2007年12月23日

国民的視野での教育観は?4

94813631.JPG これまで、わたしは、国の教育政策、教育観を論じるとき、その優柔不断さを指摘することが多かったように思う。

 つい最近の、『世界標準の学力へ』もそうだった。


 いきなり、わき道へそれて恐縮だが、『世界標準の学力へ』の記事では、

 多くの読者の皆さんが意外に思われたことがあったかもしれない。国は、そのようなことも言うのかと・・・。

 それは、『総合的な学習の時間につちかう学力は、世界標準の学力です。わたしたちは、自信をもって、この時間を大切にしていきましょう。』と言ったということ。

 学力低下論に組せず、真の学力とは何かを見つめ、自信をもって言っていた。

 まるで、フィンランドの官僚のようではないか。

 それなのに、別なところでは、別な人がまったく違ったことも言う。また、教え込みの最たる著名人が、中教審や教育再生会議などで重用される。

 問題なのは、こうした、国の二枚舌。無定見。優柔不断さ。

 わたしがこれまで言ってきたことは、そういうものが多かったと思う。



 しかし、今回、いただいたコメントを拝見して、国がそうなってしまうのは、国民世論が定まらないから。

 そういう面もあると、強く再確認させられた。

 それは、ドラゴンさんのコメントだ。『世界標準の学力へ』にいただいたコメントの3番である。わたしにとっては苦笑いだった。かねてより、承知していたことだったが、なんとはなしにふれないできたからである。
 
 今、引用させていただこう。
 
『ただ、文部科学省を弁護するわけではないんですが、中教審や指導要領作成メンバーもみなさん(『toshiたち』ということだと思う。)に近いところの教育観だと思います。教育の目標として「生きる力」を打ち出したところにそれが現れているのではないでしょうか。
 しかし、社会がテストで計れる学力しか関心がないので、その社会の要請から、後退してしまっているのだろうと理解しています。』

 あらためて、そういう面はあるかもしれないなと思った。

 国の無定見は、国民が無定見だから。・・・。いや。そうではないね。国民世論が割れているから。そういうことになるのかもしれない。


 ドラゴンさんは、『政府を責める前に、国民はどうなのだ。』とおっしゃりたかったのではないか。

 ほんとうに、日本は、国民も、教育観が見事に割れているのだよね。いや。ドラゴンさんがおっしゃるように、国民の大半は、『テストで測れる学力』にしか関心がないのかもしれない。
 むしろ、わたしのような考え方が少数派か。


 そう考えてみると、大学教授から学校現場に至るまで、お互いに溶け合わないくらい教育観の対立があることに気づく。


 ドラゴンさんは、『もう教育界内部でどうこうできることでなくなっているように思います。』と書かれているのだが、

 その、学校現場においても・・・、

 わたしも常々実感してきたことであるが、今回は、macfanさんのコメントに、それを感じた。同じく『世界標準の学力へ』のコメント8番である。
 そこには、早くも、『暗唱』を先取りしようとする現場の姿が見られる。

 そうなのだ。現場には、根強い、教え込み、反復訓練への信仰(?)がある。だって、手っ取り早いのだよね。それに、小さい子ほど、一見効果があるように見えてしまう。テストの点数だけだったら、こうすれば確実に(?)上がる。

 また、国民の大半も、こうした教育を支持しているように思う。いや。支持云々を言う前に、こういう教育しか知らないのではないか。


 だって、自分自身が、受けてきた教育だものね。

 学校教育とは、
『考えることより覚えるもの』
『つらいもの。』
『我慢させられるもの。』
『今は耐えることによって将来はいいことがあるかも。』
そうした思いに馴らされてきた。

 だから、そうでない姿を体験的に知らないのだ。
『学ぶことは楽しいこと。』
『みんなと力を合わせて追求することは、心もきたえられるし、将来の自分の生活にとっても、とても大切なこと。』
そういう経験をしていないのだ。

 そのうえに、今をときめく受験教育がある。


 そうした目で、国の教育政策を見ると、また、違った側面が見えてくる。

 たとえば、KGさんからいただいたコメントだ。同記事のコメント6番である。

 『「生きる力」については、〜、文科省が配布した教員向けの資料(中教審まとめ)でも明らかに説明不足です。(〜)例えば成人の大半がもう忘れているような因数分解や二次方程式、これがどうして「生きる力」につながるか、うまく説明できるでしょうか?〜。』

 『私は数学は精緻な論理体系だと思っています。因数分解や方程式を解こうとする過程で、論理力(〜)が養われると思います。論理的に物事を考える、判断する事ができる、表現できるというのはコミュニケーション力や色々なものにつながっていくと思います。〜。全てとは言いませんが主要なカリキュラムがどのように「生きる力」に収斂するのか、そこの説明の仕方次第かと思います。』


 そうか。でも、もしかしたら、国は、ほんとうは書きたいのではないか、・・・。

 たとえば、KGさんの上記コメントを使わせてもらって、わたしが考察してみよう。

『数学には、精緻な論理体系があります。しかし、指導に当たっては、その論理体系の順を追って、秩序立てて教え込んでも、子どもたちには必ずしも身につかないでしょう。単なる解き方の理解になってしまい、公式を覚えるような学習になってしまいます。そうすると、技能は身についても、論理的な思考力は育まれません。

 論理的な思考力を育むためには、子ども自らがすすんで解こうとする心情を養う必要があります。そこに、『発見の喜び』であるとか、『便利だなあ』という実感とか、そういう心情を養う必要があるのです。

 それこそが、『生きる力』を養うことになるのです。』

 ということになるかな。


 さらに、わたしは、小学校の知識しかないので、そのセンで語らせてもらうが、

『数学(算数)には、精緻な論理体系があります。しかし、その論理体系は、教え込むためにあるのではありません。国の学習指導要領は、実にうまくできていて、新しい単元に入ったとしても、子どもたちは、すでに学習した力で思考をめぐらせれば、解けるようになっているのです。
 たとえば、足し算のさきに掛け算がありますね。仮に、掛け算を知らなくても、足していけば、解けるわけです。でも、掛け算を学習すると、それがとても便利であることに気づくわけです。

 その便利であることの発見。それは、論理的思考を経て、自分自身で気づくものですが、こうした経験の積み重ねが、まさしく、『生きる力』を育むことになるのです。

 論理体系は、そのためにあるのです。』

 

 KGさん。

 国がここまで説明してくれれば、多くの国民(保護者)に理解してもらえるのでしょうね。

 しかし、国は、そこまで言えない。それは、国が、指導法まで規定してしまうことになるから。そして、それには、多くの反発が予想されるから。

 けっきょく、教え込み派、子どもの思い尊重派のどちらにも、自分の都合のいいように解釈できる、そんな書き方しか国がしないのは、やはり、国民の実態からしてそうせざるを得ないということなのだろう。

 けっきょく、どっちつかずのあいまいな表現になってしまう。

 『あとは、お好きなように現場が料理してください。』かな。

 まあ、今日は、あえて、国を弁護し、『国には、そうならざるを得ない事情がある。』という観点から書かせていただいた。

 
にほんブログ村 教育ブログへ

ninki

 

 そして、これは、よく分かった上で言うのではないのですが、国は、常に、双方の考えの学者等を、中教審などの委員にしているように思います。

 そこへいくと、フィンランドなどは、一つの国として、確固とした教育観をもっているように思います。国民と国のあいだにも、教育観をめぐっての一体感が感じられます。

 そして、これは、ドラゴンさんへの回答にもなるのですが、有馬元文相が、『それで学力はつくの。』と言われたという件、(コメントの4番)

 今は、どうなのでしょうね。時代は進み、PISA調査でもはっきりしたと思うのですが、『学力がつくのは、間違いない。』と言えるのではないでしょうか。

 『国論統一も近い将来にできる。』

 甘いかもしれませんが、そういう思いもします。その際は、PISA調査が強い影響力を持つでしょう。

 あと一つ。わたしは、不登校、いじめ多発など、今のままでは、さらに深刻化すると憂慮するものですが、早くそのことに気づき、解決を早めたいものだと思います。


 最後にお詫びを。

 前回の予告と違う記事になってしまいました。すみません。でも、次回は、本記事をふまえながら、書かせていただきたいと思います。

 それでは、今日も、皆様の1クリックを、よろしくお願いします。

rve83253 at 14:11│Comments(2)TrackBack(0)教育観 | 教育風土

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by きゃる   2007年12月23日 22:33
「時間がないから無理だ」
「予算がないから無理だ」
と割り切ってしまっている親、現場の教師の方が
むしろ頭が固くなっているのだと思います。
一方、初等中等教育局教育課程課教科調査官の先生方は
とても柔軟な考えをもっていらっしゃるような気がします。
「それは理想だ、現実には無理だ。」
と突っぱねる前に、どうして一緒に前に進もうとしないのか、
それは以前から思っていたことでした。
2. Posted by toshi   2007年12月24日 10:44
きゃるさん
 ほんとうですね。
 やればできるし、できるようになれば、なんと簡単なことだったかと思うのですがね。
 ただ、いろいろな要因がありますね。
 一人ひとりががんばればいいという部分。
 やはりまず環境を変えていくことが大切という部分。
 その環境も、大きくは国にかかわることから、学校現場にかかわる部分まで。
 でも、我々現場にいるものは、まず足元の改革からということでしょうか。
 むなしいこと、落胆させられることなど、ありますが、まずは自分の学級から、自分の学校からと、足元を固めていく努力を始めたいと思うのです。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字