2016年04月19日

被災地に思いを寄せて、(2)

IMAG5671 前記事の続きです。


「よく質問される。」
と伯母に言ったら、
「そうなの。情報が全然入らないのよ。わたしたちだって、どこに給水所があるのか、初めは知らなかったのだもの。黙っていたら生活できないの。どんどん聞かないと。」

 伯母はこの日まで、自分が生活している地域のことしか分からなかった。ひどい地震だと分かってはいても、それがどのくらいの範囲に及んでいるのかは分かっていなかった。この日、急きょ大阪に行くことになるが、大阪でテレビを見て、初めて震災の全体像が分かったのだった。

 水運びを終えて食事。新横浜駅で買った駅弁をみんなで分けた。後はおにぎりとインスタント味噌汁。段ボールのテーブルだが、みんなで分け合う食事はおいしかった。

 食事をしながら、わたしはきょう一日、一番感銘を受けたことを話題にした。
「こんな目にあいながら、神戸の人はみんな明るくて親切ですね。びっくりしています。」
「そうなの。神戸の人って、こんなにいい人ばかりだったかなと思うくらい、ほんとうにやさしい。わずかな食物でも分け合うし、きちんと並んで何時間でも待っているしね。
 こういうことがあると、はっきり人間の本性が出てくるわ。気持ちのいい人はほんとうにさわやかな顔をしている。
 でも、その反対もあるわよ。決してないわけじゃない。」
 困難な事態に直面すると、心の余裕がなくなってしまうこともあるのだろう。
「みんなで協力し合っているわ。こういうときは一人じゃ何もできない。それを感じているから協力し合えるのね。」

 伯母はその具体例として、地震当日のことを話してくれた。

 地震が起きたとき、祖母と伯母は家財の山に押しつぶされた。真っ暗な中、伯母はやっとの思いではい出し、祖母のところへ転がり込んだ。家財の山をどけてやり、一緒に外へ出た。マンションへ行ったが、一帯は避難命令が出て中へ入れない。

「D小学校へ避難してください。」
そういう指示があった。伯母のマンションから50メートルくらいのところ。地震当日はこうして避難所生活となった。

 夕方になって、長田区の叔母が車で駆け付けた。祖母はその車の中で夜を明かすことになる。伯母は校庭で、見知らぬ十数人とたき火を囲んで過ごした。

 みんないい人ばかりだった。そのなかの一人が、十数個おにぎりを作って持ってきてくれた。それをみんなで分け合って食べた。この日の食事はもう一つ。誰かが赤ん坊の食べ物をくれた。それもみんなで食べた。でも、空腹は耐えがたかった。

 水をボランティアの人が持ってきてくれた。それをビニル袋に入れてもらう。ほんのわずかの水が大変な貴重品だった。うれしくてうれしくて涙が出た。この日は一晩、校庭で語り尽くして夜を明かしたという。

 この地震一日目。学校に先生の姿はなかった。無理もない。交通はストップしている。電話も不通。

 そんななか、市の呼びかけもあり、学校の承諾もないまま、どんどん学校の施設を使い出した。使われるのは校庭や体育館だけではない。校舎も全部使用された。テレビでも報道していたが、ある学校は一時、1300人が避難していた。

 先生方は、数時間後、あるいは翌日から、避難している人の世話を始めた。それも報道されているように、市民みんなから感謝されている。

 さて、わたしたちが駆け付けた日、それは大阪の親戚が駆け付けたのと同じ日だったが、車に水をいっぱい積んで来てくれた。
「その水を最初、何に使ったと思う。」
「何って、飲み水だろう。」
「違うのよ。もう、今日は、飲み水は我慢できたの。でも、トイレの臭気はとても我慢できなかった。もう不衛生でね。こまっていたの。流すことができなかったのよ。」
 実にありがたい水だった。
「教訓よ。水はとても大事。きれいでなくてもいい。ふだんから浴槽いっぱいに入れておくことね。それがすごく助かる。」

 地震の翌朝、祖母は、これも見知らぬ人からもらった牛乳を飲んだそうだ。伯母は何も口に入れることができなかった。

 わたしも協力や助け合いの場面を何度も見た。一番驚いたのは次の例。

 ものすごい渋滞中、オートバイが転倒した。そして車に接触。傷がついた。しかし、車の運転手は、『いいよ。気にするな。』とばかり、手を振った。その後、何と、その運転手は車から降りて、オートバイを起こす手助けをしてやったのだ。

 食事のあと親族会議が始まる。

 実は横浜出発の前日、我が家でも家族会議があった。父に話す。
「神戸の祖母と伯母に、横浜へ来るよう勧めていいだろう。」
「そうだね。できればそうしてほしい。でも、今すぐは無理なのではないかな。新幹線は混んでいるだろうから、おばあちゃんは連れてこれないだろう。」

 ところがこちらへ来たときの新幹線。予想に反し、7〜8割の乗車率だった。
「こんなにすいているなら、安心して祖母と伯母を連れてこれるね。」
「そうね。2人がそうしたいと言ったらね。」

 その横浜での話し合いを受けて、母が言う。
「大変でしょう。ここはまだ余震が続くし、不安と不自由なことがいっぱいあると思うの。姉さんは大事なものは運び終えたようだし、このまま今日、車で大阪まで連れてってもらおう。そして、明日一緒に横浜に行こう。」
 確かに余震はひどい。食事以後わずかな時間でも、3回あった。

 母の勧めに、伯母は即座に、
「そうしてくれたらうれしい。」
と答えた。考えたうえでの結論といった感じではなかった。『疲れた。もう体も心もズタズタ。早くここを離れたい。』そんな感じで話にのってきた。大阪のおばさん、
「それなら決まったね。善は急げよ。大阪へ行けば、後、横浜へ行くのは簡単だから。」
 祖母は笑みを浮かべ、黙って話し合いの成り行きに身をまかせていた。

 急に決まった。車には5人しか乗れないので、このマンションにはわたしと妻が残ることになった。翌日歩いて帰るつもりだ。

 あわただしく出発準備に入る。持っていくもの置いていくものを仕分けした。
「なんだ。いっぱい横浜から持ってきてもらったのに、無駄になっちゃったな。」
大阪のおじさんが笑った。
「無駄でいいじゃない。おばあちゃん。横浜へ行けば、一安心だね。ほっとするよ。」
「おばあちゃん。お風呂にも入りたいよね。」
 
 もう水を節約する必要はなくなった。さっき運んだからいっぱいある。

 このマンション。実は夕方、避難勧告が出ていた。地震以後、B町地区一帯は地すべり危険地帯。それなのに大雨警報が出たのだ。

 伯母が近所に聞きに行った。そして、たいしたことはなかろうと結論付け、避難はしなかった。でも、わたしたち2人が残ると決めたとたん、不安になったようだ。
「どうする。明日までここにいる。」
「雨は今夜半から降ると言っているし、ひどく降るのは明日みたいだから、地すべりが起こるとしてもそれからだろう。ぼくたちは、明朝ここを出るから、大丈夫だよ。」

 ところがこれは、24日。祖母と伯母が横浜の我が家に来てからの話。
「後で大阪へ行ってから、びっくりしたの。テレビでね。B町地区は避難命令に切り替わったって放送しているじゃない。『E神社へ避難してください。』って言っているんだけれど、toshiちゃんたちは分かるわけないしね。とっても心配だった。わたしたちが逃げて、toshiちゃんたちが犠牲になったらどうしようって、すごく申し訳ない気持ちになったの。」
 
 知らぬが仏。わたしたちはほっとして、2時ごろにはもう安眠をむさぼっていた。もっとも安眠していたのはわたしだけで、妻はなかなか寝つけなかったようだ。

 5人の出発準備は続く。夜もふけた。

 先ほどから心配のタネがあった。真ん前の《Fゼミ》と看板のあるビル。かなり傾斜しているのに、電気がついている。しかも時間によって点灯の部屋が変わる。間違いなく人がいる。何ということだ。はらはらする。避難しないのだろうか。盗難がこわいのかな。それとも仕事があるのかな。無事を祈るばかりだ。

 10時に出発準備完了。大阪のおばさん、
「大阪だって安心できないのよ。わたしのうちはG区だけれど、やっぱり下を活断層が走っているの。今度の地震で、いつ大地震が起きるか分からない。わたしたちもできれば大阪を逃げ出したいのよ。」

 それから一分もたたないうちに、
「じゃあね、toshiさん、名残惜しいねえ。元気でね。」
底抜けに明るい元気な声に戻った。
「これが大阪人や。大阪人の心意気やわ。」
笑顔で別れた。

 マンションは荷物がいっぱい。2人でそれを整理した。たった今別れたばかりの大阪のおばさんの言葉を思い出す。
「いい。この部屋で寝るんよ。この部屋だけタンスなど倒れるものは置いてないからね。他の部屋はダメ。危ない。危ない。」

 ラジオが神戸各所の情報を流していた。
「何だか拍子抜けだな。みんな行っちゃったから、明日の仕事がなくなっちゃったよ。」
妻も笑っていた。11時ごろ就寝。


 翌朝、6時20分。ドアをたたくノックで目が覚めた。長田区の叔母だった。中二になるお孫さんを連れて来てくれた。後で妻が言った。
「あのノックはびっくりしたわ。ついに避難命令が出たのかと思った。だって、夜通しサイレンの音がしてたし、気が気じゃなかったもん。」

 叔母が言う。
「2時ごろ姉から電話があったのよ。今、大阪へ着いたって。それで、toshiちゃん夫婦だけがいるって聞いたのでびっくりしちゃった。
 これから帰るのでしょう。西宮まで送るから、すぐ用意して。」
「そんな。とんでもない。話が逆だよ。ぼくたちは横浜へ帰ったら地震との戦いは終わりだけれど、叔母さんたちはこれからも長い戦いが続くのだ。どうか気にしないでください。歩いて帰れるから。」
「そうしてください。往復で、ものすごい時間がかかるんですから。もしかしたら歩いた方が速いのかもしれないのです。」

 押し問答の末、
「そう。悪いわね。じゃあそうさせてもらうわ。ごめんなさいね。」

 それから地震の話。
 長田区は焼け野原になってしまったけれど、叔母のうちは山の方で大丈夫とのこと。地震があった日。もう母はダメだろうと思いながらかけ付けたこと。横浜へ電話しようとしても、なかなかつながらなかったことなど。

 中二のお嬢さんに聞いた。
「学校は当分始まらないのだろうね。」
「はい。避難所になっているんです。」
「友達はみんな無事なの。」
「ええ。今のところは大丈夫です。でも、分からない友達もいるんです。」
「そうだろな。大変だけれど、がんばってね。」

 慰めにもならない言葉。もっと何か言いたいのだけれど、言葉にならなかった。もどかしかった。でも、このお嬢さんも明るかった。しばらくして帰られた。

 朝食をとって、8時30分出発。幸い、雨は小降りだ。歩いている最中も降ったりやんだりでほっとした。

 この小雨だったということ。ただ歩きやすかっただけではない。地すべりの危機がとりあえず去った。復旧、捜索、避難所生活など、どれだけありがたかっただろう。

 この日は大阪のおばさんがすすめてくれた、阪急の西宮北口駅へ向かった。これがよかった。昨21日は国道2号線。今日は阪急沿線と、まったく違う状況を見ることとなった。

 破壊が昨日ほどひどくないのだ。地盤がいいのだと思う。地割れがあまりないことからも分かる。芦屋では、小売店がけっこう営業していた。でも、小さな公園にキャンプ同然の姿があった。テント、煮炊きした跡、テーブルなどが散乱していた。人の姿はなかったが、傾斜した家屋がまったくないわけではなかった。また、家はしっかりしていても、塀だけ倒れているケースはけっこうあり、その上を何回も歩いた。

 途中、葬儀屋さんの前を通る。遺体運搬車と書かれた車が何台もあった。全国のナンバーがあった。

 西宮では、地すべりにあったマンションを見た。マンション自体はしっかりしている。ヒビも入っていない。ところが下の土が流れてしまって、空洞になっている。あぜんとした。
 また、丘陵地の斜面に建っているビルが斜面をすべり、阪急の線路をふさいでいるのも見た。

 こちらは建物はしっかりしてても、地すべりがこわいのだな。伯母のマンションと長田区の叔母の家が、あらためて心配になった。

 しまったと思ったこと。それは遠くへ引っ越す人へ、町内会が出したお知らせの掲示だ。
《連絡したいことがある場合のために、移動先をよく見えるところに書き留めてください。》
 A町の祖母の家、B町の伯母のマンションともにそんなことはしていない。いいや。横浜に着いたら長田区の叔母に電話して頼もう。

 丘陵地に大きな池があった。そこでバケツに水を汲んでいる人が大勢いた。そうか。あれをトイレに使うのだな。この辺りも壊れた家はほとんどないだけに、異様な光景に映った。

 前日と違い、行列といってもいいような人の波はない。でも、西宮北口駅の一つ手前の夙川駅。今は不通になっているからさびしい駅だが、そこからは波といってもいいような人の流れとなった。駅に近づくにつれ、神戸へ向かう人の波をかき分けるようになった。

 西宮北口駅に着いた。歩きやすかったせいか、地図上では昨日とほぼ同じ距離なのに、今日の方がかなり近かったような気がした。

 さすがホッとする。もう横浜へ着いたような気分になった。妻もそんな気持ちになったか、
「ねえ。お土産、買わない。わたし、職場でいつももらってばかりだから。」
「そうか。買おう。リュックの中は空っぽだから、いくらでも入るよ。」
ゆっくり品選びをした。

 2日間、壊れた家ばかりを見てきた。大阪へ入って思わずつぶやく。
「すごいな。みんなどの建物もまっすぐ建っている。すばらしい。光り輝いているように見えるよ。感動だな。」
「おかしいわ。それが当たり前なのに。」
「ぼくたちは、一日神戸にいただけでこうだ。おばさんたちは、5日も破壊された街を見続けてきたんだ。大阪でどんな感慨を抱いているかな。」
「でも、不思議ね。こんなに近いのに、大阪は何ともないもの。」

 23日。祖母と伯母が母とともに横浜へ着いた。母から驚くべき話を聞いた。
「胸が痛いっていうから、うちへ着いてすぐ病院へ行ったの。そうしたら2人とも骨折していたわ。鎖骨やろっ骨など、あっちこっち複雑骨折よ。」
「ええっ。よく我慢していたな。」

 保険証はないが、事情を言ったら、気持ちよく、『いいですよ。』と言ってくれたとか。それにしてもすごい。伯母は骨折しながら荷物整理や運搬を5日間もしていたことになる。今、祖母と伯母は大いなる安ど感のなかにいる。

 それにしても、神戸の人が廃墟の中で明るく活気ある生活をしていることは、未来に希望を持たせる。伯母の言葉。
「今、命があるということ。死ぬ思いをしたが、奇跡的に助かったということ。これは何物にも代えがたい喜びよ。亡くなった多くの方には申し訳ないけどね。 
 でもこれからが大変。見通しが全然たたないもの。気持ちを切り替えるしかないわ。神戸は必ず立ち直るわよ。」

 《必ず立ち直る。》 その兆候は駅までの長い道でも見ることができた。ある中学校が張り紙で生徒に登校を呼びかけていた。
《23日(月)午前10時。集まれる生徒は登校してください。無理はしなくていいです。安否の確認をしたいと思います。なお服装は自由です。》
 早くも明日を目指して立ち上がろうとする姿を感じた。当面は教育活動としての学校と避難所としての学校との共存を迫られよう。早急に元の神戸の学校に戻ることを祈念してやまない。

 また次のような伯母の言葉も聞いた。
「地震に対処する資質というものがあるわね。まずは知力ね。判断力といってもいいかもしれない。それから、温かな心。最後はね、即座に動けること。機敏な行動力よ。」

 ああ。やはりこれも、知・徳・体だなと、痛感した。

 祖母に東京の知人から電話。
「〜。
わたし、長生きしすぎちゃったのよ。長生きしすぎちゃったのでね。こんな目にあってしまって、みんなに迷惑かけているのよ。」
 でも、その声は明るかった。

 にほんブログ村 教育ブログへ

 ninki
 

 今回の熊本地震は想像を絶しますね。余震というのは当たらないくらい大きな地震が繰り返され、回数もものすごく多く、いまだに続いています。

 わたし、この記録のときに思ったことですが、テレビ画面で見るのと、360度、倒壊家屋や傾いたビルにかこまれ、それを見続けるのとではまるっきり違います。何とも言えない匂い、騒音などに囲まれてもいますしね。

 それが予想もつかない長期間に及んでいます。まだ続いています。

 言葉もありません。

 子どものことも心配です。不安で不安で、こわい思いをしているだろうなあ。抱きしめてあげてくださいね。


 本記事最後の祖母の言葉については、わたし、そばで聞いていたのですが、電話が切れた後、思わず言った言葉がありました。

「おばあちゃん。迷惑をかけるなどと思うことはないよ。おばあちゃんが無事でいることで、また元気でいることで、まわりの人はどれだけ励まされていることか。勇気をもらっていることか。

 だから、もっともっと長生きして、みんなを勇気づけてね。」

 このおばあちゃん。地震に負けず生き抜いて、105歳という長寿をまっとうすることができました。

rve83253 at 13:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)災害 | エッセイ

2016年04月18日

被災地に思いを寄せて、(1)

IMAG3184 また、大変な災害が起きてしまいました。熊本、大分がひどいようですが、被災地の皆様に、心からのお見舞いを申し上げます。
 それにしても、余震のすごいこと。まだまだ治まる気配はないですね。揺られっぱなしの毎日では、心安らぐときがないのではないでしょうか。一刻も早く平穏な日々がくることを心から祈ります。


 思い起こせば、20年余り前、阪神淡路大震災があった。亡養母の実家が神戸にあり、わたしたち家族は遠方に居住しているとはいえ、被災地を思い、心穏やかならぬ日々を過ごした。そして、地震発生の4日後、救援に出向いた。その際の記録があるので、ここに掲載させていただこうと思う。

 読者の皆様が、被災地に思いを寄せる一助になればと願う。


   阪神淡路大震災の被災地を訪ねて   平成7年1月21日〜22日

 21日午後1時、阪神梅田駅を発車した。すぐ屋根に青いシートをかぶせた家が見える。風で飛ばないよう、シートには石が置かれていた。またロープでシートを止めている家もある。瓦が落ちているのに、シートをかぶせず、地肌むき出しになっている屋根もある。だんだんそのような家が増えていく。

 車内はわりとにぎやかだ。会話から見知らぬ者同士が話し込んでいると分かる。隣りが知らない人でも話さずにはいられないといった感じだ。大声を張り上げる人が多い。もちろん地震の話ばかり。
 若い人が老人やリュックを背負った人に、席を譲っている光景を何度も目にした。
 
 母と話していたら、隣りに座っていたおじさんが声をかけてきた。
「こんなもんじゃないぞ。これからもっともっとひどくなる。」
 そのおじさんは三宮から来ているという。
「今は電車の不通区間が長いから、三宮の人は20キロメートルくらい歩いて、阪神だったら甲子園、阪急だったら西宮北口まで来る。そして電車に乗って大阪へ行き、買い出しをする。帰りは重い荷物を持って同じように歩く。子どもを置いておくのは余震などで心配だから、どうしても家族そろって行くことになる。」

 甲子園駅で下車。すぐ妻が営業中のスーパーを見つけた。
「ここでポリバケツを買わない。水をもらいに行くときやためておくのに便利よね。」
「ああ。それはいいな。いくらあっても無駄にはならないだろう。買おうよ。」、
このポリバケツ、ふたがついていなかった。それが後でちょっとした苦労となる。

 目指すは東灘区のA町。JRの線路沿いに祖母の家がある。これは木造の平屋。そこから山の方に歩いて10分のところに、伯母のマンションがある。そこはB町だ。


 地震があった17日(早朝だった。横浜でもかすかな揺れがあった。)、電話がなかなかかからない。かかってくるのをただ待つだけ。しかし、夕方になっても連絡がない。いらいらがつのる。建物の下敷きになってはいないか。生存しているだろうか。そういう思いが打ち消そうとしても打ち消せず、母の動揺は広がる。手がふるえ、お茶を入れようとしてもまわりにこぼしてしまう。その動揺が、孫であるわたしの娘(当時高校生)にはショックだったようだ。

 夜8時30分、やっと長田区の叔母から電話が入った。
「大丈夫だからね。母さんも姉さんもうちもみんな無事。ただ。母さんの家はつぶれた。姉さんのマンションはびくともしていない。わたしのところも塀が倒れただけで、家は大丈夫よ。」
 そこまで話を聞いて、電話が切れた。その後また音信不通。無事が確認できたのはよかったが、無事なら無事で、どこにいるのか、ほとんど食べていないのではないか、寒くないか、気になることはたくさんある。しかもテレビは、長田区の大火災を強烈に報道し出した。叔母のうちは燃えていないか。これも新たな心配のタネになった。

 次の電話は19日。前回同様、長田区の叔母から。叔母の家は燃えていなかった。母が、
「大変でしょう。新幹線も復旧するようだから、行こうか。」

 遠慮するような状況ではなかった。ぜひ来て助けてという思いが、言外に伝わってきたという。
「姉は毎日、母の家の家財をマンションに運んでいる。水運びも毎日の仕事。みんな疲れている。もう限界よ。」

 祖母は93歳。伯母も叔母も70歳くらい。みんな若くはない。疲れるのも無理はない。

 急きょ家族会議。母、わたし、妻の3人で、行くことにした。(父は足を痛めていて留守番となった。)20日は母と妻が買い出し。21日の土曜、午前6時に家を出た。


 1時30分、甲子園口から歩き始めた。一路西へ。すぐ倒壊家屋が目に入った。すさまじい。原形をとどめたまま、2階の部分が道路にとび出して傾いている。でも、この辺りはまだちゃんとした家が多い。先に行くほど倒壊家屋がふえていった。

 国道の向こうに西宮の市場が見える。全体が倒壊している。中の道路はがれきでうまっていた。国道は大渋滞。歩くわたしたちの方が速い。サイレンが途切れることなく鳴り響く。最初のパトカーは岐阜県警。続いて山口、広島、岡山、福岡とさまざまな県警のパトカーが続く。しばらくすると消防車。これも佐世保の車だった。大阪ガス復旧車も何台も通った。

 まもなく西宮市役所に着いた。休憩。市役所前は車や荷物や人でごった返していた。広場はテレビの車、緊急救援物資と札をつけた車。それに、水の入ったタンク、救援物資の山でうまっている。

 ボランティアの若い人たちが二列に並び、救援物資を市役所の中へリレー方式で運び込んでいた。その向こうでは救援物資を品目別に袋詰めしている。これも若い人たち。なかに外国人も混ざって働いていた。

 市役所の中に入った。市役所職員よりボランティアの方が圧倒的に多い。その方たちが黙々と仕事をしているのを見ると、ジーンとしてくる。ありがたいなあと思う。

 二階へ上がった。市民相談のコーナーが延々と続いていた。相談に来る人も多く、行列になっていた。何かの表示札の上に、《火葬の相談》という紙が貼られていた。

 深刻な思いで外へ出た。また歩き始める。倒壊の度合いがだんだんひどくなっていく。これまでは、これが屋根とか、2階が落ちたとか、分かるのだが、がれきがやたらごちゃごちゃしているだけで、何が何だか分からない倒壊が目につく。

 道路の地割れもふえる。歩きにくい。そのため、車道を歩くことがふえた。その車道も割れたり盛り上がったりしているところがある。

 芦屋市に入る。警官が交通整理。ヘルメットには神奈川県警と書いてある。思わず、『がんばって。御苦労様。』と声をかけた。車の通行を一車線に限定。残りを人の行列に譲ってくれていた。そのくらい歩道への倒壊が増えてきた。傾斜したビルも目につく。そういうところは、《危険》と表示した札やロープを張って立ち入り禁止にしている。

 一方ちゃんと建っている家やビルもある。この差は何だろう。地盤か、建てられた時期か、いろいろあるだろう。びっくりしたのは、《当店は営業しています。》と表示したファミリーレストランがあったこと。わたしが目にした限り、営業中というのはこの店だけだった。

 この辺り、マンションでも安心できない。真ん中だけ折れ曲がり、左右で高さがずれているを見た。ちゃんと建っていても全体がひびだらけ、ガラスはめちゃめちゃというマンションもあった。

 神戸市に入る。最初が東灘区だ。いやにほこりっぽいところに出た。前方に傾斜した病院のビルが見える。そして、2台の巨大な機械でそのビルを壊している。

 そこは車も人も全面通行止め。迂回させられた。そのため、避難所になっている学校を見ることができた。校庭は車やテントでいっぱいだった。倒壊した高速道路はこの辺りと思ったが、もう母の実家も近い。先を急いだ。

 実家が近づく。母が次々と声を上げる。
「あら。ここはよく買い物をした商店街だ。」
アーケードの残骸でそれと分かる。道は左右の店のがれきで埋まっている。がれきの高さがゆうに一階分を超える。
「うわあ。あの喫茶店、何回もコーヒーを飲んだお店よ。あんなに傾いちゃってる。」

 ずっと傾いたビルを見ていて、とんでもない妄想が浮かぶ。子どもの工作からの連想だが、『少しブルドーザーで押したら、すぐ元に戻るのではないか。』 ああ。ほんとうにそうだったら、どんなにすばらしいだろう。

 いよいよ実家に近づいたので、路地に入った。垂れ下がった電線、傾いた電柱をよけながら歩いた。

 こんなに大変なのに、後片付けをしている人たちの表情は一様に明るい。子どもも屈託がない。日曜日の大工仕事のような気分のように見える。近所同士で、今後のことを相談し合っている人もいる。

 にこにこして走ってきた女性が、電力会社の人に話しかけている。
「まだ今日は、電気は無理でしょうね。」
「ああ。ちょっとねえ。今日っていうわけにはいかないねえ。」
「そうですか。しょうがないわね。」
その会話が自然で、ふつうのまちかと錯覚するような明るさだ。すごい。


 午後4時。やっと祖母の家に着いた。地図で直線で測ったら約10キロメートル。実際はもっとある。その上足場は悪いし、迂回させられるなど、70歳の母はよく歩いたものだ。これも身内に早く会いたい思いのなせる業。

 ちょうど家の前に伯母がいて、外へ出した荷物の整理をしていた。
「うわあ。大変だったねえ。」
「いやあ。よく来れたねえ。」
それを契機に話が始まった。

 電話では家がつぶれたと聞いたけれど、実際は傾いた程度。
「よかったですね。たいしてつぶれなくて。」
「ほんとう。だから逃げることができたのね。」
「でも、中はすごいのよ。靴を履いたままでいいから入ってごらんなさい。」

 ほんとう。家財がごった返している。足の踏み場もない。ガラスの破片も散乱していて、これはもう靴を履いたままでないと入ることもできない。

「たまたま母の家に来ていて、わたしはここで寝ていたの。まあ、タンスや額などが飛んできてね。わたしの体は埋もれてしまったわよ。
 母はね。こっちで寝ていたの。こっちもタンスや何かが全部倒れちゃって、それはひどかったわ。」

 この家には何回も来ているから、こぎれいでよく整頓された室内の思い出がある。しかし、今はその面影がまるでない。

 伯母は家財の引っ越しをもう5日も続けている。つぶれた家は盗難が心配なので、大事なものをマンションに運び込んでいるのだ。明るいふるまい、言葉も、無理してのものだろう。
「もう、わたし、限界なのよ。体も精神状態もずたずた。疲れ切ってしまったわ。」

 横浜の父に電話しようとした。
「電話はね。かかってはくるのだけれど、こちらからかけることはできないの。公衆電話しか使えないのよ。」

 すぐ公衆電話にかけ付けた。なんとテレフォンカードは使えない。百円玉もだめ。十円玉しか使えないので、無事到着を知らせただけだった。

 さっそく家財をマンションに運んだ。到着。驚いたのは、マンションは無事なのに、隣りの一戸建て木造住宅はがれきの山となっていた。
「ここは気の毒に亡くなった人がいるの。夜こうこうとライトを照らして、自衛隊が捜索していたわ。」
「それにしても、このマンションは無事でよかったね。」
「でも、これでもひびは入っているのよ。ひどい余震があればつぶれるわ。もう地盤はかなり弱くなっているしね。それに地すべりも心配。」
 ちゃんと建ってはいても心配のタネは尽きないと実感させられた。

 ここには大阪の親戚のご夫婦がいらしていた。このご夫婦も今日初めて来たとのこと。18日。車で来ようとしたが、あまりの渋滞で来るのをあきらめ、引き返したという。この日は前日の夜10時に大阪を出発。着いたのは深夜午前2時半。ふだんなら30分程度で来れる距離なのにとのことだった。

 そしてこのご夫婦も、着いてすぐ水運び。室内の片づけ。家財の運搬などに精出し、もうこの時刻、疲れ切っていた。
「まあ、今日は大勢来てくれたから、助かるわ。」
伯母が喜んでくれた。

 祖母は部屋の一角に座り、外を眺めていた。わたしたちを見て、到着を喜んでくれた。
「おばあちゃん。よかったね。無事で。」
「こわかったよう。いろんな物がこうやって倒れてきて、めちゃくちゃ。」
身振り手振りをまじえ、でもにこにこしながら語る。それにしても亡くなった方が一番多い東灘区で、93歳の祖母が無事なのは、奇跡のように思える。涙が出る。

 日も暮れかかってきた。キャリーカー、手押し車、自転車などを使って3往復したら運び終わった。次は水運び。すでに真っ暗だったが、幸い電気は通っている。そう。そう。このあたり、JRの線路を境にして、海側はまだ電気は通っていないが、山側は何と通っていたのだ。

 大阪のおじさんが車で水を運ぼうとしたが、10分待っても車の列は動かない。不要不急の車は運転しないよう市は呼びかけているが、そんな車はないのではないか。

 大阪の親戚がこの神戸に来るのは容易でなかったようだ。ただ行こうとしても警察が通してくれない。そこで、
「がれきに埋まっていた親戚が助けられたと連絡があった。今すぐ行かないと亡くなってしまう。」
と言ったら、やっと通してくれたとのこと。

 いくら待ってもダメなので、車をあきらめ、わたしと妻とおじさんと3人で、歩いていくことにした。約700メートル。途中、手押し車の妻が電柱にそれをぶつけ、ポリバケツをひっくり返してしまった。その場を歩いていた若い人がすぐ拾ってくれた。
「どこまで行くのですか。持ちましょう。」
「ありがとう。でも、いいですよ。向こうの阪急線の、さらにもっと向こうだから。」
「大丈夫ですよ。」

 でも、と言いかけたら、
「じゃあ、ここで待ってるよ。行ってやりなよ。」
の声。何と連れがいたのだ。驚くほどの好意だ。彼らだってどこからか歩いてきたのだろう。まだ先は遠いのではないか。お礼を言ってやっとの思いで辞退した。

 給水所へ到着。わたしはそこに給水車が止まっているのだと思っていた。ここへ来るとき、東京都をはじめ、いくつもの水道局の車を見ていたからだ。ところが違っていた。どこからかくだが伸びていて、ここはその最末端。蛇口が何個もついている。栓をひねると水が出た。感激。これならいつでも好きなだけ水をもらえる。手を洗い、顔を洗い、手に水を受けて飲んだ。
「うわあ。冷たくてうまい。気持ちいい。」
 妻が気のきいたことを言った。
「六甲のおいしい水ね。」
「ほんとうだ。六甲のおいしい水だよ。」
 しかし、運んだあと、ぬるくなった水は、もう『六甲の水』ではなかった。薬の味が強くまずかった。

 わたしはポリバケツに7ぶんめ入れて運んだ。甲子園のスーパーで買ったポリバケツはふたがないので、手押し車に乗せるわけにはいかなかった。気をつけて運んだ。
「よくこぼさなかったねえ。」
大阪のおばさんにほめられた。トイレ用の水は工業用水の転用だ。それでもっと近くでもらえる。それは浴室にあけた。

 それにしても水運びは大変だ。どれだけ時間をとられるだろう。それに何人もで苦労して運んでも、風呂場の浴槽を満たすことはできない。水運びの最中、若い女性3人に、
「その水はどこでもらえるのですか。」
と聞かれた。しかし慣れない土地で、説明がむずかしい。後から手押し車で来た大阪のおじさんに説明をゆだねた。

 それにしても、よく道を聞かれた。

 《続く》


 にほんブログ村 教育ブログへ

 ninki
 

 
 当時わたしは、C小学校副校長でした。校長先生から、
「朝会で、被災地の様子を子どもたちに話してくれませんか。」
と言われ、話したことがありました。

 みんなどの子も、姿勢をくずさずしっかりとした態度で話を聞いてくれました。

 熊本、大分などの被災地では、今も行方不明の方がいて、捜索活動が続いています。余震も続いています。その余震も、『これは余震ではない。今回のが本震だ。』と言われているくらいひどいようです。

 倒壊した家屋に、いつまで続くのかわからない余震に、被災者の方々の不安はいかばかりでしょう。

 繰り返しますが、早く余震におびやかされない日が来ますように。
 

 

rve83253 at 05:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)災害 | エッセイ

2016年04月08日

A校長の訃報に涙

IMAG3455 先月、A校長の訃報が届きました。98歳。大校長の大往生だったようです。我が教員人生にとっても、師と仰ぐ校長の一人でした。謹んで哀悼の意を表します。

 わたしが30〜33歳のときの校長だった。もう40年ほども前になる。しかしこれまで、当時の教職員で《A校長を囲む会》を毎年開催してきたから、今も当時の気分のままで、自分の校長先生のような気がしている。多くの教育的財産をいただいた。いくら感謝しても、感謝しきれない思いである。

 退職後も大変お元気で、長く中高年のテニス教室の先生をされていた。80歳近くなられても歩くのが速く、若いわたしの方がついていく感じだった。

 一度、A校長を囲む会で、A校長と体力の話になり、
「toshiさんなんかに負けるもんかよ。」
何と腕相撲をしたのである。わたしはわたしで、内心、《こんな年寄りに負けるものか。》と思ったが、簡単に負けてしまった。恐れ入った。

 だから、だれもが100歳以後も生き抜いていくだろうと言っていたが、タクシーから降りる際の転倒事故が災いし、ここ数年は病床に臥せるようになってしまった。

 葬儀は身内だけでいとなんだようだ。わたしたちには、数日後知らされた。今、お墓参りの相談をしている。


 さて、本記事では、その、A校長の想い出とともに、同校長から学んだことを書かせていただく。わたしは多大な感化を受けたといっていい。

〇まずは、A校長が着任されたときの卒業式予行からふり返ってみたい。

 A校長以前、式予行の証書授与と言えば、先頭の5・6名が、いわば練習台のように壇上にあがり、校長先生から証書(?)をいただくのが常だった。あとはそれを見て、作法、手順などを覚える。まさかほんとうの卒業証書を使うわけにはいかないから、画用紙にコピーしたものを使った。

 ところがA校長のときは違った。なんと、本番さながらに全員が順次壇上に上がったのである。そして、何やら証書とはちょっと違ったサイズのものを授与(?)されている。

 すぐ分かった。いただいているのは色紙だった。校長先生自筆の卒業生へ贈る言葉とともに、一人一人に色紙がプレゼントされたのだ。それをいただく子どもたちの驚き、戸惑い、喜び、感激・・・、一人一人の表情に、そういった感情がにじみ出ていた。席に戻ってからも、その、A校長先生の文字をじっと見つめる子が少なくなかった。

 わたしも心の中で、《あっ。》と叫び声を上げた。わたしまで大きな感動を味わわせてもらった。

 でも、・・・、でも、・・・、この感激も、ある意味、最初の年だけだったね。式予行は5年生も同席しているから、翌年はもうみんな分かっている。予行の数日前から、色紙をいただけるのだという期待をみんなが抱いていた。もちろんそれはそれで、感動、喜びはあったが、《あっ。》とまではね。

 わたしはA校長から学んだ。

 式予行を単なる練習にしてはいけないな。作法を覚え、そそうのないようにする。それだけを目的にするのでは残念だ。子どもも飽きる。退屈するし窮屈だ。たとえ予行であっても、このように喜び、感動、そういったものを味わわせてやりたい。

 そこで自分が校長職についた20年後、わたしもまねさせていただいた。

 とは言っても、色紙に関してはそれを贈ることだけだった。予行で一人一人に贈るのは・・・、何とも面はゆく・・・、てれくさく・・・、それはできなかった。式終了後、教室に戻ってから、担任の手で渡してもらった。それはそれで、けっこう喜んでくれたとは、あとで担任から聞いた。

 数年前、その学校におじゃまする機会があったが、当時の保護者から、
「うちの子、もう大学生ですが、今も校長先生からいただいた色紙を部屋に飾っていますよ。」
「うちもそう。そして今も、toshi校長先生の想い出話がときどき子どもから出てくるのです。」
 うれしい思いで聞いた。

 たとえ予行でも思い出に残るものにしたい。単なる練習にはしたくない。わたしは、その思いを学校長祝辞で表すことにした。それで、簡単にではあるが、卒業生や在校生にまつわる思い出話をさせてもらった。そして、卒業式本番への期待などをしめくくりとした。
 
〇次に学ばせていただいたのは・・・、いや、ほんとうはこれから書くことの方が早い時期だったのだけれどね。

 それは、A校長がB小学校に着任されたときのことだ。子どもたちへの話。それが大変ユニークだった。だから、今も鮮明に覚えている。

 それまで校長の話といえば、長いのがふつうだった。子どもたちはけなげにも姿勢をくずさず聞いている。そんな光景はいっぱい見てきた。

 ところが、A校長は、
 「おはようございます。今日からこのB小学校の校長となったAです。
 おうちへ帰ったらね。おうちの方へ、今度、校長先生が変わったよ。今度の校長先生は、色が黒くて熊みたいな顔をした校長先生だよ。そう言ってください。よろしくね。終わり。」

 子どもたちからどよめきがおきた。「みじけえ。」驚きとともに、そんな声も聞こえてきた。わたしたち教員もどきもを抜かれた。
 A校長はふだんの朝会の話も短かった。だいたい1・2分。

 わたしも校長時代、短くを心がけた。

 もう一つある。

 朝会の話といえば、それまでの校長は季節にまつわる話、童話などからの訓戒、そんなのがふつうだった。だいたいつまらない。
 ところが、A校長は違った。それもあっただろうが、よく子どもをほめていた。子どもの名前を出してほめたり感心したり喜んだりしていた。

 これらは、話をよく聞く姿勢を養うことにつながった。わたしもそれを実践した。名前までは出せなかったけれどね。

 ただこれはふだんが大切だ。子どもの姿をよく見ていないとできない。

 授業中の教室を巡視する。休み時間は校庭に出る。登校時は子どもを校門で迎える。それらを努めて行うようにした。また、副校長はじめ、教員からも子どもに関する情報を収集することに努めた。

〇次の話題は子どもから離れよう。

 当時、我が校舎は、鉄筋なのにボロボロ。雨もりがひどかった。関東大震災後に建てられたので、地震には強かったかもしれないが、大空襲には弱かった。猛火に包まれ中はかなり燃えてしまったようだ。鉄筋だから安全だろうと多くの市民が避難したが、倉庫などでは熱と煙で、お気の毒に大勢亡くなってしまった。

 雨漏りに話を戻すが・・・、始末が悪いのは、どこから水が入り、どう流れて教室で漏るのか、その把握が困難だったことだ。

 いつのことだったか、烈火のごとく怒るA校長の声が聞こえてきた。教委への電話だった。
「何ぃ。子どもたちに、教室で傘をさして勉強しろというのか。」
 居合わせた教員は、顔を見合わせ、くすくす笑い出した。
「いくらひどい雨漏りでも、教室で傘をさす必要はないわね。」

 このように親分肌のところもあった。子どものことであれば、こわいものなし。平気で強いもの(?)とわたり合っていた。

 ここまでは、まねできなかった。
 教委と折衝したことは数度あるが、おだやかに、穏便に交渉するといった感じだった。それでも、けっこう要望は受け止めてくれたけれどね。

 A校長のおかげだろう。次の校長のとき、全面的な校舎改築となった。改築中は、机、いすの移動などで大変な思いをしたが、新しいピカピカの校舎に入ったときは大きな喜びを味わうことができた。その校舎で、全国小学校社会科研究会を開催。1300人の教員をお迎えしての大研究会となった。
 
〇もう一つ。これは今も教員の間で語り草となっている。

 終戦後30年たっても、B校学区周辺には、今で言う簡易宿泊所があった。そのせいもあっただろう。いつのころからか、B校のプール下のすきまに、一人の労務者が寝泊まりするようになった。夜だけだし、子どもが登校するころは、きれいに片付けていなくなるので、学校としては見て見ぬふりをしていた。

 そんなとき、労務者が地域住民とトラブルを起こした。《何も学校で寝泊まりすることはないだろう。》と苦言を呈されたようだ。すると、その労務者は、何を思ったか、学校に文句を言いに来た。

 A校長が対応したが、最初はえらい剣幕だったのに、半日たった昼近く、おだやかな笑顔で帰っていった。後で聞いたが、別れ際、A校長と握手して、「もう学校で寝泊まりはしない。」と約束したとのこと。

 教員の何人かは、最初の剣幕で、どうなることかとハラハラしていたが、最後、にこにこして帰るのを見て、安どの思いで胸をなでおろした。しかしそうなると今度は、いったいA校長はどのように対応したのだろうと、そのことが気になり、ある教員が聞いたようだ。

「なあに。その人の話を、ただただ聞いてやっただけだよ。」

 それにしても、約半日だ。お付き合いも大変だっただろう。

 そのころのわたしは、《ただ話を聞くだけで、あんな笑顔になって帰っていくとは、》と、不思議な思いにかられたが、今ふり返れば、よく分かる気がする。大事なのは、言いなりにはならないが、共感する姿勢は大切にする。そんなことではないだろうか。

 もう最後の方は、苦言を忘れ、戦後の苦労話に花が咲いたらしい。人の話を真剣に聞き、受容的な態度で接する。この大切さを学んだことは、自分が管理職になってからの仕事に、とても大きなものがあった。

〇先ほど、研究に少しふれたが、B小学校はA校長の着任以後、毎年のように研究発表会を行う学校になった。その機運は、このA校長と教職員双方で創り上げたと言っていい。

 A校長で忘れられないのは、ある研究発表会でのあいさつだ。

 体育館が満員になるほどの教員をまえに、真っ先に話したのは、自校の教職員をほめたたえることだった。子ども一人一人の成長を第一に考え、どう子どもを学びの主体者にするかに全力を挙げる教員、わたしの自慢の教員たち。そんな話だった。

 ふつうはね。遠路はるばると訪れる教員へ、またそれまでご指導くださった講師への感謝の言葉が先だろう。しかし、それらをあとまわしにする。それでも、来訪された教員、講師からは大変感動したと、称賛の言葉をいただいた。

 話は変わって、今も拙ブログの人気記事に、わたしの卒業式の式辞が入っているが・・・、

 これもA校長の感化のたまものだ。真っ先に子どもをほめる。子どもに感謝する。そして、来賓の方々へのお礼などはあとまわしだ。
 いや。わたしの場合、ストレートには、来賓へのお礼など、言っていないのだよね。

 また、研究に話を戻して・・・すみません。、今日は話があっちこっちへとんでしまいますね。

 A校長が教員の研究内容に口をさしはさんだことはない。常に、縁の下の力持ちに徹していた。そこにあるのは教員を信頼する姿だった。

 あるとき、教員みんなで教材研究をしていた。当時生活科はなく、低学年も理科、社会の時代だったが、2年生に、《駅で働く人》という単元があった。我々が通勤でも利用するC駅は、大きくカーブするところにあった。そのため、下りでは電車の中央部で、上りでは両端部で、ホームと電車の間が大きく空いてしまうのだった。

 その危険を回避すべく、ホームの下には蛍光灯が設置され、足元を照らすようになっていた。そのとき誰かが、
「蛍光灯は上り下り双方にあったかな。片っ方だけではなかったかな。」
と言い出した。よく利用している駅なのに、誰も確信をもって答えられるものがいない。そのまま話は別な方へ流れてしまった。

 そのとき、A校長がそっといなくなるのを誰も気づかなかった。30分ほどたって戻ってきたA校長。
「蛍光灯は上り下り両方あったよ。」
サラッと、言ってのけた。全員、《うわあ。まいった。わざわざ行ってくれたのか。申し訳ない。》の思いで沈黙してしまった。
 
 A校長の口ぐせ。
「なぜ教員を大切にするか。それは教員の一人一人が子どもを大切にしているからだよ。子どもを大切にしないで、学校が成り立つものか。」
 
〇このA校長。ユーモアもあったね。それはPTA総会の前段における校長の話だった。

「〜。
 そんな状況で、B小の児童数は少しずつ減っています。どうか、お母さん方、もうひとがんばり。お子さんをもうけていただいて、B小学校の児童数が増えていくように、よろしくお願いします。」
 会場は大爆笑となった。でも、これ、今だったら大変な問題発言だよね。むかしのむかしの話です。

 こればっかりはマネしなかったよ。

 ああ。最後は変な話題を提供してしまったけれど、あらためて、再度、A校長のご冥福を祈りたい。そして、A校長とめぐり会えたことに感謝している。

 にほんブログ村 教育ブログへ

 ninki
 

〇A校長が喜寿を迎えたときでした。旧B小教職員は、むかしの職員旅行の想い出とともに、同じホテルに泊まるという、再現職員旅行を行いました。

 ホテルも大変喜んでくれて、すごいサービスを提供してくれました。

 また、叙勲祝賀会も思い出深いです。A校長は3校での校長先生でしたので、3校の旧職員合同で主催しました。大変盛大な会となりました。

 さらに、A校長の傘寿のお祝いのときには、かけ付けたもの全員が、記念品としてテレフォンカードをいただきました。それには、そのときのA校長の心情を表す言葉が書かれていました。ちょうど奥様に先立たれたときでした。

 わたしは使い切ったあとも、大事にとっています。

 《寂しさは楽しんで生き 楽しさは厳しく生きて 我老いゆ  傘寿》


〇わたしにはもうお一人。大変学ばせていただいた校長がいます。D校長。この校長先生のことも過去記事にありますので、リンクしますね。

 感動のニュース 校長を慕う子どもたち
 この記事のなかほど、ちょっと行間をとっているところの次、《わたしもかつて、このような校長のもとで、勤務したことがある。》からがそれに当たります。この記事では、A校長としています。

 この記事、今日は、拙ブログ人気記事の11位となっています。よく読まれているようです。よろしかったらご覧ください。

 

rve83253 at 08:35|PermalinkComments(2)TrackBack(0)学校管理職 | むかし