2008年03月03日

豊かな人間関係の構築を(3)4

d992068e.JPG 『KY』シリーズに関係して思うことは、成長期にある子どものうちから、豊かな人間関係のなかにどっぷり身をひたらせたいということである。
 『空気を読む必要はない。』『ともにいるだけで楽しく充実した関係にある。』と思える体験を、ふんだんにさせたいということでもある。

 ひるがえってみれば、ずっと以前、『豊かな人間関係の構築を』と題し、『それは、教育の目的そのものである。』と書いた。

 しょせん、『人間』という言い方が示している通り、人は、一人では生きていかれない。それなら、やはり、上記2つは自明のことと言ってよいだろう。

 人間関係が希薄化したと言われる現在、子どものそばにいて、いつも子どもとかかわっている大人は、やはり、そのことに全力を傾注すべきではないか。そう思う。


 どこがそれをやるか。

 あまりそのことにはこだわらない。どこだっていいではないか。

 ただし、集団としての子どもたちに一番かかわっているのは学校なのだから、学校がそのリーダーシップをとることはきわめて自然なことと思う。

 また、これは功利的な言い方だが、学校がそのリーダーシップをとり、子どもだけでなく保護者・地域まで巻き込んで、豊かな人間関係を構築できれば、学校経営、学級経営に、はかり知れない波及効果を生み出すというものだ。


 今日は、そのようなことを念頭において、自分が学級担任だったときの実践にふれてみたいと思う。



 我が地域において、今でこそめずらしくはなくなったが、その当時は、かなりめずらしかったに違いない。

 我が学年は2学級しかなかった。2学級しかないということは、学級編成替えをしても半分の友達とは同学級ということになる。しかも、学級が違っても、基本的に隣の教室には残りの半分がいるということ。
 これはもう、6年間ずっと一緒の友達と言ってもいいだろう。できれば、保護者だって、2学級というよりも、6年間同学年という意識でふれ合っていただけたらありがたい。

 そのようなことを思い、入学式の日に、もう一人の担任と話し合った。幸い賛同してくれたので、PTA組織の発足と同時に、ある学年行事を、保護者に呼びかけた。

 『親子学年レク』と称する。

 PTAの学年学級委員さんに趣旨をお伝えした後、約束事を決めたが、わたしたちから提案したことは、

〇毎学期1回、授業時間を2時間使って行う。
〇学年全体で行う。学級のわくにはこだわらない。
〇体育的な内容が多くなるかもしれないが、それもこだわらない。
〇親子とは言っているが、実の親子のことではない。親たち、子どもたちという感覚でふれ合うことを希望する。

 さいわい、PTAの委員さんの賛同もいただいたので、さっそく準備に入ることにした。

 一学期は、体育的な内容となった。チーム対抗の競技が多かったが、

〇実の親子は、同じチームにはなれない。
〇どのチームにも、親子とも、2つのクラスが混在して入るようにする。

 委員さんがそのように決めてくださった。

 副産物として、『ああ。よかったなあ。』と思ったのは、保護者のなかには、どうしても出席できない方もいる。そういう保護者のお子さんにとって、実の親子が一緒でないというのは、救われる思いだったと思う。

 授業時間を使うことから、実施に当たっては校長先生の許可もいただいた。趣旨についてはもちろん賛同いただいたが、注文もつけられた。

「おお。いいではないか。ご苦労さん。
 学校が小さくなりつつある。・・・。それだけに、子どもだけでなく、保護者までしっかりまとまってくれたら、これはありがたい。

 ただ、学年レクという名前は何とかならないか。せっかくいい趣旨をもってやるのに、このような名前では、ただ楽しめればいいというだけではないか。授業時間を使ってまでやる意味合いを感じない。」


 さて、

 二学期は、図工の造形遊びを行った。グループごとにテーマを決めて、ダンボール、ビニルテープ、その他実に多様なものを使って(廃棄物を含む。)、大きな物をつくった。もちろんこれも、学級混在、実の親子は別グループだった。


 このようにして、学年単位での交流を図ると、波及効果はいろいろなところにあるものだ。

 学年にとどまらず、PTA活動が盛り上がる。この学年がPTAのなかでも中心的役割を果たすようになっていった。
 親子レクは、毎学期1回だが、それ以外にも、学年単位の懇談会、保護者発案の行事などが行われるようになる。



 一番感動したのは、3学期になると、

 親子レク(そう。校長先生には申し訳なかったが、いい名前が思いつかず、ずっとこの名称で実施していた。)開始前の休み時間、何組もの親子があちこちで戯れている。楽しそうに手をつないだり、子どもの体操に手を貸したりしている。

 そう。初め、実の親子がやっていると思ったのだ。しかし、ようく見ると違っていた。みんな、よそのお子さんと遊んでいるのだった。

 なかには、あまりの仲のよさに、実の子どもがやっかんでいる光景も見られた。
「あなたとはいつだって遊べるでしょう。今はダメ。」
そのような言葉が聞こえてきた。

 地団駄踏んでくやしがるしぐさの息子。そう。ほんとうは楽しいのだ。そのしぐさがかわいらしかった。



 2年生になった。

 春、家庭訪問があった。

 実に驚いた。多くの家庭で、友達と遊んでいるのを見た。もう、我が家同然という感じだった。
 親も、いっこうに気にしないようだった。しかるべきときは、我が子も我が子の友達もなく、同じようにしかっていた。子どももよく言うことを聞いていた。

 わたしとしては、それへの感謝も忘れなかった。



 この子たちは、今、25歳かな。

 よく同窓会をやるが、いつも、2学級合同だ。そして、低学年担任だったわたしたちにも声をかけてくれる。


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 保護者はみんな、趣旨をよく理解してくれました。

 参加できない保護者も、きわめて少数ながら、いらっしゃいました。しかし、参加の保護者の皆さんが、すごく気を遣ってくれました。おかげさまで、双方ともに、いい関係を築くことができました。

 これとは別に、この時期、PTA主催の親子体操教室なるものもありました。当時は、土曜日も授業日でしたから、同日の午後行われました。この行事には、地域の方も、父親も、大勢参加していました。

 そうしたものも、学年として、あるいは、学校として、まとまっていく上で効果があったと思います。


 先に、わたしの子ども時代の、『貧しいがゆえに緊密な人間関係が構築できた時代』のことを書きました。でも、物質的に豊かな時代でも、お互いの努力によってこうしたことは可能なのだと、あらためて思います。

 それでは、今日も、連帯の1クリックをいただければ、大変うれしく存じます。

rve83253 at 12:25│Comments(25)TrackBack(0)学級経営 | 保護者

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この記事へのコメント

1. Posted by yoko   2008年03月03日 15:14
記事を読んでいて嬉しくなりました。娘の学校でも同様な活動がありますよ。
ただ違うのは、全学年、年に1回ということでしょうか。
役員さんが企画、司会進行を行います。日時も各学年毎に先生のご都合を聞いてやりますので違います。授業参観、懇談会に比べ、その出席率は凄いです。ほとんどの方が出席されます。それだけ好評なのでしょうね。
実の親子が組まないようにと最初は考えたのですが、結局わざとその事にはふれないで整列してもらいました。結構バラバラになっていましたよ。またそれが良かったです。
先生・親・子供皆が一緒になって笑って歓声あげて、とてもいいひと時でした。
なかなか親同士関わりあう時間がないので、こういう機会は大切だなぁと思いました。これがきっかけになって先生・親・子の繋がり、信頼が深まるといいですね。
2. Posted by yoko   2008年03月03日 15:26
≪『空気を読む必要はない。』『ともにいるだけで楽しく充実した関係にある。』と思える体験を、ふんだんにさせたいということでもある。≫
そうですね。しかし、転勤族の娘にはちょっとかわいそうな思いをさせています。どうしても『空気を読む』ことに長けてしまうのですね。でも、それが長所としてのそれであるよう、気をつけて見守っていきたいと思っています。
3. Posted by YS   2008年03月03日 21:54
小学生の頃から不思議だったのだけど、どうして小学校の教師は集団が大事だ、ということを教えたがるのでしょうね。最低限の同調はできても、一緒にいるだけではとても充実できない、という人間が救われた試しはないですね。教育哲学に意見するつもりはないけれど、私には「豊かな人間関係」がどうして教育の目的になるのかどうしてもわからない。私が実践している教育は、人間それ自体が目的であって、関係を重視する理由がどうしても見出せない。空気は流されて消えていくけど、自分を大切にできるのは自分しかいないのに。
4. Posted by toshi   2008年03月03日 22:55
yokoさん
《実の親子が組まないようにと最初は考えたのですが、結局わざとその事にはふれないで整列してもらいました。結構バラバラになっていましたよ。またそれが良かったです。》
 それはすごいですね。もともと輪(和)がはかれているのですね。
 わたしの場合は、とりあえず、我が学年だけのことでした。こういう場合、多くの校長は、一つの学年だけが突出するのを嫌い、『ダメだ。』というケースが多いと思います。その点、各教員の自主性、主体性を認めてくださった、この校長から学んだことは多かったです。
5. Posted by toshi   2008年03月03日 23:04
 《転勤族の娘にはちょっとかわいそうな思いをさせています。どうしても『空気を読む』ことに長けてしまうのですね。》
 これは、分かるような気がします。学級ってそれぞれ雰囲気が異なるのですね。不思議なくらいです。
 ですから、お嬢さんはおそらく、それを感じ取り、いろいろな身の処し方を無意識に学んでいるのではないかと思います。きっとすばらしい学びをしていらっしゃると思います。
 失礼ですが、お母さんも、お嬢さんの学級を通して、雰囲気の違いなどをお感じになっていらっしゃるのではないですか。
 それは、担任の個性がそのまま学級に投影しているのかもしれません。
6. Posted by toshi   2008年03月03日 23:12
YSさん
 隣りの人を大切にする人しか、自分を大切にはできないのだと思います。自分だけが独立して存在するわけではないのですから。
7. Posted by YK   2008年03月04日 02:14
≪隣りの人を大切にする人しか、自分を大切にはできないのだと思います。≫
これはその通りだと思いますね。ただ、これは文字通りの隣人だけど、キリスト教の隣人愛とは違うでしょうね。隣人愛は人間関係には規定されないから。文化の違いはともかく、確かに、英語では「read the atmosphere」というのは使わないでしょう。「someone rules」はありえると思うけど、「the atmosphere rules」というのは、正直言って怖いな。だけど、「個性」が大事だとは言いながら、「朱に交われば赤くなってもよい」というのが教育の実態に思えて仕方がない。「赤くなってはいけない」という考えが浸透しなければ「KY」の風潮は維持されるでしょうね。
8. Posted by toshi   2008年03月04日 06:26
YKさんのご意見は、『空気を読むっていう判断は誰でもできるが、読む行為をしてはいけない。』となりそうですね。
 また、わたしは、よい意味の『空気を読む』はありと思っています。『思いやり』『包容力』『協調性』など、自ら主体的に読む行為なら、すてきなこと。
 問題は、自我を殺してまで合わせようとする行為なのだと思います。
9. Posted by ○   2008年03月04日 16:14
現在、中学校に勤めています。空気を読む如何を含め、”人”を大切にしない生徒が多い。個性を尊重し、個を大事に考えすぎた教育理念の現れなのでしょうか。朱に交われば朱くなるとは言いますが、空気を読みすぎて正義の声が出せない集団作りはしたくないと常々思っています。ただ・・・、中学生からそれをやるのは非常に困難です。
10. Posted by YK   2008年03月04日 22:42
「包容力」、「協調性」というのは、教育において非常に重要な要素だと私も思います。その前提は、相手の「個」を認めるということで、それは、やはり「思いやり」と「優しさ」をもってのみ成せることだと思いますね。だから、まず「思い遣り」と「優しさ」を、身を持って教えることが教育者の条件に思います。「思い遣り」と「優しさ」は、根本的な人間の条件だと思う。だから「空気を読むな」と言っても、例えば弱者を見て見ぬふりしたり、いじめに加担したりせず、安易な方向に流されずに自分の人間性を信じろ、せめて維持しろという意味で、別に全共闘みたいに体制に反抗しろと言うわけでもないし、尾崎豊になれって意味でもない(笑)。
11. Posted by YK   2008年03月04日 22:50
ではなぜ私が「朱に交わっても赤くなるな」などと言うかと言えば、昨今は集団の力が強く、教師のストレスも多くなっているからです。また、マスコミが無責任な発言を繰り返すことによって、PTAのPが流されやすくなり、彼らの不安が増大することで、Tへの圧力が強まってきている。更に言えば、特に平成に入ってから、教師の権威が低下し、教師と子どもの関係が水平的に、フラットな関係になってきていることで、徳の無い子どもたちが集団化して「思い遣り」と「優しさ」を備えた、また備える可能性のある子どもに対し、彼らの可能性を閉ざす空気を作り出すからです。
12. Posted by YK   2008年03月04日 23:02
今はその空気がとても強く、またその空気は、大変殺伐としているように思う。子ども、昨今話題になるアニマル化した親たち、それらは、空気を読まないのでもなく、読めないのではありません。利己主義的に、つまり自分の都合の良いようにのみ読むのです。意図的であるか、意図的でないかはともかく、これらに対して理性的な対話が成立しないケースは往々にしてあります。結局のところ、その犠牲者は誰か。前に書いた死んだ若い女性教師でしょう。で、当事者の中で一番、死ぬべきではないのは誰か。その若い女教師です。こんな不条理がありましょうか。この不条理の中で生き抜くためには、教育の本義について、相対化できないレベルまで精錬する努力をしなければならないのでしょう。
13. Posted by toshi   2008年03月05日 08:56
○さん
《空気を読みすぎて正義の声が出せない集団作りはしたくないと常々思っています。ただ・・・、中学生からそれをやるのは非常に困難です。》
 それは分かります。すごくよく分かります。小学校低学年なら容易にできることが、高学年になると、もう、指導に困難さを感じますもの。まして、中学校となればね。
 でも、学校全体として取り組めば、困難ではあるけれど、できないことではないとも思います。また、そうした中学校が増えつつあるとも思います。 中学校のことも、何度か記事に書かせていただきました。もうお読みいただいているのなら大変失礼ですが、わたしが初任者指導にかかわっている関係で、中学校の初任者の苦闘ぶりを記事にさせていただいたことがありました。本コメントのわたしのHNをクリックすればでるようにしましたので、ご覧いただければ幸いです。 
14. Posted by toshi   2008年03月05日 09:13
YKさん
 今回いただいたコメントは、ほんとうによく理解することができました。ありがとうございました。
 確かにおっしゃるように、今の時代は、困難さを増しているように思います。
 わたしは今、初任者指導に携わっているわけですが、初任者のおかれた状況も、むかしに比べれば比較にならないほど大変ですね。
 YKさんがおっしゃる状況は、わたしもよく認識しています。認識した上で、でも、わたしが初任者に言っていることは、YKさんのお言葉を借りれば、『朱に交わっても朱くなるな。』ではなくて、『自ら朱を作り出してしまえ。』です。そのためには、目の前にいる子どもらを、豊かな人間性あふれる存在に育ててしまうことです。それを親が実感できたとき、親は変わります。幸い、多くの場合、初任者が担当するのは中学年ですから、それができるケースは多いです。
15. Posted by toshi   2008年03月05日 09:21
初任者の手に負えないこと。それも確かにあります。職場の人間関係。これは無理でしょう。また、初任者指導しているわたしにしても、そこまで改善というのは正直無理だと思います。
 でも、校長時代は、無理などという立場ではないので、がんばりましたよ。どれだけできたかは、反省も多いのですが、やればやっただけのことがあるのも事実です。
 『できないことはできない。』と腹をくくるとか、『分かってくれる人が分かってくれるだけでもいいではないか。』など、よい意味の楽天主義も大切ですし、でも、ベストは尽くそうとする姿勢ですね。それさえあればいいのではないかとも思いました。
 YKさんがおっしゃるような悲観的要素は確かにあったのです。でも、そのなかにも、肯定できる部分があれば、それを強調するようにしました。
16. Posted by toshi   2008年03月05日 09:29
YKさんのおっしゃる、若い女教師の自殺は、わたしにとっても大変ショックでした。いろいろ読みましたけれど、どういう状況があったのか、ほんとうのところは分かりません。
 でも、やはり、まわりにいる先輩方が、目に見える形でも、見えない形でも、フォローしてやることはできなかったか。それは、思わずにはいられません。
 わたしが担当する初任者も、疲れで病気になったことがありました。遠くから来て一人下宿暮らしだったわけですが、そのとき、先輩教員方がその下宿へ訪ねていって、食事の世話をしながら、いろいろ話を聞いてやったなどと聞いたときは、わたしも涙が出るほどうれしかった。感謝の気持ちを伝えました。
 とにかく、善意でやれることはやる。そうすれば通じるものもある。無理なことは無理。そうして腹をくくるしかない。それがわたしの思いです。

17. Posted by YK   2008年03月06日 06:43
<『自ら朱を作り出してしまえ。』>
そう思います。やっぱり、空気自体は大事なんだと思います。空気がなければ窒息死するから(笑)。ただ、子どもや親の論理、つまり数の論理にしたがって、「the atmosphere rules」という状況を作る、作らせるな、と。それぞれ名のある先生が、「the teacher rules」というくらいの気持ちを持つべきではないか、ということです。むろん、これは支配とか圧力をかけるとか言う意味ではないです。生徒が「なるほど、この先生の言うことは本当だ」という気持ちになれば、子どもの態度は変わると思うんですね。だから、教師は「言葉」の力を信じないといけないと思ってます。少なくとも、私はゆとり教育だとか、詰め込み教育だとか、そんなものはただのレッテルに過ぎないと思っている。教師の言葉如何だと思っています。
18. Posted by KY   2008年03月06日 07:06
<わたしが担当する初任者も・・・>
私は、むろん、その初任者という方がどういう人かはわかりませんが、やっぱり救われたと感じたのではないかと思います。文章から察するに。偉そうなことは言えないけれど、その経験がその方の教育に反映されるのではないかと思います。
 その自殺した女性についても、私は状況的なことしかわからず、心理的な、人間関係的なことはわかりませんが、やはり、板挟みになっていたと思う。責任感があるから現実の子どもに苦しむ、ということはありえるでしょうね。正直、この人は教育者として、日本より外国の、勉強したくてもできないような子どものほうが向いていたのではないかと思う。本当の意味で、勉強をしたくない子どもばかりなのは、日本の、しかもここ数十年の現象だから、外国だったら良い先生になれたのではないか、と思うんです。極端な話に聞こえるかもしれないけど、真剣にそう思いますね。
19. Posted by YK   2008年03月06日 07:29
救われた、というのは、教師対教師の場合もあるけれど、教師対生徒であるのが、本当の教育像なのでしょうね。私もずっとひきこもってた、ようやく学校に行こうかどうかという子の相手をしたことがあるのだけれど、やっぱり、いまは社会的に余裕がないですし、悲観的要素はたくさんありますが、人間性、あるいは感受性に対する信頼は大事だと再認識しますね。というのも、ロクな本を読んだことがないような子供でも、例えば、セネカの哲学を噛み砕いて説明してやれば、それに素直に驚くし、自分の人生と比べてみたりする。そういうのを繰り返して少しでも、自分を変えようと努力する気配を感じれば、やはり人間性というのは信頼に足るという気がしてきますね。
20. Posted by toshi   2008年03月07日 09:34
YKさん
 もう、おっしゃる通りと思いました。けっきょくのところ、子どもと指導者との信頼関係ですね。究極はそこだと思います。それさえあれば、現代においても、子どもは健康に育つ。そういう確信があります。
《その経験がその方の教育に反映されるのではないかと思います。》
 なるほど。それは確かに言えるでしょうね。優しさとか思いやりとか、実地に学んでいるわけですからね。
《人間性、あるいは感受性に対する信頼は大事だと再認識しますね。》
 これはもう、わたしもまったく同じ思いです。ただ、虐待されて育った子については、むずかしさを率直に感じています。わたしの課題です。

21. Posted by YK   2008年03月07日 22:20
虐待する親というのは、やはり余裕がないのでしょうが、経済格差が虐待を助長しているという議論は個人的に疑問がありますね。どんなに貧乏でも虐待しない親はしませんから。専門家ではないので勝手なことを言いますが、児童虐待の件数を見たときは異常だと思いました。やはり、これは親の精神疾患に属する問題なのではないかと思うので、カウンセリングや施設とかを考えるのが一番なのかと思います。もちろん、ケース・バイ・ケースだと思うのですが。ただ、それは処方箋でしかなくて、虐待がどうして起こるのかと考えると実に複雑なのだろうと思います。つまり、精神の拠り所がどうしてないのか、ということを考えてしまうのですね。 
22. Posted by YK   2008年03月07日 22:30
そう考えると、第一に、やはり祖母や祖父と一緒に住まなくなったこと、あるいは地域共同体を喪失したことと関係あるのではないかと思います。例えば、保育所に入れる入れないの意見交換をする場もないし、子育てのノウハウも無くなってしまったということが、あるのかな、と思います。
第二に、文化の喪失で、若い親の共通の文化というものが無いのだろうという気がします。これは教養と言う意味で、年齢が近い人でも、価値観に影響を受けたものが全く違うので、全く別の個として存在するしかない。助け合うことができないという状況があるのかと思います。だから、国語力が低下というけど、やはり教養とか、そういう価値の共有ができなくなっているのではないかという気がします。
23. Posted by YK   2008年03月07日 22:33
第三に、風景の喪失で、昔のように自然の中で遊ぶことがない。また、そういう中で自分の分際を知る機会が親自身も無くなってきている。これは平成育ちの人間に共通することだと思う。こういう環境の変化と、最も単純な理由、愛情が希薄な親がいる。また、子を産み、育てる自覚もなく親になってしまうケースがあるというのが、虐待の要因かと思います。
 最も、そんな要因について考えても、解決にはならなくて、指導員の方の話を聞いたときは、悲惨な例が多いということにショックを受けたことがありますね。
24. Posted by toshi   2008年03月08日 07:15
YKさん
 児童虐待防止についても、地域の皆さんのご協力があるかいなかは大きいです。乳児の場合は無理でしょうが、幼児以上であれば地域の人が気づくケースがほとんどですから、地域の人みんなで当該の保護者を支援する。そういう地縁社会の構築が大切だと思います。
 わたしが勤務した学校の地域においては、そういう支えがありました。それで、考えられるあらゆる対応をとった結果、改善されていきました。
 ただ、学校においては、ほんとうに苦慮する事例が多かったです。どう指導していったらよいかは、暗中模索といった感じでした。けっきょく、熱意ある地域の人に学校に入ってもらって、その児童に対応していただくということで、いい方向にいった例はありました。
25. Posted by YK   2008年03月10日 11:59
虐待に関して、色々考えるところが多かったです。特に法制度については、ずいぶんと自分の考えは遅れていたようです。ありがとうございます。正直、ゲマインシャフトというのは個人的にはあまり好きではないのですが、問題発見は地域からするのが妥当ですね。こういった問題を取り扱うNPOは知っていますが、結局自立支援の段階では、制度面での不備が目立つようです。全体のケアとしてはまだ困難な面が多いという現状について、広く認知される必要があるのでしょうね。

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