2007年08月08日

わたしのいだく性善悪共有説について(1)4

20d8f4a9.JPG 今回は、生物、特に人間の進化の面から、わたしが考えた『性善悪共有説』を記事にしようと思っていたが、前記事に対していただいたコメントに、強い感動の思いを持ったので、今日は、それを記事にさせていただきたい。(『進化〜』は、また、後日にさせていただきます。)

 若い人たちからいただいたコメントを読ませていただいて、『善』『悪』の見方への共感の念がわき起こったし、すごいなと思う点もあった。


 まず、くるみさんのコメント、

《よい面を引き出すのも、悪い面を律し、乗り越え、コントロールできるようにサポートするのは、大人次第だなあと思うのです。〜、子どものせいにしない、でも、毅然とした優しさをもった大人になるには、やはり、善も悪も受け入れ、包める大きな心が必要だなあと思います。》 

 また、にゃんこさんのコメント、

《もともとが悪なのであれば、子どもが失敗をおかしても、「できなくて当たり前、大丈夫」「仕方ない」と思えるからです。逆に子どもが善の行動をとったときは、それは当たり前のことではなく「すばらしいこと」と思うことができます。》

 どちらも、わたしが思っていることを、あらためて、再確認させてもらった。特に、『悪』の見方など、わたしにとっては、若いときからの試行錯誤を経て獲得した概念だったから、今の若い人たちが、自然にこういう見方を身につけている点について、『すごいな。』と思ったしだいである。
 また、純で、いきいきはつらつとした教育観、指導観をもたれていることに、あらためて、敬意を表したくなった。ありがとうございます。

 さらに、ベアさんのコメントは、今まさに、子育ての真っ只中。その生々しい思いを端的な言葉で表現してくださった。こちらも、ありがとうございます。


 そう。こうした前向きな感覚をもてるかどうかは、とても大事なのだよね。

 それについては、keiさんがおっしゃっている。
《ベースになる子ども観が定まると、授業のあり方も変わってき》たということになるのだ。


 
 それで思い出したのだが、わたしは、すでに、何度か、初任者の成長、自己改革について記事にしている。これらは、性善説の考え方に根ざすものと言ってよいだろう。
 すでに、お読みいただいていると思うが、再度目を通していただけたらと思い、リンクさせていただきたい。

 中学校初任者の自己変革

 『初任者の成長(1)(2)

 これらの実践は、いずれも、子どもの伸びる可能性に信頼をおく方向で、指導する側が自らを変えていった事例だ。
 
 そして、次は、自分自身の実践で、いささか、おもはゆいが、わたしが、『性善悪共有説』をいだいたのち、『悪』の部分をどう見るようになったか、『悪』の部分にどう対応したか、それは、子ども自らが自分の『悪』の部分を克服しようとする実践なのだが、それを例示させていただきたい。

   Aさんは悪くない。



 さて、話を本論に戻すが、

 わたしは、前記事において、若いとき抱いていた『性悪説』にくみする思い、そして、その後、『性善悪共有説』を抱くに至った経過を簡単に述べた。

 ただ、『悪』の見方がどう変わったかは、まったく述べていなかったと思うので、それにふれたい。とは言っても、もう、前記、コメントを入れてくださった方が書いてくださっているのだけれどね。
 

 
 一口で言えば、性悪説を抱いていた時代は、『悪』を、未熟な子どもの姿ととらえ、指導する側がそれを正しく導いていくというようにとらえていた。


 しかし、共有説をいだいてから、それは、


○人間の弱さとして共感できるもの、

○子どもと指導する側が、ともに、『悪』を克服しようとして努力する姿勢、

○『悪』のなかにも、『善』の要素は見られるものだなという発見、

○世間的には『悪』と見られるものであっても、その子の内面を知ると、『悪』とはとても言えないという見方の広がりなどなど。


 こういう姿勢で、子どもに臨むようになった。

 子どもは安心感をいだくようになったのであろう。『正直』『思いやり』『明朗』『反省』などの言動を、内面から見せるようになった。表情も、大きく変わってきた。

 わたしは、子どもとの一体感をいだけるようになり、学級経営が楽しく、充実感でいっぱいになった。

   
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ninki


 記事とはちょっと違った話になりますが、
 
 前記事にコメントをくださったkeiさんのブログ、『はーと&はーと 2007』を推奨するブログを見つけました。
   ガッコーの教育 わが子のきょーいく です。
 わたしも、keiさんの実践には、ほれ込んでいます。どうぞ、のぞいてみてください。
 ああ。もちろん、『ガッコーの教育 わが子のきょーいく』も、明るくほのぼのとしたブログですよ。こちらもぜひ。

 それでは、今日も、1クリックをどうぞ、よろしく。

rve83253 at 15:10│Comments(2)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by ai   2007年08月08日 17:51
toshi先生のおっしゃる共有説、私もとても同感いたしました。
私も現在子育て中ですが、子供が生来持っている『善』の部分、『伸びようとする力』を強く感じています。
でもそれは、toshi先生のおっしゃるように、自己中心的なものであるとも思います。
「一人でいるのは寂しいから人に優しくしよう」「褒められると嬉しいから頑張ろう」というように、小さいうちはどんなときでも『自分』が主体になっているのですよね。
自己中心的である以上、『悪』の場面も多々あります。
自分を大切にすることと同時に、理性を備え、周囲にとっての『善』であることの大切さをも理解するには、やはり集団生活、特に学校教育は欠かせないものであると思っています。
2. Posted by toshi   2007年08月09日 07:00
aiさん
《「一人でいるのは寂しいから人に優しくしよう」「褒められると嬉しいから頑張ろう」というように、小さいうちはどんなときでも『自分』が主体になっているのですよね。》
 含蓄のある言葉ですね。わたしの、『進化』から考察した『共有論』にも、少なからず影響を与えてくださる言葉をいただきました。
 もう一つ。今は、『善悪』ともに本能のままなのでしょうけれど、それは多分に偶発的なものだと思います。
 それを《理性を備え、周囲にとっての『善』を理解する》ものにするには、まわりの大人の配慮が必要なわけですが、それによって、偶発的でない、その子の身についたものとなっていくわけですね。 

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