2008年02月11日

新聞への投稿記事から4

fb92a40b.JPG 8日、拙ブログ読者の方から、メールをいただいた。

『今朝の朝日新聞17面「私の視点」に、PISAとゆとり教育について、toshi先生と似た考えをお持ちの方(学習コーチアカデミー主席研究員の佐々木宏さん)が投稿されていました。〜。』
とあった。


 お知らせいただき、ありがとうございました。


 さっそく、読ませていただいた。

 読者の方がおっしゃる通りだった。

 ゆとり教育の大切さを訴え、教員の現場における研修の重要性を語っている点、わたしは心強さを感じた。


 ただし、いくつかの点で、違和感を抱くこともあった。
(なお、本稿末尾では、重要な部分での違和感はなくなった旨、また、そこから学ばせていただいた点もあった旨、書かせていただこうと思っている。)


 そこで、ここでは、共感、違和感をおりまぜ、記事を追いながら、考察させていただきたいと思う。



〇『PISAの国際学習到達度調査の結果公表で、日本の学力低下に歯止めがかかっていないことに、不安の声が上がっている。』

 そうかな。『歯止めがかかっていない。』に異存はないけれど、『不安の声が上がっている。』のかな。

 今回、センセーショナルな『学力低下論』は影をひそめたようで、わたしは、その点、『PISAへの理解が進んだかな。』とうれしい思いでいた。

 それは違っていたのだろうか。



〇佐々木氏は、『PISAの結果で問題視されている、子どもたちの読解力や思考力、応用力を養う具体策として、教師に、『承認力』と『質問力』を身につけてもらうことを提言したい。』とおっしゃる。

 そして、『承認力』としては、

 子どもたちの答が間違っていたとしても、それを承認する力である。『正解』を伝える前に、『なるほど。そういう見方もあるね。』と一言添えるだけで、子どもたちは、『間違っていても、自分の考えを表現していいのだ。』という気持ちになれる。『結果重視』でなく、『プロセス重視』の考えだ。

 また、『質問力』としては、

 思考力や応用力を育むために必要なのは、イエス・ノー型の質問を多用するのではなく、『何を』『どのように』といった問いかけをすることだ。たとえば、『何が分かれば、答えにつながるか、3つくらいあげてごらん。それらを獲得するためにはどうする。』というように。

などと説明している。


 なるほどと、大いに参考になった。

 特に、子どもの思いや考えを認めることの大切さについては、拙ブログにおいても、何度もふれてきたところだ。そして、『結果重視』でなく、『プロセス重視』というのも、おおいに共感できる。

 また、『思考力や応用力は、『ああかな。こうかな。』という試行錯誤のなかで養われる。誤答や個人の考え、発想を否定する空気は禁物だ。』
は、まったくその通りで、拙ブログにおいても、常々強調させてもらっている。



〇ただ、誤解されないかなと心配してしまう点があった。それは、拙ブログで記事にしたことがあるのだが、
   
   子どもの見方が変わるかな(4)

 『間違いは正さなければいけないが、違いは尊重しなければいけないのだ。』ということについて、その双方をごっちゃにしてはいないかという点だ。

 そこで思うのだが、『間違い』は、承認するものではないだろう。これは、受容し、共感はしながらも、正すべきものだ。

 また、『なるほど。そういう見方もあるね。』は、間違いに対してではなく、違いに対しての言葉と思われる。間違いに対しては、『あっ。そこで、そう考えてしまったのね。おしかったね。』などとなるであろう。



〇次に、言いたいこと。

 それは、この投稿者の主張は、『指導者主導の授業においての工夫改善にとどまる。』と思われる点である。


 わたしは、ご案内の通り、子ども主体の、問題解決学習を標榜するので、この投稿者の言葉を借りれば、『承認力』だけで十分と考える。(ただし、その『承認力』のなかには、共感力、受容力などを含める。)

 あえて、『質問力』と言うなら、わたしは、
「今、Aちゃんが言ったことは、〜と考えることもできるかな。」
「BちゃんとCちゃんの考えは、似ている考えと思うけれど、どう。」
などを思い浮かべる。



〇そして、誤解を招かないか恐れる2点目だが、

 『3つくらいあげてごらん。』は、わたしが以前記事にした、『安易な道』を思い浮かべてしまう。この投稿者に、そのような意図がないことは、よく理解できるのだが、この種の発問で安易な道を目指す、強い影響力のある教員集団が現実にあるものだから、その点、危惧してしまうのである。



〇『指導者のこうした力をつけることが、学力下位層の(学習への)動機付けにつながるし、上位層に対しても、指導者や教科書にない視点や発想を引き出すことができ、やがては世界をリードするような発明や行動を促進することになるに違いない。』

 そう。これは、まったく共感できる。

 この投稿者は、『指導者が指導力を高めることによって、何も習熟度別にしなくても、一斉学習のなかで、どの子どもにも力をつけさせることができる。』と言っているのだと思う。

 それなら、わたしが、従来主張してきたことと同様である。心強い思いがした。

    どのレベルに合わせるか。



〇また、下記主張にも共感できる。
 『ゆとり教育の見直しには、疑問が残る。』『総合的な学習の時間で育む課題解決力は、PISAで問われる思考力や応用力と親和性の高いものだ。』

 そして、本投稿者の佐々木氏から学ばせていただいた点もある。

 『現行、総合的な学習の時間の指導がうまく機能しないのは、指導する側に、「教える技術」は体系化されていても、「育む技術」が体系化されていないからではないか。』とおっしゃる点だ。

 そうか。この「育む技術」の体系化という言葉は、つい先日記事にさせていただいた、「学びのチャンスの構造化」の理念を思い出す。どちらも、日本の教育において、弱いとされてきた点ではないか。

 確かに、日本の教育の大勢は、知識中心、覚える学習だったので、この点は、よく知られていない現実がある。



〇結論として、投稿者は、『教員の指導力アップこそ、子どもの学力向上の鍵。』と言っているのである。これはもろ手を挙げて賛成する。



 さて、そこで、最後に、冒頭述べた、『最初に抱いた違和感がなくなった。』という点にふれたいと思う。


 わたしは、これまで、PISA調査を何回もとり上げ、そのなかで、OECDも考察しているように、教員の指導力アップが急務と述べてきた。ここまでは、投稿者の思いと同じだ。

 しかし、わたしの場合は、その『指導力アップ』は、子ども主体の授業を展開する問題解決学習の指導法を指していた。
 それが、この投稿者の主張では、前述のように、指導者主導の指導法での工夫改善にとどまるものという思いがした。だから、それで、新しい教育への改善をめざすものとしては、違和感を覚えた。

 しかし、今、『それもあり』かなと思う。教育提言を語る場合は、『今よりはまし。』という考え方も受け入れないと、問題解決学習にこだわる限り、教育改革はむずかしいのかもしれないという思いがしてきた。


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 朝日新聞の投稿を読ませていただいて、少し、自分の、提言への思いを修正させていただく気持ちになりました。

 ある程度、指導者主導でもいいか。要は、子どもの思いや考えをうまく引き出すとともに、それを尊重する指導法と言ったらいいでしょうか。

 より柔軟に考えることにしたいと思いました。

 なお、お断りしておきますが、純粋に、教育論、授業論を語るときは、これまでどおり、問題解決学習をとり入れることの大切さを叫ばせていただきますね。

 それでは、今日も、皆様の1クリックをよろしくお願いします。

rve83253 at 14:26│Comments(0)TrackBack(0)PISA | 教育観

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