2017年01月14日

問題解決学習のtoshi的考察(1)

CIMG1099 あけましておめでとうございます・・・というには、ずいぶん日がたちすぎましたね。すみません。でも、本年もどうぞよろしくお願いします。

 光陰矢の如し。ほんとうにその通りで、退職して12年目の新春を迎えました。拙ブログも同年数を数えます。長くお付き合いいただいている方、最近の方、すべての方に、あらためて厚くお礼申し上げます。

 さて、新春第一回目の記事は・・・、問題解決学習についてのtoshi的考察である。

 我が横浜においては、教育委員会はじめ、各教科領域の研究会、小学校の学校現場に至るまで・・・、それは実践力はさまざまであるにしても、問題解決学習を標榜しているという意味ではまとまっている。表だってこれを批判する声はほとんどない。

 ところが全国に目を転じると、案外批判の声は多い。曰く。
・子どもに流される
・一部の発言力のある子どもしか活躍せず、あとはお客様的存在になっている
・はい回ることが多く時間がかかる
など、など。

 しかし子細にそうした声に耳を傾けてみると、彼らが問題解決学習としているものは、わたしたちが《問題解決学習もどき》と称するものであって・・・、要するに、形だけマネをして、真に子ども主体の学習になっていないことに気づく。それでは、本シリーズで最終的に述べることになる《子ども像》に及ぶべくもない。

 今、わたしは学級担任でなくなり、いくつもの学級で社会科を担当するようになった。そこから分かることは、一人一人個性があるのと同様、学級にも学級の個性というか、持ち味があるということである。当然問題解決学習も学級ごとに特徴を持つ。

・発言する子が多いクラス
・友達の発言に対し、共感したり反論したりし、活気あるクラス
・よく調べ学習をする子が多いクラス
など。など。

 そこでは、学習の流れも多様に展開する。こうしたことは、現職のとき経験しなかったことで、それが問題解決学習の幅を広げることにつながるようだ。そこで幅が広くなった(?)我が実践を中心に、真の問題解決学習について考察してみたいと思う。

 その時キーワードとなるのは、ある大先輩の言葉であるように思う。

 それは、『学習問題はつくるものではないでしょう。子どもたちの切実な思いによって、にじみ出るように自然に生まれるものではないですか。』

 なるほどなあと思う。そして、皮肉なことに、退職した今になってこの言葉の重みを感じることがふえている。本シリーズでは、2回に分けそれぞれ一つずつその事例をとり上げてみたい。そして、3回目は2つの事例の考察としたい。

 最初は、4年生の《郷土の開発等、先人のはたらき》の単元である。

 この単元。横浜においては、吉田新田をとり上げる学校が多い。これは、横浜港の近くで、かつて流行歌にもなった伊勢佐木町を含む。いわば横浜の中心部である。

 しかし、江戸時代初期までは大きな入り海であった。吉田勘兵衛という江戸の材木商の私財と横浜、石川、蒔田、太田、野毛村などの村人たちの協力によって埋め立てられた。新田の名の通り、田にする目的である。以後、約200年にわたり米作が続いた。

 幕末、幕府と諸外国との通商条約によって鎖国の夢は破れることとなる。横浜開港をきっかけに、この新田は急速に市街地化していった。

 さて、説明はそのくらいにして、この単元の導入時である。

 現代人が入り海のころを想像し描いた、まるで写真のような絵や埋め立て前後の絵地図など、視覚に訴える資料を中心に、埋め立て工事の概要をつかんだ後、感想や疑問を出し合った。

 そのとき、Aさんが言う。
「どうして埋め立てなんかするのだろう。入り海のままにしておけばいいのに。」

 一瞬、奇異に思ったわたし。子どもたちの多くも同じだったようだ。口々に、
「ええっ。Aさんは田んぼにしなくていいって言うの。」
「豊かにならなくていいの。このころの人は米作りにあこがれていたんじゃん。」
「そうだよ。横浜村など入り海のまわりの村人たちは、魚をとるとか塩をつくるとかしかできなかったから、貧しかったんだよ。」
「・・・・・・。」

 頃合いを見て、わたしはAさんに聞く。
「Aさんは、みんなと違って、埋め立てなんかしなくていいと思ったのだね。どうしてそう思ったか、そのわけは言えるかな。」
 Aさん。微笑をたたえながらも、首をかしげ言えなさそう。

 そこでわたしは、クラスの子に向かって言う。
「そうか。言えないか。どうだろう。Aさん以外に埋め立てなくていいと思う子はいないの。ああ。いないようだね。
 でもどうだろう。誰か、Aさんの気持ちになってAさんがなぜそう思ったか、そのわけを想像できる子はいないかな。」

 しばらく考えた上で数人が挙手。
「入り海で魚がとれなくなるから。」
「自然が豊かなのだから、自然をへらすことはない。自然のままでいい。そう思ったのではないか。」
「・・・・・・。」

 わたし、Aさんにそれでいいのか聞く。Aさん、今度は納得の笑顔。友達に分かってもらえたからだろう。うれしそうだった。

 しかし、ここは導入で、これから埋め立ての中身に入っていこうとしているのだから、深追いはしない。
「Aさんの思いは、この単元の最後で、またとり上げたいと思うから、それまでとっておくね。」
そう言って、早々に切り上げた。

 その後の学習のあらましを述べると、

)笋疥ての目的や使った道具、さらには埋め立ての工程などの学習を通し、勘兵衛は村人に工事の協力を求めたこと、村人も協力したこと。当時機械はないから全部手作業だったこと、工事には失敗もあったがそれを乗り越えて完成させたこと
開港後の横浜のまちづくりとしての開発
3年生で学習した、近年のわたしたちのまちの再開発を ↓△犯羈咾垢覦嫐で再びとり上げ・・・、

 終末段階を迎えた。

 3つの開発を工事方法、目的などで比較してその共通点、相違点などを確認した後だ。

 わたしの方から、冒頭のAさんの思いを提起した。
「〜。というわけで、どうだろう。今も、埋め立てはしない方がよかったと思うかな。」
 子どもたちの意見は分かれた。と言っても、吉田新田そのものを不要とする考えは、Aさんも含め、なかった。Aさんもこの時代の開発はやっていいと思うようになった・・・ようだ。

 分かれたというのは、開発賛成論者と抑制論者だった。そのやり取りの一部。
「吉田新田のころはね。自然だらけだったでしょう。横浜にまちなんかまったくなかったからね。それに村人たちは貧しかったから進んで協力したでしょう。だから、開発していい。
 でも、今は、森は減っちゃったからね。開発はしないほうがいい。」
「そんなのは無理。開発しないなんて考えられない。森は今よりさらに減っていくに決まっている。だって、〜町では森だったところが今マンションの工事中だよ。」
「そう。どんどんまちは広がっていく。」
「でもさ、マンションを建てても、そこには必ず公園もできているよ。マンションを建てて確かに自然は減るけれど、でも、必ず公園には木を植えている。だからそのようにすれば無理じゃない。」

 その後、『木を植えたって減ったことは減っているじゃん。』と、『減るけれど、大事にはしている。』との対立の後、Bさんが折衷案的なことを言った。

「自然を大事にすることと開発とのバランスをとることが大事なのだと思う。今の横浜では木をまったく切らないで自然をとっておくことはできないけれど、開発する中で自然を少しでも残す工夫はしていると思う。だからCさんが言うように、マンションを建てても庭や公園で緑を大事にすればいい。Dさんが言うような無理ということにはならないと思う。」
 言われたDさん、ここでは首をかしげながらも無言だった。

 さらに、子どもたちは、
・これからも開発は進んでいく。
・吉田新田のときは、横浜は村ばかりだったし、自然がいっぱいというか、自然だらけだったのだから、自然を守るなどということを考える人はいなかったし、また、考えなくてもよかった。
・今、都会では自然がものすごく減っている。でも、その時代、時代に合ったやり方、考え方で自然を大切にして、バランスを考えた開発を進めていくことが大事なのではないか。
という方向に収束していった。
 しかし、少数ながら最後まで、「開発は抑えるべき、今はやりすぎ。」「いや、それは無理だ。開発はこれからも進む。」「わたしたちの生活を豊かで便利にするためにはやはり開発は必要。」の対立は続いた。

 このときのわたしの思いは、《バランスのとり方》についてだ。

 Bさんが言うように、マンション建設にあたっては公園など、緑も大切にした空間を設ける。これももちろんあるが、もう一つあるな。

 それで、わたしの方から提起した。

 それは3年のとき学習した、わたしたちのまちの概観にかかわる。

「Bさんが言って多くの子が賛成したバランスをとるという考え方だけど、マンションの庭、公園以外にも、バランスをとっている例があると思うけれど、分かるかな。実は、3年生の時学習しているのだよ。」

 《ああっ。》という声が上がった。Eさんだ。

 実は、高台にあるF交差点を境に、そこまでは市街地化がどんどん進んでいるが、その先は、森、田畑など、緑が大切に残され農業も盛んなのだ。隣接していながら、双方はまったくの別世界のようだ。3年生のとき、それを地域ごとの違い、特徴として学んだ。

 実はこれ、市の施策にかかわる。市は数か所、農業専用地区を指定し、緑や自然を守る取組を行っている。まさにF交差点の向こうはそれなのであった。

 バランスをとる。

 市もその考えを大事にしていることをとらえ、この学習を終えた。

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 この学習でおもしろいことがありました。江戸時代の工事に使われた、土を固める道具。名前はタコと言いますが、G先生。

「これ、我が家にあるのです。むかし、使っていましたから。」

 そうしたら、なんと、ご家族の方が、子ども用に、わざわざ2分の1の重さになるように作ってくださいました。おかげさまでもっことともに土固めの体験学習を進めることができました。

「重たいねえ。」
「体全体を使わないとうまくいかないな。」
「2人でちゃんと協力し、力を合わせないとケガするよ。」
など、体を使っての工事の大変さに気づいていきました。

 また、それよりも早い時期に、吉田新田の規模を知るため、社会科見学も行いました。土を取ったところは今もものすごい崖になっています。その規模も知ることができました。

「あんな高いところからも土を取っているのだね。すごい。」
「ほんとうだ。どうやって運んだのだろう。」
「空中かな・・・えへへ。それは無理だよね。」

 子どもたちのやり取りを聞いていたらおかしかったです。

 また、横浜開港の学習のときは、Hさんが、授業終了後、わたしのところへ来て、

「toshi先生。もしAさんがいうように、吉田新田の埋め立てをしなかったら、入り海のままでしょう。そうしたら、砂州の部分しか陸地はないからね。横浜のまちは広がらなかったでしょう。こまったのではないかな。」

 このHさんの言葉も次の授業のとき、全体に伝えました。みんな同感のようでした。

「そうだね。そうしたら横浜開港はなかったかもしれない。そうすると、今の横浜のまちもないことになるな。」



rve83253 at 17:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)問題解決学習 | 学級経営

2016年12月09日

A先生を偲ぶ

IMAG5673 この時期、少なからず喪中はがきが届く。わたし自身が70を超えているから、届くのには寄る年波を感じさせられるものが多い。
 
 つい先日のには、『ええっ。亡くなられたか。まだお若かっただろうに。』と、ショックを禁じ得なかった。しばし、思い出にひたった。そして、遅ればせながら、謹んでご冥福をお祈りした。

 このA先生。我が30代のとき、同学年を組ませてもらったこともあって、公私にわたりご指導賜った。ほんとうにA先生とめぐり会えなかったら、今のわたしはなかったと言っていい。そのくらい恩義を感じている。

 まずは公私の、《私》にかかわる部分から。

 今、41になる長女が6年生のときだった。教室でちょっとしたはずみで、大けがをしてしまった。すぐ入院となった。それで、毎日、毎日、定時に帰るようになったわたしに、A先生が心配し、声をかけてくださった。

「toshiさん。何かあったの。ご家庭で。」
「はい。長女が・・・。」
「あら。そんなことがあったの。それは大変ね。心配だわね。・・・。いいわよ。学年のこともいろいろあるけれど、どうぞ、少しでも長くお嬢さんのそばにいてあげなさい。」

 そして、数日後、心に残る言葉を聞いた。
「奥さんも毎日看病で大変でしょうね。でもね。こういうときこそ、夫婦のきずなが強まるのよ。」

 そうか。親子のきずななら分かる気がするけれど、夫婦のきずなか。

 妻は専業主婦だったから、永く娘のそばにいてあげることができた。わたしはわたしで退勤後病室を訪ねる。娘に声をかける。娘の明るい表情を見るとまずは一安心する。けがの回復を聞けばホッとした。

 でも、A先生から《夫婦のきずな》を聞くまでは、正直、妻のことは眼中になかった。以後、妻をいたわることも心がけるようになった・・・・・・かな。

 次は、《公》の部分。

 これはもう、いくら書いても書き足りないくらいある。学級経営、児童理解について、いくら感謝しても感謝しきれないくらいのご指導を賜った。

 わたしは、A先生にお会いする以前、基本的には子どもといい関係をきずくことができたが、必ずと言っていいくらい、一人だけ、苦手とする子どもをつくってしまった。それは、ちょっと斜に構えて素直でない様子を見せる子とか、距離を置いて冷ややかな態度を見せる子とかだった。

 でも、自分でも不思議だったが、そんなタイプの子は何人かいるのに、苦手な子というのは必ず一人だった。
 
 それであるとき・・・、そのときは4年生担任だったが、A先生となんかそういう話をすることがあった。A先生とは同学年、そして、わたしがしっくりいかないでいるBさんの前学年における担任だった。

「ああ。分かる気がする。Bさんは確かに最近、無表情だわね。元気がない。
 そう言えば、Bさんにとってtoshi先生は初めての男の先生になるの。それでBさんは2年前にお父さんを亡くされたでしょう。まだまだ小さいからさびしいと思うわ。
 そんなわけで、Bさんはtoshi先生にお父さんの面影を見ているのではないかな。お父さんになってあげることはできないけれど、そんなことも心の片隅においとけるといいわね。」

 でも、それだけでは、いったいどうふるまったらいいのか、皆目見当がつかなかった。ただ初めはけっこう明るく話しかけてきていたのが、だんだんそっけなくなり時には無視する姿勢も見せるようになったから、《ああ。父親の役割を果たせなかったのかな。》と申し訳なくもなった。

 でも、だからと言ってねえ。学級には30人以上子どもがいるのだし・・・ああ。こまった。

 それで、Aさんの学級経営をはたから注視するようになった。見ていて、だんだん気づくことがあった。

 それを書く前に、一つ、思い出深いエピソードを紹介させていただこう。

 あるとき、A先生がポツンとわたしに言った。
「わたしのこと、子どもたちは、やさしい先生、やさしい先生って言ってくれるのだけれどね。そう言ってくれるのはうれしいのだけれど、でも、わたし、決してやさしくなんかないのよ。
 たとえば、
 『こういうのは二番じゃダメ。一番でなきゃ意味ないの。一番は自分がやろうと思ってやるのだけれど、二番はマネしているだけでしょ。』
なんて言うしね。けっこうきびしいことも言っている。だから不思議なのよね。」

 そう。日頃、そんなたぐいのきびしい言葉を、わたしも聞くことがある。

 そうしたら、このときは道徳の校内授業研究をやっていたのだけれど、講師の先生がおっしゃった。

「それはね。こういうことだと思いますよ。ほんとうは心の温かい先生って言いたいのだと思う。でもね。陽気の暖かさとは違って、心の温かさっていうのは、子どもにとって抽象的すぎてむずかしい。だから、なかなか言葉にはならない。それでね、《やさしい》という言葉に置き換えているのだと思いますよ。」

 これはもう、日ごろのA先生と接しているわたしには、ストンと胸に落ちるものがあった。そうだ。その通り。A先生はほんとうに心の温かな先生だ。子どもを包み込むようだ。きびしい言葉もあるけれど、決してそれだけではない。励まし。称賛。喜びなど。そして、子どもの心を打ち、子どもをその気にさせることができる。

 そして思い出したことがある。A先生のそれは、子どもに対してだけではなかった。若い先生に対しても同様だった。

 悩んだり、努力が報われなかったりする先生には、ともに悩んだり、助け舟を出してくれたりした。しかし、問題があるのにその問題性を感じていないような先生にはきびしい言葉が向けられた。

 たとえば、

 初任の先生で、よく泣く先生がいた。Cさんだ。子どもの前でも泣くことがあった。それを見ていたA先生。ある日、
「そんなに泣くものではないの。安っぽい涙はダメ。どうせ流すなら、もっと高級な涙を流しなさい。」
 泣いている先生を叱るのだから、これはすごい。まわりも驚いた。

 でも、言われたCさんもえらかった。しっかり自分を自覚したようだ。

 そうか。今、気づいた。

《この先生は大丈夫。伸びる。》そう思える先生だからこそ、《何やっているの》といった調子で叱るのではなかったか。

 その証拠と言っては何だが、わたしが転勤し、もうめったに会えなくなってしまって数年後、ある学校の研究会でCさんと同席することがあった。互いに旧交を温め合った。そして驚くことに、もう初任のときとは別人か思うほど、立派な意見を堂々と述べていた。よく泣く先生の片りんもなく、自信にあふれていた。そして、さらにその後、地域の研究会をしょって立つ存在になった。

 そんなこんなで、わたしが学んだことは、

 10人10色。同じことをしたって、子どもそれぞれ、動機も結果もみんな違う。その子を取り巻く環境も違う。そうしたもろもろの把握に努め、どの子にも寄り添う。手とり足とりを必要とする子なら、手を取り足を取り寄り添う。叱咤激励で伸びる子には、そのようにする。そして伸びたときは、喜んだり感動したりといった寄り添い方をする。

 このようなことを書くと、《えこひいき》という陰口が聞こえてくるかな。

 でも、そんなのを恐れることはない。担任がそれぞれの寄り添い方で寄り添っていれば、それは子どもにも伝わる。伝われば、10人10色を実践する子もでてくる。そうしたらその観点でその子をうんと認めてやればいい。ほめてやればいい。どの子も違った観点で認めほめるのだ。そうすれば、えこひいきなどと子どもが言うことはない。

 もう一つ。わたしはどうも理屈っぽいようだ。どうだろう。読者の皆さんも、《同感》かな。

 若いときは、子どもをほめたいからと言って、「うれしいなあ。」「よかったよ。」「そんなことしてもらって、うれしかったでしょう。」など、思っていても歯が浮くようで言えなかった。子どもの感性にはたらきかけるような言葉かけが苦手だった。

 でも、A先生とふれ合っているうちに、そういう言葉かけが自然とできるようになった。表情も豊かになったのではないかな。テレもせず。歯が浮くこともなくなった。

 そして、そして、ある日気づいた。クラスに一人とはいえ、毎回苦手な子をつくってしまったわたしが・・・、
「ああ。今、クラスに苦手な子はいないな。どの子ともいい関係を築けている。今のクラスのDさんなど、むかしなら苦手にしてしまっていただろうな。」
そう思ったら、目頭が熱くなった。

 A先生が子どもについて持っている情報は、家庭環境も含め実にくわしかった。我がクラスの子どもの3分の1はA先生が前担任だったから、Bさん以外もいろいろ情報を仕入れさせてもらった。それを通して、児童理解の仕方について、学ぶことができた。

 このくわしいということに関しても、おもしろいエピソードがある。

 このころ・・・昭和50年代だが、ときは高度経済成長の真っただ中。教員のなかにも車通勤するものが増えた。

A先生が言う。
「あれはもったいないわね。通勤の途上というのは、駅までの道で保護者に会うこともあるでしょう。そうすると、どうしても立ち止まって話し込むようになるわね。それが児童理解にすごく役立つの。車だと、そういう機会がまったくなくなるわ。サッと素通りして行っちゃう。」

 そういえば、A先生のそうした姿は、退勤の道でよく見かけた。わたしは出会ってもあいさつ程度ですれ違うことが多かったから、よくA先生を追い抜いて行った。

 でも、この話をうかがってからは、なんか話したそうな保護者に対しては立ち止まって話を聞くように努めた。A先生のように30分も40分もとはいかなかったけれどね。

 A先生は、おもしろいことも言ってくれた。

 A先生と学年を組むようになって3年目のことだ。校長はわたしに学年主任をという。
「ええっ。A先生がいるのに。」
「いいんだよ。もう、toshiさんも主任の務めを果たしていい年になった。いや、遅すぎるくらいだ。A先生にご指導をいただきながら、がんばりなさい。」

 そして、A先生はわたしの学年主任を喜び、愛情たっぷりに指導して下さった。その愛情の一つ。
「はい。学年主任さん。ここにはんこうをおしなさい。」
「おお。こわ。まるで、院政を敷かれた天皇のようだな。」
職員室にいた一同。大笑いだ。

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 このA先生は、生涯、ヒラを貫きとおしました。

 わたしは、あるとき、《こんな指導力のある先生は、ぜひ管理職になってほしい。いや。なるだろう。きっとすばらしい力を発揮するに違いない》と思い、そんな期待を話したことがありました。すると、
「わたしはヒラのままでいいの。子どもと過ごすのは楽しいし、子どもはどんどん変容するしね。仕事のし甲斐があるわ。
 大人はダメ。大人を変えるのは大変。」

 でも、わたしが昇任したときは、我が事のように喜んでくださいました。そして、管理職の資質について、持論を語って下さいました。

 繰り返しになりますが、謹んでご冥福をお祈りします。

 今年、教え子の訃報もありました。分かる限り、これで3人目。ただ、今回はラインでつながっているからでしょう。葬儀にかけ付けることができました。奥様とは初対面。教え子の少年時代の想い出を話すことができました。

 教え子の訃報。悲しいものです。


rve83253 at 04:00|PermalinkComments(6)TrackBack(0)学級経営 | 児童観

2016年10月16日

《コクリコ坂から》の社会科的考察(2)

image 初めにお断りさせていただきます。本記事も《コクリコ坂から》の映画をとり上げて書き進めるので前記事の続きとしましたが、小学校社会科とはあまりかかわりなく、むしろ大人の社会科といった内容になっています。

 また、バナーの下では、我が高校生活を簡単にふり返ってみたいと思います。わたしも男女共学の学校でした。

 それでは、本論に入るが、

 前記事では、映画に登場するむかしの道具について、一番印象に残るものをぬかしてしまった。

 それは、謄写(とうしゃ)版、あるいはガリ版と言われるものだ。そこで本記事では、学校現場に見られる印刷の変遷を追ってみたい。ほんとうに、驚くほどの変化を見せている。

 《コクリコ坂から》に描かれる、やすり版の上にろう原紙を置いて、鉄筆でガリガリ音をたてながら字を書く姿。また、書き終えたろう原紙を謄写印刷といわれる簡易的な印刷機に貼り付け、一枚一枚インクの付いたローラーで刷っていく姿。
 
 こんなのは、いくら文字で説明しても、子どもはもちろん、若い人だってなかなか分かってもらえないだろうな。その点、同映画を見れば、具体的に理解してもらえると思う。

 それにしても、なつかしい。わたしの子ども時代は、まさにこれだった。教員だけでなく子どもも、係活動などではよく使ったものだ。

 そう。思い出したことがある。わたしたち、A小学校の新聞部(今なら委員会活動だが)が作成した児童新聞。これを横浜国大文化祭の催しである学校新聞コンクールに応募したら、見事2位となり銀賞をいただいた。先生と二人で鎌倉まで行き、表彰式に参加した。そう。当時の国大学芸学部は鎌倉にあった。

 わたしが教職に就いたのは昭和45年。このときは、原紙と鉄筆は変わらないものの、ローラーでの手刷りの時代は去り、輪転機による自動印刷となっていた。手作業でないから、ずいぶん楽になったとうれしくなった。

 それでも、印刷し終わっての片付けは、原紙を手ではがし、インクがベットリ付いたのを不要な紙で包み込むようにして捨てるので、やはり手をよごすことはあった。

 また、当時は多くの学校で児童数、千人を超えていたから大量に印刷することが多く、そのため途中で罫線が破れ、インクがにじみ出てしまうこともあった。

 今、50代となっている教え子の同窓会では、このころの学級だよりがよく話題となる。

「toshi先生は確か、毎週出してくれていましたよね。」
「あれ、ろう原紙と鉄筆で書かれたのでしょう。ガリガリやるから大変だったのではないですか。よくあんなに書いてくださいましたよね。」

 その学級だよりをBさんのお母さんがとってくれていて、Bさんは数年前、そのファイルを同窓会の場で披露してくれた。
「『お嫁入りのとき、持っていきなさい。』ってお母さんが言ってくれたので、今もわたしの手元にあるのです。」

日々子どもの話題ばかり載せていたから、それをネタに思い出話に花が咲いた。

 話を戻し、その後昭和50年代になって、ろう原紙と鉄筆の時代も去った。ボールペンでコピー用紙に書き、それを円盤状の物に巻き付け、同じくその右側に感熱原紙を巻き付ける。その円盤が高速で回転する。一方で読み取りをし、もう一方で焼き付けるのだった。これ、ファクス製版機というのだね。

 この焼き付けは時間がかかった。たぶん5分以上かかったのではないか。

 また、どこまで正しいか自信はないのだが、このころまで、ボールペンや万年筆は青で書くのがふつうだった。それが、青では感熱せず文字が写らないので、以後、黒で書くのが主流になったのだ…と思う。

 でも、技術革新がめざましく、いずれも短期間のうちに新しい印刷法がどんどん登場していった。

 和文タイプライターにこった時期もあった。しかし、これは、扱いにくくすぐやめてしまった。

・文字をさがすのが大変。
・打つ力を加減しないと、濃くなったり薄くなったりした。平仮名はやさしく、漢字は強く打って濃さがそろう感じだった。でも、それはむずかしかった。強すぎてよく穴をあけたっけ。
・一度ひっくり返して活字が全部床に落ちてしまった。戻すのに何日もかかった。

 すぐワープロの時代となった。昭和末期だね。ブラインドタッチできるようになりたいと、夏休み中練習に明け暮れたのもなつかしい。

 ブラインドタッチの練習と文書作成とはしっかり区別した。文書作成は考え考えやるから、ブラインドタッチの練習にはならない。練習は新聞記事とか小説とか、見て打てばいいものに限定した。タイプライターにくらべ、すごく楽になったという思いもあって、習得は早かった。

 このころ、保護者からよく言われたのは、

「toshi先生。学級だより、いつも楽しみにしていますし、ありがたいのですが、前のように先生の手書きでお願いできませんか。その方が先生の温かみというか、先生のお心が感じられて、いいなあと思うのです。」
「ワープロだと、なんか、冷たい感じがしてしまうのですよね。」

 それでこのクラスを受け持っている間は、手書きに戻した。

 新たなクラスでは、もうそういう声はなく、ワープロ使用に専念できるようになった。

 するとこまる事態も起きた。手で書く習慣がなくなったからだ。当時はまだ、通信票など、手書きの時代だった。それで、ペンを握る手がすぐ疲れてしまうのだった。数人書いては休み、数人書いては休みとなった。

 わたしは、管理職のころ、パソコンを始めるつもりはなかった。それはくだらない理由だった。当時のパソコンのキーボードは数字とアルファベットのみで、日本語の文字はほとんどなかったのだ。とっつきにくい感じがして嫌だった。それに、このころの仕事は文書作成のみだったから、ワープロで十分だった。

 そんなときだ。ワープロはもう生産せずという声が聞こえてきた。びっくりした。でも、『いいや。どうせすぐ退職だもの。』

 そうしたら、何と退職数か月前にワープロがこわれてしまった。画面が暗くなったのだ。《ああ。なんということだ。》それでやむを得ず、学校のパソコンに手を出すようになった。

 当時はまだ数台あるだけ。だから、空くのを待つことが多かった。休日なら待つ必要がないから、休日出勤が当たり前になった。

 退職してからも、初任者指導という形で学校に勤めることになった。それと機を一にして、パソコンの便利さを実感するようになった。なるほど、これならワープロはなくなるわけだ。そう思った。パソコン教室に通い、ブログを開設するまでにそう時間はかからなかった。

 それにしても印刷は便利になったものだ。隔世の感がある。

 とは言っても、初任者指導の仕事って、自分が印刷機の前に立つことってまったくといっていいほどないのだよね。4年前、久しぶりに学級担任となって、ほんとう、何年かぶりに印刷機のお世話になった。

 その便利さだが・・・、パソコンで一枚印刷すれば、印刷機は製版、印刷、それに後始末まで、全部自動的にやってくれる。それに、一度に何枚も紙が出てしまうことはない。最後の一枚まできちんと印刷してくれる。インクで手をよごすこともまずない。

 あとは写真だね。小学校社会科は、具体的映像として、写真の資料は欠かせないもの。

 昭和50年代。夜、宿直室を暗室に見たて、よく写真を焼いたっけ。それでも、四つ切サイズ、白黒の写真しかやれなかった。

 今は、朝、《ああ。あの写真がほしい。》そう思ったら、出勤途上、寄り道して撮影。そのまま、SDカードを教室の大きなテレビに差し込み、カラー写真が資料として使える。

 ほんとうに、夢のようだ。

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 前記事でもふれましたが、わたしの高校生活は、《コクリコ坂から》の1年前まででした。そこで、我が高校生活とくらべてみましたが、あの映画の高校は、私立の設定でしょう。わたしは公立高校でしたので、あんな上品ではありませんでした。

 それに、あの映画の高校生は実行力がありますね。東京まで、理事長に会いに行くのですからね。すごいと思いました。それにくらべれば、わたしなど、幼いものでした。

 ただ、我が校も共学でしたので、あちらこちらにカップルができました。あるとき、屋上に上がると、二人で仲良くしんみりと語り合っている光景に出会いました。それは親友でしたので、逃げるようにして階下へ降りてしまいました。わたし自身は、ふざけ合った思い出しかありません。

 一回あこがれの女生徒が、何の前ぶれもなく、わたしの向かいにすわり話しかけてきました。たぶん係か何かの用事だったと思います。不意だったものですからボオッとしてしまい、しどろもどろになってしまいました。

 運動会では、〇学年になると、女生徒全員が浴衣姿で民謡をおどりました。それは、それは、まぶしくて、しかし、そのあこがれの女生徒ばかり見ていました。

 数年前の同窓会では、なんとその方が隣りの席になりました。もう、ボオッとはしませんでしたよ。白髪の、しかし、気品ある、やはり魅力的な女性でした。

 戦後、時代は民主主義となり、共学校では、フォークダンスがはやりました。手をつなぐだけでも恥ずかしく、つながなかったり指と指とをふれ合わせるだけだったりの光景もたくさんありました。わたしもそうでしたね。

 女生徒はみんな平然として、そんな男子に合わせているといった感じでした。

 今の高校生は、まずそんなこと、ないでしょうね。

 登校風景に移ります。あの映画ではどの生徒もちゃんと靴をはいていましたね。でもわたしは、歩いて通えたということもあり、げたで登校しました。近くの者同士誘い合って登校しましたが、みんな同じだったと思います。

 昇降口の靴を入れるところは、ほんとうなら靴箱でしょう。でも、わたしは今でもげた箱と言ってしまいます。それでもちゃんと通用するのですから、おもしろい。

 あの映画で重要な位置を占める学生運動は我が校ではありませんでした。でも、それとはちょっと違いますが、応援団などが一般生徒に練習を強制することはありました。わたしたち一部の生徒はそれが嫌で、生け垣にできた抜け穴からよく逃げたものでした。

 高校野球の県予選では、強くもないのに、学校が全校応援を決めたことがありました。我が校はすごい人数の応援となりましたが、相手校はわずかな応援。でも、試合は完敗。
「みっともないなあ。」「恥ずかしいなあ。」
友達とささやき合いました。

 勉強は、ちょっとかたよっていました。

 あるとき、父が面談に行きました。帰ってきて何ともいえない複雑な表情。
「toshiは、学年でトップとビリと両方あったよ。」
 地理がトップ、漢文がビリだったのでした。

 まあ、やりたいようにやっていた高校生活だったようです。

 最後はちょっとまじめな話。

 あの映画の、最高に盛り上がった場面。女生徒うみさんの
「わたしが毎日旗を上げてお父さんを呼んでいたから、お父さんが自分の代わりに風間さんを送ってくれたんだと思うことにしたの。」
は、単なる愛の告白ではないですね。

 戦後、平和になり、戦争を放棄した日本。それなのに、朝鮮戦争における日本人の戦死。

 しかも、それは、日本の歴史の中でかくされています。

 その理不尽さから受けるせつなさ。悲しさ。怒り。

 そんなものも感じました。

 ああ、これは、前記事に書くべきでしたね。すみません。

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