2009年11月19日
小1プロブレムの心配は?(6) 新聞報道から
その冒頭に、『ニュースになっていたので、検索でここが出ましたのでコメントを少しだけ。』とあった。
『ニュースとは何だろう。』と思い調べたが、よく分からなかった。
そうしたら、一読者の方が、教えてくださった。『気になったので調べてみましたら、ありました。このニュースではないでしょうか。』
今、それにリンクさせていただこう。
授業崩壊「小1プロブレム」 都教委が教職課程調査
わたしは、この報道を知らなかった。『3歳と小1の男親です』さん、そして、一読者の方、ありがとうございました。
わたしは、その新聞記事を読ませていただいて、上記記事を連載していたころを思い出した。
新聞記事によれば、小1プロブレムとは、
・小学校に入学したての児童が担任教諭の指示に従わなかったり、勝手に教室を出ていくなどの行動。
・新入生が集団生活になじめず、教室で騒いだり席を立って歩き回るなどして授業が成立しない状況を指す。
そして、『都教委の調査では、公立小の4校に1校で発生している。』のだそうだ。
その原因としては、『幼稚園や保育園からの生活の急変や、家庭などのしつけの不足』があげられるとしている。
そして、都教委は、その対策として、
現在の大学の教職課程が教員育成に実効性があるかを調べる。
さらにくわしく言わせてもらえれば、
小1プロブレムに加え、通常の学習・生活指導にも対処できない教員が増えていると分析。大学の教職課程が授業の進め方だけでなく、「人間力」や「指導力」の形成を含めた教職員の育成にふさわしいカリキュラムかどうかを見極める。
としている。
わたしはこれを読んで、失笑を禁じえなかった。
なんと、ピント外れの対策であることか。
そう思った。
そこで、拙ブログで、シリーズとして書かせていただいた記事を、もう一度振り返ってみようと思う。
そこには、大学の教職課程の問題など、ふれられていない。そのようなことを、わたしはまったく思わなかったし、
また、読者の皆さんから寄せられた声も、昨年度、バンキシャの番組も、これを報道したが、それらも、わたし同様であった。
それでは、拙ブログ記事のおさらいですが、どうぞ。
まず、主要因は何か。
一口に小1プロブレムと言っても、その様態、原因はいろいろあることにふれさせていただいた。
今、再掲させていただこう。
・幼児期からの基本的生活習慣等、しつけの欠如
・少子化や地域の教育力の低下などによる子育ての孤立化
・子どもへの指図のし過ぎ。大人の言う通りになる子をいい子とする傾向の増大
・幼稚園・保育園が集団より個を尊重する教育を打ち出したこと
・保護者が、幼稚園・保育園に対し、自由のびのび保育より、しつけ、訓練的な保育を望むようになっていること
・幼稚園・保育園も、少子化の波を受け、経営上、保護者の要望を受け入れざるを得なくなっていること
・一人親、共働きなどで、子どもと十分向き合えない家庭がふえていること
・家庭の教育力の二極分化の進行
・低学年の子の心をひきつけられない、学校の教育力のなさ
・軽度発達障害児が一般の認識よりは多く、そういう子への理解のなさや適切な対応がとれていないこと
なお、下から2番目の『低学年の子の心をひきつけられない、学校の教育力のなさ』については、上記、都教委の施策とかかわると思うので、ちょっとふれさせていただこう。
別項で指摘するように、
家庭の教育力が二極分化したことにより、一部の子どもたちの行動は大きく変わってきた。がまんすることができなかったり、すぐあきてしまったり、気ままに行動したりするようになってしまった。
その分、子どもの心を一つのことに集中させる努力や工夫は、従来にもまして必要とされるようになった。
本来子どもが変われば、それに即応して、学校の指導体制も変化しなければならない。しかし、学校現場の取組はその変化についていけなかった。
・実は、もう一つ、要因があった。本シリーズのあと、2ヶ月くらいたってから、わたしが気づいたことだった。
それは、『小1プロブレムの心配は?(続・番外編)』にくわしい。
もっとも、以下は、我が地域のことを書かせていただく。全国的にみた場合も同じことが言えるか、たぶん都市部は同じだろうと思うが、くわしくは分からない。
・かつて、現小学生の保護者世代の方々の子ども時代、
学校は、子どもが入学したばかりの4月、第一週は2校時まで。第二週は3校時まで、第三週は4校時まで。そして、給食及び午後の授業は、5月からというように、
当時、小1プロブレムなどという言葉はなかったが、徐々に学校生活になれさせる配慮をしていた。
・それが、わたしの校長時代になって、
一人親、及び、共働き家庭がふえたことにより、そんなに早く家庭に帰しても、家庭では保護者が不在で、昼食をとらせるにもこまる状態となった。
子どもの成長発達段階とか、徐々に小学校生活に慣れさせるとかいった、子ども中心の考え方は成り立たなくなった。ことは、教育問題ではなく、社会問題としてとらえる必要がでてきた。
そして、4月初めからの学校給食開始が求められるようになった。地方教育行政府の指導の下、学校はその要望に応えた。
・それから10年たった今、今回の学習指導要領改訂にあたっては、そうした10年あまり前の経過は忘れ去られ(?)、ただただ、世の中の、授業増を求める風潮に乗ぜられ、今は、なんと、4月初めから午後の授業も実施している。
・週授業時数を30年前と比べてみると、今は土曜日が休日にもかかわらず、同じである。つまり、月〜金は、今の方が、3・4時間多くなっている。それが、4月当初からスタートしているわけだ。
以上、小1プロブレムが起こる一要因について、社会的な要請を受けての、国、地方教育行政府、及び、学校の取組を中心に述べてきた。
〇それでは、対策にうつるが、
上述のように、『学校が子どもの変化についていけない。』とした部分が、都教委の対策の正当性を思わせるかもしれない。
しかし、おもしろい。
新聞記事の末尾に、
問題が発生したクラスの担任教諭は「採用30年以上」が約24%で最多。次いで「20年以上30年未満」が約22%と、ベテラン教員ほど対処できないことも明らかになった。
とある。
つまり、これまで、長年、経験とカンにたよっていた教員、また、『子どもとはこうあるべき』という自己流の信念(?)をもった教員が、子どもの変化についていけなくなったというのが、ことの本質ではないか。
若い先生は、現状でも、比較的よくやっているのではないか。
それなら、大学の教職課程を調べることより、もっと大事なことがあるのではないか。
さあ。それでは、わたしの考える対策は。
〇先ほども書かせていただいたように、学校は、長年、徐々に学校生活に慣れさせる配慮をしてきた。ほんとうなら、そこに戻すべきなのだが・・・、
しかし、ことは社会問題化したように、今、早く家へ帰すことはできない。
とするなら、教室で席についてやる授業は、30年前に準じるようにして、
あとの授業時間は、校庭での遊びとか、学校探検とか、幼稚園や保育園の指導形態に近いやり方にする。
そして、『社会問題化した部分』で言わせていただければ、給食を学校でいただくようにすればいいのだから、給食後下校するようにする。少なくとも、4月いっぱいは午後の授業はしない。
こうしても、1年生の場合、国の決めた標準時数は十分満たしているはずである。
振り返ってみれば、地方教育行政府も、学校も、世論の学力低下論、授業時数増への動きに神経質になりすぎたのではないか。
小1プロブレムは、上記のように、いろいろな要因があるので、これで一挙に解決などとはいかないが、しかし、かなり(?)減少の方向にいくのではないかと思う。
これから、各学校は来年度の学校経営計画作りに取り組むことだろう。ご一考願えれば幸いだ。
〇もう一つ。大学の教職課程を調べるよりも、ベテラン教員の指導力アップを図る取り組みをする。
どうも、こういうことを書くと、地方教育行政府は、教員免許更新制よろしく、大学での講義を受けさせるという発想になるらしいが、わたしのいう指導力アップ策はそのようなものではない。
ことは現場で起きているのである。したがって、指導力アップ策も現場における研修しかないではないか。
都教委は、よそに原因を求めるよりも、まずは、自分自身の教育施策を振り返るというか、点検してみる必要がありそうです。
なお、対策についてですが、
拙ブログには、わたしが書いたものとは別に、読者の皆さんから、小1プロブレムを減らす実践を寄せていただきました。
それを記事にもさせていただきました。
どうすればいいか。
まだ、お読みでなかったら、ぜひ、どうぞ。
本記事では特にふれていませんが、発達障害児にかかわる取組などがあります。
小1プロブレムの心配は?(番外編) すごい取組があった。
2009年11月16日
思考力を養う授業は、(1)
「ああ。そういうことか。」
「なるほどね。」
「すごい考え方だね。」
などという言葉がとびかった。
初任者Aさんにとっては、課題の残る場面もあったが、おおむね、子どもたちは、楽しそうに、充実した思いで学習していた。いい授業だった。
ただし、本記事では、初任者指導の色彩は薄めるつもりだ。
思考力を育む授業、それは問題解決学習の授業でもあるわけだが、そうした授業の流れを中心に書きすすめていきたい。
そうすることによって、読者の皆さんの多くが経験されたと思われる、知識・技能の押さえ中心の授業と、授業のパターンがいかに異なるか、ご理解いただけるのではないかと思う。
本授業は、3年生の算数。『10倍した数』の学習である。
そして、『20円のあめを10本買うと、代金はいくらになりますか。』という問題に挑戦する。この問題や、さらに、次の時間に扱う、『25を10倍した数は?』を通して押さえたい内容は、
・『×10』の解法を理解する。
・また、それは、『10倍する。』ということでもあることを知る。
となる。
また、それらは、
・10倍することは、くらいを一つずつ上にあげることであることを知る。
・そのためには、1のくらいに0を一つつければいいことを知る。
ということでもある。
なお、前時までに、かけ算としてではないが、『〇(1000、1万、10万、100万、1000万)を△個集めた数はいくつ?』という学習をしている。
この授業の記事をお読みいただくにあたって、留意していただきたいことは、
・塾へ通っている子はもちろん、そうでない子のなかにも、少なからず、『本時の学習内容については、すでに解法を知っていそう。』な子がいると思われる。
したがって、知らない子のために、懇切丁寧に解法を考え、とらえさせようとしても、それが教員主導である限り、もう分かっている子は授業に集中せず、あきてしまうおそれがあるといえよう。
・わたしはこれまで、『どの学力レベルの子にも合わせた授業を行わなければいけないよ。』と述べてきた。したがって、そうした視点でもお読みいただければ幸いである。
・もう一つ。算数という教科は、新しい単元に入っても、既習の知識・技能を駆使して解くことが可能である。したがって、ヒントカードを必要とする場合は、既習内容が身についていないということになる。そうした視点もおもちいただけたらありがたい。
それでは、授業の概略を書きすすめることにしよう。
〇まず、各自、自分の力でこの問題を解くようにした。
Aさんもわたしも、
この文章題を解くにあたっては、『あらかじめ把握してある子どもの実態からみて、特にヒントカードなどは必要としない。』という見解だ。つまり、どの子もその子なりに自力で解決することができるという判断である。
子どもたちは無言で、真剣に、文章題に取り組んだ。
担任も、わたしも、机間巡視を始めた。案の定、どの子も、その子なりのやり方で、ノートに一生懸命書きこんでいる。『考えては書く。』を繰り返す子の姿もみられる。
一つのやり方で解き終わった子は、『別な解き方はないか。』と、さらに挑戦している。これはいつもやっていることで、子どもたちは、挑戦意欲旺盛。手なれたものである。
Aさんは、これも、いつもやっていることだが、ノートを見ながら、何人かの子どもに画用紙とサインペンをわたす。その子の解き方を書き写してもらう。黒板に掲示するためだ。
そして、それが出そろったところで、みんなでそれらをもとに考えを出し合い、それぞれの解き方の意味、また、よさや問題点について話し合うことになった。
〇Bちゃんの解き方
先ほど、『どの子もその子なりの自力解決ができる』と書かせていただいたが、それは、この解き方が念頭にあったからである。理解するのに時間のかかる子でも、これなら、容易に解くことができる。
この解き方をめぐって、子ども同士で話し合いをしていると、
Bちゃんは、順に、20、40、60、80・・・と単純にたしていったのだが、たし方もそれだけでないことが話題となった。
Cちゃんが、『もっと早く答えを出すやり方がある。』と言って、後述のEちゃんの描いたあめ玉の絵を使いながら説明しだした。(Eちゃんの書いた説明の写真は、下へスクロールしていただくと、2枚目にあります。)
それは、
まず、2本ずつの束を作り、40円。
次に、その2本ずつの束を足して80円。最後に、80+80+20とやったのだった。その方が早く解けていいということになった。
ところで、
読者の皆さんは、この授業場面をどうご覧になっただろうか。
「そんな、たし算など、時間のムダじゃない。だって、この時間は、『×10』とか10倍をとらえさせるのでしょう。たし方の勉強をしても仕方ないじゃない。」
と思われただろうか。
しかし、わたしはこう考える。こうした学習過程は大事にしたいものだ。
・まず、『どの子も分かる授業』という視点がある。理解するのに時間のかかる子のためには、具体的、操作的であればあるほどよい。
・また、ここは、次の単元の学習内容である、『20×2』などの導入の役目もある。したがって、『20+20』を学ぶことは重要である。具体物を操作するなかで、『20+20』が『20×2』のイメージと重なっていくことをねらう。
・それでは、理解力のある子にとっては、ムダで退屈する時間だろうか。
そのようなことはないだろう。Cちゃんに代表されるように、たし方に限定しながらも、早く解く解き方はないかと、一生懸命考えている。
しかし、おもしろい。次のDちゃんにご登場願おう。
〇Dちゃんの解き方
だから、ここでも、『10本ということは、5本の束が2つあること。』ととらえたのだね。
ところが、おもしろい。
Dちゃんは、『20円が5本』というところはたし算として説明したけれど、そのあとの、100円(5本の束)が2つあるというところでは、100×2とあるように、かけ算として説明した。
3ケタのかけ算は、このあとの単元の学習内容だ。未習か既習かを大切にするDちゃんだが、ここはうっかりしたとみえる。
したがって、ここでは、理解の遅れがちな子のために、担任が、100+100と置き換えてあげるとよかった。
そうすれば、BちゃんやCちゃんがやった、全部たす解き方との共通点と差異点がうきぼりになっただろう。すなわち、どれも、たし方こそ違うが、たし算で解いている点は同じということだ。
もう一つ。Cちゃんとはまた別な解き方で、早い解き方を工夫したことにもなる。
つまり、整理すると、
・Bちゃん方式 20+20+20+20+20+20+20+20+20+20=200
・Cちゃん方式 20+20=40 40+40=80 80+80=160 160+40=200
・Dちゃん方式 20+20+20+20+20=100 100×2=200(100+100=200)
また、前単元の『大きい数』では、『100円を2つ集めると200円』を学習している。したがって、Dちゃんの、『100×2』については、Aさんが、この考えに置き換え、復習のかたちにしてもよかった。
なお、Dちゃんは図も描いている。
これも分かりやすくてよかった。しかし、後述する、Eちゃんの、あめ玉10本の絵よりは抽象的である。
ここは縦に5枚。横に2枚と書かれているが、縦は『あめ玉5本』。横は『(5本の束が)2束』というように、Aさんが子どもに尋ねながら修正してやるとよかった。
そうすると、この図がもっと具体性をまし、そこから、かけ算をイメージできた子もいたのではないかと思われる。
次、いよいよ、先ほどから話題になっているEちゃんの登場だ。これはまた、おもしろい。どういうタイプの子といったらいいのだろう。
〇Eちゃんの解き方
しかし、いざ、解き方となると、『20×10』とか、『20の10倍』とかいうように、まさに本時押さえたい学習内容を、何の抵抗もなく、サラッと書いてしまっている。
そこで、Aさんは、かなり声を張り上げて、
「あっ。そうなの。これは、×10ということなんだあ。また、10倍ということでもあるのだね。」
と、トボケた声を発した。
これはよかった。
理解力のあるFちゃん、Gちゃんたちが、口々に、これまで学習した画用紙の説明を使いながら、
「そうだよ。だって、Dちゃんは、20円のあめが5本で、それが2束というように分けたけれど、いっぺんにやれば、5と5が合わさって、『20×10』となる。」
「Bちゃんは、20円を10回たしたけれど、これは、『20×10』っていうことと同じでしょう。」とか説明しだした。
ほらね。先ほどのたし算はムダではなかった。このFちゃん、Gちゃんたちが、たし算とかけ算との橋渡し役をかってでてくれたことになる。
こうした、関係づけ、深め合いは、理解力のある子たちの独壇場となる。
そして、初めてこれを学んだ子たちは、
答えは200と、もうすでに分かっているから、
「あれっ。20×10は、2×1をやって、あと、0を2つつければいいんだ。」
「そうか。簡単じゃん。」
「九九より簡単。」
「他も、そうかな。」
などと、まるで、『未知との遭遇』であるかのように、すっとんきょうな声を上げた。
30×10、40×10でも同様であることを確認し、
さらに、『1本25円だったらどうかな。』ということで、次時に入っていくこととし、本時の授業を終えた。
〇さあ。しかし、本記事では、もう一つ、まったくとっぴなHちゃんの解き方を紹介しよう。これは、Aさんもどうしてそんな解き方が成り立つか理解できなかったようで、Hちゃんの発言をサラッと受け流し、特にとり上げることはなかった。
わたしはそれでよかったと思う。
だって、こんな解き方までまともに扱っていたら、時間数がいくらあっても足りなくなってしまう。
でも、時間があればぜひとり上げてほしい。価値ある学習ができただろう。
そう思う解き方だ。
それでは、読者の皆さん。
何でそんな考え方が成り立つか、理解できるかな。
Hちゃんは、ノートに、次のような文章を書いた。
そう。図や絵もなく、ただ文章だけを書いたのである。
それでは、どうぞ。
『20円の20を2として、2×10で、この答えは20だから、それにさっき取った0を付けて、200になります。答えは200円です。』
読者の皆さんは、どう思われただろう。
『それは確かにそうなるが、しかし、なんで、わざわざそんな回りくどい解き方をやるのだ。』
そう思われただろうか。
この文章に、何の意味も見いだせないか。
でも、これは、わたしのみる限り、これまでの学習がある程度理解できていたことの証明になる。
そう。『ある程度』だけれどね。
それは、こういうことだ。
『20円の20を2として、』というのは、『20円を10円玉2個と置き換えて、』という意味だ。したがって、『2×10』というのは、20円のあめを10本買うとき必要な10円玉の個数を出したことになる。
つまり、Hちゃんは、まだ授業では、20×10は学習していないので、どの子にも分かるようにという思いはある。そこで、つい最近学習した、『20を2に置き換えることは、金額を10円玉の個数に置き換えること。』を応用したわけだ。
しかし、その概念は身についたものの、残念ながら、それを言葉で表すことはできないのだね。それで、『20円の20を2として、』というように、理解力のある子しか分からない書き方をしてしまった。
でも、さらにおかしいのは、2×10にしても、まだ学習していないことに変わりはない。せっかくの心配りも、中途半端になってしまったことになる。
授業の考察は以上だ。
最後のHちゃんのノートは、授業に無関係だったわけで、どうもすみません。
それでは、考察にうつるが、
いかがだっただろう。
問題解決学習。それは、どの子も、思考力を豊かに育むことのできる授業の創造なのだが、ご理解いただけただろうか。
・それには、理解の遅い子も、自分なりの解き方で、授業で活躍してもらわなければならない。そして、友達同士、どの考え方からも学ぼうとする気概をもたせる必要がある。
少なくとも、10回たす解き方をバカにするような雰囲気があったのではダメだ。
・そうすれば、いろいろな解き方があることが分かり、しかも、
それらは互いに共通点をもっていること。
しかし、それぞれの解き方には、違ったよさがあり、解くにあたっての早さ、便利さ、応用力など、実に多様であること。
そのなかで、今学んだ解き方が、一番いい解き方であること。(これは、でも、違う場合もありそうだけれど。)
などを実感することができる。
・教員主導の、知識・技能のおさえ中心の授業では、子どもは受身であり、学ぶ必然性、切実感もとぼしいことが多いから、どうしても、教えたそばから、もれ落ちてしまいがちとなる。
・そして、こうした学びこそ、ただ単に知識・技能を押さえるだけでなく、
思考力に含まれるが、関係づける力、応用する力、深める力、追求する力など、『将来、社会にでて活用できる学力』を養っていることになるのではなかろうか。
『将来、社会にでて活用できる学力』
それが意味するところは、
・まず、
これこそ、まさに、PISA型学力、そして、全国学力調査のB活用問題に通じる学力観だと思います。
それは、学びの主体である子どもの思いを大事にし、それを軸におし進める授業によって、はじめて成り立つといえるでしょう。
・社会にでれば、基本的に、たよれるのは自分だけ。
もう、学級担任のような存在はないのですから、自力問題解決力、協調心、自立心などを養うことが大切です。
・そして、現代という世相を見るとき、こうした力を養うことは、急務といえるのではないでしょうか。
2009年11月12日
子育てや教育は、社会全体でも支えるもの!?
やはり、子育てにしろ、教育にしろ、社会が複雑化するなかでは、
人々は、いろいろ考えこんだり、悩んだりすることが多く、そうなると、自然体に構えることができにくくなるのかもしれない。
そうか。その原因だが、
一つの傾向として言えることは、専門化、分業化がすすんでしまうからではないか。その結果、経験、体験も限定されてしまう。
そのため、『他は知らないよ。』とか、『自分には関係ないよ。』とか、そんな意識になってしまうのかもしれない。
むかしは誰もが自然にやっていた子育てや教育なのに、今は、かかわりのない人が増えたり、そのために、無関心が増えたり、頭の中だけで考えたり・・・、
だから、『ふつうの人の自然な感情』からはなれ、頭の中だけの子育て論や教育論が横行してしまうのかもしれない。
子育ては家庭がやるもの。教育は学校がやるもの。
それはそうなのだが、現代においても、もっと社会全般が、子育てや教育を、直接経験し、活動してもらうことはできないものか。
そのようなことを考えてしまう。
そんな折、民主党が政権を獲得した。
民主党は言う。
『子ども手当の創設や、高校の授業料無料化などは、決してバラマキではありません。
これまでの日本は、子育て、教育などの多くを保護者や学校のみの責任にしてきました。
しかし、少子化といわれる今、もっと、社会みんなで子育てや教育を担うようにしようではありませんか。』
これはいい。
〇なにしろ、先進諸国の中で、日本は、国の総予算の中で教育予算の占める割合が、あまりにも低いのだものね。逆に言えば、家庭の負担がものすごく多いということになる。
それでも、高度経済成長期は一億総中流社会などと言われ、このことはあまり問題にならなかった。
しかし、今は、格差社会の中で、『子どもの貧困』などとも言われるようになった。
子どもの世界にまで格差があってはならない。
したがって、格差社会と言われる今、これまでのように家庭に負担をかけることは、許されなくなったのである。
〇しかし、どうだろう。
『子育て、教育に関する社会の責任』といった場合、それは、お金の面だけでいいのだろうか。
体や頭脳を使って貢献する部分も、必要なのではないか。
『子育てしていなくても、学校と無縁でも、体を通してかかわる。』ようにしたい。それが、『社会全体で』の真の意味ではないか。
そう思ったとき、参考になったのは、裁判員制度だった。この制度は、国民が直接的に司法にかかわろうとする制度である。それを、子育て、教育に応用することはできないか。
裁判員制度がスタートして3ヶ月余。今のところ、順調なすべり出しのようである。
〇裁判員になった方の次のような言葉がある。
「人生観が変わった。」
「他人のことをこんなに真剣に考えたことはなかった。」
「『裁判員を立派に務めたのだから、』ということで、職場でもいっそう重要な職務を担当するようになった。」
など、わたしが知りうるのはマスコミ情報だけだが、裁判員になった方から、こうした声が寄せられている。
市民の意識改革を迫り、また、それがうまくいっている証左のように思った。
〇『市民感覚を大切にした判決』がだされるようになったと思う。
それは、けっこううまく機能しているようだ。これまでの量刑等の常識がくつがえされ、軽くなったり重くなったりしている。
以前、裁判官の下す判決に、『ええっ。何でこんなに不当な量刑なのだ。』と思うことは少なからずあったから、その点、よかったと思う。
これは、『ふつうの人の自然な感情で』裁判が行われるようになったことを意味する。言ってみれば、市民感覚と専門家の常識との融合だ。
〇公判中も、裁判のしろうとである裁判員を意識して、分かりやすい裁判を心がけているようだ。検察、弁護側とも、言葉のつかい方から、資料の提示に至るまで、工夫しているようである。
〇裁判員選定にあたっては、無理のないよう工夫している。どうしてもできない事情があれば、それも勘案しているようだ。
〇先に述べたように、市民の良識がいかされているように感じる。やはり、国民が、直接的に政治、司法などに参画する気運は盛り上がっていたのだろう。これは、日本の民主主義の発展にとって、とてもいいことだ。これによって、市民の意識、自覚が、かなり進化していくのではないか。
さて、
それでは、この、裁判員制度が、『社会みんなで子育てや教育を担う。』ことに関し、どのように参考になるだろうか。
それは、民主党がマニフェストにいう、『学校理事会』の活用だ。
同マニフェストによれば、
『公立小中学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する「学校理事会」が運営することにより、保護者と学校と地域の信頼関係を深める。』
とある。
わたしには、この『学校理事会』の理事が、裁判員と同じ性格をもつようにみえる。
つまり、こういうことだ。
〇子育てに縁のない方であろうと、学校にかかわりのない方であろうと、『未来の日本社会を構成することになる市民を育てる。』という観点で、一定の役割を果たしていただく。
〇冒頭述べたように、国民は、お金の面だけで、子育て、教育を支えるのではなく、知恵を出したり、よりよい子育て、教育を模索したりする面でも、支えていただく。
〇何よりも、『ふつうの人の自然な感情』が、教育に反映されるようにする。
そうすれば、前々記事でみたような、一部地方教育行政府の者による、恣意的で尋常でない教育施策も、市民の目にさらされることになるから、未然に防ぐこともできるだろう。また、とかく批判される、一部教員組合の独走も防ぐことができる。
また、そういう欲求、関心は、市民の方にもあると思う。
こうして、よりよい学校教育の実現のために、教育の質、中身にまで、一般市民の方々に関心をもっていただくことは、教育の発展にとっても欠かすことができない。
しかし、
そのためには、学校理事会のメンバーは、裁判員同様、無作為抽出で決めるようにしてほしいものだ。
現行の学校評議員制度は、学校長が人選するようになっている。
この方式だと、学校の御用組合的になる可能性があるし、逆に、地域ボスのような人が恣意的な動きで選ばれることもありうる。
それに第一、『国民みんなが、』という視点が軽くなってしまう。
地域住民代表や教育専門家は地方行政府で、
保護者代表と教員代表は各学校で抽出する。
いかがだろう。
まだ、民主党は、学校理事会云々にまったくふれていないのだから、選出方法まで言及するのは、時期尚早なのだが、早く実施に移してもらいたいものだ。
ただ、課題はある。
〇公立校は、小中合わせて、全国に3万校くらいあるかな。その各校に理事を置くわけだから、その数たるや、とても裁判員の比ではない。
しかし、未来の国民すべてにかかわることを担当するのだから、本格的にスタートとなったら、関心は、裁判員制度以上となるのは間違いない。
〇学校理事会の主体性で、学校運営を行うといっても、現実にどこまでそれが可能かという問題もあるだろう。
これは数々の先行的実践を繰り返す中で、につめていく必要がある。
裁判員制度もそうであったように、いきなり施行というわけにはいかない。何年も前からの普及宣伝活動が必要である。そのためにも、国は早急にこの問題に取り組む必要がある。
・現状、前々記事でふれたように、一部地域で、独善的で、恣意的、示威的な教育施策が実行に移されているので、ことはのんびりしていられないのだ。
・さらに、時間をかけ、不断の努力を積み重ねることによって、『子育て、教育を社会全体で、』が、国民世論にまで高まるよう、努力したいものだ。
数十年前までは、我が子がいようといなかろうと、子育て、教育に縁のない人はほとんどいませんでした。近隣に、子どもは、うようよいた(変な言い方でごめんなさい。)からです。
その辺は過去記事でくわしくふれています。どうぞ、ご覧ください。
子育て、受難の時代か。
もう一つ。
非常にさめた言い方になってしまい、申し訳ないのですが、
『子育て、教育を、もっと社会全体で、』といった場合、見のがせない要因があるのです。
それは、年金にしろ、健康保険にしろ、若い人の力によって支えられるということです。
学校はともかくとして、子育ての責任を家庭にばかり負わせ、
さあ、『未来の利益の享受は国民みんなが』というのは、やはり、おかしいでしょう。
さらに言わせていただければ、
これこそ、友愛社会の象徴ではないでしょうか。一般市民の方と街で見かける子どもたちとのふれ合い方も、きっと変わっていくと思いますよ。
それが、少子化を防ぐことにもつながるでしょう。
最後に、
民主党マニフェストには、学校理事会の創設をうたい、学校主権を導入しようとしながら、他方では、現行の教育委員会をなくし、教育に関する権限を地方行政府の首長に集中させようとする、時代逆行の施策もあります。
すでに、記事にしておりますが、最近の読者の方は、ご覧いただけたら幸いです。
民主党マニフェスト教育編(4) 教育委員会をめぐって
2009年11月09日
感動の歌声に魅せられて!
ああ。すてきな歌声を聴かせていただいた。さそわれて、遠方までうかがったのだが、ほんとうによかった。
今も、あの、光り輝くような歌声が、余韻となって耳に残っている。
どこかの児童合唱団というわけではない。ごくふつうの公立小学校(A小)の合唱団である。
全国的規模のコンクールにも出演し、賞もいただいている。
この日の音楽会は、自校の体育館において、日ごろの協力への感謝をこめ、地域やPTAの皆さんに向け発表した会であった。体育館が満員になるくらいの方々が集まった。お年寄りの方も大勢いらした。
そのような会なので、緊張感というよりは、『なごやかで温かな』といった雰囲気の音楽会だった。
まず、校長先生のお話があった。
ご多聞にもれず、このA小も新型インフルエンザが流行し、学級閉鎖等のため、なんと、事前の練習では10名しか集まらなかったこともあったとのこと。
でも、この日は、はれて全員、歌うことができた。よかった。安堵と喜びの気持ちをお話されていた。
歌が始まった。
もう、子どもたちの歌声に圧倒された。
わたしをさそってくれた方が、
「toshi先生は、『合唱を指導しようと思ったら、まずは、すてきな、子どもの合唱をナマで聴かなければダメだ。』と初任者にお話されていましたよね。それでしたら、ぜひ、A小学校の合唱団の歌を聴きにいかれませんか。」
と言っていたのがよく分かった。
いやあ。もう、すばらしかった。
わたしは、A小合唱団の歌声をテレビで聴いたことは何度かあったが、やはり、ナマで聴くそれは、格段に違っていた。
子どもたちの歌声のひびきが、すばらしい楽器による演奏のように聴こえてきた。
あるときは、ソプラノがトランペットのごとく、
あるときは、低音部がコントラバスのごとく、
そして、もちろん、人間は歌詞つきで歌うのだから、これは、もう、最良の楽器だなと思った。
子どもだって、こんなに歌えるのだと、もう、目頭が熱くなるのを覚えた。
先日、お亡くなりになった三遊亭円楽さんが、『そんなんじゃあ、ゼニはいただけねえよ。』などと語っていたが、
いやあ。この合唱は、もう、『ゼニをお支払いしないのは申し訳ない。』と思わせた。
合唱団の歌の中には、A小学校校歌もあった。
このような言い方をしたら、同校校歌の作詞者、作曲者に失礼かな。
もう他の名歌の数々に決してひけをとらないくらいの、すばらしい名歌に聴こえてきた。
このときは、A小学校教職員バンドによる伴奏(?)もあった。十数名のバンドとドラムを含む各種楽器だったが、歌声をひきたたせようと、ひかえめな演奏だった。
学校あげて合唱団を盛り上げる雰囲気を感じ、うれしく思った。
そう言えば、指揮をされている教員の、包み込むような温かさを感じる場面があった。
一番前の席には、同校1年生が2人、子どもだけで座っていた。
その子たちはお行儀がよかったが、それでも、1年生だから仕方ないか。ときどき、演奏中に、体が動いたり、ひそひそ話したりするときはあった。
同校児童の愛唱歌を歌っているときだった。
指揮のBさんは、演奏中、合唱団への指揮は続けながらも、体とほほえみを、その1年生の方に向けて、『一緒に歌おうよ。』とばかり、表情でさそう。
それがほんとうに自然で、1年生2人も、大きく口を開けて歌い出した。
きっと未来のすてきな合唱団員になるのだろうなと、ほほえましい思いで、その後姿を見守った。
音楽会後、校長先生とお話しする機会があった。
「合唱団の子たちは、正規の練習以外にも、自主的に、それぞれのねらいをもって練習すべく集まってきます。」とのこと。
そうした前向きの姿勢は、歌の合間の子どもたちのトークからもうかがうことができた。
わたしは、自分が初任だったころを思い出した。
そのC小学校にも合唱団があり、毎年出演していた。とても全国コンクールなどには縁がなかったが、けっこうがんばって練習していた。
わたしも、当時は音楽部員であったから、何をするというわけでもなく、自分自身の勉強のために、練習時間は子どもたちと一緒にすごした。
あるとき、音楽主任で指揮をされているD先生から、
「toshiさんのクラスの子たちに言われちゃったわよ。『toshi先生だって、ふだん指導してくれているのに、コンクールで何も出番がないのはおかしい。譜めくりでもいいから一緒に出られるようにしてほしい。』ってね。
それで、今度のコンクールは、ぜひ、一緒にお願いね。」
わたしは、とても指導といえるようなことはしていなかったのだけれど、自分のクラスの子がそのようなことを言ったかと驚くとともに、子どもたちの厚意に応えるべく、譜めくりの練習を始めた。ほんとうは、そんな譜めくりなど、必要としていなかったのだけれどね。
合唱団があるということは、学級の歌声にもいい影響を与える。合唱団の子たちの歌声が、合唱団でない子の歌声にもひびいていく。自然に学び合いをしているといった感じになる。
それで、地域の小学校音楽会に、なんと、我がクラスが学級出演したこともあった。そのときは、指揮法の勉強をするはめになったっけ。
ああ。この、A小も、きっとそうしたひびき合いの姿がみられることだろう。卒業式の歌声など、どんなにすばらしいものかと、思いをはせた。
音楽会が終わると、熱烈な拍手のなか、合唱団の子たちが退場していく。
しかし、それで、『さようなら』ではなかった。
なんと、子どもたちは、廊下や階段に並んで、わたしたち、いや、地域の方々が帰られるのを、『もみじ』の歌声とともに、送ってくれた。
わたしが初任だった年のコンクールの課題曲がYou Tubeにありました。今、URLを貼らせていただきましょう。
ああ。ほんとうになつかしく思い出します。聴くだけで涙がこぼれそうです。(ただし、これは、A小、C小の歌声ではありません。)
http://www.youtube.com/watch?v=ycNHrZpwwRs
それにしても、今は、ずいぶんむずかしい曲を歌うものだなと思います。これも、時の流れというものでしょうか。
2009年11月07日
ふつうの人の自然な感情で、
その折、いつもお世話になっている、『日本の教育は、これでよいのかな』ブログの今日さんが、ご自分のブログに、拙ブログ記事を引用しての記事をお書きくださった。
題して、『教育者の良心・真の平和教育(田村 利樹)』。
『教育者の良心』などとおっしゃっていただいて、大変恐縮したのであるが、そのなかに、本記事標題の、『ふつうの人の自然な感情を大切に』なる言葉があり、大変心うたれた。
そうなのだ。
『ふつうの人の自然な感情』。それこそが大切だ。
でも、おかしくなる。
こんな言葉。
ほんとうなら、ありふれていて、そんな印象深くはならないはず。
それなのに、なぜ、こんなにも感動し、しかも、わざわざ『良心』とまで言わなければならないのだろう。
純粋に子どもの幸せを考えれば分かることだ。
自立心、自尊感情、他者理解、問題解決力など、など。
高度に複雑化した社会の中で、必要とされる資質を上げてみたが、これらに、さほど異存のある方はいないはずだ。
これらが養われれば、自然と日本はよくなるはずであり、そうした心情を養う教育を模索すればいいのに、
今、一部地域の教育施策は、一にぎりの者による、小手先で、独善的な教育行政になってしまっている。
今、問題にしなければならないのは、国ではない。
各人が、自分の居住する地域の教育行政を点検することだ。
真に、子どもの成長、発達を考えているか。
『自然な感情』をもたない権力者が、子どもたちを、自分のこだわり、主義・主張を通すための手段としてしまっていないか。
今日さんから、上記の『ふつうの人の自然な感情』なる言葉をいただいたのは、世田谷区の教科『日本語』をとり上げて、記事を書かせていただいたときだった。
ここでは、小学校低学年から、大人でも理解できないような漢詩を音読させるという、およそ、『ふつうでない人』の教育施策を問題にさせていただいた。
したがって、今、これについては、くわしくふれない。
まだお読みでない方は、そちらをご覧いただければと思う。
国語の授業がおかしくなっている・・・かな!?(7)
今回は、大阪府の事例をとり上げさせていただきたい。
大阪と言えば、これまでも、全国学力調査の結果をめぐって、橋下大阪府知事らの狂騒をとり上げさせていただいた。
今、そのうちの一つにリンクさせていただこう。
ああ。どうなってしまうのだろう。(3)
そうしたら、今回、同教委のホームページの一つをみる機会があった。
題して、『「確かな学力」を育むための学習ツールの開発・実践(H20〜22年度)』とある。
読ませていただいて、これ、また、びっくりしてしまった。
そこで、本記事では、このホームページを仔細に検討していきたいと思う。
〇それでは、『ふつうの人の自然な感情』で、これをみてみよう。
・まず、『目的』に目をやる。
ここは別に問題ないようにみえる。
ただ、一箇所。
『学校・市町村・大阪府が一体となった学力向上の推進』とあるが、
これは、かつて、府知事が、ある市教委に対し、『関東軍』のごとく振舞ったことがあるので、『一体』というのは、府主導の、有無も言わせぬ『一体』であることをうかがわせる。
・その下の、『「学校改善のためのガイドライン」の具現化』からあやしくなる。
学力の課題の2番目に、『大阪の子どもたちの学力の課題(「活用する力」「無答率の高さ」等)を解決する授業を実践する。』とある。
ここでの「活用する力」は、全国学力調査の調査B『活用』を指していることは明らかだ。
・その下に、『学習ツールの開発・実践』にかかわって、4つの内容が示される。これが驚くべきものだ。『単元テスト用問題』『ワークブック開発』『学力テスト(到達度評価)』とくる。
4つあるうちの3つが、何と、テスト、テスト、ワークブックではないか。
1つだけ、モデル授業とあるが、これも、『(調査問題のための)「活用する力」を育てる。』
ああ。ほんとうに、学力調査の点数アップ一辺倒の学習ツールだね。
〇それでは、よく吟味しよう。
・もう、拙ブログにおいて、何度も書かせていただいたが、学力調査に見られる学力とは、学力全体のなかのごく一部(『リンク先コメントの1番・Hidekiさんより』をご参照ください。)である。
学習指導要領にも見られるように、また、多くの市民の方は、お子さんの通信票をご覧になればご理解いただけるように、「関心・意欲・態度」「思考・判断」「技能・表現」「知識・理解」と、これらはすべて学力である。
全国学力調査がはかれるのは、そのなかの、「技能・表現」「知識・理解」のごく一部に過ぎない。
「思考・判断」もはかれるとおっしゃるかもしれないが、
真の思考力、判断力は、生活経験を重視した、子どもたちにとって必然性、切実性のある学習問題をとり上げてこそ育まれるもので、テスト用に学習させたって、そのようなものは、『ごまかしの学力』でしかない。
(これは、過去記事の『PISA調査と中学受験問題と』をご覧ください。記事中ほどの、『しかし、思いは複雑だ。』からが、本記事にかかわります。)
まして、「関心・意欲・態度」などは、テストによって、はかれるものではない。それとも、自己申告の、「全国学習状況調査」で分かるとおっしゃいますか。
このようなものを、『確かな学力』などと言ったら、『確かな学力』に笑われてしまう。
・ただ一つ、『モデル授業』とあり、そこには、『学習意欲を喚起し〜』と書かれているので、一見、『あらっ。テスト一辺倒ではないのかな。』と思わせるが、これも、中身を読むと、「活用する力」等を育てるとあるので、やはり、テストの点数アップをねらっての授業であるとなろう。
なお、この、『学習意欲を喚起し〜』だが、上下の他項目とは何の脈絡もないので、付け焼刃的にここだけ挿入したということだろう。
こんなにテストづけにして、どう意欲を喚起するというのか、その具体策を示してもらいたいものだ。
・学習塾でも、このようなテストづけの計画はたてないのではないか。
そんな計画が、公立学校の計画として位置づけられるとは・・・、
〇このホームページを作成したのは、おそらく指導主事の皆さんであろう。教員のプロである。
わたしには想像がつく。
上から言われて、むなしい思いで書き上げたのではないか。
知事の命令下、屈服せざるを得なかった教育現場の苦衷を察することができる。
〇それでは、実際の学校現場はどうか。
これも何度も書かせていただいているが、拙ブログの読者には、大阪府の保護者の方が、少なからずいらっしゃる。その方々からのメールを読ませていただくと、
内情はいろいろなようだ。
『ふつうの人の自然な感情』よろしく、まったくそのような圧力に屈せず、例年通り、ふつうの実践を積んでいる学校もあれば、上記、『学習ツール』に従い、テスト対策に明け暮れる学校もある。
ああ。願わくば、子どものために、前者が圧倒的に多いことを願う。
同ホームページについては、以上で、終わりとさせていただくが、
それでは、どうして、このような状況になってしまったのか。
・学力低下の実態把握があやふやなまま、マスコミ等で、センセーショナルにこれが叫ばれ、
・各地教育委員会の形骸化が叫ばれ、
その結果、民間や役所の他部局などから、人材が多く登用されるようになった。いわば、『教育のしろうとが教育行政をにぎる。』ようになったのである。
わたしは、教育のしろうとが、教育行政をつかさどること、そのこと自体は賛成である。いわば、シビリアンコントロールの教育版だ。
・しかし、それは、教育委員公選制など、直接的に民意を反映した教育行政でなければならないし、
・また、少なくとも、教育行政は、教育現場の環境整備に意を尽くすべきで、
・さらには、独善的、独断的、恣意的に、学習内容まで踏み込んでくるのは、異常としか言いようがない。
実は、この点に関しては、ご多聞にもれず、我が地域も同様である。
我が地域は、戦後一貫して、自主自立の教育行政を行ってきた。生活科を先取りしたり、十数年も前から、全学年、外国人講師による英語教育を実施したりしてきた。
また、全国的には反対が多かった学力検査にしても、我が地域は、『子どもの学力の実態把握と教員の指導力アップに資する』というように目的を明確化し、60年近くずっと実施してきた。
そんな我が地域だが、わたしの退職後聞こえてくるのは、学習内容まで踏み込むことはないものの、『教育のしろうと』による独善的な教育行政の話である。
それは、一にぎりの者に過ぎないのだが、権力をにぎり、上意下達のシステム作りに励むという、おかしなことになってしまった。
そのような折に、民主党を中心とした連立政権が発足した。
民主党の、『教育現場重視の』教育政策に期待するところは大なのだが、今のところは、どうも、音なしの構え。
やきもきしている状態である。
はやく、ふつうの人の自然な感情を取り戻したいものだ。
本日とり上げた学習ツールなるものは、どう考えても、学習指導要領軽視です。
学習指導要領では、多様な学習活動を保障しています。体験、遊び、実験、調査など、など。
また、教育現場における創意工夫も大切なこととしています。
しかし、ここからは、創意工夫の片鱗さえ、みることができません。
ああ。わたしは、民主党がマニフェストでうたう、教育現場重視の政策に賛意を表明していますが、こんな、子ども軽視のツールを作成する地域に対しては、学習指導要領の拘束性を強めてほしいもの。
同要領の弾力化を訴えるわたしとしては、大いなる矛盾です。
民主党が政権をにぎったことにより、この矛盾した思いが、早く解消されることを望んでいるのですが・・・、
関連記事『子育てや教育は、社会全体でも支えるもの!?』に続く。




