2016年10月16日

《コクリコ坂から》の社会科的考察(2)

image 初めにお断りさせていただきます。本記事も《コクリコ坂から》の映画をとり上げて書き進めるので前記事の続きとしましたが、小学校社会科とはあまりかかわりなく、むしろ大人の社会科といった内容になっています。

 また、バナーの下では、我が高校生活を簡単にふり返ってみたいと思います。わたしも男女共学の学校でした。

 それでは、本論に入るが、

 前記事では、映画に登場するむかしの道具について、一番印象に残るものをぬかしてしまった。

 それは、謄写(とうしゃ)版、あるいはガリ版と言われるものだ。そこで本記事では、学校現場に見られる印刷の変遷を追ってみたい。ほんとうに、驚くほどの変化を見せている。

 《コクリコ坂から》に描かれる、やすり版の上にろう原紙を置いて、鉄筆でガリガリ音をたてながら字を書く姿。また、書き終えたろう原紙を謄写印刷といわれる簡易的な印刷機に貼り付け、一枚一枚インクの付いたローラーで刷っていく姿。
 
 こんなのは、いくら文字で説明しても、子どもはもちろん、若い人だってなかなか分かってもらえないだろうな。その点、同映画を見れば、具体的に理解してもらえると思う。

 それにしても、なつかしい。わたしの子ども時代は、まさにこれだった。教員だけでなく子どもも、係活動などではよく使ったものだ。

 そう。思い出したことがある。わたしたち、A小学校の新聞部(今なら委員会活動だが)が作成した児童新聞。これを横浜国大文化祭の催しである学校新聞コンクールに応募したら、見事2位となり銀賞をいただいた。先生と二人で鎌倉まで行き、表彰式に参加した。そう。当時の国大学芸学部は鎌倉にあった。

 わたしが教職に就いたのは昭和45年。このときは、原紙と鉄筆は変わらないものの、ローラーでの手刷りの時代は去り、輪転機による自動印刷となっていた。手作業でないから、ずいぶん楽になったとうれしくなった。

 それでも、印刷し終わっての片付けは、原紙を手ではがし、インクがベットリ付いたのを不要な紙で包み込むようにして捨てるので、やはり手をよごすことはあった。

 また、当時は多くの学校で児童数、千人を超えていたから大量に印刷することが多く、そのため途中で罫線が破れ、インクがにじみ出てしまうこともあった。

 今、50代となっている教え子の同窓会では、このころの学級だよりがよく話題となる。

「toshi先生は確か、毎週出してくれていましたよね。」
「あれ、ろう原紙と鉄筆で書かれたのでしょう。ガリガリやるから大変だったのではないですか。よくあんなに書いてくださいましたよね。」

 その学級だよりをBさんのお母さんがとってくれていて、Bさんは数年前、そのファイルを同窓会の場で披露してくれた。
「『お嫁入りのとき、持っていきなさい。』ってお母さんが言ってくれたので、今もわたしの手元にあるのです。」

日々子どもの話題ばかり載せていたから、それをネタに思い出話に花が咲いた。

 話を戻し、その後昭和50年代になって、ろう原紙と鉄筆の時代も去った。ボールペンでコピー用紙に書き、それを円盤状の物に巻き付け、同じくその右側に感熱原紙を巻き付ける。その円盤が高速で回転する。一方で読み取りをし、もう一方で焼き付けるのだった。これ、ファクス製版機というのだね。

 この焼き付けは時間がかかった。たぶん5分以上かかったのではないか。

 また、どこまで正しいか自信はないのだが、このころまで、ボールペンや万年筆は青で書くのがふつうだった。それが、青では感熱せず文字が写らないので、以後、黒で書くのが主流になったのだ…と思う。

 でも、技術革新がめざましく、いずれも短期間のうちに新しい印刷法がどんどん登場していった。

 和文タイプライターにこった時期もあった。しかし、これは、扱いにくくすぐやめてしまった。

・文字をさがすのが大変。
・打つ力を加減しないと、濃くなったり薄くなったりした。平仮名はやさしく、漢字は強く打って濃さがそろう感じだった。でも、それはむずかしかった。強すぎてよく穴をあけたっけ。
・一度ひっくり返して活字が全部床に落ちてしまった。戻すのに何日もかかった。

 すぐワープロの時代となった。昭和末期だね。ブラインドタッチできるようになりたいと、夏休み中練習に明け暮れたのもなつかしい。

 ブラインドタッチの練習と文書作成とはしっかり区別した。文書作成は考え考えやるから、ブラインドタッチの練習にはならない。練習は新聞記事とか小説とか、見て打てばいいものに限定した。タイプライターにくらべ、すごく楽になったという思いもあって、習得は早かった。

 このころ、保護者からよく言われたのは、

「toshi先生。学級だより、いつも楽しみにしていますし、ありがたいのですが、前のように先生の手書きでお願いできませんか。その方が先生の温かみというか、先生のお心が感じられて、いいなあと思うのです。」
「ワープロだと、なんか、冷たい感じがしてしまうのですよね。」

 それでこのクラスを受け持っている間は、手書きに戻した。

 新たなクラスでは、もうそういう声はなく、ワープロ使用に専念できるようになった。

 するとこまる事態も起きた。手で書く習慣がなくなったからだ。当時はまだ、通信票など、手書きの時代だった。それで、ペンを握る手がすぐ疲れてしまうのだった。数人書いては休み、数人書いては休みとなった。

 わたしは、管理職のころ、パソコンを始めるつもりはなかった。それはくだらない理由だった。当時のパソコンのキーボードは数字とアルファベットのみで、日本語の文字はほとんどなかったのだ。とっつきにくい感じがして嫌だった。それに、このころの仕事は文書作成のみだったから、ワープロで十分だった。

 そんなときだ。ワープロはもう生産せずという声が聞こえてきた。びっくりした。でも、『いいや。どうせすぐ退職だもの。』

 そうしたら、何と退職数か月前にワープロがこわれてしまった。画面が暗くなったのだ。《ああ。なんということだ。》それでやむを得ず、学校のパソコンに手を出すようになった。

 当時はまだ数台あるだけ。だから、空くのを待つことが多かった。休日なら待つ必要がないから、休日出勤が当たり前になった。

 退職してからも、初任者指導という形で学校に勤めることになった。それと機を一にして、パソコンの便利さを実感するようになった。なるほど、これならワープロはなくなるわけだ。そう思った。パソコン教室に通い、ブログを開設するまでにそう時間はかからなかった。

 それにしても印刷は便利になったものだ。隔世の感がある。

 とは言っても、初任者指導の仕事って、自分が印刷機の前に立つことってまったくといっていいほどないのだよね。4年前、久しぶりに学級担任となって、ほんとう、何年かぶりに印刷機のお世話になった。

 その便利さだが・・・、パソコンで一枚印刷すれば、印刷機は製版、印刷、それに後始末まで、全部自動的にやってくれる。それに、一度に何枚も紙が出てしまうことはない。最後の一枚まできちんと印刷してくれる。インクで手をよごすこともまずない。

 あとは写真だね。小学校社会科は、具体的映像として、写真の資料は欠かせないもの。

 昭和50年代。夜、宿直室を暗室に見たて、よく写真を焼いたっけ。それでも、四つ切サイズ、白黒の写真しかやれなかった。

 今は、朝、《ああ。あの写真がほしい。》そう思ったら、出勤途上、寄り道して撮影。そのまま、SDカードを教室の大きなテレビに差し込み、カラー写真が資料として使える。

 ほんとうに、夢のようだ。

 にほんブログ村 教育ブログへ

 ninki


 前記事でもふれましたが、わたしの高校生活は、《コクリコ坂から》の1年前まででした。そこで、我が高校生活とくらべてみましたが、あの映画の高校は、私立の設定でしょう。わたしは公立高校でしたので、あんな上品ではありませんでした。

 それに、あの映画の高校生は実行力がありますね。東京まで、理事長に会いに行くのですからね。すごいと思いました。それにくらべれば、わたしなど、幼いものでした。

 ただ、我が校も共学でしたので、あちらこちらにカップルができました。あるとき、屋上に上がると、二人で仲良くしんみりと語り合っている光景に出会いました。それは親友でしたので、逃げるようにして階下へ降りてしまいました。わたし自身は、ふざけ合った思い出しかありません。

 一回あこがれの女生徒が、何の前ぶれもなく、わたしの向かいにすわり話しかけてきました。たぶん係か何かの用事だったと思います。不意だったものですからボオッとしてしまい、しどろもどろになってしまいました。

 運動会では、〇学年になると、女生徒全員が浴衣姿で民謡をおどりました。それは、それは、まぶしくて、しかし、そのあこがれの女生徒ばかり見ていました。

 数年前の同窓会では、なんとその方が隣りの席になりました。もう、ボオッとはしませんでしたよ。白髪の、しかし、気品ある、やはり魅力的な女性でした。

 戦後、時代は民主主義となり、共学校では、フォークダンスがはやりました。手をつなぐだけでも恥ずかしく、つながなかったり指と指とをふれ合わせるだけだったりの光景もたくさんありました。わたしもそうでしたね。

 女生徒はみんな平然として、そんな男子に合わせているといった感じでした。

 今の高校生は、まずそんなこと、ないでしょうね。

 登校風景に移ります。あの映画ではどの生徒もちゃんと靴をはいていましたね。でもわたしは、歩いて通えたということもあり、げたで登校しました。近くの者同士誘い合って登校しましたが、みんな同じだったと思います。

 昇降口の靴を入れるところは、ほんとうなら靴箱でしょう。でも、わたしは今でもげた箱と言ってしまいます。それでもちゃんと通用するのですから、おもしろい。

 あの映画で重要な位置を占める学生運動は我が校ではありませんでした。でも、それとはちょっと違いますが、応援団などが一般生徒に練習を強制することはありました。わたしたち一部の生徒はそれが嫌で、生け垣にできた抜け穴からよく逃げたものでした。

 高校野球の県予選では、強くもないのに、学校が全校応援を決めたことがありました。我が校はすごい人数の応援となりましたが、相手校はわずかな応援。でも、試合は完敗。
「みっともないなあ。」「恥ずかしいなあ。」
友達とささやき合いました。

 勉強は、ちょっとかたよっていました。

 あるとき、父が面談に行きました。帰ってきて何ともいえない複雑な表情。
「toshiは、学年でトップとビリと両方あったよ。」
 地理がトップ、漢文がビリだったのでした。

 まあ、やりたいようにやっていた高校生活だったようです。

 最後はちょっとまじめな話。

 あの映画の、最高に盛り上がった場面。女生徒うみさんの
「わたしが毎日旗を上げてお父さんを呼んでいたから、お父さんが自分の代わりに風間さんを送ってくれたんだと思うことにしたの。」
は、単なる愛の告白ではないですね。

 戦後、平和になり、戦争を放棄した日本。それなのに、朝鮮戦争における日本人の戦死。

 しかも、それは、日本の歴史の中でかくされています。

 その理不尽さから受けるせつなさ。悲しさ。怒り。

 そんなものも感じました。

 ああ、これは、前記事に書くべきでしたね。すみません。

rve83253 at 10:46|PermalinkComments(4)TrackBack(0)エッセイ | むかし

2016年09月04日

《コクリコ坂から》の社会科的考察

landmark  このたび、《旧東海道を歩く》シリーズを連載していたら、Hidekiさんからすてきなコメントをいただいた。《コクリコ坂から》のご紹介をいただいたのだ。この映画の上映は、もう5年前になるのだね。

 当時、おもしろい名前の坂だなとは思ったが、まさかそれが横浜を舞台にしているとは知らず、まったく関心がなかった。そうしたら、次女が見たようで、興奮したようにわたしに話しかけてきた。

 「お父さん。この映画は横浜港のそばの小高い丘陵地が舞台なんだよ。港の見える丘ってあるでしょう。そのあたりなの。それで、昭和38年の高校生が主人公なんだけどね。だから、お父さんの青春時代と同じでしょう。」
「ううん。そのときは、受験に失敗して浪人生活を送っていたなあ。とても青春などといえるものではなかった。」
「あっ。そうか。でも、そのころなの。お父さんはアニメは見ないって言っているけれど、これは見ると、なつかしい場面がいっぱい出てくると思うよ。今はない市電も登場してくるし・・・。」
「ふうん。それなら見たいものだなあ。でもね。コクリコ坂なんていう坂、聞いたことないよ。」
「ああ。それは、あくまで架空なの。坂だけじゃなくて、まちも学校もそうみたいよ。」

 見たいと思いながらも上映期間は過ぎ去り、見そこなってしまった。そのままずっと忘れていた。

 このたびのHidekiさんからのコメントでそのことを思い出し、さまざま検索をかけたら、なんと、全編見ることができた。

 それで一時リンクさせていただいていたが、ごめんなさい。いろいろとまずい点がありそうだというパソコン教室の先生のご指摘があり、リンクは外させていただいた。外しながらいろいろと映画の中味を語るのは申し訳ないが、お許しください。
   
 映画から、自分の青春時代のさまざまな思い出が、まるで今の出来事のようによみがえってきた。なんか前も同じような思いをもったことがあったなあと思ったら、思い出した。『ALWAYS 三丁目の夕日』だった。こちらは、昭和33年の設定。建築中の東京タワーが印象的だったっけ。それが今度は横浜が舞台なので、それだけ感慨も深いものがあった。

 そう。そう。架空の話なのだけれど、桜木町駅や山下公園、氷川丸などは、実にリアルに描かれていた。そのなかでも、桜木町の駅舎は建て替えられているから、『ああ。そう。そう。むかしはこの通りだ。うわあ。なつかしい。』郷愁を誘われた。なお、このころ、まだ根岸線はなかったから、桜木町駅は終着駅だった。

 またこれは桜木町駅に限らずどこの駅でも見られた光景だが、改札には駅員がいて、切符にはさみを入れていたね。

 国鉄30円区間(大人用)と書かれた表示、こげ茶色の国電など、どれもほんとうになつかしい。

 そう。当時は国鉄だったのだね。そして、料金も安かった。

 先ほど、まちや学校も架空と書いたが、それは位置関係からして言えることであって、街並みや店、交通の様子などは、当時をそのまま再現しているように思われた。特にふれさせていただきたいのは、市電だ。今、横浜ではまったくなくなってしまった。

 その他、

 坂本九の《上を向いて歩こう》もなつかしかった。当時、NHKに《夢で逢いましょう》なるバラエティがあって、わたしは欠かさず見ていた。その《今月の歌》で歌われていたのだった。また、小さな音声だったが、野球中継で、《ジャイアンツの長嶋》とも言っていた。
 
 そうした場面の一つ一つがなつかしく、もう50年以上もたってしまったかと、アニメながら、目頭の熱くなるのを覚えた。

 もう一つ。本映画で重要な位置を占める学園紛争も、当時大はやりだった。しかし、
《これは大学の話であって、高校ではこのようなことはあるものか。みんな受験で余裕がなかったはずだ。》
 初めはそう思ったが、いやあ、あった。あった。細かなことは忘れてしまったが、ほんの数校、我が神奈川県でも高校の学園紛争はあった。

 いやあ。何もかも史実にピッタリだなあ。

 そう。史実にぴったりなだけに、思い浮かべることがあった。これは、小学校の社会科の授業に使えるな。資料になるなということだった。

 旧東海道シリーズでも書かせてもらったが、小学校の3年生の社会科には、まちのむかしを学ぶ学習がある。同シリーズのまとめにも、
《その土地、土地に、小学校社会科の実践で教材化してほしい歴史事象がたくさんある》と書かせていただいたが、本アニメにも、同様なことが言えるようだ。

 今、まちのむかしとしたが、その学習では、お父さん・お母さんが子どもだったころ、おじいさん、おばあさんが子どもだったころの生活も取り上げるのが通例だ。

 むかしの生活は、むかしの道具などで学ぶ例が多い。学校の中にむかしの道具を陳列したり、まちの歴史博物館を訪ねたりする学校もけっこうあるのではないか。

 本作品は、昭和38年の設定だから、おじいさん、おばあさんが子どもだったころとなるね。そう。当時18歳のわたしに、今、中2と小6の孫がいるのだからね。

 アニメだから、ただこんな道具があったというだけでなく、動きなどから使い方まで分かる。今の子どもたちにうけるのではないか。

 使わせてもらえたらいいなあ。

 そう。そういう意味で気づいた場面を、今、列挙する。たくさんあるなあ。

・マッチをすって、ガスコンロに火をつける。
・炊き立てのご飯をお釜からお櫃(ひつ)に移す。
・洗濯機のハンドルを操作して、洗いたての衣服をしぼり出す。
・大きな米びつから一升マスでコメをはかり取る。
・街を走る三輪トラック
・まわしながらキャップをとる万年筆
・釘を口に入れて一本ずつ取り出し、板に打ち付ける。
・液体のノリを刷毛で塗る。
・建物の壁、土塀などを、こてを使って塗り仕上げる。
・数字の入ったダイヤルを回してかける黒電話
・白黒テレビ
などだ。

 日ごろ、こんなにも変わったことを意識していないわたしだが、あらためてむかしを見せてもらうと、あまりの違いに驚かされる。50年前はやはり、遠い、遠いむかしになってしまったのだなあ。

 逆にあしき光景も印象に残った。それは、電車から見える車窓風景だが・・・・、

 工場の煙突からは黙々と煤煙があがっていた。その煙突も、群立している。

 そう。当時、川崎ぜんそくなどといわれたものね。この映画の時代設定から7年後、現在の川崎区と幸区のほぼ全域が大気汚染地域に指定された。

 さて、本映画の主題に関わる重要なテーマなのだが・・・、そして、これは、小学校社会科の域を超えているのだが・・・、

 それは、朝鮮戦争での日本人の死である。公的には、戦後、日本人の戦死者は一人もいないことになっているが・・・、

 これはかくされた史実といおうか、多くの方は知らないよね。わたしもほとんど忘れかけていた。本映画を見て、はるかむかしの遠い記憶を思い出した。

 本映画では、主人公の父は行方不明として扱われているが・・・、まあ、実際行方不明者もいただろうが、Wikipediaによれば、少なくとも56名の日本人が命を落としたという。
 
 さて、本映画のあらすじは、ここではふれないことにしよう。娘もわたしに話したとき、あらすじまでは言わなかった。

 ただ、むかしは、友人の子を我が子として届け出て戸籍をつくるなどということは、ありえた。だいいち、戦争直後の混乱期は、戸籍も焼けてしまって、申し出による復元、作成などということもあったからね。

 最後に・・・、

 わずか50年余りで生活は一変した。・・・。ああ。《わずか》と思うのは、わたしのような年寄りなのだろうね。若い人にとって50年は、遠い遠い・・・歴史の範疇だろう。

 でも、年とればこの感覚が分かる。・・・。

 いや。若い人だって分かるのではないかな。

 子ども時代と、二十歳過ぎてからと・・・、同じ10年でも、その感覚はまったく違うのではないか。悠久と時が移っていった子ども時代。それに対し、二十歳過ぎてからは走馬灯のごとく・・・。

 そう。そのような速さで、老境に入っていくのだ。気分だけは若いのだけれど・・・・・・、

 にほんブログ村 教育ブログへ

 ninki


 戦争は玉砕とか、原爆とか、空襲とか、そうした直接的な惨劇だけではないですね。本映画の主題にかかわるような後遺症も残します。

 わたしの子ども時代、NHKのラジオ番組に、《尋ね人の時間》というのがありました。みんな戦争がらみで、行方、生死の分からなくなった家族、親戚、友人などの消息を求めて探しているのでした。

 それに、中国残留孤児の帰国問題などは、まだ10年くらいしかたっていないですね。

 わたしの同級生にも、満州からの引揚者は、少なからずいました。帰国問題が起きたとき、《ああ。我が学友は皆、幼いときに無事引き揚げできたのだな。》と思ったものでした。

 団塊の世代があるのも、戦争の後遺症ですね。一斉に戦地から引き揚げてきたものですから、赤ちゃんのラッシュとなったのでした。これが平準化するには、一世紀くらいかかるのだそうです。

rve83253 at 17:27|PermalinkComments(4)TrackBack(0)エッセイ | むかし

2016年08月22日

旧東海道を歩く。(4)

IMAG0982 本シリーズの最終章は、戸塚駅から横浜市隣りの藤沢市(駅)までのつもりだったが、前記事が東戸塚駅付近で終わっているので、まずは、そこからスタートさせていただこう。

 東戸塚駅入口の信号で国道と一緒になると思いきや、旧東海道は国道一号線を横断していた。そして、すぐカーブして国道と並行し、数百メートル先の赤関橋で合流した。

 そのまま国道を歩くと、今度は不動坂でまたまた国道から離れた。ほんの数百メートルだが、ここでは、心に残る史跡、石碑、建造物を見ることができた。

 そのなかの一つ。ちょっとこの辺では不似合いなくらい、ものすごく古く、しかしがっちりとした建造物を見つけた。鎌倉ハムの倉庫だ。戸塚区のホームページによれば、明治20年代の建造とのこと。港の赤レンガ倉庫と同じころだ。驚いたのは、今も倉庫として使用しているとのこと。単なる史跡ではない。すごい。IMAG8132 (1)

 鎌倉ハムの名前の由来については・・・、

 ずっとここは横浜ではなく、鎌倉郡だった。横浜市に編入されたのは・・・、

 編入は、市制がしかれた明治22年以後、6回にわたって行われた。編入以前は、都筑(つづき)郡、橘樹(たちばな)郡、久良岐(くらき)郡、それに、ここ鎌倉郡だった。鎌倉ハムがある地が編入されたのは昭和14年。最後の編入であり、これにより現在の横浜市の市域が確定した。しかし当然のことながら、鎌倉ハムの名はそのまま存続した。

 なお、人口増加により分区が数回にわたり行われたが、平成6年の分区にあたっては都筑区が誕生。かつての郡の名が区名として復活した。

 それにしても不思議なことがある。開港のころの横浜は文明開化の地。《横浜もののはじめ》が有名だが、外国からいろいろな文明が入ってきた。今、港周辺を歩くと、《〜発祥の地》なる碑をたくさん見ることができる。IMAG0958

 しかし、横浜中心部から離れたこの地が、日本で初めてハム・ソーセージの製造販売を行ったとは・・・、

 それで、Wikipediaで調べてみると、イギリス人が畜産業から始めて肉製品を作ったことが分かった。なるほど。畜産業からであれば、郡部の方が向いているね。

 さて、前述のように数百メートルでまた国道と一緒になる。しばらく歩くと、左の写真の、江戸見附前信号あり。この名前は前記事にも登場した。そう。今度は戸塚宿の入口となるわけだ。ここには、江戸方見附跡の石碑もたっていた。

 さらに、数百メートルで吉田大橋にたどり着く。冒頭の写真がそれだ。なお、写真の街燈だが、この変わった形は大名行列の毛槍を模しているのだという。IMAG0989

 また、この橋で特筆すべきは、なんと橋の欄干両側に2枚ずつ、計4枚の戸塚宿にまつわる浮世絵があることだ。

 ほんとうに、これまで、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚と、旧宿場町を歩いてきたが、どこも、歴史をすごく大切にしている。戸塚宿まで来て、どこも、まちの人たちは、郷土の歴史を誇りにしているのではないかという感想をもつようになった。

 浮世絵では、おもしろいことを2つ発見した。hiroshige018_main139007514573806287227_totsukashuku


 
  ・広重の戸塚宿の絵は、左の絵
  のように二種類ある。読者の皆
  さんは、双方くらべて、どこが違
  うか気づかれただろうか。分かりにくければ《拡大》をかけてご覧いただければと思う。

 そう。一つは旅人が馬から跳び降りている。もう一つは馬に乗ろうとしている。

 上の方がよく知られた絵だが、実は双方とも、旧東海道で見ることができる。これには感動した。あらためて思う。旧宿場町はどこも通りがそのまま美術館のようだ。

 見られるのはどこか。上の絵は吉田大橋の欄干で、もう一つは江戸見附前信号の写真に写っているダイソーで。

 ダイソー前で、同壁面を飾る絵を見ていたら、そこの店員さんが現れた。
「ええっ。この絵、2種類あるのですかあ。知らなかったです。吉田大橋の絵と同じだと思っていました。あらあ。今度よく見なきゃいけませんね。」
 店員さんが知らなかったとは。なんかおかしくなった。でも、100円ショップがこうした絵を掲示してくれていること。わたしはその店員さんに感謝の気持ちを伝えた。
 
・もう一つある。この絵に描かれている右の橋。これは、200年前の吉田大橋だ。吉田大橋で、むかしの吉田大橋の描かれた絵が見られるというのも、おもしろい。劇中劇のようだなあ。

 さて、大橋を渡るとすぐ道は二手に分かれる。直進はJR線の下をくぐるように作られたアンダーパスへ向かう。自動車バイク専用道路だ。

 もう一つの方、左前方が旧東海道だ。こちらは、開かずの踏切として有名だった踏切に進む。でも、今、その踏切はない。かわりに《大踏切デッキ》という大きな歩道橋に生まれ変わった。踏切はなくなったのに、歩道橋の名前は、《大踏切デッキ》。なんかおかしさを感じた。

 3・40分待たないと渡れなかった踏切。この解消は長年の懸案であった。むかし箱根駅伝がここを通っていたころ、ほとんどの走者は開くのを待たされ、さまざまな悲喜劇を生んだ。そのためだろう。近年箱根駅伝はここを通らず、不動坂から横浜新道へとコースを変えた。

 アンダーパスと大踏切デッキが完成したのは昨年である。このまちの方や買い物客たちは大変喜んでいるに違いない。

 実は、これだけではない。踏切は戸塚駅に近接していて、この完成は戸塚駅西口の再開発と一体化している。そしてその再開発もほぼ完了した。ごみごみしたまちが、近代的で便利なまちに生まれ変わったのである。

 わたしは歩行者だから、大踏切デッキを渡った。そしてできたてのほやほやのまちを通った。

 その先は旧東海道の宿場町の中心となる。例によって、澤邊本陣跡、八坂神社、富塚八幡宮、上方見附跡などの案内表示が見られた。

 上方見附跡からは、大坂の上りとなる。権太坂に匹敵するような坂だ。そして、坂を上り切ったところで横浜新道と合流する。ここから先は、ずっと国道と一緒だ。ところどころに史跡、案内表示は見られるが、旧東海道の面影はやはり少なかった。IMAG8262

 約4キロメートルにわたり台地を通り、お隣の藤沢市の遊行寺坂で下りとなった。この坂も箱根駅伝で有名だね。

 遊行寺に寄らせてもらった。巨木の下には露店が数店。ちょっとしたにぎわいを見せていた。ここは一遍上人開祖の時宗総本山として有名だ。

 さあ、4日にわたり歩き通した旧東海道の旅も終わりに近づいた。藤沢橋を渡る。ここも藤沢宿の真っ只中なのでいろいろな案内表示が目についたが、帰路を急いだ。

 旧東海道は右に行くことになるが、わたしは左へ。そして藤沢駅に向かった。

 にほんブログ村 教育ブログへ

 ninki


sekihi 左の写真は、ある石碑の裏面です。本記事冒頭の鎌倉ハム倉庫のそばにありました。

 表には、大きな文字で、《史蹟への小径》とあります。そして、裏には、本シリーズにも関係するすてきな言葉が刻まれていました。

《歴史は 古く 永く そして悠久に 継承される》

 なんと魅惑的な言葉でしょう。わたしはすぐ、前記事に書いた、《投込塚》を思い浮かべました。何せ、時代は変わっても、人の心は、江戸時代から現代にいたるまで・・・、さらには未来まで、継承されていくのですね。

 また、その土地、土地に、小学校社会科の実践で教材化してほしい歴史事象がたくさんあることにも気づかされました。

 地域の歴史事象を大切にし、継承される人の心を子どもが学び取ることによって、地域を愛し、人を愛する心情が養われるのではないかと、思いました。

〇本文に書けなかった中から案内表示、史跡などの主なものは、下記のとおりです。

 柏尾  大山道道標、大山前不動
 戸塚宿 吉田一里塚跡、明治天皇戸塚行在所阯
 大坂上 お軽 勘平 戸塚山中道行の場 石碑
 原宿  原宿一里塚跡
 藤沢宿 遊行寺坂一里塚跡、江戸見附跡


rve83253 at 01:18|PermalinkComments(2)TrackBack(0)自己啓発 | エッセイ