2007年12月18日

しかけどころ(1)3

8e2e22d0.JPG ある学校の研究発表会に出かけた。大変な盛況だった。

 今は、なかなか教員が出張しにくい時代だ。そういう意味では、よかった。参会された教員の皆さんは、大いに刺激を受け、明日からの指導に役立たせることと思う。


 どのクラスも、本音の部分もふくみ、子どもがいきいきと、張り切って、学習に取り組んでいた。


 あとの研究討議。

 この学校が使う、『しかけどころ』という言葉が新鮮だった。


 わたしたちは、日ごろ、子どもたちに教え込むのをできるだけ避けようとする。子ども自らの『気づき』、『学び』を大切にしたいからだ。子どもを学びの主体者とし、受身の立場に追いやりたくないからだ。

 子ども自らが、自分自身の努力によって価値を獲得する。その結果もつことができる『自信・達成感』にこそ、意味がある。


 だからと言って、『子どもまかせにして、どこへ学習がすすむのか分からない。漂流状態になってしまう。』
 こんな指導性のなさでは、指導者としての役目が果たせない。子どもも不安定な気分になってしまうだろう。

 そこで、この、『しかけどころ』が、重要になってくる。 


 この、『しかけどころ』の大切なところは、その『しかけていること』が、子どもに見えてはならないということだ。指導者が引っ張っていると感じ取らせたのではダメということだ。それでは、子どもは受身になってしまう。『待ち』の姿勢になってしまう。

 たとえ、指導者が発問したり、資料を提示したりしたとしても、子どもの側からすれば、『ぼくたち、わたしたちが必要としたから、先生がそれに応えてくれたのだ。』と思えるようにしたい。

 そして、指導者側からしてみれば、指導者がしかけたからこそ、学習が深まり、価値の追求ができたのだと思えるようにしたい。




 この辺の呼吸については、すてきなたとえ話がある。


 むかし、一人の農夫が、重い荷物をたくさん積んだ荷車を引いていた。
その農夫が、坂道にさしかかったとき、ぬかるみに車輪がはまってしまった。
いくらがんばっても抜け出すことができない。

それを、空の上から、神様が見ていた。
哀れに思った神は、農夫に見えないようにそっと荷車に近づき、手を添えた。

すると、あら、不思議。

 神の魔法の手によって、農夫は、らくらくとそのぬかるみからだっすることができた。

 農夫は、自信にあふれた笑みをもらし、そのまま坂道をうれしそうに登っていった。


 たとえ話は以上だ。

 しかし、現実の授業では、神は、農夫の力をあらかじめ知っていることが望ましい。そうすれば、ただ手を添えるのではなく、手の添え方によって、農夫の自信の度合いが変わっていくことも、あらかじめ理解できていることになるだろう。

 そういう意味では、4つ前の記事、『人権教育(15)交流をテーマの総合的な学習の時間』において、C教諭は、実に細かいところまで子どもの思いなどを把握している。そして、それをうまく使って、子どもの思いを深めようとしたり、関係づけようとしたり、ねらいに迫らせようとしたりしている。

 子どもの目に見えない指導性。それこそが、この『しかけ』なのであった。


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 この学校は、『しかけ』という言葉を使いながらも、これが誤解を招きはしないかと、ずいぶん気にされているようでした。

「なんだ。けっきょくは、指導者がやらせているのではないか。それなら、指導者主導となんら変わりはない。」

そうとられはしないかということだったと思います。

 その点、どうでしょうか。拙ブログの読者の皆様には、ご理解いただけたでしょうか。

 そう。そう。本日の記事内容にかかわる記事をすでに書いたことがあります。

 直接『しかけ』に言及してはいないのですが、併せてご覧いただけたら幸いです。

    教育の真髄 
 

 『しかけ』は、何も一時間の授業における、発問や資料提示に限りません。長期の展望をもつ『しかけ』もあるのです。次回は、自分の経験から、半年以上、長期にわたった『しかけ』にふれたいと思います。

 それでは、今日も、1クリックをよろしくお願いします。


rve83253 at 06:18│Comments(6)TrackBack(0)指導観 | 問題解決学習

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この記事へのコメント

1. Posted by KG   2007年12月18日 09:21
そのたとえ話そのままのような状況が、幼児教育における「縫物」にあらわれるようです。

知り合いの幼児教育学者の「縫物」に関する記述を全て紹介すると長くなるのですが、縫物を通すと「大人からの指示」を子供は「協力の申し出」と受け取ることが多いらしく、普段は相手の親切さえ自分に対する妨害と受け取りやすい自閉症の子らでも、縫物を通すと共同作業が成立しやすいそうです。

「しかけ」とは結果的に指導者がやらせているように見えるか見えないかではなく、やはり子供主体に考えて、子供自身の思いとして「やらされている」のではなく、指導者の提案により「能動的にやる」のがしかけなんでしょうね。

その幼児教育学者は小学校以降の教育を「構造化された学び」と呼び、幼児教育を「学びのチャンスの構造化」と呼んでいます。
その子一人一人に合った「学びのチャンス」をどうしかけるか、これがしかけの真髄なんでしょうね。
2. Posted by toshi   2007年12月19日 11:13
KGさん
《その幼児教育学者は小学校以降の教育を「構造化された学び」と呼び、幼児教育を「学びのチャンスの構造化」と呼んでいます。》
 世の中の一般の受け止めがそういう傾向ですから、そう言われるのももっともなのですが、わたしは、小学校以降においても、その学者の言葉を借りれば、『学びのチャンスの構造化』でありたいと思います。
 すでにある学問体系を子ども向けに下ろしたものという考えはできるだけとりたくありません。算数ですら、生活上の問題から考える学習でありたいと思います。
 わたしがブログで訴えているのも、そういうことなのだと、今、あらためて思いました。 
3. Posted by KG   2007年12月19日 15:27
toshi先生の授業記録を読む限り、toshi先生が「学びのチャンスの構造化」をはかっている事は十分にわかります。
また、小学校低学年次の生活科や総合学習の導入もまたそれを意図して導入されたと理解しています。
しかしまだまだ系統主義が支配的で、系統主義で育ってきた教員が多いですよね。
今後の教育改革も結局系統主義への揺り戻しの動きと私は見ています。
その学者はその原因は、小〜高までの教育と、さらに大学における教職課程そのものが大学らしくなく受身の過程が多いなのではないかと推測しています。
だからこそ、toshi先生の実践とその情報発信は非常に貴重なものでこれからも頑張って頂きたいなぁと思っています。
4. Posted by toshi   2007年12月20日 05:30
KGさん
 今後は、少し、我が考え方の問題点を指摘させて頂きたいと思います。
 どうも、『自分の教育理論は素晴しい。何の問題もない。』という記述が続いていることに、いささか面映さを感じていますので、
 人間がやることに、そんな理想はないわけで、いえ、自分の理論の問題点を見つめるのも、より確かにしていく上では大事と思いますので、その点にもふれていきたいと思います。
 その第一弾は、『学びのチャンスの構造化でありたいと思います。』と先のコメントで書かせていただいた、その『構造化』にあります。
 はたして、我が理論に構造化と呼べるようなものがあるのか。『子どもの思い、子どもの実態に応じて』を重視するため、あまり構造化を意識した部分はないのではないか。
 そのような思いで、記事にしていきたい。そう思いますので、今後もどうぞよろしくお願いします。
5. Posted by KG   2007年12月20日 09:20
おそらくtoshi先生の実践は意識はされずとも、結果的に構造化された部分はあったかも知れません。
しかしそのままだとtoshi先生の中だけで完結してしまってtoshi先生が直接指導される初任者の方に断片的にしか伝わらないかもしれませんね。
私も偉そうに「学びのチャンスの構造化」と言いましたが全くの借り物の言葉です。
それを実践している我が子の幼稚園でこそ、具体的にどのような取り組みが構造化なのかおぼろげに理解はできていますが、小学校ではほとんどわかっておりません。
toshi先生の実践に裏うちされた本物の理論を期待しております。
6. Posted by toshi   2007年12月21日 13:17
KGさん
 ありがとうございます。
 ちょうど、今の勤務校で、研究主任と、構造化にかかわる話をしたものですから、つい、あのようなことを書いてしまいました。
 すぐというわけにはいきませんが、そのときの研究主任との話もまじえ、記事にしたいと思います。よろしくお願いします。

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