2008年01月06日

表現したい思いに支えられ  問題解決学習の問題点(2)3

79f6dca8.JPG 「基礎・基本の習得(わたしの言う、『読み・書き・ソロバン的学力』)がなければ、何事も始まらない。それができて初めて、個性を大事にした学習、思考力とか判断力とかを育む教育が可能になるのだ。」

 そういうことを言う人は多い。また、

 「基礎・基本の習得段階では、徹底した反復訓練ドリル学習を行うべきだ。」

 そういう声も聞かれる。

 でも、義務教育でそれだと、学習嫌いがますますふえると思うのだけれどね。
 世界最低の学習意欲と言われている今、それでも、教育者が上記のような考え方を続けるのなら、お先真っ暗と言わざるを得ない。
(『知識がなくても、思考は成立しますよ。』という記事をかつて書いたことがあります。よろしければご覧ください。『保護者の皆様へ(1)』) 


 また、根本的な疑問だが、

 その間は、子どもの思考力とか判断力とかは育もうとしなくていいということか。身につかない子どもに対しては、個性を尊重した教育は必要ないということか。

 
 また、こんな問題もある。

 あるときまでは、基礎・基本の習得。そして、ある年齢がきたら、『さあ。個性を育もう。』と言ったって、それまで、受身の学びにならされてきた子どもたちに、急に、『個性的になれ。主体的になれ。』って言ったって、人間、そんなに器用に生きられるものではない。


 というわけで、両者は車の両輪。ともに育んでいくのである。

 そして、ともに育むと言っても、

 その育み方は、まず、学ぼうとする意欲。学ばずにはいられないという気持ちを抱かせることに最善を尽くす。

 そのためには、

 『何かを言いたい。言いたいが、どう言ったらいいか分からない。』そこで、言語能力を身につけようとするだろうし、
 『どちらの方が安いのかな。でも、計算の仕方が分からない。』そこで、計算力も身につけようとするだろうし、・・・、

 そういう、『表現したい。』『分かりたい。』という思いにさせることが大切である。心の飢餓状態をつくり出すことだ。内発的動機付け、それが大切ということだ。


 ところで、今の学校教育は、一応そのようにはやっているはずだ。冒頭の言葉も、今の学校教育批判として語られることが多いからね。

 でも、『一応』をつけた意味は、やはり、それでも、現行の学校教育は、意欲付けが不十分。ほんとうに子どもの学ぼうとする姿勢を高めているのか。そういった課題があることは否めない。



 前置きが長くなった。すみません。今日は、そのあたりを問題にしたいと思う。


 そこで、子どもの生活に軸足をおいた問題解決学習が登場するのだが、現在の教育体制のなかでは、子どもの意欲を大事にしようとすればするほど、矛盾が起きてしまうのだ。

 それは、子どもの生活のなかから生まれる問題、それを何とか解決したいとして、学習問題が生まれるのだが(この学習の具体例は、これまで多数記事にしてきましたが、ここではそのうちの一つを紹介させてください。『学習問題とは(1)』)、それで単元構成をすると、その学習のまとまりは教科の枠には必ずしも収まらないのである。


 たとえば、社会科であっても、

 収入や支出を考える場面では、計算能力を必要とする。割合や表をつくる能力を必要とする場合もあるだろう。

 お手紙を出して、農家に聞いてみたいとなれば、言語能力を必要とする。

 産業の立地条件を考えるにあたっては、自然環境(地形・気候など)などを理解しようとするはずだし、そうなれば、理科の内容と重なるだろう。
 

 ほんとうに、子どもの生活を中心にすえて、そこからつながる学習のまとまりを大事にするなら、教科の枠にとらわれずに、そのまとまりのなかで学習するようにした方がいい。そうすれば、切実感、必然性に裏打ちされた学習になるから、子どもは真剣味をまし、理解も容易になるというものだ。



 前述のとおり、今のような、教科中心でも、子どもの意欲づけは大切にしているはずだ。


 たとえば、1年生の算数。『長さくらべ』の単元を例にとろう。

 何も必然性、切実感のないまま、ただ、『どちらが長いかくらべましょう。』と言ったって、なかなか夢中になるものではない。

 そこで、工夫をする。

「ねえ。先生。こまっちゃったのだけれど。」
「どうしたの。」
「ここに縄跳びの縄が10本あるでしょう。それで、長い縄は大きい子に、短い縄は小さい子にわたしてあげようと思うのだけれど、こうやってみんな結わいてあると、見ただけではどれが長くてどれが短いのか分からないのよねえ。」
「ああ。分かった。それで、どれが長いか、ぼくたちに見てほしいっていうわけ。」
「そう。・・・。お願いできるかな。」
「うん。いいよ。やる。やる。」

 それでグループに分かれて、長さくらべをしだすわけだ。

 なお、蛇足だが、ここでの学習内容は、
『一方をそろえないと、どちらが長いかは分からない。』
『双方ともピンと張らないと、どちらが長いかは分からない。』
などだ。

 そうなのだ。教科中心主義だと、もともと子どもの問題意識のないところで学習に入るから、どの教科でも、どの単元でも、導入では、こうした意欲付けに時間をとられてしまうことになる。この時間的なロスはばかにならない。

 それに、子どもの生活に根ざしていないだけ、『作為的』とか、『偽善的』などという思いにとらわれるときもある。以前書いた『しかけ』とは、微妙に異なる。



 さあ。原点に戻ろう。世界最低の学ぶ意欲と言われる日本だ。学習への意欲を図るには、今のような教科主義でいいか。それとも児童の生活中心主義でいくか。

 ここで、12月16日の記事、『世界標準の学力へ』に、ドラゴンさんからいただいたコメント11番にふれたい。今、原文のまま転載させていただきたい。

『多くの人は、教科は自然発生的に「ある」ものだと思われていますが、これは、学校教育法や指導要領で政策的に作られたものです。学校教育を通して、子どもをどのように育てたいという目標(今で言えば生きる力)を身につけるために、どのような内容が必要かを考えられたものが教科です。効率よく内容を教えていくために考えられたものが教科です。
 前々回の中教審では、国語と数学を合わせて記号科を作ったらどうかという議論もありました。ところが、多くの人(保護者)は、教科そのものを目標としてしまい、子どもが生きる力を獲得したかどうかよりも、教科の成績に一喜一憂してしまっているんだろうと思います。その歪みが、あるのだろうと思うんです。』


 そうか。それなら、教科主義を取り払ってしまえ。すべて、子どもの生活中心の問題解決学習でいけばいい。

 そう言っていただければうれしいが、それがまた、それで見事解決とはいかない。

 子どもの生活に根ざし、そこに足場をおいて、学習を進めた場合、現行の算数、国語、理科などの教科の内容がすべて、学びつくせるか。学びそこないというか、落ちは生じないのか。

 はっきり言って無理である。どうしても、漏れはでてくる。それに、『子どもの生活中心』は、子どもの実態によっても、地域性によっても、学習内容は異なってくる。したがって何がもれるかも、学校間で異なってくる。

 実は、そうした取組が過去にあった。拙ブログでも、記事にしてきた。昭和20年代のコアカリキュラムである。

 コアカリキュラムは、現在の総合的な学習の時間と似ているが、

 つまり、教科横断的な学び、子どもの生活に根ざす学びなど、そういう意味では似ているが、前者ができるだけ教科の枠を取り払おうとしたのに対し、後者はそこまでは考えない。教科は教科として、総合がスタートしても、従来どおり微動だにしていない。

 そう。先人にとって積み残した教科の学習内容をどうするかは、悩ましかったのである。



 先日、コアカリキュラムの大先輩と、大学の取材を受けたとき、初めて分かったことがある。

 わたしは、昭和20年代のコアカリキュラムがつぶされたのは、国の(?)弾圧。あるいは、今と似ているのだが、学力低下論の横行。そういったものによると思っていた。
 しかし、積み残された教科の内容をどうするかという点については、現場の悩みが尽きなかった。それを何とか解決したいというさなかに、弾圧を受けてしまった。
 つまり内部にも問題を抱えていたのだった。



 さあ。この矛盾をどう解決するか。

 わたしが思うに、

 とりあえず、必要最低限の内容を、社会科か、総合的な学習の時間にドッキングさせたらどうか。教科の枠からはずすのである。

 その場合、必要最低限の内容とは何か。2つ例示しよう。

〇『子どもの生活に根ざす学習に含ませた方がいい。その学習のまとまりの中に盛り込んだ方が自然だ。そうした方が必然性を持って、子どもも真剣に取り組むだろうと思える内容だ。

〇もう一つ。どんな地域に住む子どもたちであっても、つまりどの学校でも、生活に根ざす学習で、絶対取り上げるであろう。必ずやるに決まっている。そう思える内容だ。


 今、2つ、その具体例をあげる。

〇国語に、お手紙を書く内容がある。
 現行の教科の枠の中では、多くの場合唐突だから、子どもにしてみれば、手紙を書く必然性がない。書く意欲がないのに、書かなければならないといった感じになる。『先生が言うから、やむを得ず、転任した前の担任の先生に、書くことにしよう。』などということも起きる。
 これを、社会科の学習の、『取材先へ質問したい。』という場面でとり上げることにしよう。それなら、必然性がある。書きたい意欲が盛り上がるのではないか。そのうえ、こうした学習場面は、どの学校においても登場するはずだ。
 子どもたちは意欲的に学ぶのではないか。

〇この12月、多くの3年生は、算数において、棒グラフなどの学習をしたはずだ。
 ここでも、ただ知識として教えるのなら、何の苦労もいらない。『棒グラフはこういうグラフですよ。その特徴は、〜。』などと学ばせればいい。
 しかし、子どもの意欲付けを少しでも図ろうとすれば、棒グラフを作りたくなる切実性のある場面を演出しようとするだろう。『図書委員会のお兄さん、お姉さんが、各クラスの読書調べをしたの。そうしたら、〜。』とか、『給食委員会が、各クラスの残量調べをしたら、〜。』とか、そういう設定が必要になる。
 ここでも、意欲付けのための時間が必要になってくるわけだ。

 でも、社会科の問題解決を進めるなかで、棒グラフをとり入れれば、問題解決したいという思いのなかで、棒グラフの読み取り、書き方などを学ぶことができるから、大変都合がよい。


 このような学習内容だけでも、とりあえず、社会科や総合的な学習の時間に移行させる。それを考えようではないか。

 そして、あとは、順次、学校ごとに、組み込める内容を考える。無理なものは従来どおり教科の中で扱う。

 そうすることによって、子どもの切実性、必然性のある学びがふえるよう、工夫することができる。また、学びの流れのなかに、意欲づけは組み込まれているので、お手紙や棒グラフのための意欲づけは特にいらず、時間のロスもなくなる。


 最後に、

 切実性、必然性のある学びは、ストーリー性をもっているはずである。

「ああそうか。なるほど。」
「でも、この点はどうなのだろう。」
「よし。じゃあ、今度はそれを学習問題にしてみよう。」

 子どもの頭の中でそのようにつながっていく。

 だから、生きてはたらく知識として、また、どうしても身につけずにはいられない技能として、一人ひとりの子どものなかに、ストンと落ちるように身についていく。忘れたくても忘れられないものになっていく。

 わたしなど、自分の子ども時代の授業を、50年たっても覚えている。そういう学習になるのである。『社会科学習への誤解(3)』

 単なる暗記、断片的な詰め込み、それとは基本的に異なる理解の仕方となっていくのである。


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 冒頭の言葉を、わたしなりに修正してみましょう。

「学習への意欲付けがなければ、何事も始まらない。
 自ら学ぼうとする気持ちを抱かせなければ、何事も始まらない。
 それができて初めて、車の両輪(『知識・技能』と『思考力、判断力など』)が、順調に動き出すのだ。」
となるでしょうか。

 
 問題解決学習は、子どもの生活から生まれる問題をとり上げると言いました。しかし、教科中心主義の現在の教育体制では、どうしても、生活にこだわり続けることには限界があります。
 そこで、今の問題解決学習では、『生活』だけでなく、『子どもの思い』に寄り添うということも言われています。

 ところで、

 前述の通り、『基礎・基本』という言葉を、世間では、『読み・書き・ソロバン的学力に限定して使用することが多いようです。しかし、わたしたち、教育現場のものは、『基礎・基本』は、思考力、判断力、関心・意欲なども含め、すべての学力にあるのだというとらえです。
 そこで、わたしは、世間でいうところの『基礎・基本』については、この言葉を使わずに、『読み・書き・ソロバン的学力』ということにしています。


 だいぶ長くなってしまいました。また、これまでの記事の引用も、多岐にわたってしまいました。すみませんでした。

 それでは、最後に、今日も、1クリック、いただけますでしょうか。よろしくお願いします。

rve83253 at 04:08│Comments(6)TrackBack(0)問題解決学習 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by ドラゴン   2008年01月07日 17:05
コメントを引用していただき恐縮です。
ずっと以前、奈良プランで育った方のお話しを聞いたことがあります。学校へ登校する際に友だちと「今日は何を勉強しようか」相談しながら歩いていった、という話が印象的でした。そして先生もそれを受け止めてくれたそうです。
理想だと思いますが、今の日本でこれを実現できるような教育環境はどれくらいあるでしょうか。
すべての子どもに最低限の学力を保障するとなると、どうしても教科に行き着くのだと思います。

2. Posted by ドラゴン   2008年01月07日 17:30
連投失礼します。
現実として教科を離れられないということがありますが、私は、各教科の中でも、目指すところを転換していけば、十分にtoshi先生の期待するところは実現できるように思うのです。
社会科でも、県名や生産地名などの知識量を目指すのではなく、「自ら問題を発見し、追究していく」ことができれば、それで十分だろうと思います。
保護者もそれを認めて、社会もそれを認めれば、ずいぶんと変わるのだろうと思います。

3. Posted by ドラゴン   2008年01月07日 19:46
さらに連投失礼します。
toshi先生の文章をよく読んでいないために、前のようなコメントになりました。
意図するところは、まったく同じですね。
もう一つ、問題解決学習でも、形式化された実践がよくありますね。問題を見つけ、追究して、発表、まとめと、手順だけは同じですが、基本的な理念が理解されていないと上っ面というか、そんな実践もよくあります。
この部分では、教師の力量が問題になるのでしょうか。
4. Posted by ドラゴン   2008年01月07日 19:54
もう一つ失礼します。
以前、山の中の小さな小学校に新しく赴任された校長先生をお訪ねしたことがあります。全校児童が20人くらいの学校です。その校長先生が、赴任するにあたり、今までの学校資料を整理している中に、大正時代くらいの当時の校長の訓辞が出てきました。そこには、
「教授の原典は補導にある」「学習は地域から始まり、国、世界へと広がり、地域に帰ってくる」(うろ覚えなので、文言は違っています)。と書かれていました。今で言う、支援の考え方もあります。
前にも書きましたが、ずっと前からも、こうしたことは取り組まれてきていたんだろうと思います。子どもを前にした教育者は、結局同じところに行き着くのだろうとも思います。
toshi先生の書かれたものを拝見しながら、ちょっと思い出しました。
5. Posted by toshi   2008年01月08日 02:17
ドラゴンさん
 長文のコメント、ありがとうございました。
 なかなか悩ましい問題で、わたしも結論がでているわけではありません。
 教育の理想としては、やはり、教科主義は撤廃した方がいいと思う気持ちはあります。でも、やはり、理想なのでしょうね。
 他方、教科主義で、最低限の学力を保障できるとも思っていません。『最低限の学力保障』という考え方は、今、破綻しつつあるのではないでしょうか。子どもの実態(学習意欲の低下傾向)と遊離しつつあると思います。
 そうではなく、以前、わたしは、『一人ひとりの子どものうちにある基礎・基本』という記事を書きましたが、そういうとらえの方が、時代に合っていくのではないでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/670557.html
をご覧いただければと思います。
 そうか。本記事においても、基礎・基本のとらえとして、そのことにもふれればよかったですね。すみませんでした。
6. Posted by toshi   2008年01月08日 02:30
いただいたコメント2については、現実論としてなら、わたしもまったく同じ思いです。記事の終わりに書かせていただいた、『矛盾を克服』する姿と同じと思いました。
 そう。コメント3を読ませていただくと、ドラゴンさんもそのようにお思いですね。
 なお、わたしは、昭和50年代の勤務校において、これを実践してきました。実は、上記で紹介させていただいた授業も、その学校でのことです。
 また、『形式化された問題解決学習』については、おっしゃる通りです。わたしも修行時代、その苦しさを味わいました。
 これは、問題解決学習の問題点と言うよりも、未熟であるがためで、近いうち、記事にさせていただこうと思っています。
 最後のコメントですが、大正時代の、大正デモクラシーの世に、そういう教育があったことは、わたしも最近知りました。戦後初期のコアカリキュラムも、その流れの中にあるとも言えそうです。

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