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紆余曲折七転八倒!武田健太郎の創業記

ビジネスギルド株式会社代表「武田健太郎」 経営者業務のアウトソース & 法人向け営業支援を極めた専門家集団を率いるアラフォー!

1 8月

マイ・ヒーロー「千代の富士」

僕が、小学校高学年の時、横綱千代の富士全盛期だった。当時引っ越したばかりで、遊ぶ友達もいなかった僕は、夕方からはじまる大相撲を見ることを楽しみにしていた。


テレビで見る千代の富士は、スピードとパワーで次々に大きな力士を倒していった。
背も小さく、徒競走ではいつもビリだった僕にとって初めて現れたヒーローだった。
カラダが小さくてもきちんと鍛えていけば、でかいやつに勝てる。
このことが、当時の僕にとってどれだけの勇気を与えてくれたか。
中学に入って、体育会一本槍となった僕は、ひたすら練習と筋トレ、自主トレに明け暮れた。思春期の男の子にとって、背が小さいというのは、生存権を脅かされかねない恐るべき劣等感である。いや、僕にとってはそうだった。

そんな僕にとって、常に勇気をくれたのが千代の富士だった。
大好きなヒーローだった。
学年で最も小さな僕が、水泳でも柔道でもそこそこの選手生活をすることができたのは、間違いなくマイ・ヒーロー「千代の富士」の存在があった。

現役最後の方は、怪我がちになり貴花田に敗れた取り組みを見た時、ああこれで終わったと思った。
その後の名言。。。
「体力の限界!気力も無くなり、引退することになりました」
と、涙をこらえながらの発言に中学生ながら胸を熱くした記憶がある。

でも、実は千代の富士の身長が、183センチと知った時には、正直「でけーじゃん!」って、思ったけどね(笑)

僕は、まだ体力も気力も限界ではない。挫けそうになることが多いけど、自分に勇気をくれたヒーロー千代の富士のご冥福を祈りつつ、もらった勇気を改めて胸に秘めていきたいと思う。


1 9月

期間限定ですが、ダイエットブログはじめました^^;

日々是好日。。

で、あるためには仲間といっしょに楽しい時間を過ごし、好きなモノを食べる。
これが、僕のストレス解消!

で、あったのですがひょんなことからダイエットに取り組むことになりました(-_-;)

誠に恥ずかしながら…
苦手なんすよね。

でも、こんな僕でも痩せられるっていうことが証明できれば、根性足りない同世代の皆様の参考になるかと。。。

ということで、こちらも御覧ください。

「漢」武田健太郎(アラフォー) 痩せることになりました
5 1月

チャレンジへの代償「嘉田由紀子滋賀県知事」

滋賀県知事で元日本未来の党の代表であった嘉田由紀子氏が、苦しんでいる。
おそらくである。
苦しんでいるという報道はないが、本人は相当悔しい思いをしているのではないか。

メディアの言葉を借りれば、永田町の妖怪たちに取り込まれ、捨てられた。

経歴を見ると非常におもしろい人である。
京都大学農学部の出身で、探検部に所属していた。
さらには、探検部時代にタンザニアに半年間生活したという。

私が、彼女に注目したのは新幹線の新駅建設の可否をめぐる当時の自民党とのやりとりを見た時である。新幹線駅の新設は、首都圏在住者にとって想像もできないほど地方にとって非常に大きな問題である。短期的経済効果と長期的経済効果の双方への期待。幻想と現実が入り交じっている。
そのようななか滋賀県議会は、新幹線新駅新設に反対する意思決定を行った。
その際に自民党の幹事長であった中川秀直氏が、直接知事を訪問したことは、ちょっとしたコメディであるが、最終的に政府としても新駅建設の凍結を決定した。

その際、森喜朗元首相が
「『駅をつくるのはもったいない』と言って当選した知事がいる」
「ああ女の人だな。やはり狭いなあ」
と女性の視野がせまいことを揶揄した発言をおこなった。
これに対しての嘉田知事の切り返しが、僕のツボだった。
「発言の文脈がわからないので、(女性蔑視かどうか)コメントできない。新駅問題の本質は、動き出した公共事業を有権者の1票に込めた思いが止めたという、民主主義や地方自治の在り方にある、と述べさせていただきました」
森さんは、森さんで古き良き日本!?を代表する発言を行ったが(笑)
それに対して、一つの理想論と新しい地方自治のトップの姿を見せた知事を新鮮な思いで見た。

いわば、反骨の人。硬骨の人である。

といって、昨今主流である道州制導入論には、慎重である。
単に時流にのっているわけではない。
そこのところが、保守層にも受け入れられている理由だろう。

その嘉田知事が、昨年末以来の大博打に負けた。
無論、負けたと断ずるには早いが、大きな後退を余儀なくされている。

小沢一郎氏と組んで仕掛けた「新党日本未来の党」が、先の総選挙で惨敗。
選挙戦の過程においても、小沢氏との意見の齟齬や選挙戦略のズレが透けて見えてしまう状態であった。更には、根回し不足であろうかお膝元の滋賀県議会からも突き上げを食らってしまい党首として十分に選挙に取り組んだとは言いにくい。

そして選挙後に党役員人事をめぐってすったもんだがあり、結局未来の党を離党。党首が離党である。無論小沢さんたちの政党助成金がらみの云々は、ここで議論するつもりはない。が、まさに永田町の妖怪たちにしてやられてしまった。

さて、ここからである。
ちなみに断っておきますが、私は嘉田由紀子氏の政治信条や政策に対しての賛同の可否をここで申し上げるつもりはありません。
私が、考えているのは彼女が政治的に復活するのか否か。現職の知事であるので、この表現が、適当かどうか微妙であるが。
経歴や知事としての実績は、十分にある。人物としてもなかなかな方だと思っている。
このまま国政の目がなくなることにちょっと惜しいなと思う。

常々考えるのですが、敗者に厳しく死者に優しいわが国の風土。どうにも民主的政治家が育ちにくい風土にあるなあと。
今回、安倍晋三氏が復活し再チャレンジの切符を手に入れた。
自民党独特の論理と民主党に対する厳しい審判という2つの要素が理由とはいえ、再チャレンジが可能となったことを素直に喜びたい。
であれば、あれほどのリスクを取った挑戦をした嘉田由紀子氏にも再びたちががることができるのか?というか、有権者は、その切符を与えるのか?


僕は、嘉田由紀子氏の一連のチャレンジを高く評価したい。
「決断とは、偏狭な視点をもつ意思決定である。」

私などは、この数年決断を放棄する決断をしてきた。モノは言いようだが要は、流れに身を任せているのである。
そのような身からみても、今回の早期の撤退は戦略的とも言える。傷は浅いのではないか。

いずれにせよ、負けても負けてもチャレンジできる社会であって欲しい。
そんなことをニュースを見ながら考えた。
21 2月

ベンチャー企業で働くために必要なこと「決断力」と「判断力」

僕は、新入社員の時日本に冠たるゼネコン組織の一員として過ごした。若いので給与は大したことなかったが、びっくりするような福利厚生。様々な先輩たち。ドラマの中のようなオフィスビルにいて、見たこともないような金額の案件に携わっていた。

そんな僕が、なにを血迷ったか起業してしまった。今思えばなんの計算もない見切り発車のような起業だった。当然気負ってみても客はいない。それまで何億何千万といっていた僕の頭の中は、もはや見る影もなくなっていた。
はじめてのお客さんは、3カ月後。初めてお客さんのもとに伺ってPCのトラブルを解決していただいたのが、5,000円。すべては、この5,000円から始まった。
ほんとうに嬉しかった。大企業でいくら大きな契約をとってきてもこの5,000円にまさる契約はない。というか、僕の人生でもっとも大きな契約は、この5,000円。すこし女性っぽかったおじさんだったが、いまでも忘れられない。
ちなみにその5,000円札は、いまでも僕の宝物で大切にとってあります。初心を忘れないように。


それ以来様々なベンチャー企業に携わってきた。働いている人たちの質も随分変わってきたように感じるが、相変わらず変わらないことがある。ベンチャー企業で働くとは、どういうことか?ということだ。
ベンチャーにおいて一人のメンバーが、どこまでの仕事を受け持つのかというのは、非常に難しい。ともすれば力量的能力的にできるということで一人のメンバーにタスクが集中する場合がある。あらゆるタスクを一手に引き受けることは、実は自己満足にしかならない。
なぜならいかに能力があったとしてもキャパには限界があるから。
CPUの処理能力が高くともメモリの容量には限界がある。ということだ。
さらにそこには、ソフトという様々なスキルが必要であり様々な周辺機器敵役割を担ってもらわなければならないパートナー企業が必要となる。
ひとりでは、決して仕事はできない。そのことをついつい忘れてしまう。
その志が大きければ大きいほど。。

で、ベンチャー企業。特に初期のベンチャーにとって最も必要なモノは、資金である。いうなれば電気。これがなくては、何も始まらない。
電気だけは、TOPによって引いてもらわなければどうにもならない。
そのすべてが、一人のメンバーによって担われるとすると結果的にベンチャー企業というチーム(あえて)は、そのメンバーの力以上にはならないだろう。というか、かなり歪な成果しか出ない。

チームというのは、やはり有機的にそれぞれのメンバーがなすべき仕事をきちんとこなさなければならない。チームリーダーとオーナーは、役割が違うのだ。
ベンチャーに参加した以上、大きな組織と異なる思い責任をひとりひとりのメンバーが背負っていることを理解しなければならない。

大きな企業からベンチャーに移ってくると2つのパターンが生まれる。
それまで組織の名刺で勝負していた人間が、大きな勘違いの元ベンチャー企業に移ってくる。そうするとその人物は戸惑う。
なぜならそれまで自分の実力だと思っていたものが、実は会社の看板によって増幅されていただけだという現実を目の前に見せつけられるのだ。古くからよくある脱サラ失敗例だ。
そうなるとその人間がとるべき道は、2つしかない。その現実を認めず、自分の実力を過信し続け失敗を失敗と思わず消えていく。
もう一つは、現実を受け入れて自分自身を現実に適した人間として鍛え直す。現実を見る目を改めて身につけるのだ。軽く扱っていたアシスタントの事務員さんにいかに助けられていたか?自分が面倒見ているつもりだった部下たちが、手足になってくれていたからこそあげていた数字。うざい、能なしだと見下していた上司や経営陣たち。それらのすべてが、自分を守っていてくれたと再認識する。
そこではじめてサラリーマンから経営者として脱皮するきっかけとなる。
実は、これは非常に難しい。

また別のパターンもある。ベンチャーにうつることで仕事に没頭していく人たちだ。いわゆる有能な人。
彼らは、自分がやりたかった多くの仕事を一手に引き受けることができる。ベンチャー企業では、マルチタスクが必須スキルだ。営業もやり商品開発もやりさらには、経営にも首を突っ込める。経営陣も近いし、自分自身が経営陣に属することもできる。サラリーマン時代小さな権限しか与えられていなかった情熱家にとっては、もう楽しくてたまらない。
が、そのような人物にも2つの結末が用意されている。
一つは、目の前の仕事に没頭していくあまり廻りが見えなくなる。結局自分だけが仕事をしている気分となりいつのまにか、家族を含めて廻りの指示をどんどん失っていく。しかしそれすら気づかず、体をこわすか?いつまでたっても芽が出ることなく消えていく。
もう一つは、やはり一息いれることのできる人。周りの意見を聞き、会社のメンバーや家族、友人の忠告に耳を傾けあるべき姿をじっくり追求していく。情熱的に仕事をするためには、何が必要かを知識と感覚で身につけていく。

僕が、これまで出会ってきた大きな成功者は、実に人の話をよく聞く。といって言いなりにはならない。最終的には、自分で決裁していく。しかし判断するための材料は、豊富だ。社内の誰にも負けない。




ベンチャー企業は、ひとつの判断ミスがチームにとって致命的だ。つまりメンバーを路頭に迷わすことになる。これは、経営者だけに言えることではない。メンバーも同じ。
単純なこと。月に200万円が必要としている会社で営業の判断ミスから150万円の売上しかなかった場合、最悪50万円のショートとなる。また200万円の案件を予定通り納品することが出来ず、一ヶ月の納期のずれ込みが起こった場合資金繰りに200万円のズレが生じる。これもチームの解散を意味する。
こんなことは、ある程度の企業に勤めているサラリーマンでは、決して経験できない強烈な緊張感だ。


大なり小なりだが、組織を背負う場合必要なものは、「決断力」と「判断力」
第二次大戦前において決断ができなかったフランスのダラディエ、判断を間違えていたイギリスのチェンバレンはヒットラーの台頭を許し、世界大戦を引きをこす大きな失策をした。
その一方で断固とした姿勢で国民をまとめ上げ、ナチスドイツに徹底抗戦したチャーチルは、「決断力」と「判断力」を備えた人物だったといえる。

ベンチャー企業にいる以上は、経営者のみならずメンバーもこの「決断力」と「判断力」を徹底的に磨いていく必要がある。

最初にあげたベンチャーにチャレンジした人の4つの道。このいずれかを通るのかは、本人たち次第だろう。消えて行く人財にならないために「決断力」と「判断力」を常に磨いていかなければならない。そのためには、ヒューマンスキル・専門スキルともに磨いていく必要があり、多くの情報を整理、処理していかなければならない。書物やインターネット上の情報、多くの人にあって話を聞く。そのすべてが、血となり肉となる。

くどいようですが、ベンチャー企業にJOINするということは、メンバー一人一人が会社を左右する存在であり経営者でもあるのです。逆に言えばベンチャー経営者は、そのつもりでメンバーと向きあわなければならないと思うのです。

ビジネストレーニングでは、本人たちが考えている以上に不安定なベンチャー企業や中小企業に参加している方々のために少しでも力に慣れるようなプログラムを提供していきたいと考えている。

僕自身も経験してきた道だから。。


栄光は、君の手に!!
29 1月

直江兼続は、侵略者?研修会社こそ現場主義に徹するべき

歴史上の史跡に行くと、その人物がどのように扱われているのかがおもしろい。

例えば長野県の上田市や群馬県の沼田市に行くと六文銭だらけである。ちなみに両地とも真田氏が統治した期間は、それほど長くはない。江戸期を通して別大名が支配している。上田城は、仙石氏と松平家。沼田は、土岐家が長い。
また甲府も武田菱に埋まっている。武田菱と風林火山が、甲府の象徴になっている。しかし武田家は、勝頼代に織田信長によって討ち果たされている。
ちなみに上杉謙信の越後新潟は、さほどに高く扱われていないように感じる。(天地人以降若干変化しているが)甲府における武田家とは扱いに大きな違いがある。上杉家は、米沢において大切にされており、特に上杉鷹山の扱いは神のごとくである。昨今俄に人気が出てきた直江兼続や前田慶次郎などは、歴史的な扱いは低い。謙信(軍神)→景勝・兼続(没落させた)→鷹山(中興の祖!)といった感じだろうか。
メディア特に大河ドラマに載る前の歴史上の人物に対する土地の扱いは生々しくておもしろい。

ある時、山形にある長谷堂山にのぼった。登ったといっても小さな山でかつて山形城の支城であった長谷堂城の跡がある。
この長谷堂山は、関ヶ原の戦い前夜に米沢より攻め寄せた上杉家重臣直江兼続の軍と山形の領主最上義光の決戦の地であった。

直江兼続率いる上杉軍は、2万とも4万とも言われる大軍で山形最上義光の各支城を突破し山形城・長谷堂城を見下ろす菅沢山に迫った。対する最上方は、最上家重臣志村秋安率いる千余名。当時の最上家は、24万石である。衆寡敵せずは、明らかであった。

長谷堂山の山頂に登ると山形市が一望でき非常に気持ちがいい。その山頂の立て看板には、どこに誰が陣立てていたかがわかりやすく記されていた。

まあまわり見渡すかぎり直江兼続の軍に取り囲まれていたということを体感^^;
当時大河ドラマ「天地人」の放送中であり観光客も多く、ご丁寧に地元の方々がボランティアガイドとして様々な説明をしてくださった。

そのガイドの方がおっしゃった一言が、僕は笑ってしまった。
「ここでは、直江兼続さんは侵略者です(笑)」
まあ、この山にのぼっている殆どの人が直江兼続贔屓で天地人視聴者であろうから地元民として云うておかねばならぬことだったんだろう。ただ僕は、地元の方のこういう感覚を感じると歴史上の人物がすごく身近に感じるとともにその先達たちの人生から学ぶべきものに血の流れやあたたかみを感じる。

僕は、基本現場主義をとっている。
極力人に会い、極力現場にいる。
例えば研修業界の講師の立の中には、自分自身が満足に研修を受ける側に立ったことがない人達がいる。またビジネス世界の荒波に揉まれていない人間が、研修と称してぎりぎりの判断を繰り返すビジネスの世界での人材育成をするというのは、いささか僕には受け入れられない。
研修スキルやプログラムは、それこそ講師育成研修で身につくこともあるだろうが、現場が抱える緊迫感や倦怠感などを身をもって知ることはできない。

長谷堂合戦にしても地元の人々にしてみれば、生存戦争であり「愛の人」の武功の肥やしなどではない。「直江兼続は、侵略者です。」という言葉を聞けなければ山形の人たちのナマの感覚を感じることも出来ず、戦国の世の真実など見えるはずもないのだ。

介護業界では、やはりある程度年をとった人が戦力として強いと聞いたことがある。また教員の世界でも長らく教師を続けてきた人よりも子育てを終えて一段落した教師の評価がじつは高いという。実際に子育ての現場にいて同じ子育て世代の中で、苦しみ悩み喜びを感じてきた人だけがわかる子供たちの気持ちや親の戸惑いを汲み取ることができるのだろう。

現場主義とは、現場を見て、現物をさわり、現状を分析するといわれている。
私もこれまで以上に実際にビジネスの現場で人材育成に携わっている方々に直接会う機会を増やしていこうと思う。




13 1月

今年もよろしくお願いします。おせちを食べながらぼんやり考えた織田信長と食事。

正月休みが終わって、いつもの喧騒の中に戻った。
普段たっぷり働いて、ある程度まとまった休みをとるという習慣は悪くないと最近気づいてきた。まあ休みといっても結局本を読んだり資料の整理をしたりと仕事から離れられるわけではないのだが、それでも自由な時間の中で普段できない頭の整理や知識のインプットに当てることの重要性にそろそろ僕も気づいていいかもしれない。

僕の年末年始は、もう二十年以上続いている型がある。
31日は、年越し蕎麦を食べながら「紅白歌合戦」をみる。
紅白の後は、そのまま「ゆく年くる年」でしみじみしつつ年越しのタイミングを体感する。
年をこしたらそのまま地元の神社へお参りへ。
ここのところ山形で過ごすことが多いので山形市内のお気に入りをめぐる。
ルートも決まっている。
「出羽国分寺薬師堂」→「歌懸稲荷神社」→「神明神社」である。


出羽国分寺薬師堂
 全国にある国分寺の出羽Version。聖武天皇の勅願により行基によって741年に建てられたといわれている。現在の本堂は、宝幢寺という山形の古い真言宗のお寺を移築したいう。この薬師堂、古いながらも趣きのあるお寺さんだ。

歌懸稲荷神社
 もともとは、山形城の守り神として祀られていた。当時の城主は斯波兼頼。その後最上家に山形の領主がかわってからも変わらず山形城内にあり大切にされていたという。
山形きっての名君最上義光は、自領内で文化振興に努めその成果もあってか武士から町民に至るまで神様に対して短冊に歌を書いて奉納する風習ができたという。そのためか、歌懸神社と言われるようになったらしい。
最上家改易後、山形城主となった鳥居忠正がより多くの人々が参拝できるように城外に移転させたことによって現在に至っている。
僕は、歌舞音曲には全く疎いのですが三の丸の土塁跡の脇にポツリとあるこのお社が、たまらなく好きなので必ずお参りしている。

神明神社
 新潟時代に神明宮に毎年お参りすることを旨としていたので山形では神明神社に行っている。このお社は、小さいながらも街の人たちが気合入れて守っている感がとても好きなため町内の人間ではないが毎年顔を出している。もともと山形城北門の守り神とされていたらしく、斯波氏以来代々の山形城主によって保護されてきたという。

本当は、専修寺に行きたいのだが二年参りを受け付けていないらしく毎年門の前を通るだけだ。専修寺は、最上義光の娘で羽柴秀次の妾となり秀吉により処刑された悲劇の姫君の菩提寺でもある。

でもって、解説が長くなってしまったが帰ってきてあけおめメールを送りつつ就寝。
初日の出は、太平洋側で年越しを迎えた時のみの出撃となる。

元旦は、おせち料理と雑煮とお屠蘇が必須。
新年の抱負をのべて、改めて初詣に家族で出撃。
ここは、山形の場合「湯殿山神社別院」と何故か決まっている。


普段験担ぎをするわけでもなく、神仏に帰依しているわけでもない。
ただ一年に一度くらいは、古式礼法に則った気分になるのもいいと思っている。

そもそも我々が現在礼儀と思っている様々な礼法は、室町時代につくられたものだ。
小笠原流礼法が、基本となっている。
今に至る結納やら結婚式やらも元を正せば小笠原流礼法である。
礼法に想いを馳せると想い出すのが、織田信長。
まあ、行儀の悪い男だったらしい。
特に食事の作法がなっていなかった。

そもそも小笠原流礼法は、室町期の守護大名たちがあまりに無作法すぎる無頼者たちばかりだったことに頭を抱えた室町幕府がつくったもの。簡単にいえば動作に様々な縛りを与えることでその動きを拘束した。
そのため守護大名クラスは、学ぶべき教養の中に入っていた。そのため武田信玄や今川義元といった守護大名出身者は、実に行儀が良い。いまでいうところのしつけの出来た子なわけである。ご飯を食べるにしても、どれから箸をつけるとか少しずつ食べるとか箸の動き一つにすべて意味がある。このことは、あながちバカに出来ない時代の変化である。この室町幕府の行った礼儀施策が、その後の日本文化の基礎を創り上げたといっていい。

ところが織田信長を輩出した織田家は、そもそも大名の出ではない。尾張の国(今の名古屋市周辺)の守護であった斯波家の家来の家来である。当然小笠原流礼法などという仰々しいものをマスターするべき家ではない。
ましてその家来たち。例えば柴田勝家や丹羽長秀、佐久間盛信などといった人たちにいたっては、推して図るべしである。
そのため信長軍団は、上洛後非常にこの礼儀というものに苦労している。

その上織田信長はそういうことに全く頭を使わない。性格としてお念仏のような方法論や礼儀などはなから受け付けない。もう現代で言うところの研修屋泣かせの人物だ。「そういうものです。」っていう論法の通じない相手だから、食事とは!などといっても鼻で笑われるだけ。
結果、彼にしてみれば飯とは腹が膨れればそれでいいではないか!となっていた。
桶狭間の戦い出撃の前に湯漬けをさらさらとってイメージに重なる。

ところが食事の礼儀というものは、意外に重要だ。彼自身が、力を持つに従って各地の大名小名や貴族、はては征夷大将軍などと膳を共にすることが増えてくる。
現代でもそうだが、食事のマナーがなっていない人とテーブルを囲むとうれしい気持ちはしない。あっ、僕自身がマナーができているわけでは、決して無いが。。
デートの時に食べ方が汚いとそれだけで振られる理由になるというのは、古今東西男女の差別なくよく言われることだ。
当然信長に対してもその批判の目は向けられたことだろう。

一方で彼ほどの合理主義者であれば小笠原流礼法の利用価値も十分に認識していたはずである。そこで必要とされたのが明智光秀や細川藤孝などの教養人たちとなる。彼らこそが、織田家の外交窓口として活躍するには、理由があるのだ。
まあ、当の信長はマスターする気に乏しいとしか思えないが。

いずれにせよ、明智光秀が信長と食事を共にするたびに「反感」や「嫌悪」と同時に「恐れ」のようなものを抱いていったのではないかと想像するしてしまう。
何はともあれ一つ言えることは、この飯の食い方だけでも織田信長という人間の輪郭が見えてくる。お行儀という「そういうものです」を一切受け付けない。これが、中世的価値観や体制の一切を否定していく彼の人生に結びついてくるのであろう。


とはいえ、織田信長的生き方をすべて真似することは、私のような凡人にはできない。
彼は、そうはいっても中性的価値観と家長的役割の中である種の俗世的苦労を知らなかったがゆえに出来上がった人格であるといえる。文化的文明的でかつ個人の存在を大切にされる現代において織田信長という人材を求めるのは、困難だ。そして彼は、結果的に歴史的役割を十二分に果たすにしても織田家という彼自身の住処を没落に導く。いまでいうところの家庭崩壊だ。
やはり我々凡人達は、基本的マナーくらいは持っていたい。


食事といえばもう一つ。
関東の覇者北条氏康の話だ。
ある時北条氏康が、息子の北条氏政と食事をとっていた時の話。
氏政は、食事の最後に飯に汁をかけた。
その際、量の調整のためか一度かけたあともう一度かけ直したという。
それを見た氏康は、はらはらと涙を流してこういったという。
「ああ、我が北条家もお前の代で終わりか。。。」
それを聞いた氏政は、なぜかと確認した。
「毎日かけている汁の量も調整できないお前が、家臣領民の心を掴み敵の動きを読み、領国を守りぬくことなどできようか?」

食事ひとつとっても様々な見方がある。
ちなみに僕も汁かけご飯を好んでいるが、この逸話を知って以来かける際に過度な緊張が走る^^;


昔から言われている「そういうもの」
っていうのは、仕事においてもプライベートにおいても意外な論理的理由があるもの。
そこを因数分解して改めてわかりやすくしているのが、研修ってことになるんですが。。
家族みんなでおせち料理を食べてお屠蘇を飲むという日本人の伝統行事。
年に一度くらいは、古来の宮中行事に習って家族で楽しんでみるのもいいのではないかと思っています。

また一年間全力を尽くして、一年後の年末年始もいい時間にしたいと改めて思った一週間でした。




本年もビジネストレーニング及び武田をよろしくお願いしますm(__)m
31 12月

2011年 本年もありがとうございました。

2011年が、終わります。
今年も大変お世話になりました。

思えば秋口よりこのBlogを再スタートしまして、せめて一週間に一度は更新しようと続けて参りました。
人材育成プログラムを提供する株式会社ビジネストレーニングという会社に所属して、人の可能性というものを及ばずながら伝えていこうと考えてお話をしてまいりました。
本来Blogですから日常に起こったことや社業の報告などがメインであるべきなのですが、もう少し本質的な所で私どもの理念を伝えていきたいと考えています。

今年は、日本の転機ともなった「311の震災」。個人的には、その311に入院という事態になりこれまでの人生を少し振り返る時間をいただきました。キャリアや日銭、生活の安定などに囚われていた自分を改めてチャレンジャーと定義し、新たなる道を歩む決意をしました。
率直に言って自分個人は、現在まだ再起動中と言った感じです。
正直やり残したことが多々あり、来年こそはさらなる飛躍をと心に誓う次第です。

私自身が、株式会社ビジネストレーニングへのJOINから五ヶ月が立ちました。
右も左もわからない状態で、業界の様々な方々にお教えいただき試行錯誤の中、様々なプロジェクトに取り組んで参りました。
ビジネストレーニングのプログラムは、「組織と人材のズレを解消する」という目的のもと組まれています。組織の目指すべき目標とメンバーのキャリアプランを同期してくことでメンバー個々人がより高いモチベーションで各ミッションに取り組んでいくことができる。
あくまで人材にフォーカスすることが、我々ビジネストレーニングのビジョンです。

2012年は、皆様のご協力によりいくつかのプロジェクトをスタートさせます。
至らないことも多々あるかと思いますが、ご協力いただければ幸いです。

来年は、ご協力いただく皆様のさらなる飛躍と株式会社ビジネストレーニングの成長のために更なる邁進をしていきたいと考えています。

今後とも皆様におかれましては、ご指導ご鞭撻頂きたくお願い申し上げます。
31 12月

学ぶということから思う「田中秀征」さんと「加藤清正の晩年の成長」

僕が、学生時代から師匠と思い勝手に押しかけている方に「田中秀征」さんが、いる。
もう十数年前に頂いた一言一言ですら、いまだに僕の判断の参考にしている。
僕は、「先生」という単語が好きではない。
というか、厳密に言うと「先生」と言うべき人にしか「先生」という言葉は使っていない。
だから国会議員に対しても使わないし、病院に行ってもそれは「医師」であって「先生」ではない。議員にしても医師にしても「先生」と言われて当然と思っている方が、少なからずいる。そういう方々にとって僕のような人間は、生意気な奴以外のなにものでもない。

が、「田中秀征」さんだけは先生なのである。
僕が先生と常につけてしまうのは、田中秀征先生と学生時代とてつもなくお世話になった相田利雄先生だけかもしれない。もうこの二人に対しては、飼い犬のような気分になる。

秀征先生が、通じておっしゃっていることに「日本人の判断の正しさ」というものがある。
「有権者は、賢明なんだ。」
と、話の中でよく使われる。

この言葉は、僕にとっての行動規範となっている。

マーケットが、真に必要とした商品は売れ続ける。
故に上っ面のマーケティング戦略と契約で売上を上げていく営業戦略は、僕にとって納得できるものではない。結局は、衰退していくしかない。IT業界に長くいるとそのような企業を多く目にしてきた。
賢明なマーケットの判断が、最終的に下るというのが民主主義と自由主義の強烈なところだ。無論短期的な話ではない。中長期的な話だが。




僕が、田中秀征さんを先生としているからといって僕自身が、さほどの人物となったわけではない。とてもとても追いつけるものではない。
が、先人たちの師弟関係を見るとなかなか興味深い。
幕末の志士と言われる坂本龍馬にとっては、勝海舟が師匠であっただろう。
伊達政宗には、虎哉宗乙がいる。
西郷隆盛には、島津斉彬がいた。
上杉謙信には、天室光育からの養育が大きかっただろう。

いずれにせよ教育次第で人の人生は、全くかわってくる。

学ぶということにより人間が変わっていく面白い例が、加藤清正だ。

豊臣政権というのは、それ以前と以降の政権に比べて非常に面白い特徴がある。
中枢幹部が、無学だったということである。
豊臣秀吉子飼いとも言うべき加藤清正や福島正則は、満足に字を読むことも出来なかったと言われる。結果、武を重んじる人材と文を重んじる人材に結果的に別れることになる。

視点をかえれば、秀吉亡き後の豊臣政権の混乱は、学問的なバックボーンのある人材(徳川家康・藤堂高虎・細川忠興)によってない人材(加藤清正・福島正則・加藤嘉明)が踊らされた結果としてのおこったことという見方もできる。
学問的基盤を文武の文とすると、秀吉の人材活用術はおもしろいほどクリアである。
五奉行に代表される行政を司るには、文(学問)が優先される。
逆に武があったとしても行政手腕があれば行政の側に立たされる。
代表的な例が、大谷刑部であろう。
大谷は、本人の志向も武功によって身を立てていくことであり自身も武略に自信を持ちさらに秀吉もその才能を高く評価していた。
「100万の兵の采配を任せてみたい。」
とまで言わせている。
しかし彼に与えられた任務は、常に後方の兵站と行政。
武を高く評価しているにしても必要なのは行政手腕。武より文を重んじている秀吉の考え方が透けて見える。

結局秀吉亡き後の関ヶ原の戦いは、行政手腕をかわれていた奉行衆と武を持って仕えてきた武断派たちの対立をうまく煽った徳川家康が、漁夫の利を得たことによって終着する。

私の考える「文」とは、簡単にいえばロジカルシンキングである。
論理的思考に立つ石田三成などの奉行衆にしてみれば、秀吉死後の徳川家康の動きは、豊臣家乗っ取り以外の何者でもなく、それがわからない武断派の動きを怒りを持って見ていたと思う。




その武断派の代表格である「加藤清正」は、関が原後政治家として変貌を遂げる。
彼は、豊臣家を支えるため徳川家康に対抗しうる「政治力」をもった人物に生まれかわる。
そのキーワードが、学問である。
加藤清正や福島正則など関ヶ原で石田三成らの排斥に動いた豊臣家恩顧の大名たちにとって、その後の徳川家の台頭は、まさに痛恨の失敗だった。彼らは、自身の生き残りと豊臣家への忠誠のはざまで揺れ続けることになる。
加藤清正は、武と勇をもってのみ生きる時代が終わったことを悟ったのだろう。
様々な学才を集め自身が率先して様々な学問を学び始める。

もともと素養もあったのだろう。
彼は、その短期間にまさに徳川家からの圧迫を受け続ける豊臣家を守るための壁になり続けるのである。これは、容易なことではない。徳川家康は、当時世界でも類を見ないほど長期間政治軍事共に最前線に立ち続けている英傑である。今川義元や武田信玄、北条氏康、織田信長などの当時すでに伝説化していた英雄たちと渡り合ってきたその天下人に対抗することは、普通無理である。

僕が注目したいのは、彼自身が晩年学問を身につけることによってそれほどの変貌を遂げたことにある。

加藤清正が、武断派として政治的に大きな失敗をした事件に「石田三成襲撃事件」がある。
朝鮮の役での論功行賞に不満を持った武断派が、秀吉側近の頂点にいた石田三成の襲撃を企てた事件である。結局石田三成は、盟友であった佐竹義宣の機転で徳川家康の庇護を受けるという離れ業で難を逃れる事になるのだが、これにより石田三成は、失脚。家康の権力が益々強くなるという結果を招くことになる。
加藤清正を始めとした武断派の感情に左右された判断による大勢の見誤りである。

一方で関が原後の加藤清正は、持ち前の胆力と共に冷静な政治力を身につけている。
徳川家康の指示する名古屋や江戸の築城プロジェクトや土木作業などを積極的にこなしていく。が、同時に豊臣家への礼節も忘れず地元熊本からの道で大坂を通るときには必ず豊臣秀頼へ拝謁している。これは、浅野幸長以外の他の大名にはない行為である。
彼は、同時に熊本に大坂城に匹敵するような堅城を構築しその絵図を豊臣家へ献上する。つまりいざというときには、秀頼とともに徳川家と一戦交えると宣言しているのである。

これは、徳川家への示威行為である。彼自身本気で徳川家と豊臣家が戦争した所で豊臣家に勝ち目がないことはわかっていただろう。それゆえ豊臣家を残すということを最優先にその政治行動をとっていく。
慶長11年(1611年)彼は、豊臣秀頼と徳川家康の会見を斡旋している。徳川家康の上洛の機会に秀頼を京にのぼらせ面会させるのだ。この席に盟友浅野幸長とともに同席する。
これは、豊臣家の体面を最大限考慮しつつ結果的に徳川家が日本の盟主であることを印象づけるものである。もし豊臣家が、この意味をきちんと理解し最大限に活用したのなら後の大坂の陣は、なかったかもしれず、その滅亡も回避できたかもしれない。
政治力学で言えば、公家の棟梁が豊臣家で武家の棟梁が徳川家という構図だ。
加藤清正は、その政治力のすべてをつかった。


特筆すべきは、ほんの数年前まで大局を見ずに恩讐のままに行動していた彼が、冷静に時勢を読んで全く刃が立たなかった徳川家康に対抗していっていることである。
私は、これを彼自身の心境の変化と共に学問を身につけることによって「ロジカルシンキング」を得たことにあると考えている。

我々は、ともすると学ぶということを学生時代で終わらそうと考える。また社会人になってから学ぶことをスキルのみに注目しがちだ。資格などを始めとした目に見えた効果を追い求める。当時で言えば剣術であったり土木知識であったりということになる。
しかし加藤清正の例は、教養をみにつけた時に人材がいかに大きく花開くかを後世の我々に教えてくれている。

加藤清正が、人材として真に花開いたのは晩年である。50年の生涯のラスト10年。40歳から彼自身が大きく成長した。

このことは、社会人として何年たったとしても学ぶべきものがたくさんあり、また現在この時自分自身の才能やスキルに自信を持っていなくても、思い立ったときにチャレンジしていけば道がひらけてくるということを教えられているように思う。


清正は、結果的に豊臣家を守り切ることが出来なかった。
しかし彼自身が、最後に見せたその成長と活躍は、前半生の輝かしい武功や虎退治よりも魅力的に僕の目に写っている。




いつになってもチャレンジは、忘れない!!
17 12月

月食の夜に考えたこと-古田織部と平野長泰に考える人生の飛躍- その2

古田織部は、ある意味人生最後の飛躍を画策し結果はどうあれ実行にうつした。
しかし結果策破れ、一族郎党共に死罪となった。古田織部に関わる美術品などもいっしょに破壊されたという。


茶人武将として生きた古田織部に比べて、まさに武人として生きた平野長泰という武将がいる。
高名な「賤ヶ岳七本槍」の一人として有名だ。
賤ヶ岳七本槍は、以下の人々を云う。

* 福島正則(後に安芸広島49万8000石)
* 加藤清正(後に肥前熊本52万石)
* 加藤嘉明(後に奥羽会津40万石)
* 脇坂安治(後に伊予大洲5万3,500石)
* 糟屋武則(播磨加古川1万2,000石 関が原後改易)
* 片桐且元(後に大和竜田2万5,000石)
* 平野長泰

それぞれ大名として出世しておりその名も歴史上有名な人達が多い。

もともと彼自身恵まれた境遇にいたわけではない。
織田信長の父信秀の時代に平野長泰の祖父は、賢長といい尾張(愛知県)と伊勢(三重県)の中間地点津島にある奴野城に在していた。この城は、南朝勢力の生き残りと言われる津島十五党の長「大橋氏」の居城であった。その配下にあったのが、平野賢長である。ちなみに当時の彼の同僚にはのちの稲葉正成(春日局夫)がいることがおもしろい。その賢長もその後信長との確執により没落し、一時は駿河善徳寺に逃れていた。この善徳寺は、武田信玄・北条氏康・今川義元のいわゆる甲相駿三国同盟の会談が行われた場所として名高い。が、平野賢長が何らかの絡みを見せたとの記録はない。
賢長は、養子をとっていた。それが平野長泰の父である長治である。この長治は、またややこしい。彼の実父は、公家で清三位と称せられた舟橋枝賢である。どのような経緯で津島からの落ち武者が公家の子供を養子に迎えたのかは、わからない。ちなみにこの平野長治の妻は堀田貞正の娘である。堀田家は、尾張中島の国人であり、織田家の配下にいたと思われる。この堀田貞正が、おもしろい人物であるが別の機会に紹介したい。
この堀田貞正を縁にしてであろうか再び平野家は、織田家臣団に加わることになる。
平野長治は、その後中国攻略を担当していた羽柴秀吉配下で播磨の姫路城の留守居役となる。なかなかの重役である。
さらにその息子である平野長泰は、羽柴秀吉のそば近くで転戦を重ねていくことになる。

この平野長泰が、一躍名をあげたのが先にも紹介した賤ヶ岳の合戦であった。
賤ヶ岳の合戦は、織田信長の死後、宿老であった柴田勝家と羽柴秀吉の後継者争いの戦いである。
この賤ヶ岳の合戦の後 3,000石の恩賞を受けている。
平野長泰の戦歴は、羽柴秀吉とともにあり豊臣秀吉になる過程のおいてのほとんどの合戦に参加している。
まさに天下取りのストーリーを共に体現した人生であった。

しかしながらその生涯で大名となることはなかった。
大名とは、1万石以上の武家をいう。

一説には、豪傑肌の性格が災いしたとも云う。まあそれを言ったら福島正則や加藤清正はどうなるんだ??とも思われる。
いずれにせよ彼は、後世伝えられている働きの割にうける恩賞は薄かった。

平野長泰自身、自分の境遇にそれほど大きな不満を持っていたようには伝わっていない。

この時代の武将たちは、非常なまでの自己顕示欲をもっている。個人の名誉を重んじておりそれを体現するのが恩賞であり石高であった。
しかし平野長泰は、主君である秀吉に石高加増の掛け合いなどしていない。
福島正則や加藤清正といった連中は、もうそれはそれはPRしまくりなのにもかかわらずだ。


秀吉の死後の関ヶ原においても平野長泰は、きっちり東軍の徳川家康につきお家の安泰を得ている。
あれほどの勇将と言われていながらなぜか5,000石のままである。
戦場での働きを抜きにすると彼の生涯は、まったく危なげがない。
秀吉という武将の天下取りの階段をともにのぼり、その死後は徳川家康が次の天下人であると見極めた。
栄枯盛衰の激しい戦国期において小身ながらきっちりとした処世術である。


その平野長泰が、槍働き以外で突如渾身の自己主張をしたことがある。
なんと当時の最高権力者徳川家康に対して反乱宣言をしたのだ。
彼は、旧主太閤秀吉の遺児豊臣秀頼と押しも押されぬ天下人となった徳川家康の戦いであった大坂の陣にて豊臣家につくことを思い立ったのである。思い立ったとは、言い過ぎかもしれない。が、そうすべく行動を始めた。
そのうえ彼がとった行動が、平野長泰という人物を物語っている。
なんと裏切りの対象となる徳川家康にわざわざ伝えにに行った。

徳川家康にしても困惑したことだろう。
といってもそこは、戦国最後の勝者だ。
なんだかんだといって江戸城留守居役として封じ込めてしまった。

おどろくべきことは、明らかに反乱を宣言した平野長泰に対して徳川家はなんら沙汰をしていないことである。
言うなれば黙殺。

ここに彼の何とも言えない人間的魅力を感じる。
先にも述べたが、彼は歴戦の勇者であるにもかかわらずさほどの出世を遂げていない。
知名度と出世の帳尻があっていないのだ。

太閤記には、下記の記述がある。
「この心猛く、秀吉卿に背くこと度々有しなり、これによりて領地少しとかや」
頑固一徹、猛々しいあまり秀吉に評価されなかったという意味だ。
また彼自身が、所詮猪武者であったがゆえにマネジメント能力を評価されていなかったとの意見にも賛同しない。
平野長泰に行政能力がなかったわけではない。領土であった大和田原本では、支配体制を固め善政をしき領民から敬愛された殿様だった。

戦国期の人間たちにとって恩賞と領土は、命にかえて取りに行くもの。これは、名誉に関わる。つまり石高の多さはその名誉に比例するとの考え方だ。
そういう意味で織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も恩賞には、細心の注意を払っています。
簡単にいえば土地を与えることでより奮起させ次の仕事につなげてもらう。
が、平野長泰にはそれが通用しなかった。
秀吉得意の利をもって人の欲望を喚起し、人身をつなぎとめるマネージメントが使えなかった人材だったのではないか。
いかに秀吉といえども与えて喜ばない人物に限られた土地を与えることはしない。



秀吉が、平野長泰を評価していなかったわけではない証拠に彼に対して慶長三年(1598年)には、豊臣の姓を授かり、従五位下遠江守を叙任ささせているのだ。
さらに彼は、5,000石の小身であるにもかかわらず特例として大名と同じ格にしている。
主張をせずに淡々と現実を受け止めていた彼は、不平不満を訴えた形跡もない。

平野長泰の無欲は、どこからきたのか?
それは、織田家との争いの中で流浪した祖父や父の姿。
そして父の出身である公家独特の厭世観などが作用したものと思われる。


しかしそんな彼が、生涯最大の飛躍を試みた。
それが、大阪の陣での豊臣家への肩入れだった。

古田織部は、そこで具体的な策を講じそして滅ぼされた。

しかし平野長泰は、なんとなくウヤムヤにされて戦後も二代将軍秀忠のお伽衆(相談役・話し相手)として余生をまっとうしている。
彼は、いかなる気持ちだったのだろうか。




最後に平野長泰にまつわる話を2つ。
江戸幕府の体制が、落ち着きを見せていた頃、有名な赤穂浪士の討ち入りがあった。赤穂浪士の大石内蔵助らを捕らえた熊本藩は、この国民的英雄を困惑しながら大切に扱った。その接待担当者の一人に平野九朗右衛門があたった。浪士たちは、平野九朗右衛門が印象深かったのだろう。大石内蔵助は、同じく接待を担当していた堀内伝右衛門という人物に彼の出自について尋ね「遠江守の平野だ」との答えもをもらっている。大石内蔵助らは、大いに納得したという。ここで大石らがたった5,000石の旗本平野長泰を知っていたということも驚きだし、悪い印象を持っていなかったことがわかる。
さらには、赤穂浪士の墓がある芝の泉岳寺に平野長泰の墓もある。直接ではないが、おもしろい因果を感じる。

もう一つは、その後の平野家。
同じ賤ヶ岳七本槍の加藤家や福島家は、早い段階で徳川家によって取り潰しに合っている。
しかし平野家は、5,000石諸侯の列(大名と同格)に加えられ交代与力(参勤交代あり)として幕末まで存続した。
が、ひょんな事に維新立藩により5,000石を加えられ名実ともに大名となった。
他家が、落ちぶれる中最後に笑ったといえなくもない。

人の人生の評価や成果は、どこにでるのかわからない。。。






目先の評価に惑わされずに。。。

13 12月

月食の夜に考えたこと-古田織部と平野長泰に考える人生の飛躍-

土曜日の月食は、なかなか見ることのできない素晴らしい景色だった。

そんな風流な夜に全くもって不謹慎だが。。。ふと思いだした。
20代の前半、夜の繁華街という一部の男にとっての楽園社会勉強で通ったことがある。
あくまでも社会勉強なのでそこで様々なことを学んだ。

ある店の奥に大きな円卓があった。
そこには、等間隔でおじさんたちが座っていた。

そこに「みつばち」のように時々お気に入りであろう女の子たちが席については、別の客のもとに去っていく。
その繰り返しである。
その店は、60分10,000円ほど。
おじさんたちがお気に入りであろう女の子たちと話ができたのは、ほんの数分。
そのために彼らは、通っているのである。
怒りとも悲しみともあきらめともつかない思いに包まれた。

僕は、もう何日も考えこんでしまった。
いい年したおじさんたちである。
当時の僕にとっては、親父の世代にあたる。
そんな店でおじさん観察している僕も十二分におかしいが、いずれも善良そう。
家では、よきお父さんであり旦那さんだろうと勝手に想像した。


当時の僕は、
「若くして遊ばなければ、キャバクラのお姉さんの笑顔にころっと騙されてしまうんだ。。。」
と結論づけた。
そして
「いまのうちに思う存分遊ぼう!そしておじさんになったときには、思い残すことないように。」
と。

まあ現在考えると随分身勝手な結論だ。
そもそもこの歳になっても全く遊び足りてないし。

そんなことを思い出していると歴史上の二人の人物を思い出す。

この二人を紹介したい。
一人は、古田織部。
一人は、平野長泰だ。

古田織部は、本名を古田重然(ふるたしげなり)という。
茶人として名高い人物だが、茶の湯で大名になったわけではない。
根っからの武人である。
その生い立ちは、明らかにされていないが美濃国(岐阜県)山口城の古田重安の子として生まれた。
1544年生まれということから同年に竹中半兵衛がいる。
当然当時は、斎藤道三の支配下である。

その後斎藤家が、織田信長に敗れた後古田織部は織田家の支配下に入る。

この古田織部という男、武将としては至極まっとうな生き方をしている。
取り柄がないといっては、言い過ぎだが武人としての逸話が残っているわけでもない。
大功をなしたというわけでもない。
しかしながらあの織田信長の使番として使え、京都平定軍に参加、そのまま摂津攻略にも参加しその際に荒木村重や高山右近と共に摂津を治めていた中川清秀の妹を娶ることになる。このことからも織田信長の覚えが悪くはなかったことがわかる。
当時の古田織部の最大の功といえるのが、この中川清秀がらみのことである。中川清秀は、摂津の盟友荒木村重が織田信長に反乱を起こしたときにも連携した。というか、連携したどころか結果的に彼がけしかけたとも言える展開があった。
荒木村重が、一度は反乱の兵をあげたところ信長は驚いて明智光秀や高山右近らを説得に派遣した。一度は、その説得を受けて安土城(信長居城)へ釈明に向かったが、途中中川清秀より
「安土城に行くなどとんでもない話だ。信長は、一度はむかった者を決して許さない。安土城で切腹させられるよりは、摂津にて一戦及ぶべし。」
と言われ結局村重は、居城の村岡城に戻り挙兵に及んだ。

が、当の中川清秀である。
なんと古田織部の説得を受けてあっさりと織田信長に出戻りしてしまったのである。
それどころが、荒木村重討伐の尖兵として村岡城攻めにも参加する。
なんとも残念な人物である。

当時の信長は、苦しい立場であった。
甲斐に宿敵武田勝頼が健在であり、北陸に上杉家。中国に毛利。石山本願寺をはじめとする各地に一向一揆も鎮圧しきれていなかった。そんななか京近くの摂津で大規模な反乱がおこるとそれこそ全面崩壊の可能性すらあった。
そこを救ったのが、古田織部ということになる。
彼の功は、槍働きではないにしても絶大であったといえる。




その後、羽柴秀吉の支配下に移ったことでより運が開けている。
彼は、羽柴秀吉配下で千利休に出会った。
1582年に利休の手紙に初めて織部が登場していることからその頃弟子入りしたと思われる。

その千利休のもとで彼の才能は、開花した。

利休という人物は、不思議な人物だ。
いうまでもなく現在にも続いている茶道「表千家」「裏千家」の祖となる人物である。
また「公儀のことはご舎弟(秀吉の弟秀長)に、内々のことは宗易(利休)に」
といわれるほど秀吉の信頼絶大であった。
また彼は、人材育成の名手でもあった。
彼の弟子は多くいるが、その中でも利休七哲といわれる七人の高弟を育てている。
・古田織部
・蒲生氏郷(信長の娘婿・会津42万石)
・細川忠興(後に小倉藩40万石)
・柴山宗綱
・瀬田正忠(秀次事件連座)
・高山右近(キリシタン大名・のちにマニラ追放)
・牧村利貞(文禄・慶長の役にて病死)

この利休の教えの一つが、
「人と同じ事をしてはならぬ」
というものであった。
その教えを忠実に実行したのが古田織部であった。
彼の芸風は、師である利休と大きく異なる。
古田織部の茶は、動中に美を見出すものとされる。
目に見える美しさをあらゆる形の中で表現しようとしている。
いわゆる「かぶき美」である。
そんな織部に利休は、忌憚なく自身の世界観を伝授した。


古田織部は、利休や豊臣秀吉の死後も危なげなく徳川家康とよしみを結んでいる。天下分け目の関ヶ原においても、東軍(徳川方)につきその功により3,000石から13,000石に加増とされた。
また秀吉時代と変わらず二代目将軍秀忠の茶湯師範として仕えた。
まさに順風満帆である。
非の打ち所が無い。

その古田織部の人生は、最晩年に奇妙な事になる。
徳川家と旧主君であった豊臣家との最終決戦大坂の陣の最中。
突如反逆の罪で徳川家康により切腹させられた。
滅亡寸前の大坂城豊臣家に内通した容疑である。

これには、諸説ある。
力を持ちすぎた古田織部を邪魔になった徳川家にとって消された説が、最近では多く語られている。
古田織部は、豊臣家を潰すことを快く思っていなかったという。
そこは、あの利休の弟子である。
表に裏に進言したこともあったであろう。

しかし、彼自身の人生を考えると積極的に天下人に対して意見をするような人物には思えない。
若い時代はともかく全くもって美の世界でのみ生きてきている。また大勢を見る力は間違いなくもっていた。

それでも彼は、切腹した。

これは、僕自身の推測でしかない。推測でしかないが、彼は自分の出来過ぎた人生の破壊願望に目覚めたのではないか。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・徳川秀忠と歴代の天下人に仕えた彼である。
表の顔と異なりその気苦労は並大抵のことではない。
そうはいっても彼も戦国の生き残りである。
戦国最後の戦にあたり、その芸風と共に無に喫することを選択した。

芸に生き天下人の庇護のもと生きてきた彼が、最後の最後に身分不相応の大飛躍を画策した。
古田織部は、ただのおべっか使いではない。
豊臣秀吉絶頂期に師である千利休が、切腹申し付けられる事件があった。
その利休が、京を離れる際にただ二人の武将が見送った。それが細川忠興と古田織部であった。
お歴々の大名たちが息を潜める中、並大抵のことではない。


このことに人生ひたすら組織の中で息をひそめる人生を送る多くの現代人にとって意味深いメッセージを送っているように感じる。

もう一人の平野長泰については、次回。。。



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