2008年01月10日

物言わぬ子どもたちに対して 問題解決学習の問題点(3)4

7e0a6f90.JPG 『問題解決学習を志したいが、なかなかうまくいかない。』そういうことで悩んでいる教員は、多いのではないか。

 『発言するのは、一部の子どもたちだけで、大部分の子は、黙ったまま発言しようともしない。』
 『問題意識をもつどころか、担任の発問を待つ姿勢が目立つ。受身だ。』

 そういう子どもたちを目の前にして、暗中模索、悪戦苦闘している教員は、多いのではないか。


 もとより、これは、子どもに問題があるわけではない。

 それまでの期間、指導者主導の授業にならされてしまったからだ。『指導者の発問を待つ。』あるいは、『授業がつまらないから聞いていない。』そういう日常にならされてしまった。その結果と思われる。



 そこで、今回は、かつての自分自身を振り返りながら、どうしたらよいかをさぐっていきたい。

 また、市民の皆さんには、『そういう悩みがあるのか。』ということで、広くご理解いただければと思う。温かな目で、教員を見守っていただけたら、幸いである。



 まずは、新しい学級を担任したとき、『物言わぬ子どもたち』『受身でいる子どもたち』に、どう対応したらよいかということである。

 

 わたしも修行時代は、この辺で苦労した。

「子どもがものを言わないのは、先生がしゃべり過ぎるからよ。」

 そう言われたわたしは、『わたしは言葉を減らす。』『発問もしない。』・・・。だから、子どもも言わない。そのまま、5分経過などというばかげたこともやった。

 ああ。わたしは当時の子どもたちに謝りたい。



 修行時代を経て、わたしは、物言う子どもを育てることができるようになった。上記のような実態があっても、一ヶ月あれば、大部分の子が発言するクラスをつくることができるようになった。

 それはとにかく子どもをほめる。その一点だ。

 ほめている時間を足し算すると、45分の授業のなかで、10分以上は、それに費やしていたと思う。
 もちろん、最初の一ヶ月ほどですよ。


 5年生を担任したときもそれをやった。

 たとえば、

「先生。今、Aちゃんが言ったことは、さっきぼくが言ったことと同じだよ。」
「そうだな。でも、それは、Aちゃんが、Bちゃんの発言をよく聞いていた証拠だ。すばらしいね。」

「先生。今、Cちゃんが言ったことは、教科書に書いてあるじゃん。」
「そうだな。でも、それは、Cちゃんが教科書をよく読んでいるということだ。すばらしいね。」

 物言わぬ子が発言すれば、しただけでほめる。

 小さい声でしか言わなかった子が、大きな声で、みんなによく聞き取れるように言ったら、そのことをほめる。

 疑問、矛盾を提示すれば、それこそ、問題解決学習の命なのだから、最大級の賛辞をおくる。


 いや。もっと原点にさかのぼることも必要だ。

 人の話を聞いていない子が、聞くようになったら、聞く態度のすばらしさをほめる。

 声が小さくて、よく聞き取れない発言に対しては、わたしがその子のそばに寄っていって、わたしが通訳のようになってやる。『今、Dちゃんが言ったことは、〜ということだ。〜という点ですばらしいね。』

 物言わぬ子でも、ノートにはいいことが書いてあることは多い。そういう場合は、本人の承諾を得てだが、ノートに書かれている内容を、わたしがみんなに紹介してやる。
 そして、最後に付け足す。『すごい。〜という点で、いいことが書いてあるね。・・・。よし。これは、発表したのと同じだ。Eちゃんが発表したことにしよう。』



 わたしは、社会科を専門とするものだが、この段階では、社会科ではあまりがんばらなかった。子どもの生活上の問題と言っても、子どもは言ってこないわけだから、どうしても、問題の提示は、担任からとなってしまう。それに、子どもの生活上の問題もあまり把握できないから、どうしても、一般的な発問とならざるをえない。第一、時間数が少ないから、学級づくりという点では、骨折り損のくたびれもうけになってしまう。

 その点、国語はいい。物語であれ説明文であれ、目の前に提示されている。それに時間数も多い。毎日ある。だから、即効が期待できる。
 ノートなどによって、あらかじめ、子どもの思い、読みの様子などを探る必要はあるが、資料収集、資料作成の手間はほとんどない。



 このときは、5年生国語の冒頭に、『その日が来る』という物語が載っていた。

 忘れもしない。

 初めて、子どもが学習問題(もっとも国語では、『課題』と言うようだが、)を提示したのは、一学期が始まって一週間後。

「おかしいよ。(福引で)やかんが当たったからっていって、どうして自転車を忘れてきちゃうの。自転車なら遊べるけれど、やかんじゃ遊べないじゃん。」

 この問題を大事にし、主人公の気持ちについて読みを深めていった。そして、授業の最後に、最大級の賛辞をおくった。

「今日の授業の殊勲者は、Fちゃんだな。ほんとうにみんなが夢中になって、『ああだ、こうだ。』と発言できたね。それだけ、いい学習問題だったわけだ。Eちゃんのおかげで、わたしは、発問しないで済んでしまった。みんなの盛り上がった力で学習が深まるということは、すごいことなのだよ。」


 初めは散漫で、友達の発言も担任の投げかけもあまり聞いていないような雰囲気があったが、この段階にくると、聞く態度もすばらしいものになった。

「みんなの、人の話を聴く態度はすばらしい。考えてみれば、どんなにがんばっても、発表する時間は、ほんの数分だよな。でも、聞く時間は、ほとんどまるまる一時間というわけだ。圧倒的に聞く時間の方が長い。それがすばらしい態度ということは、すごいことだと思うよ。」


 一ヶ月くらいたつと、もう、授業の雰囲気は見違えている。

 でも、無理させ過ぎたかなとも思う。かなり子どもたちは、疲れているのだ。それで、ちょっと、緩めるというようなこともした。


 このころになると、大部分の子は発言するから、いくら手を上げても、なかなか指名されなくなる。それを喜ぶ子どもの言動があった。Hちゃんだ。

「すごいね。みんなが手を上げるから、ぼく、2回しか指されなかったよ。ずっと手を上げていたのに。」

 それにも最大級の賛辞をおくったことは言うまでもない。ふつうは、文句を言うところだものね。


 そのうち、Hちゃんも心得てくる。『今、自分は手を上げても、先生は指してくれないだろう。』
 そして、いよいよ自分の出番。そう心得て挙手する。あうんの呼吸だ。思わずHちゃんと目が合い、お互いに微笑む。そうして、わたしも指名する。そのようなことも起きるようになった。



 さて、以上述べてきたように、子どもを鍛えることも大事だが、

 指導者も、子どもの発言の何がすばらしいのか、具体的にほめることができる、そういう力量を高めなければいけない。また、価値ある学習問題とは何かを瞬時に把握できる力もつけないといけない。


 むかし、わたしはまだ学級担任だったときだが、そのときの初任者から、こう言われたことがある。

 4年生の国語に、『飛び込め』という物語文があった。そのお話をめぐってだ。

「toshi先生。うちのクラスの子ったら、疑問て言っても、変なことばかり言うのですよ。」
「ほう。たとえばどんなことだい。」
「そうですね。Gちゃんですけれど、『この海にサメはいるのかな。』って言うのです。でも、そのようなことは物語に書かれていないですから、分からないじゃないですか。」
「それで、無視してしまったのか。」
「はい。」
「それは惜しいことをしたな。・・・。確かに、サメがいるかどうかは分からない。でも、サメがいるのかなと心配する、Gちゃんの気持ちは、痛いほどよく分かる。・・・。分からないかい。」
「あっ。そうですね。もし、サメがいたとすれば、・・・、そういう海に向かって、お父さんは、『飛び込め』って叫んだのですものね。」
「そうだよ。お父さんの心情の読み取りには役立ったのではないかな。ただし、あくまで、サメがいるのかどうかは分からないということの確認は必要だ。」

 そのような話し合いをしたこともなつかしい。


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 もとより、問題解決学習の本命は、社会科であり、総合的な学習の時間です。子どもの生活を見つめ、そこから生まれる問題こそ、問題の問題たるゆえんです。

 今日の話は、あくまで、学級づくりという段階に焦点を当てたため、このようになりました。

 また、国語を専門とされる方には、違和感のあることを書いたかもしれません。何しろ、先輩から、
「toshiの国語は、社会科的な国語だな。」
と、からかわれていたくらいですから。

 それでは、今日も、皆様の温かな1クリックをいただければ、うれしく思います。よろしくお願いします。

rve83253 at 06:18│Comments(0)TrackBack(0)指導観 | 問題解決学習

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