2007年12月12日

共生社会実現に向けて 〜授業の考察〜3

b5ef46da.JPG 本記事は、前記事でとり上げた授業の考察です。ですので、前記事をお読みでない方は、ぜひ、そちらから、よろしくお願いします。

    人権教育(15)交流をテーマの総合的な学習の時間


 A養護学校とB小学校との交流は、成果を上げつつある。DさんとC学級の子どもたちは、幸せを共有しつつある。相互に理解をすすめ、成長し合っている。


 A養護学校のGクラス担任のE先生は、よくおっしゃる。
「いやあ。Dさんは、C学級のみんなとふれ合うとき、ふだんの授業などでは見られないような、ほんとうにいい表情をしているのだよね。」

 もうご承知だと思うが、Dさんの学習内容は、外部からの刺激に対し、少しでも反応を豊かにすること。気持ちを表現することである。
 今、さらに付け加えると、『快、不快の気持ちなどを、しっかり表現できるようになること。』もある。

 そして、C学級のみんなとふれ合うことによって、それは、よい方向に向かいつつあるのではないか。
 Dさんのご両親も、E先生にとっても、それは、大変うれしいことではないかと思われる。


 他方、C学級の子どもたちにとっても、Dさんとのふれ合いによって、すばらしいものがもたらされているのではないか。

 これについても、E先生の、宝物のような言葉がある。授業の最後、C学級の子どもたちへのお話のなかに、

「Dさんのことを分かろうとするくらいの気持ちで、このクラスの他の友達のことも考えてみてください。そうすると、目や耳だけでは分からなかった友達のことが見えてくると思います。そんなふうにして他の友達や兄弟や家族のことを考えてみると、また違ったところが見えてくるかもしれません。」

そういう言葉がある。

 そうだね。C学級の子どもたちにとっては、それが一番の、交流によるメリットなのだろうね。

 そして、それは、比較的、容易なように思える。

 これだけ豊かに、価値を求めて、考え合える子どもたちだもの。深め合える子どもたちだもの。E先生のお話の意味を理解し、そういう心で友達と接するようになるのではないか。いや。もうなっているのかもしれない。


 わたしは、C学級の子どもたちのことを考えるとき、実は、自分自身、あるいは、大人社会の現実を考えざるを得ない。


 E先生は、『目と耳だけでなく、』とおっしゃった。

 しかし、わたしたちは、日ごろ、その、目と耳だって、フルに使っているだろうか。

 相手の顔を見ない。聞いているようでいて、聞いていない。そういう現実は枚挙にいとまがないように思える。

 少なくとも、C学級の子たちは、『それをやったら、Gクラスのお友達とはふれ合えない。』それは全員が認識しているだろう。『目と耳だって、全神経を傾ける必要がある。』それも認識しているだろう。

 お友達の表情を見る。快・不快を読み取ろうとする。そうして、お友達とふれ合う。そういうかかわり方を、級友同士でもしているのではないか。


 読者の皆さんは、もう、お気づきだろう。

〇友達のあるがままを受け止める。そして、認める。
〇あるがままを認めたままで、ふれ合える。
〇友達の個性の新発見ができる。
〇『いじめ』など、起きようがない。

 担任のC教諭は、本授業のなかで、子どもたちに、『すごい成長だね。』を連発している。それは、こういうことを指しているのではないか。そう思える。


 さらに言いたい。

 実は、もう一人、成長しているのは、C教諭ではないか。初任者研修を担当し、一昨年、C教諭とかかわったわたしにしてみれば、心からそう思える。C教諭自身が、この交流のなかから学んだことは実に大きいと思える。

 『子どもを信頼するということ。信頼できるということ。』これは、教員にとって大きいのだ。

 はたから見れば、子どもってかわいらしく見える。純真に見える。

 しかし、いざ、学級経営してみれば、不安に襲われることもあるし、不信の念に駆られることもある。でも、そうした子どもたちの現実も受け止めながら、その上に信頼関係を構築するということ。それは並大抵のことではないのだ。
 でも、C教諭はそれができているのではないか。そう思える。



 先ほど、『いじめ』など起きようがないと書いた。

 これに関連して、実は、現実、今の日本には、障害者への差別が歴然としてある。残念ながら、それは、ある。
 もちろん、その意識を克服しようとする営みもある。今の日本はそういう意味で、発展途上なのかもしれない。

    かつて、そういう事例を書いたことがあるので、リンクしよう。

   障害者への差別

   障害者への差別(2)

   差別のない社会へ  


 さあ。未来へ目を向けよう。

 C学級の子どもたちが大人になったときは、・・・、

 これは、授業記録のC38さんが、力強く言ってくれた。
『ぼくも初めはどうしていいか分からなかった。だけど、一緒に交流して、Dさんのことが分かってきた。だから、大人になって、Dさんみたいな人に会ったときにも、どうやって話せばいいか分かるから、話せると思う。』

 今、こうした交流は、全国各地で行われていることだろう。そうなると、未来の日本は、差別のない社会へ向かうのではないか。

 そんな期待も抱く授業だった。

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 本記事をご覧の読者の皆様。

 繰り返すようで、恐縮ですが、大人社会の差別について、わたしは、よく考えます。

 今回も、子どもたちから学びたい。そういう思いになりました。

 わたし自身の差別意識。それを反省しながら、記事にしたこともあります。

    人権教育(3) 交流教育 他

 それでは、今日も、1クリックを、よろしくお願いできればと、思います。


rve83253 at 06:20│Comments(8)TrackBack(0)交流教育 | 総合的な学習の時間の指導

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この記事へのコメント

1. Posted by yoko   2007年12月12日 22:20
障害者との交流、そこにとどまらずに更に発展して考えるよう仕向けたE先生。とても素晴らしいですね。
子供がせっかく心から学び取っても、肝心の周囲の大人ができなければ、子供達の芽を摘んでしまいはしないかと危惧します。
大人こそ学ばなければいけない事柄ですね。
ネット上のやり取りも同様のことがいえますね。
元々相手が見えないからなお難しいのですが、言葉は使い方によっては鋭い武器になってしまうのですから・・・
常に反省と実践です。
toshi先生、いつもありがとうございます。
2. Posted by toshi   2007年12月13日 05:58
yokoさん
 わたし、日ごろは、指導者は、子どもの思いを引き出すのであって、一方的な注入はよくないと言っています。
 しかし、本授業でのE先生のお話は、その例外に属します。
 一つは、子どもたちの真剣な学びにより、E先生のお話を受け止める土壌ができていると考えられること。いわゆる、右の耳から入って左の耳から抜ける状態ではないと思えること。
 二つ目は、E先生とC学級の子どもたちの出会える場は、いつでも可能、もてるという状態ではないこと。
 そうした理由によります。
3. Posted by toshi   2007年12月13日 06:05
《子供がせっかく心から学び取っても、肝心の周囲の大人ができなければ、子供達の芽を摘んでしまいはしないかと危惧します。》
 ほんとうにおっしゃる通りですね。
 わたし、『この子どもたちが大人になったとき、〜』と書きましたが、最低限、今の大人、特に、日々、子どもと接する立場にいる者の支えがないといけないと思います。そういう意味で、教員、保護者の生き方は重要になりますね。
 
4. Posted by Hideki   2007年12月13日 20:45
すっかり、ご無沙汰してしまいました。
お元気そうで何よりです。

でも、素晴らしい授業ですね。
それが当たり前のようにどこでも行われる、
そんな日本になって欲しいと切望します。

正直、健常者からみれば、
障害者は「良くわからない」存在なのは確かです。

何するかわからない、
何でそうなったかわかからない(自分にも感染るかも?)

いや、そもそも何なのかわからない
(…人間、ヒトなのか?)

ヒトは良くわからないから、
不気味に思い、警戒する

それは、哀しいけど、でもどうしようもない
自然な心理なんだと思う
5. Posted by Hideki   2007年12月13日 20:52
だから、仮に障害を理解できなくても、
また、ましてや助けようとしてくれなくても、
良いんです

ヘタに良いコになってもらわなくてもいいんです。

口だけ良い子でいて、その実一切触れようとしない
そんな表層的な態度なんかいらない

気持ち悪い、何かイヤだ
そんな本音は本音のままでいいから

ただ、接触して、
良くわからないけど、「同じ人間なんだ」
という点だけでも、知ってもらえれば良い

知ることで、警戒は少しづつ溶けていくと思う

これは子どもだけではありません
むしろ大人の方が問題にも感じます

6. Posted by toshi   2007年12月13日 22:50
Hidekiさん
 お久しぶりです。
《それが当たり前のようにどこでも行われる、そんな日本になって欲しいと切望します。》
 以前も、我が地域の交流教育の授業については、記事にしたことがありますが、全国的にはまだまだなのでしょうか。どうも、わたしたちは、自分の地域のことしか分からない状況があって、申し訳ありません。
 我が地域では、当たり前のように行われているとは思うのですが、それでも、当該児童の学年だけで行われているとか、本実践にしても、一学級だけの交流になっているとか、そういう問題点はあるのです。
 
7. Posted by toshi   2007年12月13日 23:06
最初は、違和感のある子どもたち。
 しかし、それは、理解のスタートだと思います。この段階で本音の部分が出てきてこそ、ほんとうの理解にすすむのだと思います。きれいごとでは、終始きれいごとで終わってしまうでしょう。
 根底の部分で、何でも言い合える学級、そして、価値を追求する雰囲気になっているかどうかが大きいのだと思います。
8. Posted by toshi   2007年12月13日 23:29
ごめんなさい。時間がとびとびになってしまっています。
 子どものときからこういう交流の機会をもつということが、何より大切なのではないでしょうか。心が柔軟なうちだからこそ、自然体で受け止めることができるのだと思います。
 Dちゃんのお父さんからいただいたメールに、『できるだけ、まちへ一緒に出るようにしているが、Cクラスの子たちを中心に、多くの子が寄って来て、声をかけてくれるようになりました。』とありました。そういう日々の自然な交流こそが大切なのでしょうね。
 

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