2008年01月12日

発言すればいいというものでも〜 問題解決学習の問題点(4)4

b18223fc.JPG もう30年くらい前になる。昭和50年代前半と言ったらいいかな。そのころは、学習内容過密の時代で、世は、教え込みの風潮が強かった。

でも、心ある教員たちは、子どもを受身の立場に追いやり、覚えることばかりが横行する授業にあき足らず、何とか子ども主体の学校をつくろうと、がんばっていた。それが、わたしの教員修行の時代とも重なる。


 そのちょっと後になるが、ある学校では、『子どもがよく発言するクラスをつくろう。』という目標を掲げ、研究に取り組んでいた。わたしは、『素朴なテーマだな。たしかに、子どもがよく発言するということ。それは大事だろうが、はたしてそれだけでいいのか。』そういう思いで、そこの校長に質問した。

「ええ。toshi先生のおっしゃることはよく分かりますよ。でも、ここはご覧のとおりの地域でしてね。子どもは素朴。純朴。その点、あまり問題行動を起こすこともなく、その点はいいのですが、積極性には、やや欠けるところがあるのです。『大人が何でもやってくれる。』そういう感じで、待ちの姿勢が目につくのですよ。何とか、主体的に生きる子どもを育てたいと思いましてね。

 しかし、うちの学校の力としては、まだまだ問題解決学習を目ざすところまではいっていないのです。教員も模索段階でしてね。そこで、とにかく、『子どもがよく発言する学級をめざそう。』を合言葉に、がんばっていくことにしました。だから、現段階では、『発言の質はどうか。』とか、『学習問題とは、どうあるべきか。』とか、そういうことは、問わないことにしたのです。」

なるほど。そういうことか。それなら分かる。『まず、第一段階をがんばろう。』ということだね。

 そうしたら、先ほどまでとは逆に、いいテーマだなと思うようになった。

 第一分かりやすいものね。成果があがったかどうかも、一目瞭然だ。さしずめ、前回の記事内容がそのまま研究内容ということになるだろう。



 わたしも、一応、よく発言するクラスをつくれるようにはなった。しかし、そうなったらなったで、悩みはいろいろあった。教員修行も第二段階に入ったと言えよう。


 当時、わたしの授業を見てくださった講師の先生から、言われたことをよく覚えている。

「toshiさんの授業は、窮屈だな。逃れようがない。

 子どもは確かによく発言している。しかし、一度学習問題ができ上がると、そのなかに徹底して入り込み、一歩も抜け出せなくなる感じだ。ああだ、こうだと言い合いながら、それがどんどん深みにはまっていく。やがて、子どもたちは、話し合いに疲れていく。」

 自分でもそれは感じていた。

 議論は活発に行われる。そして、意見が出尽くしたと思われるころ、資料を提示する。それで議論は一件落着、収束の方向へと思いきや、『資料は確かにそうかもしれないけれど、でも、すべてそうとは思えない。だって、〜。』と言ってまた、議論を始める。『しかけ』がしかけにならないのだ。

 『すべてがそうとは思えない。』で始めた議論なのに、言っているうちに、『すべてが違う。』という感じにすり替わることがある。

 また、国語で言えば、部分読みの問題もある。資料の一部に反応してしまい、全体像を見失ったかのような意見を言うのだ。


 そう。そう。国語で言えば、このようなことがあった。小川未明さんの『野ばら』の授業だった。

「老兵士は、若い兵士のことを心配なんかしていないと思う。だって、ほんとうに心配していたら、居眠りなんかしないと思う。」

 これは、『居眠り』という箇所だけに着目してしまい、物語の主題にかかわる部分をおき忘れてしまったということだろう。このときは反対意見が相次ぎ、収束の方向に行ったが、その種の発言に悩まされることも多かった。


 さらに、議論がはい回ることもある。一件落着したはずの議論がむし返されてしまうのだ。

 これなど、昭和20年代、『はい回る社会科』『斜傾科』と揶揄されたことを想起する。


 もとより、問題解決学習は、こうした諸問題にも子ども自らが気づいて、自ら修正していこうとする力を養う必要がある。

 今、一つ例示しよう。

 我が姉妹ホームページにリンクするので、それをご覧いただけたら幸いです。

    地域の人物をとり上げて(6年〜歴史の学習から)

 この中ほどに、授業記録の表がある。

 その第四学習段階、『学習問題を修正しようとする子どもたち』の冒頭を見ていただきたい。

 中野(仮名)の発言だ。『みんなの意見は、ほんとうに話し合いたいことからは、はずれている。どうでもいいことだ。話し合わなければいけないことは別にある。』ということを言っている。

 そして、その発言を受けているのが、同学習段階最後の小川(同)の発言だ。中野によって意味のない話し合いとされたにもかかわらず、それにこだわっているのだが、中野の発言の趣旨は理解できるので、言いながらも、『もうそのことはいい。』と、こだわらない姿勢も見せている。

 この小川の、話し合いに臨む態度が、今まさに、『発展(成長)途上』であることを示している。

 このあたり、子ども自身が、無理のない、いい話し合いをしようとしている。双方とも、まさに、『学び方』『生き方』にかかわる学習をしている。問題解決学習の真骨頂と言えよう。


 だが、修行の第二段階では、わたし自身が暗中模索で、こうした態度を養うということについて、どうしたらよいかがよく分かっていなかった。


 今なら、もちろん、分かる。

 『価値ある話し合いができるようにする。』子どもをほめるなかで、そうした態度を養うという観点が抜けていたのだ。
 わたし自身が、議論の中身にばかり目が向いていた。また、『よく発言する』ということばかりにとらわれていた。
 


 また、心を養うことも大切だ。

 その一つは、『柔軟性』だろう。

 自分の信じるところに向かって、主張するのはいい。しかし、相手の主張にも耳を傾け、客観的に妥当性が高いのはどっちか。いつも自分の主張が正しいわけでもあるまい。
「分かった。Aちゃんの言っていることで深く理解することができた。ありがとう。」
「ぼくの言っていることは、ちょっとおかしいと気づいた。」
そういう態度を養うことも大切だ。

 


 また、子ども同士の豊かな人間関係を養うことも大切だ。

 前記事の最後に、
『このころになると、大部分の子は発言するから、いくら手を上げても、なかなか指名されなくなる。それを喜ぶ子どもの言動があった。Hちゃんだ。
「すごいね。みんなが手を上げるから、ぼく、2回しか指されなかったよ。ずっと手を上げていたのに。」』
と書いた。

『ふつうなら、文句を言うところだ。』
とも書いた。

 そう。こういう心根をもっともっと養う必要があったのだ。



 こうしたことは、わたしだけの問題ではなかった。学校全体としても、悩んでいたのである。ちょっと次元が違い、第一段階に戻ってしまうが、学校全体としては、

『どんなにいい資料を用意し、発問を工夫しても、学級によっては、子どもはちっとも動かない(発言しようとしない)。それはやはり学級経営に問題があるのではないか。』

 担任と子どもとの信頼関係が問題の中心ととらえるに至った。次回は、そのあたりのことを記事にさせていただこう。

 これがわたしにとっても、いい気づきを与えてくれた。


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 何か、反省だらけといった感じの記述になってしまいましたが、もちろん、うまくいった場面もいっぱいあったのですよ。

 ただ、わたし自身の意識が足りなかった(発展途上だった)ため、せっかくいい意見、態度があっても、それをやり過ごしてしまう傾向になってしまったのだと思います。


 今日の記事に書いたこと。大人でもなかなかむずかしいですよね。

 自己主張ばかりで他人の意見を認めなかったり(しかも自分ではそれに気づいていない。)、逆に、自己がないかのように借り物の主張に終始したり、・・・、そういう大人は、やはり、子どもの時期にこうした学習をしてこなかったのではないでしょうか。

 そういう意味では、当時の教育の責任でもあります。やはり、PISA型読解力は大切ですね。

 それでは、今日も、借り物でない、自己判断による1クリックをよろしくお願いします。(あっ。また、論理矛盾のお願いをしてしまいました。すみません。・・・。でも、お願い。)

rve83253 at 07:49│Comments(4)TrackBack(0)学級経営 | 問題解決学習

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この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2008年01月12日 10:50
こんちは

Toshi さんの記事を読んでいて、
あらためて、教師の皆さまの努力と創意工夫…真剣な試行錯誤を思い知らされて、敬服するばかりです。自分の子供の頃を思い浮かべてみても、親の心、子知らずじゃないですが、教師の心、生徒知らず、そして教師の心、親知らず、といった面がありますね。

そういう意味では、そんな狙いや工夫を、もっと親と学校教師が共有すべきとも思います。いや、機会がある度にそうしてきたつもりだったのですが、申し訳ないのですがそんな思いや考えを感じ取れなかったんです。

もっとつっこんだところで、喧喧諤諤としなければいけないのかもしれませんが、立場が違うだけに、お互いが本心までぶつけ合えないのかもしれません。う〜ん、難しいところですね。

2. Posted by Hideki   2008年01月12日 10:50
リアルで顔をあわせると、相手への配慮から、まわりへの気配りから、本心が言えないことがあるのも事実。一方紙では、全くの一方通行。もどかしさが残る。

実は、toshi さんの思いがさほどブレなく伝わってくるのは、今までのネットベースでの双方向でのやりとりから、「思い」のつながりができているということも大きいと思う。

その意味で、今後は「インターネットコミュニケーション」を上手く活用していく必要があると感じています。そのために、その魅力と危険を十分理解し活用できる、インターネットコミュニケーションスキルを磨くことがまずは重要ですね
3. Posted by toshi   2008年01月12日 17:18
Hidekiさん
 温かいコメントをいただきました。ありがとうございます。わたしは、校長時代、学校が努力していることについて、保護者、地域の皆様のご理解をいただきたいと思い、学校だよりなどでも、紹介させていただきました。Hidekiさんにはすでにお読みいただいているのですが、一つだけURLを載せさせてください。
 http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/956262.html
 しかし、もっともっとその努力は、発展させなければいけません。Hidekiさんがおっしゃるように『共有』までもっていきたいですね。
 そうか。共有と言えば、保護者・地域の方々の中には、その道の達人もいらっしゃるでしょう。そうした方々のご支援もいただいたうえで、それを広く紹介することが大切でしょうね。
4. Posted by toshi   2008年01月12日 17:28
「インターネットコミュニケーション」
いい言葉だなあと思いました。Hidekiさんがおっしゃること。『なるほどなあ。』と思いました。ネットこそ、上手に活用すれば、すてきな、『教育財産の共有』になりますね。
 なにしろ、未知の方との双方向のやり取りというのは、価値を深め合ってはいますが、先のことは分からず、ほんとうに常に、新鮮。ドキドキ感もあります。そして、スキルも、やりながら、把握していくという感じがありますね。
 これからも、どうぞ、よろしくお願いします。

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