2007年08月27日

見知らぬ子へ。『ごめんね。そして、ありがとう。』3

2c7d075c.JPG 以前、わたしは、『子どものやることには、みんな意味がある。』という記事を書いたことがある。(※1)

 ああ。しかし、わたし自身、今回は、それができなかったという、恥ずかしながらの失敗談。

 でも、いいや。

 最終的には、見ず知らずのお子さんにお詫びと感謝ができたし、先方のお母さんにも、お詫びをした。



 韓国旅行の帰り、空港に到着し、荷物をいっぱい積んで、カートを動かしていたときのことだった。

 小学生、中学年くらいであろうか。見ず知らずの子がいきなりわたしのカートの前に来て、道をふさいだ。大混雑のなかだったが、わたしはカートを止めざるを得なくなった。そして、何やらわたしの荷物にさわり始めたように見えた。
 

 わたしの思いは複雑だった。不可解なのと、道をふさがれたのと、何やら、さわり始めたように見えたのと。

「何するの。」
と注意するのと、その子のお母さんが、
「こら。ダメでしょ。人の荷物に、手、出しちゃあ。こっちへ来なさい。」
と言うのとは、同時だっただろう。

 でも、一向に手の動きをやめようとしない。わたしはたまらず、その子の方へ身体の向きを変えた。


 それで分かった。その子は、わたしのバッグが落ちそうになっているのを直そうとしてくれているのだった。まあ、わたしから見れば、ちょっとかしいだくらいで、別に落ちそうということもなかったのだが、その子にはそう見えたのであろう。
 わたしを見て、バッグから手を放すと、『これが、・・・、これが、・・・。』と言いながら、バッグを指さしていた。


 わたしはそれまでは、かなりムッとしていたに違いない。怒っているように見えたかもしれない。

 しかし、そうと分かると、相好をくずし、
「ああ。ごめん。ごめん。荷物を直してくれたのだね。ありがとう。」
それまでの不機嫌な態度を取りつくろうように、何度も同じ言葉を繰り返した。

 その子は、あきらかに、『分かってくれてよかった。うれしい。』そういう表情になった。


 その子のお母さんは、まだ、怒っていた。でも、わたしが、謝罪とお礼の気持ちを言葉に出したものだから、何も言えなくなったようで、こまっていた。
 そこで、わたしは、お母さんへも、『お礼と感謝の気持ち』を伝えた。


 繰り返しになってしまうが、以前、『子どものやることには意味がある。』と記事にしたわたし。しかし、そんなわたしも、とっさには、そういう意識がはたらかない。
 思考をはたらかせる以前に、感覚として、(※2)『何か物を取ろうとしているのかな。』『危ないじゃないか。どけよ。』のような感じになってしまう。そういう自分がなさけなかった。まだまだ修行が足りないね。


 わたしは、こういうとき、つまり失敗してしまったとき、『いいや。もうすんだことは仕方ない。これから気をつけよう。』そのくらいの気持ちでいたのだが、でも、もう、この歳になってまで、『これから気をつけよう。』ではなさけなくなってしまう。



 その一方で、もう一つ、別な思いももつ。

 この場合、その子が、
『おじさん。バッグが落ちそうですよ。直しましょうか。』くらい言ってくれたら、別にどうということはないわけだ。
 初めから、わたしとしては、『ああ。ほんとう。・・・。あっ。教えてくれて、ありがとう。いいよ。自分で直すから。ありがとうね。』くらいの言葉は出るだろう。

 せっかくの好意も、言葉がでないと誤解されてしまうこともある。


 自分が教育の現場にいて思うことだが、今に限らず、むかしもそうだったのだが、日本の子どもって、思いを口に出すのが、苦手な子が多くないか。言葉がなく、いきなり行動を起こしてしまう。
 このあたり、日本の、『型にはめすぎる教育』の弊害を感じてしまう。

『こういうときには、こう言いましょう。』のような、型にはめた教育。だから、応用がきかない。それこそ、とっさの役に立たない。

 わたしたち、教える側は、学習内容として、教えることもしなければいけないが、それだけではなく、うまく気のきいた言葉かけができたとき、それをうんと認め賞賛してあげることも大切なのではないだろうか。(※3)

 そんなことも思った一コマであった。


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 今日は、自分の失敗をネタに、教訓をたれるような記事になってしまい、大変恐縮してしまいます。すみません。
 
 なお、本日の記事にかかわる以前の記事をリンクさせてください。よろしければご覧いただきたいと思います。

 (※1)『子どものやることにはみんな意味がある。』は、正しくは、『子どもが何かするときは、必ず背景があります。』でした。『子どもの見方が変わるかな(1)』の最後に出てきます。

 (※2)『思考をはたらかせる前に感覚として』は、生物の進化として記事にしたことがあります。『わたしのいだく性善悪共有説について(2) 進化からの考察』の後半に書いています。

 (※3)『気のきいた言葉かけができたとき、それをうんと認め賞賛してあげる。』ことについては、『マニュアル』の記事がかかわると思います。

  それでは、今日も、1クリックをよろしくお願いします。それから、リンク記事を読んでね。

rve83253 at 09:23│Comments(4)TrackBack(0)教育観 | 子ども

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この記事へのコメント

1. Posted by 11211   2007年08月27日 22:54
 教育に関するテレビを見た後にこのブログをみたので、こんな事を考えてしまいました。

 もし、先生と母親の理解がぎゃくなら…。母親は、子供が落ちそうな荷物をどうにかしようとしたのだと理解している。先生は、勝手にさわられていると考えていたら…。
 もし、教育現場でこのようなことがあれば、母親は、なぜ子どもの思いをわからないのですか?言葉がでない事が悪いのですか?となるのだろう。

 頭では、子供の行動には意味があるてわかっていても、実際行動できないこと・理解ができていないことは多々ありますよね。でも、現場ではその一つが命取りなのでしょうね。

 (学校にいろいろもの申す番組だったので想像してしまいました。昔ののんびりとした教育とは違い、今は大変そうです。)
2. Posted by toshi   2007年08月28日 08:12
11211さん
 ううん。なるほど。逆の場合ですか。
 考えてもみませんでした。いい視点を持たせていただきました。ありがとうございます。
 おっしゃるように現場では、その種のことがいっぱい起きているのでしょうね。
 その一つ一つが信頼関係をきずいたり壊したりするし、また、逆に、信頼関係があれば何でもよく受け止めてもらえ、悪ければ何でも悪意をもってみられてしまうということもあると思います。
 基本は、子どもに寄り添う指導者の姿勢というような気がします。
3. Posted by 亀@渋研X   2007年08月28日 17:16
ごぶさたしています。
拝読して「子どもの目線」とか「子どもの目の高さ」というよくある指摘を連想しました。それから「大人同士でも実は同じではないか」ということも。
最近はモンスターペアレンツなどというイヤな言葉がありますが、誰の行動にも理由はあるはずですよね(とりあえず当否はさておいて)。
もちろんすべての人の行動の背景にある思いを理解することなんてできませんが、本日のエントリのように「違いがある」ということと組み合わせて考えることで開けるものがあるように思います。
モンスターペアレントともM教員とも問題児とも、ちゃんとコミュニケーションできるのではないか、そうして彼らの目線が理解できたら、もうその相手は少なくともモンスターでも問題××でもなんでもなく、単に「違う背景を持って生きて来た人」「違う考え方をする人」になるのではないか、なんて。
甘いでしょうかね。甘いんでしょうね。
4. Posted by toshi   2007年08月29日 02:25
亀@渋研Xさん
 いつぞやは大変お世話になりました。

 おっしゃること、とても共感できます。

 大人同士でも、そして、日本人同士でも、とかくぎすぎすしがちですが、ちゃんと理解し合える土壌はあるはずですね。
 甘くなどないと思います。わたしのつたない経験で言わせてもらえれば、『心をこめて話を聞く。』それが基本のように思いました。
 
 ああ。それでも、理解し合えなかったケースが、まれにはありましたね。モンスターとまでは言いませんが。

 

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