2008年03月01日

KY いやな言葉(3)4

d3c7d1ae.JPG 本シリーズを通し、いろいろ考えさせられるコメントをいただきました。ありがとうございました。


 それらを通し、一つの結論を得ることができた。

 それは一見矛盾したように見えるかもしれないが、

 一人ひとりが十分に『自己実現』をめざし、いきいきと過ごしながらも、『和をもって尊しとなす』というような、日本的なよさは大事にしていくという、そんな集団づくりを目指したいということだ。いやしくも、『自己』をむなしくしてまで、集団に合わせるなどということはあってはなるまい。
 『仲間はみんな、あるがままの自分を理解してくれて、受け入れてくれる。だから、仲間と一緒にいることは何より楽しい。それだからこそ、自ら主体的に仲間に合わせていくこともできるよ。』という、そんな雰囲気であってほしい。


 あるときは衝突もする。意見や思いがぶつかり合う。しかし、それもまたよし。

 それが相互不信につながるのではなく、『雨降って地固まる。』だ。深い人間理解につながるための契機になるという、そんな人間関係を構築したい。



 こうした仲間づくりは、どこが行うのだろう。どこが最適なのだろう。

 それは、やはり、学校以外にないのではないか。

 
 ただし、『KYの風潮は学校教育が画一的なことに原因がある。』と言われると、『それは違うのではないかな。社会の変質のせいですよ。』と言いたくなるが、『社会の変質に、学校がついていけない状況がある。』という意味だったら、認めざるをえない。それがわたしの気持ちだ。

 それなら、学校が進んで自己改革をして、新しい時代における学校教育のあり方を模索していく必要がある。


 そのためには、

 学校が、一人ひとりの子どもにとって、『自己実現』できる場でなければならない。

 まず、

 わがままな子は、わがままが出せなければいけない。許容されなければいけない。
 表現できない子、また、表現しない子には、表現しない自由が認められなければならない。

 そこが出発点である。

 この段階では、『空気』など意識する子どもは皆無と思われる。そう。こんな意味の『空気』などなくていいのだ。一人ひとりの子どもにとって、『ああ。やりたいようにやっていいのだ。』と思える環境づくりが、まずは大切だ。


 さて、ここからは、『指導者が心がけることは何か。』という観点で書いていこうと思う。

 『ああしなさい。』『こうしなさい。』は、極力避けることである。

 うるさくて聞こえないのなら、聞こえなくてこまったという経験をさせればいい。
 思いがぶつかり合ってけんかになるのなら、けんかさせればよい。あわててとめないことだ。
 一人でいることを好む子には、一人でいさせてあげればいい。

 安全といじめだけは気をつかわなければいけないが、あとは、極力やりたいようにやらせることである。


 そのようにして、こまったり、けんかしたりする場面が起きる。そのときが、まさに絶好の指導の場なのではないか。

 指導と言ったって、ここもやはり、『ああしなさい。』『こうしなさい。』ということではない。
 考えさせることだ。どう対処したら、事件は防げたか考えさせることだ。
 ただし、あせらない。急によくはならないのだから。
 試行錯誤はあっていい。また、あるときは、退行現象があってもよい。『徐々に、徐々に、』を心がけることだ。


 そうしながら、じっくり観察することである。子どものやることを見守る。

 子どもが自力解決する姿を目指す。自力解決したらうんとほめてやる。
 子どもの変容を見守る。変容したらうんとほめてやる。

 そうしたなかで、
『自分がやりたいようにやっていたら、学級生活は上手に送れない。ここはやはり、譲るべきところは譲ろう。』そうした思いを抱くようにしむける。先に、『しかけ』という言葉を使ったことがあるが、そういうこともあっていいだろう。


 それと、自己表現しない子が自己表現するようになるのとは、同じタイミングである。

 わがままだった子がわがままを自ら抑えたり、けんかの強い子が相手に譲ってやったりする雰囲気になるということは、そのまま、自己表現できなかった子が、できるようになるのと軌を一にする。

 そうなったら、両者ともにほめてやるようにする。


 ただし、一人でいることを好む子が、仲間と遊びだすのは、これより、ややタイミングが遅れるかもしれない。時間がかかるが、見守りながらも、ほおっておけばいい。そのうち、『一緒に遊ぼう。』と声をかける子が必ず出てくる。それを見逃さないようにする。(そう。そういう意味では、ほおってはいないのだよね。)

 そして、そのタイミングで言う。
「声をかけてもらってよかったね。」
「一緒に遊んでどうだった。楽しかったかな。」


 そうしたことの積み重ねで、学級集団には、自然と、『空気』といったものができていく。ただし、それは、『空気を読め。』というような空気ではなく、『空気』に沿わない子がいたとしても、それを互いが受容できる『空気』である。
 こうしてできあがる『空気』は、どの子も安心して学級生活を送れるという、その思いに満ちている。


 これについては、すでに記事にしたことがある。具体的な実践を述べているので、お読みいただければありがたい。

 その子らしさを大切に


 また、学習についても、同様のことが言える。

 その子らしさを大切に(2)


 さて、この『その子らしさを大切に(2)』のなかの、『変なことを言うなと思われそう。』が、まさに、『空気を読め』の、『空気』にあたるのではないか。

 ここは、やはり、日ごろから、一問一答の授業を排除し、『何でも言っていいのだよ。』という雰囲気づくりを心がけることが大切だろう。


 続いて同記事には、まさに、空気を読めない発言にどう対応したらよいかが述べられている。

 それは、

 意見が対立して、『Aではないか。』『いやBだ。』とやり合っているとき、一人だけ心のなかでAだと決め付け、そのことは言わないで、いきなりその先を言ってしまう子がいる。
 こういうことが起きると、多くの子どもは、その友達が何を言っているのか理解できず、『何、変なことを言っているの。』『何、言っているのか、分からない。』となりがちだ。
 
 こういうときは、担任のフォローが必要である。

「分かった。いいことを言ってくれたね。でも、みんながびっくりしてしまったように、今、話し合っていることとは違うから、黒板のこっちの方に書いておくね。きっと、次の時間ぐらいに話し合えるのではないかと思うよ。」

 このようにして、指導者は、『安心して何でも発言できる学級づくり』をこころがけないといけない。


 どうだろう。こうしてできた学級集団は、冒頭に述べた、
『一人ひとりが十分に自己を発揮し、いきいきと過ごしながらも、そのなかで、和をもって尊しとなす、日本的なよさは生きている。』
そういう集団になったと言えるのではないだろうか。

 集団には合わせるのだが、合わせ方が違う。

 無理して自己を犠牲にしたり、むなしくしたりして合わせるのと、合わせることが自己実現の一つとなって合わせるのとの違いである。

 意欲のなかった子が意欲的になっている。
 わがままだった子に協調性が身についている。
 引っ込み思案だった子が積極的になっている。
 一人だけ思いの先走る子が、今の話題に集中できるようになっている。

 見事な自己実現ではないか。
 前者は、つまらなかったりさびしかったりするのに対し、後者は、喜びだったり幸せだったりするのだと思う。



 学級は社会の縮図と言われる。成長するにつれ、子どもを取り巻く環境は、学級から社会そのものになっていく。

 だから、鉄は熱いうちに打て。

 幼少期に、どういう教育を受けたかは大きい。

 『KY』を意識し、それに心が支配されるか。そのようなことは気にせず、いつも、自己表現、自己実現を図りながら生きていこうとするか。



 さて、最後に、こうした教育の留意点にふれたい。

 『安心して何でも言える学級づくり』。それは、担任批判であっても受け入れるということでなければならない。

 だから、指導者に謙虚さを必要とする。

 その具体例もすでに記事にしている。

  問われる。大人の姿勢も、

  『長所、得意』を伸ばす

 担任批判はあっていい。むしろ、あって当然だ。担任とて、万能ではないのだもの。
 ただし、子どもが真剣に学んでいる限り、その担任批判と、担任の謙虚な姿勢は、教師への信頼につながっていく。


 こうした教育の効果は何か。これまでるる述べてきた、『KY』を意識することのない、住み心地のよい生活は、もちろんとして、

 豊かな思考力、合理性、客観性、真理の追求、活発で自由なコミュニケーションなど。そして、科学的な態度が身につく。

 それに対し、『KY』の思想は、『長いものには巻かれろ』式態度、非合理性、不合理性、主観的な態度ということになってしまうね。

 最近でも相変わらず、変な商法にはまるものが後を絶たないのは、こうしたことにも関係があるだろう。



 先に述べたように、大学生の多くが、『KY』を気にしている状況。それだけ見れば、将来の日本が心配だ。

 でも、希望もある。

 不正を許さない態度、近年、『長いものには巻かれろ』ではなく、内部告発が活発になっている。だから、上に立つ人は、変に隠そうとしても、隠し切れない状況がふえている。(もっとも、また、これもむずかしく、内部告発すべてオーケーとはいかない。動機不純というか、おかしなものもあると聞く。)


 先に、日本の教育改革の本丸は、教員の指導力の向上だと述べた。そのための、教育現場での研究、研修が急務だとも述べた。

 その研究、研修の内容は、本日記述したものが中心であるべきだ。

 そうすることが、究極的な学力向上策につながるのだと、強く主張したい。

   
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 本記事で、リンクさせていただいた過去の記事(アンダーラインが引かれているところはすべて)は、記事のタイトルを記したものと記していないものとありますが、もしまだお読みでなかったらぜひお読みいただきたいと思います。

 それぞれ、その具体的実践例とも言える内容を書いています。


 それでは、賛同いただける方の、清き1クリックをよろしくお願いします。

rve83253 at 14:41│Comments(4)TrackBack(0)教育観 | 学級経営

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この記事へのコメント

1. Posted by YK   2008年03月01日 21:14
「空気を読む」ってのが付和雷同という意味なら、KYなんてのは、日本の企業、マスコミ、教育、政治、全体を支配している空気でさ。今さら批判することじゃないよ。問題は、その空気を疑える人間を育てられるかってことでしょ。疑って、否定してくる人間に対してもなお真理への対話を続けられるか。これが教育者の資質で、教育者の本質は空気なんかお構いなしじゃないといけないんだよ。だけど、近頃の教師はずいぶん周りの目を気にしてるじゃないか。いやだねぇ。もっと自信を持ってくれって言いたくなるよ。
2. Posted by toshi   2008年03月02日 07:42
YKさん
 空気を読むのは、付和雷同とは違うでしょうね。『読む』は、『読もうとする』行為があるわけで、そこに、積極性を感じることができますからね。
《〜。もっと自信を持ってくれって言いたくなるよ。》
 教員一般への励ましをいただいたと思います。

 
3. Posted by YK   2008年03月02日 16:18
積極的でなくても空気は読めるのではないですかな。空気を読むっていう判断は誰でもできるが、そこに主体性があるとは限りませんぜ。それとも、沈黙は金ですかな。逆に、付和雷同も空気を読みつつ付和雷同することはできましょうよ。意味が無いだけで。「教員一般への励ましをいただいたと思います。」いや、励ましてない。嘆いているだけだよ。この前も25歳くらいの女教師が自殺したね。自殺するくらい良い先生が本当に自殺しちゃうんだからさ。自分を相対的に見ることが良いという固定観念によって、良い教師ほど苦しむんだよ。だから、死ぬ前に辞めろとまず言いたい。その次に自信を持てと思うね。
4. Posted by toshi   2008年03月02日 21:37
《空気を読むっていう判断は誰でもできるが、〜。》
 そうですか。わたしは、できない人がいるので、このKYがはやりだしたのかと思っていました。
 わたしは今の仕事が初任者指導だけに、若い教員の自殺には心痛む思いです。
 若い教員が生きがいをもって、この仕事に希望の持てるよう、微力を尽くしています。

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