January 12, 2005
ベツレヘム国際センターと「日常性」のアート

併設のダル・アルカリマ・アカデミーは、パレスチナ社会を構成するさまざまな人々に高度な教育の機会を提供することを目的とし、音楽、美術工芸、メディア、コミュニケーション、文化財管理、観光などのコースを備えています。とくに力を入れている分野は女性の社会進出の促進、従来型ではない観光(中心産業なので)、そして最大の目玉が番組制作・放送の試みを中心としたメディア教育なのだそうです。また、ラッマーラにあるナショナル音楽学校と提携してその分校にもなっています(2004年からは故サイードの名前を冠して、エドワード・サイード・ナショナル音楽学校と呼ばれるようになっています)。こうした活動はみな、最終的には堅牢な市民社会を築いていくことを目標としているということが、明瞭に打ち出されているのが印象的でした。ここに一つの抵抗のかたちを見たような気がします。

どんなに抑圧されてもこの土地を去るつもりはないし、あくまで通常の生活を維持し、コミュニティを機能させる努力を続けるという抵抗姿勢は、ICBにかぎらず占領下の人々の共通認識になっているように思われます。「ふつうの生活」というのがキーワードだなあと思ったのは、ビルゼイト大学の新設美術館のオープニングで「ステイトレス・ネイション」というインスタレーションの作品を見たときでした。市民権のフロンティアを表現するという副題のこの作品は、国のない民の存在の諸相を三画面のスライド・ショー、ヴィデオ・インタヴュー、インスタレーションという複数のメディアによって描き出したものです。インタヴューは占領地、イスラエル、パレスチナの外という異なる状況におかれたパレスチナ人の作家やアーティストたちになされたものですが、いま何をいちばん望むかという問いに対して、みな口を揃えたように、普通の生活がしたい、普通の人生を送りたいと述べていたことが印象的でした。

このような流れは美術の世界だけものではありません。ナザレ出身のエリア・スレイマン監督の映画「D.I.」も、ラッマーラに拠点を置くアルカサバ・シアターの劇「アライブ・フロム・パレスチナ」も、日常性のなかの悲喜劇をポエジーと辛らつなユーモアで描くというものでした。こうした表現の世界における傾向が、政治的な方面では非暴力主義の抵抗運動や、ナショナリズムよりも市民権の要求が全面に出るような動きが少数派ながらも顕在化していることとどのように呼応しているのかは興味があるところです。
January 07, 2005
Where we come from -Emily Jacir
パレスチナ人の視点に立った芸術表現の欧米での公開には妨害がつきもの。公開の阻止には至らなくとも、ヒステリックな糾弾や物騒な示威行動によって、すでにアートを鑑賞するという雰囲気はぶちこわされてしまいます。2003年に日本に招聘された「シャヒード、100の命」展でも、「シャヒード」という言葉が「テロを支持する」ものだとして攻撃されましたが、そのような理不尽な中傷に公に反論して筋を通せば展覧会そのものが損なわれたでしょう。そういう条件のなかで育ってきた表現活動であることも認識する必要があると思います。
つい先月も、米カンサス州のウィチタ州立大学でパレスチナ出身の美術家の展覧会が不当な圧力を受けてだいなしになりかけたという事件がありました。作品自体もとても優れたものなので、紹介しておきます。

ベツレヘム出身で現在はアメリカの市民権を持つエミリー・ジャーシルは、国際的に高い評価を受けている新進気鋭のコンセプチュアル・アーティストです。「Where We Come From」という写真展は、在外と在郷のパレスチナ人に対して「あなたの代わりにわたしがパレスチナでなにかしてあげられることがあるとすれば、それはなんでしょう」と問い、彼らのリクエストを忠実に実行しした結果(実行不能なものもあった)を、32枚の写真と関連文書、一本のヴィデオによって淡々とつづったものです。「ハイファで最初に会ったパレスチナ人の子供とサッカーをする」、「両親の住んでいた村に行って、そこの水を飲む」など、リクエストはさまざま。

エルサレムにある母の墓を彼女の誕生日に訪問して花を添えて欲しい」──このリクエストをした男は占領地のベツレヘムに住んでおり、エルサレムを訪問するにはイスラエル当局の許可が必要です。前回の母親の命日には許可がおりませんでした。エミリーが彼に代わってエルサレムの墓地を訪れると、その隣にオスカー・シンドラーの墓があり、観光客がたむろしていたそうです。この英雄の隣に埋められた女には、ほんの数キロ先に住む息子が墓参りを拒まれていることには気づかずに。
今回のプロジェクトの背景には、ここ何年かのあいだにどんどん増殖していったチェックポイントと地区境界線がパレスチナの領土を細切れに分断し、それぞれの狭い領域に住民を押し込めていく状況を、ニューヨークとラマッラーを行き来して暮らすこの作家が身をもって体験してきたという事実があります。サウジアラビアで育ち、高校はイタリア、大学テキサス、その後もパリ、コロラド、ニューヨーク、パレスチナを転々とし、移動を常態とする暮らし方をしてきたエミリーにとって、旅すること、一つの領域から他の領域へ移動するプロセスと越境の意味をつきつめることが、つねに創造行為の中心テーマでした。ときには挑発的なメッセージを込めた作品には、悲しみと哀愁が漂っています。

この作品はこの春にウィチタ州立大学(WSU)のウルリヒ美術館で展示されることが一年前から決まっていました。ところが直前になって地元のユダヤ人団体から、パレスチナの状況について一方の立場からのみ説明の機会を与えることに異議を唱え、自分たちの側からのアピールを載せたパンフレットを展示会場に置いてバランスをとるべきだという要求があり、大学側が一旦それを受け入れてしまったのです。
「バランスをとる」という常套句のもとに、アーティストの表現の場に政治的に反対の立場から横やりを入れ、干渉することが許されるのであれば、芸術表現はなりたちません。美術展は表現の場であって、政治論争をする場ではないはずです。さいわい今回は、アーティスト本人と美術館長の抗議を受けて大学側が上記の措置を撤回したため、逆にそのような干渉の不当性が確認されるという結果になりました。この問題についての一般的な認識は少しずつ着実に向上しているようです。
January 04, 2005
ボタニカル・アート・カレンダー

一見したところは、英国人の好みそうな洗練されたボタニカルアート・カレンダーで、年末にデパートや本屋さんに山積みになっていてもおかしくない。野生の動植物を詳細に描き自然保護を訴えるというのはギフトカレンダーの定番もの、退屈なほど無難なジャンルといえるでしょう。でも、それがパレスチナの自然となると意味が変ってきます。パレスチナの自然を保護するとは、どういうことなのか。いったい何がそれを蝕んでいるのか。


こういうものがシオニストにとっては一番てごわい表現方法なのではないかという気がします。めざわりだけれども噛みつく隙がない。
September 09, 2004
Conversation with Edward Said
2003年2月にUCバークレーで行なわれたエドワード・サイードの講演からサンプリングしたものです。いや、なつかしい。
ダウンロードはこのページからどうぞ →
Conversation
講演そのもののヴィデオはここ → UCバークレー講演2003/2
September 06, 2004
Iron Sheik -Low Expectations
ダウンロード → Low Expectations
LOW EXPECTATIONS
見込みなし
There was a happy boy by the name of George W
ジョージ・Wという幸せな子供がいた
father so famous, he had little trouble to
親父の七光りで、苦労もせずに
make it to Harvard then to Yale
ハーヴァードからイェールへと進学した
then the Coast Guard
それから沿岸警備隊(*注)に入隊したが
which he mysteriously bailed
なぞの手口で逃げ出した
*徴兵逃れに入隊したテキサス州軍のことが言いたい? 続きを読む
September 05, 2004
Iron Sheik -Bibliography
訳するには不向きなので、こんな雰囲気というものだけ。聞いたことのある名前がたくさん出てきますが、どのくらい聞き取れるでしょうか? ダウンロードはオリジナルページからどうぞ→
Iron Sheik's Songs...a Yay Yay
BIBLIOGRAPHY
Edward Said...rest in peace
エドワード・サイード・・・安らかに眠る
Faisal Husseini...rest in peace
ファイサル・フセイニ・・・安らかに眠る
Ibrahim Abu Lughod...rest in peace
イブラヒム・アブー・ルゴドー・・・安らかに眠る
cuz of them, Falasteen won't rest in peace
でも彼らのおかげで、ファラスティーン(パレスチナ)は安らかに眠ろうとはしない
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September 04, 2004
Iron Sheik - Ode to Darwish
オリジナルページ
音楽的には、これがいちばん気に入っています。
ぜひ聞いてみてください。

パレスチナを代表する詩人マフムード・ダルウィーシュの三つの作品をもとにしたもの。上記のシークのサイトに英訳へのリンクが載っています。
-A Lover from Palestine
パレスチナの恋人
-Identity Card
身分証明書
-Passport
パスポート
Iron Sheik -RETURN aka 194
タイトルの「aka 194」というのは、もちろん彼らの帰還権を認めた国連決議194のことです。"also known as 194"、すなわち故郷への帰還は国際的にも認知された「権利」であるという意味。
オリジナルページからダウンロード→ Iron Sheik's Songs...a Yay Yay
聴いてみる→
RETURN aka 194
Return...of the refugees
Return...that's what they need
Return...it's the key to peace
Return....
帰還 ・・・難民たちの
帰還 ・・・彼らに必要なのは
帰還 ・・・平和の鍵を握るのは
帰還 ・・・
続きを読む
September 03, 2004
アイアン・シーク Iron Sheik
とても才能のある歌い手なのに、サイトを見ると、お金儲けよりもパレスチナの正義を訴えることに関心があるらしく、お若いのにずいぶん立派な根性です。せめてCDでも買ってあげようと思ってアマゾンを見ると、なんと日本ショップでは取り扱っていない!amazonの品揃えについてはつねづね疑惑を持っているのですが、また一つ疑惑がつみあがりました。そこで、ささやかながらパレスチナ・ラップの普及に貢献しようと思います。素晴らしくよい曲なので、知らずにおくのはもったいない話です。
アイアン・シークことウィル・ユーマンスは親の代からのアクティヴィスト。根っから政治的な人物で、ヒップホップは彼にとって政治表現の手段です。「アイアン・シーク」という芸名そのものがすでに一つのステイトメントです。もともとは1970年代にアメリカで活躍したイラン人プロレスラーの名前で、アラブ風の髪飾りをつけ、豪奢なローブをまとった彼は「中東の悪玉」というカリカチュアを演じていました。あえてこの名を取り上げてみずから名乗るということは、みずからの文化に勝手に押し付けられたイメージを取り戻し、みずから規定しなおすことによって、意味を規定する力を獲得するという宣言らしい。
August 23, 2004
パレスチナのオリーヴの樹(9〕
原文
Last Day of 1999 Olive, 1999.
Colored pencils on paper, 11.5 x 16.5 inches
20世紀最後の日、第3千年紀の前夜に、わたしはティレの渓谷の端に腰をおろし、風のふきすさぶ中で色鉛筆を取り出し、眼下に広がる渓谷の向こうの背の高い頑丈なオリーヴの樹を描きました。遠くの方に連なる岩とたくさんのオリーヴの樹の水平なモーション(なんという美しさ!)が背景をかたちづくっています。
この絵によって、パレスチナの美しさと、ふたたびここが解放されるというわたしの楽観主義を祝福しよう。
パレスチナのオリーヴの樹 (8)
left: First Stolen Olive Tree, 1999. Ink on paper, 5.75 x 9.25 inches, (stolen1.jpg).
right: Second Stolen Olive Tree, 1999. Ink on paper, 5.75 x 8.25 inches, (stolen2.jpg).
オリーヴの樹の連作のなかに、これらの樹々を含めるのは重要なことでした。これらはナクバというパレスチナ人の悲劇を共有しているからです。引き抜かれたり、斬首されたり、盗まれたりしたオリーヴの樹は、イスラエルがわたしたちの土地をどのように盗んでいるかを示しています。わたしには、これらの倒れた木々が倒れた自由の戦士たちを思い出させます。パレスチナ人のほとんどすべての家族が自由の戦士を送り出しており、彼らのことが忘れられることはありません。
盗まれたオリーヴの樹をわたしが発見し、それを描くに至った経緯をお話しましょう。ある日、わたしはリアナがスイスのテレビ局の取材班のインタヴューを受けるのに付き合いました。わたしたちが最後に訪れた場所はエルサレムのヘブライ大学の校庭の一角にある丘の斜面でした。そこには昔、リアナの祖父母の家が建っていたのです。カマル・アブデル・ラヒーム・バドル(Kamal Abdel Raheem Badr)と妻のズレーハ・シャハビー(Zleekha Shahaby.)です。土地と古い石造りの家はイスラエルに没収されましたが、リアナはしばしばここに戻って家を眺め、祖父母のことを偲んできました。ちょうど今のわたしのように。
彼らの家は最近、イスラエルが建設する庭園の場所をつくるために取り壊されてしまいました。家のあった場所には、大きな溝が血の流れる傷口のように残っていました。パレスチナ人の職人が切り出した巨大なエルサレム産の石は、イスラエル人が再利用するために慎重に積み上げてありました。丘の斜面の家のすぐ下にはリアナの祖父母のオリーヴ園だったものの一部が残っています。家と庭の残骸を前にしてカメラに収まるリアナの苦痛はあきらかでした。その遠景にはオリーヴ園がのぞいていました。
Third Stolen Olive Tree, 1999.
Pen on paper, 5.75 x 8.25 inches
Fourth Stolen Olive Tree, 1999. Pen on paper, 5.75 x 8.25 inches
原文
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パレスチナのオリーヴの樹 (7)
left: First Stolen Olive Tree, 1999. Ink on paper, 5.75 x 9.25 inches.
right: Second Stolen Olive Tree, 1999. Ink on paper, 5.75 x 8.25 inches.
オリーヴの樹の連作のなかに、これらの樹々を含めるのは重要なことでした。これらはナクバというパレスチナ人の悲劇を共有しているからです。引き抜かれたり、斬首されたり、盗まれたりしたオリーヴの樹は、イスラエルがわたしたちの土地をどのように盗んでいるかを示しています。わたしには、これらの倒れた木々が倒れた自由の戦士たちを思い出させます。パレスチナ人のほとんどすべての家族が自由の戦士を送り出しており、彼らのことが忘れられることはありません。
盗まれたオリーヴの樹をわたしが発見し、それを描くに至った経緯をお話しましょう。ある日、わたしはリアナがスイスのテレビ局の取材班のインタヴューを受けるのに付き合いました。わたしたちが最後に訪れた場所はエルサレムのヘブライ大学の校庭の一角にある丘の斜面でした。そこには昔、リアナの祖父母の家が建っていたのです。カマル・アブデル・ラヒーム・バドル(Kamal Abdel Raheem Badr)と妻のズレーハ・シャハビー(Zleekha Shahaby.)です。土地と古い石造りの家はイスラエルに没収されましたが、リアナはしばしばここに戻って家を眺め、祖父母のことを偲んできました。ちょうど今のわたしのように。
彼らの家は最近、イスラエルが建設する庭園の場所をつくるために取り壊されてしまいました。家のあった場所には、大きな溝が血の流れる傷口のように残っていました。パレスチナ人の職人が切り出した巨大なエルサレム産の石は、イスラエル人が再利用するために慎重に積み上げてありました。丘の斜面の家のすぐ下にはリアナの祖父母のオリーヴ園だったものの一部が残っています。家と庭の残骸を前にしてカメラに収まるリアナの苦痛はあきらかでした。その遠景にはオリーヴ園がのぞいていました。
原文
パレスチナのオリーヴの樹 (6)
Liana's Olives, 1999. G\gouache on paper, 22 x 15 inches.
"Liana's Olives" は、ラマッラーの家の庭で描いたグアッシュ画です。友人のリアナ・バドルLiana Badr がオリーブの樹とパレスチナの女たちについての映画を作っていました。わたしの作品のことを聞いて、彼女はわたしも映画に登場させることにしました。そこで、わたしが絵を描いているところへ彼女がフィルムクルーを連れてやってくることになりました。
わたしが題材に選んだのは双子のような一対のオリーブの樹でした。豊かな日の光を浴びて地面の色は鮮やかなオレンジブラウンでした。フィルムクルーが仕事するところは、見ていてとても面白いものでした。わたしとオリーブの樹、わたしの絵、パレットなどが、さまざまな角度から撮影されました。
後に、ひとりになって集中できるようになってから、わたしはこの絵を仕上げました。同じように、リアナもひとりになって映画の編集に集中するのでしょう。この絵は、パレスチナの美術ですばらしい共通体験を持つことができた記念にリアナに捧げます。原文
Abstraction at Rafidia, 1999.
Colored pencils on paper,
9.75 x 12.75 inches.
ラフィディアRafidiaの広大なオリーヴ園で、運良く日没後まで腰を据えて絵を描くことに没頭できました。オリーヴの樹の下の金色の地面に座っていると、まるで焼きたてのパンを抱えているような気がしました。友人のリアナ・バドルとフィルムクルーは遠くの方の段丘を登ったり降りたりして働いていました。ときどき、彼らはカメラをわたしに向けます。
引き抜かれたオリーヴの樹を見つけることができなくてがっかりしているわたしに、リアナはオリーヴの樹の抽象画を描いてはどうかと提案しました。すばらしい考え! やらない手はありません。抽象は自然にもとづくべきだというのが、つねづねわたしの主張するところだったのですから。ここからラフィディアと呼ばれる色鉛筆を使った作品が生まれました。
後にわたしはラフィヂアのオリーヴ園に対象を広げ、「わたしのスタジオのオリーヴ園」という題の壁画サイズ の作品を仕上げました。ニューヨークのわたしのスタジオで仕上げたものです。
パレスチナのオリーヴの樹 (5)
Al-Jusmaniyye (Gethsemane), 1999.
Pencil on paper, 11 x 15 inches.
1991年11月中旬にゲッセマネの園を訪れ、そこのオリーヴの樹を描きました。これは心にかたく誓っていた計画で、ぜったいに完遂したい仕事でした。そこは観光客でいっぱいだったので、わたしは観光客用の通路から柵で仕切られた庭園の中に入って描かせてもらえなかと頼んでみようと、無謀なことを思いつきました。
わたしの要請はあっさり却下され、おまけに、もうじき二時間の昼食休憩のために門が閉められると告げられました。そのあいだ園内に居残りたいというわたしの願いは聞き入れられ、わたしを中に残したまま門が閉じられました。最初の一時間半を使って、わたしは一本の古株のテクスチュアをじっくり観察した後、時間が足りないのではないかとあせりながらせっせと仕事に没頭しました。
いまこの絵を見ると少しばかりありきたりな感じがします。ほんとうにこんなふうに見える樹木が存在するなんて、ちょっと信じにくい。いまこの絵を見て感じる楽しみよりも、あのときの集中した時間の楽しみのほうが大きかったようだ。
友人のジュデア・マジャジJudeh Majaj が誉めてくれたのが嬉しい。彼は、インティファーダでイスラエル兵によって身体障害を負わされたパレスチナ人たちを援助するための重要な活動を行なっており、わたしはそれを高く評価しています。この絵は彼にささげたい。
The Great Great Grandmother, 1999. Gouache on paper, 11 x 15 inches.
これはゲッセマネの園ですごした二時間のあいだに仕上げた二つ目の作品です。最初の一時間半を使ってこの樹をじっくり観察した後、わたしは絵の具を取り出して猛スピードで描きはじめました。
それにとりかかかろうとしていたとき、二人の僧侶がやって来てわたしがソフィア・ハラビーの親戚かどうかを知りたがりました。そうだと答えると、かれらは自分たちが所有しているソフィアの絵を見せてあげようと言いました。彼女はわたしと同じ景色を選んでいました。違っていたのは、彼女はエルサレムの光景に重点を置いていたのに、わたしはこの古い木に注目していたことでした。
わたしは突然、自信がこみ上げるのを感じました。わたしはここエルサレムで生まれたのだ。ここにある木々のように、わたしはここにしっかりとした根を持っている。国際宗教教団の官僚主義的な裏切りや、わたしたちの土地や家を奪ったイスラエルへの反感はあるけれど、それでもエルサレムはわたしのものだ。
この小作品は、パレスチナへの帰還に伴う悲しみと喜びの多くを共有している妹のナディアに捧げよう。原文
パレスチナのオリーヴの樹 (4)
Twin Olives, 1999. Gouache on paper, 11 x 15 inches
この二本のオリーヴを描いているとき、基本的な色合いの微妙なヴァリエーションに気づきはじめました。葉の部分は輝くグレイ・グリーン──繊細に織り合わされた光の雲のように発光している。上の部分は青空を反射して輝き、下の部分にはパレスチナの土のさまざまな色が反射している。オリーヴの葉は小さくて丈夫。先端はつやつやしているけれど、下の方はぼやけたつや消しのグレイ・トーン。
この双子のオリーヴの木が描かれたラマッラーではオレンジがかった茶色の土壌がオリーヴグリーンの枝葉と交じり合っています。サバスティアでは、アッシュグレイの土が空のブルーと混ざり合って、冷めたブルーグリーンの雰囲気をかもしだしています。ラフィディアでは金色の土壌がオリーヴグリーンを春先の軽快なグリーンに変えている。視点を樹木の中に持ち上げ、さらに上方に移動させていくと、息を呑むような色彩の変転を味わうことができる。
Ain Keanya, 1999. Colored pencils on paper, 9.5 x 13 inches
友人のリマに連れられてイスラエル人入植者の専用道路をドライブしたことがあります。こういう道路はパレスチナの農民にひどい損失と苦痛をもたらしているのですが、彼らの声はめったに聴かれることはなく、オリーヴの樹に寄せ彼らの愛情が記録されることもめったにない。 ほんの数年前までは、ユダヤ人道路でパレスチナ人が発見されれば撃ち殺されることもありました。
入植者の道路が引き起こす悲劇に心しながらも、わたしたちは道すがらに通り過ぎるオリーヴの果樹園に感激し、その手入れをするパレスチナの農民が夏場に住み込む石造りの建物を数えていました。そうして、わたしたちはアイン・ケアニャ Ain Keanyaと呼ばれる湖に到着しました。
イスラエルのテロを警戒しながらも、わたしたちはオリーヴの林の中のすばらしい平穏に浸りきった。黒ユリ、まれにしかない泉、テント住居に家畜が群れるジプシーの集落。パレスチナの美しい田園風景のまっただなかに、乱暴に押しつけられているのが丘の頂上の没収地に建設中のイスラエル入植地でした。
後日わたしは色鉛筆を持参してここに引き返した。歩いて、歩いて、とうとう目当てのオリーヴの木を発見すると、わたしはそれを描き始めました。背景には丘の斜面の段々畑のオリーヴを入れました。空は描きません。パレスチナの山岳地帯では、丘の斜面が画面の背景になることが多いのです。原文
パレスチナのオリーヴの樹 (3)
Youthful Olive, 1999.
charcoal on paper, 8.25 x 5.75 inches,
1999年10月から12月までパレスチナで過ごしました。いくつものプロジェクトを抱えていたのですが、その一つがオリーヴの樹をテーマにした連作でした。オリーヴの樹はパレスチナの歴史において大きな位置を占めてきました。経済の中心的位置を占めているためです。オリーヴのことを調べるにつれ、その素晴らしい特性が見えてくるようになりました。
オリーヴの無骨な美しさと有用性は、周囲のものにさまざまな影響を与えています。とくにそれが顕著なのは、オリーヴを育てている農民たちへの影響です。毎日の帰宅の道すがらいつも見かけたのは、村の服を着た年配の婦人が自分の家の庭のオリーヴの樹にあれこれと世話を焼いているところでした。オリーヴの樹はどこからどこまで彼女のものであり、それと同様に彼女もまたどこからどこまでその樹のものでした。そして両者ともにパレスチナの真髄を体現しているのです。原文
パレスチナのオリーヴの樹 (2)
Ramallah Mountains, 1996. Gouache on paper, 5.5 x 7.5"
いちじくの樹と、画面の右側からのぞき込むように立っている二本の小さなオリーヴの若木。オリーヴの幹は風に逆らうために力強い形をしている。この二本の若木もすでに風向きに抗して直角にふんばっている。二本の木がわたしを覗き込んでいるように見えるのはそのためだ。オリーヴの樹に、イスラエルのブルドーザーに抗してふんばる術を知ることができればよいのに。原文
August 20, 2004
パレスチナのオリーヴの樹 (1)
Young Olive Tree, 1996
gouache on paper
7.5 x 5.5 inches
1996年に、わたしはラマッラー周辺の丘陵地帯を歩き回って、何枚もの小品を描きました。この小さなオリーヴの樹を描いているとき、なんだかそれが子供のように思えてきました。 それいらいオリーヴの樹に出会うたび、それぞれの個性を見るようになりました──赤ん坊、よちよち歩き、青春、壮年、老年などというように。
枝葉のテクスチュアとその樹の根元の石ころまじりの土壌のテクスチュアを観察していると、渓谷を横切って並んでいる集合住宅の水平なバルコニーのテクスチュアに気がつきます。イスラエルがわたしたちに建設を許可しているのはパレスチナの中のほんのわずかな土地でしかないため、わたしたちの町はこのようにオリーヴの樹々を侵食しながら拡大するのです。
別の方向からは、もっと重大きな脅威がしのびよる。ラマッラー周辺や西岸地区のいたるところで、イスラエルはわたしたちの土地を好き放題に接収し、「ユダヤ人専用」の住宅を建て、囲いをめぐらして厳重に警備している。彼らはいつも丘の頂上を選び、パレスチナ人の町や村を軍事的に監視している。悲しいことに、これらの入植地に出入りする特別道路を建設するために、さらに多くの土地が接収されている。パレスチナ人はこのために土地を失いはかり知れない苦しみを味わっている。嘆かわしいのは、こうした入植地の多くは一部しか入居していないことです。
この幼い木も、これを世話している人も、なんとわびしげなことか。吹きさらしの山腹にぽつんと立って、刻々と迫りくる力ずくの建設活動や経済的な収奪に直面しているのです。原文
サミア・ハラビー Samia Halaby
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このサイトは、サミア自身のパレスチナ訪問記と並んで、20世紀のパレスチナ美術を概観したものも載っていて(まだ構築中のようですが)とても充実したものです。
サミア・ハラビーは1936年にエルサレムで生まれました。1948年イスラエル建国によって難民となり、両親と共にアメリカに移民しました。アメリカで美術を学び、美術史研究家、画家(抽象画)としてアメリカ各地の大学で教えてきました。