2007年08月12日

わたしのいだく性善悪共有説について(2) 進化からの考察4

fc7ffa7a.JPG 今日の記事は、これまでの以下の記事とかかわります。まだお読みでなかったら、そちらにも目を通していただければ、幸いです。

       性善説と性悪説
       わたしのいだく性善悪共有説について(1)



 地球が誕生してから46億年。まだ地球が火の玉だったころに、生物は出現したという。
 そこから、進化の歴史が始まる。
 そして、いつのころからか、「食う・食われる」の関係が始まる。食物連鎖の法則である。生物ある限り、その宿命からのがれることはできない。

 はじめは、ただそこに浮遊するから、「食べる・食べられる」という関係だっただろう。まだ、感情の世界はない。
 そして、いつのころからか、食べられては大変だとばかり逃げたり、食べないと生きてはいけないから追いかけたりするようになる。しかし、これも、初期の段階では、本能によるだけで感情はなかったと思われる。

 約2億年前かな。恐竜が出現する。恐竜は、もはや感情のある動物のようだね。怒りとか、恐怖とか、喜びとか、そんな感情はあったと想像する。襲われば必死に逃げる。追う方も必死になって追う。けんかもする。仲良くもなる。

 この時代、我々の先祖の哺乳類は、えさになっていたことだろう。戦々恐々とし、おびえることが多かったに違いない。



 それでは、サルが人間に進化する過程で考えてみよう。

 ただ、「食べる・食べられる」だけではなくなった。
 サルとしての社会を形成するようになる。仲間と群れることから、「協力する・敵視する」という関係も始まる。行動様式の変化から、感情はだんだん複雑さをましていったに違いない。喜び、悲しみ、怒り、驚き、嫌悪、恐怖、楽しみ、あきらめ、哀れみ、うらみ、いとしみ、爽快感、満足感、連帯心などなど。

 社会を形成するようになると、協力するとたやすく獲物を獲得できることを知る。仲間と食べ物を分け合うことも知る。喜びを共有すると喜びが強まることも知るようになる。これらからは性善説の裏づけとなる感情の発達が感じられる。
 逆に、いつも獲物があるわけではない。飢えることも多かっただろう。『縄文時代の平均寿命は20歳』という推計もある。こうした面からは、少ない食べ物を奪い合う。自分さえよければいい。つまり、性悪説の裏づけとなる感情が発達する。

 わたしの考える共有論の根拠は、まさにここにある。



 さて、次に、このころの人々の感情と、現代人のそれと、どう関係づくのかについてだが、


 ある本で知ったが、生物の進化は、30万年単位だという。ところが、前述の縄文時代ですら、一番古くみても、約16,500年前からとされる。つまり、縄文よりはるかむかしから、わたしたちの感情、身体は、進化という意味では、変化がないわけだ。


 さあ、その証明になるかな。

 人間には、驚愕する事態が起きたとき、それは、恐怖、怒りの感情が湧き起こったときに多いのだが、瞬時に、身体の方が動いてしまっているということがあるだろう。考える余裕もなく行動してしまう。そして、その行動を後悔することも多い。

 これは、食うか食われるかという時代の名残なのだそうだ。つまり、不意に動物に遭遇したとき、ものすごい恐怖に襲われる。その場から逃げるか、逆にしとめるか、それは瞬時の決断でなければならない。

 このころ、人間は、思考力、判断力を手に入れていたはずだ。しかし、それにたよっていたのでは、決断するのに時間がかかる。とっさの間に合わない。
 こうして、とっくのむかしに尻尾はなくなったのに、動物的勘というものは、いつまでも残ることになる。
 そして、平常心に戻ると、つまり、それは、思考力、判断力の世界に戻るということなのだが、そうなると、後悔してしまうことも多いというわけだ。

 科学技術はものすごく進化(?)した。しかし、あいにく生物的な意味での進化の周期は30万年単位であるがために、わたしたちの感情、身体は、狩猟採集の時代の脳仕様のままなのだ。


 話を本論に戻す。とすれば、性善説、性悪説の『性』、つまり、生まれたときにもっているとされる『性』も、狩猟採取時代のままと言っていい。


 生まれたばかりの赤ちゃん。それは、眠っておっぱいを飲むだけだから、『性』も何もない。
 ああ。気が強そうとか、おとなしそうとか、そのくらいはあるか。

 でも、動き回るようになると、だんだん、善も悪も、こちらは何も教えていないのに、見せるようになる。それは、まさに、生物進化の歴史を、極めて短期間に示しているのであろう。もちろん、個人差はあるけれどね。

 

 最後に、性悪説、性善説は、基本的に論理矛盾があることを示しておきたい。

 人間が生来『悪』で、『善』は後の教育の力というのなら、最初の教育者は誰だったのだろう。まさか、『神』というわけではあるまい。

 そして、もうとっくのむかしに、人類は滅んでいたであろう。
 
 
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 性善説も同様のことが言えますね。この世に、最初に悪をなしたのは誰だったのでしょう。
 
 教育に携わる者は、これを客観的に把握しなければならないと考えます。善をどう見るか、悪をどう見るかが大切ということです。

 それについては、『性善説と性悪説』の記事で、すばらしいコメントをいただきました。再度掲載します。

 おそらく、教員2年目の方でしょう。にゃんこさんです。

『子どもが悪の行動をとっても、「できなくて当たり前、大丈夫」「仕方ない」と思えます。逆に子どもが善の行動をとったときは、それは当たり前のことではなく「すばらしいこと」と思うことができます。』(抜書きのため、一部、toshiが修正しました。)

 こうした人間観をもって、指導に当たることが大切ですね。

 なお、『性善説と性悪説』というホームページを見つけました。参考までにどうぞ。

 
 それでは、今日も、愛の(ちょっと、『善の』と言いたくもありましたが、遠慮しました。)1クリックを、よろしくお願いします。

rve83253 at 14:41│Comments(3)TrackBack(0)エッセイ 

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この記事へのコメント

1. Posted by ベア   2007年08月12日 17:09
生物の進化からの「性善悪共有説」、非常に興味深く拝見しました。
我が子を見て、「動物みたい」と思ったこともなんだか納得してしまいました。
「赤ちゃんの成長は、生物進化の歴史を極めて短期間で示している」というのも、子育てを経験した者には非常にうなづける言葉ですね。
生まれたばかりの頃は「生物」や「動物」だった赤ちゃんが、段々と人間らしくなっていく様子には、本当に神秘を感じました。

「人間は生来善である」ととらえるか「悪である」ととらえるか、その見方に、その人の人柄が現れるのかもしれませんが、「性善悪共有説」には善も悪もどちらもありのままに受け入れるというtoshi先生のお人柄が伺えるような気がしました。
2. Posted by toshi   2007年08月13日 08:35
ベアさん
 そう。はじめは、本能のみによって行動することが多いから、動物みたいに見えてしまうのかもしれませんね。

 さて、本文で言い足りなかったことで、申し訳ないのですが、

 科学技術はものすごく進歩しました。しかし、思想面ではどうなのでしょう。古典がいまだにいきいきと見えるのは、何か、人の頭脳はまったく変わっていないということの裏づけになるような気がします。
 むしろ、かつては経験とか思考によってのみ語られていたことが、今では、科学的に、その正しさが証明されるということも、ふえているように思います。そういう意味では、ことわざとか、迷信とか言われているものも、現代的な意味で、よく吟味する必要もあるように思います。
3. Posted by toshi   2007年08月16日 09:54
まずろさん
 せっかくのコメントでしたが、拙ブログの『性善説と性悪説』でいただいたコメント17.いるかさんと同じ理由、及び、これまでの経過から、削除させていただきました。
あしからず、ご了承ください。

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