2007年09月22日

教員として、3

09ea09dd.JPG また、いじめによる自殺事件が報道されている。残念でならない。

 いじめ撲滅については、すでに記事にしているので、それをご覧いただきたい。

    本ブログの目次『いじめ』は、8番目の項目、『教育の問題』にあります。

 ここでは、ちょこっとだが、まず、マスコミ報道にあらわれた学校の姿勢について、あまり語られない面から、わたしの感じ方を書いてみたい。


 事件が起きるたびに、当該校の校長などが、見解を発表する。

 ところが、残念なことに、多くの場合、自分の学校で悲しむべき事件が起きているにもかかわらず、実に淡々と話しているということだ。そうした画面を見るたびに、違和感を覚える。自分ごととしてのとらえが薄いように思えてならない。


 かつて、幼稚園の先生だったかなあ。

 園の責任ではないのに、肉親の情を感じるような対応だったのを見たことがある。そうなってしまうのが当然ではないかと思ったものだった。



 さて、話は変わるが、

 わたしは、学級担任だったときに、仲間内の飲み会で、次のようなことを言った。


 教え子とのふれ合いについて、話題にしていたときだ。

「わたしのクラスの子が成長して、もし、刑務所に入るようなことがあったら、わたしは教員を辞めるよ。」
「ええっ。それはすごいな。なにもそこまで、責任を感じることはないだろう。」
「そうだよ。学級担任というのは、toshiさんだけではない。また、中学・高校とあるのだし。それに、子どもは、学校以外にも、さまざまな影響を受けて育っていくのだからなあ。」
「いや。そうした気持ちも、もちろん、ある。・・・。でも、そういう事態になれば、自信をなくしてしまうだろうし、それまで子どもにいろいろ言ってきたことがむなしくなってしまうだろうし、気持ち的に続けられなくなってしまうと思うのだよ。」

 そうしたら、その場にいた一人の教員Aさんが、いたく感激してくれて、

「toshiさんはすごいよ。ふつうはそこまで思わない。・・・。でも、分かる気がするな。我々教員は、ふだん子どもの前で立派なことを言っているものなあ。振り返れば、『自分はいったいどうなのだ。』って、思ってしまうこともあるよ。」



 それから、10年以上たった。

 わたしも、Aさんも、校長になっていた。


 ある、数百人集まる研修会があった。A校長は、その主催者側として、開会の挨拶を行った。

 そのなかで、

「〜。もう、10年以上も前のことです。わたしは、ある先生の言葉に大変感動したことがあるのです。
 その先生は、『もし、自分のクラスの中から、将来、罪を犯すものが出たら、〜、』
わたしたちは、日ごろこういう気持ちをもっているだろうか。ある意味、そこまで責任を感じるすごさ、そんなものを感じました。〜。」

 わたしは、思わず下を向いてしまった。会終了後、A校長に、お礼を言いながら、
「A校長さん、わたしの言葉をちゃんと覚えていてくれたのだね。ありがたかったよ。」



 ところで、またまた、話は変わるが、ブログを始めて1年半が経過した。12月でまる2年になる。

 初期のころいただいたコメントに、

「教員の本務は、授業でしょう。子どもの心を育むなどということまでは、とてもやり切れないと思います。あれこれ追いすぎると、けっきょく、虻蜂取らず。何もしなかったのと同じということになってしまうのではないでしょうか。」
というのがあった。

 ものすごく覚えている。


 そうか。そういう考えの教員もいるのか。


 『教員の本務は授業。』そこまでは賛成だ。

 でも、この方は、たぶん、知識・技能のみを学力と思っているのだろうな。

 ああ。でも、学力の一つとされる『興味・関心』は心の問題だし、そこまで、本務ととらえないと、授業だってうまくはいかないのではなかろうか。いや、学級内の子どもの人間関係を豊かにすることだって、授業成功の鍵だよね。
 けっきょく、子どもを丸抱えでとらえようとしないと、授業だってうまくはいかない。そう思った。

 その後、学校におけるいじめ自殺が大々的にマスコミ等でとり上げられるようになって、こうしたコメントは影をひそめたように思う。

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 先日、高校の学習指導要領をリンクしましたね。

 あのなかにも、心を育む内容が、ふんだんに盛り込まれていたと思います。

 ところが、現状は、???


 こんなところにも、いじめにつながる要因があるのではないでしょうか。今の教育の最大の課題と言えそうです。

 それでは、今日も、恒例の1クリックのお願いです。よろしくお願いします。

rve83253 at 12:39│Comments(5)TrackBack(0)エッセイ | むかし

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この記事へのコメント

1. Posted by きくちR   2007年09月23日 11:14
教育現場だけではなく世の中全体が「責任の所在を明確に」という風潮が定着したころから、「他人事」と割り切ってしまう扱い方が増えたような気がします。関わりを少しでも認めたら、責任を追及されかねません。
自分の領域をがっちり固めてそこから絶対にはみださないことが、自分や場合によっては家庭を守る唯一の対策のように思いそうしてしまうことも、私自身あります。
ただ、発展していく感じはありません。問題も根底からは解決しません。
2. Posted by きくちR   2007年09月23日 11:15
問題の原因が複雑にいろいろなことが絡み合っている場合、「責任の所在を明確に」自体が困難だと思います。
一方で困難の中にある場合、「責任の所在を明確に」と求める気持ちも理解できます。簡単に解決もどきをするには、割り切るのが手っ取り早いのでしょうが、「みんなが自分ごととして考える」ことが大切なように思います。
3. Posted by きゃる   2007年09月23日 11:29
今回の記事の前半部分で気になることがあります。
不適切、不必要であれば削除してください。

「クラスの子が成長して刑務所に入った」ときの責任のとり方です。
私は、辞めません。面会に行きます。そして、
ある時期、この子に関わった人間の一人として、
まず、自分自身を振り返ります。

たとえ、刑務所に入ったからといって
その子の全人格を否定されていないことは分かりますが、
本人が
「自分が刑務所に入ったから、先生を辞めたんだ。」
と誤解されないようにされないといけません。

それにしても、責任のとり方って、難しいですね。
4. Posted by toshi   2007年09月24日 07:00
きくちRさん
 『責任の所在を明確に』そのものは大事なことだと思います。しかし、人間関係がぎすぎすしていると、『逃げよう。』という思いが強くなるのかもしれませんね。
 ここでも、心が通い合う豊かな人間関係が大切になってくるようです。
 それには、まず、『長』のつく人から、手を差し伸べることが大切なようです。
 一人二人くらい、きびしい人がいても、大部分が信頼関係で結ばれていれば、なごやかな雰囲気でいけるし、大丈夫というのが実感です。
 ただし、学級経営では、一人二人であっても、心をつなぐ努力をしなければいけないと思います。
5. Posted by toshi   2007年09月24日 07:17
きゃるさん
 『不適切・不必要』など、とんでもない。自分の思い至らなかったことだったので、感謝しています。
 そうか。『面会に行く。』ということは考えなかったな。でも、考えなかったけれど、そういう事態に直面すれば、わたしも当然そうしただろうとは、今、思います。
 ごめんなさいね。わたしの場合、『責任をとる。』という意味は薄かったのです。確かに、まわりの教員はそう言ったのですけれどね。
 わたしとしては、『給料をもらって、教壇に立つ気力がなくなってしまうだろう。』という、そういう思いが強かったのです。
 おっしゃるように、子どもの人格を否定する気などは、もうとうありません。
 子どもが、『自分のせいで、〜。』と思ったとしたら、・・・。
 そうですね。これも、そこまで考えたことはなかったけれど、当然子どもはそう思うでしょうね。
 これは、やはり、自分の思いを率直に語るしかないと思いました。
 

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