2008年03月29日

PISA調査問題には、問題が・・・?(2)4

8539e2ea.JPG PISA調査が、日本の伝統的な出題の仕方と、かなり趣を異にしているのは、否めないようだ。

〇正答が一つとは限らない。
〇日本的な感覚からすれば、完成度の高い問題ではなく、『よりまし』ということで、正答が成り立つ問題が多い。
〇専門的な知識を必ずしも必要としていない。一般常識で解けてしまう。


 そこで、神原氏は問題提起される。

「PISA型学力は、ほんとうに必要なのでしょうか。」
「PISA調査の問題は、ほんとうに問題がないのでしょうか。」


 そこで、今日は、『科学的リテラシー』なる問題について、考察してみたいと思う。

 まずは、神原氏と一番見解が異なると思われる、温室効果の問題をとり上げる。上のリンク先の一番上に、この問題がある。また、神原氏の論文では、9ページ後半から、この問題についての考察が始まる。


 わたしは、これは、やはり、良問と思う。

 と言うのは、

 まず、課題文を提示し、次に、二酸化炭素排出量と地球の平均気温との2つのグラフを提示。さらに、それをめぐって、相対立する見解を持つ太郎さんと花子さんを登場させる。

 太郎さんは、地球の平均気温の上昇を二酸化炭素の排出量の増加が原因と関係づける。それに対し、花子さんは、両者を因果関係で説明するには無理があると考える。

 そういう状況設定をもって、設問が用意される。


 こういう問題。つまり、同じ資料を見ても異なる二つの見解を示し、それぞれは、どういう資料の読み取りの下に成り立つのかを問うているのである。

 世の中には、こういう事象は多い。たとえ、科学的な態度で問題追求したとしても、みんなが同じ見解を持つとは限らない。まさに将来の実生活において、大いにありうる場面を想定したものと言えよう。


 これは、日ごろ、わたしが拙ブログにおいて主張する、問題解決学習そのものを設問にしたものと言える。

 だから、実は、この問題を見たとき、わたしはうれしくなってしまったのだ。目が開かれた思いがした。


 実際授業のなかで、こうした対立が起きると、その授業は大変盛り上がる。

 太郎さん、花子さん、それぞれへの賛成意見、反対意見が相次ぎ、真理を追究しようとするのである。

 同一の資料を見ても、異なる2つの見解が生まれる。喧々諤々、自説を主張し合う。そのなかで、お互いが相手の論理を理解し、自分の論理の至らないところを補充する。また、自分の説が間違いだと気づけば、修正する。
 そうした経過をたどり、より科学的な態度、生き方を身につけるのである。

 
 この問題を見たとき、そうした授業態度と共通する思考のはたらかせ方をするのではないかと思った。


 太郎さんと、花子さんが、異なる見解をもつに至ったのは、

〇資料の目の付け所が異なったからである。

 太郎さんは、2つのグラフの折れ線の大まかな増加傾向に目をむけた。それに対し、花子さんは、細かなところにも目を向けて、必ずしも双方が同じ増加を示すとは限らないと考えた。

〇もう一つ。因果関係か相関関係かということについても、

 太郎さんは、双方は因果関係があると判断した。それに対し、花子さんは、因果関係でとらえるのは、時期尚早であると考えた。他にも要因があるかもしれないとしている。

 わたしは、どちらも、科学的な追求態度があると考える。だからこそ、良問と思うのだが、


 神原氏は、『この二つのグラフは、相関関係があることを示しているだけで、因果関係でとらえるのは科学的な態度ではない。』とおっしゃっているようなのだが、

課題文では、最後に、
『地球の平均気温は確かに上昇している。新聞や雑誌には、二酸化炭素排出量の増加が20世紀における温暖化の主因であるとする記事がよく載っている。』
という文を示している。

 断定はしていないものの、また、だからこそ、双方の見解が成立すると思うのだが、太郎さんのように考えるのも妥当性はあると判断していいのではないか。


 次に、良問と思うもう一つの理由だが、

 解答する子どもたちは、ある子は、太郎さんに共感しながら、また、別な子は、花子さんに共感しながら、この問題に向かうであろう。しかし、どちらの子も、自分とは異なる見解について、『なぜそう考えるのか。』その根拠づけを求められる。

 これは、自分と異なる立場、思考へのおもんばかりを必要とするし、多面的、多角的な見方を要求するものである。

 ともすれば、自説にこだわり、異なる論調を真っ向否定し、ひどければ、それが人格否定にまでつながりかねない、そんな現代の風潮を憂えるとき、(ブログでも、ときにそうした論調がありますね。)『相手はどうしてそのような考えをもつにいたったか。』という問いかけは、とても意義あるものと考える。


 神原氏は、最後の問い、『温室効果に影響を及ぼす可能性のある他の要因』は、何も考える根拠が示されていないとおっしゃる。

 これが、冒頭に書いた、『完成度が低い』問題とされる理由にもなるのだろうが、わたしは、これは課題文を読むことにより、『太陽との関係』に思いをいたすことは可能と思う。(ごめんなさい。このようなことを言いながら、後述するように、自分は解けなかったのです。)


 また、問2(B)について、

『太郎さんの根拠とする理由が、まだ、分かっていないにもかかわらず、「太郎さんの結論に反する部分がある」というのはいかがでしょうか。出題者は、問1の「正答」を前提として出題しているようですが、太郎さんが、「地球温暖化が認識されるようになった1970年以降急速に両者が増加に転じているから」ということを根拠に挙げたとすれば、この設問は成り立たないことになります。』

と批判されているが、

 花子さんは、太郎さんの、『因果関係がある。』という結論に反対しているのであるから、太郎さんの根拠付けとは関係なく、花子さんは花子さんの思うところで、太郎さんの『結論』に反対意見(?)を述べることは可能と思う。

 この点でも、問題解決学習と似ているなと思う。

 まず結論ありき。そこから、『ええっ。どうしてそうなるの。』喧々諤々議論が始まることによって、お互いに、根拠が明確になっていく。

 そういうことも、大いにありうる。論理の展開として。



 さて、ここからは、全般的な考察に移る。

〇神原氏は、『問題に答えるのに科学の知識は殆ど必要ありません。まして、科学の論理などは影も見えません。15歳としての常識を持ち合わせていれば十分です。』

とおっしゃっているが、そうだろうか。


 わたしは、社会科を専門とし、理科的な面は弱いので、ためしに解いてみた。

 
 温室効果に関する問3、酸性雨に関する問1、同じく問3

 この3問は解けなかった。あと、自信のないものはけっこうあった。もしかしたら間違えているかもしれない。自分の妖しい学力で判断してはいけないだろうが、やはり、科学の知識を必要としている問題が多いというのがわたしの印象だ。


〇ただ、神原氏がおっしゃるように、文章を読むと、そこにヒントがあるので、科学的知識がなくても解ける。そういう問題もかなりある。

 そこで、思ったのだが、
 
 確かに、科学的な内容を扱ってはいるのだが、知識がなくても解けるのなら、『科学的リテラシー』というよりも、『問題解決能力』の問題とした方がいいのかな。
 その方が、多くの方に疑点を抱かせないで済むであろう。
 
 酸性雨にしろ、グランドキャニオンの浸食にしろ、温室効果にしろ、みんな、悩ましい現代の解決しなければならない問題であることは間違いないのだから。


〇以上だったが、

 用語の問題で本記事を終わりにしても仕方がないので、結論を述べさせていただくと、

実生活に役立つ学力を測るとしている以上、

また、亀@渋研Xさんの言葉を借りれば、

『「市民に求められる健全さ」の一部としての「知的態度」や「社会性」「合理的判断力」』などを測ろうとしているのであるから、

それは、文科省の言う『生きる力』に直結するし、

だから、大切な能力だと思うし、

 それさえ共通理解されれば、わたしは、現行どおりの出題傾向で、かまわないのではないかと思う。

 ただ、神原氏がおっしゃるように、問題の質を高める努力、また、出題領域を広げる努力はしていただきたい。


〇そう。そう。ごめんなさい。もう一つ言いたいことがある。

 日本は学ぶ意欲が低下していると言われる。世界最低なのだ。

 それは、子どもが興味・関心をもつような授業の工夫がとぼしいこともあるのではないか。

 PISA調査の問題は、そういう意味で、大いなるヒントを与えてくれているように思う。


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 『数学的リテラシー』の場合は、数学的知識・技能がなくても文章を読めば解けるというようなものではありませんでした。ですから、この用語のままでもよしとしたのですが、どうも、『科学的リテラシー』の場合は、それとは違うようです。

 次回は、『読解力』の問題をみていきましょう。

 それでは、今日も、幅広い見方と、おおらかな気持ちで、1クリックいただければ、幸いです。

 (3)へ続く。

rve83253 at 04:25│Comments(22)TrackBack(0)PISA | 教育観

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この記事へのコメント

1. Posted by 柴田勝征   2008年03月29日 11:03
柴田勝征です。
 今回toshiさんが取り上げた地球温暖
化の問題は、まさに私がN氏とまっこう
から(楽しく)論争した結果、日本人の
メンタリティー・日本語の特殊性の問題
としての本質が明らかになってきました。私は日本語の問題原文通りに理解して、「とんでもなく悪問だ」と考えたの
ですが、N氏は出題者の意図に読み替え
て「太郎さんは2つのグラフを見比べて、地球の温暖化は2酸化炭素の排出量
と関係があるのかもしれない、と考えました。どういうことを根拠にして太郎さんがそのように考えたと思いますか?」
「花子さんは2つのグラフを見比べて、
地球の温暖化と2酸化炭素の排出量は関係ないかもしれないと思いました。どういうことを根拠にして花子さんがそのように考えたと思いますか?」と解釈して、「良問だ」と主張しています。
2. Posted by 柴田勝征   2008年03月29日 11:09
柴田です。上の続きです。
 日本語原文とN氏の読み替えでは、「純粋日本人」の感覚では全然違うと思うので、試しに、先週東京大学で開かれた言語処理学会の折りに、このメンタリティの違いについて、マイクロソフト社のS研究員(アメリカ人)とNTT社のB研究員(オーストラリア人)に確認したところ、「まったくそのとおりで、自分も10数年前に来日した当初は、自国で学習したとおりの正しい日本語で話しているのに、どうも正しいニュアンスが日本人研究員に伝わらなくて苦労した」と言っていました。お二人とも日本語がぺらぺらの方です。
3. Posted by toshi   2008年03月29日 15:20
柴田勝征さん
 そうなると、和訳の問題があるということですね。たしか、神原氏も訳語の問題ありというご指摘をされていたと思います。そのことは次回にふれるつもりでした。
 ただ、柴田さんご指摘の通りの原文だとすると、太郎さんと花子さんは、別個に違う判断を下したに過ぎないことになりそうですね。そうなると、問題解決学習という、一つの授業を想定することは困難になりますね。
 ちょっとこまったことになりそうというのが、率直なところです。
 でも、日本の子どもは、この問題を相互にからむかたちで、自分の考えを主張し合ったように読み取っているはずですから、
 すみません。柴田さんの見解とは違って、わたしは、日本語の問題の方がすんなり読み取れるのです。
4. Posted by 大山虎竜   2008年03月29日 16:06
toshi校長先生は、大山虎竜の師匠だとかってに思っています。カテゴリー学校管理職を印刷して何回も何回も読んでいます。
何度読んでも、感動して涙がこみ上げきます。
toshi校長先生に1ミリでも近づきたいと強く思っています。

閑話休題、評価内容や方法を検証することはとても大切ですね。
5. Posted by ドラゴン   2008年03月29日 16:24
toshi先生には、釈迦に説法だと思いますが、学力調査・テストは、子どもや国の順位付けをするためのものではありません。調査された結果を、これからの教育の改善にどう生かすかが重要だと思います。
たとえ悪問があっても、その結果がどうだったのか分析して、教育内容の改善に役立てば、それは意味のあることではないでしょうか。
私は、PISAの調査も文部科学省の学力テストも非常に評価はしております。ただ、マスコミもふくめて社会全体が振り回されているように思えてならないのです。

6. Posted by ドラゴン   2008年03月29日 16:29
連投すみません。
昨日告示された新学習指導要領でも、小学校国語の5・6年生の「書くこと」の内容に「引用したり、図表やグラフなどを用いたりして、自分の考えが伝わるように書くこと」が新しく示されました。新学習指導要領全体の印象として、かなりPISA型の学力を意識したように思います。
その点はある程度は評価しておりますが、学校現場がこういう転換についていけるかが少々心配です。
7. Posted by 柴田勝征   2008年03月29日 20:51
柴田です。連投ですみません。
私の舌足らずの説明で誤解を与えてしまいました。私が「読み替え」
と書いたのは原文(英文)の「正しい和訳」という意味ではなく、
N氏が私との論争の中で、PISAの出題者の意図は、「太郎さんが...
という結論を下した」という日本語から感じられる断定的なものではなく、「太郎さんが...とグラフから思う、あるいは仮説を立てるということは第1ステップとしてむしろ当然のこと」と指摘したことを私なりの理解で問題文に書き直したものです。むしろ、日本語の問題文は英文原文を「学校英文法」的観点からは「正確に」(極端に言えば直訳的に)訳してあると思います。「仮説を立てる」とは、それをスタート地点として検証を開始することを表し、「結論を下す」とは検証を終了してゴールしてしまうことですから、意味はまるで正反対になります。
8. Posted by 柴田勝征   2008年03月29日 21:15
柴田です。またまたの連投で申し訳ありません。
toshiさんの議論でひとつ非常に気になる点があるので質問します。「良問」か「悪問」かを判断する基準として以下の2つの異なる基準があると思います。(A)授業用教材の例題として使用するのに適切か。(B)入試用の問題として適切か。   (A)の場合には、問題に多少不備な点があっても良く、場合によっては問題にわざと不備な箇所を入れておいて、授業中に生徒たちに例題をやらせた後、十分な時間をとって数名の生徒に解答を発表をさせ、生徒同士や教師も交えてそれらの解答を元に討論して、問題や生徒の解答についての考察を深める。そのための題材として「良問」か否か。(B)の場合、問題に不備や曖昧さはいっさい許されず、解答についても出題者が受験生に個別的に解説をすることはない。  PISAの問題を私は(B)の基準で判定していますが、toshiさんは(A)の基準ではないでしょうか。
9. Posted by YK   2008年03月30日 01:15
「問題発見・解決」の思考法と「仮説検証」の思考法は、それほど相性が良くないのでしょうね。仮説検証は、論証の過程で不確定要素を極力排除している。一方、問題解決型というのは、不確定要素をむしろ歓迎しているわけだから。結論を下すと言っても新たな仮説を作っただけで、その仮説も検討しなければならない。そこには議論の余地があるはずである。そのように見れば、この問題に2人を配置したことにもそれなりの必然性を見出すことができます。要するに、仮説検証の思考法では、議論があっちに行ったりこっちに行ったりしないほうがいいのであり、問題もデータを列挙しただけのほうが混乱を生まない。一方、問題解決型では、検証しようとした仮説すら変化しうる。「このような発想は科学ではない」という意見があっても当然といえば当然かと思いますね。
10. Posted by toshi   2008年03月30日 11:53
大山虎竜さん
 師匠だなんて、恥ずかしいです。
 でも、拙ブログ記事を心のどこかにとめてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。
 わたしの大先輩の言葉に、
「校長になることがすばらしいのではない。子どもたち、保護者、教職員、地域などと信頼関係で結ばれる校長がすばらしいのだ。」
というのがありました。
 大山さんがそういう校長になられますよう、祈念しています。
 今後とも、どうぞ、よろしくお願いします。
11. Posted by toshi   2008年03月30日 12:09
ドラゴンさん
 悪問が少し紛れ込んでいるくらいなら、おっしゃるように、『結果がどうだったのか分析して、教育内容の改善に役立て』ることは可能でしょうね。
 でも、良問がまったくない場合は、役立てようがなくなるでしょう。
 でも、人それぞれ、何を良問とし、悪問とするか、その判断が異なりますから、そこはやはり、学力観、評価観が問われることになります。
 次回書かせていただこうと思っていますが、知識量を測るのか、活用力を測るのか、その折衷でいくのか。日本は折衷が好きだと思いますが、PISAは、どうもそのようにできていないことは確かなようです。
『学校現場がこういう転換についていけるかが少々心配です。』
 この点、わたしも同感です。何でも、テストの点を上げるために訓練的にやったのでは、生きる力は養えないと思うのです。

12. Posted by toshi   2008年03月30日 14:44
柴田勝征さん
 訳の問題はよく分かりました。わたしの誤解だったのですね。すみませんでした。
 柴田さんの授業用教材か、入試用の問題かというお尋ねですが、そういう分類であれば、わたしは、前者になります。
 ただ、授業用教材とはちょっとニュアンスが異なります。
 『想定した授業の流れ・価値の追求過程』と言ったらいいでしょうか。『それがそのままPISA調査の問題になっていると言っても過言ではない。』ということです。
 わたしが実践してきた、また、これからの学校教育に大切と思う問題解決学習とつながるものだということです。
 この辺はすでに記事にしたことがあります。本コメントのわたしのHNをクリックいただければ出るようにしましたので、よろしければご覧ください。
13. Posted by toshi   2008年03月30日 15:07
YKさん
 なるほど。おっしゃるとおりです。勉強させていただきました。ありがとうございます。
 わたしのように、問題解決学習を志向している立場からすれば、不確定要因はほんとうに大歓迎です。それが子どもたちの解決への意欲を培うことになる。そういうとらえです。

《「このような発想は科学ではない」という意見があっても当然といえば当然かと思いますね。》

 そう言えば、むかし、ある学校にいたとき、『実感的な分かり方を目指す』というテーマで社会科の研究に取り組んだことがありました。
 「そのような情緒的なとらえでいいのか。」
そう批判されたことがあるのを思い出しました。でも、小学校は、社会科学のミニ版を学ぶのではない。子どもの生活に根ざした学習をするのだから、これでいいのだと反論したことがありました。

 あれっ。PISA調査は、中学生、高校生の世代が対象なのでしたね。
14. Posted by toshi   2008年03月30日 15:10
補足させてください。
 わたしは、「問題発見・解決」の思考の大切さを書きましたが、だからと言って、「仮説検証」の思考法を否定するわけではありませんから、念のため。
 このあたりは少し考えさせてください。
15. Posted by YK   2008年03月30日 22:55
個人的な意見になりますが、「仮説検証」と「問題発見・解決」の是非も含めて、私はPISA調査が万能だとは思っていません。そもそも、日本の教育がPISAに傾斜したところで、或いはフィンランドを真似たところで、もしも1位になればマスコミは一時的に満足し、すぐに新しいアラ探しを始めるのは目に見えています。正直に言って、そんな表層的なことよりも、親なり教師なりに考えて欲しいのは、子どもという存在を数で説明できるのかどうか、計量によって子どもを説明できるかどうか、という根本的な点です。できると考えるのであれば、現状で全く問題ないでしょうし、合理的に説明しきれないと考えるのであれば、別の観点が必要でしょう。
16. Posted by YK   2008年03月30日 23:09
なぜ私も先生と同様「問題発見・解決」の方法を好むかというと、話が盛り上がるからというのもありますが、更に言えば、子どもという存在を不確定な要素に満ちていると考えるからであり、それを合理的に説明することに限界を感じるからなのでしょう。そして、合理的に説明できないのは、精神の問題だからに他なりません。感受性(あるいは情緒)と理性は、計量不可能というのが私の意見であり、こういう態度のほうが、子どもに対して新たな発見ができるような気がしています。
17. Posted by YK   2008年03月30日 23:24
ですから、初等教育でも中等教育でも構いませんが、科学に対する関心が低下しているという現状において、素直に科学(あるいは数的現象)に対して子どもに驚かせる教育ができているか。あるいは子どもの好奇心を駆り立てる教育ができているか。PISAが素晴らしいかどうかはともかくとして、その点は大変に重要な問題であると思うのです。20世紀における科学技術の発展=幸福という構図を支えてきたのは仮説検証の繰り返しによる絶えざる進歩ではないですかね。それを一概に否定できるはずはないですが、新しい視点も必要ではないかと思っています。
18. Posted by toshi   2008年03月31日 15:16
YKさん
 わたしもPISAについて調べ、現段階で言えることは、同調査は、まだ始めて10年程度しかたっていなくて、3回やっただけですね。ですから、まだまだ発展途上にあるということです。いい問題にするための努力は必要でしょう。
 ただ、世界中見渡しても、これを真っ向批判してやめるべきという声はまったくないですね。これは、神原氏にしても柴田氏にしても、同意していただけるものと思います。
 また、PISAは、対人関係調整力というような測定不能といわれる分野にまで、踏み込んでいこうとしています。そういうものまで数値で測ろうとしています。ただ現段階では、将来目指すとしているものの、やはりむずかしく、頓挫していると思います。YKさんがおっしゃるように、やはり、測定不可能なのかもしれません。わたしもそう思う面もあります。でも、そういう意欲はいいなと思います。
 
19. Posted by toshi   2008年03月31日 15:22
PISA調査を通し、世界が、『知識よりは思考力』という価値観、教育観、目指すべき人間像を共有化できるようになったら、PISAは今のところ、そこまでは言っていませんが、これは世界平和にも貢献するものだと思います。
 もちろん大変です。夢のようかもしれません。現段階では、これに参加していない大国もありますしね。
 しかし、そういう方向性を持っていることは確かなようです。

《科学に対する関心が低下しているという現状において、素直に科学(あるいは数的現象)に対して子どもに驚かせる教育ができているか。あるいは子どもの好奇心を駆り立てる教育ができているか。》
 YKさんがおっしゃるように、これは科学に限らず、これからの教育において特に大切な観点ではないでしょうか。PISAは、世界中の国々が、そういう教育を大切にしていってほしいという、一つのメッセージ性をもっていると思います。
20. Posted by 柴田勝征   2008年04月03日 14:51
柴田です。
> 『想定した授業の流れ・価値の追求過程』と言ったらいいでしょうか。『それがそのままPISA調査の問題になっていると言っても過言ではない。』ということです。
> わたしが実践してきた、また、これからの学校教育に大切と思う問題解決学習とつながるものだということです。
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 やはり、そうでしたか。どうも話がかみ合わないのでおかしいと思い始めて、そちらのサイトの記事をいろいろ読んでいる内に何となく気づきました。toshiさんは「PISAの問題は1.8メートルだ」と言っているのに、私の方は、「いや、PISAの問題は6尺です」と言っているようなものです。物差しが違うのです。
toshiさんはPISAの問題を、ご自分の「問題発見学習の授業の流れに沿って」、教師の立場から評価しておられる。私は、PISAのテストを受けさせられている生徒の立場から評価(判定)しています。
21. Posted by 柴田勝征   2008年04月03日 14:57
柴田です。連投、すみません。
 ちなみに、私も教師としての立場から見れば、自分の授業に活用したくなるような面白い発想の問題がかなりたくさんあります。その点ではtoshiさんの感覚と近い気がします。ただし、私の数学的・科学的センスからすると、多くの問題が画竜点睛、せっかくのアイディアを生かせずに、つまずいて「悪問・愚問」になってしまっています。
 PISAの問題を解かされている世界中の何万人だか何十万人だかの子供たちは、テストの途中で分からないことがあっても互いに教え合ったり、討論したりすることは許されていません。また、テストの教室を一時的に抜け出して、図書室へ行って資料を調べて戻ってくることもできません。toshiさんが指摘してくださったように、私はPISAのような国際評価テストが必要だし重要だと思っているからこそ、
繰り返し、こうやって皆さんに訴えているのです。
22. Posted by toshi   2008年04月04日 10:30
柴田勝征さん
 突き詰めれば、思考・判断力を大事にしていくのか、知識・技能を大切にしていくのかの違いなのではないでしょうか。
《PISAの問題を解かされている世界中の何万人だか何十万人だかの子供たちは、テストの途中で分からないことがあっても互いに教え合ったり、討論したりすることは許されていません。また、テストの教室を一時的に抜け出して、図書室へ行って資料を調べて戻ってくることもできません。》
 これはテストなのですから、当然でしょう。わたしが言いたいのは、
『このテストは、思考の流れ、問題追求への意欲、異なる見解に対する寛容な態度の育成など、あたかも問題解決学習に臨む子どもと同じ頭脳の働きで問題を解くことができるようになっている。単なる知識・技能の再生ではない。』
そういう意味です。
 あとは、本シリーズ(3)に譲りましたので、ご覧いただければ幸いです。

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