2008年03月19日

戦後初期の苦難(1) 二部授業 教室のやりくり4

362c65d6.JPG 我が父が、戦後初期、ある雑誌に投稿していたことはすでに述べた

 そのなかに、当時、貧しさと団塊の世代の子どもたちをかかえるなかで、大変な苦難を伴いながら教育実践をしていたことが分かる記事があった。

 現代においては、もはや教育史の一断面に過ぎないのかもしれないが、

 若い教員や市民の方々には、『ああ。このような時代もあったのか。』と思ってもらえればありがたいし、

 わたしやそれ以上の世代の方には、自分の子ども時代や若かったころを思い出すよすがになれば幸いである。なつかしいと思われるかもしれない。


 ちなみに、下記記事は、昭和29年のもののようだ。わたしはこのとき、小学校4年生だった。


 また、本記事に出てくる『二部』とは、教室が足りないため、一教室を二学級が使うということである。午前と午後に分けて、それを一週間ごとに交代して使っていた。

 なお、(※  )は、わたしの補足等である。

 それでは、さっそく、どうぞ。




二部授業をこうやっている。


◎教室のやりくり


 二十坪たらずの教室工場で、人間百二十人を量産する。(※一学級六十人だったのかな。わたしの記憶では、五十五人だと思ったのだが、)これが我が校の、悲しい誇りとする実態である。いや。近代都市と称する日本の各都市に共通したことかもしれない。
 もはやこれは、悩みという段階を通り越して、あまりにも当然な月並みなことになってしまっている!

 今さら、二部授業がどうのこうのと言うのは、世間知らずだと笑われるのかもしれない。

 でも、我々は、教育工業化の渦に流されまいとして、近代教育科学の粋をもって、これに対決しようとあせるけれども、いかんせん、今年はまた、拍車をかけての大量受注。例年の1.6倍。四百有余の新入児童をかかえこんで、にっちもさっちもいかなくなった。青息吐息、慢性頭痛の種ばかり重く、それでも、なんとかかんとかやっていかなければならないのは、まず、教室のやりくりさんだんである。


〇特別教室は、もう一つもない。

 かつては、理科室、工作室、裁縫教室、音楽室と称して、誇っていた設備が、とっくのむかしに取り払われて、ふつう教室におくらがえしてしまっている。今さら、模様替えするような特別教室などというしゃれたものは、校庭の隅まで探したって見つからない。

 今年の増加分は四学級。それを二部にしても二教室は、どこをはたいてだしたらいいか。


〇図書室、映写室がほしいが、

 業者は、映写機だ幻灯機だと売り込みに来る。文部省は視聴覚教育だとわめきたてる。せまい校舎にしこたま子どもを押し込んで、二部授業をごっそりやらせているくせに、国会では、学校図書館法などという時代ばなれの空論をでっち上げる。

 一部の父母は、『この学区は貧しい家庭が多く、子どもに読み物も買ってやれないから、せめて学校図書を増やして子どもに楽しい読書をさせたいものだ。』という悲願から、児童図書をたくさん買ってくれたが、置き場がなくて、書庫に眠らせてしまっている。(※わたしが通った学校は、この昭和29年に、一部保護者の寄付によって学校図書館ができた。でも、それはすごいことだったのだね。)

 映画、幻燈の機械を買っても、映写室がなかったら、自分の教室にいちいち暗幕を張り、機械を運び込み・・・、そんなことをしているうちに、授業時間は空費される。
 それよりも、こんなものを使わずに、どんどん学習を進めていかなければ学力低下してしまうというわけで、誰も利用しようとはしないだろう。

 こんなことではしょうがないから、どんな無理をしても、図書室兼映写室がほしいという提案があったが、『いや。そうすると、二部授業は一年上にせりあがるから、子どもがかわいそうだ。』『いや。一学年三百人を犠牲にしても、二千人の全校児童がよい学習をすることができる方がよいのだ。』(※二千人とはすごい。今、この学校は、児童数五百人弱である。)

 こうして、昨年の職員会議は沸騰した。終電車までもみあった。両方の主張を秤にかけてついに図書室設置はやめになった。一千冊余の児童図書は、もっぱら貸し出し専門とした。破損することおびただしい。

 教室不足。子ども過剰では、近代的教具も望ましい教育法も、猫に小判である。『だれか、教員と教具の心を知るや。』と言いたい。


〇職員室をつぶせ。

 その会議で、『映写室兼図書室』のためには、職員室をなくしてしまえという案が出た。

 ところで、近代学校の職員室というものは、事務室兼会議室兼教具室兼物置兼父母応接室兼職員休憩室兼校長室ということになっている。

 もし、これが、映写室兼図書室となると、二部の先生が、午前か午後か、半日の居場所がなくなってしまう。二部の十何学級の先生の居場所は宿直室を代用するくらいではおっつかない。どうも不都合千万である。(※わたしが通った学校は、職員室が一つでは足らず、第二職員室なるものがあった。児童数が多ければ、当然職員も多いわけで・・・、でも、そのために、講堂が・・・。これは、次をどうぞ。)


〇講堂はどうか。

 講堂兼雨天体操場にしきりをして教室にしている学校もある。我々もそれを考えてみたが、どうも薄暗くて、冬はひときわ寒く、夏は暑く、子どもの気は乱れ音声は散り、その上、校庭がぬかる冬の三ヶ月間の体操はできなくなるし、子どもの遊び場はなくなるし、全校的な行事は何一つできなくなってしまうので、これもダメだとなった。

 もうどこを探しても、教室になる場所はない。そんなわけで、二部の学年がまた一年繰り上がる。この調子だと、今に六年生まで二部になってしまいそうだ。




 本日は、ここまで。続きは、また、次回に。

 わたしも、何を隠そう。二部授業の体験者だ。そして、父の学校は講堂に仕切りをおいて教室にするということはやっていなかったようだが、わたしはそれも体験している。

 今、50代の上から60代になる方で、当時、都市に住んでいた方々は、皆、この体験をしているはずである。わたしも含め、多くの方は、『ああ。そのようなこともあったなあ。』となつかしく思い出すであろう。しかし、どうだろう。その当時の苦労とか、悩みは大部分、忘れてしまっているのではないか。


 いや。そうではないね。

 当時は、子どもだって、大変な思いをしたはずなのである。ただ、子どもっていうのは、いつの時代でも、自分の生きる環境を当たり前と思い、それへの違和感などもつわけがないので、(歴史的、あるいは、地理的な学びをするなかで、自己のおかれた環境を客観視できるようになるのではないか。)『苦労』とか『悩み』とかを実感しているわけではないのだよね。


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 つい先日、わたしの小学校時代の同窓会をやりました。

 そのなかででるのは、やはり、むかしの貧乏話です。

 「いやあ。小学校高学年のころになると、家の屋根に大きな石を並べているのは、うちぐらいしかなくてさあ、恥ずかしかったなあ。」
「なんで石なんか置いてあるの。」
「そりゃあ、トタンが落ちないためさ。そうしなきゃ、風でだって飛ばされちゃうのだぜ。」
「そうだよな。あのころは、台風が来るとなれば、家が壊れないように、すぐ、斜めに材木を打ちつけて・・・、」
「ああ。耐震構造っていうやつだな。ただし、今は、鉄骨だけれどね。」
「でもさあ。みんな、貧しかったのだよ。あのころは。」

 豪華なホテルのたたずまいを見ながらの、こういう話。ほんとうに、むかしと今とが、信じられない思いでした。


 本シリーズは、このあと、『授業のやりくり』『学校運営のやりくり』と続けます。

 それでは、こうしたむかしを思い出す方も、歴史の一断面を知ったという方も、どうぞ、清き、1クリックをよろしくお願いします。

 (2)へ続く。

rve83253 at 08:50│Comments(2)TrackBack(0)むかし | 学校経営

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この記事へのコメント

1. Posted by かしこ   2008年03月19日 12:38
はじめまして。
学力低下をキーワードに検索していたらこちらにたどりつきました。
関心あるタイトルの記事が多数ありましたので、
またゆっくり寄らせていただきたいと思っています。
ひとまずは、ご挨拶がわりにコメントさせていただきました。
当方は、塾経営および講師をやっています。
2. Posted by toshi   2008年03月20日 06:28
かしこ様
 お越しいただき、ありがとうございます。
 関心のある記事が、多数あるとのこと。
 どうぞ、よろしくお願いします。

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