2007年12月14日

今なぜコアカリキュラムか。(2)PISA調査との共通理念4

1beb9ae9.JPG わたしは、本シリーズ(1)において、

『これは、非常にあらっぽい言い方だが、このコアカリキュラムとは、つい最近の、PISA型調査がもつ教育観とほぼ共通したものをもつと思っていただいてかまわない、・・・、(と、わたしは思う)。』
と書いた。

 しかし、その後、双方を読み込むなかで、これは、これは、荒っぽくなんかない。まさに、『両者がもつ教育観は、ほとんど同一だ。』と、自信をもって言えるようになった。これは、うれしいことだ。

 すると、大学で、コアカリキュラムの研究が盛んになっているらしいことも、自ずとうなずけるというものではないか。


 おもしろい。

 かたや、昭和20年代の、もう、古典に位置づく(?)かもしれない教育論と実践。他方は、今をときめく、世界的規模で行われる学力にかかわる調査。

 コアカリキュラムは、昭和20年代末期、国(?)の手でつぶされてしまった。そして、教科主義という意味においては、戦前の指導法に戻ってしまった。

 一方、現在PISAは、世界的に絶大な支持を獲得しているように見える。我が国においても、学力低下を嘆く声はあっても、この調査そのものを問題視する声はまったくないのではないか。(このあたり、最後にまたふれる。)

 このように、一見、まったく結びつかないかのように見える両者が、共通の教育理念をもっているとは。

 わたしにとって新発見であった。


 しかし、読者の皆さんのなかからは、いぶかる声が上がるかもしれない。

『なんだい。コアカリキュラムを推進したご高齢の先生は、『テストの点数?そんなのはお遊びだ。』と言ったというではないか。それなのに、もう一方は、ペーパーテストそのものだ。その両者が、何で同一の教育観なのだ。』


 そこで、双方の理念を見てみよう。

 一つは、PISA責任者のシュライシャー報告。ただし、今日参考にしていただくのは、これまでふれなかった理念の部分だから、P3の右側から、P7の左側までだ。

 もう一つは、拙ブログの温故知新シリーズということになる。


その1 教科という枠組みをどう見るか。

 PISAシュライシャー講演では、
『わたしたちが生徒に期待するのは、実生活において、彼らが持っている知識を活用できること。
 (ときに、識者の皆さんから、)これは数学的課題としているが、科学的課題に属するのではないかとの批判をいただく。
 それに対し、わたしたちは、実生活とはそういうものだ。実生活では、生徒は、どの教科を問題解決に適用すべきかを教えられるものではない。生徒たちは、異なった分野の知識を統合していかなければならない。わたしたちは、生徒に受けさせるテストのなかで、意図的に教科領域を混合させるようにしている。』(P6)
と述べる。

 このなかの、『異なった分野の知識を統合していかなければならない。』が、まさに、コアのコアたるゆえんに符合する。実生活に、教科の枠組みなぞないではないか。そう言っているのである。

 それについて、コアでは、
『教育が人間の幸福を目指している。その為に平和な文化社会民主社会を建設する。そのような観点に立って見た時に、教科主義の旧教育がよいか、(子どもの)生活中心主義の新教育(コアカリキュラム)がよいかという考察をし、批判をしなければならない。〜。 
 しかし、幾多の理論や実践を通してみると、どうも生活中心でなければならないように思われる。文部省でも社会科によって、教科の一部をこの方へ切り変えた。それが優秀なものであるとか、民主社会にとって必然の道であるとか、その確かな見通しをしっかりと掴むことができたら、一日も早くその方へ切り変えることが、児童のためであり、社会のためではないか。これは、我が校の全職員の結論であった。』

 コアカリキュラムの実践校(A校)、昭和24年の研究紀要で、同校校長は、こう述べている。

 子どもが追求する学習問題は、子どもの生活のなかにあり、それゆえ、必然性、切実感のある学習問題で追求しようとすれば、教科の枠を取り払わなければならない。
 そう述べている。

 どちらも、生活そのものに、学習の足場をおいていると言えよう。

 さて、ご承知のように、『ゆとり教育』は、今、大変な批判を浴びている。しかし、考えてもみよう。『ゆとり教育』は、教科の枠を取り払えとまでは言っていない。『ゆとり教育』をおし進め、さらに、子どもの生活に密着していこうというのが、両者の主張するところではないか。

 そして、そこにこそ、総合的な学習の時間が大切にされなければならない理由がある。


その2 学力をどうみるか。

 これについて、PISAでは、
 『一般的に、リテラシースキルは、学校におけるあらゆる事柄の基礎と理解されているが、PISAは、そう理解していない。リテラシーは、読み・書き能力と定義していない。それは技術的なリテラシーに過ぎないからだ。
 わたしたちは、情報を処理すること、情報を結びつけたり、情報を評価したり、情報に基づいて熟考する能力を測りたいとしている。
 基礎的な能力をどのようにとらえるかということだが、単に技術的な意味で言っているのではない。言ってみれば、社会に対する窓というようなものだ。』(P4 右側)

 現在の日本の学力観を痛烈に批判しているとも言えよう。今回の全国学力検査の言葉を借りれば、
『我々は基礎は問うていない。そのようなものは、技術に過ぎないからだ。我々は、将来の実生活において必要とされるであろう学力、それは、活用だが、それを測りたいのだ。そして、活用のなかにこそ、基礎がある。』
となるのではないか。

 コアでは、これを何と言っているか。

 『我々が夢に描いたものは、机の前に黙然と坐って話を聞いている子どもたちではなくて、教室の内外を縦横に活躍し、自ら学ぶものを自ら求め、自ら設計し、級友と協力して、進んで生活を向上させていこうとする。内には記憶力の練磨のみではなくて、批判力・思考力を蓄積し、自我の生長を欲求し、外には人々と協力し、お互いに尊敬し、恩愛に結ばれた美しい世界を開拓していく。

 我々は校門を閉じて、教室の中に立てこもっていたのではだめだ。学習の対象は、学問ではなくて、生活環境である。新教育をしようとするならば、まず、この現実の社会を探り求めて、そこに何があり、そこでは何が行われ、またそこで何が行われようとしているかをつきとめなければならない。我々の夢を実現し推進する原動力となる生活課題は、この子どもも成人も含めた社会の、ほこりと汗のなかにあるのだ。』

 わたしは、この文章のなかに、まさに、今の『総合』を見る。また、ここのところ、拙ブログでもとり上げてきた『交流教育』を見る。

 実生活重視のPISAが測ろうとしているのも、こうした学力なのではないか。


その3 その他(すみません。ここは、記述上、コアカリキュラムからは離れます。ただし、理念は一緒と確信するものです。)

 なお、PISAには、次の言葉があった。
『わたしたちが生徒に求めたいのは、科学的・数学的に考え、証拠に基づいた結論を導き出し、一般に信じられていることと、証拠に基づいた結論とを明確に区別できる能力だ。』

 これは、よく拙ブログにリンクしてくださる、PSJ渋谷研究所Xさんが主張されているのを読む思いがした。やはり大切な学力観であろう。

 もう一つ。PISA講演者の言葉。
『わたしたちは、生徒たちに知識の再現を求めているのではない。実際ほとんどのPISAの課題は、必要とする事実的な知識は、すべて与えている。すべての情報を一方のページに載せ、課題を他のページに載せた。』

 これは、我が地域において、50有余年実施してきた標準学力診断検査社会科の思考問題とまったく同一の出題の仕方である。
 わたしは、この仕事に長く携わってきたから、上記文章をとてもうれしい思いで読んだ。


 最後に、上記リンクさせていただいたPSJ渋谷研究所Xさんの記事に、次のような文章がある。

『これは「学力」でしょうか? 「応用力」「読解力」といったものでしょうか? あえていうならば「市民に求められる健全さ」の一部としての「知的態度」や「社会性」「合理的判断力」などを測ろうとしているのではないでしょうか?』

 すごい。敬服してしまう。ほんとうにおっしゃる通りだ。

 ここからは、教科の枠にとらわれないどころか、PISAは、『科学』『数学』『読解』などと言っているが、実際は、その枠すら取っ払っているのではないか。そうおっしゃっているように見える。(すみません。PSJ渋谷研究所Xさん。言い過ぎていますか。)
 まさに、PISAが言う、『実生活に役立つ学力』をほんとうに的確にとらえていらっしゃる。そういう思いがした。

 また、こうもおっしゃっている。

『(PISAの学力観を指して、)「こんなものは学力じゃないから気にしなくていい」という人が現れているようすがないのが、以前から不思議でした。そういう声に出会ったことがないのが、PISAがなんなのかが理解されていない傍証のひとつかもしれない、とも思います。』

 わたしもこうした思いはもっていた。日本の学力低下論者は、PISA調査を根拠にして、それを言っている。でも、彼らの主張は、『基礎・基本ができていない。読み書きそろばんだ。100マスだ。反復訓練学習だ。』ではないのか。さらに最近は暗唱まで出てきたらしい。

 となれば、彼らは、それを軽視しているPISA調査に反対すればいいのに、それをしない。それどころか、支持しているかのように見えるときもある。

 この点、わたしは、PSJ渋谷研究所Xさんと、まったく同一の見解を持つものである。


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 ごめんなさい。最後は、コアカリキュラムから離れてしまいました。

 しかし、その離れた部分においても、両者はまったく共通の理念をもっていると確信するものです。

 それでは、今日も、皆様の清き1クリックを、どうぞ、よろしくお願いします。

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この記事へのコメント

1. Posted by 亀@渋研X   2007年12月14日 23:55
toshi先生、いつにも増して過分なご高評をありがとうございます。専門家の方の読むに耐えるものか自信がなく、何度もトラックバックしかけながら、ついそのままになっておりましたところへ、思いもかけない内容でのトラックバックをいただき、思わず目に熱いものが(照笑)。
勇気を与えていただきました、本当に感謝しております。改めて、12/5の「PISA調査2006結果報告を受けて」にトラックバックを送らせていただきました。
2. Posted by 亀@渋研X   2007年12月15日 00:18
(続き)
> ここからは、教科の枠にとらわれないどころか、PISAは、『科学』『数学』『読解』などと言っているが、実際は、その枠すら取っ払っているのではないか。そうおっしゃっているように見える。

ありがとうございます。おっしゃっていただくまで自覚的ではありませんでしたが、まず教科の枠に収まっているかどうかを、私は気にしていなかったように思います。理由はいろいろ思い浮かびますが、単純に生活のなかに教科という枠組みがないからかもしれません。子どもの通知表を見るときぐらいしか、気にしていないように思います。
自分の最近の関心領域がそうなっているのかもしれません(科学とニセ科学はどこが違うのか、人はなぜそこにハマるのか、などということを考えるには、自然科学だとか社会科学や人文科学だとかいった大枠さえ、あえて超えざるを得ないようです)。

3. Posted by 亀@渋研X   2007年12月15日 00:19
(続き)
また、これは想像にすぎませんが、PISAは、測ろうとしている「力」と個々の設問の関係を厳密に気にしているわけではないとは思います。道具としての力は、あれこれ組み合わせて使う必要があるという事情もあるでしょうけれども、私は、PISA自身に「PISAの定義は一般に言われている用語概念と決定的に違う」という意識があるのではないかと考えています。そもそも、個々の力についてのPISA的な定義が広く社会に共有されているとは考えていないのではないでしょうか。もっと提案というか啓蒙的な動機から分類・定義されているように思います。「本当の読解力って、こういうものでしょう?」というような。
そして、私はそうしたPISAの態度に違和感を感じません。「その定義なら、たとえば『リテラシー』という言葉の選択は、ドンピシャではないよな」とは思ったのですが、考え方自体にはとても共感しています。
4. Posted by 亀@渋研X   2007年12月15日 00:20
(続き)
コアカリキュラムに関する記事はこれまでも読ませていただいておりましたが、私もPISAの理念や、最近の「生きる力」「総合的学習の時間」の考え方のうちの好ましい部分とかなり共通するものを感じておりました。ごく直観的な感想にすぎませんが。
ただ、現在の「生きる力」「総合的学習の時間」が理念だけ現場に投げ与えられて方法論や予算・人員といった「実践のための物資」なしで進めさせられてきましたよね。そこを危惧したり、それゆえに疲弊する現場の声も何度となくマスメディアやネットで触れてきました。それを考えると、コアカリキュラムが顧みられなくなった背景にも、そうしたことがあったのではないかと想像したりもしております(想像というよりも妄想かもしれません)。

長々と失礼いたしました。
5. Posted by toshi   2007年12月15日 09:52
亀@渋研Xさん
 とんでもありません。今回いただいたこのコメント4つにしても、大変学ばせていただきました。ありがとうございます。
 PISAの言う『読解』が、段落、要約、小見出し、主題の読み取りなど、日本的と言っていいのかどうか分かりませんが、そういうのとは違うことは、理解していました。
 そして、今回の一連の記事やPISAや亀@渋研Xさんのブログから確信したことは、一見不動のように見える教科という存在も、これは、大人の都合によって出来上がった分類に過ぎないのではないか。学ぶものにとっては、『生活』そのものしかないということでした。これは、大人も子どもも関係ありませんね。
 
6. Posted by toshi   2007年12月15日 09:58
ただ、日本もこうした認識はあり、それがために、小学校低学年において、社会科、理科がなくなり、生活科となりました。ただ、生活科が教科とされたのは、上記理念からすれば、皮肉だったような気もします。そして、総合(教科ではない。)の誕生となるわけです。おっしゃる通り、理念はすばらしかった。
《現在の「生きる力」「総合的学習の時間」が理念だけ現場に投げ与えられて方法論や予算・人員といった「実践のための物資」なしで進めさせられてきましたよね。そこを危惧したり、それゆえに疲弊する現場の声も何度となくマスメディアやネットで触れてきました。》
 これは、あたっているようでもあり、しかし、方法論こそ、現場が努力して獲得すべきものと言った意味では、『違いますよ。』と言いたい部分もあり、むずかしい問題です。
7. Posted by toshi   2007年12月15日 10:07
退職してもなお現場にいるわたしとしては、『努力します。』としか言いようがないような気もします。
 ごめんなさい。純粋にまじめな気持ちでそう思っています。
 コアカリキュラムについては、亀@渋研Xさんの洞察のとおりという部分もあると思います。現場が消化不良であったことは否めないようです。そして、コアの研究や取組が始まってすぐ、もう、批判が現われていたようです。
 ただ、わたしは、当時は、強い政治的意図が働いていたことは間違いないと思います。占領下の初期と、その後とでは、憲法9条の解釈にしても、教育委員の公選制が廃止されたことにしても、強い軌道変更が図られました。
8. Posted by toshi   2007年12月15日 10:14
ただ、わたしは、甘いと言われるかもしれませんが、ひそかに、これからの日本は、いい方向にいくかもしれないという、淡い期待は抱いています。
 それは、日本は外圧に弱いということ。そういう意味では、PISAというのは、いいですね。
 先日、文科省の話を聞きました。
「総合は、時間は減りますが、決して軽視していいという意味ではありません。PISAでも分かるように、『総合』は、世界標準の学力を養うものなのです。」
 これは訴える力がありそうです。それならなぜ減らすのだという思いもありますがね。
 でも、肝心の文科省自体が、この点では、二面性をもっていますから、『淡い』となってしまいます。
 今後とも、がんばっていきたいと思います。ありがとうございました。
9. Posted by kei   2007年12月16日 08:27
[我々が夢に描いたものは、机の前に黙然と坐って話を聞いている子どもたちではなくて、教室の内外を縦横に活躍し、自ら学ぶものを自ら求め、自ら設計し、級友と協力して、進んで生活を向上させていこうとする〜」を読ませていただいて、まさに自分が求めているものと重なりあっていて、驚くと共に、勇気付けられました。
 総合の枠だけではすべての教科・領域においてこのような考えを広げていけたのなら、子どもたちの「学ぶ意欲」「考え抜く力」「人間関係力」は向上するのでしょうね。教師というより、大人の意識改革と、ある程度の時間が必要なのかもしれません。そこが悩みでもありますが。
10. Posted by toshi   2007年12月16日 14:13
keiさん
 引用していただいた文ですが、それが、皇国史観に彩られたときからわずか4年後の文であることに、今さらながら、驚かされます。
 おっしゃる通り、本来は、総合だけではないですよね。総合だけでがんばろうとしたって、子どもは動くわけはないですものね。
 ともに、がんばりましょう。
11. Posted by KG   2007年12月17日 09:23
戦後のコアカリキュラムというのは、さらに遡れば大正時代の新教育運動がベースにあるのではないでしょうか。
現在の教育学会をリードする佐藤学先生の師、稲垣忠彦先生の著作の中に大正時代の問題解決型学習から現代の総合学習までを紹介する著作があったような気がします。(読んでいませんが)
12. Posted by toshi   2007年12月17日 15:37
KGさん
 そうですね。わたし、例によって、検索にかけて調べてみました。
http://panflute.p.u-tokyo.ac.jp/~fukuji/Imai06_LibCul_paper.pdf
 これは学校図書館にかかわる論述が中心ですが、当時は学校に本などあまりなく、新教育を推し進める上でも、その整備は重要だったようです。教え込みでなく、自ら学ぶ姿勢を養うのですから、これは、よく分かりますよね。
 大正時代の新教育運動は、戦後、おっしゃるように、コアカリキュラムに引き継がれたようです。
 わたしは、戦後初期のコアカリキュラムは、アメリカの教育使節団によりバージニアプランが導入されたものと理解していましたので、目が開かれた思いがしました。
 まだまだ学習が足りません。
 ありがとうございました。
13. Posted by よたよたあひる   2007年12月18日 01:24
>となれば、彼らは、それを軽視しているPISA調査に反対すればいいのに、それをしない。それどころか、支持しているかのように見えるときもある。
----------
 本当に、いろいろと調べていくと「学力低下論」が「PISA調査」を根拠にするのはおかしなことだと思います。
 ところで、私の本業の精神科リハビリテーション、「生活訓練」という場から「リテラシー」と「活用力」についての考察を始めました。コアカリキュラムとはちょっと異なる視点になりますが、「生活に役立つ力の育成」という点では共通点も多いと考えましたので、トラックバックをおおくりさせていただきます。
14. Posted by KG   2007年12月18日 08:56
こうやって振り返ると日本の教育は東アジア型の古い学習観にずっと支配されながらも、何らかの時代の節目に「新教育運動」「コアカリキュラム」「ゆとり教育」と新しい学習観への脱皮を図り、いずれも「学力低下」論につぶされていった歴史を辿ってるみたいですね。
(新教育運動衰退の原因まではわかりませんが)
つぶされつつも時代の節目に登場するのは、学習の本質を鋭くついているのと、教育の底流にはこの考え方は根付いているからなのかも知れませんね。
15. Posted by toshi   2007年12月19日 09:55
よたよたあひるさん
 TB、ありがとうございました。
 そして、大変な力作を読ませていただきました。もう、おっしゃる通りです。PISAが目ざす学力の形成。それを地で行くお話ではないかと思いました。
 Aさんの資質。それはあるでしょう。誰でもできることではありません。
 無意識の世界だったとは思いますが、日ごろから知的好奇心を養っていたからこそ、いざと言うときにそれを活用できたのでしょうね。
 満足に学校へ通わなくても、そういう資質さえあれば、また、具体的な、生活上の目標の意識があれば、PISA型読解力は身につくということだと思いました。
 そして、学校や国が言うところの基礎・基本は、そういう資質をもった人には、後からどんどんついてくる。つまり、知的好奇心によって、その支えがあって身についていくということでしょう。
 それは系統性などというものではないかもしれない。
16. Posted by toshi   2007年12月19日 10:03
生活上の必要性から、あるいは、知的好奇心から生まれる問題意識ですから、その瞬間、その瞬間は、断片的かもしれない。
 しかし、シュライシャー氏に言わせれば、たぶん、『もともと生活とはそのようなものではないか。』となるのではないかと思います。

 もう一つ。A氏のように取り組む試験でしたら、これは、いくら入試反対のわたしだって、認めますね。
 資格試験のようなもの。これは、やはり、必要でしょう。単なる学歴獲得を目指す競争社会。そういったものとは無縁ですものね。
 充実した探求生活。人生の目的そのものの価値を求めているわけですし、また、試行錯誤もある。
17. Posted by toshi   2007年12月19日 10:07
また、まわりの応援もいいですね。ただ応援するわけではなくて、応援する内容をよく吟味されている。そして、それは、ただ二点。目的完遂と自立。そこに焦点を定めて応援しているように感じました。これなど、わたしたち、学校における指導者も常に考え配慮していかなければいけないことだと感じました。
 ありがとうございました。

なお、シュライシャー講演録は、わたしも、KGさんからご紹介いただいたものです。わたしは、はっきり申して、それまでは、PISAなるものにまったく無知でした。
 日本の学力低下論の根拠になっているもの。無邪気にそう思っていたのです。そういう意味では、多くの日本人と同様でした。恥ずかしいです。
 でも、今回、ほんとうに学ばせていただきました。わたしも、皆さんの応援をいただいて、問題解決学習をしてきた思いです。まだ途上ですがね。
 今後とも、どうぞ、よろしくお願いします。
18. Posted by toshi   2007年12月19日 11:05
KGさん
 新教育運動そのものは、大正デモクラシーの流れのなかで、かすかな理解ではありますが、本を読んだことがあります。
 軍人がえばれない時代、肩身のせまい思いをした時代で、できれば、軍服を着ないで町を歩きたいと思っていたとか、新教育を受けた子どもが大人になったとき、世は、軍閥政治の時代になっていたので迫害を受けたとか、確かそういうお話でした。
 ごめんなさい。わき道の話ばかりですね。
 また、ずいぶん昔に読んだので、書籍名は忘れてしまいました。
19. Posted by ドラゴン   2007年12月20日 16:45
コアカリキュラムは、基本的にはバージニアプランを範にしていますが、それを導入した方々が新教育運動の流れを組んでいたということだったと思います。

新教育運動の中心は、奈良女子大附属小学校の奈良プランや明石附属の明石プランです。
私は、20年ほど前、この時期に奈良女子大附属小学校で教師をしていた方にお世話になりました。
ちょうど生活科が発足したころです。
その先生は、「生活科のようなものは、心ある教師はすでにやっている」と言われました。学校を探検し、季節を遊び、人と関わり、表現する、そういうことは普通にやられていた、と言われました。
いつの間にか、教科書だけ、問題集だけの授業になってしまったので、生活科が必要になったのだろうと思います。
20. Posted by ドラゴン   2007年12月20日 16:52
連投失礼します。
私は、総合で育ったと思っております。もちろん私が小学校の時には総合はありません。でも、日常的に、野外で遊んだり、お手伝いしたり、年寄りの話を聞いたりして、知を総合化する場面がいくらでもありました。そしてそれが今の自分にすごく役立っていたと思っています。
今の子どもたちは、そういう機会がないので、意図的に作ってやる必要があるだろうと思います。
それが、生活科であり、総合的な学習なんだろうと思います。
21. Posted by toshi   2007年12月21日 11:37
ドラゴンさん
 《その先生は、「生活科のようなものは、心ある教師はすでにやっている」と言われました。》
 もう、おっしゃる通りです。わたしも、そのころは、生活科に反対する気持ちが強かったです。その後は、生活科にかかわるようになり、自分でもおかしさを感じましたが、ほんとうに、社会、理科のなかでも、生活科のようなことはやっていたのです。
 ドラゴンさんが、ご自分の子ども時代の授業をよく覚えていらっしゃるのも、学びに必然性、切実感があったからこそと思います。
 わたしもそうです。子ども時代の授業をよく覚えています。50年前ですのにね。
 本コメントのわたしの名前をクリックしていただければ、それが出るようにしましたので、よろしければご覧ください。
22. Posted by かとう   2008年03月09日 22:23
問題は総合か教科学力かなどという高尚な場所には無くて、日本の教育論が俗論に支配されていること(政府が作る有識者会議にも教育学者が一人も居ないんだから・・)、それに尽きるんじゃないでしょうか。コア・カリキュラムなんて言葉を知らない新聞記者や雑誌記者が煽り記事を書いて、それを真に受けて世論が形成されているわけですから。
23. Posted by toshi   2008年03月10日 01:02
かとうさん
 俗論というのは、自分の経験から来るもの、深く考えないまま自分でもつに至ったかたくなな信念など、そういったものが多いように思います。
 そこは、一人ひとりがもっと真剣に学んでいってほしいと思いますし、逆に、わたしたち現場のものは、しっかり意見表明していくべきだと思います。
 

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