2010年05月13日

2009年06月04日

■HOUSE RADIO SHOW

 

RUFF HOUSEきております。

4月に、毎月HOUSEのライブしますと宣言しながら5月しなかったとrookieにつっこまれた二人ですが

考えてみれば、サンポート石のフライパンステージが5月31日だったので、ぎりぎり5月もやってるんですな(笑)

本日、第一部は、HOUSE RADIO SHOWってことで、登場しましたが、いくらお誕生日といえども、困るわぁ このお面(笑)





古川くんが、どうせオレは添え物だからとすねた、本日のフライヤー

ほんまやね(笑)

 

■お誕生会

 

HOUSEの今ちゃんの42歳のお誕生日ってことで、二部は特別ライブ。

42歳にもなったのかぁ。かわいらしかったのにねぇ(笑)

HOUSEの年譜をみていると、最初にHOUSEを見たのはチャランゴの佐野まりさんと演奏しているときだから、10年前ね・・・


そのころ、よくお目にかかっていたみなさまのお顔が揃っていましたが、

変わっていたり、変わってなかったり(笑)

一番変わったのは、今ちゃんのお腹かも〜

体型変化はあっても、歌とギターのうまさは相変わらずでございました。



先日の、石のフライパンの上のステージは、仕事でみられなかったので(てか、あの炎天下ではどっちにしてもみられなかったので 笑)

地下のBarで聴けて ようございました〜



「この曲は、るいままに」 と、プレゼントされましたが、たぶん、このところの落ち込み日記よんでたんやろな・・・・(笑)

ありがとね。  

  



(12:28)

2009年05月27日



中島梓が、亡くなった・・・

56歳  膵臓癌。

乳癌が見つかったとき、「アマゾネスは、闘うためにわざと乳房を切り取った」と、言い切って

前を向き続けた彼女に逝かれるのは、痛い・・・



18年後にみつかった膵臓癌への思いを、文庫本の追記として書いたのは、彼女が作家だったからだ

どういう事が起きても、すべて自分の手で書いてみせると顔をあげるのは、彼女が作家だったからだ





彼女が、乳癌体験記「アマゾネスのように」を書いたときも、批判は多かった。

すべてがうまくいったから、そんなことが書けるのだという意見もあった。

そんなことを言われるのは、100も承知で書いたのだ。

今、書かずして、いつ書くのだと思ったはずだ。

だから、18年後、自分の身に起きた「転移」という事実に対しても、彼女は逃げなかったのだと思う。




よく「もう何年? じゃ、もう、大丈夫よね

と、言われるのだが




何年経ったから、もう安心などないのだ。再発というのは、常に背中合わせにあるのだ。

だから、自分なら、今 こう生きる




乳癌から10年後、癌の再発により47歳で亡くなった千葉敦子も、

乳癌から18年後、膵臓癌を突きつけられた中島梓も伝えたのだ。





千葉敦子が亡くなる4年前に書いた「寄りかかっては生きられない

フォトジャーナリストの宇田有三さんが、抜き書きをしているので リンク

http://www.uzo.net/notice/quo/quote_2.htm
 
※宇田さん、すみません。不都合あれば消します。


たとえ、どんなに貧乏をしようと、ひとりぼっちになって寂しかろうと、

人間としての誇りを踏みにじられて中流の生活をするより・・・

自分にとって本当に何が一番大切なのか。

外から見て、『幸せそうに見えること』ことの方が、真に自分が幸せなことよりも大切なのかどうか。

あなたの人生はあなたのもの、誰がどう評価しようとも、あなた自身の評価が一番重要なのです


(19:55)

2009年05月19日

  

井上正夫著「古地図で歩く香川の歴史」を読みながら

あぁ、この間 アンリちゃんと話していたとき 紺屋町 鍛冶屋町がすべて同種の職人街ではなかったというはなし どっかで読んだよな…と 思ったのはここなんだと確認(笑)

ただ、そのとき、アンリちゃんはまだこの本を手に入れられてないといっていたので、ひとつの研究としてまとまりだしてるのかも。



この本は、端から端まで おもしろいところ満載なんだけど、歴史がどうちゃらより作家のコメントや解釈や ときどきはさむ「ちょいと斜め」な視点が楽しいので オススメです。


こんなこといったら 井上さんに殴られそうだけど 写真と図とキャプションみてるだけでも楽しいっすよ(笑)

(ナイヨウヨメヨ!(`ε´)←イノウエ)



この中に「高松城下図屏風」名場面集(41頁〜)てのがございまして 屏風絵のなかの細かなところを抽出し、井上さんがキャプションいれておりますが

笑うで〜(笑)

船番所横で彼氏の仕事が終わるのをまってるお姉さんや、蹴鞠をしてるお坊さんたちに「ガンバ!」と声をかける女の子なんか、今も昔も変わりませんね(笑)

高松城下をウロウロしてる赤い着物のお姉さん 他人とは思えません(笑)



そんなこんなで ご飯食べながら本ヨンジャダメ!と、言われないよう 一人飯〜




*****************



(るいままmemo)


■「野原」と呼ばれる現高松が、実はのっぱらじゃなくて、生駒さまがはいる以前から、港町としてそこそこ栄えておって、

すでにまちの「顔役」もいて、生駒さまも、一からまちづくりってわけではなかったから、

顔役の紺屋さん、鍛冶屋さんに 「紺屋ちゃん、よろしく」「鍛冶屋さん よろしく」とお願いしたという説は、ほんまにその通りやと思うわ。

紺屋町の通りに、ほんまにずらりと紺屋さんがいたなら、「染め」の町にまっていたやんなぁ。

新しくまちにはいるときっていうのは、先から住んでいる人に気使うのは当然のことやしな。



■染めといえば、観音寺にいったとき財田川の一部を「染川」とよんで、そのあたりは旗染めが盛んで川で布をさらしていたとお話を伺い、

漁業のまちとして栄えたまちで、豪奢な旗が力の象徴として競ってつくられて、染め物屋が発達したというのは、

まちやひとや産業によって、次なる産業が栄えていく流れが明確で、頭のなかでうまい具合につながったけれど、

「高松の職人街」と書きながら、紺屋町と染めのイメージは繋がってなかったな。

歴史のなかから、自分なりの解釈をするとき、イメージが広がっていかないことっていうのは、

どこかに無理があるんだってことを、頭に置いておかねばな。




■丸亀ご城下について、先日うかがった福島アタリもふくめて、もう一回歩いてこよう。

今の商店街からすぐ外側に急にL字にまがっている道が、そこここにあるらしい。

それは昔の海上交通のあとで、まちをくるりと囲む堀によって、丸亀の人たちは便利に生活してたらしい。

今までは、山のうえに象徴的に建つ静かな丸亀城のイメージしかなかったけれど

お城からお殿様が、海上交通によって活発にひとが動いていたまちを見ていたかもしれないと思うと、すごくええやんねぇ。

広がるよなぁ



■まちっていうのは、その時々の世情によって変化していくもので、今の形になるまでには、いろんなひとがいろんなことを考えて、そのとき 一番ええんや!と思う形にしてきたんやろうけど

長く安泰が続いた時代の「まちの作りかた」というのは、利にかなっていることが多くて

焦って無理矢理動かしてしまったことが、あとあとまで痛手となってることってのは、あるねぇ。

かといって、変化せずに、ずっとクラシカルを守りすぎてえらいこっちゃになることも多いので、コロアイやわな。



そんなこんなで、読了〜  


(00:10)

2009年05月17日


真夜中 一人で見るには ちとしんどい。


でも、今きいた


「千恵は、毎日しあわせじゃない日はなかった。どんな小さなことでもしあわせに変えた。アイスたべることも、人とあうことも」


という言葉に


あぁ この人は、この生きる姿を伝えたかったんだ。短すぎる時を憂いて下を見るだけの人生ではなかったのだ。


こうして書くと とても薄っぺらにとられそうだが


言葉は、すべての飾りを削ぎ落とし、単純に ただ単純になったところに真実はあると 私は思う。



※余命1ヶ月の花嫁


(03:50)

2009年05月13日

20年ぶりのお客さまのお顔、見るなり 完全に記憶がよみがえりました。



私が生まれて間もないころ、日本が一番成長していたころ、

仕事が好きで好きでたまらないうちの父(笑)と、それむちゃやん!というくらい四国をまわって仕事をしていたGさん。

東京から出張してきていたGさんは、月の半分を四国で過ごし、ときにはうちに泊まって父と朝駆け夜駆けで仕事に行き

いつ寝ているんだろうという生活でした。

「二人とも、ほんとに若かった!」 ですね!



Gさんの奥さんと、うちのばばさまは、そのころ子育ての真っ最中で

「とにかく、あのころの男の人は、ひとたび家を出たら家のこと忘れたように働いてたものね〜」

「あのころの日本は、女は家、男は仕事と分業してたから、男の人があれだけ働けたんですよ」

「でも、あのとき、あそこまで経済を持ち上げておいたから、今も、ここにいられるのかもしれませんよねぇ」


いつの時代も女のほうが、やや上手かも(笑)



GさんはGさんで、

「あのころは、ほんとにおもしろかったですわ。Nさん(父)は、一大事ってなったら、四国の山中、バイクで走ってきてくれたこともありましたわ」

「Nさんの頭のよさは、並はずれてましたからね。フリーハンドでささささっと絵を描いて、そのとおりのものを作ってしまう」


と、父との仕事の話をたくさんしてくれて、年間200日も出張していた父の外での生活を、父がなくなって15年もたってから知りまして、

もちろんずっと父のことを好きだし尊敬もしていたけれど、そのころの父の年齢をこえた今、なんてかわいいんだろうと思ってしまったのです。(笑)





Gさんは数年前に2度も脳梗塞を患いましたが、企業戦士時代の不屈の精神力でリハビリを繰り返し、今ではほとんど不自由のない生活を送っています。

しかし、脳梗塞の引き金になったのは、「やはり、サラリーマン時代の酒でしょうな」と言われるとおり、

そのころは、飲めなければ一人前とみとめられないような厳しさもあって、体をこわしてもなお酒の席での商談に出向くこともあったようで、大変やったろうな。



Gさんの高松の思い出は、やはり船。

連絡船の話をされるときのお顔は、当時のままで、「なんで、あそこで走るのかかわらないけど、走ってしまうんですよね」(笑)

一番元気な時代を過ごした場所というのは、やっぱり忘れられない場所であり、Gさんが

高松、すっきゃわぁ

と、思い出を語る途中に挟む言葉は、「ほんとに、ここを愛していてくださったんだな」と感じるもので

今、「まちの仕事」をやってましてと、石あかりロードとまちかど漫遊帖のちらしをお見せし、るいまま組のCDも渡して

父と同じで、好きなことしかできないけれど、楽しくやっております

と、報告すると

「Yちゃん(わたし)みてると、Nさんの血がここにながれていると思うわ

と言っていただいて、

また、高松来るきっかけがたくさんできたね

の言葉に、涙が出そうになりました。



母は79歳で、Gさんご夫婦も70代半ばとなった今、こういう席があと何回組めるかはわからないけれど

今度は、母が東京にいくときにGさんのところにお寄りすることになって、この日は解散。





父の話を聞くと、わたしは、自分が一番しあわせだった時間を思いだします。

そのころは、うちに籠もるばかりの子どもで、少しも幸福感などないと思っていたけれど

父や母がしっかり作ってくれた「巣」のなかで、悩んだり考えたりする時間を十分にあたえてもらっていました。



仕事中毒と呼ばれることを、私は恥ずかしいことだとは思わないし

むしろ、そのくらい熱中できるものを手にできた父も自分も幸せに思うのです。

ただ、大人になった今だからこそ

父が生きていれば、「パパさまなら、こんなときどうしましたか?」と、相談できたこともあったのにと

娘は思うのでした。





※ 写真は鎌倉名物「鳩サブレー」。父がGさんのところに出張したときのお土産だったし、Gさんがこちらにこられるときのお土産でもあった、このお菓子は、うちの思い出の定番でございます。









******************




今日のお昼は、昨日は厳戒態勢で大変だった二蝶さんへ。

外は、相変わらず憂国のお車が行き交っておりましたが、二蝶の奥まったお部屋は別世界で

いろいろ珍しいものも頂きました






(00:07)

2009年05月11日

てなわけで、夕方庵治からの帰りカネマサでアオリイカの刺身定食を食べて力をつけ、

今の今まで、サルサ関連のDVDを見続けていた るいままでございます。




最初はマイトさん・shokoがおりまして、マイトさんは1本目が終わったところで

明日の準備があるけん。忘れ物したらいかんけん」と、受験前の子どものようなこといいながら帰り


オマーラポルトウォンドの東京JAZZ2002のときのフィルムをshokoとみながら、

shokoから「アフリカンな音楽が僕の基本の部分に流れています」てな話を聞いているところに、

「ピアノとヴォーカルだけの、むっちゃかっこいいベサメムーチョやってますよ」

と、メールをだしておいたのが功を奏し 屋根裏マスターがDVD鑑賞会に参加することになり

shokoが帰ったあとも、みるみる。

一人だったら、ここまで見尽くしてしまえないだろうって時間、5本ぶん完全観賞。



見続けて思ったことは、競技会用やステージ用に派手になったり、洗練されたりしたダンスよりも、

路地裏で、自然発生的にリズムがなって、おじさんが独特のステップを踏んだり、太ったおばちゃんが腰をふりはじめたりするサルサのほうが、明らかに心を打つ
ってこと。

アフリカとヒスパニックの流れを併せ持つキューバの音楽は、ニューヨークの音楽とは、すこし違うかもな・・・

映像の中にでてくる、キューバはヨーロッパを感じるし

ニューヨークのヒスパニックハーレムはアメリカだもの。




キューバのダンスは、大地を踏み、相手の呼吸をみながら踊るので、きちんと拍を数えてできるものではなく、拍の間にある呼吸もとても大事。



そして、この音楽には、絶対に「お尻」が必要。

オゴさんからもらったDVDの最初は、歌手の中山美穂がキューバに行き、そこでサルサを習い、自作の詩でサルサを歌うというものだったけれど、

彼女の、うすっぺらな体と、胸もお尻も強調しないおとなしい日本人体型は、どうやってもおばちゃんたちに負ける。

いや、キューバの子ども達にも劣る。

それは、彼女がっていうより、民族性の違うものだから、比べてはいかんよな。



DVDの中でも、「お尻」の存在の解説があったが、ファニアオールスターズの女性ヴォーカルや、オマーラポルトウォンドのダイナマイツなボディが、お尻を動かしながら歌う姿に惚れ惚れ〜


ニューヨークのサルサのダンサーマリオさんが、競技会にでるために新しいなにかを加えないといけないと悩み

父が移民してくる前の生活をききながら「ソン」を知り、そのもっと前のアフリカの古代教に出逢い

そこに原点があると気付くあたり、ちょいできすぎかとも思うけれど

確かに、新しい奇抜なものをしつくしたあと、人間はふたたび「古典」のよさに気付くのよね。



クラシック(古典)は、古くさくならない。

なぜなら、歴史を越えて受け継がれたミリオンセラーだからで、

つまんないものなら、とっくに振り落とされ忘れ去られているもの。





<本日のmemo>

ニューヨークヒスパニックハーレムで生まれたサルサの原点は、キューバのソンにある。

ソンは、競技ダンスには含まれないが、その官能的な動きは女性を美しくみせるためにあり、男性はいかに女性に花をもたせるか、女性は男性に心をまかせるかにある。

セクシーに踊ろうとするのではなく、セクシーを感じるのがソンなのだと語る人もあった。

サルサの原点はソンにあるというが、烈しくアクロバッティングなダンスになってきているサルサと、男女が体を密着し感じあって踊るソンは違うのだと、ハバナの人たちは言う。



サルサのリズム楽器はアフリカから、ギターなどの弦楽器はスペインからの影響であり

そのリズムは、アフリカの古代教サンテリアにある。

キューバの路地裏では、クラベスなどの単純なパーカッションに合わせ、それぞれの歌詞で歌いダンスがはじまる。

そのはじまりは、フラメンコのカンテがはじまると、それに合わせてダンスをはじめるという形に似ており、

そのもっとまえ、アフリカの人たちが神に祈りを告げるとき大地を踏みならす姿とも繋がる。


*************

結局、にごり酒「春ばしり」とふくしま屋で買った「あま酒」なくなりました〜(笑)

  


(00:04)

2009年05月09日

「石あかり月あかりライブ at 洲崎寺 2009」にご出演くださるみなさまのフライヤー用写真を整理中。

8月29日の「ラテンナイツ」に出て下さるSabado De La Rumbaの、先日のライブのお写真が出来上がってきまして

9月5日の「津軽三味線 踊正太郎の世界」に出演の 踊正太郎くんのお写真も事務所から届き



どれにするか思案中。


Sabado De La Rumbaは、全体の写真もpooh&orieちゃんの写真も捨てがたく(ええ 笑顔やしな)、

ラテンナイツのときに踊ってくれるjunちゃんの写真も載せたいし、

スペースが限られているからな。



こうやって、思案すればするほど、時間がたってしまうわけですな。




8月1日 オープニングイベント
      テノール米田優ステージ
      伊澤常彦カルテット(伊澤常彦・稲生田純一・上野慶子・図子ふみ子)ステージ

 



8月8日 演奏家のいない演奏会&癒しの空間
      ナビゲーター 鹿庭弘百
      ヨガデモンストレーション 西山久美





8月22日 洲崎寺寄席
      落語 家造亭艶九・紀ノ国屋南笑

 



8月29日 夏のなごりのラテンナイツ!
       演奏:Sabado De La Rumba
       ダンス:多田順子

 



9月5日 津軽三味線「踊正太郎」の世界
       津軽三味線:踊正太郎・天広房江





9月12日 昭和満載 カツベン!&昭和歌謡
       野外映画ステージ 弁士:中越恵美  楽士:上野慶子
       昭和歌謡ステージ 姫トリオ(るいまま 図子ふみ子 上野慶子 ぴよ&みっけ)

 




9月19日 5年目の夏 石あかりコラボパーティー
       出演:れおん・ダッパーサクセーバーズ・るいまま組

 



(23:47)

るいままからの「漫遊帖とはなんぞや。どう、はじまった」のお話が終了〜

 
いつも通り お時間きっかりで428隊員に次のお話を渡しました。


まずは マルサ隊長にひっぱられ観光振興にやってきたときの愚痴から〜(笑)


(るいままメモ)

■高松が野原の庄と呼ばれ 「高松」という名を現古高松よりいただいたというお話は有名(漫遊帖の古高松のコースでもご紹介)。

しかし、なにも生駒家、松平家が築城するまで野原の庄が単なる野原だったのではなく ここには 現在の高松に続く重要なポイントがいくつもあった。

備讃瀬戸と呼ばれる瀬戸内でも本州と四国が一番接近するさぬきのこの地は、交通においても政治においてめ重要なポイント。室町時代、ここの守護となった細川氏が都の重要人物であったこと、こんなに小さな地なのに守護代が二人もいたことなど想像を膨らませるポイントは多い。

古代、 まだ 海が現在のさぬき平野を覆い、屋島が島でその裏がわに良港をもつころ、海上、島のから 前田 十川につづくラインは都につながっていた

また、本津川から海を渡り下津井方面につながり西に伸びるルートもあり、ふたつの重要ルートに挟まれるようにある野原は 古代 戦国を通し港町として栄えていた。

生駒さまがさぬきを治めることになり、まず秀吉の大阪に近い引田に築城しようとするが あまりに東すぎ、宇多津 聖通寺にもっていこうとするが 宇多津の港が地形の変化により使い辛いものとなり

もともと 交通 流通の要所として栄えていた野原に城を構える。

つまり、なにもない野原に城を作り城下町を作ったのではなく、港町として重要だった野原に城を作った。


■伊勢神宮の信仰が公家のものだけでなく、お伊勢参りという庶民信仰になっても なかなか伊勢まで行くことは難しく、

伊勢のほうから扇をもって、それと引き替えに喜捨を集め、代参してあげようという使者がやってきて、彼ら海から渡り歩いた道が さぬき五街道の礎を作った。



■江戸になり、日本中をまわる船には、帆柱を1本にするという規制がかけられ、

次々と港に寄港しないと旅がつづけられない工夫がされていた。これは、外洋にでていくこともできない鎖国を守る工夫でもあるかも。

徳川が江戸に幕府をおいたとき、生産物は「上方」でつくり、江戸は消費のまちとして経済の流通を考え

江戸のひとたちは、上方からやってくる美味しいもの、新しいもの、流行のものを「くだりもの」とよび、ブランド化していた。

なので江戸近郊では、庶民の日用品程度のものしかつくらず、そうしたものを「くだらないもの」と呼ぶ。

当時のファッションの中心は京都で、そこからの流行発信をする担当もいて、京都で流行ったものが江戸の武家に流れ、そこで流行、そこから地方に流れていくので

京都の人たちにとれば、江戸というまちは、やっぱり「田舎」っていうイメージだったのかもな。


江戸時代、上方近郊で生まれた流行・文化・名産品の品の高さは、こうした体制により、国全体がそうしたものを育てたともいえるな。

流通の要となる「船」が、日本中の港をめぐり、情報を伝えていたのね。



(10:40)


思い立って、ANNRIちやんと四谷シモン人形館に取材にまいります〜

ANNRIちゃん 運転ちゅう

 

**************

■四谷シモン人形館<取材メモ

  

(るいままメモ)

元々は 川之江の廃墟となった古い病院を舞台に、四谷シモンの人形たちが集まって人形展をすることからはじった。

手術室に横たわる 半身の少女や、苦悶するおとこ、青白い少年など、病院とシモンの人形はマッチしすぎるくらいしていたが、契約の2年を待たず、病院のほうが雨漏りなどで朽ち果て、人形たちは住やを失った。

その頃、坂出の鎌田家は、初代鎌田勝太郎が港の見える迎賓館として建てた洋館を修復し、どういうふうに使うか思案中だった。

当時としては超贅沢な鉄筋コンクリート造のたてものは、小ぶりながら、がっしりとしており、寄せ木造りの床、シャンデリア、厚い壁の金庫室、大理石の暖炉など、往時を感じさせるもの。


さの画廊の紹介により この建物と四谷シモンは出会い。
シモンは、またたくまにこの家のとりこに。また、鎌田家もシモンの人形たちを気に入り、人形たちは、この建物に住まいを移した。

ここに暮らす人形の位置も視線も 全て四谷シモンの指示による。
新しく加わった少年と少女も、床から少し上げ、視線を私たちに合わしている。


1970年代 状況劇場で異才を放っていたシモンを知るアンリちやんにとっては、ガータベルトに金髪で汚れた体を投げ出す女性人形がシモンの作品のイメージだそう。

人形館に置かれた、当時のシモンの、ギリシャ彫刻のような贅肉のない美しい顔に非日常の表情を見せる写真をみていると、アンリちやんの話になるほどと思う。


現在は、素敵なおじさま。最新作の少女の人形も、グロテスクでもなく エロチックでもなく もっと内なる感情を感じさせる。
作家とともに作品たる人形が変化するのは当然だが、人形という「人」にとても近い造形故に、感じるものは大きい。

 

 

***************

■先日、祥虎と坂出をロケハンしたときに いけなかった 水尾醸造所へ

  


先日の坂出ロケハンのとき 行きつけなかった水尾醸造所、マルサ隊長に詳しい場所を聞いたので、アンリちやんと二人でいってまいりました。

餡餅雑煮は 本来予約なのですが、今日はたまたまお餅があって いただけることに。



お客さまの顔がみえてから、鰹節で丁寧に出汁をとります。上品な鰹出汁が白味噌にあい、餡餅雑煮を引き立てます。

季節ごとにかわる角盆、5月は兜と鯉のぼり


お昼は、蕎麦も食べられます。



白味噌500グラム360円をお土産にお買い上げ〜

 

水尾(水王)のマークが伊勢エビみたいで いいかんじねぇとANNRIちゃん。

 

**************

高松まで帰ったところで、ANNRIちゃんが、いいところを紹介してあげると、松福町の「ふくしま屋」さんへ

こちらの日本酒の品揃えは、半端じゃないです!



漫遊帖の北浜コースで回った八丁土手や東部ポンプ場をぬけたところにございます。

京都の日本酒バーからも仕入れにくるというしなぞろえは、日本酒マニアの中では有名らしく この日も愛媛からの車が  

 


 

 



(00:00)

2009年05月06日

私たちは、もう、ほんとにギリギリのところまできておりました。

ものを作るという作業に飢え、そのために時間を使いたいのに、雑多な日常におしつぶされそうになり、人との軋轢に疲れ、

こんなことに、なぜ、毎日毎日心をすり減らしているのだろうと考える日々でした。

生きるためには「食べること・働くこと・寝ること」に徹しないといけないのだと、我が身に言い聞かせていました。

それが大人なんだ。大人にならないといけないのだと、頭ではわかっています。

けれど、創造者にとって、ものを食べることよりも、楽しいことを追い求めるよりも、必要なことがあること。

それは、普通の経済活動のなかから振り落とされたものであるけれど、どうしても捨てられないこと

しかし、それは口にしてはいけないことでした。

偉そうに・・・ そんな夢みたいなこと言ってないで・・・ そんなんお金にならんやん・・・

「理解されないのです・・・」

彼の絞り出すような声は、同じ思いをぎゅうぎゅうと心の一番下に詰め込んで隠し続ける私に痛く響きました。

 

文章が書けるから、映像が作れるから、音楽が演奏できるから、作曲できるから、絵がかけるから、すごいね、それが仕事に繋がっていいねぇと言われるたび、

「そうですね」と言葉少なにこたえるしかないのは、それが職業に繋がってしまったがために、純粋に創造することから離れなくてはいけないことを身をもって感じているからです。

 

お金のためではないものを作りたいのだと泣き叫びたい思いを我慢して、形をつくっていく日常は、常にストレスを抱えるものです。

ほんとに欲しい情報は、そんなものじゃないんです。
ほんとに欲しいのは、もっともっと体温を感じるようなことなんです。

イマジネーションを膨らませるために、小さくてもキラキラと光を放つような時間なのです。

「君のために」とブロイラーのように愛を与えられつづけ、常にお腹一杯の状態で歩く日々は、傍目には豊かそうに見えても苦しいものでした。

背中に背負ったものを卸して路傍に座り込みたく、もっといえば、もう、この行列のなかから完全に離脱したい、

あの向こうに広がる世界に走り込んでしまいたいというものでした。

 

 

そうしたギリギリの中で始まった、ロケハンです。

何かのためにというのではなく、歩き続けることで、見続けることで、体の中からあふれ出る「創りたい」という思いを、決して消さないためのロケハンです。

 

******************

 

■文化住宅

国道沿いに建つ木造の二階家は、ふたつの家が一つになった二戸前の文化住宅でした。

二組の家族は、それぞれの思いをもって日々の幸福につつまれていたのでしょう。

海に向かって上下に開く窓からは、このまち特有の潮風がながれこみ、その向こうの洋室には、決して本物ではないけれど、この家の人たちが愛したものがあふれていたのです。

玄関先には、誕生日に買ってもらったばかりの自転車が置かれ、お父さんがペンキで描いてくれた名前が光っていました。

今となっては、住む人もなく、道行く人たちは、この朽ち果てた姿に眉をひそめます。

けれど、庭先の木々はしっかりと根をはり、豊に葉をつけ、ここに命があることをしらすのです。

 

■人工土地

 

坂出駅裏にある人工土地は、戦後、このあたりにひしめいていた塩田従事者の小さな住宅を、何層階もにすることによって、広く豊かなものにしようと考え出された、未来都市です。

しかし、未来予想図のなかで組み立てられた都市は、暮らす人には少し窮屈で、コンクリートと真っ白な建物のなかに息苦しさを感じていました。

誰かが植木鉢を置き、路地で育てていた万年青を表に出し、祠ができ、生活の匂いのするさまざまなものが置かれ、いつしか「人」の暮らす「場所」になっていました。

「まち」は、「人」によって作れられる。

まちを歩くと、たとえそこい人が歩いていなくても、そのまちの体温のようなものを感じることがあります。

 

■産婦人科という場所

PAP_0123PAP_0122

 

 

 

 

 

 


病院は、いくつもの悲喜が溢れる場所ではあるけれど

産婦人科くらい、幸せに充ちた場所はないでしょう。
産婦人科くらい、悲しみにあふれる場所はないでしょう。

そして、陰と陽がこんなにも強く重く共存する場所はありません。

病院から繋がる回廊の先には入院室。

隣室から聞こえる逞しき赤ん坊の声を聞きながら、ひとつ・・ふたつ・・と指を折る女は、時を数えているのではなく、時を耐えていることを、この建物は知っています。

正面玄関から見上げたところにある縦長の窓。

あなたは、ここから何をみたのでしょう。

 



(14:22)

2009年05月05日

夕べから、やや落ち気味。頑固な不眠。

まいったなぁ…と、おもいながら闇の中で目を閉じていたら

案の定 雨



下手な天気予報より確実(笑)



薬の弊害じゃない…と、言い聞かす。


(19:53)

さて、本日は、るいまま組フロントガールズ息抜きの旅。

このところ仕事がキツキツのみっけ隊長の「高知にタタキを食べにいく」という、大変わかりやすい企画でございます。

この日の前日夜から、やや体調不良のワタクシ、明け方「眠れない」ブログをたてたもんで、ぴよ&みっけからご心配のメールがきたんですが・・・・

たしか、8:45am集合であったはずなのに、メールのお時間が8時をだいぶすぎてからのうえに、

ただいまあせって準備中らしきニュアンス(車を出す予定のぴよ隊員)。
今、起きたばっかりのニュアンス(みっけ隊長)・・・ふふふふふ

だもんで、ゆっくり某珈琲店の「ブルボン」をたてて、ゆっくりいただきまして(てか、ブルボンっていっただけで、朝からお菓子くってんのかと疑惑をかけられるわたしって・・・)

 

■9時に、るいまま組事務所まえにでましたが・・・

 人っ子一人いないぜ・・・(w

まもなく、車のなかで化粧中のぴよと、この日の運転手に選ばれしぴよ旦那到着。みっけ隊長を拾って、いざ高知へ〜

連休中日の5月5日、この日から、そろそろラッシュがはじまると聞いておりましたし、なんたって高速道路1000円の祝日ですから、ある程度覚悟はしておりましたが

高松道は、車が多いねって程度で順調に走行

 

連休中、さぬきのうどん屋さんは、閉店騒ぎがでるほど観光客が車にのってやってきたのだから

高知のタタキを食べようと思いつく人も多いだろうと話していると

みっけ隊長から

タタキ、予約はしてないけど、どうせ人並みの時間にはつかんから、大丈夫

と、心強いお言葉。

そりゃそうだな。私たちが人並みの時間に移動できたことは一度もない!(きっぱり)

 

 

■さて、高知と言えば・・・悪夢の8月。

某マイトさんが1分の隙間もなくしゃべりつづけた高知へのドライブ。

なぜか! 石鎚経由で(経由っていうのか・・)高松〜高知 5時間の旅を経験しておりますワタクシ。

運転手マイトさんの話だと、標識がとてもわかりにくかったとのことだったので、そんなに見にくい標識ならば改善が必要だなとおもって、本日は普通に前をみておりましたら

アホほど「こっちが高知!」ってでてくるやんか!

マイトさん、こっちが高知です! やっぱりあのときは、マイトさんが喋り過ぎてたんです!

 どうやって見落とすんや・・この標識。(w

 

 

■南国パーキングエリアで休憩。

いつも、行きの車で欲望にまかせて止まるたびになんか喰って、目的地についたとき腹一杯状態になるといういけない状況なので、

今日は、体調不良もあるからおとなしくしておると・・・

 

なんか油臭いものを買ってきた子が・・・ああ、油菓子、ワタシだって好きさ。でもな〜

 

 

高知道にはいって、ちょっと混み合ったものの、土佐をこえると車もまばら。

やっぱり、みなさま高知で遊ぼうということなんですな。私らは、「ひろめ市場」もいいけど、たぶん混んでるよねという、賢いみっけ体調の判断により

須崎にまいります〜。

 

 

■須崎で高速を降りたはずなのに、ずっと続く「高速道路のような道」

きっと、ずっと作り続けたかったのねといいながら走り続けると、その道路が終わったところに現れた

須崎道の駅「かわうその里」

 

南国PAでもらった地図をみて、場所ようわからんけど、向こうについたら聞いたらええわとか言っておりましたが

間違いようがないやん・・・(w

高松中心部の、るいまま組事務所を出て、2時間強で到着でございます。

 

 

■いよいよ タタキだ! ファイヤー

 

目の前でわら焼きをしてタタキを食べさせてくれるところは、1本買いのところがあるけれど、ここは一人前ずつ食べさせてくれるんよと、みっけ隊長。

みっけ隊長の事前調査によりまして、ファイヤー!も体験し、ええ具合の量のタタキも食べられ、満足満足。

ポン酢が、いつも食べているのより少し甘めで、ええ感じでございました。

ぴよ旦那と、スーパーで買うタタキとは全く別の食べ物やなと話、タタキって生臭いものやと思っていたけど、焼きたてはちっとも生臭くないことを再確認!

 

この写真をみた、大阪のJohnさんから

「もしかして道の駅「かわうその里」ですかいな?絶対うまいっちゅうねん。

たまらん!。キー!!。」

と、うちらが一番喜ぶコメントが届き、うはうはとタタキ完食!

 

 

■フロントガールズのことが心配でたまらない、高松の るいまま組お兄様お姉様から、いろんな情報が刻々と届く中

タタキをくった私たちは、高知市を踏まずに野市にgo!

車よりのんびりな、ごめん・なはり線の脇をのんびり走り手結まで。

このあたりにくると、思いだすのはあのころ〜

夜須の道の駅「ヤ・シィパーク」でだらだら過ごした日も今は昔ですなぁ〜

 

と、ところが・・・お茶屋餅は本日定休日。残念〜

 

餅の写真は前回お邪魔したときのもの〜

お楽しみは次回に残して、次は、ここまで来たら寄らねばならぬ、エチオピア饅頭〜(笑)

 

 

■エチオピア饅頭は、Wikipediaにもちゃんと載ってるりっぱな文化です(笑)

Wikipediaこちらから

1935年から1936年にかけてイタリアによりエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争)が行われた。その際のエチオピア兵が、武装と兵力に勝るイタリア軍に対し、粗末な武器をもって勇敢に戦っているという記事を新聞で読んで感動した初代店主が、それまで作っていた饅頭を「エチオピア饅頭」と改名したもの。つまり製法も原料もエチオピアとは縁も所縁もないものである。

広末涼子さんもご推薦のもよう

 

当然ながら、家に持って帰る前に車のなかで、エチオピア饅頭を頂き・・・

 

ここに来るまでに見つけたお店で、文旦を買い、小夏を買い、サツマイモを買い

もはや・・・トランクはいっぱいです。

 

 

■高知は2010年 またもや「であい博」をするようで、

 

高知の観光協会か高知県の観光振興課の方が、PAでブースつくってパンフを配っておられたんですが、

あえて何も聞かず、

南国の道の駅にはボランティアさんの観光案内さんもいたのに、そこでも あえてなにもきかず

いろいろ聞いてしまえば、またスイッチが入ってしまって休みではなくなるので

この日は、ただひたすら飽食と欲望の旅。(笑)


 

 

■4:30amには、高松のみっけ隊長村到着

盛りだくさんにしすぎて疲れを残さない、かしこい息抜きの旅でございました。

 

みっけんちで、とれたての新タマネギをいただきまして、本日の旅終了〜

(写真は、こみっけ もかちゃん)

ええ感じにストレス抜けたようで

「まま、いびきかいて寝てたで〜」とのこと。(笑)

 

 

■心を癒す旅は疲れないスケジュールで!

ついつい、詰め込みすぎて 欲張りすぎて 癒しにいったのか疲れにいったのかわからない旅はしんどいもんね〜

 

 <<今回の高知土産>>

カツオの角煮と、みっけんちの新玉ねぎと 高知の桜エビの炊き合わせ。

文旦

 

るいまま 騙されとるでと言われながら買った 高知のトマト100パーセントの トマトケチャップ(笑)

卵とシメジの巣ごもりにして 使ってみました〜 美味かったよ!

 

 高知のさつまいも。ホクホク

 

 見てるだけで元気になる小夏

 

 

 

 



(12:15)

2009年05月03日


てなわけで 昨日の締めは健康の話。

先日の血液検査の結果と 検査の日に計った血圧の記録をみた お兄さま二人

「えー、血圧113って、なに、その正常さ」

「GPT6ってなんや。おれ178やで…」

いやいやだから、ワタクシ コレステロール値も正常ですし ほかもみんな正常。


てか、みなさんどんだけ不健康なんですか!


私の体は、まさにオール優ともいえる健康体にございますよ。うひっ

たまたま癌患者であるってだけで(笑)




てなこと言いつつ終了〜



(19:52)

2009年05月01日



ホルモン治療を継続中の癌仲間から 突然無性に辛くなったり 怒りのスイッチがはいると自分はこんなに強い怒りを持てる人間だったのかと愕然とするくらい怒りが大きくなることがある…など

感情のコントロールに対しての悩みを聞くたび、確かに私も一番そこがしんどいわなと思う。


ドクターと突っ込んで話す前に、やめてしまうのは、わかってもらえないと感じたとたんに湧き上がる どうしようもない悲しみが、

これ以上大きくならないように 取り乱したりしないようにと、自分を守るためのロックをかけるせいもあるかもな。


がん患者おしゃべり会さんが このところ専門ドクターの書籍から患者とドクターの関係性についてを抜粋アップされていて、

一応読んではいるんだけど 心に響いてこないのは その内容がどうこうというより

「もう、それはわかったから…」

と、自分にブロックをかけてるせいかも。いかんねぇ




ストレスを抱えることはなるべく避けないといけないので、自分の中のストレスの種というのを書き出して

無駄にストレスを抱えないようにしようとブログを読みかえしていたんだけど

自分の感じることと、周りの感じ方はちがうんだなと、ついついおもしろくなって時間とられてます(笑)。(信号待ちでトラレルナ


■まず、人前で話したり歌ったりすることは、そう大きなストレスではない。

大変でしょう?と気遣ってくださるんだけど、私も初めての場所っていうのはドキドキもするけど、講演会やライブのように、自分でペースを作って喋れることはストレスではなく

ストレスと感じるのは、むしろ準備段階のうち合わせかもな・・・


■会議室で、決まったことを聞き続けるのは大きなストレス。

そのあと何時間(何日も)もしんどいしんどいとぐずぐず言うてますな。

報告会てのは特に苦手。今更、何を動かせるでもない決まったこと聞くだけに集まりたくないんだろな(笑)。

聞き流して別のこと考えてればいいだけじゃん。

と思うのに、息苦しくなるのは、人の話をきくってのが癖になってるんやろな。

毎回、逃避するように廊下にでてブログかいているという、完全にお子様な状態(笑)

子どものころから一方的な授業嫌いやったよな…(笑)


■他人と車や建物の中に長時間いること。

それが家族や親しい友人であっても、常に人がいる状態が続くのはしんどいようで、かなり弱ってますな。

ライブや講演会のように不特定多数だと、弱らないのに、

車移動やバス移動で地の底まで落ちてるから、単に車に弱いだけなのか?

いやいや違うな。


るいまま組事務所には、常に人がたくさん集まっているんだろうと想像される方も多く、

楽しげな場所に呼んで欲しいとも言われるんだけど

ここは、ツウの機織り部屋と同じで、よほどのことがないかぎり人はいれんですな(笑)

ストレスになってしまうからね


■親切すぎることへの反発

やってあげたじゃないか!してやったのに!って言葉に対する嫌悪感は、相当つよいな…

していただいたことに対して ありがたいと思うのは こちら側の感情であって押し付けられるもんじゃないよな…

と、ぐずぐず思うけれど、

そういうことに反発せずに「サンキュー」と全部受け取って必要なものは使って、必要じゃないものはさっさと切り捨てて、

軽やかに動ける人もいるんだから

素直じゃないということなんかもね…


(19:51)

2009年04月21日

癌治療薬 ノルバディックスを再びはじめて1週間。 



(平成18年にもらって、副作用に絶えきれなくてやめたぶん)

今回は、普通に生理がある状態ではじめたせいか、ほとんど副作用もなく、前のような苦しさもなく、飲むことについての不快さは無し。

やっぱり、卵巣機能をとめるリューブリン注射との併用が、体に相当負担かけてたんやな・・・



癌の再発を防ぐため、なるべく最短で効果をあげようとするのかもしれないけれど、

元々の体は普通に動こうとしているので、無理はきかない・・・のかもね。(裏付けはないです、私の感想です



どちらにしても、最初の2年半は、ノルバディックスかリューブリン注射の副作用におびえて、

病院にいって、薬を飲むことを勧められるたび大きなストレスになっていたけれど、

この調子だと、「病院にいく」ことに対するストレスは、かなり軽減。




3ヶ月後、病院にいったときに、このことはドクターに話そう。

ずっと不快感は訴えていたつもりなんだけれど、「それは副作用じゃないと思うよ」と言われると、それ以上は何もいえず、

もう、いいや・・・ やめよう・・・ やめれば楽になるし・・・ 忙しいし・・ 話すのも面倒だ

と、思っていたからな。

ドクターとしては、患者からの声がないかぎりわからないと思うだろうし

患者としては、こんなに苦しいけれど「副作用じゃないと思うよ」といわれれば、自分の体に対する罪悪感しかのこらず言葉を失うし・・・




人間、通じ合うまでには時間かかるんだろう。

特に私は、こういうことに対して「もう、いいや」と言葉を飲み込んでしまうからな。



私とドクターの意思疎通はなかなかとれにくく、術後すぐ「普通に仕事をしていいです」って言葉に、いつもどおり退院した日に仕事してて

手術した方の胸がカチカチに腫れてきて、翌日・再び切ることになったんだけど

これも、「普通の仕事」に対する感覚の違いで

女性の普通の仕事っていうのは、私がしていることと、ちょっと違うのかもしれんな・・・ (今更ではあるが)


デュークさんの、「手強いなぁ・・・」の言葉が物語るように、相当変な仕事しているのかもしれんな。うむぅ




とりあえず、私の体は、ただいま大変健康です。



じゃ、仕事いってくる


(12:00)

2009年04月20日


さぁ お待ちかねの検査結果きました


異常なし


3ヶ月後に 必ず来るようにってことで


(14:37)

2009年04月15日

昨日は、「そらの庭」で、一日過ごしたようなOFF日。

slimと祥虎と、生き方について、映画について、物事のとらえ方について喋りつくす。

電話もかかってきていたのだけれど、よほどの事以外は、明日にまわそうと覚悟して電話もOFF。


「るいままとして生きると決めた以上、るいままはどう生きるかを知らせるのも責任だよ」

というslimの言葉を胸に、今の状態や思いを書き続けます(笑)







■昨日、朝ご飯を食べたあと、ずっと治療剤の「ノルバティックス」を眺めていた。

3年前、副作用にがまんできなくなってやめた残り・・・

再びホルモン治療をはじめるにしても、ノルバディックスだということは聞いていて、

当時は、リューブリン注射で急速に卵巣機能をとめようとしていたので、それとの併用で苦しかったのだろうとドクターから話があったので

とりあえず、山ほど残っているノルバディックスを手にした。



副作用と言うのは個人差もあって、ぜんぜんなんともないよという人もいれば、相当きついって人もいて、

私は、薬に対しての感受性がよっぽど高いのかも知れないな。



■癌についての情報は、知りたいと思う反面、知りたくないとも思っていて、特に、ずっと熱心に更新されていた癌患者のwebがプツリととまっていたりすると、

臆病者の私は、ふたたびそこを訪れるのが怖い。




1回目の癌の手術のとき、2日目に原因不明の腫れがでて、夜中に緊急に綴じたところをほどいて、それでも原因がわからず

一日あけて、もう一回全身麻酔をかけて切ったり貼ったりしているから、

もう「手術」は勘弁して欲しいとおもっているんだけど、

副作用がはじまると、1回切ってワルモノが取れてしまうなら、手術でいいから・・・とも思う。


手術だけで、終わらないのが「癌」のやっかいなところで

わたしと同じ2005年 2006年ころに手術をうけた人の「再発」「再手術」が、目にはいったりすると「やばい やばい」




■人にとってのストレスというは、病気と同じように様々で、私をよく知る人たちは

「仕事をやめろとはいわない」

と、一様に言い。

「そのかわり、絶対に寝ろ」

「絶対に、紫外線にあたるな」

「絶対に、嫌なことを我慢するな」

「明日できることは 明日にまわせ」


手から、全部うばいとるようなことや、心配だからと私をすっ飛ばして動くようなことが一番私にストレスを与えているといことは

たぶん、私を知らない、自分は優しいと信じている人たちで

今朝も、「なんだよ・・・これは・・・」と、深い悲しみを味わったところだが、まぁ、それを責めたところで癌がどっかにいくわけじゃなしな。


今、あなたにとって、一番のストレスは何ですか?と聞かれたら  

方向違いの優しさと、勘違いと、手際の悪さです・・な。




■さて、眺めていたノルバディックス。

手術後、放射線治療が終わって、これを飲むことになって、副作用に苦しんでいるとき、ある人から

「るいままは、男になる薬飲んでいるの? ひげ生えてきた?」

と、言われて事があって、冗談とはわかっていても、これは副作用に苦しむ身には相当こたえた。


あふれ出る女性ホルモンが、体に悪影響を与えているわけで、それをなんとか止めようとしてはいるが、こんな薬を誰が好きで飲むかよ・・・



乳癌がわかったときに、やっぱり女性から、「えぐるぐらいとったらええんよ。死ぬよりましやん」と言われて、

じゃ、てめ〜が、えぐって見せてくれよ・・・・と、思ったこともある。



心配してくれているのは解っていても、親しいからそういうのだと解っていても、

望んで病気になったわけではないのでね。

どちらとも、60歳前後の未婚女性。  

あなただって、同じ危険性はもつ。

あなたのまわりの大事な人だって、いつ発病するかわからない。


生きてきた年数が人のこころを成長させるわけではないと感じる。 悲しい。





■記録

昨日の朝 1錠のみ

今朝 1錠。


不快な状態にならないよう、祈るばかり。


(11:33)

2009年04月12日




3日間の地獄が嘘のように、昨日の夕方から劇的に楽になって、今後のことを真剣にかんがえる。


昨日の昼間みていたキャラメルボックスの芝居は、

最愛の人を事故亡くした男が、自分の作ったタイムマシーンにのって39年前に行き、

彼女が生まれるまえからの人たちと会い、彼女がこの世に生をうけ、自分と出会うときまで辛抱強くまち、

事故のことを教えて回避させるんだけれど、彼自身は彼女と結ばれることなく、亡くなってしまうというお話。


その中で、歴史は変えられないけれど、自分の未来は自分で選び作ってゆくものだという下りがあり、

そうだよなと思う。




いろんな方からメールをいただき、ゴッドハンドからは具体的な生活改善についての指針があった。

「るいままと会ったとき、生き急いでいると感じました」

と、書かれてあって、それはそうかもしれないと、実は思った。



私の父は、60歳のときに脳腫瘍で亡くなった。

癌が見つかったときには、すでに手術もできない状態で、よくもまぁこの状態で、あんなにハードな仕事を続けていたものだと呆れられ

現役のまま、半年で亡くなった。

そのとき、母も私も辛くはあったのだけれど、なぜか「これがパパらしい」と思った。

彼はやり残したことは山ほどあっただろうけれど、たぶん、何もできなくなった体で生きることはできなかっただろう。

日々、生きている。なにかを残しているという実感がなければ、生きられない人だった。



私は、「るいままとして生きたい」といって、一人で暮らすことを選び、今に至っているのだけれど

たぶん、60歳という年齢が、自分の中ではひとつの区切りになっていて

そこまでに、やっておきたいことを並べ逆算していくと、とうてい時間がないと思っているのだ。

その焦りが、生きいそぐに繋がっているのだろう。




今の私は、30代のころ、取り憑かれたように書いていた小説の実証実験をしていて、

自分が小説に書き続けたように、ほんとうに人は生きられるのかと問いかけながら日々を生きている。

活字として世にだして、それを読んで少なからずも「元気がでた」「生きる勇気をもらった」「もう一度頑張ってみる」と

と思って頂けた人がいるのに、

書いた本人が、その小説とまるで違ってたんじゃ、いかんのではないかと(別に違ってたっていいんだが)、思ってしまったのだ。



実証実験をやりぬいたあと、もう一度小説を書こうと思っている。

若くて、力がみなぎりすぎていたころには書けなかったものが書けるときがきっとくると信じている。



文章の上手下手は、何度も書いていれば誰でも上手になる。

だから、「どうやったら、小説かけますか?」と聞かれたときには、日本語かかければ誰でも書けますとこたえる。

文章の書き方じゃなく、「今、ほんとに書くべきもの」を見つける方がよほど大変なのだ。



現に、鉛筆が転がったのをみてでも話をつくれと言われた修業時代のほうが、今よりも、はるかに文章はうまく

言葉も豊富で、いかようにも書けた。

鉛筆が転がるという、なんでもないことに対して、どう気持ちを動かしていくかのきっかけづくりも

なんの苦もなくできていたと思う。

創作は、ある程度のところまでは、才能ではなく、努力なのだ。

でも、鉛筆が転がることなんざ、ほんとに今書かねばならんことなのか?



癌になったとき、「これは困った」と思うと同時に、「これは与えられた」とも思った。

病は不幸かもしれないけれど、作家である以上、こうしたことも「何を書くか」の大きな糧となる。

恐怖心も、腹だたちさも、悲しみも、喜びも、怠惰になる心も、すべて書いてしまうのは

最後の最後、それを見たとき、「弱く悲しく、でも愛おしい自分」に出会えると思うからだ。




さて、夕べ見た映画の福間監督は、女は50になれば生殖できなくなるとおっしゃっていたが、それはもう時代錯誤かもしれない。

ほんとにそうなら、私は、今、こんなにしんどい目にあうこともない。

人の体は、どんどん変化し、時代のなかに生きる。


(11:34)

2009年04月10日



病院からの帰り、夏の服を買う。

夏は、がんがん働かないといけないわけで、とりあえず、血液検査の結果がくるまでは心配したところで、何がはじまるわけでもないし。

と、思って、がんがんカゴに服を入れる(笑)



ブログには、「るいままとしての365日」の気持ちの動きは全て書くことにしているので、隠し事はしませんが

乳癌の再発を防ぐために薬で殺したはずの卵巣が、3年目にして動き始めてしまって

動き始めたってことは、癌再発のリスクがかなり高くなってしまいました。




卵巣がよっぽど元気なのか、日々の節制がたらんのか、ストレスがよほど大きいのか

とにもかくにも、手術のあと、放射線をうけ、そのあとお腹に打った卵巣を静まらせる薬は効果がなくなったようですわ。


「ホルモン剤を飲む飲まないというのは、本人の決めることではあるけれど」

と、言ったあと、私の訴えるホルモン剤を飲むことによる不快さは、

「強制的に作った更年期症状(卵巣機能を強制的にとめた)副作用であって、薬の副作用ではないと思うよ」

と、先生。



突然、冷や汗が流れるほどでたり、喉の異物感がつづいたり、ろれつが回りにくくなったり、疲れやすくなったり

どれもこれも、仕事をするうえで、すごく邪魔なことばかりが重なり、

卵巣機能が止まったところで、ホルモン剤をやめたのだけれど(それで、その症状はなくなったんやけど・・)

こうなってしまったら、なにか手を打ってないと、大変危険だわな。

それは、私でもわかる。




生理はほんとに重くて、毎回貧血で死にそうになっていたのだけれど、

戻ってきたときもやっぱり同じで、このところの倦怠感はちょっとやそっとのものではなく、はいずりまわっている

いつになったら、こんなことから逃れられるんだろう。




女は、子どもを生むという、得難い幸福を与えられてはいるけれど

その機能は、なかなかコントロールしにくい、大変なもので

しんどいこっちゃ



男が出産なんかしたら、失神してそのまま死んでしまうかもしれませんよと

聞いたことがあるけど

男は、この症状をかかえながら仕事できるんかいな。絶対、世の中、不公平だよな・・・(笑)




たっぷり採血したので、腫瘍マーカーの検査結果が郵送されてきてから、今後のことは考える。



先生との約束は、こうなった以上、最低3ヶ月ごとに通院してマンモグラフィーとエコー検査は欠かしてはいけない

いつものように

あなたの癌は、初期の初期というのではなく、しっかりした癌なんですからね!



わかってますよ・・・・




夏の服、もっと買おう。

来年の夏にも 再来年の夏にも 着られるように 





とりあえず、ご報告・・・


(20:00)