2016年07月22日

旧東海道を歩く。(1)

IMAG7873 前々から横浜市内の旧東海道を歩き通してみたいと思っていた。かつて勤めていた複数の学校の学区を通っているし、偶然出っくわして、『ああ。こんなところを通っていたか。』とびっくりしたこともあって、ひかれるものがあったからだ。

 しかし、通してとなると、それは無理なようだった。ある地点、地点で道がなくなってしまったり、幹線道路がぶった切って先が分からなくなってしまったりした。それであきらめていた。何せ江戸時代の道だからね。市街地化されれば仕方ないなと思った。

 そうしたら・・・、なんとこのたび・・・、Hidekiさんがすばらしいサイトを紹介してくださった。《時系列kk地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」》だ。日本の主なところについて、明治時代の地図と現在の地図を並べての対比ができる。カーソルで新旧の位置が確認できるのだ。明治中期の地図だが、江戸時代の東海道はちゃんと記載されていた。すばらしい。うれしくなってしまった。

 どんなに細かく見てもどこを通っているのかがよく分かる。行き止まりと思ったところも、それはほんの数十メートルで、迂回すれば先に続いていることも分かった。

 それでふつふつと市内縦貫の思いがわき起こってきた。どうせやるなら、多摩川から、つまり、お隣の川崎市から歩いてみようと思った。全体を5回くらいに分けて、つまり、5日間歩けば、川崎、横浜両市を縦貫できるだろうとふんだ。実際は隣りの藤沢市まで、4日間で歩き終えたけれどね。

 さて、それでは道中記といこう。IMAG7828

ukiyoe kawasaki 出発地点の多摩川。ここは江戸時代、元禄まで橋は架かっていたようだが、流されてしまった後はかけ替えられなかった。広重の浮世絵にもあるようにもっぱら渡し船にたよっていた。これは、江戸幕府の政策でもあっただろう。

 話題は変わって今の話。

 今回、多摩川にかかる橋のたもとに立ち、あらためて川の水質のきれいなことに驚かされた。40年くらい前、ここは白い泡のようなものが充満し、かなり汚染されていた。魚は棲めなくなり、川は死んだともいわれた。
 それが見事に復活した。今、けっこう釣れるようだ。ただし、外来種の増加という新たな問題もある。

 環境の改善は川だけではない。50年前・・・、そう、もう50年前になるか。学生時代のことだ。東京の我が大学から横浜の我が家をめざして、徒歩旅行したことがあった。しかし、とても我が家まではたどりつけなかった。ほとんど国道を歩いたせいだろう。車の排気ガスにやられ、頭が痛くなるとともにフラフラになってしまった。

 それが今回、旧東海道の3分の1くらいは国道になっているが、終始快適な気分で歩き通すことができた。
kawasaki
 さて、出発するとすぐ川崎の宿場町である。町と言っても前記明治中期の地図を見ると、街道沿いに家々が並んでいる程度であることが分かる。この旧宿場町。いろいろな案内板が目につく。

 それだけではない。宿場町川崎をPRする交流館なる建物があるし、個人商店なども店のシャッターに浮世絵などがかかれていて、実に楽しい。IMAG7855歴史探訪しながら興味をかき立ててもらう工夫を感じた。歴史ブームと言われて久しいし、歴女なる言葉も生まれた世相の反映と言っていいだろう。

 ところで、3年生の社会科の冒頭は、まちの概観である。自分たちが住むまちの様子を地形、土地利用、公共施設、交通、古くからある建物などを通して学ぶ。そして、中学年全体を通してねらうことではあるが、地域社会に対する誇りと愛情を育てるようにする。

 地域社会に対する誇りと愛情。それを子どもにももたせるには、これら歴史的遺産を守り育む人々の努力をぜひとり上げたいものだと思う。そして、後述するが、こうした努力は川崎だけではない。どの宿場町でも見られる姿だった。IMAG7871

 横浜市に入った。すぐ市場一里塚にたどり着く。ここの一里塚はなんか手を合わせたくなるような感じだ。ここで案内板に見入る初老のご婦人にお会いした。同好の方と思い声をかけさせてもらう。早朝、お子様のお住いのある東京を出発し歩いてきたとのこと。
 うわあ。わたしの何倍も歩いていらっしゃる。ご実家は静岡だそうで、そちらでも旧東海道を歩かれたことがあるとのこと。すごい。わたしも藤沢どまりでなく、もっと西をめざそうかという気になった。

 またどこかでお会いするかもしれないとの思いで、別れた。そういえば、けっこう同好の士はいるものだ。逆に東京を目指して歩いている方とも何組かすれ違った。

 さて、この一里塚だが、川崎から藤沢までで8つあった。市場、東子安、神奈川、保土ヶ谷、品濃、吉田、原宿、遊行寺坂。それで、江戸時代の旅人になった気分で、《ああ。もう4キロ歩いたか。》という感慨を抱くことができ、旅への励みとなった。江戸時代へ感謝したい思いにもなった。

 一里塚のおかげで、だいたいの総距離が分かる。多摩川から藤沢駅まででほぼ30キロあまりだ。一日当たり7、5キロとなる。
IMAG7910
 生麦にたどり着く。ここでは魚河岸通りがそのまま旧東海道だ。早朝こそ活気づいているが、昼下がりのこの時刻では、店はシャッターが閉まり、まったく閑散としていた。それだけにどこまでもまっすぐ続く旧東海道が印象的だった。また、冒頭の写真のように、昭和の面影を残す看板も目についた。
kotizu namamugi
 この魚河岸どおり。今は鶴見川沿いに展開するのだが、むかしの地図を見て驚いた そこは東京湾に臨む海岸沿いでもあったのだ。いやあ。今はなんと、ここから2キロも先へ進まないと海岸にはならない。そう。言い方を変えよう。かつてはここが鶴見川の河口だったわけだが、今は2キロ先になってしまったというわけだ。おまけに首都高速湾岸線が通るところはさらにその先となる。

 京浜工業地帯の一角を占めるこの辺りは、大正期、浅野総一郎による埋め立てが進んだところだ。この地域の多くの小学校では、4年生の郷土の開発単元でとり上げていることだろう。だから、道の左側はずっと工場ばかり。あと高速道路も続く。

今、横浜の海岸からは自然のままの海が消えてしまった。わずかに金沢区の海の公園の砂浜を残すだけとなってしまった。しかし、この砂も、対岸の千葉県富津市から運び込んだものだという。

 またまた話は戻るが、生麦と言えば、有名な生麦事件というのがあった。この事件現場には、なんと一般の民家の塀に事件を説明する案内板が掲示されていた。

 さらに旧東海道を歩く。これも明治中期の地図で分かったのだが、生麦から神奈川宿まで、ほぼ全域が海岸沿いとなっていた。

 そして、キリンビール横浜工場から神奈川までは、第一京浜(国道15号線)がそのまま旧東海道なのであった。この間は、ほとんど案内表示はない。旧東海道らしさはほとんど消えてしまっていた。

 わずかに一つ。東子安一里塚の案内だけが痕跡をとどめていたが、これもうっかりすると見落としてしまうくらいの小さなものだった。やはり民家の塀にあった。説明を読むと、正確な場所は不明なようだった。古地図をもとに場所を割り出したとある。そして、不明になってしまったのは、神奈川県下で唯一ここだけという。どうも、国道にするため、道路を拡張したわけだが、それ以前から不明になってしまっていたとみえる。

 一日目は、ここまで。京急新子安駅で電車に乗り帰宅した。

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 本文に書かなかった中から案内表示、史跡などの主なものは、下記のとおりです。

 川崎宿 万年屋、田中本陣、芭蕉の句碑、八丁畷の無縁塚、
 鶴見  庚申堂、金剛寺、寺尾稲荷道道標、鶴見神社、鶴見線国道駅、横浜市指定無形民俗文化財 蛇も蚊も、 


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2016年06月24日

オバマ演説から、かつての道徳の授業を思う(再改訂版) 〜母さんの歌全文掲載〜

kasannouta 広島におけるオバマ米大統領の演説は、我ら日本人にとっても心温まる想いを残したのではないか。アメリカ、日本を超え、人類の重い課題で一貫させたからだろう。それは被爆者の想いとも一致していたと思う。

 特に心に残ったのは、
 きょう、この町の子どもたちは平和な日々を過ごすことができます。
それはなんと尊いことでしょうか。それは、守り、すべての子どもたちに広げていくべきことです。それは、私たちが選択しうる未来です。

のくだりだった。

 戦争末期に生まれたわたしは、戦争そのものの記憶はない。しかしながら、幼少期、両親から戦争にまつわる話はいっぱい聞いた。両親にとっては、ついこの前のおぞましい記憶だったに違いない。

 また、戦後初期の貧しい生活の中で、さらには、横浜という、連合軍占領下、多くの米兵が身近にいた中で育った記憶には鮮明なものがある。

 戦いこそなかったものの、決して平和な日々でもなかった。だから、オバマ演説の、《平和な日々の何と尊いことか》はよく分かるつもりだ。それゆえ、今もなお、恐怖と貧しさの中にいる世界の子どもたちには、そうした生活から逃れられる日々が一刻も早くやってくることを願わずにはいられない。大人ががんばらないといけない点だろう。

 もう一つ。このくだりが心に残ったのは、かつての道徳副読本の教材文が想起されたからだった。本記事では、その教材文《母さんの歌》をとり上げたいと思う。そして、同文をとり上げた授業での子どもの発言は、最後にふれさせていただこう。

 なおこのたび、副読本出版社、作者、さらには挿絵画家の方々から、利用許諾をいただくことができました。そのおかげで、この再改訂版を出すことができます。厚くお礼申し上げます。

 出版社 光村図書出版株式会社
 副読本 道徳 4年 きみが いちばん ひかるとき
 作  大野允子氏
 絵  早乙女道春氏

 
  母さんの歌

 sashie4『くすのき町』は、バスの終点です。
 道のほとりに、大きなくすのきが立っていました。
終バスが着いて、まばらな人かげが路地に消えると、
くすのきの辺りは、ひっそりします。
 細い月の出た夜でした。
 くすのきの頭が、空の中でゆれていました。
「おや、聞こえるぞ。」
 くすのきは、足元で、小さな歌声を聞いたのです。
「母さんが歌ってる。やさしい、声だなあ。」
 くすのきはうっとりしました。
「・・・・・・幸せな、親子だな。」
 手をつないだ親子が、歌いながら、
くすのきのそばを通っていきました。
「いいな、いいな、母さんの歌は・・・・・・・。」
 くすのきは、また、あの夜のことを思い出したのです。
「かわいそうな、とってもかわいそうな、親子だったよ。」sasie2
 夜空が真っ赤にそまって、広島の町が、焼けていった夜のことです。
「ずうっと、遠い、昔のことのようだ・・・・・・。いやいや、なんだか、きのうのことのようだ・・・・・・。」
 くすのきは、町が焼けていくのを見ました。人の死んでいくのも見ました。
「おそろしいばくだんだった。あんなの、初めて、見たんだ。ここの道を、みんな、にげていったな。
 足元へたおれて、もう、動けない人もいた・・・・・・。」
 暑い夏の日でしたが、くすのきの周りには、ひいやりしたかげがあったのです。日がくれると、広げたえだのしげった葉が、夜つゆの落ちるのをささえました。太いみきによっかかって、ねむる人もありました。土の上に転がって、ねむった人もありました。
 くすのきのにおいが、かすかに、ただよっておりました。
「・・・・・・みんな、やけどをしていた。にげようにも、もう、動けなかったんだ。ものを言う力も、ないようだったな。」
 町を焼く火が、くすのきの頭を、赤々と照らしていました。
「だいじょうぶだ。こんな町外れまで、火事は広がってきやしない。安心して、おやすみ。」
 くすのきは、足元でねむっている人たちを、自分が、守ってあげなければならない、というような、気持ちでした。
「おや。聞こえる。」sashie3
 くすのきは、足元で、小さな歌声を聞いたのです。やさしい子守歌です。ぼうやをだいて歌っているのは、おさげのかみの女学生でした。母さんの名を、よび続けるぼうやを、ほっておけなかったのです。
「かあ、ちゃん。」
「はいよ。」
「か、あ、ちゃ・・・・・・。」
 声が、だんだん、弱っていきます。まいごのぼうやは、顔じゅうひどいやけどで、目も見えないようでした。
「母ちゃんよ。ここに、母ちゃんが、いるよっ。」
 女学生は、ぼうやを、しっかりとだきました。女学生の心は、母さんの心になりました。母さんのむねに顔をうめて、ぼうやは、もう、なんにも言えないのです。母さんは、くすのきによりかかって、ぼうやをだいて、子守歌を歌い続けました。
「いい歌だ。歌っておやり。ずうっと、ずうっと、声の続くかぎり、歌っておやり。小さな、やさしい母さん。」
 くすのきは、むねがつまりました。でも、うれしかったのです。
「・・・・・・。ぼうや、よかったな。母さんに、だかれて・・・・・・いいな。」
言いながら、くすのきは、体をふるわせていました。
「かわいそうな、小さな親子・・・・・・。」
 やがて、朝が来て、日の光が、小さな親子のほおを、金色に照らしました。 sashie1
「まるで、生きてるようだったよ、二人とも・・・・・・。」
 子守歌を聞きながら、ぼうやは、死んだのです。ぼうやをだいたまま、くすのきによりかかったまま、小さな母さんも死んでいました。
「・・・・・・目をつむると、今でも、あの歌が、聞こえてくるようだ。」
くすのきのひとり言が、夜空を流れていきました。




 悲しい、悲しい、話ですね。でも、その中に見えてくる、人の心の美しさ。極限の中での温かさ。敬虔。
 
 大野さんの著作にふれて、確認することができた。この教材文に《広島》という名前は登場するが、《戦争》とか、《原爆》とかはない。また、4年生の教材であることを考えると・・・、爆弾とあるから、戦争中の話であることは分かるだろうが、原爆は分からないかもしれない。

 その分、ただただ、《人の心の美しさ》に焦点を定めているように思われる。
 
 でも、わたしにとっては・・・、、わたしの心を強く打つのは・・・、何度も書くようでまことに申し訳ないし、また冒頭でも少しふれているが・・・・・・、この原爆投下時、わたしは生後7か月だったということ。

 ということは、この話に登場する坊やはわたしより数年年長なだけだ。女学生にしても、生存していれば80代後半となろうか。どちらにしても、現在、お元気に活躍してていいはずの方々である。それが、幼いうちに命を奪われてしまう。
 もう・・・、涙なしでは読めないのだ。

 ところが・・・、子どもは違う。

 4年生の子どもは、少なからず、はるかむかしの、遠い、遠いできごとと思っている。今一つ、時代感覚はピンとこないようだ。

 わたしがこのお話を読むとき、ふいに声をつまらせると、子どもはハッとしたような表情を見せながら、《先生、どうしたのだろう》と、怪訝そうにわたしを見る。だから、授業も終末に近づいたころ、
「このお話のとき、わたしは赤ちゃんだったのだよ。・・・ということは、この坊やは・・・、」
と言うと、びっくりしたような様子を見せる。
「ええっ。toshi先生。このとき、生きてたの。」
と口に出す子もいる。ここで、初めて、わたしと思いを共有した感じになる。

 
 
 最後に、《母さんの歌》をとり上げての授業にふれてみたい。記憶に残る子どもの発言を書かせていただきたい・・・といったところだったが・・・、大野さんの作品にふれることができて、あらたに思い出したことがある。

 わたしは、校長時代、毎年、卒業が近づくと、6年生を対象にしての卒業記念授業を行った。それはすべて道徳だった。そして、ある年、この、《母さんの歌》をとり上げたことがあったのだ。この教材は4年生とされているが、すでに歴史を学習している6年生なら、さらに深いところで、《人の心の美しさ》を感じ取れるのではないか。そう思ってとり上げた。

 そして、さらに思い出した。《確かこの授業は担任が記録をとってくれたはずだ。》
 それで、必死になってさがした。なんとあったではないか。見つけることができた。記憶にたよる必要はなくなった。大野さんの作品や早乙女さんの挿絵を掲載させていただけるとともに、何という幸運。

 それで、この再改訂版は、そちらの授業を掲載させていただくことにした。ただし全文載せたらものすごく長くなってしまう。だから主要な部分だけにさせていただこう。また、子どもの話は同じ言葉を繰り返してまどろっこしかったり意味不明で問い返したりする部分もあるので、読みやすさを考えてtoshiが修正をくわえたこともお許しいただきたい。

 それでは、どうぞ。

「くすのき町は、町はずれでしょう。原爆で被爆した人たちが、大勢逃げてきたからね、くすのきは悲しくなったと思う。」
「そう。もう戦争が終わって50年以上たっているのにね。今、ほんとうの親が歌っているのを聞いて、昨日のことのように戦争中のことを思い出してしまうのだから、くすのきにとってもつらい経験だ。」
「足元でねむっている人たちを、自分が守ってあげなければならないというような気持ちって書いてあるでしょう。これもつらかったからこそ、忘れられないでいるのだと思う。悲しい。」
「でも、くすのきは胸がつまりながらも、うれしかったって書いてある。うれしい気持ちもあった。」
「それはそうだけれど、大勢の人がなくなっていくのだから、それはやっぱりものすごくつらくて悲しい。そんななかだからこそ、やさしい女学生がお母さんになってあげたことは、うれしかったっていうこと。だからちょっとうれしいくらい。」
「なくなる直前におさげがみの女学生が幼い子のお母さんになってあげたのだから、それはやっぱりくすのきにとっても忘れられないほどつらかったと思う。」
「女学生もここまで一人で逃げて来たのだと思うの。逃げながらたくさんの人がなくなっていくのを見たでしょう。そうしたら、この坊やも自分も助からないのだから、どうせ助からないのなら、お母さんを呼んでいるこの坊やのお母さんになってやりたい。そうしたら坊やは安心して・・・・・・天国へ行けるのではないか。そう思ったのではないか。とってもやさしい。」
「賛成で、さらにつけたすと、くすのきもやさしいんだと思う。だって、たくさんのやけどをした人を守ろうとしているでしょう。守ろうといったって、休ませてあげることくらいしかできないんだけどね。それに、おさげ髪の女学生が坊やに歌を歌ってあげているとき、励ましてあげているから、やさしい。」
「くすのきに励まされたし、守ってくれたから、女学生も少しうれしくなったと思う。それにやっぱり独りぼっちだったのだから、坊やのお母さんになれたっていうことは、女学生にとってもうれしいことだったのではないか。だから女学生も天国へ行けたと思う。」
「賛成で、初め女学生は、お母さんになってあげようという思いだったけれど、母さんの心になりましたって書いてあるから、お母さんになり切ったという感じ。そうなれたのは、やっぱりうれしかったのではないか。」
「わたし、今、思ったのだけれど、このくすのきも、お母さんの心をもっていると思う。もう動けなくなった人を幹によっかからせてあげているし、いい匂いで包んであげているし、守ってあげなければいけないとも思っているしね。・・・。それに、坊やには、《よかったな。母さんに、だかれて》って言って、女学生にも、《坊やに歌っておやり。小さな、やさしい母さん。》って声をかけて励ましてやっているしね。・・・。ほんとうにやさしいし、お母さんの心になっている。」
「避難してきた人、みんなの、お母さんだ。」
〜。
「戦争がなく、平和なときでも、この女学生のような、そしてくすのきのような、やさしい心を大切にしたい。」
「中学生になっても、この話を忘れないようにしたい。そして、お母さんの心までは無理だと思うけれど、やさしい心は忘れないようにしたい。」
「くすのきは木だから、50年後もお母さんの心を持ち続けているけれど、わたしは人間だから、50年持ち続けられるかどうかは分からない。だけど、このお話を小学校生活の最後にみんなと一緒に学んだことは忘れないようにしたい。」
「いつだったか、校長先生の話を聞いた時があったでしょう。戦争は憎しみの心から生まれるのだけれど、このようにお母さんの心こそ、大切にしなければいけないのだと思いました。お母さんの心は平和につながっていると思いました。」


 記録にはないが、またまた思い出したことがある。

 授業終了後一人の子がわたしのところへ来た。確かこの子は授業中発言しなかったのだと思うが・・・、
「校長先生。卒業記念の授業、ありがとうございました。わたしも、この授業のことは忘れないようにしたいです。
 それで、授業の中でわたし、発言したいと思ったことがあったんです。それは、坊やは目が見えなくなってしまったけれど、ほんとうのお母さんでないことは、声を聞いて分かったのではないかって思ったのです。
 でも、もう一度読んだら、声も出せないくらい弱々しくなってしまったし・・・、女学生に抱かれて安心したようだし、それは違うなと思いました。
 それにみんなの言っていることがすごかったから、わたし、そんなこと、どうでもよくなってしまって、最後は、お母さんの心、お母さんの心って、心の中で言っていました。」

「うわあ。そうか。それはうれしい。よく言ってくれたね。・・・。でも、ちょっと残念な気もするよ。今、わたしに言ったように、その言葉をそのまま発言してくれればよかったな。」

 《そうか。》といったように、ハッとした表情を見せて、ちょっと笑みをもらしてくれた。

 そう。授業中における変容。それも友達の意見を聞いての変容だ。心が深まっていく。心が柔軟になっていく。鍛えられていく。どれも、大事だね。

 そして、その輪を広げていくのだ。これも、平和につながる・・・・・・だろう。


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kodomo わたしの問いかけに応えて、すぐコメントをくださった大澤さん。

 ほんとうにありがとうございました。この記事は、すべて大澤さんのおかげです。大澤さんのおかげでいろいろなことを思い出せて、書くことができました。

 大澤さんは、ポプラ社発行の絵本も購入したいとおっしゃる。わたしも購入したくなりました。

 戦後71年。・・・・・・・。ああ、この言い方は・・・、いつも思うのだけれど、これはわたしの年齢と一緒なのです。
 その年に、米大統領が広島を訪れました。そして、被爆者の一人と抱き合っている写真を目にしました。双方の表情を見て・・・、ここでもまた、《お母さんの心》を思い浮かべました。

rve83253 at 06:00|PermalinkComments(2)TrackBack(0)道徳指導 | エッセイ

2016年05月31日

オバマ演説から、かつての道徳の授業を思う

nawatobi  初めにお断りしたいことがあります。

 本記事は、最初に入稿した記事の改訂版になります。改訂前は、ある道徳副読本に掲載された教材文のあらすじを載せていました。しかし、そのあらすじというものは、わたしがその教材文のタイトルや出版社を忘れてしまったため、わたしの記憶によるものでした。

 そして、末尾で、《どなたか、この教材文のタイトルや出版社をご存知の方がいらっしゃいましたら、コメントを入れていただけないでしょうか。》とお願いしたところ、大澤さんがコメントを送ってくださり、判明しました。まことにありがとうございました。

 判明しましたので、原文を読むことができました。そうしますと、若干の記憶違いがあることが分かりました。そこで、わたしの記憶によるあらすじは、削除させていただくことにしました。あしからずご了承ください。

 それでは、改訂版ですが、よろしかったらどうぞ、ご覧ください。


 
 広島におけるオバマ米大統領の演説は、我ら日本人にとっても心温まる想いを残したのではないか。アメリカ、日本を超え、人類の重い課題で一貫させたからだろう。それは被爆者の想いとも一致していたと思う。

 特に心に残ったのは、
 きょう、この町の子どもたちは平和な日々を過ごすことができます。
それはなんと尊いことでしょうか。それは、守り、すべての子どもたちに広げていくべきことです。それは、私たちが選択しうる未来です。

のくだりだった。

 戦争末期に生まれたわたしは、戦争そのものの記憶はない。しかしながら、幼少期、両親から戦争にまつわる話はいっぱい聞いた。両親にとっては、ついこの前のおぞましい記憶だったに違いない。

 また、戦後初期の極貧生活の中で、さらには、横浜という、連合軍占領下、米兵が身近にいた中で育った記憶には鮮明なものがある。

 戦いこそなかったものの、決して平和な日々でもなかった。だから、オバマ演説の、《平和な日々の何と尊いことか》はよく分かるつもりだ。それゆえ、今もなお、恐怖と貧しさの中にいる世界の子どもたちには、そうした生活から逃れられる日々が一刻も早くやってくることを願わずにはいられない。大人ががんばらないといけない点だろう。

 もう一つ。このくだりが心に残ったのは、かつての道徳副読本の教材文が想起されたからだった。それは、広島への原爆投下後の悲惨な光景を見ていた、ある老木の述懐を中心としたお話だった。前述のように、そのあらすじは削除させていただいたが、わたしの記憶による、授業における子どもの発言は、引き続き紹介させていただきたいと思う。

 なお、原文にふれることができ、若干の記憶違いが判明したため、修正をくわえていることをご了承いただきたい。 

「女学生だから、今のわたしたちよりちょっと上くらいの歳だと思うけど、まだ子どもであることは間違いないでしょう。それなのに、お母さんになってあげた。すごい。」
「幼い子がかわいそうだと思ったから。」
「もうほんとうのお母さんにはめぐり合えないだろうと思ったから、お母さんの代わりになってあげた。」
「天国でほんとうのお母さんに会えたのではないか。」
「天国なら、子どものお母さんがほんとうのお母さんになったかもしれない。」
「お母さんが二人になったのかな。」
「でも、天国でしか幸せになれないなんてかわいそう。」
「老木は涙を流している。老木にとってもつらい悲しい記憶なのだ。」
「でも、幼い女の子がお母さんになってあげたことで、老木はうれしかっただろう。うれしかったのですとも書いてあるしね。でも、悲しい中でちょっとうれしいくらい。」
「今の方は、完全にうれしい。ほんとうのお母さんが幼い子に歌を歌ってあげているのは、わたしたちから見ればふつうのことだけれど、戦争中の悲しい出来事を知っている老木がそれを見るのは、決してふつうではない。幸せだし、大事だし、ずっとこうでなければいけないと思っている。」

 何やら、この授業の記憶がこのたびのオバマ演説と重なってきた。

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 平和記念資料館(原爆資料館)は、かつてわたしも二度ほど訪れたことがあります。そして、記事にも書かせていただきました。
 《平和を祈る》です。よろしければご覧ください。

 記事でも少しふれましたが、わたしはこの原爆投下時、生後7か月の赤ん坊でした。ですから、戦争にふれた記事を書くとき、いつもこの運命はわたし自身の運命でもありえたのだと思います。

 平和を願い、守り続ける気持ちは、永遠に持ち続けなければいけないと・・・、オバマ演説を聞いて、またまた思いを深くしました。

rve83253 at 05:27|PermalinkComments(2)TrackBack(0)道徳指導 | エッセイ