2008年01月18日

忘れよう。でも、忘れちゃダメ!

8ed860fd.JPG 初任者指導をしていて、矛盾することを言ってしまい、自分でおかしくなることがある。

 この日もそうだった。



 今、わたしが担当している初任者は研究授業が近い。それに向かい、だんだん緊張感をつのらせているようだ。

「今からそんなに緊張していたのでは、疲れてしまうよ。」



 でも、緊張の多くは、わたしの言葉が原因のようだ。・・・。ごめんね。でも、職務だから、いくら研究授業が近くても、言わないわけにはいかないのだ。


 たとえば、

「板書に学習問題がなかったが、書かないと、何について話し合っているのか分からなくなってしまう子もいるよ。忘れずに板書しようね。」

「Aちゃんの、あの発言をとり上げれば、苦もなく、予想した通りの学習問題になったのではないかな。うっかりしちゃったね。」

「むかしの洗濯の体験学習をするよね。そのときお世話になる地域の方には、もう連絡はとれているの。」

「井戸での水汲み体験をやったあとの感想は、〜のように整理しておくといいよ。整理できたら、一緒に授業の構想を練ってみようよ。」
など。など。



 こうして、授業の構想を練っているときでも、初任者の緊張が伝わってくるわけだ。

 それで、思わず言ってしまったことがあった。

「研究授業当日になったら、子どもの前で、一番大切なのは、先生の笑顔だ。

 先生が緊張した表情をしていると、それは子どもに伝わる。そして、
『何事が起きたのだろう。』
『先生、今日は、なんか、変だ。』
『ぼくたち、よほどいいことを言わないといけないのではないかな。』

などと思うようになり、子どもも緊張してしまう。

 だから、ふだん通りやることが大切。

 そのためには、研究授業当日になったら、それまでの教材研究は忘れること。」

「ええっ。忘れてしまっていいのですか。」

「そう。授業で、一番大切なのは、何と言っても、目の前にいる子どもたちだ。子どもたちの思いに寄り添うことだ。指導案にとらわれ、目の前の子どもを忘れてしまったら、そちらの方が問題だ。

 まして、多かれ少なかれ、子どもたちの思いと指導案とは、ずれてしまうだろうから、そういうとき、『どうしたらいいの。』と、あせればあせるほど、緊張感はましてしまう。」



 そうだ。以前も書いたが、囲碁の格言に、『定石は、覚えて、忘れろ。』というのがある。これだ。


 わたし、囲碁は弱いから、確信はもてないが、たぶん、

 『定石は、大事なものだ。互いに最強の手順を示している。だから、覚えた方がいい。そして、どうしてそれが最強なのかも分かるともっといい。

 でも、実戦に当たっては、相手が定石通り打ってくるとは限らない。それから、どのような布石でも、その定石が最良とは限らない。だから、実戦では、あくまで布石に応じて最良の石が打てるよう、定石にとらわれない態度が大切だ。』

 そのような意味だと思う。



 授業も同じだろう。ある意味、子どもとの真剣勝負なのだ。

 本時の学習問題について、一人ひとりの子どもがどのような思い、考えをもっているか、それをあらかじめ把握しておくことは大切だ。

 そうして、どのような話し合いになるか予想する。あるいは、流れを組み立てる。どの展開で、どのタイミングで資料を提示したらよいかも考える。それを2・3通り考えることもある。
 ねらいも含め、こうしてでき上がるのが、学習指導案だ。



 しかし、授業は水物。指導案どおりになるかどうかは分からない。

 つまり、こっちが把握した通り子どもが発言するとは限らない。

 友達の発言を聞きながらひらめいたり考えを深めたりし、指導者の思いもつかないことを言うこともある。いや。そういうことは多いし、むしろ、望ましい場合も多い。

 つまり、指導者の予測の範囲を越えてしまうのだ。

 そうなったら、指導者は、即座に、授業の流れを構築しなおさなければならない。それができないと、『子どもに身を任せ』の、漂流状態になってしまうこともある。



 このクラスは、最近、実によく発言するようになった。その輪は広がっている。だから、指導者は、それだけ交通整理が大変になっている。臨機応変さも、求められるようになってきている。

 ある意味、学級が育ってくると、担任は大変なのだ。




 それでは、今日は、研究授業数時間前の授業で、そのあたりを考察してみよう。


 前時、学校のそばの、井戸がある民家を訪ね、水汲み体験をした子どもたち。

 この日の授業は、水汲み体験直後に書いた感想をもとに、これからの学習の方向をつかむ。

 その授業と、授業前後の二人の話し合いから、3つほどのポイントを示そう。



 事前の話し合いで、次時の最後は、『井戸でくみ上げた水は、どのように使われたか。』という方向性をもって収束するといいと話した。



その1

 授業者は、授業前、悩んでいた。

『井戸の水をくみ上げるのは大変だった。疲れたという感想ばかりで、くみ上げた水が何に使われるかという発言がまったくなかったらどうしよう。』
と思ったようだ。

 でも、『案ずるより産むは易し』。授業を見て、わたしはそう思った。

 AちゃんとBちゃんが、わりと早い段階で言ったのだ。

「あの水は飲むことができるって、井戸のおうちのおじいさんが言っていたでしょう。・・・。」
「でも、飲みなれていない人は、一度沸かしてから呑む方がいいって言っていたよ。」
「そうだけれどね。でも、飲んでみたかった。」
というようなやり取りをした。

 わたしは、事前に予測した通り、『しめしめ。井戸の水はどう使われたかに迫るうえで、いい布石が打たれた。』と思った。



 しかし、かんじんの授業者はどう思ったのだろうか。

 放課後の話し合いで聞く。

「あのやりとりを聞いて、どう思ったかな。わたしは、『おっ。早くも、くみ上げた水を、どう使うかという、次時の方向性にかかわる話が出てきた。』そう思ったのだけれど、先生はそう思ったかな。」

「ああ。そうですね。・・・。でも、あのときは、そうは思いませんでした。『水をくみ上げたばかりで沸かしていないのだから、その場で飲めるわけはないのに。』そう思っただけで、やり過ごしてしまいました。」

「うん。そうだったね。・・・。でも、後になって、洗濯だとか、お風呂だとかの話もでたから、『井戸の水を何に使うか』という学習の方向性はもてたわけで、その点はよかったな。

 でも、それは、結果オーライであって、本来、子どもの話をどう組織づけるかとか、どう価値づけるかとか、そういうことが指導者の大事な仕事なのだから、子どもの話を聞きながら、そういう力を高めていってほしい。」

 『定石を忘れる。』ということは、それだけ、目の前にいる子どもを重視することなのだね。

 

 その2

 井戸の水汲み体験の後、Cちゃんは、次のようなことを感想に書いた。

「水道がなく、井戸で水を汲んでいたころは、洗濯をするとき、二人、人がいなければならなかったと思う。」


 Cちゃんは、この単元の導入のとき、むかしの生活道具として、おうちにあった洗濯板を持ってきた子だけに、洗濯への関心が強かったようだ。

 それにしても、Cちゃんは、なぜ、『二人いないといけない。』と思ったのだろう。その辺は分からなかった。


 感想を読みながら、初任者と話し合った。

「井戸で水を汲む上げる人と、洗濯板で洗濯する人と、二人いると思っているのではないでしょうか。」

「ああ。そうか。なるほどね。そうだろうね。わたしも賛成だ。」

「今は、何をするにも、水を出しっぱなしにしていることが多いですよね。そうして、顔を洗ったり、手を洗ったりしているでしょう。

 そうすると、むかしは自動的に水は出ないわけですから、洗濯や炊事をする人と、水をくみ上げる人とがいなければならないと思っているのでしょうね。」

「なるほどね。・・・。そうすると、これが次時の学習問題になれば、『かめ』や『たらい』の役割に学習は向かっていくだろうね。水をためておくものがあるから、二人はいらないとなるわけだものね。」

 そして、・・・、

 そうだ。そうなれば、『かめ』や『たらい』の役目は、ただ単に、『水をためておくもの』という理解にとどまらず、『洗濯や炊事をするとき、一人でも仕事ができるようにするために必要なもの』という理解になるわけだ。



 その3

 ところが、これだけ話し合っていたのに、授業者は、『二人必要か。』を、授業でとり上げることができなかった。

 それは、いざ本番となると、子どもたちは、ほかの事でけんけんがくがく、議論を始めたからだ。

 それは、

 「むかしも、お風呂に使った水で、洗濯をした。」
 いや、「そのようなことはしない。」の対立だった。「もったいないから。」「疲れるから。」などとやり合っていた。

 これは、まったく予測していなかった。

 授業前の感想に、このようなことを書いた子はいなかったからだ。

 話し合い学習を進めているなかで、Dちゃんが、こだわり出した。他の子も、これにのって、ああだ、こうだとやりだした。

 やりだしたところで、チャイムとなった。



 『ああ。これが、そのまま、次時の学習問題になるな。おもしろい。』と思った。

 しかし、あれっ。

 授業の流れとは無関係に、事前のわたしとの話の通り、

「それでは、次の時間は、『井戸でくみ上げた水は、どのように使われたか。』を、やりましょう。」と言ってしまった。

 子どもたちは、具体的な問題意識をもっているのに、指導者は、一般化された言い方に戻してしまったわけだ。

 『あらかじめ予想した、学習の流れは、忘れろ。』だったのだけれど、やはり、忘れられなかったのだね。そして、それにとらわれてしまった。

 子どもたちは、ポカンとしてしまったようだった。



 でも、でも、今は、これでいいのだよね。

 この場合、『忘れろ。』は、『わたしの指導』を忘れてしまったのだろう。それも、やはり、『緊張のあまり』ということか。

 だんだん慣れてくるにつれて、指導案は『忘れて』も、『目の前の子どもたち』は忘れないというようになるだろう。

 


 さあ。本番では、どれだけの指導力を見せることができるか、楽しみだ。


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ninki



 以前、『発言すればいいというものでも、〜』にいただいた、Hidekiさんのコメントに、『このような、教員のねらいや工夫を、保護者も共有することができたら。』とあり、『そうだな。これからの学校教育は、そうなっていくだろうし、そうしていきたいものだな。』と思いました。

 保護者と共有できれば、それだけ、家庭においても、親子の会話が豊かになるでしょうし、・・・、学校にしても、保護者から指導のヒントをいただくこともあるでしょう。


 地域の方も同様ですね。

 本実践にしても、井戸の水汲み体験や、洗濯板による洗濯体験では、地域の方(老人会の方々)に、お世話になります。『共有』できれば、指導効果も上がるというものですね。


 話は変わりますが、子どもの思考は、やはり、『今』を拠り所としているのだなと思いました。『洗濯は、二人いないとできない。』とか、『お風呂の湯で、洗濯しただろう。』とか、いずれも、今の生活から類推しています。

 それが違うと分かったとき、真のむかしの生活の様態に迫れるのでしょう。

 それでは、今日も、1クリックをよろしくお願いします。

rve83253 at 17:35│Comments(0)TrackBack(0)初任者指導 | 社会科指導

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