2008年03月07日

いくつになっても勉強!4

a6ef3245.JPG 校長仲間との飲み会でのこと。その場にいたのは、OBと現職校長と、半々だったかな。

「toshiさんは、すごいなあ。ふつうなら、もう、『退職後は、のんびり過ごそう。』と思うのだろうけれど、学校現場で、なおもがんばっている。」

 そのように言われ、
 この仕事を趣味のような感覚でやっていて、格別がんばっているつもりのないわたしには、おもはゆさが残った。


 で、調子にのったわたしは、

「いやあ。今日も、初任者の研修のために、授業をやってきたよ。なかなかおもしろい授業だった。モチモチの木だったけれどね。」

「3年生の国語か。」

「そう。初任者がすばらしい学級をつくり上げたから、子どもたちはよく発言するようになってね。・・・。そう。そう。このような発言があったよ。」


 ここで、ネットに載っているこのお話にリンクしよう。絵本のようになっている。教科書の挿絵とは、かなり趣きを異にしているけれどね。

 また、この授業の様子は、拙姉妹ブログの『小学校初任者のブログ』に近日中に掲載したいと思うが、ここでは、ある一つの子どもの発言をめぐっての話題を紹介したい。



 その発言とは、


「このお話、変なところがあるよ。」

「あっ。そう。どこが変なのかな。」

「だってさあ、教科書の〇〇ページで、じさまは、『モチモチの木に灯がともるけれど、それは、一人の子どもしか見ることができない。』って言っているでしょう。
 でも、最後の方では、豆太と一緒に医者様も、灯がともっているのを見ているじゃん。」

と言うのだった。


 ところで、わたしは、
『子どもの言う通り、この箇所は変だ。』と思って、この発言を話題にしたわけではない。
 ただただ、『子どもってすごいよ。大人の気づかないところにまで目を向ける。ただし、これは何でも言い合える学級づくりが成功しているからであって、そこに、初任者の努力がある。』そのようなことを言いたかったに過ぎないのだが、・・・、

 それを聞いていた国語を専門とする校長は、そうは思ってくれなかったようだ。真っ正直に受け止め、まともに答えてくれた。

「いや。変ではないよ。

 医者様は、灯がともるのを見たわけではない。まして、山の祭りなどは見ていない。医者はあくまで、『モチモチの木の後ろに月があって〜』などというように、事実を事実として見ているだけだ。」

 うわあ。これはまた、すごい。わたしの解釈の上をいっている。まいった。

 そういう思いになった。なるほど。それで、『勇気のある子にしか見えない。』というのも、重要な意味をもつことになる。


「ああ。そうか。そういうことか。なるほど。・・・。わたしはね。

 子どもとは別な意味で、『この医者様の言葉は、なんか変だ。』と思っていたのだよ。

 このお話になじまない・・・、そう。『まるで理科の学習であるかのようなことを言っている。他の部分と調子が合わないのだよな。それで、子どもが育もうとする夢を破ってしまっているのではないか。何で斎藤隆吉さんは、このようなことをわざわざ書いたのだろう。』そう思っていたのだ。・・・。

 でも、今の先生の話でようく分かった。

 そうか。やっぱり勇気のある子どもにしか、灯がともっているようには見えない。そういうことか。」



 わたしは、いたく感動した。さっそくこの感動を初任者に伝えよう。そう思った。



 最近、この学級の子どもたちは、
『ああ。そうか。そういうことか。』
『なるほど。分かったよ。』

 にこにこっとして、実にうれしそうな表情になる。そういう分かり方をすることがふえている。

 今度も、そういう笑顔が期待できる。その表情を見るのが、今から楽しみだ。

 それにしても、教材研究は永遠だね。


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 上記発言は、初発の感想を出し合う授業の一こまです。

 もちろん、この学習の王道である、『豆太は勇気がある。』『いや。やっぱり臆病だ。』その種の発言はいっぱいありましたよ。


 ただし、初任者にもよく言っていることですが、

 文学教材は、謎解きばかりになってはいけません。『なぜ』『どうして』で終わらないこと。やはり、それらを通して、登場人物の心情に迫るのでなければならないでしょう。


 そう。そう。それともう一つ。今、盛んに言われている言語事項の理解。これも現代的な意味で、重要ですね。

 そして、これも、上記のような子ども主体の学びのなかでの習得を目指したい。ストンと胸に落ちる理解でないと、すぐ忘れてしまうようでは、まずいですよね。


 一例を挙げましょう。

 
 『豆太においしいものを食べさせたいから、くまと組みうちしたり、青じしを追いかけたりしている。』と思っている子がいました。そこで、わたしは、『りょうし』という言葉に目を向けさせました。

 そして、『豆太においしいものを、〜』ということもあるかもしれないが、それらは、じさまやおとうの仕事なのだという理解になりました。そういう話し合いを通して、『りょうし』という言葉の意味を理解していくのですね。

 それでは、今日も、子どもたちのがんばりを期待し、上記バナーのクリックをよろしくお願いします。

rve83253 at 09:17│Comments(4)TrackBack(0)指導観 | 国語科指導

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この記事へのコメント

1. Posted by ai   2008年03月08日 11:15
子供の頃に読んだ本を、大人になってから読んで、全く違った感想を持ったことが何回かあります。
子供の頃はどうしてそう思ったのか、それを思い返すと、恥ずかしくもあり、子供の頃の感性に感慨深くもなります。
歌なども、ある程度年齢を重ねてから、「あぁ、こういう意味だったのか。」と改めて気が付くこともありますよね。
先生にとって教科書に載っているお話は研究対象ですから、読み込まれているのだと思いますが、それでも子供の発言から端を発し新発見できることもあるのですね。
本を読むこと、勉強することの面白さを、子供たちにも味わって欲しいですね。
2. Posted by あしなが   2008年03月09日 01:55
 はじめまして。あしながと申します。斉藤隆介の「モチモチの木」は、私が最も好きな教科書教材です。初発の感想で、子供が、医者さまが見たモチモチの木を矛盾と捉えたこと自体驚きですね。先生のおっしゃるように、大人が読むと、最初はこの部分は必要ないとたいていの人が思うのですが、斉藤隆介が敢えて医者さまに語らせたことにも読み手は気が付くようです。それも、この物語が持つ普遍性でしょうか。それでも、私も、先生と同じように、この物語にとって、医者さまの理科的な語りは、なじまないと思っています。
3. Posted by toshi   2008年03月09日 11:53
aiさん
 『教科書に載っている物語は、大人になってもなつかしい。』そういう方はかなりいらっしゃるようですね。そうしたことをテーマとしたネットもあるくらいです。
 子どもって、大人では考えつかないような発想をするもので、それはもう、教員にとっては、子どもの見方、感じ方について、日々勉強なのです。
 また、そういう発想を引き出すためには、何でも言える学級づくりが大切で、そうした意味では、新発見のできる環境を整えることが、大事なことになるのだと思います。
 そして、それに成功することが、豊かな読書生活を保障するものになっていくのではないでしょうか。
4. Posted by toshi   2008年03月09日 17:18
あしながさん
 いつだったか、『関係づける力を養うことの大切さ』を記事にしたことがありますが、これもまさに矛盾という関係づけですね。
 こうした子どもの指摘した矛盾は、子ども同士共感あるいは反発を呼ぶのでしょう。話し合いがさらに活気づきます。
 しかし、指導する側は、子どもの問題意識に瞬時に対応しなければいけませんから、学習する価値の見極めなど、大変です。
 初任者もそういう切り返しがけっこうできるようになりました。

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