2016年06月24日

オバマ演説から、かつての道徳の授業を思う(再改訂版) 〜母さんの歌全文掲載〜

kasannouta 広島におけるオバマ米大統領の演説は、我ら日本人にとっても心温まる想いを残したのではないか。アメリカ、日本を超え、人類の重い課題で一貫させたからだろう。それは被爆者の想いとも一致していたと思う。

 特に心に残ったのは、
 きょう、この町の子どもたちは平和な日々を過ごすことができます。
それはなんと尊いことでしょうか。それは、守り、すべての子どもたちに広げていくべきことです。それは、私たちが選択しうる未来です。

のくだりだった。

 戦争末期に生まれたわたしは、戦争そのものの記憶はない。しかしながら、幼少期、両親から戦争にまつわる話はいっぱい聞いた。両親にとっては、ついこの前のおぞましい記憶だったに違いない。

 また、戦後初期の貧しい生活の中で、さらには、横浜という、連合軍占領下、多くの米兵が身近にいた中で育った記憶には鮮明なものがある。

 戦いこそなかったものの、決して平和な日々でもなかった。だから、オバマ演説の、《平和な日々の何と尊いことか》はよく分かるつもりだ。それゆえ、今もなお、恐怖と貧しさの中にいる世界の子どもたちには、そうした生活から逃れられる日々が一刻も早くやってくることを願わずにはいられない。大人ががんばらないといけない点だろう。

 もう一つ。このくだりが心に残ったのは、かつての道徳副読本の教材文が想起されたからだった。本記事では、その教材文《母さんの歌》をとり上げたいと思う。そして、同文をとり上げた授業での子どもの発言は、最後にふれさせていただこう。

 なおこのたび、副読本出版社、作者、さらには挿絵画家の方々から、利用許諾をいただくことができました。そのおかげで、この再改訂版を出すことができます。厚くお礼申し上げます。

 出版社 光村図書出版株式会社
 副読本 道徳 4年 きみが いちばん ひかるとき
 作  大野允子氏
 絵  早乙女道春氏

 
  母さんの歌

 sashie4『くすのき町』は、バスの終点です。
 道のほとりに、大きなくすのきが立っていました。
終バスが着いて、まばらな人かげが路地に消えると、
くすのきの辺りは、ひっそりします。
 細い月の出た夜でした。
 くすのきの頭が、空の中でゆれていました。
「おや、聞こえるぞ。」
 くすのきは、足元で、小さな歌声を聞いたのです。
「母さんが歌ってる。やさしい、声だなあ。」
 くすのきはうっとりしました。
「・・・・・・幸せな、親子だな。」
 手をつないだ親子が、歌いながら、
くすのきのそばを通っていきました。
「いいな、いいな、母さんの歌は・・・・・・・。」
 くすのきは、また、あの夜のことを思い出したのです。
「かわいそうな、とってもかわいそうな、親子だったよ。」sasie2
 夜空が真っ赤にそまって、広島の町が、焼けていった夜のことです。
「ずうっと、遠い、昔のことのようだ・・・・・・。いやいや、なんだか、きのうのことのようだ・・・・・・。」
 くすのきは、町が焼けていくのを見ました。人の死んでいくのも見ました。
「おそろしいばくだんだった。あんなの、初めて、見たんだ。ここの道を、みんな、にげていったな。
 足元へたおれて、もう、動けない人もいた・・・・・・。」
 暑い夏の日でしたが、くすのきの周りには、ひいやりしたかげがあったのです。日がくれると、広げたえだのしげった葉が、夜つゆの落ちるのをささえました。太いみきによっかかって、ねむる人もありました。土の上に転がって、ねむった人もありました。
 くすのきのにおいが、かすかに、ただよっておりました。
「・・・・・・みんな、やけどをしていた。にげようにも、もう、動けなかったんだ。ものを言う力も、ないようだったな。」
 町を焼く火が、くすのきの頭を、赤々と照らしていました。
「だいじょうぶだ。こんな町外れまで、火事は広がってきやしない。安心して、おやすみ。」
 くすのきは、足元でねむっている人たちを、自分が、守ってあげなければならない、というような、気持ちでした。
「おや。聞こえる。」sashie3
 くすのきは、足元で、小さな歌声を聞いたのです。やさしい子守歌です。ぼうやをだいて歌っているのは、おさげのかみの女学生でした。母さんの名を、よび続けるぼうやを、ほっておけなかったのです。
「かあ、ちゃん。」
「はいよ。」
「か、あ、ちゃ・・・・・・。」
 声が、だんだん、弱っていきます。まいごのぼうやは、顔じゅうひどいやけどで、目も見えないようでした。
「母ちゃんよ。ここに、母ちゃんが、いるよっ。」
 女学生は、ぼうやを、しっかりとだきました。女学生の心は、母さんの心になりました。母さんのむねに顔をうめて、ぼうやは、もう、なんにも言えないのです。母さんは、くすのきによりかかって、ぼうやをだいて、子守歌を歌い続けました。
「いい歌だ。歌っておやり。ずうっと、ずうっと、声の続くかぎり、歌っておやり。小さな、やさしい母さん。」
 くすのきは、むねがつまりました。でも、うれしかったのです。
「・・・・・・。ぼうや、よかったな。母さんに、だかれて・・・・・・いいな。」
言いながら、くすのきは、体をふるわせていました。
「かわいそうな、小さな親子・・・・・・。」
 やがて、朝が来て、日の光が、小さな親子のほおを、金色に照らしました。 sashie1
「まるで、生きてるようだったよ、二人とも・・・・・・。」
 子守歌を聞きながら、ぼうやは、死んだのです。ぼうやをだいたまま、くすのきによりかかったまま、小さな母さんも死んでいました。
「・・・・・・目をつむると、今でも、あの歌が、聞こえてくるようだ。」
くすのきのひとり言が、夜空を流れていきました。




 悲しい、悲しい、話ですね。でも、その中に見えてくる、人の心の美しさ。極限の中での温かさ。敬虔。
 
 大野さんの著作にふれて、確認することができた。この教材文に《広島》という名前は登場するが、《戦争》とか、《原爆》とかはない。また、4年生の教材であることを考えると・・・、爆弾とあるから、戦争中の話であることは分かるだろうが、原爆は分からないかもしれない。

 その分、ただただ、《人の心の美しさ》に焦点を定めているように思われる。
 
 でも、わたしにとっては・・・、、わたしの心を強く打つのは・・・、何度も書くようでまことに申し訳ないし、また冒頭でも少しふれているが・・・・・・、この原爆投下時、わたしは生後7か月だったということ。

 ということは、この話に登場する坊やはわたしより数年年長なだけだ。女学生にしても、生存していれば80代後半となろうか。どちらにしても、現在、お元気に活躍してていいはずの方々である。それが、幼いうちに命を奪われてしまう。
 もう・・・、涙なしでは読めないのだ。

 ところが・・・、子どもは違う。

 4年生の子どもは、少なからず、はるかむかしの、遠い、遠いできごとと思っている。今一つ、時代感覚はピンとこないようだ。

 わたしがこのお話を読むとき、ふいに声をつまらせると、子どもはハッとしたような表情を見せながら、《先生、どうしたのだろう》と、怪訝そうにわたしを見る。だから、授業も終末に近づいたころ、
「このお話のとき、わたしは赤ちゃんだったのだよ。・・・ということは、この坊やは・・・、」
と言うと、びっくりしたような様子を見せる。
「ええっ。toshi先生。このとき、生きてたの。」
と口に出す子もいる。ここで、初めて、わたしと思いを共有した感じになる。

 
 
 最後に、《母さんの歌》をとり上げての授業にふれてみたい。記憶に残る子どもの発言を書かせていただきたい・・・といったところだったが・・・、大野さんの作品にふれることができて、あらたに思い出したことがある。

 わたしは、校長時代、毎年、卒業が近づくと、6年生を対象にしての卒業記念授業を行った。それはすべて道徳だった。そして、ある年、この、《母さんの歌》をとり上げたことがあったのだ。この教材は4年生とされているが、すでに歴史を学習している6年生なら、さらに深いところで、《人の心の美しさ》を感じ取れるのではないか。そう思ってとり上げた。

 そして、さらに思い出した。《確かこの授業は担任が記録をとってくれたはずだ。》
 それで、必死になってさがした。なんとあったではないか。見つけることができた。記憶にたよる必要はなくなった。大野さんの作品や早乙女さんの挿絵を掲載させていただけるとともに、何という幸運。

 それで、この再改訂版は、そちらの授業を掲載させていただくことにした。ただし全文載せたらものすごく長くなってしまう。だから主要な部分だけにさせていただこう。また、子どもの話は同じ言葉を繰り返してまどろっこしかったり意味不明で問い返したりする部分もあるので、読みやすさを考えてtoshiが修正をくわえたこともお許しいただきたい。

 それでは、どうぞ。

「くすのき町は、町はずれでしょう。原爆で被爆した人たちが、大勢逃げてきたからね、くすのきは悲しくなったと思う。」
「そう。もう戦争が終わって50年以上たっているのにね。今、ほんとうの親が歌っているのを聞いて、昨日のことのように戦争中のことを思い出してしまうのだから、くすのきにとってもつらい経験だ。」
「足元でねむっている人たちを、自分が守ってあげなければならないというような気持ちって書いてあるでしょう。これもつらかったからこそ、忘れられないでいるのだと思う。悲しい。」
「でも、くすのきは胸がつまりながらも、うれしかったって書いてある。うれしい気持ちもあった。」
「それはそうだけれど、大勢の人がなくなっていくのだから、それはやっぱりものすごくつらくて悲しい。そんななかだからこそ、やさしい女学生がお母さんになってあげたことは、うれしかったっていうこと。だからちょっとうれしいくらい。」
「なくなる直前におさげがみの女学生が幼い子のお母さんになってあげたのだから、それはやっぱりくすのきにとっても忘れられないほどつらかったと思う。」
「女学生もここまで一人で逃げて来たのだと思うの。逃げながらたくさんの人がなくなっていくのを見たでしょう。そうしたら、この坊やも自分も助からないのだから、どうせ助からないのなら、お母さんを呼んでいるこの坊やのお母さんになってやりたい。そうしたら坊やは安心して・・・・・・天国へ行けるのではないか。そう思ったのではないか。とってもやさしい。」
「賛成で、さらにつけたすと、くすのきもやさしいんだと思う。だって、たくさんのやけどをした人を守ろうとしているでしょう。守ろうといったって、休ませてあげることくらいしかできないんだけどね。それに、おさげ髪の女学生が坊やに歌を歌ってあげているとき、励ましてあげているから、やさしい。」
「くすのきに励まされたし、守ってくれたから、女学生も少しうれしくなったと思う。それにやっぱり独りぼっちだったのだから、坊やのお母さんになれたっていうことは、女学生にとってもうれしいことだったのではないか。だから女学生も天国へ行けたと思う。」
「賛成で、初め女学生は、お母さんになってあげようという思いだったけれど、母さんの心になりましたって書いてあるから、お母さんになり切ったという感じ。そうなれたのは、やっぱりうれしかったのではないか。」
「わたし、今、思ったのだけれど、このくすのきも、お母さんの心をもっていると思う。もう動けなくなった人を幹によっかからせてあげているし、いい匂いで包んであげているし、守ってあげなければいけないとも思っているしね。・・・。それに、坊やには、《よかったな。母さんに、だかれて》って言って、女学生にも、《坊やに歌っておやり。小さな、やさしい母さん。》って声をかけて励ましてやっているしね。・・・。ほんとうにやさしいし、お母さんの心になっている。」
「避難してきた人、みんなの、お母さんだ。」
〜。
「戦争がなく、平和なときでも、この女学生のような、そしてくすのきのような、やさしい心を大切にしたい。」
「中学生になっても、この話を忘れないようにしたい。そして、お母さんの心までは無理だと思うけれど、やさしい心は忘れないようにしたい。」
「くすのきは木だから、50年後もお母さんの心を持ち続けているけれど、わたしは人間だから、50年持ち続けられるかどうかは分からない。だけど、このお話を小学校生活の最後にみんなと一緒に学んだことは忘れないようにしたい。」
「いつだったか、校長先生の話を聞いた時があったでしょう。戦争は憎しみの心から生まれるのだけれど、このようにお母さんの心こそ、大切にしなければいけないのだと思いました。お母さんの心は平和につながっていると思いました。」


 記録にはないが、またまた思い出したことがある。

 授業終了後一人の子がわたしのところへ来た。確かこの子は授業中発言しなかったのだと思うが・・・、
「校長先生。卒業記念の授業、ありがとうございました。わたしも、この授業のことは忘れないようにしたいです。
 それで、授業の中でわたし、発言したいと思ったことがあったんです。それは、坊やは目が見えなくなってしまったけれど、ほんとうのお母さんでないことは、声を聞いて分かったのではないかって思ったのです。
 でも、もう一度読んだら、声も出せないくらい弱々しくなってしまったし・・・、女学生に抱かれて安心したようだし、それは違うなと思いました。
 それにみんなの言っていることがすごかったから、わたし、そんなこと、どうでもよくなってしまって、最後は、お母さんの心、お母さんの心って、心の中で言っていました。」

「うわあ。そうか。それはうれしい。よく言ってくれたね。・・・。でも、ちょっと残念な気もするよ。今、わたしに言ったように、その言葉をそのまま発言してくれればよかったな。」

 《そうか。》といったように、ハッとした表情を見せて、ちょっと笑みをもらしてくれた。

 そう。授業中における変容。それも友達の意見を聞いての変容だ。心が深まっていく。心が柔軟になっていく。鍛えられていく。どれも、大事だね。

 そして、その輪を広げていくのだ。これも、平和につながる・・・・・・だろう。


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 ninki
 

kodomo わたしの問いかけに応えて、すぐコメントをくださった大澤さん。

 ほんとうにありがとうございました。この記事は、すべて大澤さんのおかげです。大澤さんのおかげでいろいろなことを思い出せて、書くことができました。

 大澤さんは、ポプラ社発行の絵本も購入したいとおっしゃる。わたしも購入したくなりました。

 戦後71年。・・・・・・・。ああ、この言い方は・・・、いつも思うのだけれど、これはわたしの年齢と一緒なのです。
 その年に、米大統領が広島を訪れました。そして、被爆者の一人と抱き合っている写真を目にしました。双方の表情を見て・・・、ここでもまた、《お母さんの心》を思い浮かべました。

rve83253 at 06:00|PermalinkComments(1)TrackBack(0)道徳指導 | エッセイ

2016年05月31日

オバマ演説から、かつての道徳の授業を思う

nawatobi  初めにお断りしたいことがあります。

 本記事は、最初に入稿した記事の改訂版になります。改訂前は、ある道徳副読本に掲載された教材文のあらすじを載せていました。しかし、そのあらすじというものは、わたしがその教材文のタイトルや出版社を忘れてしまったため、わたしの記憶によるものでした。

 そして、末尾で、《どなたか、この教材文のタイトルや出版社をご存知の方がいらっしゃいましたら、コメントを入れていただけないでしょうか。》とお願いしたところ、大澤さんがコメントを送ってくださり、判明しました。まことにありがとうございました。

 判明しましたので、原文を読むことができました。そうしますと、若干の記憶違いがあることが分かりました。そこで、わたしの記憶によるあらすじは、削除させていただくことにしました。あしからずご了承ください。

 それでは、改訂版ですが、よろしかったらどうぞ、ご覧ください。


 
 広島におけるオバマ米大統領の演説は、我ら日本人にとっても心温まる想いを残したのではないか。アメリカ、日本を超え、人類の重い課題で一貫させたからだろう。それは被爆者の想いとも一致していたと思う。

 特に心に残ったのは、
 きょう、この町の子どもたちは平和な日々を過ごすことができます。
それはなんと尊いことでしょうか。それは、守り、すべての子どもたちに広げていくべきことです。それは、私たちが選択しうる未来です。

のくだりだった。

 戦争末期に生まれたわたしは、戦争そのものの記憶はない。しかしながら、幼少期、両親から戦争にまつわる話はいっぱい聞いた。両親にとっては、ついこの前のおぞましい記憶だったに違いない。

 また、戦後初期の極貧生活の中で、さらには、横浜という、連合軍占領下、米兵が身近にいた中で育った記憶には鮮明なものがある。

 戦いこそなかったものの、決して平和な日々でもなかった。だから、オバマ演説の、《平和な日々の何と尊いことか》はよく分かるつもりだ。それゆえ、今もなお、恐怖と貧しさの中にいる世界の子どもたちには、そうした生活から逃れられる日々が一刻も早くやってくることを願わずにはいられない。大人ががんばらないといけない点だろう。

 もう一つ。このくだりが心に残ったのは、かつての道徳副読本の教材文が想起されたからだった。それは、広島への原爆投下後の悲惨な光景を見ていた、ある老木の述懐を中心としたお話だった。前述のように、そのあらすじは削除させていただいたが、わたしの記憶による、授業における子どもの発言は、引き続き紹介させていただきたいと思う。

 なお、原文にふれることができ、若干の記憶違いが判明したため、修正をくわえていることをご了承いただきたい。 

「女学生だから、今のわたしたちよりちょっと上くらいの歳だと思うけど、まだ子どもであることは間違いないでしょう。それなのに、お母さんになってあげた。すごい。」
「幼い子がかわいそうだと思ったから。」
「もうほんとうのお母さんにはめぐり合えないだろうと思ったから、お母さんの代わりになってあげた。」
「天国でほんとうのお母さんに会えたのではないか。」
「天国なら、子どものお母さんがほんとうのお母さんになったかもしれない。」
「お母さんが二人になったのかな。」
「でも、天国でしか幸せになれないなんてかわいそう。」
「老木は涙を流している。老木にとってもつらい悲しい記憶なのだ。」
「でも、幼い女の子がお母さんになってあげたことで、老木はうれしかっただろう。うれしかったのですとも書いてあるしね。でも、悲しい中でちょっとうれしいくらい。」
「今の方は、完全にうれしい。ほんとうのお母さんが幼い子に歌を歌ってあげているのは、わたしたちから見ればふつうのことだけれど、戦争中の悲しい出来事を知っている老木がそれを見るのは、決してふつうではない。幸せだし、大事だし、ずっとこうでなければいけないと思っている。」

 何やら、この授業の記憶がこのたびのオバマ演説と重なってきた。

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 ninki
 

 平和記念資料館(原爆資料館)は、かつてわたしも二度ほど訪れたことがあります。そして、記事にも書かせていただきました。
 《平和を祈る》です。よろしければご覧ください。

 記事でも少しふれましたが、わたしはこの原爆投下時、生後7か月の赤ん坊でした。ですから、戦争にふれた記事を書くとき、いつもこの運命はわたし自身の運命でもありえたのだと思います。

 平和を願い、守り続ける気持ちは、永遠に持ち続けなければいけないと・・・、オバマ演説を聞いて、またまた思いを深くしました。

rve83253 at 05:27|PermalinkComments(2)TrackBack(0)道徳指導 | エッセイ

2016年04月19日

被災地に思いを寄せて、(2)

IMAG5671 前記事の続きです。


「よく質問される。」
と伯母に言ったら、
「そうなの。情報が全然入らないのよ。わたしたちだって、どこに給水所があるのか、初めは知らなかったのだもの。黙っていたら生活できないの。どんどん聞かないと。」

 伯母はこの日まで、自分が生活している地域のことしか分からなかった。ひどい地震だと分かってはいても、それがどのくらいの範囲に及んでいるのかは分かっていなかった。この日、急きょ大阪に行くことになるが、大阪でテレビを見て、初めて震災の全体像が分かったのだった。

 水運びを終えて食事。新横浜駅で買った駅弁をみんなで分けた。後はおにぎりとインスタント味噌汁。段ボールのテーブルだが、みんなで分け合う食事はおいしかった。

 食事をしながら、わたしはきょう一日、一番感銘を受けたことを話題にした。
「こんな目にあいながら、神戸の人はみんな明るくて親切ですね。びっくりしています。」
「そうなの。神戸の人って、こんなにいい人ばかりだったかなと思うくらい、ほんとうにやさしい。わずかな食物でも分け合うし、きちんと並んで何時間でも待っているしね。
 こういうことがあると、はっきり人間の本性が出てくるわ。気持ちのいい人はほんとうにさわやかな顔をしている。
 でも、その反対もあるわよ。決してないわけじゃない。」
 困難な事態に直面すると、心の余裕がなくなってしまうこともあるのだろう。
「みんなで協力し合っているわ。こういうときは一人じゃ何もできない。それを感じているから協力し合えるのね。」

 伯母はその具体例として、地震当日のことを話してくれた。

 地震が起きたとき、祖母と伯母は家財の山に押しつぶされた。真っ暗な中、伯母はやっとの思いではい出し、祖母のところへ転がり込んだ。家財の山をどけてやり、一緒に外へ出た。マンションへ行ったが、一帯は避難命令が出て中へ入れない。

「D小学校へ避難してください。」
そういう指示があった。伯母のマンションから50メートルくらいのところ。地震当日はこうして避難所生活となった。

 夕方になって、長田区の叔母が車で駆け付けた。祖母はその車の中で夜を明かすことになる。伯母は校庭で、見知らぬ十数人とたき火を囲んで過ごした。

 みんないい人ばかりだった。そのなかの一人が、十数個おにぎりを作って持ってきてくれた。それをみんなで分け合って食べた。この日の食事はもう一つ。誰かが赤ん坊の食べ物をくれた。それもみんなで食べた。でも、空腹は耐えがたかった。

 水をボランティアの人が持ってきてくれた。それをビニル袋に入れてもらう。ほんのわずかの水が大変な貴重品だった。うれしくてうれしくて涙が出た。この日は一晩、校庭で語り尽くして夜を明かしたという。

 この地震一日目。学校に先生の姿はなかった。無理もない。交通はストップしている。電話も不通。

 そんななか、市の呼びかけもあり、学校の承諾もないまま、どんどん学校の施設を使い出した。使われるのは校庭や体育館だけではない。校舎も全部使用された。テレビでも報道していたが、ある学校は一時、1300人が避難していた。

 先生方は、数時間後、あるいは翌日から、避難している人の世話を始めた。それも報道されているように、市民みんなから感謝されている。

 さて、わたしたちが駆け付けた日、それは大阪の親戚が駆け付けたのと同じ日だったが、車に水をいっぱい積んで来てくれた。
「その水を最初、何に使ったと思う。」
「何って、飲み水だろう。」
「違うのよ。もう、今日は、飲み水は我慢できたの。でも、トイレの臭気はとても我慢できなかった。もう不衛生でね。こまっていたの。流すことができなかったのよ。」
 実にありがたい水だった。
「教訓よ。水はとても大事。きれいでなくてもいい。ふだんから浴槽いっぱいに入れておくことね。それがすごく助かる。」

 地震の翌朝、祖母は、これも見知らぬ人からもらった牛乳を飲んだそうだ。伯母は何も口に入れることができなかった。

 わたしも協力や助け合いの場面を何度も見た。一番驚いたのは次の例。

 ものすごい渋滞中、オートバイが転倒した。そして車に接触。傷がついた。しかし、車の運転手は、『いいよ。気にするな。』とばかり、手を振った。その後、何と、その運転手は車から降りて、オートバイを起こす手助けをしてやったのだ。

 食事のあと親族会議が始まる。

 実は横浜出発の前日、我が家でも家族会議があった。父に話す。
「神戸の祖母と伯母に、横浜へ来るよう勧めていいだろう。」
「そうだね。できればそうしてほしい。でも、今すぐは無理なのではないかな。新幹線は混んでいるだろうから、おばあちゃんは連れてこれないだろう。」

 ところがこちらへ来たときの新幹線。予想に反し、7〜8割の乗車率だった。
「こんなにすいているなら、安心して祖母と伯母を連れてこれるね。」
「そうね。2人がそうしたいと言ったらね。」

 その横浜での話し合いを受けて、母が言う。
「大変でしょう。ここはまだ余震が続くし、不安と不自由なことがいっぱいあると思うの。姉さんは大事なものは運び終えたようだし、このまま今日、車で大阪まで連れてってもらおう。そして、明日一緒に横浜に行こう。」
 確かに余震はひどい。食事以後わずかな時間でも、3回あった。

 母の勧めに、伯母は即座に、
「そうしてくれたらうれしい。」
と答えた。考えたうえでの結論といった感じではなかった。『疲れた。もう体も心もズタズタ。早くここを離れたい。』そんな感じで話にのってきた。大阪のおばさん、
「それなら決まったね。善は急げよ。大阪へ行けば、後、横浜へ行くのは簡単だから。」
 祖母は笑みを浮かべ、黙って話し合いの成り行きに身をまかせていた。

 急に決まった。車には5人しか乗れないので、このマンションにはわたしと妻が残ることになった。翌日歩いて帰るつもりだ。

 あわただしく出発準備に入る。持っていくもの置いていくものを仕分けした。
「なんだ。いっぱい横浜から持ってきてもらったのに、無駄になっちゃったな。」
大阪のおじさんが笑った。
「無駄でいいじゃない。おばあちゃん。横浜へ行けば、一安心だね。ほっとするよ。」
「おばあちゃん。お風呂にも入りたいよね。」
 
 もう水を節約する必要はなくなった。さっき運んだからいっぱいある。

 このマンション。実は夕方、避難勧告が出ていた。地震以後、B町地区一帯は地すべり危険地帯。それなのに大雨警報が出たのだ。

 伯母が近所に聞きに行った。そして、たいしたことはなかろうと結論付け、避難はしなかった。でも、わたしたち2人が残ると決めたとたん、不安になったようだ。
「どうする。明日までここにいる。」
「雨は今夜半から降ると言っているし、ひどく降るのは明日みたいだから、地すべりが起こるとしてもそれからだろう。ぼくたちは、明朝ここを出るから、大丈夫だよ。」

 ところがこれは、24日。祖母と伯母が横浜の我が家に来てからの話。
「後で大阪へ行ってから、びっくりしたの。テレビでね。B町地区は避難命令に切り替わったって放送しているじゃない。『E神社へ避難してください。』って言っているんだけれど、toshiちゃんたちは分かるわけないしね。とっても心配だった。わたしたちが逃げて、toshiちゃんたちが犠牲になったらどうしようって、すごく申し訳ない気持ちになったの。」
 
 知らぬが仏。わたしたちはほっとして、2時ごろにはもう安眠をむさぼっていた。もっとも安眠していたのはわたしだけで、妻はなかなか寝つけなかったようだ。

 5人の出発準備は続く。夜もふけた。

 先ほどから心配のタネがあった。真ん前の《Fゼミ》と看板のあるビル。かなり傾斜しているのに、電気がついている。しかも時間によって点灯の部屋が変わる。間違いなく人がいる。何ということだ。はらはらする。避難しないのだろうか。盗難がこわいのかな。それとも仕事があるのかな。無事を祈るばかりだ。

 10時に出発準備完了。大阪のおばさん、
「大阪だって安心できないのよ。わたしのうちはG区だけれど、やっぱり下を活断層が走っているの。今度の地震で、いつ大地震が起きるか分からない。わたしたちもできれば大阪を逃げ出したいのよ。」

 それから一分もたたないうちに、
「じゃあね、toshiさん、名残惜しいねえ。元気でね。」
底抜けに明るい元気な声に戻った。
「これが大阪人や。大阪人の心意気やわ。」
笑顔で別れた。

 マンションは荷物がいっぱい。2人でそれを整理した。たった今別れたばかりの大阪のおばさんの言葉を思い出す。
「いい。この部屋で寝るんよ。この部屋だけタンスなど倒れるものは置いてないからね。他の部屋はダメ。危ない。危ない。」

 ラジオが神戸各所の情報を流していた。
「何だか拍子抜けだな。みんな行っちゃったから、明日の仕事がなくなっちゃったよ。」
妻も笑っていた。11時ごろ就寝。


 翌朝、6時20分。ドアをたたくノックで目が覚めた。長田区の叔母だった。中二になるお孫さんを連れて来てくれた。後で妻が言った。
「あのノックはびっくりしたわ。ついに避難命令が出たのかと思った。だって、夜通しサイレンの音がしてたし、気が気じゃなかったもん。」

 叔母が言う。
「2時ごろ姉から電話があったのよ。今、大阪へ着いたって。それで、toshiちゃん夫婦だけがいるって聞いたのでびっくりしちゃった。
 これから帰るのでしょう。西宮まで送るから、すぐ用意して。」
「そんな。とんでもない。話が逆だよ。ぼくたちは横浜へ帰ったら地震との戦いは終わりだけれど、叔母さんたちはこれからも長い戦いが続くのだ。どうか気にしないでください。歩いて帰れるから。」
「そうしてください。往復で、ものすごい時間がかかるんですから。もしかしたら歩いた方が速いのかもしれないのです。」

 押し問答の末、
「そう。悪いわね。じゃあそうさせてもらうわ。ごめんなさいね。」

 それから地震の話。
 長田区は焼け野原になってしまったけれど、叔母のうちは山の方で大丈夫とのこと。地震があった日。もう母はダメだろうと思いながらかけ付けたこと。横浜へ電話しようとしても、なかなかつながらなかったことなど。

 中二のお嬢さんに聞いた。
「学校は当分始まらないのだろうね。」
「はい。避難所になっているんです。」
「友達はみんな無事なの。」
「ええ。今のところは大丈夫です。でも、分からない友達もいるんです。」
「そうだろな。大変だけれど、がんばってね。」

 慰めにもならない言葉。もっと何か言いたいのだけれど、言葉にならなかった。もどかしかった。でも、このお嬢さんも明るかった。しばらくして帰られた。

 朝食をとって、8時30分出発。幸い、雨は小降りだ。歩いている最中も降ったりやんだりでほっとした。

 この小雨だったということ。ただ歩きやすかっただけではない。地すべりの危機がとりあえず去った。復旧、捜索、避難所生活など、どれだけありがたかっただろう。

 この日は大阪のおばさんがすすめてくれた、阪急の西宮北口駅へ向かった。これがよかった。昨21日は国道2号線。今日は阪急沿線と、まったく違う状況を見ることとなった。

 破壊が昨日ほどひどくないのだ。地盤がいいのだと思う。地割れがあまりないことからも分かる。芦屋では、小売店がけっこう営業していた。でも、小さな公園にキャンプ同然の姿があった。テント、煮炊きした跡、テーブルなどが散乱していた。人の姿はなかったが、傾斜した家屋がまったくないわけではなかった。また、家はしっかりしていても、塀だけ倒れているケースはけっこうあり、その上を何回も歩いた。

 途中、葬儀屋さんの前を通る。遺体運搬車と書かれた車が何台もあった。全国のナンバーがあった。

 西宮では、地すべりにあったマンションを見た。マンション自体はしっかりしている。ヒビも入っていない。ところが下の土が流れてしまって、空洞になっている。あぜんとした。
 また、丘陵地の斜面に建っているビルが斜面をすべり、阪急の線路をふさいでいるのも見た。

 こちらは建物はしっかりしてても、地すべりがこわいのだな。伯母のマンションと長田区の叔母の家が、あらためて心配になった。

 しまったと思ったこと。それは遠くへ引っ越す人へ、町内会が出したお知らせの掲示だ。
《連絡したいことがある場合のために、移動先をよく見えるところに書き留めてください。》
 A町の祖母の家、B町の伯母のマンションともにそんなことはしていない。いいや。横浜に着いたら長田区の叔母に電話して頼もう。

 丘陵地に大きな池があった。そこでバケツに水を汲んでいる人が大勢いた。そうか。あれをトイレに使うのだな。この辺りも壊れた家はほとんどないだけに、異様な光景に映った。

 前日と違い、行列といってもいいような人の波はない。でも、西宮北口駅の一つ手前の夙川駅。今は不通になっているからさびしい駅だが、そこからは波といってもいいような人の流れとなった。駅に近づくにつれ、神戸へ向かう人の波をかき分けるようになった。

 西宮北口駅に着いた。歩きやすかったせいか、地図上では昨日とほぼ同じ距離なのに、今日の方がかなり近かったような気がした。

 さすがホッとする。もう横浜へ着いたような気分になった。妻もそんな気持ちになったか、
「ねえ。お土産、買わない。わたし、職場でいつももらってばかりだから。」
「そうか。買おう。リュックの中は空っぽだから、いくらでも入るよ。」
ゆっくり品選びをした。

 2日間、壊れた家ばかりを見てきた。大阪へ入って思わずつぶやく。
「すごいな。みんなどの建物もまっすぐ建っている。すばらしい。光り輝いているように見えるよ。感動だな。」
「おかしいわ。それが当たり前なのに。」
「ぼくたちは、一日神戸にいただけでこうだ。おばさんたちは、5日も破壊された街を見続けてきたんだ。大阪でどんな感慨を抱いているかな。」
「でも、不思議ね。こんなに近いのに、大阪は何ともないもの。」

 23日。祖母と伯母が母とともに横浜へ着いた。母から驚くべき話を聞いた。
「胸が痛いっていうから、うちへ着いてすぐ病院へ行ったの。そうしたら2人とも骨折していたわ。鎖骨やろっ骨など、あっちこっち複雑骨折よ。」
「ええっ。よく我慢していたな。」

 保険証はないが、事情を言ったら、気持ちよく、『いいですよ。』と言ってくれたとか。それにしてもすごい。伯母は骨折しながら荷物整理や運搬を5日間もしていたことになる。今、祖母と伯母は大いなる安ど感のなかにいる。

 それにしても、神戸の人が廃墟の中で明るく活気ある生活をしていることは、未来に希望を持たせる。伯母の言葉。
「今、命があるということ。死ぬ思いをしたが、奇跡的に助かったということ。これは何物にも代えがたい喜びよ。亡くなった多くの方には申し訳ないけどね。 
 でもこれからが大変。見通しが全然たたないもの。気持ちを切り替えるしかないわ。神戸は必ず立ち直るわよ。」

 《必ず立ち直る。》 その兆候は駅までの長い道でも見ることができた。ある中学校が張り紙で生徒に登校を呼びかけていた。
《23日(月)午前10時。集まれる生徒は登校してください。無理はしなくていいです。安否の確認をしたいと思います。なお服装は自由です。》
 早くも明日を目指して立ち上がろうとする姿を感じた。当面は教育活動としての学校と避難所としての学校との共存を迫られよう。早急に元の神戸の学校に戻ることを祈念してやまない。

 また次のような伯母の言葉も聞いた。
「地震に対処する資質というものがあるわね。まずは知力ね。判断力といってもいいかもしれない。それから、温かな心。最後はね、即座に動けること。機敏な行動力よ。」

 ああ。やはりこれも、知・徳・体だなと、痛感した。

 祖母に東京の知人から電話。
「〜。
わたし、長生きしすぎちゃったのよ。長生きしすぎちゃったのでね。こんな目にあってしまって、みんなに迷惑かけているのよ。」
 でも、その声は明るかった。

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 ninki
 

 今回の熊本地震は想像を絶しますね。余震というのは当たらないくらい大きな地震が繰り返され、回数もものすごく多く、いまだに続いています。

 わたし、この記録のときに思ったことですが、テレビ画面で見るのと、360度、倒壊家屋や傾いたビルにかこまれ、それを見続けるのとではまるっきり違います。何とも言えない匂い、騒音などに囲まれてもいますしね。

 それが予想もつかない長期間に及んでいます。まだ続いています。

 言葉もありません。

 子どものことも心配です。不安で不安で、こわい思いをしているだろうなあ。抱きしめてあげてくださいね。


 本記事最後の祖母の言葉については、わたし、そばで聞いていたのですが、電話が切れた後、思わず言った言葉がありました。

「おばあちゃん。迷惑をかけるなどと思うことはないよ。おばあちゃんが無事でいることで、また元気でいることで、まわりの人はどれだけ励まされていることか。勇気をもらっていることか。

 だから、もっともっと長生きして、みんなを勇気づけてね。」

 このおばあちゃん。地震に負けず生き抜いて、105歳という長寿をまっとうすることができました。

rve83253 at 13:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)災害 | エッセイ