2007年09月30日
わたしの初任者時代(1)
今回と次回の2度にわたり、わたしの初任者時代の思い出をとり上げる。
どちらも先輩からいただいたご指導だったが、わたしにとっては、その後の教員としての生き方に大きな影響を与えてくださるものだった。
そのまえに、余談だが、わたしの初任者時代は、昭和45年である。ずいぶんむかしのこと。当然大部分の初任者の皆さんは、まだこの世に生を享けていなかったね。
世は、高度経済成長期のまっただなか。都市部は人口爆発の時代で、教員の採用もものすごく多かった。わたしの学校には、チョンガー会なるものがあり、軽く10人を超えていた。
今のように法制化された初任者研修はなかったが、学校ごとに、地域ごとに、それは自主的に行われていた。
さて、それでは、本論に返り、思い出の一つをとり上げる。
校内研究組織を決めるにあたり、校長に呼ばれた。
「toshi先生は、何の研究をしたいのかね。」
「はい。社会科をやらせていただきたいと思っています。」
「そうか。それは、分かった。分かったが、あまり教員になって初めから社会科には入らない方がいいと思う。そうなると、一生社会科しか研究したことがないということで、社会科しか知らない教員になってしまう。君の将来のためによくないだろう。社会科は30歳くらいからやればいいのではないかな。(わたしの教員としての採用時、わたしは25歳だった。)
それまでは、いろいろやった方がいい。そうすれば、将来社会科になったとき、『ああ。どの教科でも教育理念は同じなのだな。』とか、『この教科にも、社会科の手法を応用してみよう。』とか考えるようになって、教員としての幅が広がると思うのだ。」
「はい。分かりました。ありがとうございます。そうさせていただきます。」
「ところで、社会科の次にやってみたいものはあるか。」
「そうですね。特に専門に勉強したわけではなく、あくまで趣味程度なのですが、ピアノは少々弾けるので、音楽をやらせていただければと思います。」
校長は、一瞬、驚かれた。そして、笑顔になり、
「そうか。それはいい。おもしろいではないか。それなら、音楽をここ数年はやってみるといい。」
音楽部はあまりいなかったのだろうか。即決だった。
初任のときは、4年生担任。4年生も音楽専科の指導だったが、『せっかく音楽部に入ったのだから。』ということで、自ら、『自分のクラスの音楽は自分でやりたい。』と申し出て、許してもらった。
我が勤務校には、当時、『特別合唱クラブ』があり、名だたる合唱コンクールに、毎年出演していた。その練習にも、わたしは参加した。とは言っても、上記の通り、あくまで、趣味程度にやっていた音楽だから、合唱指導などは到底できなかった。先輩と専科の指導を見守っているだけだった。子どもと一緒に、指導を受ける立場だった。
また、先に書いたとおりの時代だから、初任者は大勢いた。地域の初任者研修も、教科ごとに分かれて行われていた。
音楽も、30人くらいはいたと思う。
それで、教科ごとに2人ずつ行う研究授業を、わたしも授業者として行うことになった。忘れもしない。『夜汽車』だった。(初任者の皆さんは、この歌が分かるのかな。)
そして、3年間は音楽部。次の2年間は特活部にお世話になった。社会科に入ったのは、その後である。
これは、校長の話のように、やはり、わたしの教員人生にとってよかったと思う。
学校を異動して社会科部に所属するようになってからも、卒業式で子どもたちが歌う歌の指揮は、何度もやらせてもらった。
音楽というと、とかく教え込みだったり、訓練になりがちだったりする傾向があると思うが、わたしは、子どもの思いを大切にする音楽指導を心がけた。
2校目。もうとっくに社会科部になっていた。が、音楽の研究授業をする機会があった。
その授業で、子ども同士が、グループでの演奏に悩む場面があった。
「Aちゃん。その指揮だと、演奏の終わりがはっきりしないから、みんながバラバラになっちゃうよ。もっと、〜のようにしたら。」
「うん。Bちゃん。分かった。〜。こうだね。」
そして、再度演奏をする。今度はうまくそろって終わることができた。子どもたちは指揮の重要な役割を学んだようだった。
そんな経験があったからだろう。わたしは校内研究で、ある教科をとり上げると、いつも、その教科が好きになり、指導に自信がもてるようになった。
どちらも先輩からいただいたご指導だったが、わたしにとっては、その後の教員としての生き方に大きな影響を与えてくださるものだった。
そのまえに、余談だが、わたしの初任者時代は、昭和45年である。ずいぶんむかしのこと。当然大部分の初任者の皆さんは、まだこの世に生を享けていなかったね。
世は、高度経済成長期のまっただなか。都市部は人口爆発の時代で、教員の採用もものすごく多かった。わたしの学校には、チョンガー会なるものがあり、軽く10人を超えていた。
今のように法制化された初任者研修はなかったが、学校ごとに、地域ごとに、それは自主的に行われていた。
さて、それでは、本論に返り、思い出の一つをとり上げる。
校内研究組織を決めるにあたり、校長に呼ばれた。
「toshi先生は、何の研究をしたいのかね。」
「はい。社会科をやらせていただきたいと思っています。」
「そうか。それは、分かった。分かったが、あまり教員になって初めから社会科には入らない方がいいと思う。そうなると、一生社会科しか研究したことがないということで、社会科しか知らない教員になってしまう。君の将来のためによくないだろう。社会科は30歳くらいからやればいいのではないかな。(わたしの教員としての採用時、わたしは25歳だった。)
それまでは、いろいろやった方がいい。そうすれば、将来社会科になったとき、『ああ。どの教科でも教育理念は同じなのだな。』とか、『この教科にも、社会科の手法を応用してみよう。』とか考えるようになって、教員としての幅が広がると思うのだ。」
「はい。分かりました。ありがとうございます。そうさせていただきます。」
「ところで、社会科の次にやってみたいものはあるか。」
「そうですね。特に専門に勉強したわけではなく、あくまで趣味程度なのですが、ピアノは少々弾けるので、音楽をやらせていただければと思います。」
校長は、一瞬、驚かれた。そして、笑顔になり、
「そうか。それはいい。おもしろいではないか。それなら、音楽をここ数年はやってみるといい。」
音楽部はあまりいなかったのだろうか。即決だった。
初任のときは、4年生担任。4年生も音楽専科の指導だったが、『せっかく音楽部に入ったのだから。』ということで、自ら、『自分のクラスの音楽は自分でやりたい。』と申し出て、許してもらった。
我が勤務校には、当時、『特別合唱クラブ』があり、名だたる合唱コンクールに、毎年出演していた。その練習にも、わたしは参加した。とは言っても、上記の通り、あくまで、趣味程度にやっていた音楽だから、合唱指導などは到底できなかった。先輩と専科の指導を見守っているだけだった。子どもと一緒に、指導を受ける立場だった。
また、先に書いたとおりの時代だから、初任者は大勢いた。地域の初任者研修も、教科ごとに分かれて行われていた。
音楽も、30人くらいはいたと思う。
それで、教科ごとに2人ずつ行う研究授業を、わたしも授業者として行うことになった。忘れもしない。『夜汽車』だった。(初任者の皆さんは、この歌が分かるのかな。)
そして、3年間は音楽部。次の2年間は特活部にお世話になった。社会科に入ったのは、その後である。
これは、校長の話のように、やはり、わたしの教員人生にとってよかったと思う。
学校を異動して社会科部に所属するようになってからも、卒業式で子どもたちが歌う歌の指揮は、何度もやらせてもらった。
音楽というと、とかく教え込みだったり、訓練になりがちだったりする傾向があると思うが、わたしは、子どもの思いを大切にする音楽指導を心がけた。
2校目。もうとっくに社会科部になっていた。が、音楽の研究授業をする機会があった。
その授業で、子ども同士が、グループでの演奏に悩む場面があった。
「Aちゃん。その指揮だと、演奏の終わりがはっきりしないから、みんながバラバラになっちゃうよ。もっと、〜のようにしたら。」
「うん。Bちゃん。分かった。〜。こうだね。」
そして、再度演奏をする。今度はうまくそろって終わることができた。子どもたちは指揮の重要な役割を学んだようだった。
そんな経験があったからだろう。わたしは校内研究で、ある教科をとり上げると、いつも、その教科が好きになり、指導に自信がもてるようになった。