2008年01月16日

学級経営の研究へ 問題解決学習の問題点(5)5

75b163e9.JPG 昭和50年代、わたしが勤務した学校は、『子どもが主人公の学校づくり』を標榜し、問題解決学習をおし進めた。多くの学級で、子どもたちはいきいきと学習に取り組み、初期の目標は達成できたように思った。

 しかし、そうなればなったで、新たな悩みが生まれる。問題解決学習がそうであるように、研究も、必然性、切実感をもって、次のテーマに移行したのだった。


 その問題(悩み)とは、大きくくくれば、

〇『どんなにいい資料を用意し、発問を工夫しても、学級によっては、子どもはちっとも動かない(発言しようとしない)。それはやはり学級経営に問題があるのではないか。』

〇子どもがよく発言する学級にしても、自己主張ばかりで、議論の価値がちっとも深まらないケースがある。そして、こういう学級では、発言する子も限られる傾向がある。これもやはり学級経営に問題があるのではないか。

となるのではないか。



 こうした学級の場合、やはり、担任と子どもとの人間関係、信頼関係に、問題があるのではないか。ただ単に、指導法の研究だけをしていたのではダメだ。どうやって、人間関係、信頼関係をもたせるか、高めていくか。それを研究の俎上に載せないとうまくいかない。

 そういう気運が高まった。


 わたしにしても、悩みがないわけではなかった。それは、前々記事に書いた通り。深みにはまっていくということ。その深みにはまる原因を的確にとらえることができなかった。

 わたしの場合、この時期なら、担任と子どもとの人間関係、信頼関係に、一応、問題はなかったと思う。いや。当時のわたしの認識が、そのようだった。


 ただ、子ども同士の関係には、・・・、問題があったのかもしれない。ふだんの子どもたちの学級生活では、特に気になることはなかったのだが、・・・、


 それなら、なぜ、担任と子どもとの間の人間関係が、子ども同士の人間関係に転移しなかったか。


 今なら、分かる。

 わたしの子どもを見る目が、うわっつらだけだったからだ。子どもの内面まで見る気持ちがなかったからだ。いや。そういうものに、頓着しなかったと言った方がいい。

 たとえば、先輩はたった一時間わたしの授業を見ただけなのに、指摘したことがある。そのとき、わたしは、自分のクラスなのに、見えていなかった。なさけなかった。

「Aちゃんは、反対意見ばかり言っているね。どうしてなのだろう。」
「Bちゃんは、Cちゃんが発言すると、必ず発言する。それも、反対意見ばかりだ。授業記録を起こしてごらん。分かると思うよ。二人の人間関係はどうなっているの。」

 日ごろ、問題性を感じていなかった。だから、ハッとさせられた。あとで、授業記録を見ると、先輩の言う通りだった。


「こういう人間関係だと、いくら話し合っても、真理の追求からは離れてしまうね。ねらいの達成も容易でなくなる。」

 そうか。前回書かせていただいた、『窮屈な話し合い』の原因には、そういうことがあったのかもしれない。



 上記以外にも、いろいろな傾向に気づくようになった。

 「Dちゃんは、実証的というか、いつも具体的に論を展開する。とてもいい。・・・。でも、ときに、理屈っぽい感じがすることもあるな。」とか、

逆に、
「Eちゃんは、抽象的というか、観念的というか、・・・、だから、資料を読み取るときも、あまりしっかり見ていない。
 でも、国語で主人公の心情を追求するような場面では、びっくりするような深い読みをすることがあるな。」とか、

 それからは、くせになっている発言と違う傾向の発言をしたとき、うんとほめるようにして、多面的な見方ができるように努力した。

 だんだん、そういうことが見えてくると、わたしの何気ない(?)投げかけによって、学習が深まるという実感ももてるようになった。



 「無理をしてはいけない。無理をすれば、子どもは離れる。」ということも学んだ。

 たとえば、

 全員発表を目ざすのはいいが、子どもに発言を強要してはならない。『分からないから言えない。』のは仕方ないが、『分かるけれど、言いたくない。』の自由も認めなければいけない。
 それは民主主義の基本である。授業といえども、いや、授業だからこそ、民主主義の基本を行動で示す必要がある。
 無理しないとすれば、基本は、ほめること。受容すること。認めること。
 そうすることによって、発表意欲を増進させ、その結果として、気づいたら全員発表していたという姿が望ましい。内発的動機付けだ。


「おっ。いいねえ。そういう見方も確かに成り立つね。」
「うわあ。すごいよ。今の発言。これまでのみんなの発言を、的確な一つの言葉で表現しているね。」
「今の発言、とっても分かりやすかった。」など。

 子どもをさらに伸ばそうとする、明確な視点を持った投げかけ。これは、その子だけにひびくのではなかった。その言葉は、学級全員が聞いているのだから、かなりの部分へひびいていく。そして、それが的確であればあるほど、ひびき合いは、増進する。


 逆に、それが、子どもに批判的だったり、皮肉っぽかったりすれば、子どもはしらけ、無表情になり、意欲的に学ぼうとしなくなる。

 こうした言葉かけをしてしまうのも、

 担任は、『発言しなくていいよ。』『友達の発言を聞かなくていいよ。』という思いで言うわけはなく、努力してほしい思いのあらわれに違いないのだが、・・・、

 いや。単に無自覚で、くせになっているに過ぎないことも多いということが、研究討議で分かった。

 そういうことも学んだ。



 まずは、あるがままの子どもの姿を受け止めることだ。受容する。共感する。そして、その上に、よりよい姿を発見するように努める。



 一つ。おもしろい例がある。

 5年生担任のときだった。当時はまだ食管制の時代である。農業の学習のとき、『米はどこからわたしたちのまちへ運ばれてくるのか。』が問題となった。

 そのときだ。学習活動は、自然に、かなり分担されるようになった。

〇お米屋さんへ行って、荷札を集めてくるのが好きな子。あるいは得意な子。
〇友達が集めた荷札を、都道府県別に分類、集計するのが好きな子。あるいは得意な子。
〇そういうのは苦手だが、刻々と集計されるグラフを見て考察するのが好きな子など。

 当時、保健室には、棒グラフの表示板があって、棒の長さをどんどん変えられるようになっていた。それを教室に持ち込み、横軸には、多い都道府県名、縦軸には、集めた荷札の数を記録した。

 日々刻々と棒が長くなっていった。抜きつ抜かれつなどということもあった。

 そうした活動の姿をじっくり観察し、それぞれを認める。ほめる。

「toshi先生、もうぼくたちあっちこっちのお米屋さんに行っているのだよ。近くのお米屋さんには、『君たちがよく来るので、もう、荷札はないよ。』って言われちゃって、Fちゃんなんか、電車に乗って、遠くのお米屋さんからもらってきた。」
「先生。昨日は、G県がものすごく伸びた。これは、Hちゃんが、I駅まで行ってもらってきたからだよ。もうすぐ、J県を抜きそう。」
「おかしいよね。お米はもともと熱帯の作物だったのでしょう。それなのにどうして寒いところの県ばかり多いのだろう。」

 そういう子どもの姿を認めているうちに、分担がだんだんくずれ、一人の子がいろいろなことをやるようになった。『得意』だとか、『やりたい』だとかの幅を広げているのだった。


 荷札には、それぞれ、生産農家の住所、名前が印刷されていた。同じ方の荷札が多数集まるなどということもあった。そうしたら、自然発生的に、『それら農家にお手紙を出して、いろいろ質問したい。』という声が生まれた。このころになると、もう、全員がお手紙を書きたがった。

 特に印象に残っているものは、『米どころには、たいがい大きな川と平野がある。』このことから灌漑について質問した子がいた。

 生産農家から返事が届くようになると、子どもたちはものすごく喜んだ。そこからまた考察が始まった。

 おもしろかったのは、何人もの農家の方が、『これまで何十年もお米を出してきたが、わたしたちの作ったお米が、皆さんのまちへ送られているということは、初めて知りました。驚きました。』と書いてくださったこと。

 これには、子どもたちも驚いていた。




 ここで話を変える。

 授業とはなれたかたちでの、学級経営の研究にも取り組んだ。

 
 授業とは別に、学級生活全般にわたり、不安なこと、悩み、逆に喜びなどを、自由に記述し、それを、全体に報告することもやった。

 また、これは、全国どこの学校もやっていることと思うが、週学習指導案なるものがある。一週間の授業等の予定を書き、校長に提出する。

 それには、かならず、前週の反省記録を書くことにした。そして、校長先生の赤い字で書いたお返事をいただいた。


 一つ。これはある若い担任(中学年だったと思う。)が、学級経営の記録をもとに、研究会で報告、指導を仰いだことがあった。

 その内容の大まかは、

「学級のKちゃんのことで悩んでいる。Kちゃんは、よくわたしに甘えてくる子で、ちょっとしつっこいなと思うこともある。
 特に問題視するほどではないが、必ずしも友人関係がうまくいっていない。

 そのKちゃんが、作文で、わたしに質問し、返事を求めてきた。
 でも、わたしはどう応えたらいいか、よく分からなかった。分からないまま、このように書いたのだが、この返事でよかったか、不安に思っている。そこで、今日は、先生方にお教えいただければと思う。」

 作文には、友人関係での悩みが書かれていた。そして、末尾には、『仲良くしたいのだけれど、仲良くなれない。先生。どうしたらいいの。』というような内容だった。


 それに対する、講師の先生(他校の校長)の指導が忘れられない。

「このKは、先生に、認めてもらいたいのだ。先生と信頼関係で結ばれたいのだ。大好きな先生に、受け止めてほしいのだ。
 だから、わたしなら、こういう返事は書かない。

 先生が書いた返事は、『こういうとき、こうしたら、仲良くなれるのではないかな。がんばってごらん。』というように、理屈で答えている。でも、Kは、先生に、理屈で応えてほしいわけではない。

 先生が言うように、Kは先生に甘えたいだけなのかもしれない。なんか満たされないものがあるのかもしれない。

 だから、『先生は、Kちゃんのこと、心に留めているよ。今日は、相談してきたからうれしいな。確かに心配だね。でもね。Kちゃんはやさしいところがあるから、先生は安心しているよ。これからも、何でも言ってきてね。』そのような返事になるだろう。
 つまり、理屈ではない。情緒に訴えるのだ。心を満たしてあげたいのだ。

 言外の意味を汲み取るように努めよう。」


 なるほどと思った。それからというもの。わたしも情緒的な会話を多用するようになった。

 すると、子どもの表情、しぐさ、言動などが明らかに変わっていった。もともとにこにこはしていたが、度合いが明らかに変わっていった。

 子ども同士の人間関係もより豊かになった。それによって、発言する子も、ぐうんとふえ、ひびき合う授業といった感じになった。

 ああ。上に、『情緒的な会話を多用』と書いた。

 しかし、すぐ、『情緒的な会話を楽しむ』ようになった。


 わたしにとって、学級経営の研究は、計り知れないほどの進歩をもたらしたと言えよう。



 実は、それが、今の初任者指導に、ものすごく役立っている。

 今、初任者に言っていることは、このとき学んだことが大きい。

 たとえば、

 「先生。子どもに、感動したことを語っているのはいい。子どもの言動の何に感動したのかを具体的に語っているのもいい。

 しかし、先生の言い方、表情などは、ちっとも感動しているように見えない。淡々として、時には事務的と言ってもいいくらいのときもある。
 せっかくほめているのに、もったいないなあと思う。もっと、先生の表現力を豊かにすれば、効果的だよ。」

 おかげさまで、今は、実に表現豊かに、子どもに対応している。そのことでも、初任者をほめることができるようになった。とてもうれしく思っている。

 でも、これは、まさに、むかし、わたしが言われたことなのだ。

 ああ。もう、20年以上も前になるが、当時の研究に、ものすごく感謝している。


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 ブログに書くのは簡単ですが、この研究は、各担任にとってはきびしいこともありました。担任の人間性が問われることも多かったからです。

 でも、みんなよく努力しました。成果が上がったと思われたころ、ある先輩が、わたしに言ったことがあります。

「もう、うちは、どんな校長が来ても大丈夫だよ。校長が変わっても、研究はびくともしない。それくらい、子どもは輝いている。保護者や地域からの信頼もある。それだけのものを、みんなで構築したな。」


 わたしの場合、この研究は、家庭における、我が子への接し方にも変化をもたらしたのです。

 それは、すでに記事にしたことがあります。よろしかったら、どうぞ、ご覧ください。

    『学校・担任批判を子どもの前ですることは、〜。』

 それでは、今日も、1クリックいただければ、大変うれしく思います。よろしくお願いします。

rve83253 at 13:25│Comments(2)TrackBack(0)問題解決学習 | 学級経営

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この記事へのコメント

1. Posted by ベア   2008年01月17日 15:42
生徒一人一人をこれだけきめ細かく見てくださる先生に出会えたら、本当に幸せなことだと思いました。
子供達の友人関係が授業風景からも読み取れたりするのですね。
「無理をすれば子供は離れる」というのは、親子関係でも言えるような気がします。
言いたいことも程々にして黙っていると、子供が自分からやってくれたりすることはありますものね。
しつこくすればするほど反発されたり、逆にやる気を失わせてしまったり・・・。
この言葉、私も肝に命じたいと思いました。
2. Posted by toshi   2008年01月17日 22:09
ベアさん
《子供達の友人関係が授業風景からも読み取れるのですね。》
 そうですね。教え込みでは、子どもは受身ですから、ただ聞いているだけ。時々発問に答えたとしても、正答か誤答かということでしょうから、子ども同士の人間関係がにじみ出ることはないと思います。
 子ども主体の授業だからこその悩みですね。

《言いたいことも程々にして黙っていると、子供が自分からやってくれることはありますものね。》
 これ、かつて記事にしたことがあるのですが、家庭では難しいだろうと思います。いつもやるとは限らないからです。その点、学級なら、何十人という子がいるので、待っていても、誰かがやってくれます。それをほめれば、ひびき合いますから、その点、都合がいい。
 でも、そうではあるが、家庭でもがんばってほしい点ではあります。
 すみません。要領を得なくて。

 

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