2008年03月09日

新しい時代の初任者研修は、3

f6dab3eb.JPG 先に、教員定数に関して記事にしたことがあった。

   教員の採用事情(1)

 そのとき、『教員採用数は、退職者数と新年度の学級数とによって決まる。定数は厳密で余分な採用は許されない。』と書いた。

 確かにその通り。

 法にのっとってやっているのだし、教員の給料は税金なのだから、これはやむをえない。そう、思いがちだ。


 しかし、ほんとうにそれでいいか。世は改革の時代。国民の意識も大きく変化している。だから、多くの国民の納得が得られれば、もう少し、採用枠を柔軟にとらえてもいいのではないか。


 前回の記事では、『学校というところは、各世代の教員が均等にいることが望ましい。』という視点から、それを述べた。


 しかし、今日は、前記事においては特に問題としなかった、

 『どの教員も、子どもの前では、最初から一本立ちしていなければならない。子どもから見れば、どの先生も最初からたよりになる先生でなければならない。教室へ入れば、一人だものね。誰も助けてはくれない。』

と書いた部分について、『ほんとうにそれでいいのか。』あたりをとり上げてみたい。




 最近、いとこと話す機会があった。わたしより3歳下。今年還暦と思われる。

「学校の先生ってさあ。仕事につくと、すぐ学級担任になるのだって。」

「ああ。小学校はほとんどそうだね。中学は教科担任だから、少し事情は違うと思うのだけれど。」


 中学校の例については、かつて中学校初任者の苦労と努力を記事にさせていただいたことがあった。それを読んでいただくと、いきなり学級担任になるのではない場合もあることを、分かっていただけるだろう。
 でも、そうであっても、授業に関しては、いきなり、一人前扱いになることは、小学校と同じだ。



 さて、再度、いとこの話に戻す。

 「でも、それって民間の感覚からすれば、びっくりすることだよ。職について、いきなり一人前の扱いなんて、とても考えられない。ある程度、研修というか、準備期間というか、それはどうしても必要だろう。」



 それは分かる。わたしにも、たった1年ではあったが、民間歴はあった。

 そのときのことを振り返ると、就職して、

 すぐの20日間は、お寺にこもっての研修だった。座禅を組んだり、般若心経をとなえたり、方丈さんの法話を聞いたり、会社の役員さん方の指導をいただいたりした。

 そして、次の3ヶ月間は、商品をお届けする配送員のようなことをやった。

 その後、1年目終了までは、先輩社員にくっついて、先輩の営業まわりを見たり、お手伝いをしたり、会社に戻っては先輩の話をうかがったりして、実地に学んだ。

 そこまでやっていただいて、いよいよ自立というときに辞めてしまったのは、会社に対し、ほんとうに申し訳ないことであった。(このことについては、いつか記事にします。)


 まあ、でも、それはそれとして、ここでは、あくまで、職についた最初から、一人前扱いすることの是非を考えてみたい。また、それは、今のわたしの仕事にもかかわることだ。


 こういった見方もあるかな。

 まあ、学校社会は、長い間、それでやってきたではないか。やれるからだろう。


 確かに、他の仕事と違い、何をするのか仕事のノウハウがまったく分からないということはなさそうだ。仕事のイメージは、あらかじめもつことができる。
 また、大学で一定の学問は身につけているはずだし、4週間ではあっても実習もつんでいる。


 しかし、近年、教育を取り巻く環境はかなり違ってきた。

 むかしのように、『学校にお任せ。』という時代ではなくなった。

 いきなり、成果を求められるようになった。シビアになった。

 我が地域でも、来年度より一般教員の査定が始まる。
 

 また、我慢のできない子どもがふえて(それは『よさ』である場合もある。詳細は後述。)、学級のあれなども、むかしとは比較にならないほど、ふえている。


 そういう時代の変化に即応することも大切ではないか。

 
 そうか。今のわたしの仕事は、まさに、時代の変化に即応した結果なのかもしれない。

 少なくとも、わたしの初任者時代にはなかった。平成元年度より始まった。


 これは一見いいように見える。いや。いいのかもしれない。やはり成果はあると思う。

 そのあたり、一年間の初任者研修を終えて、初任者と話し合ったことを書いた記事があるので、それにリンクしよう。


    初任者の成長(2) 初任者研修を終えて 〜対談〜
 

 だから、これでいいようにも見えるが、

 

 でも、今の初任者研修を、上記会社の場合に置き換えてみると、

 いきなり、営業まわりをすることになる。

 ただし、1年目は、先輩社員がついて、新入社員の『営業まわり』を見守りながら指導する。その場合、先輩社員は縁の下の力持ち的役割でなければならない。仮に新入社員にうっかりしたことがあったとしても、基本的には、すぐその場で口をはさむようなことはしてはならない。

 そのような感じだ。それで会社はもつかな。

 やはり、逆ではないかという思いはぬぐえない。



 どうだろう。初任者は学級をもたない。そして、先輩教員の学級経営や指導を見て、徹底して学ぶ。ノウハウも身につける。

 2年目から、一人前として扱う。

 そういうことにしては。


 わたしは、かねがね、現場における教員研修の強化・充実を訴えてきている。そして、教員免許更新制は、何の意味ももたないから、廃止すべきだと言ってきている。

 今日述べた初任者の研修の改革案も、現場における教員研修の強化・充実の一環だ。


 これこそが、新しい時代の、教員の育て方ではないかと思う。

 いかがだろうか。


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 『我慢ができない子』については、ちょっと注釈が必要だと思います。

 一般的な辛抱強さを養うことは、人間の資質として大事なことでしょう。道徳的に見ても、それは育んでいかなければいけないと思います。

 しかし、何もかも我慢かとなるとそれは違うでしょう。理不尽なことにたいしては、我慢せず、決然として立ち上がる勇気も養わなければいけません。

 このあたり、日本語ではどちらも、我慢という言葉でいわれてしまうので、はっきり区別してかかりたいものですね。


 今日述べた、初任者研修改革案は、冒頭の、『厳密な教員定数』に、初任者は含めないということでもあります。

 あっ。そうか。そうなると、わたしの今の仕事は、なくなってしまうのかな。

  
 それでは、教育の未来に希望をもちながら、今日も、皆様の1クリックをよろしくお願いします。 
 

rve83253 at 09:58│Comments(17)TrackBack(0)教育制度・政策 | 初任者指導

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この記事へのコメント

1. Posted by 亀@渋研X   2008年03月09日 11:46
おっしゃることに同意します。
オン・ジョブ・トレーニングが有効であるにしても、他の先輩教員がいっしょに指導を組み立ててくださるにしても、少なくとも「現在は」初任者がいきなり担任をもつのはリスクが大きいと感じています。
現在中3の長女が小2のときに、これが学級崩壊というものか、という状況に巡り会いました。そのクラスは小1から持ち上がりでしたが、1年生のときは大ベテランの先生で2年生になって初任者が担任、崩壊しました。初任者といっても、民間の子どもたちと直接関わるお仕事を1年間されておいででした。しかし、授業参観で見てもその指導にはあまりにも余裕がないと思ったことを今も覚えています。

2. Posted by 亀@渋研X   2008年03月09日 11:58
そのときにも気になったのですが、その崩壊には「1年時の担任が『やりすごしてきたことの尻拭い』を、初任者がやらされている」という構図があったのではないか、という側面があったように思われてなりません。学級崩壊はベテランだから避けられるというものではないということも、聞いて知ってはいますが、現在もその疑いを捨てていません。
後年になって、初任者には研修が多く、かなり大変な毎日だということを知りました。やはり、いろいろな意味で「大学卒業後の訓練」が欠かせないという認識が国や自治体にもあるのですね。しかし、学校での仕事が大幅に減るわけではないようです。
それどころか「若い先生だから」と期待される部分もあって、近いうちに定年を迎えられる先生のなかにはのんびりと過ごしておいでの方もいるのに、初任者や2年目の先生が駆けずり回っているという構図も場合によってはあるようです。
3. Posted by 亀@渋研X   2008年03月09日 12:10
現在は小学校でもティーム・ティーチングや習熟度別の少人数編成など、さまざまな取り組みが行われていますし、教科専任というスタイルもあります。授業にも関わりながらの研修期間と設けるのは難しくないでしょう。
一方では、かつてはなかった情報関係の校務分掌もあります。年配の先生方が苦手とし、若手の先生方は得意ではないにしても手慣れた部分です。地域との窓口としての機能も、一部の主幹や副校長などに集中しやすい事情もあります。
民間にも「試験雇用期間」や配属前の研修期間がありますし、「各部署を一通り経験させて適性を見る」という企業もあるようです。
4. Posted by 亀@渋研X   2008年03月09日 12:12
なにを「一人前」と見るのかは難しいところがありますが、いろいろな側面がありますから、それぞれについて適性の低い先生も高い先生もおいでです。適材適所が難しいために産まれている問題も多いようにも思います。採用人数を増やしても限られた人員であることには変わりはないでしょう。そのなかで、経験のある先生も少ない先生も、保護者も子どもも、みんながハッピーになりやすい組織の組み立て方があるような気がしてなりません。

地元の学校に関わるうちに、そんなことを思うようになりました。
長々と失礼いたしました。
5. Posted by toshi   2008年03月09日 17:38
亀@渋研Xさん
 わたしたちの場合、それで長い間やってこれたのは、『相手が子ども』ということもあると思います。でも、だんだん、シビアになり、いくら相手が子どもでも、教員自体の生き方を問われる事態がふえているのだと思います。
 初任者でなくても学級崩壊は起きますが、初任者の場合は、これから伸びようとしているその初めの段階で起きるのですから、まわりの支援、配慮などによって防ぐ手立てはけっこうあると思うのですね。かわいそうになる場合もあります。
 また、わたしのような存在がないと、基本的に教室内で大人は一人だけですから、とまどいや悩みなども多々生まれる可能性があります。
6. Posted by toshi   2008年03月09日 17:55
《その崩壊には「1年時の担任が『やりすごしてきたことの尻拭い』を、初任者がやらされている」という構図があったのではないか。》
 これ、よく分かります。具体的には言えないのですが、よく言えば担任の個性、悪く言えば、応用のきかない、あるいは、クセのある経営ですね。それをやられると、その担任のもとでは、よい効果があったとしても、次の担任は、消化しきれないくらいのやりにくさを感じてしまうのですね。

《経験のある先生も少ない先生も、保護者も子どもも、みんながハッピーになりやすい組織の組み立て方があるような気がしてなりません。》
 ほんとうですね。みんなで考えていけたら、うれしいですね。

 KYシリーズに、YKさんからコメントをいただき、そこに自殺した初任の女教師の話があったものですから、救う手立てはなかったものかと、いろいろ考えました。
 ちょうどそのようなタイミングでの、いとことの会話でした
 

 
7. Posted by YK   2008年03月10日 12:38
隣の韓国は、少子化社会で引きこもりやネット中毒など、社会的に日本と同様に様々な問題もあるんですが、韓国の友人に聞くと、学級崩壊という現象はないらしいんですね。代わりに、受験に失敗すると自殺する現象がまだあるようなのですが。両国では、経済水準はまだ日本のほうが高いですから、これは文化的な問題ではないかと思います。つまり、韓国のほうがまだ管理が良いと思っているということです。(でも、教師が子どもに手を上げると批判はされるとも聞きました。)なので、どちらも問題はありますが、管理という要素を全く捨てるのは間違いだと思いますね。だからと言って教育勅語的な教育が良いとは思わないですね。個人的には読んでますが。
8. Posted by YK   2008年03月10日 12:54
「教員免許更新制は、何の意味ももたない。」
これは同感ですね。というのも、私の考えでは、小学校というのは、良い意味で原始共産主義みたいなところがあって、効率性の評価をする気になればいくらでも客観的に見れるものではあります。しかし、それが適正か、適正でないか、という評価であるという基準を世間の目や社会に有益だとか、そういうところに置いてはいけないと考えると思うんです。というより、それができるかどうかで教師の質を判断してはならないと思う。それよりは、若ければ若いなりに、年を取っていれば年を取っているなりに自信を持ってやったらいいと思う。
9. Posted by YK   2008年03月10日 13:08
私の場合、我慢するというのは、小学校に限って言えば、忍耐という側面ばかりではなかったですね。勉強が面倒なのは面倒ですし、学校自体が面倒だが、それに我慢して学校に行く、、というのは我慢でも何でもないように思います。それより、30人なら30人に対して、相手の個性を尊重するように先生は軽く言うけど、本当に相手の価値を尊重するというのは、それ自体が本来大変に困難なことであります。要するに、相手の文化、金持ちもいるし、勉強ができる子もいるが、相手の価値を認める。それ自体が大変に「我慢」を強いることですね。それが小学校時代の我慢=勉強だったように思います。
10. Posted by toshi   2008年03月11日 16:56
YKさん
 そうですか。韓国のことは知りませんでした。長幼の序を重んじるお国柄ですから、それに関係あるのかもしれませんね。まさに文化的な問題なのでしょう。
 どんなに子ども主体の学校生活と言っても、管理という要素はどうしてもあります。子どもが納得する部分については、秩序を教えることも大切と思います。ただ相手が子どもですので、教員の独りよがりにならないよう、研究・研修には励んでいかないといけないと思います。
 我慢。うううん。むずかしい。
 わたしはやっぱり、個性の尊重は大事と思います。突き詰めればやり切れないかもしれませんが、でも、子どもがお互いの個性を尊重し合い、あるがままの友達の姿を認め合った上で、心豊かにふれ合うことはできると考えます。こうした面での我慢はないほうがいいと思うのです。
 
11. Posted by NINJA   2008年03月12日 10:12
突然のメール失礼いたします。
toshi先生は今回埼玉県で起きた、高校校長による女性脅迫並びに逮捕について、どのようなご感想・ご意見をお持ちでしょうか。是非ともブログ上にてお聞かせ下さいませ。宜しくお願い致します。
12. Posted by toshi   2008年03月12日 10:28
NINJAさん
 ううん。あってはならないことが起きたということです。何とも、ひどいできごとです。少なくともわたしも、『校長』とめい打ってこのブログをやらせてもらっている以上、お詫びしなければいけないできごとです。まったく申し開きはできません。まことに申し訳ありません。
 この件に関しても、近いうちに思うところを記事にさせていただきたいと思います。よろしくお願いします。
 
13. Posted by NINJA   2008年03月12日 17:43
toshi先生。早速ご返事を賜り誠に有難うございます。別にtoshi先生が謝る必然性は何も無いですし、逆に先生に要らぬ心配・苦渋を与えた様でしたら申し訳ございません。ただ、今回の事件が事件だけに、意見を拝聴いたしたかっただけですので。次回には宜しくお願いします。
14. Posted by YK   2008年03月14日 02:45
≪我慢。うううん。むずかしい。わたしはやっぱり、個性の尊重は大事と思います。≫

これは個人的にも頭を使っている課題なんです。そして、先生の意見を批判しているわけではなく、むしろ同意している点が多いです。私は子どもに言ったことがあります。「AさんとBさんの髪型が違う。このことを個性の尊重というのが今の風潮である。しかし、それは個性の尊重ではない。髪型は個性ではない。髪型が違うにもかかわらず、人間は持つべき普遍的な価値がある。この普遍的価値を認識するところから、個性の発見が生まれる」と。そういうわけで、私の感覚からすると、今一般に言われている個性というのは、微妙な感じがしています。
15. Posted by YK   2008年03月14日 02:45
かといって、個性の問題を十分に吟味せずに社会的人間を作ることが教育の意義だと考えるなら、『ドラゴン桜』あたりで満足して、流れ作業のように一生を終えることもできましょうね。だから、個性の問題を考えることの意味が、今日ほど深刻になっていることはないと私は考えています。私の書き込みには一貫性がないように思われるかもしれませんが、突き詰めれば全て個性の問題に帰着するだろうと思います。
16. Posted by toshi   2008年03月14日 05:39
YKさん
 ごめんなさいね。YKさんのおっしゃりたいことは、十分分かるつもりです。『髪型は個性ではない。』『勉強は我慢』。そういう考え方を理解することはできます。わたしもかつては、そうだったと思います。
 しかし、わたしは、必然性、切実感をもって学習ができるように、それは言い換えれば、楽しく学習ができるということでもありますが、そういう授業を目指してきていますので、これからもそういうセンでがんばっていこうと思います。
 また、髪型の件も、わたしなどは、若いときからまったくこだわらないできたのですが、こだわる人に対しては、それは個性であることを認めたいと思います。
 しかし、何もかもそうかと言われれば、それはまた違うだろうと思いますし、やっぱり、YKさんがおっしゃるように微妙ですね。
17. Posted by YK   2008年03月16日 14:17
 お返事ありがとうございます。子どもは一人ひとり別の環境に生まれ、別々の才能がある、そして一人ひとり尊重すべきである、という点では、私も先生も共通の認識を持っていると解釈しております。
 授業の方法としては、私自身が勉強の出来ない子と接する機会が多いからでしょうが、好奇心や想像力を駆り立てるような、そういう意味で楽しい授業をしたいと思っています。そのひとつが問題解決型という発想ですかね。こっちの方が時間がかかるのですが、自分のアイデア次第なので楽しいですね。

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