2008年02月26日

KY いやな言葉(2)4

ad9a99c2.JPG 先に、本シリーズ(1)を書かせてもらったら、その直後、『KY』に関する学生生活実態調査の報道があった。

 これには驚かされた。

 新聞の見出しには、『KYは、大学生の“必須単位”です。』とある。なんと、8割の学生が、『KY』を意識しているとのこと。
 そして、どのくらいの学生なのかは分からないが、家へ帰ってからも、携帯やパソコンを使ってのコミュニケーションを欠かさないのだという。


 テレビでも報道していた。

 『携帯やパソコンでコミュニケーションと言ったって、それで、空気が読めるようになるといったものでもないでしょうにね。』
ほんとうにそうだと思った。

 また、『KY(空気を読め。)と言われることへの恐怖心が、そうさせるのではないでしょうか。』と言う人もいたが、『さもありなん。』という感じがした。


 本シリーズ(1)に書いたが、『空気を読む』ことが自然体で行われるのなら、それは、日本人としての、一つの資質と言えるのではないか。『思いやり』『包容力』『協調性』などを含め、豊かな人間関係の構築ともかかわるだろう。

 しかし、上記のように、自己をどこかに置き忘れて、無理に人に合わせようとしたり、さらには、恐怖心も抱くということになれば、これはもう、話は別だ。
 そこには、『個性』も何もない。第一、自己を放棄してまで人と合わせるのでは、何のために生きているのかも分からない。


 テレビでは、こうも言っていた。

「人間関係を大事にするのは大切だが、その中で自分自身をはっきり打ち出して、多少摩擦はあっても、最終的に分かり合えるというのが、いい関係づくりではないか。」

 いやあ。ほんとうにその通りだ。でも、それがむずかしくなっているのだね。


 振り返れば、我がブログにも、過去に、これにかかわるコメントをいただいたことがあった。もう、2年前になる。『空気を読むこと』の問題点に関して(このころはまだ『KY』なる言葉はなかったようだ。)、活発なやり取りがあった。


 今、そのすべてにリンクしよう。お時間のある方は、お読みいただければと思う。

   保護者の皆様へ(2)
   その子らしさを大切に
   その子らしさを大切に(2)


 そのなかで、特に印象に残ったものは、

〇学校が、『豊かな人間関係の構築』とか、『友達が大勢いることはいいこと。』とか言い過ぎるから、子どもたちは、『一人でいるのが耐えられない。』とか、『友達がいないのは惨めだと思われる。』とかいった強迫観念が生まれるのではないか。もっと、『一人でいることの大切さ』も、学校は指導すべきだ。

〇この、『強迫観念』というのは、どこから来るのでしょう。

〇学校が、『豊かな人間関係の構築』までやろうとするのには無理がある。何もかも学校が請け負う必要はない。学校は、授業をしっかりやっていればいい。

の3つだった。


 『強迫観念』という言葉が、強く心に残ったことを覚えている。

 そうだね。先の、『学生生活実態調査』にある、携帯とパソコンの件も、まさに、この強迫観念のなせるワザなのだろう。



1.強迫観念は、どこから?


 2年前は、この質問にうまく答えられなかった。でも、今なら、かなり分析的に書くことができる。


 わたしは、これは、誰に問題があるのでもない。ただただ、社会の構造的変化によるものだと思う。



 先進国と言われる国々は、物質的に豊かになった。

 かつて、貧しかったころは、家庭にしろ、地域社会にしろ、みんなが寄り添い、かかわり合わないと生きていかれなかった。


 しかし、今は・・・、

 乳児のころは別としても、幼児期からは、子どもが一人でおいておかれることもあるだろう。
 少年、少女期なら、こういうことは、ぐうんと増えるに違いない。
 テレビ、ゲーム、個室の存在などによって、家族の会話、心の通い合いはものすごく減少しているだろう。

 大事な成長期の育ち方が、むかしとは、大きく変化してしまった。
 むかしなら、ほおっておいても自然に育まれたコミュニケーション能力、人の思いへの共感・反発・理解だったはずだ。しかし、そういったものがみがかれたり、そういったものにもまれたりするチャンスは、ものすごく減ってしまった。


 『むかしはよかった。』と言いたいわけではない。むかしだっていじめはあったし、差別など人権問題になり兼ねないようなことは多数あった。

 また、家庭や地域のせいにしたいわけでもない。社会が構造的に変化したと言いたいだけだ。


 そうだ。そういう意味では、『三丁目の夕日』の映画が大いに参考になるだろう。わたしはまさにあの年代の育ち(映画の設定は昭和33、34年だ。わたしは、そのとき中学生だった。)なのだが、ほんとうにあの映画のような少年時代だった。


 要するに、今という時代は、成長期にコミュニケーション能力を育む機会が激減しているので、その後の人間関係がギクシャクしてしまうのではないか。

 そのギクシャクの、日本的な現われが、『KY』なのだろう。人とのふれ合い方、心の通わせ方が不器用になっているのだ。むかしは、もっと本音で、自己むき出しで、ぶつかり合っていたのだと思う。



2.学校は、社会の変化に対応できているか。


 先の記事に、『その責任(?)の一端は、学校をはじめとする教育機関にありという気がしてきた。』と書いた。しかし、このように分析してくると、その意味は、変わってくる。
 申し訳ありません。訂正させてください。

 学校の問題について正確に言うと、『社会が構造的に変化したにもかかわらず、学校がその変化についていけない。十分に対応しきれていない。』ということになるのではないか。



 2年前いただいたコメントについて考察してみよう。

 上記〇印の一番上と3番目については、反論したい。

 学校が、『豊かな人間関係の構築』をねらうのは当然だ。

 前記事に書いたが

〇これは、『学習意欲』に直結する。また、人間関係がギクシャクしている現在、公立学校においては、これを育むことなくして、『学力』の向上はない。

 別な言い方をすれば、『豊かな人間関係の構築』と、『学力向上』の二兎を追っているわけではない。双方は深く係わり合い、一体となっているのだ。

 また、『ギクシャク』がなくなれば、『三丁目の夕日』の世界のように、『本音で生きる』ことができる。『真の意味の信頼関係に裏打ちされた友人関係』が生まれるというものだ。


 だから、旧態依然として、ただ、
『仲良くしなさい。』とか、
『けんかをしてはいけません。』とか、
『あやまりなさい。』などというように、

 強圧的に、あるいは、一方的に、口で言ってきかせるだけだとしたら、現代においては、人間関係のギクシャクがますだけだろう。

 
 授業にしてもそうだ。

 あいも変わらず、教員主導の授業をやっていると、教員の思いが、子どもにプンプンにおうから、子どもは、教員の思いに合わせようとするだろう。
 ああ。これでは、『KY』増幅の教育をやっていることになってしまうね。


 
3.学校がなすべきことは、 

 やはり、いつも言っているように、児童理解と、指導法の向上だろう。

 それなくして、学校の再生はない。



 さて、次に述べることは、一見矛盾のようにとられるかもしれない。

 でも、あえて言おう。

 子どもとは元来、みんな、『自己中心』なのだ。『空気を読む』以前の段階だ。まずは、そのあるがままに共感しよう。また、受容しよう。
 それが指導の出発点だ。『子どもへの愛情』が大切だ。

 まわりの大人がそうすることによって、子どもは、徐々にまわりが見えてきて、正しい意味での『空気が読める状態』になっていく。

 現代においては、自然に、『空気が読める』ようになっていくのではない。子どものまわりにいる大人の受容的な態度、共感的な態度、称賛の声かけ、・・・、など。など。そういったものがどうしても必要だ。


 繰り返し、述べる。

 まずは、自己主張も、自己中心も、言い張る態度も、受け止めてやる。

「そうだよね。くやしいよね。その気持ち、分かるよ。・・・。でも、〜することができれば、なお、よかったね。」

 こういう姿勢を貫くと、子ども自ら反省したり、許し合えたりしていくのだ。それを今度は、大いに称賛する。


 まずは、あるがままの個性を認める。すると、子どもが自分で、個性をみがいていくようになる。

 もちろん、そうなる度合いも、個人差があるだろう。それも受け止めてやる。



4.子どもの変容を願い、


 これまでも、いろいろな記事を通し、具体的、実践的に、子どもの変容を述べてきた。

 冒頭、3つの過去の記事をリンクさせていただいたが、それらは、けっこう具体的に書いてあると思う。参考にしていただけたらありがたい。

 また、『鉄は熱いうちに打て』シリーズも参考になると思う。お読みいただければありがたい。
 なお、前記事では、将棋大好きのBちゃんの変容、成長を書いた。

 こうしたなかには、大人もびっくりするくらいの変容が、ふんだんに盛り込まれている。『そうしたことは現実に起きるのだ。』ということをぜひご理解いただきたいと思う。

 

 むずかしい時代になった。

 むかしのように、無意識でも、特に心がけなくても、それなりに成長していくということはないのではないか。子育ても、努力を要するようになったのだ。


 しかし、それは、生きがいのある時代でもある。努力すれば、それだけ、喜びも大きい。
 

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 保護者の方からメールをいただきました。

 お子さんの担任から、『お宅の子は、KYで、〜。』と言われ、平常心でいられなくなったとか、
 次の機会には、『成長しましたね。KYでなくなりました。』とか言われたけれど、少しもうれしくなかった。

とありました。 

 指導する側が、自分の思いを通すために、自分の思い通りにならない子を、『KY』と言っているようでした。

 こうなると、指導する側が、冒頭の記事のような大学生を再生産しているようで、わたしもいやな気持ちがしました。同じ公教育に身をおくものとして、申し訳ない思いになりました。


 最後、気持ちが萎えるようなことを書いてしまい、すみません。

 でも、今後とも、自然体、そして、いい意味での空気を読む子を育んでいきたいと思いますので、今日も、皆様の清き1クリックをよろしくお願いします。

 (3)へ続く。 

rve83253 at 03:36│Comments(8)TrackBack(0)人権教育 | 子ども

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この記事へのコメント

1. Posted by きくちR   2008年02月26日 09:56
<<自然体、そして、いい意味での空気を読む子を育んでいきたいと>>
あ〜、そうです。
<前回の「KY いやな言葉(1)」のコメントに、空気を読む、空気が読めない、どちらのKYも嫌な言葉です。>
と書きましたが、撤回します。
人の顔色を見るというのではなく、チャレンジ的な空気を読む、優しい空気を読むなど、いい意味での空気は大切に読んで拡がるのがいいなぁと思いました。
後向きになっていましたが、前向きに転向できそうです。ありがとうございます。
2. Posted by きくちR   2008年02月26日 10:40
今、洗濯を干しながら、KYのことを引き続き考えていました。
で、上の自分へのコメントのようになり、ここへ書いていいものかどうか迷いましたが・・・

自分が嫌だと感じる空気には同調しないように、
できれば、自然体で「ちょっと考えてみよう」って言えるように、
一方、良いと感じる空気は維持し、その空気が拡がるように
子どもも大人も行動できればいいなと思いました。

そして、toshi先生はまさに後者を実践なさっているんだなぁと。やはり、ありがとうございます。
3. Posted by toshi   2008年02月27日 10:55
きくちRさん
 『空気を読む。』ということ、『読まない。読めない。』よりはいいと、まず、そう思います。
 でも、『読めないのは欠陥』のように言い出したら、それはよくない。多様性を認めないからです。他の『よさ』を見つけるようにすればいいのにと思います。
 まして、『空気を読め。』となると、圧力をかけていますから、『読めない人』『読まない人』にとっては、ただただこまってしまうでしょう。
 さらに、上にたつ人が、自分の思い通りに動かない部下に対し、『空気が読めない。』と言うのは、言語道断のように思います。それは、『空気』などというものではないですよね。
 最後に、やっぱりこういうあいまいな言葉は使うべきではないと思いますね。その場、その状況に合わせ、具体的に言えば、お互いに理解し合えるのにと思います。たとえば、
「もっと人の話をしっかり聞いて、それについて考えてから、言うようにしてごらん。」
などはどうでしょう。
4. Posted by きくちR   2008年02月28日 11:28
<<最後に、やっぱりこういうあいまいな言葉は使うべきではないと思いますね。その場、その状況に合わせ、具体的に言えば、お互いに理解し合えるのにと思います。たとえば、
「もっと人の話をしっかり聞いて、それについて考えてから、言うようにしてごらん。」
などはどうでしょう。>>
はい、よく分かりました。私自身、よく考えねばと思いました。ありがとうございます。
5. Posted by よたよたあひる   2008年02月28日 23:25
 私は、「KY」という言葉が流行して、「ああ、便利な言葉ができたな」と思いました。もともと自分が「空気読む」のが苦手な方ですし、娘もそうです。なので、「私、KYなんで、ごめんね。何かやらかしたら教えてね」と他の人に伝えるのに便利なんです。自称の「KY」。実は、「KY」であることに不便は感じていても、あんまり悪いこととは思っていなかったので。こういうとらえ方している人は少数派なんでしょうね。
 私は、「空気」でなんとなくものごとが決まっていくのは、時と場合によっては良くないと思っていますし、わからないものはわからない、とすっぱり伝えて、なんだかよくわからない空気、ではなくて共通認識にする言葉にしていけたら、それでいいんだと思うのです。
 もちろん、toshi先生のおっしゃる、「いい意味での空気を読む」ことは努力していかなくちゃならないとも思っているのですが。

6. Posted by toshi   2008年02月29日 07:56
よたよたあひるさん
 なるほどね。よく分かりました。
 確かに、謙譲語の意味合いで使うのなら、『KY』は、いい言葉になりますね。
 しかし、多くは、他人に対して使われているようです。相手を攻撃したり、恥辱したり、『空気を読め。』というように、命令したりする意味合いのようですので、記事のようになりました。
《わからないものはわからない、とすっぱり伝えて、なんだかよくわからない空気、ではなくて共通認識にする言葉にしていけたら、それでいいんだと思うのです。》
 同感です。『共通認識にする言葉。』これが大切です。そして、これはもう、『KY』の世界ではないと思うのです。
7. Posted by よたよたあひる   2008年02月29日 11:03
 お返事ありがとうございます。
 「KY」は、私にとっては、「謙譲語」というよりも、「自己認知」の言葉であり、かつ「自己主張」の言葉なんだろうと思います。

 「その場の空気を読んでその場を荒立てないで、うまくやりすごしていこうとする大勢」の中で、居心地悪く感じていたり、何かもっと話しておかないとまずいことになるかもしれない、話し合いが不足していると思ったときには、あえて、「KY」として質問したり、意見を言っちゃったりしますね。そうすると、黙っていた人たちの中からもそれなりに賛同者がでてくることもあります。「空気」「大勢」は黙っていたら変わらないですが、自分から働きかけたら変わることもありますから。わからないままでいるのが一番しんどいです。
8. Posted by toshi   2008年02月29日 15:46
よたよたあひるさん
 よううく、分かりました。ストンと胸に落ちるものがありました。
 あいまいなままにしておかないということ、自己を放棄してまで何となく人に合わせるようなことはしない(もちろん、ケースバイケースでしょうが、)という意味では、わたしが主張していることと同じではないかとお見受けしました。
 『空気に支配されるな。』という意味で、『KS』としようかな。

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