2008年02月23日

学習指導要領の課題を現場の努力で、4

d63078a2.JPG 今日は、前々記事『新学習指導要領改定案の公表』を受け、学習指導要領の問題点を、実証的に考察してみたいと思う。

 そのうえで、教育現場が、どう、その問題点を克服していったらよいか、学校、教員の努力すべき点についてもふれてみたい。



1.不思議な単元(『知識・技能』偏重か)


 3年生の国語(光村)に、『せつめい書を作ろう』という教材がある。単元名は、『まとまりに分けて書こう』。

 わたしは、何とも不思議な単元だと思っている。この単元に限ったことではないが、わたしが担任だったころはなかった(・・・のではないか。)。

 近年、学力低下論が叫ばれ、短絡的、表面的な意味での『基礎・基本』習得を目指す動きが活発だ。そのなかで、生まれた単元ではないかと思われる。
 それ以前は、物語だとか、説明文だとかに関連させて、そうした単元の中で扱うようになっていたと思う。別な言い方をすれば、子どもが抱くであろう、切実感や必然性を大事にして、学習していた。


 こうした単元が独立しておかれるようになったため、物語や説明文など、子どもの情操を養ったり知的好奇心を満たしたりするような教材は減らされている。

 わたしはそれを、『日本の教育はこれでよいのかな』ブログの『今日』さんにうかがったことがあるが、間違いないようだ。



 話は脱線するが、

 大人が、小学生時代に学んだ物語をなつかしむサイトがある。小学生時代に学んだ物語は、大人になっても強く印象に残り、なつかしいもののようだ。
 それだけいい学習ができた証拠のようにも思える。


 それなのに、今、物語や説明文が減らされ、知識・技能偏重、すなわち、言語事項重視の単元が増やされる。そうした方が、知識・技能が身につくという錯覚があるのだろう。

 知識・技能重視の新学習指導要領は、そのセンをさらに強化したものと言えよう。

 

2.切実感、必然性は?

 
 それでは、ただ不思議がったり、問題視したりしていても仕方ないので、この『まとまりに分けて書こう』(教材名は、『せつめい書を作ろう』)がどのような単元なのか、みていこうと思う。



 一言で言えば、

 『自分がよく知っていたり、得意にしたりしていることを、友達に説明する文章を書く。』となる。

 そして、教科書会社が作成する教員向け指導書には、

「児童は、これまでの生活のなかで、『ゲームのしかた』や、『くわがた虫の飼い方』などといった説明書を、何か一つは読んだことがあるに違いない。そのような経験を思い出すことが、ここでの学習の土台となる。」
と、一見、子どもの生活経験を重視していると思わせるような文が書いてある。

 しかし、どうだろう。

 子どもにとって、説明書とは、読むものではあっても作成するものではないだろう。そのような生活経験はほとんどないはずだ。
 しかも、『ゲームをしたい。』『クワガタを飼いたい。』そう思っているときの子どもの関心は、『ゲームの内容』『飼い方』にあるのであって、断じて国語的関心ではないはずだ。


 また、指導書では、『相手意識をもって作成することの大切さ』にもふれている。

 それはいい。当然だろう。

 しかし、ここにも矛盾がある。

 自分がよく知っていたり得意にしたりしていることを、読む相手(友人)も、『よく知りたい。』『上手になりたい。』と思っているかどうかは疑わしいではないか。
 いや。自分が得意にしていても、級友は誰一人、そのようなものに関心を示していないという現実があれば、そのことは、子ども自身も感じるだろうし、その場合は、むなしさが残ってしまう。



 なお、この単元で押さえるべき学習内容は、教科書によれば、上記の他に、

〇何について書くかを決める。そして、得意になるよう努力した経過を思い出す。

〇読む人が関心をもつように、また、理解してもらえるように、書き方を工夫する。
・小見出しつけ ・絵も使ってよい。 ・目次の必要性 ・横書きにする。

などがある。



 教科書には、例文として、『一週間で一輪車に乗れる』という、ある児童が作成した説明書が掲載されている。

 そして、一日目から七日目まで日ごとに区切って、一輪車に乗れるようになるために、それぞれの日に何をしたらよいかが書かれている。




 さて、それでは、ここで、我が担当の初任者Aさんの学級では、どのように、学習が展開したか、その一部を書いてみよう。


 いつも記事にさせていただいているように、学級は豊かな人間関係に包まれているから、相手意識については申し分ない。説明書を作成している途上でも、お互いにお友達の説明書を見合っている姿がよく見られる。ほめたり、感心したり、もっとよくするためのヒントを投げかけたりしている。


 そんななか、多くの子が、『すごいねえ。この説明書。』と感嘆するものがある。

 Bちゃんだ。Bちゃんは将棋が得意。そこで、将棋上達のための説明書を作った。そして、教科書の説明書は七日目までなのに、なんと、十四日目まで書いている。確かにコマの動かし方など、何種類もあるから、それだけ、説明する日が長くなるのだね。

 なかには、『Bちゃんの説明書を見ていたら、将棋を覚えたくなっちゃったよ。』などと言う子まで現れた。

 そういう美しい姿がそこかしこに見られる。豊かな人間関係が、学習を深め、それこそ、基礎・基本の定着を図る上で、非常に効果的であることが分かる。

 ちなみに、このBちゃんは、以前の記事、『初任者の成長(5)学級文化の創造』でも、Bちゃんとして登場している。いじめを受けかねない子として記事にさせてもらった子だ。




 こうした学習活動自体はうれしいことだが・・・、

 放課後の指導の時間に、わたしが言ったことは・・・、



 「すばらしい。A学級の子どもたちの、密なつながりがよく分かる。

 だから、何していいか分からないなどという子は一人もいないね。みんな、自分の得意なことやよく知っていることをもち、喜んで説明書を書いている。・・・。すばらしいよ。

 そういう意味では、『いい単元だね。』と言いたいのだが、皮肉なことに、単元自体には、ものすごく問題性を感じるのだ。


 多くの学級においては、ここまで学習を深めることができないと思う。

 学級内の人間関係が希薄なら、自分の得意なことや知っていることを友達に説明する必然性がないし、切実感ももたないと思われるからだ。
 なかには、『何を書いたらいいか分からない。』と言って、何もせず遊びだしてしまう子だっているかもしれない。

 そうなると、担任は無理やりやらせようとして、ますますつまらない学習になってしまう。そういう学級は多いと思うよ。」



3.画一化か。


 ああ。ここで、ちょっと脱線して、かつての記事、『日本の子ども、外国の子ども』にリンクしてみる。

 この記事に出てくるアメリカ人の子どもなら、さしづめ、
「ぼくね。人に教えたいなと思う、得意なことやよく知っていることはないの。だから、そういう説明書は書けないの。」
などと言ってくるのではないか。

 アメリカの子どもは、総じて、個性的。はっきり自分の気持ちや意志を言うものね。



 ところが、『日本の子どもなら、そんなことは言わないだろう。』というわけで、こんな無理を考え出す日本。

 そう考えると、日本の学習指導要領は、日本の子どもが従順なのをいいことに、画一化をねらっているね。『個性を生かした教育』などと言ってはいるけれど、基礎・基本の確実なる定着の方が大事なのだろう。

 しかし、このような無理なやり方をしたら、ほんとうは、確実な定着すらないのだけれどね。

 
 ということで、この記事でとり上げた単元にかかわった部分で、学習指導要領をみてみると、実に細かいところまで書いていることが分かる。



B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 相手や目的に応じて,適切に書くこと。
イ 書く必要のある事柄を収集したり選択したりすること。
ウ 自分の考えが明確になるように,段落相互の関係を考えること。
エ 書こうとする事の中心を明確にしながら,段落と段落との続き方に注意して書くこと。
オ 文章のよいところを見付けたり,間違いなどを正したりすること。

となる。

 
 しかも、それを受けての教科書は、さらに細かく、『段落ごとにまとまりをはっきりさせ、〜。』とか、『絵を入れながら説明し、〜。』とか、『誇大表現にならないように、〜。』とかいうように、至れり尽くせりなのだ。

 これでは、子どもどころか、指導する教員側も、個性など発揮しようがない。(すみません。末尾では、この考えを逆転させます。)


 教員のかなりの部分も、こういうことにならされてしまうのだろう。惰性に流されたり、教科書通りやっていれば無難と思うようになったりしてしまうのではないか。


 初任のAさんにしても、

 説明書は、教科書の例文通り、『一日目は〜。二日目は〜。』そして、『三日目は、〜。』というように書かないといけないと思ったようだ。すべての子が、そういう書き方をしていた。

 あとで、『そこまでは、学習内容ではないよ。』とは言ったけれどね。



 ああ。説明書など、ある程度自由にやらせていいのに。(いや。ほんとうはやる必要性すら感じないのだが、・・・。)

 段落など気にしなくても、絵をふんだんに入れれば分かりやすくなるかもしれないし、

 絵を入れなくったって、文章表現が巧みなら分かりやすくなるかもしれないし、

 誇大表現のように思われても、『ええっ。そんなこと変だよ。そこまでやったらサーカスみたいじゃん。』と子ども同士で指摘し合ってくれればいいし、

 第一、このようなことは指摘されないで素通りしても、いっこうに構わないと、わたしなどは思うのだが、


 あっ。そうか。『段落』は、学習指導要領にも書かれているから、これはもう、しっかりとり上げないといけないか。
 
 とにかくここまで細かく国が規定する意味が分からないのだ。(ほんとうにそれらは、基礎・基本かという疑念まで抱いてしまう。)



4.教員の主体性発揮を


 さあ、いよいよまとめに入りたい。


 前々記事で、最後に教員の奮起を促した。

 そこで、最後に、このようにやりにくい単元でも、学校の主体性、教員の自主性を生かした創造的な取組は考えられると思うので、それを提案したい。



 先に、『子どもには説明書など、書く必然性もないし、切実性もない。』と書いた。


 でも、いい動機付けがある。

 この時期、多くの学校は、クラブ発表会なるものをやるだろう。
 
 また、本校の場合、クラブ活動は4年生からなので、3年生には、クラブ見学なるものがある。次の年、どのクラブに入るかを決める際の参考にするためである。


 その活動に、この『説明書』を生かしたらどうか。

 この学習は、3年生の教科書に載っているのだが、学習指導要領では、3・4年としか規定していない。どちらでやってもいいのだ。

 それなら、4年のこの時期にやればいい。3年生に向けて、『いかに自分の所属するクラブがすてきか。』とか、『自分のクラブに入ると、〜ができるようになりますよ。』とかいうように、お誘いの説明書を書くことにする。

 これこそ、切実性、必然性に裏打ちされた、すばらしい学習になるのではないか。

 その場合、3年生は、読む側になるね。説明書のすばらしさにうたれて入るクラブを決める子がいたらおもしろい。

 そして、その経験が、一年後に説明書を書くうえで、生きた力となるだろう。

 どのようなことに気をつけて書いたらよいかも、経験が生きるに違いない。



 これは、子どもの生活重視、子どもの生活を軸にすえて単元構成をするという、コアカリキュラムの発想だ。

 そして、自由にのびのびと書かせたらよい。そうしたら、指導要領にない、もっとすてきな学習内容を子どもが生み出すかもしれない。(そう。問題解決的に、意欲的に学習する学級の場合、大人の想像もつかないような学びを子どもはするのですよ。)

 それは、そのまま、その学校の財産になっていくであろう。


5.弾力的な運用を


 学習指導要領の法的拘束性とか、よく言われる。しかし、国は、教員の意欲的な取組にはけっこう寛大だ。PISAも、『日本は、学習内容については、自由度の高い国。』と言っている。(シュライシャー講演記録 P15左側)


 学習内容は過密になった。しかし、本日例示したように、それにとらわれず、学校の創意工夫を生かし、弾力的な運用を心がけたいものだ。

 学習指導要領をまったく無視するのでない限り、国も、そうした自由は認めているのだから。

 だって、国は、両論併記がお得意なのだもの。それを逆手にとって利用してやればいい。

『地域や学校の実態及び児童の心身の発達段階や特性を十分考慮して、〜。』とか、

『創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で、〜。』とか、

『個性を生かす教育の充実、』とか、

『個性豊かな文化の創造』とか、

『主体性のある日本人を育成』とか、具体的には何もないが、そういうことも言っているのだから、ぜひそうしたセンで、創造的に取り組んでほしいものだ。

  
にほんブログ村 教育ブログへ

ninki



 さきほど、『日本の子どもが従順なのをいいことに、〜。』と書きました。

 学習指導要領製作者は、今もそう思っているのでしょう。しかし、現実は、日本もずいぶん変わりつつあります。つまらない学習なら、耐えられない子が増えているのです。
 その点、学習指導要領には、子どもの切実感、必然性のある学びへの配慮・工夫が、まったくと言っていいほどありません。

 だから、教育現場の創造的な取組は、ますます困難さをましていくでしょう。


 それでも、学校現場はがんばらなければいけないですよね。

 わたしは、教員の研究・研修は、あくまで現場でと強調していますが、これまでにもまして、『どう意欲的に学ぶ子どもを育むか。』に焦点を定めたものであるべきでしょう。

 市民の皆さんには、学校のそういう取組に対し、心からのご支援をお願いしたいと思います。

 それでは、今日も、皆様の清き1クリックをよろしくお願いします。

rve83253 at 16:06│Comments(10)TrackBack(0)指導観 | 授業

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by yoko   2008年02月25日 00:08
テーマと話がずれて申し訳ありません。
「3、4年どちらでやっても良い」という所でちょっと気になった事があります。娘は4年生から転校したのですが、社会科でとまどいがありました。
前の学校では、3年生で「昔のくらしとまちづくり」、4年生で「安全なくらしとまちづくり」について学ぶようになっていました。ところが、今の学校では、学ぶ順序が逆だったのです。だから「昔の〜」について2度学び、「安全な〜」は学ばなかった事になります。前の学校では毎年、警察署の見学をしていて、娘は楽しみにしていたようでした。だから3、4年のカリキュラムが逆転していたことに凄くショックを受けていました。(授業が重複しても、新しい発見があったりして、良かったようですが。)だから「3、4年どちらでやっても良い」というのは、転校生にはちょっと辛いことかなと思うのです。(話がそれてごめんなさい。)
2. Posted by toshi   2008年02月25日 13:29
yokoさん
 うううん。ちょっとうなってしまいました。
 確かに、学校の主体性が強まれば、転校生の問題は、配慮を必要としますね。
 わたしは、こう思っていました。
『知識注入なら、たとえば、台形の面積を二度も学習させられたり、何かが抜けたりしていたのではかないませんよね。しかし、思考は個性的ですから、同じことを二度やっても比較的むだはない。』と。

 しかし、お嬢さんの場合は、興味・関心にかかわることですから、これはやはり配慮できることはしてやらないとかわいそうだと思いました。

 でも、こういうのって、多くは、学校は把握していないのでしょうね。すみません。
3. Posted by yoko   2008年02月26日 00:41
私も、同じ事を二度やるのは、無駄な事とは思いません。より深まると思うのでいいと思っています。ただ、抜け落ちてしまうのはちょっとかわいそうです。ちなみに、この事は担任の先生も承知しています。娘が言ったようです。とても申し訳なさそうにしておられました。でも、どうしようもないですものね…。だから、「どちらでやっても」ではなく、学年毎にカリキュラムを組んでもらいたいのが本音です。でも、少数のことですからね。
親がフォローしてあげないといけませんね。
4. Posted by toshi   2008年02月26日 06:35
yokoさん
 これは、ほんとうに申し訳ないことですが、学校の自由度を高めてほしいと願うわたしの立場の弱点でもあります。
 でも、これは、
教育の地方分権化にもかかわりますし、
PISA調査でも、『学校の自由度の高い国は、学力が高い。』と言われるわけで、また、
『教育は、児童の実態や地域の実情に即し、〜。』となるわけですので、
 ああ、まだありました。
 現行でも、日本の学習指導要領は、細かく規定しすぎると、わたしは思っているのです。
5. Posted by toshi   2008年02月26日 06:40
また、別な問題もあります。
 これは理由がまったく違うのですが、現行でも、我が地域では、運動会や6年生の修学旅行などは、春にやる学校と秋にやる学校とに分かれます。したがって、これも、二度経験する場合もあれば、まったくなしとなってしまうケースもあるわけです。
実はこれ、わたしの担任時代に、わたしの学級で起こったことです。
 子どもに対してはほんとうに気の毒でした。その子の両親は、『かわいそうでしたので、家族で、修学旅行先へ行ってきました。』とおっしゃっていましたが、でも、家族旅行と修学旅行とでは、意味合いはまったく違いますしね。やはりかわいそうでした。
 運動会となると、それすら無理になりますしね。
 ともかく、やれることは全力を挙げてやりますけれど、無理なことはただひたすらお詫びするしかないというのが実情です。
6. Posted by yoko   2008年02月26日 23:52
丁寧なお返事、有難うございます。
toshi先生が謝られることではないのに、本当に申し訳ないです。
現状を受け止め、その中でできることを考えていきたいと思います。
7. Posted by アンフェタミン   2008年02月28日 19:36
はじめまして、アンフェタミンと申します

教育の専門家の方にこのような記事を見せるのも恥ずかしいのですが、ご意見などいただきたくTBいたしました。

コメントなどいただけますとうれしく存じます。

では、失礼いたします
8. Posted by toshi   2008年02月29日 07:45
アンフェタタミンさん
 TBできていないようですね。
 本コメント欄にURLを明記していただければ、幸いです。
9. Posted by 協働学欲   2013年03月26日 15:02
公立学校の先生で、本当に時間を惜しんで臨床的研修・実践をしている方は多いですね。

そういう先生の授業では、子どもを学力化するのではなく、学びを子ども化する方向で授業づくりをされている場合が多いと感じます。

子どもをカリキュラム化するのではなく、カリキュラムを子ども化する。その具体化力、カリキュラムドライブ力が指導技能の実体なのかもしれません。

小中一貫校を目指してシラバスづくりに燃えているところもありますが、シラバスが直接授業をする訳ではありません。

子どもを見つけ、見とり、診たてる。そういう先生と子どもの相互参加によって、教師と子ども双方の学び力が高まって行くのでしょう。なんのためのカリキュラム(含行事等)なのか、本質に意識を向けておく意識の常態化が大事だと感じます。
10. Posted by toshi   2013年03月31日 03:39
協働学欲様
 いつもいつもすてきな言葉をいただいております。拝読し、ハッとさせられる思いです。ほんとうにありがとうございます。
 今回も、《子どもを学力化(カリキュラム化)するのではなく、学び(カリキュラム)を子ども化する》《その具体化力、カリキュラムドライブ力が指導技能の実体》などという言葉に、あらためて我が実践の意味などを考えさせていただきました。
 いつも、子どもの自立、自律、生涯学習力を念頭において、これからも努力していきたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字