2007年12月28日

問題解決学習の問題点(1)学びのチャンスの構造化は?4

352b3752.jpg わたしは、これまで、問題解決学習をおし進めることの大切さを、訴えてきた。自分の実践を振り返ったり、初任者の成長をつづったり、他校のよい実践を紹介したりしてきた。

 そして、なぜ、それが大切かも述べてきた。

〇文科省のある方が言ったという、『総合的な学習の時間につちかう学力は、世界標準の学力なのです。』

〇PISA調査報告を見るにつけても、『世界各国に共通し必要とされる学力は、将来の実生活に必要とされる学力なのであり、それは、豊富に断片的な知識をもつことではない。与えられた資料等をもとに、いかに、考え、判断し、意見をもつかということなのである。』

 国の言う『生きる力』も、まさにこれと同一理念と言っていいだろう。もっとも、国は、知識・技能も並立して大切という立場だね。


 PISAの主張は、問題解決学習をおし進めてきたわたしたちの理念と完全に一致するものである。

 余談だが、

 日本の学力低下論が、『PISA調査は、学習意欲の低下と相まって、問題解決力の低下も指し示している。それを何とかしないといけない。』という主張なら、わたしは、今、まったく肯定するつもりでいる。
 問題解決学習をとり入れることの重要性、切実性は、高まっていると思うからである。



 しかし、ここで、いったん立ち止まって、原点を振り返ってみたい。

 これまで書いてきたことにうそはないが、問題解決学習は、そんなにすばらしくて、何の問題点もないのか。


 わたしは、問題解決学習でとり上げる『問題』とは何かを述べるとき、

 『子どもの実生活において発生した問題を、問題と呼ぶ。もともと人間がやることに完全無欠はない。人間生活は矛盾だらけだ。常に問題を含んでいる。問題解決学習でいう問題とは、まさにそういう問題を指しているのである。』と言った。

 それなら、問題解決学習も人間が行うところの教育の所産である以上、やはり、矛盾といったものを抱えているのではないか。逆説的ではあるが、そう自分に問い返す必要はあるだろう。


 これから数回にわたり、そうした意味での問題解決学習をめぐる問題点にふれていきたいと思う。

 ただし、今回は、問題解決学習の典型的な実践の場と思われる総合的な学習の時間で、述べることにする。


 ここに、最近、拙ブログにいただいたコメントをとり上げたい。

 それは、『しかけどころ(1)』にいただいたコメントの1番である。KGさんからいただいた。

『その幼児教育学者は小学校以降の教育を「構造化された学び」と呼び、幼児教育を「学びのチャンスの構造化」と呼んでいます。』

 それに対し、わたしは、『小学校以降の学習においても、学びのチャンスの構造化でありたい。』と述べた。

 この場合、子どもにとっての学びのチャンスとは、まさに、問題解決学習のいう問題と言うことになるだろう。

 そこで、根源的な問いを発するが、子どもの実生活において発生すると予想される問題を構造化することは、可能かということだ。これは、教育現場にとって悩ましい問題である。



 実は、つい最近、わたしが今勤務している学校の研究主任から、質問を受けたのである。

「toshi先生。ちょっとおうかがいしたいのですが、うちの学校の総合的な学習の時間は、本校の特色である『ほたるの里』を軸に進めていくと、これはもう、数年前から決定しているのですが、それをどう各学年におろしていくかということは、とても悩んでいるのです。『ほたるの里』における系統性というのをどうとらえたらいいのでしょう。それとも、系統性など、あまり考えなくともよいのでしょうか。」


 さて、本論の前に、構造化と系統性の概念規定だが、

 この、『1年生では何をやる。それを受けて2年生では。』と考える、その、『それを受けて』が系統性だろうし、そうして指導計画全体ができたとき、その営みを構造化と呼ぶのであろう。



 この場合、矛盾する二つのことが言えるであろう。わたしはそれを研究主任に話した。


〇構造化などあまり考える必要はないという立場から。

 国は、今、教科においても、学習指導要領の大綱化を進めている。これは、次回も変わらないであろう。つまり、従来、各学年別に学習内容を規定していたのを、一部ではあるが、低、中、高というおおまかな区切りで示すようにした。

 これは、構造化、系統性を弱め、弾力化を図っていると言えるのではないか。『その分、子どもの実態をよく見なさいよ。』『子どもは地域のなかで生活しているのだから、地域性も大事です。』『子どもの生活をしっかり見て、どの学年で何をどう学ばせるかは、各学校が決めるのです。』

 小学生のお子さんがいらっしゃる方なら、よく分かる例を申し上げよう。

 中学年の社会科の教科書をご覧になってほしい。『3年』『4年』とはなっていないはずだ。我が地域の教科書では、『3・4年上』『3・4年下』となっている。これは、『3・4年どちらかで学習する内容がのっています。』という意味だ。大綱化とはそういうことである。

 教科でも、こうした大綱化がとり入れられている。とすれば・・・、国は、学習内容を例示するだけにし、各学校にゆだねた総合的な学習の時間においては、なおさら、この精神を大切にしていいのではないか。

 学びのチャンスとは、前述の通り、もちろん子どもにとっての学びのチャンスである。『ほたるの里』へ行ったって、1組と2組が同じ関心を示すとは限らない。また、去年の3年生と今年の3年生が同じ興味・関心を示すとも限らない。学び方にしても同様のことが言える。ある程度、出たとこ勝負のようになったとしても、それはいたし方のないことだ。教科書もないのだし、子どもの思い、子どもの実態を大切にしていれば、それでいいのではないか。
 ただし、この考え方をとる場合は、ほんとうに一人ひとりの子どもをしっかり把握し、どの子も伸ばすよう、しっかりとした見通しをもたなければならない。

 もちろん全体計画がないなどということはありえない。目標、学習内容、育てたい資質、活動などの観点から、それを作成する必要はある。しかし、それは、前述の通り大綱化をおし進めたものであってよい。

 以上だが、もう10年たったのだから、実践事例がたくさんあるだろう。その事例集のようなものがあるといいのではないか。その積み重ねこそ、学校の財産だし、積み重ねることによって、そこから系統性がにじみ出るようになる。すると、『学びのチャンスの構造化』も可能になると思う。


〇構造化は大切、重要とする立場から。

 全体計画がない学校はないだろう。しかし、それが適当だったり、文章だけで実体が伴わなかったりすれば、いろいろな問題がでてくる。

 わたしはこれまで多くの学校の授業を見ているが、そのなかでこれまで見た事例では、

 常に一人ひとりの調べ学習を行っている。それも、担任から、無理やり何を調べたいかと聞かれる。子どもの側から見れば、『調べたいものなど特にないのに、何かを調べなければならない。』そんな気分だ。
 『何でこれを調べてみようと思ったの。』と聞くと、『別に。・・・。先生が調べてごらんって言ったから。』そんな答えが返ってきたこともある。

 今回の、『ほたるの里』にしても同様なことが言える。何の問題意識ももたすことができず、ただほたるの里へ行ったって、それではただ遊ぶだけの繰り返しになってしまうか、無理やり調べる内容を決定させられることになるか、そのようになってしまうだろう。


 また、こんな事例もある。長い教員生活のなかで、たった一回見ただけだが、

 5年生より2年生の方がよほど高度なことを学習していた。

 たとえば、前回書かせていただいた5年生のエコキャップ活動だが、あれがもし、子どもには何の問題意識ももたすことができず、ただ担任が子どもに指示してやらせ、子どもは仕方なしに集めるだけだったとしたら、それはもう、学習にすらならないであろう。

 そのようなことを考えると、やはり、初任者でも、転任してきたばかりの教員でも、スムースに学習を進めさせるのには、『何を学習内容とするか。』『どこまでの子どもの育ちをねらうか。』の計画はしっかりともっていなければならない。

 ただし、それは、教科のようにカチッとしたものでなくていい。実践に当たっては弾力性を持たせ、それこそ、『子どもの学びのチャンス』を大切にし、計画通りいかないからとあせるのではなく、目の前の一人ひとりの子どもの学ぼうとする姿勢を注視しつつ、それが育っているのなら、たとえ計画とは違っていても、それをよしとする、そういう姿勢も大切である。


 以上、矛盾する二つのことを話したのだが、・・・、

 どうだろう。論理の出発点は矛盾の二つだが、結論は似てきたと言えないか。

 その似てきた部分が、わたしの一番言いたいことであった。

 繰り返しになるかもしれないが、
『学校において、計画なしの指導はありえない。だから、計画としての構造化は大切だ。もちろんそれは大綱的なものであってよい。ただし、実践の場となれば、目の前の一人ひとりの子どもが大切なのであり、その『学びのチャンス』を最大限生かすようにする。』
ということになろう。

 要は構造化されたものは弾力的に扱おうということだ。それにとらわれてはならない。

 もし、ずれが生じたら、その理由をとらえる努力が必要だろう。そして、『ずれたままでよいのか、修正を図るべきなのかは、指導者たる担任の判断だろう。』ということになる。

 またずれないようにするために、あるいは、ずれを最少におさえるために、構造化された部分と『学びのチャンス』との接点において、前号まで取り上げていた、『しかけ』なるものが重要な役目をもつとも言えよう。



 最後に、双方を統一して言えることだが、

 総合的な学習の時間に関して、たまにではあるが、教員の悲鳴が聞こえてくることがある。

 長年、教員生活を送ってきたが、これまで、教科書で、教え込みの指導しかしてこなかったケースに多い。子どもの実態であるとか、子どもの学ぼうとする意欲であるとか、生きる力であるとか、そういうことには頓着せず、ただひたすらテストの点数をよくすることのみに専念してきたのだろう。

 ここは、もう、『構造化された学び』ならぬ『構造化された指導』から、『学びのチャンスの構造化』への転換を図っていただくしかない。


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 わたしは、総合的な学習の時間を設けたのは、国の英断だったと思います。よく言われることですが、『国は、国民を管理したいのだ。』『国のやることに素直に従う国民をつくりたいのだ。』
 そういうことだったならば、このような時間を設けることはしなかったでしょう。ただひたすら教え込む体制の方がいいわけです。

 問題なのは、教育現場。なかなか理念についていけない側面があるようです。

 これは、でも、もう10年たって、すばらしい実践も、かなりでてきたわけですので、そこから、お互いに学び合うことが大切だと思います。

 わたしも失敗だらけ。失敗のなかで学んできました。次回はそのようなことにふれてみたいと思います。

 それでは、今日も、皆様の清き1クリックを、よろしくお願いします。

rve83253 at 16:18│Comments(6)TrackBack(0)問題解決学習 | 総合的な学習の時間の指導

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この記事へのコメント

1. Posted by きゃる   2007年12月29日 00:22
>総合的な学習の時間を設けたのは、国の英断…。

その通りだと思います。新学習指導要領も
「生きる力」をはぐくむという理念は変わらないということでちょっと安心しています。
それでも総学は週3時間から週2時間に減ります。
行政説明をされた初等中等教育局教育課程課の先生によると、
総合的な学習の時間がうまくいかず、
教科学習の補充に使っているという現状を受けて、
ということです。
国が立派な理念を掲げているのに、
現場で実践にうまく結び付けられない私達教師の力量が問われています。
「学びのチャンスの構造化」…キーワードになりそうですね。
2. Posted by toshi   2007年12月29日 08:22
きゃるさん
《総合的な学習の時間がうまくいかず、教科学習の補充に使っているという現状を受けて、ということです。》
 うまくいかないという認識なら、減らすのではなく、うまくいく方策を考えてほしかったですよね。
・教育観の転換であることを明示すること。
・具体的な実践例をもっとPRすること。
の2つをお願いしたいですね。
 わたしの考察では、国が二兎を追っているため、上記2つが徹底されなかったということでしょう。
 一方、組合だって、むかしから、『教育課程の自主編成』と言ってきたわけですから、『いざそれが認められると、消化できない。』というのでは、残念でたまりません。
 多くの教員は、幼いときから徹底して教え込まれて育ってきたわけでしょうから、自己改革は非常に難しく大変なことだとは思いますが、やはり、それしか方策はないように思います。
3. Posted by yamame   2007年12月29日 10:21
5 まるで論文のような記事ですね

学ばせてもらいました 


さて 私も総合的な学習の時間、問題解決学習に関して 同じようなとらえをしています

問題は 子どもを目の前にした わたしたち教師の捉え方次第だと思います

教師が 目の前にいる子ども達と どの題材で どう出会わせ どう学びを深めていけるのか だと感じています

私は 共鳴的な学び と自分勝手に言ってます その学びにはドラマチックな展開が必要です というより 自ずとドラマチックになるのです 


総合は そんな学びの中にあるチャンスの一つだと感じています




4. Posted by kei   2007年12月29日 10:50
「要は構造化されたものは弾力的に扱おうということだ。それにとらわれてはならない。」 
         ↓
 ある研究会で指導者の先生が、「活動が充実したずれになるなら、それは総合の時間が生きている証拠。そんな総合になってほしい。」という話をされていました。
 子どもたちが主体的に活動する授業では、教師の予想を超えた学びの場面がたくさんでてきます。それを喜びとして共に活動できるか、躊躇するか、やっぱり教師の姿勢が問われてきそうですね。

 toshi先生、今年もたくさんこちらで勉強させていただきました。ありがとうございました。良いお年をお過ごしください。
5. Posted by toshi   2007年12月30日 00:19
yamameさん
 『共鳴的な学び』
 これもすばらしい言葉ですね。わたしがかつていた学校では、『ひびき合い』という言葉を使ったことがありますが、それを思い出しました。
 ほんとうに、『子どもが生きている。』『学びが生きている。』そういう感じがします。
 全国の教員同士が、共鳴し合っていくよう、このブログでがんばっていきたいと思います。
6. Posted by toshi   2007年12月30日 00:27
keiさん
 なるほど。ずれは、積極的に評価できることなのですね。『教師の予想を超えた学びの場面』これはほんとうにその通りだと思います。
 わたしがこのブログにおいて紹介させていただいている授業にしても、そういう場面がふんだんに出てきますね。『子どもが生きている。』からこそでしょう。
 わたしこそ、大いに学ばせていただきました。また、来年もどうぞよろしく。

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