行しても、意味はない。国際貢献をめぐる論点も、金融政策をめぐる論点も、普通の国を前提とする限り、そこまで幅のある政策選択肢があるわけではありません。むしろ、そこが論点であり続ける限りは過去の日本にとどまっているのだという言い方ができるでしょう。先進国並みのアイデンティティ・ポリティクスを展開し、社会を分断させることも、また本質的には望ましい方向ではありません。アイデンティティには閉塞感から目を背けさせる効果しかないからです。
 日本の閉塞感に対応する政治の選択は二つしかありません。実利に基づく「動く政治」か、アイデンティティ・ポリティクスで閉塞感の「ガス抜き」をする道かということです。

        橋下徹・三浦瑠璃共著『政治を選ぶ力』pp. 249-255 
                            (太字は菅波)

 安倍自民党は旧体制側の存在であり、「ガス抜き」程度の動きはできても抜本的改革はできないしする気もない。しかし、外交と安全保障と憲法において現実的路線を取れて、かつある程度の実力を発揮できるのは今のところ自民党しかない。なのでこのままだと日本政治は閉塞感を打破できない。

 野党側への批判として「いまだにイデオロギー政治をやっている」「掘り崩されている過去の問題についてまだ論争している」というものが挙げられています。

 三浦・橋本両氏の立場はともに「憲法改正と自衛隊の正式な認知」であり、「日米同盟の堅持」でしょう。私もそれが唯一の現実的解決だと思います。左派の中にはいまだにこの2点について非現実的な目標を掲げる勢力がある。その限りにおいて、彼らが政権奪取できる可能性はないでしょう。

「右派」と「左派」の幻想をともに乗り越える

 右にも左にも極端な人がおり、いずれも「幻想」に冒されてきました。右翼は第二次大戦の軍部の動きを正当化し続け、バランスのとれた反省を拒んできた。彼らの歪んだ愛国心が左派の人々に拒絶反応を起こさせてきた。他方、左翼は戦争体験の苦しみから反戦感情に振り子を完全に揺らし、絶対的平和への希求から非武装中立や日米同盟脱退といった非現実的な妄想に駆り立てられてきた。左翼の幻想は現実的な保守の人々に拒絶反応を起こさせてきた。右にも左にもこのような未熟な幻想があったのです。

 日本人が集合的に成熟した意識を醸成していくには、国に対する健全な自尊心を持つことと、過去のミスはミスとして真っ直ぐに反省しつつも、トラウマ反応に支配されずバランスのとれた現実的態度を取れることが重要だと思います。

 日本人は敗戦体験に対して2つの極端な反応を起こして国を二分してきました。1つは右翼に代表される「我々のやったことは何も間違っていなかった」という正当化による「愛国的自己イメージの防御」という病理、そしてもう1つは左翼に代表される「我々のやったことはすべて間違っていた」という極端な反省による自衛隊の否定と武力認知への不信です。

 成熟した日本人は、中国や韓国などの被害感情に共感を示す優しさを持つと同時に、戦後守ってきた平和主義に自信を持ちながら立場を主張していけばよいのだし、侵略戦争には二度と参加しないという誓いを大事にしつつ、時には命を懸けて防衛のために武力行使もできるという常識的な枠組みに戻さなくてはならない。暴力的な国々に囲まれた我が国の実情に対して現実路線を取れなくては、単なる未熟な引き篭もり国でしかない。

 軍国主義の全肯定にこだわるのも愚かなら、武力を持つこと自体がダメなんだという病的平和主義も愚かなのです。

 靖国問題に対して本書では現実的な解決法が提案されています。それは「靖国神社を国の管理下に置き、A級戦犯を分祀する」というものです。

 「A級戦犯の合祀」に何も問題ない、他国からの批判は内政干渉であるとする右派の立場には賛成できません。自分が中国や韓国の立場なら嫌な思いをすると分かるからです。彼らの否定的反応は人間として当然であり配慮しなくてはならないのです。「A級戦犯だと決めたのは連合国の論理だから日本としてはそれに沿う必要はない」などという右派の極論は世界的には通用しないし現実的ではない。こういうところに右派の幻想が見られます。天皇家が靖国神社に祀られている戦没者を見舞えないのは当たり前であり、天皇家の姿勢の方がよほどバランスがいいのです。

 靖国神社に多くの戦没者が祀られていることを考えると、遠慮なく誰でも参拝できる形に持っていくことが国としては望ましいと考えます。そのためにはやはり「A級戦犯の分祀」しか方法はありません。これを拒んでいる限り、解決に至ることは不可能だと悟るべきです。

 左にも右にも偏らず、公平な目で問題を考えて解決を図れば、この問題はいくらでも解決がつきます。すでに解決策は存在します。後はそれに向けて動けるかどうかだけなのです。

「トラウマ反応」や「幻想」に支配される程度に応じて人間は停滞する

 個人も社会も、心理的問題が解けずに滞るのは、現実をまっすぐに見ることができなくなるような「トラウマからくる不安や極端な思考」がある時だと言えます。

 右派は敗戦によって傷つけられた自己アイデンティティーを虚勢によって守ろうとし過ぎた。左派は敗戦によって過去の自己を完全に否定した時に、現実的な日米同盟や武力所有まで「排除すべき悪」とし過ぎてしまった。いずれもバランスを欠いた未熟な反応だったのであり、これら2つの勢力はお互いのトラウマ感情を刺激し合い、互いを恐怖し互いを嫌悪し、頑なに自分側を守ってきた。この神経症的な分断が、日本人の成熟をこれまで阻害してきたと私は考えています。

 あらゆる個人的問題を解く際に鍵となることは、概念に囚われず目の前の現実に直面して問題をきちんと解決することによって成長が起こるという原則です。

 「イデオロギー」や「アイデンティティー」に重点を置くと、現実にバランスのよい対応ができなくなってしまう。そして、問題は未解決のまま蓄積するだけ。つまり効力がない生き方になってしまう。

 そうではなくて、極めて現実主義的に、目指せる理想を明確に掲げて少しでも変えられるものを変えていくことにエネルギーを集中させる。そうやって、確実に一歩一歩社会を改善させていくことはこらからも可能ではないかと思っています。

 「ガス抜き」に逃げることなく、根本的に物事に対峙していくという姿勢を私個人も持ち続けたいと思いますし、同胞の皆さんにもお勧めし、共に少しでも日本社会を動かしていきましょう、と言いたい気持ちです。

 ⑤につづく。



参考書


橋下徹&三浦瑠璃『停滞する日本社会を動かしていく』③

社会を停滞させているのは "雄叫び派” と "きれいごと派"

 橋下氏は政治家を3種類に分類しています。① "雄叫び派”、② "きれいごと派”、③ "腹黒派” です。

 橋下 日米同盟の話を離れて、今の日本の政治家の外交姿勢一般を見ると、"雄叫び派” が多すぎると思う。とにかく威勢のいいことをワンワン言うだけで、課題を解決しようとする知恵と工夫がまったくない。特にネットの中では、威勢のイイ発言は拍手喝采になりますからね。雄叫び派の政治家は、与野党問わず超党派でかなりの数、存在しますね。彼ら彼女らは、何年も叫び続けるだけで、事態は何も動かせないというのが特徴です。パフォーマンスというかファッションというか、「相手に強い姿勢で臨んでいるぞ!」とポーズをとるだけ。本気で事態を動かして、問題を解決しようという覚悟はありません。もう一方は、とにかく世界から良く思われたいだけで、自己主張はなく、儀礼的なきれいごとばかりの "きれいごと派" 。こちらも課題は何も解決できません。インテリとして評価されることに至福の喜びを感じるのが特徴です。こちらも与野党を超えてかなりの数、存在し、さらにインテリたちにはウケがいい。

 三浦 その二つは、外交姿勢というより、ほとんど鎖国マインドの "引きこもり派” ですね。

 橋下 だから僕はもう一つの方向性として、"腹黒派" で行くべきだと考えています。知恵と工夫と、それからちょっとずる賢さも加えて立ち回る。たとえば ODA なども、表向きは支援なんだけど、現地ではきっちりと恩着せがましく、日本が支援していることを強烈にアピールする。親善交流といいながら、商売をしっかりと行って実利を得る、などね。

 三浦 (中略)口ではきれいごとを言って見せて、時にはメチャクチャ恩着せがましく、しかも狡猾にやるというのが、本来の先進国がとってきたやり方でした。ここで重要なのは、偽善であっても善に対する共通理解があるという状態ですね。腹黒さは必要ですが、偽善を捨てると善まで捨ててしまうことになりかねない。(中略)ブランド力を高めるためには、ずる賢くならないといけませんね。ナイーブにやったうえで後から怒る、あるいは国際社会に嫌気がさして閉じこもってしまうようではいけません。

        橋下徹・三浦瑠璃共著『政治を選ぶ力』pp. 147-149
 
                            (太字は菅波)

 政治家に限らず、国民にも大きく分けて3種類いると思います。"きれいごと派” というのは現行秩序の中で敵を作らず皆に好かれていたい「迎合型」「風見鶏型」で、協調性や同調圧力に馴染んでいるだけの人です。現行の権力者にすり寄っているので、改革する気は最初からありません。「いい人でいたい」という感じの人です。

 桜田元大臣などは典型じゃないでしょうか。実力のないただの「いいおじさん」のようなしょーもない人材です。発言の背後に何かしっかりとした信念があるわけではありません。協調性だけで生きてきたんだろうなあと思わせるような人。日本の組織ではイエスマンとして支配的な人に好かれたりするんですよね。それで重宝され昇進させてもらえるので高い地位についてしまう。日本型組織の病理です。

 それに対して "雄叫び派" は、現行秩序に声高に反対を述べる人なんですが、未熟なティーネイジャーのように「威勢よく反抗しているだけ」で、現実的な改革を着実に達成していくだけの覚悟や知恵や用意周到さがない。だから、結局は信頼されない。今の野党の多くがそうです。与党をこっぴどく批判するだけで、国民の評価を得られるような代案を出せない。与党に対抗できるだけの政治パワーを集結できない。「批判する」ことはある程度の判断能力のある人なら誰でもできます。けれど、批判する相手より自分がもっといい行動ができるのか、それだけの覚悟と能力があるのかを問わねばなりません。そして、より優れた案があると思うならそれを出して、国民の審判を仰がねばならない。

 橋下氏が言う "腹黒派" という言葉はちょっと汚い感じですが、要するに "きれいごと派” と違って嫌われること覚悟で達成したい改革理念がちゃんとあるということと、"雄叫び派” と違って有効な代替案と理想に向かっていけるだけの熱量と実行力が伴っているということですね。そして実利のために妥協せず動くということです。

 この "腹黒派” だけが「動く政治」を担えるのであって、社会を変えていける(=日本の閉塞感を打破できる)のだという橋下氏の意見に私も賛同します。

 カウンセリングをしていますと、様々な人の悩みの解決をお手伝いするわけですが、「お人好し("きれいごと派")」と「自分に向き合わない他罰的な責任転嫁者("雄叫び派”)」はどうしても自分の悩みを解決できませんね。政治家とまったく一緒です。

 「お人好し」の相談者は、誰にも嫌われたくないし、自分を害してくる夫や上司や姑との関係を断つことも改善を求めて対決することもできない。だから事態が前進しないんです。また、「責任転嫁者」は相手の文句ばかり言う。立派な愚痴は言う。そして自分の未熟さに向き合おうとしない。だから一向に自分の人生の行き詰まりから自由になれない。

 カウンセリングで成果を出して人生を大きく前進させることのできる相談者とは、とにかく「自分を変えるんだ」という覚悟ができている人ですね。他人のせいにせず、自分の心理的課題に直面する恐怖を乗り越えて「これをこなすんだ」と決断し、まっすぐに向き合える人ですね。悩みを解くというのはある意味で「自己改革」だと言えます。「変わりたくない」「このままでいる方が楽だし安心」という現状維持を望む気持ちが勝っていると、変革に向かう動機が足りない。だから変われない。まあ、政治の世界と個人の世界はまったく同じなわけです。

 ④につづく。



参考書


橋下徹&三浦瑠璃『停滞する日本社会を動かしていく』②

政府と国民の関係を「親と子の関係」として見る

 これは私独自の視点ですが、政府と国民の関係はいろんな意味で「親と子の関係」に酷似していると普段から思ってきました。

 そして、日本人は一般的に政府によって手厚く保護されることを当然の権利であるかのように思っている。そして、政治家は政党の違いを超えて、全員が全員、「私らの方が皆さんを手厚く保護いたしますよ」と売り込んでいるように見えます。つまり、日本政府を親に例えるなら、かなり過保護な親であり、国民を子に例えるなら、かなり甘えた子なんです(笑)。

 日本の政治の世界というのは、右派・左派に関わらず「誰が最もよく国民を保護できるか」を競い合っている

 国民の自立を促し政府はできる限り個人の生活に立ち入らないことをよしとするアメリカの右派のような「厳しい政府論」を日本で耳にすることはありません。

 さて、私がカウンセリングするような相談者の親子関係には、機能不全のものが結構多い。不健全な親の特徴は、親がすべきことをやらず(無責任)、親が口を出すべきでないことに口を出す(過干渉)ということです。

 例えば、子供の気持ちなど内面に対して寄り添う共感が足りない。子供を理解してやるという親の責任は果たしていない。加えて、進学や就職や結婚など子供が自分で決めるべきことに親が口を出して支配しようとする。世話を焼き過ぎているかと思うと、子供が本当に必要としている情緒的愛情は乏しい。

 健全な親はこれとは逆で、子供の意思に任せておくべきところは口を出さない。子供の自由意志を最大限に尊重する。加えて、子供がマイナス感情で苦しんでいる時には聞き手に回って十分に聞いてやる。共感的愛を示すことで心の絆を保持できる。

 「境界線」という観点から健全な親子関係を考えれば、健全な親は超えるべきでない一線は超えないで子供を見守れる。と同時に、親にしかできないことはちゃんとやる。他方、不健全な親子関係では、親が平気で子供の事柄に土足で入り込む。そうかと思えば、子供を深く理解してやれていない。

 さて、日本政府の国民への態度の中に、不健全な親子関係の特徴である「曖昧な境界線」が見られます。

 (三浦:)日本に限らずですが、よく政治家が軽々に口にすることとして、労働への分配率を政府が差配して変えられるような幻想があります。しかし、グローバル経済と接合して生きていく以上、そもそも各国政府にはそこまで大きな裁量の余地は残されていないということを深く自覚すべきです。そのうえで、最低賃金を上げたり、労働者の権利を守ったり、あるいは税と社会福祉を通じて分配をするのが国家の役割です。分配は企業の役割ではなく国家の役割である、ということを自覚しなければ、労働者の待遇改善は絵に描いた餅にすぎないし、自らの主張する政策のもたらす負の効果を軽視することに繋がる。
 もちろん企業が直接労働者へいくら分配したのかという総雇用者報酬は、有権者の関心に直結している部分だから、政治的メッセージとしては重要です。しかし、総雇用者報酬が上がらないのはいくつかの理由があります。まず、最低賃金が低い。それに日本には「専業主婦のパート」という特異な調整弁が存在し、低い賃金を支えています。また、人材を安くしか雇えない競争力の低い企業を倒産させないために、政治が様々な介入を行っており、最低賃金を引き上げようとしていない。そもそも論として、日本に成長産業が少なく、全体として成長できていないために、総雇用者報酬も上がらない。輸出産業は競争力があっても、輸出産業が全産業に占める割合は決して高くありませんし、そもそも内需型産業の方に労働者の多くの部分が存在しているからです。
 安倍政権が本気で低生産性問題の解決に乗り出そうと思うのならば、自民党の支持基盤を割るような大胆な施策が必要になります。それは専業主婦が当たり前、家族が介護や育児を担うことが当たり前とする価値観を変えることであり、生産性の低い企業が潰れると困るという考え方を変えることです。人材を流動化させ、労働者に対する最終的な責任を企業に負わせるのではなく、政府が社会福祉を担い拡充させるべきという考え方をとることです。
 総雇用者報酬が政治課題になることの最終的な問題点は、私企業に対して、政府が労働者への分配率まで介入する必要があるのかということですね。本来ならば、企業からしっかり税金を取って、富の再分配は国が行えばいい。日本の格差は主にどの企業に就職しているかの格差であり、企業社会保障の格差が人々の社会福祉の格差につながっているわけです。政府がやるべき分配をなかなかせず、介入してはならない所に介入しているというのが日本政治の問題点なのです。

         橋下徹・三浦瑠璃共著『政治を選ぶ力』pp. 64-66 
                            (太字は菅波)

 分配や福祉は国にしかできないことですから、きちんと責任を果たしてもらわなくてはならない。と同時に、競争力のない企業を倒産させないために様々な介入をするというのは過干渉です。もっと市場に任せなくてはならない。まさに「無責任」と「過干渉」のセットなのです。

 では、どうして政府は「未熟な親」のような振る舞いをするのか? それは人間の「未熟な親」と同じ動機からだと思います。親自身が自立していないので、子供との関係において言うことを聞かせられるパワーを持っていたいというのが1つ。そして、子供に嫌われることが怖いんです。

 倒産しかかっている弱小企業が政府に「助けてください」と言ってきたら、政府は未熟だから助けてしまう。助けなかったら次の選挙で一票がもらえないでしょう? だからいい顔をするのですよ。つまり「いい人」でいたいわけです。成熟して健全な自信のある人は、厳しい施策を行って嫌われても、それが国のためになるという信念があれば耐えられます。けれども、未熟で自信がない人が票欲しさにいい顔をすると、こういう救うべきでない人を切れないのです。

 自尊心の低い親は、例えば、息子の一人がダメ息子で借金で首が回らなくなったら、代わりに借金を立て替えてやる。懲りずにまた借金するとまた救ってやる。健全な親はこんなことしません。甘やかしません。けれど、救わずにはいられない親というのは、この息子に嫌われるのも怖いし、借金で破産した息子がいるなどという世間の評判が出ることも怖いんです。だから、救うべきでない息子を救ってダメにしてしまう。

 ダメ息子を何度も何度も救ってしまい、健全な厳しさを発揮できない親には「父性」が欠けています。「こんなことをしてやっても息子をダメにするだけだから心を鬼にして放っておく」と思えるのが父性ある親です。借金を肩代わりしたら、自分や妻の生活も困る。他の子供達にやる遺産も減る。みんな迷惑する。だから切らねばならない。その決断ができるのが「父性ある親」です。

 そして、倒産すべき企業を倒産させない政策を為す人は、基本的に「父性の欠けた母性デレデレのダメ親」だと言えます。

 救うべきでない企業に国民の税金を注いだら、国全体はどんな雰囲気になりますか? やってられないという重たい空気になるのです。凛とした原理原則が確立されていませんから、背筋がピリッと伸びるような清々しい国にはなりません。公平さの欠けた「いい加減さ」がプンプンする国になってしまうのです。

 市場に任せるところは任せ、国にしかできないところで責任を十分に果たしてもらえれば、国民は安心して伸び伸びと社会生活に勤しむことができます。

 ③につづく。


参考書


橋下徹&三浦瑠璃『停滞する日本社会を動かしていく』①

 私は集合的日本人と日本社会が「停滞病」「閉塞病」に罹っていて、成長に必要な変化を遂げられないまま行き詰まっていると分析しています。

 心理療法家である私は人間の内面に焦点を当てるのが通常ですが、今回は新たに「政治」「社会構造」という外側から日本人が抱える心理的課題を考えたいと思い立ちました。

 それは、日々のカウンセリングで目にする「日本人の内面」と、ニュースで見聞きする「日本の政治問題」とが全く同じだと普段から感じているからです。

 「日本人の心の問題」が「日本社会の問題」に即なるのだし、「日本社会の問題」が「個々人の心の苦悩」に即なると言えるほど、この2つは不可分の関係にあります。

 なので、「政治問題」を解くために「心理問題」に精通することは役立ち、逆に「心理問題」を解くために「政治問題」に精通することも役立つと言えるわけです。

 日本の政治が行き詰まっているとすれば、それは日本人の心理的課題が解けていないからであり、政治を動かすためにも「心理的洞察」は重要だと言えます。また逆に「個々人の心理的状況を改善する」ためには、「社会構造の欠陥を乗り越える」という過程についてもやはり言及せねばなりません。

 ということで、今回は初めて「日本の政治」をテーマにして「日本人の心理的課題」を考えていきますが、議論のベースとして、「動く政治」が語られている橋下徹&三浦瑠璃共著『政治を選ぶ力』(文春新書を参考書として用いたいと思います。

 ご興味のある方はどうぞお付き合いください。


☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 「日本人と日本社会の心理的特徴」を個々に見ていく前に、橋下徹氏と三浦瑠璃氏について私が思っていることをまず書いておきたいと思います。まず三浦氏から・・・

三浦瑠璃氏について

 リベラルを叩く保守や保守を叩くリベラルはいくらでもいる中、リベラルでありながら「保守二大政党制」を主張する稀有な存在です。保守にもリベラルにも成長課題を突きつけ、最も苦しんでいる弱者に寄り添う「コンパッション(慈愛)」を根本理念としている辺り、私は深く共感し尊敬しています。

 保守とリベラルを統合しつつ日本全体の課題を現実的に解いていこうとするその姿勢は、今の日本に不可欠だと思うわけです。

 また、独自のシンクタンクを持ち、マーケティング手法を用いて民意(投票行動の背後の真の動機)を分析して政治家に提供する辺りも、見事だと思います。例えば、安全保障や外交は投票先を決める上でかなり重視されていることが分かっている。経済政策や社会福祉政策で賛成の候補者であっても、安全保障や外交において賛成できない相手には人々は投票しない。つまり、安倍政権に勝とうと思うなら、安全保障や外交において対立軸を明確にして、安倍自民党より説得力のある代替案を明示しなくてはならないが、それのできる野党が存在しない。

 国民の多数は何を求めているのかを科学的に分析した上で、そのニーズに応えられねばならないと同時に、対抗馬との差別化において成功するには、対抗できる「価値」を明確にする必要がある。そういう真理をはっきりと語れる辺り、まあすごい人だなあと思うわけです。

 リベラルなのに自民党政権から意見を求められるのは頷けます。


橋下徹氏について

 体制順応的な人から見れば鼻息の荒い「反逆児」程度にしか映っていないのかもしれませんが、私はハッキリ言って大好きです(笑)。単なるポピュリストではなく、高い理想があって、その実現のためには既存秩序をどんどん壊していこうとする情熱がある。日本社会の病理である「ムラ意識」をとにかく認めない。問題解決先行型。しかも、衝動的でなく理知的に考え抜かれている。

 「理想」と「情熱(彼曰く "熱量")」と「理知的分析」の3拍子揃った「男気のある人」だと思います。改革者魂の強い私が惚れる本物の改革者だと見ているわけです。

 日本社会は基本的に人間関係重視の母性的なしがらみでできています。河合隼雄氏が言うように、母性社会であり、その病理に満ちている。日本に一番足りないのは「健全な父性」。「健全な父性」とは「これを目指すんだというビジョン」とともに「こういうことを大事にして物事を進めていくんだという原理原則」の担い手。橋下氏はそういう日本に最も欠如した「父性」をふんだんに持っている。日本人離れした「男らしさ」を持っている。

 女々しい既得権益集団の保身のし合いの中に入っていって、「こら、お前らいい加減にせえ」と言って刀を振り回すことのできる男です。停滞する日本にはなくてはならない貴重な人材として私は尊敬しております。

 この大好きな二人が対談しているというのですから、私としては読まないわけにはいきませんでした!

 日本の将来に絶望して暗い気持ちで暮らしている方には、是非ともこの参考書をご一読願いたい。奮い立たされますぞ(笑)。

 ②からは個々のポイントを論じます。



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