2016年09月04日

《コクリコ坂から》の社会科的考察

landmark  このたび、《旧東海道を歩く》シリーズを連載していたら、Hidekiさんからすてきなコメントをいただいた。《コクリコ坂から》のご紹介をいただいたのだ。この映画の上映は、もう5年前になるのだね。

 当時、おもしろい名前の坂だなとは思ったが、まさかそれが横浜を舞台にしているとは知らず、まったく関心がなかった。そうしたら、次女が見たようで、興奮したようにわたしに話しかけてきた。

 「お父さん。この映画は横浜港のそばの小高い丘陵地が舞台なんだよ。港の見える丘ってあるでしょう。そのあたりなの。それで、昭和38年の高校生が主人公なんだけどね。だから、お父さんの青春時代と同じでしょう。」
「ううん。そのときは、受験に失敗して浪人生活を送っていたなあ。とても青春などといえるものではなかった。」
「あっ。そうか。でも、そのころなの。お父さんはアニメは見ないって言っているけれど、これは見ると、なつかしい場面がいっぱい出てくると思うよ。今はない市電も登場してくるし・・・。」
「ふうん。それなら見たいものだなあ。でもね。コクリコ坂なんていう坂、聞いたことないよ。」
「ああ。それは、あくまで架空なの。坂だけじゃなくて、まちも学校もそうみたいよ。」

 見たいと思いながらも上映期間は過ぎ去り、見そこなってしまった。そのままずっと忘れていた。

 このたびのHidekiさんからのコメントでそのことを思い出し、さまざま検索をかけたら、なんと、全編見ることができた。

 それで一時リンクさせていただいていたが、ごめんなさい。いろいろとまずい点がありそうだというパソコン教室の先生のご指摘があり、リンクは外させていただいた。外しながらいろいろと映画の中味を語るのは申し訳ないが、お許しください。
   
 映画から、自分の青春時代のさまざまな思い出が、まるで今の出来事のようによみがえってきた。なんか前も同じような思いをもったことがあったなあと思ったら、思い出した。『ALWAYS 三丁目の夕日』だった。こちらは、昭和33年の設定。建築中の東京タワーが印象的だったっけ。それが今度は横浜が舞台なので、それだけ感慨も深いものがあった。

 そう。そう。架空の話なのだけれど、桜木町駅や山下公園、氷川丸などは、実にリアルに描かれていた。そのなかでも、桜木町の駅舎は建て替えられているから、『ああ。そう。そう。むかしはこの通りだ。うわあ。なつかしい。』郷愁を誘われた。なお、このころ、まだ根岸線はなかったから、桜木町駅は終着駅だった。

 またこれは桜木町駅に限らずどこの駅でも見られた光景だが、改札には駅員がいて、切符にはさみを入れていたね。

 国鉄30円区間(大人用)と書かれた表示、こげ茶色の国電など、どれもほんとうになつかしい。

 そう。当時は国鉄だったのだね。そして、料金も安かった。

 先ほど、まちや学校も架空と書いたが、それは位置関係からして言えることであって、街並みや店、交通の様子などは、当時をそのまま再現しているように思われた。特にふれさせていただきたいのは、市電だ。今、横浜ではまったくなくなってしまった。

 その他、

 坂本九の《上を向いて歩こう》もなつかしかった。当時、NHKに《夢で逢いましょう》なるバラエティがあって、わたしは欠かさず見ていた。その《今月の歌》で歌われていたのだった。また、小さな音声だったが、野球中継で、《ジャイアンツの長嶋》とも言っていた。
 
 そうした場面の一つ一つがなつかしく、もう50年以上もたってしまったかと、アニメながら、目頭の熱くなるのを覚えた。

 もう一つ。本映画で重要な位置を占める学園紛争も、当時大はやりだった。しかし、
《これは大学の話であって、高校ではこのようなことはあるものか。みんな受験で余裕がなかったはずだ。》
 初めはそう思ったが、いやあ、あった。あった。細かなことは忘れてしまったが、ほんの数校、我が神奈川県でも高校の学園紛争はあった。

 いやあ。何もかも史実にピッタリだなあ。

 そう。史実にぴったりなだけに、思い浮かべることがあった。これは、小学校の社会科の授業に使えるな。資料になるなということだった。

 旧東海道シリーズでも書かせてもらったが、小学校の3年生の社会科には、まちのむかしを学ぶ学習がある。同シリーズのまとめにも、
《その土地、土地に、小学校社会科の実践で教材化してほしい歴史事象がたくさんある》と書かせていただいたが、本アニメにも、同様なことが言えるようだ。

 今、まちのむかしとしたが、その学習では、お父さん・お母さんが子どもだったころ、おじいさん、おばあさんが子どもだったころの生活も取り上げるのが通例だ。

 むかしの生活は、むかしの道具などで学ぶ例が多い。学校の中にむかしの道具を陳列したり、まちの歴史博物館を訪ねたりする学校もけっこうあるのではないか。

 本作品は、昭和38年の設定だから、おじいさん、おばあさんが子どもだったころとなるね。そう。当時18歳のわたしに、今、中2と小6の孫がいるのだからね。

 アニメだから、ただこんな道具があったというだけでなく、動きなどから使い方まで分かる。今の子どもたちにうけるのではないか。

 使わせてもらえたらいいなあ。

 そう。そういう意味で気づいた場面を、今、列挙する。たくさんあるなあ。

・マッチをすって、ガスコンロに火をつける。
・炊き立てのご飯をお釜からお櫃(ひつ)に移す。
・洗濯機のハンドルを操作して、洗いたての衣服をしぼり出す。
・大きな米びつから一升マスでコメをはかり取る。
・街を走る三輪トラック
・まわしながらキャップをとる万年筆
・釘を口に入れて一本ずつ取り出し、板に打ち付ける。
・液体のノリを刷毛で塗る。
・建物の壁、土塀などを、こてを使って塗り仕上げる。
・数字の入ったダイヤルを回してかける黒電話
・白黒テレビ
などだ。

 日ごろ、こんなにも変わったことを意識していないわたしだが、あらためてむかしを見せてもらうと、あまりの違いに驚かされる。50年前はやはり、遠い、遠いむかしになってしまったのだなあ。

 逆にあしき光景も印象に残った。それは、電車から見える車窓風景だが・・・・、

 工場の煙突からは黙々と煤煙があがっていた。その煙突も、群立している。

 そう。当時、川崎ぜんそくなどといわれたものね。この映画の時代設定から7年後、現在の川崎区と幸区のほぼ全域が大気汚染地域に指定された。

 さて、本映画の主題に関わる重要なテーマなのだが・・・、そして、これは、小学校社会科の域を超えているのだが・・・、

 それは、朝鮮戦争での日本人の死である。公的には、戦後、日本人の戦死者は一人もいないことになっているが・・・、

 これはかくされた史実といおうか、多くの方は知らないよね。わたしもほとんど忘れかけていた。本映画を見て、はるかむかしの遠い記憶を思い出した。

 本映画では、主人公の父は行方不明として扱われているが・・・、まあ、実際行方不明者もいただろうが、Wikipediaによれば、少なくとも56名の日本人が命を落としたという。
 
 さて、本映画のあらすじは、ここではふれないことにしよう。娘もわたしに話したとき、あらすじまでは言わなかった。

 ただ、むかしは、友人の子を我が子として届け出て戸籍をつくるなどということは、ありえた。だいいち、戦争直後の混乱期は、戸籍も焼けてしまって、申し出による復元、作成などということもあったからね。

 最後に・・・、

 わずか50年余りで生活は一変した。・・・。ああ。《わずか》と思うのは、わたしのような年寄りなのだろうね。若い人にとって50年は、遠い遠い・・・歴史の範疇だろう。

 でも、年とればこの感覚が分かる。・・・。

 いや。若い人だって分かるのではないかな。

 子ども時代と、二十歳過ぎてからと・・・、同じ10年でも、その感覚はまったく違うのではないか。悠久と時が移っていった子ども時代。それに対し、二十歳過ぎてからは走馬灯のごとく・・・。

 そう。そのような速さで、老境に入っていくのだ。気分だけは若いのだけれど・・・・・・、

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 戦争は玉砕とか、原爆とか、空襲とか、そうした直接的な惨劇だけではないですね。本映画の主題にかかわるような後遺症も残します。

 わたしの子ども時代、NHKのラジオ番組に、《尋ね人の時間》というのがありました。みんな戦争がらみで、行方、生死の分からなくなった家族、親戚、友人などの消息を求めて探しているのでした。

 それに、中国残留孤児の帰国問題などは、まだ10年くらいしかたっていないですね。

 わたしの同級生にも、満州からの引揚者は、少なからずいました。帰国問題が起きたとき、《ああ。我が学友は皆、幼いときに無事引き揚げできたのだな。》と思ったものでした。

 団塊の世代があるのも、戦争の後遺症ですね。一斉に戦地から引き揚げてきたものですから、赤ちゃんのラッシュとなったのでした。これが平準化するには、一世紀くらいかかるのだそうです。

rve83253 at 17:27|PermalinkComments(4)TrackBack(0)エッセイ | むかし

2016年08月22日

旧東海道を歩く。(4)

IMAG0982 本シリーズの最終章は、戸塚駅から横浜市隣りの藤沢市(駅)までのつもりだったが、前記事が東戸塚駅付近で終わっているので、まずは、そこからスタートさせていただこう。

 東戸塚駅入口の信号で国道と一緒になると思いきや、旧東海道は国道一号線を横断していた。そして、すぐカーブして国道と並行し、数百メートル先の赤関橋で合流した。

 そのまま国道を歩くと、今度は不動坂でまたまた国道から離れた。ほんの数百メートルだが、ここでは、心に残る史跡、石碑、建造物を見ることができた。

 そのなかの一つ。ちょっとこの辺では不似合いなくらい、ものすごく古く、しかしがっちりとした建造物を見つけた。鎌倉ハムの倉庫だ。戸塚区のホームページによれば、明治20年代の建造とのこと。港の赤レンガ倉庫と同じころだ。驚いたのは、今も倉庫として使用しているとのこと。単なる史跡ではない。すごい。IMAG8132 (1)

 鎌倉ハムの名前の由来については・・・、

 ずっとここは横浜ではなく、鎌倉郡だった。横浜市に編入されたのは・・・、

 編入は、市制がしかれた明治22年以後、6回にわたって行われた。編入以前は、都筑(つづき)郡、橘樹(たちばな)郡、久良岐(くらき)郡、それに、ここ鎌倉郡だった。鎌倉ハムがある地が編入されたのは昭和14年。最後の編入であり、これにより現在の横浜市の市域が確定した。しかし当然のことながら、鎌倉ハムの名はそのまま存続した。

 なお、人口増加により分区が数回にわたり行われたが、平成6年の分区にあたっては都筑区が誕生。かつての郡の名が区名として復活した。

 それにしても不思議なことがある。開港のころの横浜は文明開化の地。《横浜もののはじめ》が有名だが、外国からいろいろな文明が入ってきた。今、港周辺を歩くと、《〜発祥の地》なる碑をたくさん見ることができる。IMAG0958

 しかし、横浜中心部から離れたこの地が、日本で初めてハム・ソーセージの製造販売を行ったとは・・・、

 それで、Wikipediaで調べてみると、イギリス人が畜産業から始めて肉製品を作ったことが分かった。なるほど。畜産業からであれば、郡部の方が向いているね。

 さて、前述のように数百メートルでまた国道と一緒になる。しばらく歩くと、左の写真の、江戸見附前信号あり。この名前は前記事にも登場した。そう。今度は戸塚宿の入口となるわけだ。ここには、江戸方見附跡の石碑もたっていた。

 さらに、数百メートルで吉田大橋にたどり着く。冒頭の写真がそれだ。なお、写真の街燈だが、この変わった形は大名行列の毛槍を模しているのだという。IMAG0989

 また、この橋で特筆すべきは、なんと橋の欄干両側に2枚ずつ、計4枚の戸塚宿にまつわる浮世絵があることだ。

 ほんとうに、これまで、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚と、旧宿場町を歩いてきたが、どこも、歴史をすごく大切にしている。戸塚宿まで来て、どこも、まちの人たちは、郷土の歴史を誇りにしているのではないかという感想をもつようになった。

 浮世絵では、おもしろいことを2つ発見した。hiroshige018_main139007514573806287227_totsukashuku


 
  ・広重の戸塚宿の絵は、左の絵
  のように二種類ある。読者の皆
  さんは、双方くらべて、どこが違
  うか気づかれただろうか。分かりにくければ《拡大》をかけてご覧いただければと思う。

 そう。一つは旅人が馬から跳び降りている。もう一つは馬に乗ろうとしている。

 上の方がよく知られた絵だが、実は双方とも、旧東海道で見ることができる。これには感動した。あらためて思う。旧宿場町はどこも通りがそのまま美術館のようだ。

 見られるのはどこか。上の絵は吉田大橋の欄干で、もう一つは江戸見附前信号の写真に写っているダイソーで。

 ダイソー前で、同壁面を飾る絵を見ていたら、そこの店員さんが現れた。
「ええっ。この絵、2種類あるのですかあ。知らなかったです。吉田大橋の絵と同じだと思っていました。あらあ。今度よく見なきゃいけませんね。」
 店員さんが知らなかったとは。なんかおかしくなった。でも、100円ショップがこうした絵を掲示してくれていること。わたしはその店員さんに感謝の気持ちを伝えた。
 
・もう一つある。この絵に描かれている右の橋。これは、200年前の吉田大橋だ。吉田大橋で、むかしの吉田大橋の描かれた絵が見られるというのも、おもしろい。劇中劇のようだなあ。

 さて、大橋を渡るとすぐ道は二手に分かれる。直進はJR線の下をくぐるように作られたアンダーパスへ向かう。自動車バイク専用道路だ。

 もう一つの方、左前方が旧東海道だ。こちらは、開かずの踏切として有名だった踏切に進む。でも、今、その踏切はない。かわりに《大踏切デッキ》という大きな歩道橋に生まれ変わった。踏切はなくなったのに、歩道橋の名前は、《大踏切デッキ》。なんかおかしさを感じた。

 3・40分待たないと渡れなかった踏切。この解消は長年の懸案であった。むかし箱根駅伝がここを通っていたころ、ほとんどの走者は開くのを待たされ、さまざまな悲喜劇を生んだ。そのためだろう。近年箱根駅伝はここを通らず、不動坂から横浜新道へとコースを変えた。

 アンダーパスと大踏切デッキが完成したのは昨年である。このまちの方や買い物客たちは大変喜んでいるに違いない。

 実は、これだけではない。踏切は戸塚駅に近接していて、この完成は戸塚駅西口の再開発と一体化している。そしてその再開発もほぼ完了した。ごみごみしたまちが、近代的で便利なまちに生まれ変わったのである。

 わたしは歩行者だから、大踏切デッキを渡った。そしてできたてのほやほやのまちを通った。

 その先は旧東海道の宿場町の中心となる。例によって、澤邊本陣跡、八坂神社、富塚八幡宮、上方見附跡などの案内表示が見られた。

 上方見附跡からは、大坂の上りとなる。権太坂に匹敵するような坂だ。そして、坂を上り切ったところで横浜新道と合流する。ここから先は、ずっと国道と一緒だ。ところどころに史跡、案内表示は見られるが、旧東海道の面影はやはり少なかった。IMAG8262

 約4キロメートルにわたり台地を通り、お隣の藤沢市の遊行寺坂で下りとなった。この坂も箱根駅伝で有名だね。

 遊行寺に寄らせてもらった。巨木の下には露店が数店。ちょっとしたにぎわいを見せていた。ここは一遍上人開祖の時宗総本山として有名だ。

 さあ、4日にわたり歩き通した旧東海道の旅も終わりに近づいた。藤沢橋を渡る。ここも藤沢宿の真っ只中なのでいろいろな案内表示が目についたが、帰路を急いだ。

 旧東海道は右に行くことになるが、わたしは左へ。そして藤沢駅に向かった。

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sekihi 左の写真は、ある石碑の裏面です。本記事冒頭の鎌倉ハム倉庫のそばにありました。

 表には、大きな文字で、《史蹟への小径》とあります。そして、裏には、本シリーズにも関係するすてきな言葉が刻まれていました。

《歴史は 古く 永く そして悠久に 継承される》

 なんと魅惑的な言葉でしょう。わたしはすぐ、前記事に書いた、《投込塚》を思い浮かべました。何せ、時代は変わっても、人の心は、江戸時代から現代にいたるまで・・・、さらには未来まで、継承されていくのですね。

 また、その土地、土地に、小学校社会科の実践で教材化してほしい歴史事象がたくさんあることにも気づかされました。

 地域の歴史事象を大切にし、継承される人の心を子どもが学び取ることによって、地域を愛し、人を愛する心情が養われるのではないかと、思いました。

〇本文に書けなかった中から案内表示、史跡などの主なものは、下記のとおりです。

 柏尾  大山道道標、大山前不動
 戸塚宿 吉田一里塚跡、明治天皇戸塚行在所阯
 大坂上 お軽 勘平 戸塚山中道行の場 石碑
 原宿  原宿一里塚跡
 藤沢宿 遊行寺坂一里塚跡、江戸見附跡


rve83253 at 01:18|PermalinkComments(2)TrackBack(0)自己啓発 | エッセイ

2016年08月14日

旧東海道を歩く。(3)

IMAG8084  3日目は保土ヶ谷駅からのスタート。西口のバス乗り場の向こうが旧東海道である。そして、ここは保土ヶ谷宿の真っただ中だけに、例によって史跡の案内表示がたくさんある。

 まずは前回分になるが、江戸方見附跡、旧帷子橋跡。

 江戸方見附は、江戸から来たときの宿場の入口で、見附は土盛りをした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしているという。
 反対に京都方面からの入口は、上方見附という。だからその両者の中が宿場となるわけだ。ukiyoe-02

 また、旧帷子橋は広重の浮世絵に登場するが、前の記事に書いたように、河川改修があったため、今はまったくの陸地、公園の脇になってしまった。

 それにしても、この改修工事の困難さがしのばれる。工事は昭和30年代に行われた。そしてなんと、蛇行のため、一部、相鉄線の反対側に流れ込んでいたのをまっすぐにしたのだ。もうこの時期、市街化はかなり進んでいる。そんなときに、相鉄線にかかる橋2つをなくしたり、土地の明け渡しをお願いしたりするのは、さぞ大変だったことだろう。

 さらに、今昔マップを見ると、改修は保土ヶ谷区全域に及んでいる。市民の理解がなければとてもできる工事ではなかったと思われる。市民も、洪水を防ぐためならと、協力したのではないかな。

 さて、話を今回分に進めよう。

 史跡の案内表示だったね。前回分に続き、問屋場跡、高札場跡、本陣跡、脇本陣跡、一里塚跡など、きめ細かく、案内が出ていた。IMAG8070

 また、《金沢横丁》なる案内もあった。これは、かなざわ・かまくら道との分岐を示していた。

 そう。これも前回記事でふれたが、江戸中期までは、保土ヶ谷宿近くまで海が入り込んでいたので、金沢、横須賀方面に行くには、ここまでの迂回を余儀なくされたのだ。

 JRの踏切を渡ると、すぐ国道に出っくわす。ここからはまた、国道が旧東海道となる。これまで国道と重なるとさしたる史跡案内はなかったが、ここ、保土ヶ谷は違っていた。前記の本陣跡、脇本陣跡、一里塚跡などの表示はみんな国道にあった。

 それだけではなかった。旧東海道の雰囲気を復元しようとする営みも随所に感じた。

 冒頭の写真はその一つだ。かつてあったはずの松並木。しかし、それが道路の拡張に伴ってどこもかしこもなくなってしまっている。現在では、大磯まで行かないと往時の松並木は見られない。

 ところがここ、保土ヶ谷では松並木の復元が進んでいる。もちろんまだ若木だが、数百年後は、きっと大磯並みの並木になることだろう。

 ここでまた、国道を離れる。一緒だったのはわずか数百メートルだった。そして、権太坂へと向かう。IMAG8088 (1)IMAG8092

 ああ。この、権太坂は有名だね。箱根駅伝では順位、タイムなどのチェックポイントとして各大学の走者が走るたびにテレビの画面に登場する。しかし、あれは国道なので、旧東海道の権太坂とは異なる。

 この坂、駅伝以前から有名なのだが、歩いてみてその理由が分かった。

 横浜はもともと丘陵地が多い。広々とした平野はない。逆に谷戸は多いはずだ。したがって、どこを歩いても坂はつきもの。小学校の名前にも、丘、岡、台がつく学校は多い。

 さらにその丘陵はだいたいどこも同じ高さで、急坂、緩やかな坂の違いはあるにしても、40〜50メートルくらいの標高が多い。

 案内表示を読むと、旅の難所とあるが、これにはちょっとびっくりした。いくらけわしいと言っても、上り切ったところにある境木小学校で調べると、標高は他よりはちょっと高いが、それでも70メートル余。同じ神奈川県の箱根なら、800メートル以上もあるからね。くらべものにならない・・・、はずだ。

 しかし、しかしだ。難所の証明になるものを発見。それは上記境木小学校のすぐ近くで見つけた。何と、《投込塚》なるものの案内がある。IMAG8099 (1)

 初めは何を投げ込んだのだろうと思った。気になったので、旧東海道からは少し外れるが行ってみた。そして、《投込塚之跡》なる石碑を見つけた。

 この土地の方だろう。初老といってもいいような方が、まるでお墓参りのようにお水をかけたりお供え物を置いたりして、お参りされていた。

 わたしが立ち止まるとその方はすぐ立ち去られた。碑文を読む。

 もともとこの地は、権太坂投込塚という地名だったようだ。江戸時代、行き倒れる旅人が多く、そのたびに埋葬していたらしい。さらに昭和30年代になりこの地で宅地開発が進むと、多数の白骨が出てきた。それらを近くのお寺で、供養埋葬したようだ。

 そこで思ったこと2つ。

・確かに標高差からすれば、箱根にくらべ物の数ではない。しかし、江戸からここまでは、多くが海岸沿いということからも分かるように、ほとんど平地だった。そういう意味では、最初に出現する本格的な坂。それだけにダメージを受ける人が多かったのではないか。

・この地の方はむかしから、行き倒れた方を気の毒に思い、おそらく少なからず無縁仏になってしまったであろう旅人を手厚く葬ってきた。それはもう、行き倒れる方などありえない昭和30年代になっても・・・、

 それこそ、この時期なら、出てきた白骨のすべてが無縁仏だよね。その方々も手厚く葬った。その思いは持続したのだ。それが、さらに今も・・・、

 まるで自分の家のお墓であるかのように掃除したりお参りしたりする人がいる。むかしの旅人を思う心はしっかり引き継がれているのだ。
 
 今はもう、難所どころか、いたるところが宅地化された。前述のように学校まである。おそらくこれからも、この地の方々によって、この塚は守られ、大切にされていくであろう。

 さて、前述のように、ここには境木小学校がある。そう。この地は、武蔵の国と相模の国との国境にあたる。横浜市は双方にまたがっているのだ。IMAG8096 (2)

 そして、ここは見晴らしのよい高台で、西に富士、東に江戸湾を望むことができる。景観がすばらしく、旅人は必ず足をとめたという。

 今は、富士山こそマンション群のあいだに望めるが、東京湾は、代わりにみなとみらいなどのビル群が見えるようになった。

 国境を過ぎると下り坂となる。焼餅坂と品濃坂だ。そのなかでも品濃坂はかなりの急坂だ。下りだからよかったものの、これが上りなら・・・、やはり行き倒れとなってしまったかも・・・。IMAG0574

 さて、この双方の坂の間に、品濃一里塚がある。この一里塚は特筆すべきもので、神奈川県下、ここだけが江戸時代のまま残っている。
 一里塚には築山が道の両側にあるのだが、それがそっくり残っているのはここだけだ。

 そのことから分かるのは・・・、

 江戸時代の東海道の道幅が分かる。それが右の写真だ。読者の皆さんはどう感じられたかな。

 これだけなの。そう。これだけの道幅なのだよね。ここを大名行列のかごや飛脚や馬などが往来していたことになる。

 もう一つ。双方の坂の間を、今は、環状二号線が通っている。実はかつて道が分からなくなってしまったところの一つがここだった。何せ、小道といってもいいような道だから、曲がり角などになるともう、お手上げだった。IMAG8121 (1)

 でも、今回分かったのは・・・、また、分かったと同時におかしくなってしまったのは・・・、何と環状二号線にかかる歩道橋に、《旧東海道》の文字があった。まさか、歩道橋が江戸時代の東海道とはね。

 でも、これがないと、歩道橋を渡るべきなのか否か、さらにその先はどこへつながるのか。まったく分からなくなってしまうだろう。今昔マップがあるとはいえ、歩道橋までは載っていないからね。

 その先は品濃坂の続きだった。やはり急坂。その上、新しい住宅地を通ることになった。何とも、真新しい住宅地は、旧東海道のイメージとは合わず、ちぐはぐな感じは否めなかった。

 そして、その先は、またまた国道一号線と合流することになった。この先、ほんの少し、国道から外れるところはあったが、戸塚駅までほぼ同じだった。

 品濃一里塚で確認した江戸時代の道幅。それが分かっているだけに、国道に変身してしまった旧東海道が、いかにむかしのものをなくしてしまったか、あらためて残念な気がした。

 国道一号線は、不動坂で2つに分かれる。2つとも一号線だ。右へ行くと、横浜新道に合流する。吉田茂首相の、鶴の一声でできた道だ。左は戸塚駅に向かう。これが旧東海道だ。

 本記事もだいぶ長くなってしまった。3日目は戸塚駅から帰路についたのだが、本記事はここで終わらせていただこう。

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 〇本文に書かなかった中から案内表示、史跡などの主なものは、下記のとおりです。

 境木立場跡、東戸塚駅沿革概略の碑です。

 なお、品濃一里塚は、東戸塚駅の近くにあります。環状二号線を渡るとすぐです。

rve83253 at 09:04|PermalinkComments(2)TrackBack(0)自己啓発 | エッセイ