2007年09月07日

認めてもらいたい欲求4

9df3fae2.JPG 今日は、『ほめる量をそろえる努力』すなわち、『どの子も認め、ほめる』実践でも問題は生まれるのであり、それをどう克服したらよいかを述べるのであるが、そのまえに、ちょっとお断りしておきたいことがある。


 一つの例示から始める。

 わたしがかつて、教諭として勤務した学校で、学級経営の研究に取り組んだことがあった。

 あるとき、一人の教員が、次のような発言をした。

「人には認めてもらいたい欲求がある。特に子どもは、成長期にあるのだから、ほめて認めてやることは、学級経営のうえでも、はかり知れない効果をもたらす。
 とにかく、ほめる実践をしようではないか。
 とかく教員は、子どもが価値あることをやっても、それを当たり前にしか思わず、やり過ごしていることが多くないか。それでは、子どもの伸びようとする心をつんでしまう結果になると思う。」

 それに対し、別な教員が、こう言った。

「子どもをほめることなど、そんなに大切とは思わない。意味もない。だって、子どもにはほめられたいという本能にも似た欲求があるから、ほめればほめるほど、ほめられたくて、無理してしまう。本心からやる子を育てるには、ほめることより、やらなければいけないからやるというような自覚を持たせる方向で、努力した方がいい。」

 そうしたら、ふだんは温厚な校長がめずらしく色をなして、

「それは、皮相的な見方だ。『子どもをほめることに意味がない。』などということはない。学級経営上、よいことに決まっている。誰だって、人にほめられ、認めてもらったことにより伸びたという経験はもっているはずだ。
 ただ、『人間のやることに絶対はないので、無理させることもあるから、それには留意しましょうね。』というのなら分かる。
 しかし、留意点を絶対的な条件のように言ってしまうのは間違いだ。
 まずはやってみたらどうだ。そのうえで、先生が言うように、無理する実態が生まれたら、そのとき初めてそれへの対応を考えればよい。」

 校長の決め付けた言い方は、一方的に研究の路線を規定してしまうことになるからまずいと思ったが、言っていることは正論だと思った。


 そうなのだ。世の中の議論を見ていると、この、根本原則とそれへの留意点をごっちゃにし、ああだこうだと言っている場合がありはしないか。


 そういう意味では、本日とり上げる『問題点』は、あくまで留意点、あるいは、指導する側の配慮事項であることを、まず確認しておきたい。少なくとも、問題点があるから、ほめるのはよくないという話ではない。



 まず初めは、前回記事にした、『ええっ。ぼく(わたし)だって、宿題やったよう。先生、ほめてくれないの。ひいきしてらあ。』という、低学年の問題から。


 こういうのは、ほめられたい欲求が強いのだから、まずはその欲求を満たしてあげることから始めないと、うまくいかないだろう。何はともあれ、心を安定させてやることから始めたい。

 だから、まずは、
「ああ。そうか。Aちゃんもやってきたか。ごめん、ごめん。気がつかなかったよ。はい。よくやってきたね。えらいね。」
と、言ってやる。

 しかし、ほとんどの子は宿題をやってきているわけだ。それでも、Aちゃん以外はほめてほしいとは言わない。
 それが度重なってくると、学級内に、Aちゃんをほめることへの違和感が強まっていく。

「先生。おかしいよ。宿題なんかみんなやっているのだから、Aちゃんばっかりそんなにほめなくったっていいのではないの。」
「そうだよ。そんなの、おかしいよ。Bちゃんはふだん宿題をあまりやらないから、いつもやってくるといいなって思って、先生はほめているのでしょう。
 それなのに、Aちゃんはいつもやっているのだから、別にめずらしいことではないじゃん。」
 
「そうか。いつもやってくるAちゃんには、そのくらいのことでほめる必要はないか。なるほどな。ところで、Aちゃん。そう言われちゃったけれど、どうだい。もう、宿題をやったくらいのことではほめなくてもいいかい。」

 Aちゃんは、黙って、苦笑いしながらうなづく。
「そうか。分かった。じゃあ、Aちゃんには、もっと違ったいいことでほめてやろう。」

 これで一件落着だ。


 低学年の子は、ずけずけものを言う。しかし、そこに悪意はないから、かわいいし、素直に聞ける。言われたAちゃんもBちゃんも気にしている様子はない。素直に反省している。
 そう。そう。こうした学級の雰囲気が、Bちゃんにもいい影響を与え、なんと、宿題をほとんどやるようになったのだ。

 このあたり、小学生でも、中学年以上になると、こうはいかないだろう。『何もそこまで言わなくったっていいでしょう。』となってしまう。


 そう。高学年だと、こうなる。

 常々、みんな協力し合ったり、助け合ったりして、男女の仲もよく、なごやかに学級生活を送っているなと感じ、そのことを何度となくほめていた。そうしたら、
「先生。そのようなことでいちいちほめなくていいよ。ぼくたち、そんなこと当たり前のことと思っているし、そんなすごいことと思っていないから。」

 ああ。何とすばらしい子どもたちだ。子どもにあやまったことはいうまでもないが、上記のその言葉を、絶賛した。『ほめなくていいよ。』という言葉をほめるのだから、わたしも子どもも、大笑いだ。

 子どもが当たり前と思っていることでほめられるのは、バカにされたと思うのかもしれない。
 わたしは、『子どもは成長した。これからは、何をほめるか、よく吟味しなければいけないな。』と、緊張感を覚えた。
 


 次、本記事の冒頭の話のように、

 ほめられたいあまりに、やり過ぎる傾向が出てくることがある。無理をしてしまう。
 心が育っての結果としてやるのならいいのだが、本心はそれほどでもないのに、先生がほめてくれるからやるといった傾向だ。

 これは、でも、子どもの表情をしっかり見ていれば、かなりのところ分かるだろう。こういう子は、自分のやったことをひけらかす傾向もある。だって、ほめてもらわなければ気がすまないのだものね。

 だから、こういうときは、人知れず黙々とやっている子をその観点でほめるようにし、それをひけらかしている子に聞かせるようにする。それでかなり効果があるはずだ。

 もう一つ。こうなってしまうについては、指導する側にも問題がある。それは、

○ 終始やっていることのみとり上げて、ほめていること。どういう気持ちでやっているのかに無関心になってしまっていること。

○ そういう、ある意味、いやらしい態度が見えるようになったら、ほめる観点を変えなければいけない。前述の、『人知れず黙々と』は、その一例だ。



 最後に、現代という時代、ふえつつあることにふれる。

 それは、ほめられても、それを素直に喜べない子どもの存在だ。

 どうも、これは、根拠の薄い、一方的なわたしの思いなのだが、小さいときから叱られることばかりで、ほめられた経験が乏しい子に、多いのではないか。ほめられるとかえって心が落ち着かなくなってしまうように見える。
 これは経験が乏しいから、心が不安定になってしまうのだね。うれしくないわけはないと思うのだが、どうだろう。

 こういう子の場合、ほめられるとわざと反対のことをやることもある。
「おっ。ちゃんと席に座っていられるね。いいぞ。」
すると、すぐ、席を離れて、教室中を動き回るといった具合だ。

 わたしは、こういうとき、独り言を言うようにした。また、同じことをしている別な子をほめるようにもした。

「おれ、そんなこと、してないもん。」
「Cちゃんのことを言ったのではないよ。わたしの独り言だもん。」
などと言い返したりもした。
 
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 こういう実践をしていると、自分も挙手しているのに、
「先生。Dちゃんが手を上げているよ。Dちゃんを指してあげて。」
という子が現れます。『自分はいつも発表しているから、後でいい。』ということですね。

 つまり、子ども同士で、『えこひいき』をし始めるようになるのです。

 いや。これは、変な言い方ですね。子ども同士が、一人ひとり友達の個性を大事にし、相互評価力を高めるようになるのですね。こうなったらしめたもの。

 学級経営が楽しくて仕方ないというようになるでしょう。
 
 それでは、今日も、1クリックをよろしくお願いします。

rve83253 at 08:58│Comments(4)TrackBack(0)児童観 | 学級経営

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この記事へのコメント

1. Posted by きゃる   2007年09月08日 14:28
「できて当たり前」と言ってしまった自分自身
…なんて冷たい言葉だろう、と深く反省したことがあります。

教科、総学、道徳、特活の評価規準表を作ると
学年だけで一冊の本ができます。
「関心・意欲・態度」を筆頭に
子どもをほめる観点が並んでいます。

私は他の教師に勧めています。
得意な教科領域からでいい、評価規準表を自分の言葉で書くこと。
そうすると、子どもをほめるようになる。
ほめられると、子どもが変わる、と。
2. Posted by toshi   2007年09月09日 00:19
きゃるさん
 わたしもかつては、同じでしたよ。特に記事にも書いた、『ええっ。ぼく(わたし)だって、宿題やったよう。先生、ほめてくれないの。ひいきしてらあ。』などは、若いときだったら、間違いなくカッとして、『できて当たり前』という態度をとったと思います。
 おっしゃる通り、ほめる観点としての、『評価規準表』でありたいですね。
3. Posted by 中田   2009年03月13日 20:45
以前に子供から聞かされた話です。
牛乳が飲めなくて、昼休み返上で、飲めない子供数人と教室で黙々と、頑張っていたそうです。
先生は職員室に行き、「絶対、ずるするなよ。」と言い残して行かれたそうです。

まだ1年生でした。
先生の言うことは、絶対なのか、素直に、ずるせずに、ひたすら、牛乳を少しづつ飲みました。
そして、やっとのことで空になったので、
みんなで先生に見てもらおうと、職員室へ行ったそうです。

まず、他の先生が、牛乳パックを持った子供達を見て大爆笑したそうです。
正直な子供達がとても可愛いと思ったのでしょうね。
「わざわざ、ここまで来たのか」と言われたそうです。
親としては、よく頑張ったなあ〜の一言があればなあと思いました。

そして、担任を見つけて、皆が走って傍へ行き、
「見て、飲んだ!!」と。
担任は、そこで違う生徒を叱っている最中だったようです。
くるっと振り返るなり、
「ほんとか?」と言って、一人の牛乳パックを、
振ると、ちゃぽちゃぽと音がして、少しだけ牛乳が残っていることがわかったそうです。
「あかん、帰れ。」

昼休みが、あと数分で終る頃だったそうで、
皆は給食室へ牛乳パックを持って、捨てに行ったとのことです。

通知表は牛乳が飲めなければ、永遠に、がんばろうなんだそうです。
頑張っていても、がんばろうの評価。
子供は、がっかりしてました。
頑張ったのに、褒めてくれなかったと言っていました。


別に通知表の評価は気にしていません。
ですが、低学年だからこそ、純粋に先生の言ったことは守らなきゃとの気持ちが強かったのだろうし、
そこは褒めてあげれば、後々、いい結果に繋がるのにと思いました。

4. Posted by toshi   2009年03月15日 07:52
中田さん
 いやあ。同じ公立校の教員として、なさけなくなってしまいました。
 子どものがんばりを認めてやれない教員。変な意味で絶対評価主義なのですね。ここまでのセンならオーケー。それ以外はダメということなのでしょう。
 今の通知表は絶対評価なので、ある一定線までいかなければ、『がんばりましょう。』がついてしまうことはやむをえないのです。がんばっているのに、『がんばりましょう』がついてしまう矛盾。これは、その表記がまずいのです。表記は学校が決められますので、これは直した方がいいですね。実際、『△』『C』などで評定した方がいいように思います。
ただし、教員の言葉かけはこれはまた別。どうして、子どもを伸ばすような、温かな言葉かけができないのでしょう。
 教員の人間修業。そこからやり直さなければいけないようですね。

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