2007年10月14日

人権教育(13)交流教育  共生を考える。4

37fbe6d6.JPG 養護学校と小学校との交流。

 それは、『人間社会の宝』をつくる源になるのではないか。豊かな人間性をつちかううえでも、その原点になると思う。


 『共生社会』

 口で言うのは簡単だ。どこかの総理大臣も言っていた。しかし、それを真実のものにするには、

 心が柔軟な子どものうちに、

 思い込みとか、先入観などのない子どものうちに、

 その心をきたえることが肝要ではないか。

 いや。『きたえる』などというものではないね。初任から3年目のA先生の実践を見ると、子どもはあくまで自然体にふるまっているように見える。



 本論を述べる前に、注釈を3つ、書かせていただきたい。


 その1

 上に、初任3年目のA先生と書いた。

 そう。A先生とは、一昨年、わたしにとっては初任者指導の1年目。わたしが担当した教員だった。

 A先生は、現在5年生担任だ。

 そして、本記事は、A学級の『共生』にかかわる実践(総合的な学習の時間)の概略である。

 なお、わたしは、今年度、A先生が勤務するB小学校の研究会講師として、A先生の授業を何度か見させてもらっている。


 その2

 前記事に記載した通り、養護学校と小学校との交流は、我が地域において、約10年前から始まった。『共生社会』実現に向けて、各小学校において、多くの成果を上げていることと思う。

 そして、今年、A先生の学級は、重度重複障害児の通うC養護学校の児童と交流している。Dちゃんである。

 C養護学校は、昭和54年に文部省から出された養護学校義務化に伴い、昭和57年に全国に先駆けて設立された。
 それまでは、重度重複障害児は、就学猶予とされた。就学猶予とは、言ってみれば、『あなたは障害が重いので、学校に来なくていいですよ。』という措置だ。今は、同校設立によって、そのような差別的なこともなく、スクールバスにより家から通学できる。


 Dちゃんは、肢体不自由なため、ほとんどベッド生活である。自力歩行はできないし、言葉を発することもできない。食べ物を飲み下す力が弱いため、鼻から胃に管を入れ、その管で栄養をとる。

 そのDちゃんの大事な学習内容の一つは、外部からの刺激に対し少しでも反応を豊かにするということである。気持ちを表現できるようにするということである。まさに、『生きる力』を養っていると言えよう。


 その3

 わたしの教員として、また人間としての師である島本恭介氏は、かつて、C養護学校長だった。



 さあ。それでは、今年度に入ってからの交流の様子をみてみよう。

 わたしは、5月、A先生の学級の、『Dちゃんとの交流を考え合う授業』を参観している。
 その段階では、Dちゃんと何度か会っている子と、まったく会っていない子とが混在していた。でも、会っていない子は、会っている子からいろいろ聞いていたようで、双方とも積極的に発言していた。 自分ごととして、自分とDちゃんとのふれ合いを念頭におきながら、ほとんどの子が発言していた。

 発言できなかった子も、真剣に友達の話に耳を傾けていた。賛成の拍手をしたり、首をかしげたりした。
 真剣に考えるあまり、沈黙がただよっているときもあった。


 初めは、Dちゃんが学校へ行く意味について考えた。

 子どもたちは、『家に寝たきりでは友達ができない。学校へ行けば、友達が大勢いる。友達とふれ合うことはとても楽しいことではないか。Dちゃんのご両親も、それはうれしいに違いない。』そう考えた。

 そのなかで、Dちゃんを知っている子たちから、
『音楽と落語が好きなこと。』
『音が聞こえたり動くものが見えたりすると、目で追うこと。』
『仲よくなると、力が入って握手ができること。』
『Dちゃんのお母さんは、Dちゃんとぼくたちと一緒にいることを、うれしく思っていること。』
などがでた。


 次に、自分たちはどのような交流をしていったらよいかの話し合いとなった。


 交流することには全員賛成ながら、交流の仕方については、意見が分かれた。

 『何も特別な交流会をする必要はない。ふだんのあるがままの生活のなかでの交流こそ本物で大切。』
と考える子たちと、
『それはそうだが、だからと言って、交流会をしないと決めてしまう必要もない。やるなら、音楽会がいい。』
と考える子たちの対立だっ た。

 その話し合いのなかで、ハンカチ落としと爆弾ゲームと、どちらがいいかを話し合う場面があった。
『ハンカチ落としでは、確かにオニは動くけれど、たった一人が動くだけだし、Dちゃんは、目で追いきれないのではないか。それでは、Dちゃんは楽しくない。
 それに対し、爆弾ゲームは、大きな音がして、そちらを見るだろうから、きっと楽しいに違いない。』
などと言い合っていた。

 その結果、もっといいのは音楽会という方向でまとまっていった。

 授業の最後には、
「ぼくたち、わたしたちは、Dちゃんとの交流を通して、人を差別しないで、誰とでも仲良くする心をもつことができるのではないか。」
という意見も出た。
 でも、まだ、この段階では、『差別しない心』は、意見が突出し過ぎて、全体の意識にまで深まるようにはならなかった。

 『いいのではないか。まだこの段階では、そこまで意識が深まらなくても。・・・。ただし、一年間交流し合うなかで、そこまでいってほしい。』と思った。



 授業後の研究会では、

『この授業では、一年間の交流計画を話し合うはずだったのではないか。そういう意味では、『特別な交流会が必要かどうか。』まではよかったが、『ハンカチ落としか爆弾ゲームか。』は、現段階では、ちょっと、具体的過ぎた。もっと早く切り上げて、年間計画の方に話し合いを戻した方がよかった。』
という意見が出された。

 わたしもその通りと思った。



 さて、途中経過は省略して、つい最近のことに話題を移す。

 5年生が、社会科見学で、自動車工場を訪れることになった。

 そのとき、子どもたちから一つの考えが出された。

「自動車工場は、大きな音がいっぱいするでしょう。それに、造っているものが車なのだから、動くものがたくさんあると思うの。Dちゃんも一緒に行けば、きっと喜ぶのではないかなあ。」
「そうだよ。きっと目で追うと思うよ。」
「まばたきもするのではないかな。」
「みんなで誘ってみようよ。」

 そして、この話は具体化し、車好きのお父さんがDちゃんに付き添うことになった。



 今回、ブログ掲載をお許しいただきたいと思い、わたしからお願いしたところ、Dちゃんのお父さんから懇切なるメールをいただいたので、それを紹介させていただきたい。



『〜。

 交流授業の際は、A先生をはじめ、児童の皆さんにあたたかく接していただき、楽しく授業に参加させていただいております。

 先日は、社会科見学にも、参加させていただきました。

 ふだんの交流授業では、A先生のクラスの児童と交流しておりますが、今回の社会科見学では、5年生全員が参加していたため、Dを他のクラスの皆さんにも紹介していただきました。

 また、5年生全員による合唱のプレゼントまでしていただき、Dもいつになくよい反応(目をキョロキョロ)をしていたので、わたしもびっくりしてしまいました。

 このような交流授業がどこの学校でも行われるようになれば、障害を持つ子どもたちにはよい刺激となり、健常者の子どもたちには、「世の中にはいろいろな人たちがいるのだ。」ということが理解されるようになるのだと思います。

 わたしたちは、なるべくDを連れて、地域のイベントにも出向くようにしています。夏祭りや盆踊りに行くと、Dを見かけて、B小学校の子どもたちが、
「元気でしたか。また、学校に来てくださいね。」
と、声をかけてくれるようになりました。これも、交流授業に参加しているおかげだと感謝しております。

 〜。』


 交流の様子を拙ブログでとり上げることをご了解いただいただけでなく、このようなメールまでいただき、心から感謝した。


 それにしても、社会科の工場見学先での合唱など、わたし自身経験したことも聞いたこともなく、ただただ驚いた。これも、子どもたちのアイデアに違いない。

 工場の人も、ものすごく驚かれただろうな。



 以上、交流をしていると、子どもたちは自然体で、『共生』を自分のものにしていく。

 もちろん、ただ交流していればいいというものではない。そこには、基盤としての、学級内の『共生』がなければならない。それをつくるのは、担任と子どもとの信頼関係だ。それが子ども同士の信頼に転移する。


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 実は、わたしには、恥ずかしいことがあります。

 この社会科見学の話を聞いたとき、わたしは、過去の出来事を思い出しました。

 教員として、ただただ恥ずかしい。A先生のクラスの子とくらべると、わたしは、足元にも及ばない。そんな思いで、あらためて、強い自責の念をもちました。
 
 それは次の記事に譲らせていただきます。

 それでは、今日も、1クリックを、どうぞ、よろしくお願いします。

   『交流教育』の記事の次に続く。


rve83253 at 14:30│Comments(3)TrackBack(0)交流教育 | 人権教育

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この記事へのコメント

1. Posted by 幾多郎   2008年02月04日 09:41
 道徳教育=修身教育ではない。本来道徳は楽しくなくてはならない。心の教育だから。心に点数は付けられない。だいたい道徳指導教員を学校に専任させるなどアホである。道徳に年間指導計画があること自体わかってない。道徳は担任裁量であるべき。本日はここまで。
2. Posted by toshi   2008年02月04日 10:08
幾多郎さん
 これは削除の必要のないコメントと判断しました。読者の皆様も了承してくださるでしょう。それどころか、お返事のコメントをさせていただきましょう。
《道徳教育=修身教育ではない。本来道徳は楽しくなくてはならない。心の教育だから。心に点数は付けられない。》
 これに異存はありません。同感です。
《だいたい道徳指導教員を学校に専任させるなどアホである。》
 これには驚きました。そのような専任があるのですか。それはやはり担任が指導するべきでしょう。
《道徳は担任裁量であるべき。》
 これには留意点が必要ですね。研究体制がしっかり整っていることが前提にないと、担任のひとりよがり、独走、勝手な思い込みなどもありそうです。
3. Posted by toshi   2008年02月04日 11:50
ただ、このコメントは、『ああ。道徳(徳育)が教科だって。』へのコメントと理解します。
 

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