2008年01月26日

教材研究をしっかりと 問題解決学習の問題点(7)3

efe685d3.JPG 本論に入る前に、すみません。前記事『子どもが意欲的なだけに 問題解決学習の問題点(6)』の補足をさせてください。

 子どもが意欲的に学ぶ姿勢をもっているなら、指導者の、子どもを看る目や教材研究は、より確かでなければならない。そういう趣旨でまとめたのだったが、・・・、

 元来、問題解決学習なら、こういうことは、ありうべきもないはずだったのだ。

 なぜか。



 問題解決学習は、『知識・技能』の習得もさることながら、その習得のさせ方を重視する。『学び方』『生き方』にかかわる内容も、大事な学習内容なのだ。

 たとえば、

 自己認識と言う。自分で自分自身を客観視できる力と言ったらいいだろうか。

 問題解決学習はそういう力も養っているはずだ。

 体育では、『めあて学習』をとり入れている。『運動に親しむこと。』『運動が好きになること。』を大切にし、自らやってみようとする心情を養うなかで、技能の習得を図る。

 したがって、めあてを決めるのは子ども自身だ。
 それには、自分の力を客観的に把握できる力を養う必要がある。無謀な目標にしてしまったり、ただ、『一生懸命がんばる。』程度の、ばくぜんとしためあてにしたりしたのでは、達成感もないし、学習する意味がない。

 具体的で達成可能なめあてがつくられ、それに向かって努力する心情を養う必要がある。

 そういうことができていなった。



 当時は、まだ、『ゆとり教育』の時代ではなかった。・・・。でも、そのようなことは言い訳にもならない。

 自ら問題解決学習を標榜し、その実践に自信を深めていたわたしとしては、こういう力を養い得なかったことについて、なさけない思いでいっぱいになった。


 少なくとも、当時のわたしには、縄跳びに関し、そうした視点が欠けていた。無理なく的確なめあてがもてるよう、そして、真に成功の喜びを味わえるように支援できなければならなかった。


 そういうことができなかったことへの反省だった。



 さて、

 本日とり上げる内容は、初任者指導をしていて、感じることだ。


 わたしは、初任者に対しても、もちろん問題解決学習を推奨している。子ども主体の学習でなければならないこと。子どもの思いをうまく引き出す力を養わなければいけないこと。など。など。大事にして指導している。


 それを苦もなく受け入れて実践に移せる初任者もいるが、苦しむ初任者も多い。

 いずれも話していて分かるのだが、これは、幼いときから、どういう教育を受けてきたかにかかわるようだ。誰しも経験のないことを実践に移すことはむずかしいものね。
 これは、前々記事に書かせていただいた、准教授の話にも通ずる点がある。


 でも、わたしを含め、先輩教員の授業を見るなかで、だんだんイメージができていくのではないかな。一年たち、自らを変容させるくらい、がんばっているのを見ると、頭の下がる思いがする。


 だから、今日、とり上げる事例は、そういう初任者には大変失礼なのだが、発展途上、がんばっている一過程として、書かせていただきたい。
 そして、それが、多くの教員の参考になれば、幸いである。
 また、市民の皆さんには、こういう苦労があるのかと、ご理解いただけたら幸いである。以前も書かせていただいたが、教員を広く大きな目で温かく見守っていただけたら、これにまさる幸せはない。



その1  子ども主体のように見えるが、現実は?


 洗濯板による洗濯体験を計画した。

 そこから、たとえば、『洗濯板にぎざぎざがあるから、ときどきそこに指が行って指をこすってしまい痛くなる。なぜぎざぎざがあるのだろう。』などという疑問がでてきたとする。

 これは、いい学習問題だ。むかしの人の工夫に迫ることができる。コツに迫ることだってできるかもしれない。

 そうした問題を引き出し、それを手がかりとして学習を進めていってほしいわけだが、・・・、
 なんと、体験をしていないうちに、やり方とか、長所とかを調べさせてしまった。
 当然、上記のような問題意識を養うことはできなくなったわけだ。

 だって、『ぎざぎざ』の利点。それはもう、調べた結果として、頭では分かってしまったのだものね。


 こうしてしまう初任者の思いは何か。
『知識がないと、ちゃんとした洗濯体験ができない。』

 ああ。洗濯体験そのものをうまくやることがねらいではないのだよ。このあたり、最近よく記事にする、『知識・技能あっての思考』という考え方を思わせる。


 うまくいかなくったっていいではないか。いや。むしろうまくいかないからこそ、また、試行錯誤があるからこそ、切実な問題意識も生まれるというものだ。

 どうも、学習形態は問題解決学習っぽくやりながらも、実態としては指導者が引っ張ってしまう。強引に子どもをねじ伏せるような指導が、あるように思う。


 それと似ているのだが、

 指導者の思う学習の流れに、子どもがのってこない場合、・・・、指導者の思う方向に、強引に話し合いをもっていってしまうこともある。



 『その1』の最後に、洗濯体験の留意点にふれたい。

 洗濯板をどう扱うか分からない子どもが多い場合、地域のおばあさんなどにお願いし、指導を受けることはいいことだ。

 ただし、その場合も、洗濯のしかたを教え込むようにしてやるのではなく、お手本を示してもらった後は、子どもの疑問に答えるかたちで、指導していただけたらありがたい。



その2  教材研究不足だと大変だ。


 子どもはかなり育ってきた。主体的にいきいきと発言する。そういう子がふえている。

 それはいい。しかし、子どもは自分の思い、考えを発言するから、ときどき、当該学年の学習内容をとび越え、高度に走り過ぎることがある。

 そういう場合、
「ああ。よく知っているねえ。すごいねえ。」
とは言うだろうが、それだけで、もとの話し合いに戻せばいいのに、指導者がそうした発表に付き合ってしまうことがある。さらに、それを、学級全体に投げ返してしまうこともある。
 そうなると、話し合いの中身が高度になり過ぎるので、一部の子どもだけの話し合いになってしまい、多くの子にとっては、何を話し合っているのかわけが分からず、ついていけなくなってしまう。


 たとえば、

 3・4年生の理科では、『太陽の動き』『星の動き』『月の動き』という単元名でも分かるように、天動説のようなイメージで学習を進める。『それが、生活経験重視の小学校としては、また、中学年の発達段階としては妥当だろう。』ということで、そうするのだが、

 なかには、
「ほんとうは違うよ。ほんとうは、地球が動いているから、星や太陽や月が動いているように見えるのだよ。」
などと言う子がいる。

 それを、上記のように、『よく知っているねえ。すごいねえ。』で終わらせればいいのだが、指導者が付き合ってしまうと、小学校中学年の学習内容を超えた話し合いになってしまう。これなど、中学校の学習内容だよね。

 ときには、話はさらにエスカレートする。
「違うよ。星や太陽は合っているけれど、月は、地球の周りを回っているのだから、動いているよ。」
などと言う子も出てくる。もう、多くの子はちんぷんかんぷんだ。

 こういうことは特に理科関係に多いかな。『〇〇博士』などと言われる子はどこのクラスにもいると思うので、気をつけなければいけない。


 指導者は、何が学習内容なのか、どこまでを扱うのか、そうしたことを、あらかじめ明確にとらえておかなければならない。

 そうしないと、かつて、問題解決学習への誤解と題し、記事にしたことがあるが、

『問題解決学習は、一部エリートを養成するための指導法だ。大部分の子どもはお客さん状態におかれてしまう。』
などという誤解を招いてしまう。


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 『大部分の子どもがお客さん状態』については、逆もあります。

 つまり、指導者が発表する子をふやすよう努力しても、それがうまくいかず、一部のよく発言する子だけを相手にして、授業を進めてばかりいるような状態です。これを続けると、どうしても話し合いの内容が高度になり過ぎ、大部分の子は、ついていけません。そうすると、ますます発言する子は減るという悪循環に陥りますね。


 本記事に書いたようなことは、『教え込み』の指導なら起きないでしょう。悩みにもなりません。
 『その1』なら、それでいいということにもなりそう。

 しかし、子どもを受身においていい訳はないのであって、どうしても、若い教員の多くが直面する問題なのですね。

 こうした苦難を乗り越え、がんばってほしいと切望します。

 それでは、未来のベテラン教員のために、大いなる拍手と、わたしには、1クリックいただけたら幸いです。よろしくお願いします。

rve83253 at 03:04│Comments(0)TrackBack(0)初任者指導 | 問題解決学習

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