2016年08月22日

旧東海道を歩く。(4)

IMAG0982 本シリーズの最終章は、戸塚駅から横浜市隣りの藤沢市(駅)までのつもりだったが、前記事が東戸塚駅付近で終わっているので、まずは、そこからスタートさせていただこう。

 東戸塚駅入口の信号で国道と一緒になると思いきや、旧東海道は国道一号線を横断していた。そして、すぐカーブして国道と並行し、数百メートル先の赤関橋で合流した。

 そのまま国道を歩くと、今度は不動坂でまたまた国道から離れた。ほんの数百メートルだが、ここでは、心に残る史跡、石碑、建造物を見ることができた。

 そのなかの一つ。ちょっとこの辺では不似合いなくらい、ものすごく古く、しかしがっちりとした建造物を見つけた。鎌倉ハムの倉庫だ。戸塚区のホームページによれば、明治20年代の建造とのこと。港の赤レンガ倉庫と同じころだ。驚いたのは、今も倉庫として使用しているとのこと。単なる史跡ではない。すごい。IMAG8132 (1)

 鎌倉ハムの名前の由来については・・・、

 ずっとここは横浜ではなく、鎌倉郡だった。横浜市に編入されたのは・・・、

 編入は、市制がしかれた明治22年以後、6回にわたって行われた。編入以前は、都筑(つづき)郡、橘樹(たちばな)郡、久良岐(くらき)郡、それに、ここ鎌倉郡だった。鎌倉ハムがある地が編入されたのは昭和14年。最後の編入であり、これにより現在の横浜市の市域が確定した。しかし当然のことながら、鎌倉ハムの名はそのまま存続した。

 なお、人口増加により分区が数回にわたり行われたが、平成6年の分区にあたっては都筑区が誕生。かつての郡の名が区名として復活した。

 それにしても不思議なことがある。開港のころの横浜は文明開化の地。《横浜もののはじめ》が有名だが、外国からいろいろな文明が入ってきた。今、港周辺を歩くと、《〜発祥の地》なる碑をたくさん見ることができる。IMAG0958

 しかし、横浜中心部から離れたこの地が、日本で初めてハム・ソーセージの製造販売を行ったとは・・・、

 それで、Wikipediaで調べてみると、イギリス人が畜産業から始めて肉製品を作ったことが分かった。なるほど。畜産業からであれば、郡部の方が向いているね。

 さて、前述のように数百メートルでまた国道と一緒になる。しばらく歩くと、左の写真の、江戸見附前信号あり。この名前は前記事にも登場した。そう。今度は戸塚宿の入口となるわけだ。ここには、江戸方見附跡の石碑もたっていた。

 さらに、数百メートルで吉田大橋にたどり着く。冒頭の写真がそれだ。なお、写真の街燈だが、この変わった形は大名行列の毛槍を模しているのだという。IMAG0989

 また、この橋で特筆すべきは、なんと橋の欄干両側に2枚ずつ、計4枚の戸塚宿にまつわる浮世絵があることだ。

 ほんとうに、これまで、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚と、旧宿場町を歩いてきたが、どこも、歴史をすごく大切にしている。戸塚宿まで来て、どこも、まちの人たちは、郷土の歴史を誇りにしているのではないかという感想をもつようになった。

 浮世絵では、おもしろいことを2つ発見した。hiroshige018_main139007514573806287227_totsukashuku


 
  ・広重の戸塚宿の絵は、左の絵
  のように二種類ある。読者の皆
  さんは、双方くらべて、どこが違
  うか気づかれただろうか。分かりにくければ《拡大》をかけてご覧いただければと思う。

 そう。一つは旅人が馬から跳び降りている。もう一つは馬に乗ろうとしている。

 上の方がよく知られた絵だが、実は双方とも、旧東海道で見ることができる。これには感動した。あらためて思う。旧宿場町はどこも通りがそのまま美術館のようだ。

 見られるのはどこか。上の絵は吉田大橋の欄干で、もう一つは江戸見附前信号の写真に写っているダイソーで。

 ダイソー前で、同壁面を飾る絵を見ていたら、そこの店員さんが現れた。
「ええっ。この絵、2種類あるのですかあ。知らなかったです。吉田大橋の絵と同じだと思っていました。あらあ。今度よく見なきゃいけませんね。」
 店員さんが知らなかったとは。なんかおかしくなった。でも、100円ショップがこうした絵を掲示してくれていること。わたしはその店員さんに感謝の気持ちを伝えた。
 
・もう一つある。この絵に描かれている右の橋。これは、200年前の吉田大橋だ。吉田大橋で、むかしの吉田大橋の描かれた絵が見られるというのも、おもしろい。劇中劇のようだなあ。

 さて、大橋を渡るとすぐ道は二手に分かれる。直進はJR線の下をくぐるように作られたアンダーパスへ向かう。自動車バイク専用道路だ。

 もう一つの方、左前方が旧東海道だ。こちらは、開かずの踏切として有名だった踏切に進む。でも、今、その踏切はない。かわりに《大踏切デッキ》という大きな歩道橋に生まれ変わった。踏切はなくなったのに、歩道橋の名前は、《大踏切デッキ》。なんかおかしさを感じた。

 3・40分待たないと渡れなかった踏切。この解消は長年の懸案であった。むかし箱根駅伝がここを通っていたころ、ほとんどの走者は開くのを待たされ、さまざまな悲喜劇を生んだ。そのためだろう。近年箱根駅伝はここを通らず、不動坂から横浜新道へとコースを変えた。

 アンダーパスと大踏切デッキが完成したのは昨年である。このまちの方や買い物客たちは大変喜んでいるに違いない。

 実は、これだけではない。踏切は戸塚駅に近接していて、この完成は戸塚駅西口の再開発と一体化している。そしてその再開発もほぼ完了した。ごみごみしたまちが、近代的で便利なまちに生まれ変わったのである。

 わたしは歩行者だから、大踏切デッキを渡った。そしてできたてのほやほやのまちを通った。

 その先は旧東海道の宿場町の中心となる。例によって、澤邊本陣跡、八坂神社、富塚八幡宮、上方見附跡などの案内表示が見られた。

 上方見附跡からは、大坂の上りとなる。権太坂に匹敵するような坂だ。そして、坂を上り切ったところで横浜新道と合流する。ここから先は、ずっと国道と一緒だ。ところどころに史跡、案内表示は見られるが、旧東海道の面影はやはり少なかった。IMAG8262

 約4キロメートルにわたり台地を通り、お隣の藤沢市の遊行寺坂で下りとなった。この坂も箱根駅伝で有名だね。

 遊行寺に寄らせてもらった。巨木の下には露店が数店。ちょっとしたにぎわいを見せていた。ここは一遍上人開祖の時宗総本山として有名だ。

 さあ、4日にわたり歩き通した旧東海道の旅も終わりに近づいた。藤沢橋を渡る。ここも藤沢宿の真っ只中なのでいろいろな案内表示が目についたが、帰路を急いだ。

 旧東海道は右に行くことになるが、わたしは左へ。そして藤沢駅に向かった。

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sekihi 左の写真は、ある石碑の裏面です。本記事冒頭の鎌倉ハム倉庫のそばにありました。

 表には、大きな文字で、《史蹟への小径》とあります。そして、裏には、本シリーズにも関係するすてきな言葉が刻まれていました。

《歴史は 古く 永く そして悠久に 継承される》

 なんと魅惑的な言葉でしょう。わたしはすぐ、前記事に書いた、《投込塚》を思い浮かべました。何せ、時代は変わっても、人の心は、江戸時代から現代にいたるまで・・・、さらには未来まで、継承されていくのですね。

 また、その土地、土地に、小学校社会科の実践で教材化してほしい歴史事象がたくさんあることにも気づかされました。

 地域の歴史事象を大切にし、継承される人の心を子どもが学び取ることによって、地域を愛し、人を愛する心情が養われるのではないかと、思いました。

〇本文に書けなかった中から案内表示、史跡などの主なものは、下記のとおりです。

 柏尾  大山道道標、大山前不動
 戸塚宿 吉田一里塚跡、明治天皇戸塚行在所阯
 大坂上 お軽 勘平 戸塚山中道行の場 石碑
 原宿  原宿一里塚跡
 藤沢宿 遊行寺坂一里塚跡、江戸見附跡


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2016年08月14日

旧東海道を歩く。(3)

IMAG8084  3日目は保土ヶ谷駅からのスタート。西口のバス乗り場の向こうが旧東海道である。そして、ここは保土ヶ谷宿の真っただ中だけに、例によって史跡の案内表示がたくさんある。

 まずは前回分になるが、江戸方見附跡、旧帷子橋跡。

 江戸方見附は、江戸から来たときの宿場の入口で、見附は土盛りをした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしているという。
 反対に京都方面からの入口は、上方見附という。だからその両者の中が宿場となるわけだ。ukiyoe-02

 また、旧帷子橋は広重の浮世絵に登場するが、前の記事に書いたように、河川改修があったため、今はまったくの陸地、公園の脇になってしまった。

 それにしても、この改修工事の困難さがしのばれる。工事は昭和30年代に行われた。そしてなんと、蛇行のため、一部、相鉄線の反対側に流れ込んでいたのをまっすぐにしたのだ。もうこの時期、市街化はかなり進んでいる。そんなときに、相鉄線にかかる橋2つをなくしたり、土地の明け渡しをお願いしたりするのは、さぞ大変だったことだろう。

 さらに、今昔マップを見ると、改修は保土ヶ谷区全域に及んでいる。市民の理解がなければとてもできる工事ではなかったと思われる。市民も、洪水を防ぐためならと、協力したのではないかな。

 さて、話を今回分に進めよう。

 史跡の案内表示だったね。前回分に続き、問屋場跡、高札場跡、本陣跡、脇本陣跡、一里塚跡など、きめ細かく、案内が出ていた。IMAG8070

 また、《金沢横丁》なる案内もあった。これは、かなざわ・かまくら道との分岐を示していた。

 そう。これも前回記事でふれたが、江戸中期までは、保土ヶ谷宿近くまで海が入り込んでいたので、金沢、横須賀方面に行くには、ここまでの迂回を余儀なくされたのだ。

 JRの踏切を渡ると、すぐ国道に出っくわす。ここからはまた、国道が旧東海道となる。これまで国道と重なるとさしたる史跡案内はなかったが、ここ、保土ヶ谷は違っていた。前記の本陣跡、脇本陣跡、一里塚跡などの表示はみんな国道にあった。

 それだけではなかった。旧東海道の雰囲気を復元しようとする営みも随所に感じた。

 冒頭の写真はその一つだ。かつてあったはずの松並木。しかし、それが道路の拡張に伴ってどこもかしこもなくなってしまっている。現在では、大磯まで行かないと往時の松並木は見られない。

 ところがここ、保土ヶ谷では松並木の復元が進んでいる。もちろんまだ若木だが、数百年後は、きっと大磯並みの並木になることだろう。

 ここでまた、国道を離れる。一緒だったのはわずか数百メートルだった。そして、権太坂へと向かう。IMAG8088 (1)IMAG8092

 ああ。この、権太坂は有名だね。箱根駅伝では順位、タイムなどのチェックポイントとして各大学の走者が走るたびにテレビの画面に登場する。しかし、あれは国道なので、旧東海道の権太坂とは異なる。

 この坂、駅伝以前から有名なのだが、歩いてみてその理由が分かった。

 横浜はもともと丘陵地が多い。広々とした平野はない。逆に谷戸は多いはずだ。したがって、どこを歩いても坂はつきもの。小学校の名前にも、丘、岡、台がつく学校は多い。

 さらにその丘陵はだいたいどこも同じ高さで、急坂、緩やかな坂の違いはあるにしても、40〜50メートルくらいの標高が多い。

 案内表示を読むと、旅の難所とあるが、これにはちょっとびっくりした。いくらけわしいと言っても、上り切ったところにある境木小学校で調べると、標高は他よりはちょっと高いが、それでも70メートル余。同じ神奈川県の箱根なら、800メートル以上もあるからね。くらべものにならない・・・、はずだ。

 しかし、しかしだ。難所の証明になるものを発見。それは上記境木小学校のすぐ近くで見つけた。何と、《投込塚》なるものの案内がある。IMAG8099 (1)

 初めは何を投げ込んだのだろうと思った。気になったので、旧東海道からは少し外れるが行ってみた。そして、《投込塚之跡》なる石碑を見つけた。

 この土地の方だろう。初老といってもいいような方が、まるでお墓参りのようにお水をかけたりお供え物を置いたりして、お参りされていた。

 わたしが立ち止まるとその方はすぐ立ち去られた。碑文を読む。

 もともとこの地は、権太坂投込塚という地名だったようだ。江戸時代、行き倒れる旅人が多く、そのたびに埋葬していたらしい。さらに昭和30年代になりこの地で宅地開発が進むと、多数の白骨が出てきた。それらを近くのお寺で、供養埋葬したようだ。

 そこで思ったこと2つ。

・確かに標高差からすれば、箱根にくらべ物の数ではない。しかし、江戸からここまでは、多くが海岸沿いということからも分かるように、ほとんど平地だった。そういう意味では、最初に出現する本格的な坂。それだけにダメージを受ける人が多かったのではないか。

・この地の方はむかしから、行き倒れた方を気の毒に思い、おそらく少なからず無縁仏になってしまったであろう旅人を手厚く葬ってきた。それはもう、行き倒れる方などありえない昭和30年代になっても・・・、

 それこそ、この時期なら、出てきた白骨のすべてが無縁仏だよね。その方々も手厚く葬った。その思いは持続したのだ。それが、さらに今も・・・、

 まるで自分の家のお墓であるかのように掃除したりお参りしたりする人がいる。むかしの旅人を思う心はしっかり引き継がれているのだ。
 
 今はもう、難所どころか、いたるところが宅地化された。前述のように学校まである。おそらくこれからも、この地の方々によって、この塚は守られ、大切にされていくであろう。

 さて、前述のように、ここには境木小学校がある。そう。この地は、武蔵の国と相模の国との国境にあたる。横浜市は双方にまたがっているのだ。IMAG8096 (2)

 そして、ここは見晴らしのよい高台で、西に富士、東に江戸湾を望むことができる。景観がすばらしく、旅人は必ず足をとめたという。

 今は、富士山こそマンション群のあいだに望めるが、東京湾は、代わりにみなとみらいなどのビル群が見えるようになった。

 国境を過ぎると下り坂となる。焼餅坂と品濃坂だ。そのなかでも品濃坂はかなりの急坂だ。下りだからよかったものの、これが上りなら・・・、やはり行き倒れとなってしまったかも・・・。IMAG0574

 さて、この双方の坂の間に、品濃一里塚がある。この一里塚は特筆すべきもので、神奈川県下、ここだけが江戸時代のまま残っている。
 一里塚には築山が道の両側にあるのだが、それがそっくり残っているのはここだけだ。

 そのことから分かるのは・・・、

 江戸時代の東海道の道幅が分かる。それが右の写真だ。読者の皆さんはどう感じられたかな。

 これだけなの。そう。これだけの道幅なのだよね。ここを大名行列のかごや飛脚や馬などが往来していたことになる。

 もう一つ。双方の坂の間を、今は、環状二号線が通っている。実はかつて道が分からなくなってしまったところの一つがここだった。何せ、小道といってもいいような道だから、曲がり角などになるともう、お手上げだった。IMAG8121 (1)

 でも、今回分かったのは・・・、また、分かったと同時におかしくなってしまったのは・・・、何と環状二号線にかかる歩道橋に、《旧東海道》の文字があった。まさか、歩道橋が江戸時代の東海道とはね。

 でも、これがないと、歩道橋を渡るべきなのか否か、さらにその先はどこへつながるのか。まったく分からなくなってしまうだろう。今昔マップがあるとはいえ、歩道橋までは載っていないからね。

 その先は品濃坂の続きだった。やはり急坂。その上、新しい住宅地を通ることになった。何とも、真新しい住宅地は、旧東海道のイメージとは合わず、ちぐはぐな感じは否めなかった。

 そして、その先は、またまた国道一号線と合流することになった。この先、ほんの少し、国道から外れるところはあったが、戸塚駅までほぼ同じだった。

 品濃一里塚で確認した江戸時代の道幅。それが分かっているだけに、国道に変身してしまった旧東海道が、いかにむかしのものをなくしてしまったか、あらためて残念な気がした。

 国道一号線は、不動坂で2つに分かれる。2つとも一号線だ。右へ行くと、横浜新道に合流する。吉田茂首相の、鶴の一声でできた道だ。左は戸塚駅に向かう。これが旧東海道だ。

 本記事もだいぶ長くなってしまった。3日目は戸塚駅から帰路についたのだが、本記事はここで終わらせていただこう。

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 〇本文に書かなかった中から案内表示、史跡などの主なものは、下記のとおりです。

 境木立場跡、東戸塚駅沿革概略の碑です。

 なお、品濃一里塚は、東戸塚駅の近くにあります。環状二号線を渡るとすぐです。

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2016年08月04日

無知は偏見を生み、偏見は差別を生む。

IMAG1815 標題は、先輩の、A元養護学校長(現・特別支援学校)の言葉である。

 何とも悲しい事件だった。

 障がい者やその家族、また、学校関係者は、この社会にねづく差別の問題に日々取り組んでいるというのに・・・、今回の事件は、その努力をふみにじってしまった。

 《差別は殺人者を生む。》・・・か。

 ほんとうにショッキングな事件だった。国民はもちろんだが、障がい者の方たちには、より大きな衝撃となってしまったようだ。自分たちの存在を否定されたように思われた方も少なくない。また、まちを平気で歩けなくなってしまったという方もいらっしゃる。

 この犯人は、障がい者を《もの》だとまで言う。・・・。

 そうか。そのまえに、言っておかなければいけないことがあった。この犯人の言葉は、ころころ変わるね。《人》と言っていることも多い。また、家族へのお詫びの言葉を言うかと思うと、反省などしていないとも言う。そのとき、そのときの気分で言っているのだろう。

 ただそうしたなかでも、ある一つの思いは感じることができる。ようするに、施設の方がおっしゃったように、むかしの《ナチス》と同じなのだろう。

 テレビの映像を見た。40人以上殺傷しておいて、あの笑顔だ。護送車のなかで、なんか、純真無垢な少年のようにも見えた。それだけに、ものすごく不気味なものを感じた。

 《意思の通じない人》とも言っているようだ。数年施設で働いて、何という言葉だ。通じないのではない。通じる努力をしなかったのだ。

 二人三脚にたとえれば・・・、たいがい二人の走力は異なるだろう。そのときどうするか。決まっている。遅い方が速い方に合わせることはできないのだ。どうしたって、速い方が遅い方に合わせるしかない。その場合、合わせるのは、《合わせてあげる》のではないよね。当然のこととして合わせるのだろう。

 そこではやはり、あたりまえのこととして、励ましの声をかけたり、努力を認め合ったりするのではないか。そうすることによって、気持ちが通じ合うようになる。好成績を得るにはそれしかない。

 重度重複障がいの方のなかには、言葉を発することができない方も多い。それなら、言葉を発することができる人が手を差し伸べ、意思が通じるようにするしかないではないか。

 わたしはこの犯人が、重度重複障がい者のことをいろいろ言っているのを知って、自分の過去記事を想起せずにはいられなかった。A小学校において小学生が、A小学区に住みB養護学校(現・特別支援学校)に通う重度重複障がい児Cさんと心温まる交流を展開した事例だ。

 ここで、その交流の様子を書いた記事にリンクさせていただくが、その前にふれておきたいことがある。

 この記事内容の一部と重複してしまうが、ここに登場するCさんは、肢体不自由なため、ほとんどベッド生活である。自力歩行はできないし、言葉を発することもできない。食べ物を飲み下す力が弱いため、鼻から胃に管を入れ、その管で栄養をとる。

 そのCさんの大事な学習内容の一つは、外部からの刺激に対し少しでも反応を豊かにするということである。気持ちを表現できるようにするということである。まさに、『生きる力』を養っていると言えよう。

 犯人に言いたい。

 《人としての尊厳》という。そう。みんなどの子も学校へ通う以上、大事な学習内容とめざすべきめあてをもっているのだ。 

 この小学生たち、交流の初めは、自分たちの教室とあまりにも様子の異なる、寝たきりで鼻にチューブを入れて生活しているCさんたちの姿を見て、正直、こわいと感じたと、率直に話している。それが交流を通して・・・、

 具体的には、過去記事(人権教育(13)交流教育  共生を考える。)に譲らせていただこう。ただし、Cさんのお父さんからいただいたメールは、そのまま再掲させていただく。

 〜。交流授業の際は、担任のD先生をはじめ、児童の皆さんにあたたかく接していただき、楽しく授業に参加させていただいております。

 先日は、社会科見学にも、参加させていただきました。ふだんの交流授業では、D先生のクラスの児童と交流しておりますが、今回の社会科見学では、5年生全員が参加していたため、Cを他のクラスの皆さんにも紹介していただきました。 また、5年生全員による合唱のプレゼントまでしていただき、Cもいつになくよい反応(目をキョロキョロ)をしていたので、わたしもびっくりしてしまいました。

 このような交流授業がどこの学校でも行われるようになれば、障害を持つ子どもたちにはよい刺激となり、健常者の子どもたちには、「世の中にはいろいろな人たちがいるのだ。」ということが理解されるようになるのだと思います。

 わたしたちは、なるべくCを連れて、地域のイベントにも出向くようにしています。夏祭りや盆踊りに行くと、Cを見かけて、A小学校の子どもたちが、
「元気でしたか。また、学校に来てくださいね。」
と、声をかけてくれるようになりました。これも、交流授業に参加しているおかげだと感謝しております。〜。


 本実践に登場した子どもたち。あれから10年近くが経過した。今、成人式を迎えようとしている。この事件をどんな思いで受け止めたか。彼らにもかわいそうでならない。

 先ほど、犯人は、《通じる努力をしなかったのだ。》と書かせていただいた。その片鱗がCさんのお父さんのメールに現れているなと感じる。

 いつになくよい反応とあるよね。でも、それは、具体的には、《目をキョロキョロ》というように、目の動きなのだ。介助者は、目をよく見ていないと、よい反応かどうか分からないままになってしまう。

 ここに、障がい者を介助する人に期待される大事な心構えがあるなと感じる。

 また、上とは別な過去記事を読み返して、今回の事件との関連を思わずにはいられなくなった。

 関係する部分だけ、これも抜き書きさせていただこう。

 我々教員でも、つい口にしてしまう言葉がある。『寝ている子を起こすな。』論(《差別の事例など子どもの身のまわりにはないのだから、差別をとり上げての授業などする必要がない。》ということ。)である。

 これは間違いだ。

 『寝ている子』はずっと寝ているわけではない。何かきっかけがあれば、『寝ていた』ように見える差別意識が出てしまう。


 相模原での事件の犯人に、この論理が通用するのかどうかは分からない。でも、この仕事についたとき、障がい者を不憫に思い、同情する気持ちもあったようだ。前述のように、どこまで本心を語っているのかは分からないが、もしそうなら、この『寝ている子』論が、まさに最悪の方向に向かってしまったように思える。

 あっ。ちょっと訂正。今、《不憫に思い、同情する気持ち》と書かせてもらった。でも、これは果たしていいのかな。不憫に思う心、同情する心に、自分を優位におく心はないか。介助するとき、《〜してやる。》という意識にならなければ幸いだ。やはりここは、対等な意識で、人として尊重するという姿勢が大切なのではないか。

 さて、『寝ている子』。これは、本標題に深く関係する。無知のままだものね。

 無知は悪である。

 こう言ったら、読者の皆さんは驚かれるかな。

 もう少し正確を期そう。

 このわたしもかつて、無知なるがゆえに、差別してしまったことがある。そのとき気づいた。

 無知なるがゆえに、無意識に、無自覚に、差別するつもりはないのに、出てしまう言葉、行動。差別される側を苦しませたり悲しませたりしてしまう言葉、行動。それが悪なのだ。

 それで、今回の事件に関係して、標題に続けて書かせていただいた《殺人者を生む》の件だが、これはあくまで特異であって、無意識、無自覚にやってしまうものではないだろう。そういう意味では、大丈夫だ。

 でも、でも・・・、冒頭書いたように、今回の事件でこうむった障がいの方々の思いは、また別だ。とても大丈夫だとはならない。それを、わたしたちは深く自覚する必要がある。

 話を戻そう。

 差別の意識はだれもがもっているという。日ごろわたしたちはそれを自覚していない。いないから何かあると出てしまうのだね。だから、障がいのある方々には申し訳ないが、誰もがもっているのであれば、出てしまったとき、

『ああ。しまった。ごめんなさい。』

 そう思えれば、またそう口に出して言えれば、救われる。そして、自分のうちにある差別意識を自覚し、学んでいこうという気持ちになる。,

 そのとき、もはや無知ではなくなる。


 ここで話題を転じよう。

 読者の皆さんは、わたしの主張について、《鉄は熱いうちに打て》ではないけれど、こういう学びを幼いうちからやっていくことが大事と・・・、そう言っていると思われたのではないかな。

 それは大事だ。大事であることは間違いない。だが、ただ交流の機会をもてばいいというものでもない。

 実は、わたしの記事は、ブロゴスにも掲載していただくことがあるが、かつて、《日本でインクルーシブ教育は実を結ぶのだろうか。》なる記事を掲載してくださったことがある。

 そのとき、ブロゴスに寄せられたコメントは、インクルーシブ教育に反対の声がほとんどだった。拙ブログに寄せられた声とはきわだって異なっていた。その反対の声の中に、忘れもしない。次のようなものがあった。引用させていただく。

 不登校児のお世話係(毎日連絡帳や手紙を書く、届ける、保健室登校したら保健室で一緒に給食を食べてあげる、等)でさえ、子供には負担になります。

 普通学級にも発達障害児、家庭に問題があり落ち着いて学習に取り組めない子、日本語が分かない外国から来た子、勉強が遅れていて授業を理解できない子、不登校児、などサポートが必要な子がいるのが普通で、更に障害児を受け入れては、大多数の子供達が心を落ちつけて勉強に集中することは出来ません。理想を追う前に、まずは目の前の子供達を何とかしてあげないと。


 不登校児のお世話係か。

 こういう実態があるのだね。いや。多いのかもしれない。公教育の現場で、このようなことが行われているのであれば、その実態に対してわたしはお詫びしなければならない。

 係にしてしまうものではないだろう。負担を感じさせてしまったら失敗だ。

 こんなことをしていたら、障がい児のお世話係。たぶん、《お世話してあげる》という意識になってしまうだろうね。第一、障がい児に対し失礼だ。
 
 子どもの内面を育むことなく、形だけの交流では、まあ、それでも殺人にはつながらないだろうが、《もう、こんなことはまっぴらごめん》という意識はかなりの確率で養われてしまうだろう。

 もう一つある。こうした実践とはいえないような営みは、同コメントにもあるように、《これもやる。あれもやる。その上さらにこんなことまで。》《落ち着いて学習できる状況ではなくなる。》という考え方だ。

 お世話係では、こうした意識になるのもむべなるかな。

 でもね。Cさんのお父さんからのメールにもあったように、地域のお祭り、盆踊りなどで、自然発生的に生まれる交流。こうした子どもには負担感などないはずだ。喜び、うれしさ、そうした思いだろう。

 同コメントには、《理想を追う前に》とあった。

 これだけはご理解いただきたい。理想ではないのだ。わたしの書いている実践は、至らない点は多々あるにしても、我が地域においてかなり根づいている。

 だから、インクルーシブ教育に反対するのではなく、そうした実践が増えるように、そのための手だてを考えるのが、大切なのではないか。

 そうして初めて、無知ではなくなる。偏見もなくなる。差別も同様だ。

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 国、地方公共団体に要望したいことがあります。

 待機児童の解消、そのための保育士の待遇改善。それも大切です。大切ですが、数字ばかりが取りざたされています。その状況は問題ではないでしょうか。数だけそろえればいいというものではない。それを今回の事件は立証しています。

 働く人の意識を上げるためにどうするか。いや。人々の意識ですね。それを、はやりの審議会などでまじめに議論し、メディアの関心を集め、国民を巻き込んだ形での議論が盛んになるよう、願わずにはいられません。

 また、ヘイトスピーチ対策法が成立したのはよかったのですが、ちょっと遅きに失しましたね。

 こうした状況が、一部に差別意識をつのらせたのではないでしょうか。なお一層の対策を考えて、徹底防止を願いたいものです。

 最後になってしまいましたが、今回の事件の犠牲になられた方々には、謹んで哀悼の意を表します。また、けがされた方々が心身ともにお元気になられる日が一刻も早く訪れますよう、お祈り申し上げます。

rve83253 at 16:34|PermalinkComments(8)TrackBack(0)人権教育 | 交流教育